8 朱夏帰宅、東風は彼女との出会いを回想する
ただいま、と言って朱夏が部屋に戻ったのは、もう昼近くになっていた。
「お帰り。結構時間かかったな。復旧が手間取ったのかい?」
東風はパソコンのキーボードを叩く手を止めて訊ねた。
「いやそんなことはない。私が『S-K』駅に着いたのが遅かったんだ。一度六時台に起きたのだが、もう一度寝て起きたらもう十時だった」
「十時」
「そんな時間まで寝ていたのは初めてだ。そうだろう?」
「そうだね」
東風は苦笑する。そもそもレプリカントなのだから、睡眠が不必要なようにプログラムすることもできる。それをしなかったのは彼だった。
仕事用の場所を立ち、彼は朱夏が既に座っていた食事用のテーブルにつく。そして湯沸かしポットのスイッチを入れる。
「ということは、ずいぶん君の中で整理をつけなくてはならない情報があったってことなんだ」
「ということになるのかな」
彼女は首を傾げる。
「俺は朱夏をそうチューニングしたからね。ややこしかったり、それまでにない情報が一度に飛び込んだ時、君のHLMが沸騰しないように『眠り』を取るように」
「うん」
「何かあったのかい?」
「…音が」
音、と東風は繰り返した。彼も前から彼女の中で延々鳴り響いている音のことは聞いていた。
「音が、どうしたんだい?」
「何か、変なんだ。クリアになった」
「クリアに?」
「何って言うんだろう? 前にも私は東風に言った。耳に聞こえる訳ではないけど音があるって」
「ああ。聞こえの悪いラジオみたいだ、って言ったな」
朱夏はうなづく。
「まえに東風が、昔AMのラジオを録音したテープを聞かせてくれた。ああいう感じに、ざわざわした、直接関係ない音が聞こえていたんだ」
「それが何か変わった?」
「変わった」
「どんなふうに?」
東風は彼女にものごとを訊ねる時は、重ねては聞かない。一つのことだけを問う。
「AMじゃなくて、FMで聞いている時のような感じになった」
「クリアに… ああそういうことか。それは何をしている時?」
朱夏は少し考える。時々ゆらゆらと頭を揺らせ、何処から話していいものか、迷っているように東風には見えた。
「この間、私を綺麗だと言った奴のことを覚えているか? 東風」
「ああ。俺がさんざん笑ったんで君がずいぶん奇妙な顔していた時だな」
「そうだ。その時の奴に昨夜、会ったんだ」
「会った?」
「ライヴハウスB・Bで。何か、友達が来れなくなったから代わりに来たと言っていた」
「ずいぶんと変わった趣味の友達だな…」
無論東風は、その時のライヴがどんなものかは知っていた。彼も昔から音楽は好きなのだ。その音楽好きが、今の状況を作ってしまったのだが、それでも彼は音楽は好きだった。
「むげに追い払うという訳にもいかないし、別に追い払うほど心地よくない訳でもないから、それからずっと彼は私の近くについていて、私を送ろうとした」
「ほほう」
湯沸かしポットが、中の湯が沸騰したことを告げた。彼はティーポットの葉を入れ替えると、キッチンからマグカップを二つ持ってくる。
「男は女を送りたいものなのか?」
「どうかな?」
「東風がその時の彼の立場で、夏南子が私の立場だったらどうだ?」
「朱夏、それは例えが悪い」
彼は露骨に顔をゆがめる。
「夏南子だったら別に俺がどうしようと何しようと、勝手に帰るさ。でもたいていの男は、好きな女の子は送っていきたいと思うんじゃないかな」
「そうなのか」
「そういうことを言われたんだ?」
「言われた。だから別に構わない、という意味のことを言って、B・Bのある『I-2』からH線に乗ったんだ。ところが『S-K』でM線に乗り換えようとしたら」
「停電だった、と」
「そうだ。こっちはどうだったんだ? 東風。『K-M』は」
「こっちは何とも。何やらSKだけのことだったらしいよ。公報でそう言っていた」
彼は部屋の隅に置いてあるミニコンポを指す。FM放送がこの都市では中心なのだ。都市管理に関する情報は、「公報」と呼ばれ、公安局が直接市民に語りかける。昨夜の「公報」は高い声の長官だったな、と彼は思う。黄色の公安長官だ。
「そうか…」
「はいお茶」
「ありがとう。ああそういえば、彼は緑茶を出した」
「緑茶を」
「東風は紅茶しか出さないが、何か理由があるのか?私は緑茶も悪くないと思ったが」
「ああ、そうだね、俺の好みだけに偏ってしまっては良くないね。今度買ってくるといいよ」
「東風、質問に答えてない」
朱夏は重ねて訊ねた。彼は苦笑すると、彼女の髪をかき混ぜた。
「ねえ朱夏、人間は、答えたくない質問には答えなくていい権利があるんだよ」
「答えたくない質問」
「俺は、ちょっとその質問には答えたくない。だから、朱夏も、もしそういう質問が出たら、答えないでいることもできるよ」
「判った。そういう時があったらそうする。でも今は答える。別に問われて答えたくないと私は思っていないようだから」
そうだね、と彼はうなづいた。
「それで君はそこから電話してきたんだ」
「彼の部屋に電話があると言ったから。そうしたら停電がきた」
「その時までは、彼の部屋は停電してなかったのかい?」
「ああ。何か知らないが、いきなり」
おかしいな、と東風は思った。そういう停電の仕方は。
「その彼の部屋は駅から近い? 遠い?」
「近い。近いから彼は誘ったと言っている」
まあそれは半分方便だろう、と彼は思う。
だが朱夏の主観でもそう感じるのだから、実際近かったのだろう。…だとすれば、やはりおかしい。
「S-K」地区は中心地だが、そう大きな地域ではない。駅が停電したのなら、一気にそのあたり全体が停電しなくてはおかしいのだ。
「話していたらいきなり消えたんだ」
「周りはどうだった? 「S-K」だろう?通りのすずらん灯とかはどうだった?」
「私達が歩いている時点ではまだ点いていた。だからその時、一気にに消えた気がしたんだ」
「なるほど。じゃ君結構心地悪かっただろうね」
ああ、とうなづきながら、それまで無表情に話していた彼女が、軽く眉をひそめた。
「照明が一気に消えると、目が慣れないから、その時音がひどくうるさくなる。まえに東風は認識対象が一気に減少するから、と言った筈だ」
「そう、確かに」
「見えないから、とりあえずそれまで話していた奴が何処にいるのか、確かめようと手を伸ばしたんだ。それで、探り当てて、触れて、触れられて…私は驚いたんだ」
「それで、音がクリアになった?」
「なったんだ」
彼女は力いっぱいうなづく。
「おかしいと思って、確かめたんだ。抱きしめた。だけどやっぱりそうだった。彼に触れるか、触れられてると、音がクリアになった」
「それで?」
「そういう意味のことを、彼に言って」
「それで?」
「それから意識が無くなるまで彼と寝ていた」
「…なるほど」
はあ、と彼はため息をつく。それなら確かによく眠らなくてはならないはずだ、と東風は思った。一度に受けとめるには大きすぎる情報だ。
「…で、今は、どう? 音は不快?」
「今は、そうでもない。昼だし、受けとめなくてはならない情報がいろいろある。だが何故、あの音は、私の中にあるんだ?」
「前にも話したよね、朱夏」
ああ、と彼女はうなづく。
「それが何故あるか、は俺にも判らないんだ。目的にはね。君は何か奇妙なレプリカだ。それにその音は、君の第一回路の中に組み込まれている。あれには俺は手を付けられない。君の第二回路は一度消去することができたが、HLMに直接つながっている第一回路は、君を作った奴にしか修正することができないんだ。下手すると、製作者でも手を出せない」
「…判ってはいる」
朱夏はマグカップを両手で持つと、紅茶をすすった。東風はその仕草を眺めながら、当時のことを思い出す。
*
三年前のことである。
雨が降っていた。
「タカトウ君、傘持ってきなさいよ!」
「『K-M』駅すぐ近くだから、いいよ!」
紺色の制服にストライプのプラウスの、同僚の女の子が彼に呼びかける。彼は、表の仕事の家電屋から部屋へ帰ろうとしていた所だった。
その日は、満月のはずの夜だった。満月の晩だけ、「橋」はつながる。取引の要の日である。彼が居る家電屋も例外ではない。
だが彼は表向き、実に無能な店員だったので、その日も店のほうで待機する番だった。
店は『O-S』の電化街の中でもなかなか大きなものであったが、残されていたのは数名の女の子と、何やら以前に脱出を試みて失敗し、左腕が利かない主任と、彼だけだった。
いつものように、大騒ぎして帰ってくるのを待つと、帰るのは終電ぎりぎりになるはずだった。
ところが、雨が降ってきた。
電話で同僚が、中止をを怒っていた。主任はそれを聞くと、彼と女の子達に、今日は待っていなくてもいいよ、と告げた。無能な社員の彼はあっさりと、じゃあ失礼します、と言って出てきた。
女の子にああ言ったはいいが、雨はひどくなってきていた。アーケードのうちはいいが、それを抜けると大変である。彼は軒先を渡り走った。
と。
軒先に、何かがあった。
電化街も、一歩裏へ入ると薄暗い所が多い。なのでそれが何なのか、彼は一瞬迷った。
…子供?
―――にしては大きかった。そして衣服がぼろぼろになっていた。横座りのそれは、ぐったりと身体を戸口にもたれさせていた。長い、ウェーヴのかかった髪が雨に濡れて身体中に絡み付いていた。
「…君…」
それは声に反応して、吊り上げられるように顔を上げる。この反応には彼は見覚えがあった。
レプリカントだ。
東風はそのレプリカントと同じくらいの目線になるようにしゃがみ込むと、こっちを向いて、と優しく命じた。
そして簡単な検査の時にする指示の言葉を二つ三つ、投げかける。どうやら壊れてはいないらしい、と彼は判断した。
それにしてもその姿はひどかった。
ひどく綺麗な顔なのに、所々が傷つけられている。傷をつけられれば、疑似血液が流れるのだが、それももう止まっている。雨に流されている。ただ何かで切りつけられたらしい跡が、つるんとした卵型の顔にすっぱりと大きく付けられている。
夜目にも出来のいい顔だった。
傷を付けたのは、よっぽど目が悪いか、綺麗なものが嫌いな者だろう、と彼は思った。
濡れたウェーヴの髪をかき上げると、ぼんやりとした視線が彼を捕らえた。そしてそれは彼に問いかけた。
「…あなたも私を傷つけるのですか?」
彼はその言葉に顔を歪めた。そんなことはしない、と答えた。
「だったら私を拾って下さい。私は壊れそうなのです」
「壊れそう?」
「私の中で音が鳴り響いて止まらないのです。このままでは私は何をするか判らない。だけど壊されたくない。あなたはチューナーでしょう?」
質問のパターンで気付いたのだろう。そうだ、と彼は答えた。
「私を助けて下さい」
結局地下鉄には乗らずに部屋に戻った。
そのレプリカントが動けない訳ではないが、ぼろぼろになった衣服――― 明らかに複数の人間に乱暴をされたということが判るその格好では、地下鉄には乗せたくなかったのだ。
無能な社員は、それから一週間、雨に濡れて風邪を引いたと嘘をついて店を休んだ。
乾かした猫は、ふわふわの髪の毛を持った極上品だった。大きな目が際だつ整った顔、華奢な体つき、そしてやや低めの声。
しかも珍しいセクスレス。どちらかというとやや少年的なものだったが。
レプリカントの用途はそれぞれだが、基本的に金持ちの持ち物であることが多い彼らは、持ち主の要望に応じて性別をつけられる。手軽で人気があるのはやはり、性別がくっきりしたタイプだった。量産されるのはそういうタイプだ。
セクスレスとなるとそうもいかない。注文品ということになる。しかも注文品なら、東風は何かと見知っている筈なのだ。「外」のものならともかく、都市内のものなら数は知れている。
彼は、その顔に何処かで見覚えがあるような気がした。だがそれが何だったか、全く思い出せなかった。
確かに昔、見たことがあるのに、その部分だけに薄く紗がかかっているような気がする。
とはいえ、そんなことを考えている余裕はなかった。その拾った猫は、何処かのねじが一本飛んでいた。
本人もその事には気付いていた。
音がうるさいと言う。
だがそんな音は、東風にはもちろん聞こえない。それにそれだけではなかった。反応を調べていくうちに、その猫の回路設定に矛盾があることに気付いたのだ。
それは問題だった。東風にとっても、猫にとっても。
第一回路と第二回路、というのは、深層意識と表層意識の関係に近い。もしくは本能と理性。種の記憶と個人の記憶。
第一回路は、レプリカントが「人間もどき」として生活していく上に必要な基本的条件を組んだものである。それは直接HLMにつながり、生産時以外、まず手をつけられることはない。下手に手を出すと、HLM自体が破壊される恐れがあるのだ。
一方の第二回路は、生まれてから体験したことを積み重ねている学習回路とでもいうものである。そのレプリカントが独自に歩んできたそれまでの記憶がそこにはおさめられる。
だが、その第一回路と第二回路に矛盾がある。
というよりも、このレプリカントの第一回路自体が通常のチューニングではないのだ。
古典的SFにおけるロボットの原則のように、レプリカントには、基本的に人間の奴隷として使われるための規則が組み込まれている。「人間を傷つけてはならない」「人間に逆らってはならない」等々。
だがどうもこのレプリカントにはそれが組み込まれていない。
それなのに、第二回路には、その規則が「教育」されている。
第二回路は確かに後天的なものではあるが、それでも一度「教育」された規則はこのレプリカを締め付けているかのようだった。
そして彼がいうところの「音」。
それもまたどうやら第一回路に組み込まれているらしく、それがまた「規則」とは決して相いれないものらしく、彼はその両方に揺さぶられて疲れ切っているように見えたのだ。
とは言え、意志を持っているものに対して、無断でやっていいことと悪いことがあると東風は思っていた。
だから彼はそれに訊ねた。
「君は俺に助けて欲しいと言った」
「ええ」
「それはここで、この都市で生きていきたいという意味?」
「はい。私は私の身体を破壊する訳にはいかないのです」
「だけどそのためには君の第二回路をチューニングし直さなくてはならない。つまり、君の第二回路を一度消去しなくてはならないんだ」
それは一瞬黙った。だが迷っているようには見えなかった。やがてそれはうなづいた。軽く笑みさえ浮かべて。
「仕方ないですね」
もちろんそれで「音」が消える訳ではない。だが、「音」と付き合って生きていくことができれば、と東風は思ったのだ。
結局それは、自分が何処の、何のためにつくられたレプリカントか、ということは一切話さなかった。東風も訊く気はなかった。