7 停電の地下街の夜、正体を明るみに出す朝
「…何だお前か」
「…何だはねえだろ」
「また見つけられちゃったな」
「S-K」の地下に声が響いた。
「最近お前さあ、本当に鋭いよね。何か俺に探知機でもつけた?」
くすくす、と彼は笑う。
そんなもの、と低い声が投げられた。
停電の地下街ほど意味のないものはない、と朱明は思わずにはいられない。地下街に働く人の帰宅用に予備電源が五分だけ動いた後、その場は完全に闇になった。
いや正確には、月明かりだけになったと言うべきか。
地下街とはいえ、地上と吹き抜けになった場所や、明かりとりの窓が設置してある所はある。そんなところから、細い冷たい明かりが差し込無だけである。
「横に座っても、いいか?」
「どぉぞ。何を今さら」
HALは小さな噴水のへりにちょこんと座っていた。
この都市は地下街に小さな噴水がある。もちろん外のそれとは違い、小振りであるし、水が空めがけて高く飛ぶということはない。
だがそのかわり、透明なキューブを組み合わせたオブジェが中に意味もなく置かれていたりする。
明るい光の下で見た時、それは実に陳腐だ、と朱明は思わずにはいられない。
作った当初は水晶のようだどうのと賞賛されたらしいが、時間が経ち、所々に時間の足跡がついてしまったオブジェは、中に曇りの入った氷の様で、どうも見苦しい。
この都市には所々そういうところがあった。
合理的と言えば聞こえがいいのだが、「そこにあるものを生かす」体質は、結果として統一性の全くないものを生み出しやすい。
そんなものの一つのへりに、朱明も腰を下ろす。そして黒い服の彼は、ますます闇に溶け込んでしまう。
HALの姿を見る。長い髪を後ろで一つにくくり、ゆらゆらとさせていた。そして時々その髪が差し込む月の明かりにふわふわと光る。
「また妙なことやったな」
「妙なこと?」
彼は軽く首をかしげる。その拍子に、着ていた大きな焦げ茶色のTシャツの肩が落ちた。その裾が伸びてしまうのではないだろうか、と思う程上に引き上げて、彼は片足だけ立てて抱え込んでいる。
「ごまかすなよな。お前のせいだろ?」
「『S-K』地区の停電? そうだよ」
HALは気がぬけるほどあっさりと言う。はぐらかす気はないらしい。
何となく、彼は隣のふわふわの髪の毛を指に絡めた。
「芳紫の奴は今頃忙しいだろうな」
「だったら朱明、お前応援してやれば? お前も公安だろ? 藍ちゃんも結構疲れてたようだし。どっちにしたって原因は見つかる訳はないんだし」
「HAL…」
「邪魔は、するんじゃないよ」
意外にきっぱりと、彼は言った。
「邪魔も何も。邪魔って言うのは、相手の意図が判らねえ時には俺はしねえことにしてるんだ」
「へえ。何で」
「非効率的じゃねえか。お前は何のためにそんなことするのか、いつだって黙ってるくせに」
「そりゃお前が訊くからだよ。訊かれなかったら」
「訊かなかったら、言うのか?」
くすくす、と彼は笑う。
「またそうやって」
「だってお前、何を知りたいの?」
「俺はいつも言ってるじゃねえか。この都市を」
「だからそれは答えられないんだよ」
「どうして」
「逃げるよ」
彼は朱明にとって一番の脅し文句を突きつける。
確かにそれは困る、と朱明は思った。だが今すぐに逃げる気配はないだろう、とも彼は感じていた。仕方なく朱明はうなづく。
「判った。今は訊かねえ」
「この先だってきっと俺は言わないよ、たぶん」
「ああ、そうだな」
そんな気は、している。
「何してんの」
ようやくその時彼は髪で遊ばれているのに気付いたようである。
「ちょうどいい所にあったからな」
やめようね、とHALは朱明の手を払った。
そしてついでのようにその手を掴む。袖のまくられた腕を軽く揉む。何をやってるんだ、と朱明はやや呆れたが、その手を止めさせはしない。
「あいかわらずいい筋肉だね」
「お前なあ…それ誉めてるつもりか?」
「誉めてるよ。そりゃ俺はお前のこと好きだからね」
「嘘ばかり」
「そ、嘘だよ。当然」
いけしゃあしゃあと。朱明は苦笑する。
俺はこの類の言葉を何度聞いたことだろう?
HALの言葉には重力がない。
意図的にそうしているのが判るから、朱明にとってはやや腹立たしい。おまけに、そこに悪意がある場合もあるし、無い場合もある。本当のことも嘘も全く同じように、その口は語る。
そしてそれは口だけではない。
「昔さあ、何かで、心理テストって流行ったよな」
「それがどうした?」
「俺達の中で、春夏秋冬に例えると誰になる、とか。朱明、お前、どう思う?」
「何、それって、お前や芳の奴や、そういう連中のことか?」
「だって昔、だよ。あの頃だったら、そういう単位で訊くじゃない? 俺達、四人であの頃は一緒に動いていたんだから」
「俺でも、その質問は訊いたことねえぜ」
「そりゃそぉだよ。その時は俺と藍ちゃんだけだったもの。で、藍ちゃんは自分が春で、芳ちゃんが夏で、俺が秋で、お前が冬って言ってた」
「そりゃ初耳だ」
「お前だったらどう思う?」
「俺? …考えたことねえな」
「考えてよ」
立てた膝に右肘を立てて、やや上目づかいの横目でHALはじっと朱明を見た。
「…わりと芳も藍地も秋っぽいがな。俺としちゃ」
「俺は?」
「お前?」
「言ってよ。俺のことも」
彼は自分自身を指さす。
「お前ね…」
何だろう、と彼は思う。どの季節とも、言おうと思えば言える。だけど。
「…初夏」
「何それ」
「仕方ねーだろ、それしか浮かばなかったんだから」
「意外とあいまいなんだ、お前」
「で、一体そりゃ何の例えなんだ?」
ん、とHALは一呼吸置いた。
「あんまりよく覚えてないけどさ。秋は一緒に居て心が暖かくなる人で、春は守ってあげたい初恋タイプなんだってさ」
「じゃあ藍地は自分が初恋? 守りたい人かよ」
くっ、と朱明は笑う。
「そうだろーね。自分が大切。藍ちゃんらしいな」
「で、夏と冬は何なんだよ」
「夏は寝たい人。冬は結婚したい人だってさ」
「げ」
はあ、と朱明は空いた方の大きな手で顔を覆う。
「悪趣味なテスト…」
「その定義で言うと、お前は俺って初恋で寝たいタイプなんだ?」
「どっちでもねえってことは考えねえのか?」
「何を今更」
くすくす、と彼は笑う。顔を覆った指のすきまから友人を横目で見つつ、朱明はうめくように問う。
「お前、そん時答えたのかよ」
「え? 俺? あいにく俺は出題者だったからね」
「…全く…」
らしすぎる、と朱明はため息をついた。
「ま、お前、夏っていや夏かなあとか思ったけど」
「…何で」
「だってお前、今もそうだけどさ、昔っからいつも黒ばっかり着てて、何か暑そうじゃない。あ、でも藍ちゃんは同じ理由で夏だと暑いからって冬にしたんだよな…」
「じゃあお前にとって俺って夏なわけ?」
「かもね」
軽く目を伏せる。そして決して断定はしない。それでいて、その言葉にはいつも別の意味がある。
ふう、とため息をつくと、朱明は右隣の友人の肩に手を回した。
そしてそのまま力を入れて引き寄せる。バランスを崩したHALは朱明の膝の上に仰向けに倒されてしまう。
「何すんの? 暑いよ」
「うるせえな」
「何してんのやら。でもそういうのもいいね」
「挑発する奴が悪いんだろ」
手を伸ばして、HALはやはり長い朱明の髪を軽く引っ張る。
HALのふわふわとしたそれとは違って、彼の髪は後ろでくくっただけの、伸ばしっぱなしの固いものだった。
そしてその後れ毛をHALはもてあそぶ。人には止してというわりに、彼はそういうことが好きらしい。
「俺はお前が好きだけど? だから挑発してもおかしくないんじゃない?」
次の言葉は言わせなかった。
言えば言うだけ、言葉は重力とは無縁のものになっていくのだ。
奇妙な感覚だった。
本当のことを決して言わないとしても、言いたいことはその裏にあるのだ、と気付くのにどれだけの時間を費やしたことだろう?
本当のことを隠すために嘘を散りばめるのだ、と気付くのにも同じだけの時間がかかった。出会ってから、長い時間が経っている。
自分はかなりの馬鹿だろう、とよく朱明は思う。だが間違っているとは思ってはいなかった。
*
しまった、と安岐は思った。
気がついたら、朝だった。そして横には人がいる。
こういう状況は嫌いではない。だが。
形のいい大きな目は、閉じていても綺麗なラインを描く。いつの間にか終わっていたらしい停電のせいで、部屋の中には朝というのに、こうこうと明かりがついていた。おかげて朱夏の顔がよく判る。
「…何時だ…」
安岐が動いた拍子に目が覚めてしまったらしい。大きな目がいきなりぱっちりと開く。うつ伏せの身体を腕立て伏せの要領で彼女はゆっくりと起こした。
「何時だ?」
安岐は黙って時計を拾うと、彼女に渡した。やや長めの前髪が、ばさりと目の前にかかる。それをかき上げながら彼女は時計の文字盤を見た。
「…六時四十三分か」
「まだ早いよ」
「そんなことはない。もう朝は朝だ… 明るいし辺りも見える… ところで私の服は何処だ?」
再び彼は黙って辺りを指した。おや、と朱夏は目を丸くした。
「ずいぶんと飛び散っているなあ…」
そしてのそのそとそれを拾う。同じ調子でそれを身につけかける。安岐はその様子をぼんやりと眺めていた。ひどく現実感がなかった。
これははずみだ、と彼は思う。だがはずみにしてはあっさりしすぎている、とも思う。
「? どうしたのだ?」
ストラップレスのブラのホックを止めながら彼女は訊ねた。
「…いや別に」
「私の顔に何かついているか? 何やら視線がこちらに集まっているが」
「…ああ、やっぱり綺麗だなと思って」
「なるほど」
「怒らないの?」
「何を?」
「いきなりああいうことしてしまって」
「どういうことだ?」
安岐は言葉に詰まる。
「私と寝たことか?」
「そういうことだね」
「でもあれは私がしてくれと言ったことだ。お前は悪くない」
「触れてくれとは言われたけどね。でもそれ以上をしてしまったのは俺だよ。俺がしたいからしたの」
「でも… お前がどう思おうと、私は触れられてると音が… だからお前が何か思う必要はないと思うが… それに人間の女ならそこでいろいろあるのかもしれないが、私はそうではないし」
「え?」
人間の女ではない?
「お前は私を綺麗と言った」
「うん」
それは事実だ、と安岐は思う。
「私はレプリカントだ。それでも私はお前にとって綺麗か?」
彼は数秒黙った。
どうだろう、と彼は思った。頭の中でレプリカントに関する多くもない知識が引っぱり出されてぐるぐる回る。
さほど多くの知識を持たない者にとって、レプリカントはロボットやアンドロイドと同じである。人間に作られた人間以外のもの。人間の皮をかぶった機械。そういった認識が普通である。
もちろん安岐も、その例にもれない。
だが常識を現実が揺さぶる。
「綺麗だよ」
「本当か?」
「本当に」
そうなのだ。
理性ではどうなのだろう、と考えているというのに、彼の感覚は、彼女が綺麗であることを認めている。
そして彼は理性と感覚の答えが違った時には、感覚の方を優先することにしていた。
「本当だよ。最初から全然変わらない。俺は綺麗なものが好きで、あんたは綺麗だ」
それは本当だ。
「そう言われるのは心地よい。もっと言ってくれ」
朱夏は安岐の頬に両手で触れる。そして突き刺さるのではないかと思われるくらいな真っ直ぐな視線で彼を見据える。
そして彼はその言葉に応える。
「あんたが好きだよ」
安岐の頭の中で、昨夜のサックス奏者の声が弾けた。