0話 プロローグ
「あと10分ほどってところですかね」
執事のリゲルがそう告げたのは、屋敷から4時間ほど経過したころだった。
馬車に乗りながらずいぶんと長い時間が経過した。休憩をほとんど挟まず同じ体勢でいたため、さすがに疲労の色が隠せない。だが、どうやら目的地までもうすぐらしい。
「レインざま、グスッ、ホントに行かれるのですか?」
メイドのマリンが、涙をポロポロとこぼしながらその主、レイン・クレストへと訴えかける。屋敷を出発してすぐは我慢してくれていたようだが、時間が経つにつれて本音を隠せなくなったようだ。
「こらマリン、レインさまを困らせるな。せっかくの門出を邪魔する使用人などあっていいわけないだろう」
「だってですよ! 学院に入られたら、レインさまは学生寮に入られるのですよ!? つまりは我が屋敷から3年間、レインさまが……うわああああん!」
「分かっていたことだろうが。それともレインさまに毎日往復8時間の移動をさせる気か? 移動の心労で学院生活に支障が出たら責任取れるのか?」
「そしたら私が癒やしてあげるのです! メイドとして、レインさまの頭の先からつま先まで完璧に! これで文句ないですよね!?」
「おまえなぁ」
マリンをたしなめようと丁寧に接していたリゲルだったが、本人の必死の勢いに押され、言葉を詰まらせてしまった。しかし残り数分で目的地には着くわけだし、のらりくらりマリンを躱していれば何も問題はない。だが、このまま強引に話を終わらせても後味が悪くなるだけ。
リゲルは一度ため息をつくと、申し訳なさげに自身の主へと目を向けた。自分の不始末を主へ投げるなど本来あってはならないことだが、レインにそういった固定観念は存在しない。適材適所こそが最も重要であり、今マリンに声をかけるのは自分であるべきだとレインも分かっていた。
「ありがとうマリン、いつもマリンやリゲルが支えてくれたから今の俺があるんだ。だから、学院では一人で頑張りたい。この3年間だけはどうしても外すことはできないんだ」
マリンの頭を撫でながら諭すように優しく語りかけるレイン。自分より年上のマリンにすることではないが、拗ねたように目線を逸らすマリンの姿は、どこにでもいる子どものようだ。
「前だって3年ほどレインさまいなくて、やっとお世話できると思ったら1年ほどで学院で、その上また3年ご不在になられて……私、全然レインさまのお役に立っておりません」
「それは違うよマリン。さっきも言ったけど二人には感謝しかない。俺と一緒にいてくれただけで、それだけで本当に嬉しかったんだ」
「レインさま……」
レインの言葉の真意を知る二人にとって、非常に重たい言葉だった。優しい瞳の奥に潜む闇を知っているからこそ、マリンも涙を止めざるを得なかった。
「大丈夫、3年後はまた一緒だよ。今度は遠くへ行くことになっても前みたいに一緒に動けばいいんだし」
「……はい、かしこまりました。レインさまの3年後の成長も見計らって衣服などすべて完璧にご用意してお待ちしております」
「あはは、とはいえ長期休みがあれば一回くらいは屋敷に戻ろうとは思って――」
「はいいい!? どうしてそれを先におっしゃっていただけないのですか!?」
なんとか学院生活に関する件は無事収束したかと思いきや、レインから漏れた朗報にマリンが瞬時に食いついた。目が血走っており、とても主に向ける視線とは思えないが。
「ご、ごめん。確定的な話でもないし、期待させて帰れなかったらマリンまた悲しむと思って。あれ、でもリゲルにはちゃんと伝えていた気がするけど」
「リゲルさま?」
マリンから鋭い流し目を受けるが、リゲルはまったく動じず腕を組むだけ。
「レインさまも仰ってただろ、おまえに伝えてもしレインさまが来ないなんてことになったら、おまえ絶対レインさまの部屋で一日中サボるだろ」
「え? 俺の部屋?」
「わああああああ!! 何を言い出すんですかねこのホラ吹き執事は!?」
何やら聞き流してはいけない言葉があったような気がしたレインだったが、マリンが顔を真っ赤にして声を上げるため、聞いてはいけないことなのだと自分を納得させることにした。
「もうこの話は終わりです! レインさまがどこかのタイミングで帰ってくるって分かっただけで私は充分満足です!」
「おまえから始めた話だろうに、まあいいか」
完全に納得したわけではないものの、マリンが受け入れたことで、レインの学院行きの件は一旦決着がついた。マリンが我が儘を言うのはわかりきっていたので、話が終着したのはレインにとっても安堵するところだった。
そうなれば最後、レインにはやらなければならないことがある。自分が学院に行っている間、帰る機会があるとはいえ、3年間屋敷を空けることになる。主のいない屋敷で3年間、リゲルとマリンを待たせることにレインは抵抗があった。自分の屋敷で待っているより、もっと有意義な仕事があるのではと、思えてならないのだ。そのための布石も既に打ってある。
「あのさ、二人に話があるんだけど」
「あっ、その前に一ついいですか?」
レインが心を決めて話そうとした瞬間、リゲルがその場で手を挙げてレインの言葉を遮った。マリンとは違い、リゲルは主の行動を制止するようなことはしないため、レインは思わず固まってしまう。自分が話す前に話さなければいけない内容なのだろうか。
「うん、どうぞ」
そうレインが促すと、ニコニコ微笑んでいたリゲルの表情が、崖から落ちたように暗くなった。
「レインさま、本家から聞きましたよ。レインさまが学院に通われている間、私たちを本家で働けないか打診されていたみたいですね」
「えええ!? どうしてですか!?」
まさかのまさか。レインが先に話そうと思っていた内容だが、リゲルから思わぬ形で公表されてしまった。マリンは初耳だったのか、その瞳を潤ませてレインに接近する。
「やはり本音では至らない点ばかりだったということでしょうか!? 本家から新しいメイドを雇って私のような不良品をバイバイするというお考えですか!?」
「いや、そうじゃ」
「それともお洗濯の前に毎回レインさまの衣服の匂いを記憶していたのがよくなかったのでしょうか!? それともレインさまの起床前にお部屋に侵入して、小一時間ほど寝顔を堪能していたのが気に障ったのでしょうか!?」
「……そんなことしてたんだ」
衝撃のカミングアウトにレインは言葉を失っていたが、レインのメイドを辞めさせられると認識しているマリンの暴走は止まらない。自身の発言の危険性すら考慮に入れられないほど混乱しているようだ。
「レインざまぁ! 私何でもやりますので! どうか、どうか! 今一度お側に置いていただくチャンスを――」
「馬鹿、少し冷静になれ」
「いだぁ!」
リゲルから強めの拳骨が入り、マリンは頭を押さえたままその場に沈没した。顔が涙と鼻水で汚れているマリンにハンカチを渡すと、リゲルは座り直してレインの方へ視線を向ける。
「レインさまの気持ちは非常にありがたく思います。確かにレインさまの仰るように、3年間レインさまがいらっしゃらなければ、私どもも手持ち無沙汰になり得るかもしれません」
「なら」
「ですがレインさま、私たちはお家に仕えているわけではございません。レインさまにお仕えしているのです。一時的に本家にお仕えしても身は入りませんし、仕事ははかどらないと思います」
「リゲル……」
「後は単純に我が儘ですね、私もマリンも今更本家に戻っても居場所なんてないですし、やりづらさしかないですからね」
場を暗くさせないための配慮であろう、最後リゲルはおちゃらけたように笑って話を締めた。自身の誇りに反してまで働きたくないという言葉を、レインは間違いなくその耳に入れた。
レインとしても、自分の信頼する使用人ここまで言われて無理を通すほど、二人と短い時間を過ごしていたわけではない。自分の配慮の浅はかさに気付くのは、一瞬である。
「高い賃金なんていらないんです。3年間の密な仕事ではなく、主が長期休みで帰ってくるのを期待しながら、のんびり働かせてください」
「うん、ありがとう二人とも」
レインの言葉を受けて、リゲルがホッとしたように胸に手を当てて深く腰を落とした。主を信頼しているといえど、内心不安な部分はあったようだ。
「えっ、あれ、私、お屋敷にいていいのですか?」
ハンカチで顔を拭きながら復活したマリンが、惚けたようにレインへと目を向ける。リゲルとの会話は聞いていたはずだが、それでも訊かずにはいられないのだろう。
「うん。これからもよろしく」
「れ、レインさまあああ!」
「おわっ!」
「こらマリン! レインさまにはしたない真似するな!」
感極まったマリンは、笑顔を向けるレインに堪えきれず、思い切り抱きついてしまっていた。女性として理想的な身体的特徴を持つマリンに抱きつかれ、一瞬窒息しかけるレインだったが、リゲルに引きはがされ一命を取り留めた。
「あはは、なんかもう我慢できなくなっちゃいました」
「あははじゃないぞ馬鹿、どちらにせよお前じゃ本家には戻れそうもないな」
「本家に戻るつもりなんてないですし、そもそもレインさまの前じゃなきゃ取り乱すことなんてないので問題ありません!」
「そうかいそうかい」
リゲルの苦労が全身からにじみ出ており、思わず苦笑してしまうレイン。二人の仲の良い兄妹のようなやり取りに、何度レインが救われたかもはや数え切れない。レインからすれば、主従というより、家族という方が幾分もしっくりくる。それほどまでにかけがえのない存在だ。
「あっ、そういえば」
突然手のひらの上に拳を下ろしたかと思うと、マリンはレインに向けてニコニコと笑顔を向けた。
「昨日、シーさまからご連絡がありました。『ご入学おめでとうございます。この日を迎えられることを自分のことのように嬉しく思います』とのことです」
「……なんで直接言ってこないんだ?」
「レインさまにあれこれ言われるのが嫌だからではないですか? 私にも寂しそうに話していましたし」
「そりゃ釘は刺しちゃうだろうけど、仕方ないことだしな」
「なので私宛ってことですね! レインさまも我慢してください!」
「俺はまったく問題ないんだけど」
「レインさま」
入学記念の言葉を受けながらマリンと会話を弾ませるレインだったが、リゲルの制止で中断させる。何事、と思う前に、馬車が脚を止めていることにレインは気付いた。
「着いたか」
「はい、セカンドスクエアを扱う学院の中で最も研鑽者が集まると言われる、アークストレア学院です」
馬車から降りて、レインは大きな金属製の門と広大な敷地に目を向ける。一度入学試験のために足を運んでいるものの、その広さと建物の大きさには圧倒されてしまう。
ここが、レインが3年間過ごす学院。他の学生とともに励む学院。少し周りに目を向ければ、レインと同じ格好をした生徒がちらほら見られた。
「そういえばレインさま、同じ年代の方と接する機会なんてほとんどありませんでしたね」
「ああ、さすがに緊張してきた」
そう答えながらも口角が上がってしまうレイン。緊張よりも何よりも、同年代というものへの好奇心が勝ってしまっている。
その様子を見て、マリンは穏やかな笑みを浮かべながらレインの背中に寄りかかった。
そして――
「レインさま、第二の人生、めいっぱい楽しんでくださいね」
「――うん。ありがとう、マリン」
背中に残る温かさを名残惜しみながら、レインはゆっくり歩みを進める。一度振り返り二人に手を振ってから、もう一度前へ。
「第二の人生か、そんなつもりじゃなかったけど、マリンに言われたらな」
先ほどのマリンの言葉を反芻して、レインは誓いを立てる。この学院生活、余裕がないなりに楽しむこと。そしてその生活を、自信をもってリゲルとマリンに話せるようにすること。
それが、レインにできる二人への恩返しになるのだから。
「それじゃ、いくか」
そしてレインは、アークストレア学院の校舎へと足を進めるのであった。