6 身体の中、ずっと聞こえている音
「…じゃ、明日M線が動いたら帰る」
そう言って朱夏は電話を切った。
安岐の部屋に入った瞬間、朱夏は何も無い部屋だな、とまず感想を述べた。
「必要最小限のものがあればいーの」
「そういうものか?」
「そういうものだよ。ところで電話使わないの?」
「使う」
―――そんな訳で、最後は先の台詞となった訳ではあるが。
「いいって?」
「ああ。知り合いの所に泊まると言ったらそうか、と」
「ずいぶん寛大な親だねえ」
「親? 私に親などいないが」
「…ああ、じゃ、きょうだい?」
「みたいなものだが… 別に血がつながっている訳ではないし」
「じゃあ友達」
「とも言いがたい。…ともかく私の保護者だ」
「…ああ」
つまりは、自分と壱岐みたいなものか、と彼は思う。
「それにしても、突然停電事故っていうのは珍しいなあ」
「そうなのか?」
「うん。そりゃ昔は結構あったらしいけど、最近はさすがに『黄色の公安』もがんばっているし、対策がきちんと取られるようになったからって…」
「へえ…」
「朱夏は結構知らないことが多いんだな」
「忘れていることが多いんだ」
安岐は何か呑む? と訊ねる。何がある? と彼女は問い返す。
「別に大したものはないけど。お茶かコーヒーか…」
「お茶がいいな」
やがて茶の香りがぱっと広がった。
「緑茶か」
「嫌い?」
「嫌いも何も、あまり呑んだことがないからな」
「へえ。珍しい。紅茶党なんだ」
「私は別に好みはない。東風はそれが好きだから」
「東風?」
「私の保護者だ」
その名前には彼は聞き覚えがあった。
「本名はタカトウ・トウジとか言うらしいが、彼の周りは彼をそう呼んでいる。確かにタカトウ云々よりその方が発音しやすい」
「そういう問題ではないとは思うけど…」
そう言いかけてから安岐は口の中でその東風の本名を転がしてみる。なるほど、T音がむやみに多いその名前は確かに発音しにくい。
「それにしても、年頃の女の子を電話一本でそうほいほい外泊させる保護者ってのは珍しいよ」
「そうなのか?」
「そうだと思うけど。特に男のところへ泊まった云々…」
「別にお前が男だの女だの言ってはいないが。男だと何かまずいのか?」
「普通はまずいんじゃないの?」
「だってお前は私のこと好きじゃないか。だったら危害加えるはずはないし、それに聞きたいこともあったし」
「俺、言ったっけ」
「言った。お前は綺麗なものが好きで、ステージの上の私は綺麗だ、と。とすれば私のことも好きということではないか」
こんなところで三段論法が使われるとは思わなかった。だが間違ってはいないの否定もしない。
「好きなものには危害を加えないだろう? まあそれは判る。ただ理解しにくいことがあったからお前に聞きたくはあったんだが」
「何?」
「どうして好きなのか、そのあたりがどうしても理解できない」
「はあ」
「としたら、お前に聞くしかないじゃないか」
「そりゃあそうだけど」
わざわざ問いただす類のことか? と彼は反論したくなる。
「東風も夏南子もこういうことには答えをくれない」
「そりゃあそうだろうな… かなこ?」
「東風のいちばん仲のいい人だ。そりゃあそうって、そう言うってことはお前は答えを知ってるってことか?」
「何の?」
「あの二人がくれない答え」
「あのね、朱夏」
ふ、と視界が暗くなる。何だ、と安岐はすぐには利かない目をいったん閉じる。
「…停電だ」
「ああ、そうすると結局このあたり全部がおかしくなってるってことかな…」
「だろうな」
安岐は窓の方へ目を移す。
確かにこのあたり一帯がやられているのだろう。カーテンを引いていても夜の室内を照らし出してしまう青白い街灯も、やや遠くの黄色味がかった店の明かりも、にじむような光の信号機すら消えている。
夜ってこんなに暗かったんだな。
彼は手探りで茶の入ったコップを捜す。と、その手が掴まれる。
「何?」
「暗いのは、好きじゃない」
「朱夏?」
強い力だった。そのまま手の形がシャツの袖に残ってしまいそうな程に。
「お前そこにいるんだよな?」
「居るけど?」
「居るよな?」
朱夏は片方の手で、安岐の腕を掴んだまま、もう一方の手をその上から伸ばす。
彼は掴まれてない方の手でその手を取った。取られた手は、しばらく確かめるかのように彼の手の曲線をたどっていたが、やがてまた、それをぎゅっと握りしめた。
「どうしたの朱夏? 一体」
「…ああ、少しは良くなった」
「何処か、苦しいの?」
「苦しくはない。ただ、うるさい」
「うるさい?」
「こんなふうに、暗くなって、自分の在処すら判らなくなると、妙に、ヴォリュームが上がるんだ」
「ヴォリューム… 音?」
うなづく気配がする。
「お前さっき、地下鉄の中で、残っている音のことを言ったろ?」
「ああ言った。耳がわんわんしているって…」
「それと同じなのか判らないが、私の中にある『音』があるんだ」
「君の中に、音?」
「普段はいいんだ。昼間はいいんだ。いろんな音やいろんなものの色や形や、そういったことを認識するのに私は精いっぱいで、その音を頭が思い出す暇もない。だけど夜は困る。すごく困る。それでもいつもはいいんだ。東風は夜遅くまで仕事してる。だから灯は私が眠るまでずっとついてるからいいんだ。だけど」
「闇は嫌い?」
「何も見えないと、あの音がひどくうるさい」
そして彼女は掴んだ手に力を込める。
「もちろんそれがどうしてかなんて判ってるんだ。それは聞いたし理解できる… 外部からの情報の一時的な切断による内部情報の一時的な拡大… 視覚が受け取る情報は多いから… そんなことは判ってる。判ってるんだ。だけど判っているからってそれが…」
「どうしたの?」
ふと止まった朱夏の勢いに、安岐は問いかける。
「お前… 何をした?」
「何?」
「音が、弱まってる」
「俺は別に何もしてないよ」
「嘘だ」
「嘘をついてどうするの」
「だって!」
がたん。バランスを崩して、二人が座っていた別々の椅子が倒れる。板張りの床が震える程の勢いで、二人はその場に転がり落ちた。
「…痛え」
「安岐…」
「ケガしたらどうすんだよ!」
「…そうか」
全然人の話など聞いていないな、と彼はややふてくされた表情でつぶやく。
「聞いてんの!」
「…聞いてる」
その声とともに彼は自分が引っ張られるのを感じた。再びバランスを崩して彼は床に倒れ込んだ… はずだった。
何かに全身がぶつかる。
床だったら痛いはず。だけどそれはふわりと柔らかだった。
「…やっぱりそうだ」
「朱夏?」
それがどういう状態か、気付くのには時間はかからなかった。
自分は朱夏の上に居て、その手に抱きしめられている。強い力で。
「手を貸してくれ」
言われるままに彼は手を出す。その手に、すべすべした丸いものが触れる。
彼女の頬だ。
「…やっぱりそうだ。お前が触れていると、音が」
「音が?」
「…ヴォリュームを落として… クリアになる…」
*
「そうですか、じゃあ引き続き復旧作業にかかって下さい」
ややくすんだ黄色い上下の作業着を着た男は、ていねいな口調でそう命令した。向こう側で何やら反論する声がいる。一応の言い分は聞いてやる。だが聞くだけである。
「無理? 原因が判らないから?だったら原因を調べて下さいよ」
通信機の向こう側でため息が聞こえたような気がした。心が痛まない訳ではないが、そこに彼は追い打ちをかける。
「仕事でしょ?」
そう言った時、扉の開く音がした。
通信の会話を聞きつけたのか何なのか、隣の部屋で作業をしていたらしい同僚が顔を出した。
「何芳ちゃん、やっぱりSKだけ停電?」
「そのようだわ」
通信機に向かって命令を下す黄色い作業着の男は、芳紫という。
初対面の相手には彼は必ず驚かれる。高い身長、なのに童顔に高い声。だがその内容に甘さはない。
何と言っても、彼はこの都市で最も権力を持つ公安部、そのたった三人しかいない公安長官の一人なのだ。
芳紫は肩をすくめながら通信機のスイッチを切った。
「原因不明の停電だってさ。なぁ藍地、俺、これってすんごい久しぶりの気もするけど」
「…ああ、確かに久しぶりだよなあ」
藍地と呼ばれた、もとはアイボリーだったらしい、腕に赤のラインの入ったつなぎの作業服の上に白衣を羽織った男は穏やかにそう答えた。そしてだるそうにそばのカウチに身体を投げ出す。
「『S-K』真っ暗だって。電波塔の方から今連絡が来た」
「電波塔の方は大丈夫? 放送は? FM局の方は?」
「ああ、それは大丈夫。予備電源を向こうは常備しているし。何か使う用事あったんか?」
「いや… 今の所ないけどさ。…かくしてこの街に音楽の途絶えることはありません、か」
藍地はやや皮肉げに笑った。
「俺コーヒー呑むけど、お前要る?」
「うん」
芳紫はちら、と藍地に視線を走らす。相棒は、ひどく疲れているように見えた。
もともと自分の身なりに気をつかう男だったはずである。それがもうずっと、それどころではないかのようだった。かつては毎朝きちんと整えられた髪も、今では寝癖がついていない日の方が珍しい。
執務室の脇に取り付けられた小さなキッチンにはいつもコーヒーがかかっている。利用者は、飲めればいいというレベルの者ばかりだったので、こまめな手入れとは無縁である。実際彼の目の前にあるコーヒーメーカーの中身は、今もやや煮詰まっていた。
コーヒーメーカーの電源を切ると、彼は冷蔵庫から1リットルの牛乳パックを出し、昔ながらの、ただ四角い角砂糖を入れた壷と一緒にトレイの上に乗せた。
この執務室には女手がない。当初はあった時もあったが、うっとうしいと誰かが言ったせいで、ほとんどこの類のことは自分でやるようになっていた。
「ほいコーヒー。好きなだけ入れて」
「ん」
カウチの前のテーブルの上に、空のマグカップを置く。サンキュ、とため息まじりに藍地は答えた。
実際、藍地は本当に疲れているようだった。
彼はひどく重そうにコーヒーポットを取り上げる。そしてやや煮詰まったコーヒーをカップに半分ばかり入れると、牛乳を同じくらいの量だけ入れた。砂糖は入れない。
「原因不明事件」
カフェオレになってしまったコーヒーが、それでもやや苦いのに彼は顔をしかめた。
「結構ばかばかしいよな、この単語」
「それを言っちゃあ、おしまいよ」
「あんたいつの時代の奴だよ! ところで朱明は?」
ほとんど一気呑みした一杯目のコーヒーが無くなってしまったので、二杯目を入れながら藍地は訊ねる。
「原因を追っかけてる」
ふーん、と藍地はうなづいた。
芳紫はそう答えてから、言わなくても良かったかな、と軽く後悔した。だが何を言おうかわざわざそこで考え込むことはなかった。相手の方が先に切り出してきたのだ。
「…あのさ芳ちゃん、花がさ」
「花?」
「こないださ、奴の車に白い花がこぼれてたんだ。ぽろぽろ。何だったかな、綺麗な。…俺、花は好きだけどさ…本当、ぽろぽろ。シートの上にさ」
「…うん」
それがいつのことだか、芳紫は判らない程鈍感ではない。
「また花を飛ばしに行ったんだ、HAL」
「うん。抜けちまったからって朱明の奴が運んできたけどさ… どうして奴は、判るんだろうな」
「…何でだろうな」
答えを求められていないことくらいは判る。
「俺にはさっぱり判らないのに」
「うん」
「本当さっぱり判らないのにさ。判らないよ。自分の身体を苗床にしてその上で花が咲けばいいなんて考える奴のこと」
「藍地?」
「わかんねーんだよ…」
何かあったのだ、と芳紫は思った。おそらくそれは自分はまだ聞かされていないことで、これからきっと聞かされることなのだ。
そしてそれは決して良い知らせではないだろう。
「お前、疲れてるんだよ」
芳紫は藍地の横に回って、ぽんぽんと肩を叩く。この一つ年下のもと後輩は、昔からそうだった。疲れた時にはろくなことは考えない。
「…ああそうだよな、俺疲れてるんだ。たぶん。どうすればいい?芳ちゃん?俺は」
「とにかく休みなよ」
ぽんぽん。
「そうだな、俺とりあえず休まなくちゃ…」
「そうだよ、眠らなきゃ…」
肩を叩くリズムと、その軽い声につられるかのように、藍地の身体はいつのまにか前のめりになっていった。
自分の子供の様な声も、童顔も時々は便利だな、と芳紫は何となく思う。
本人にそういう気はなくとも、相手は油断するのだ、とここにいない同僚に言われたことがある。喜んでいいのか何なのか。
ま、いいか。
彼は本格的な眠りにつきはじめた友人の体勢を変えさせると、あまり物の入っていない棚から毛布を取り出し、ふわりとその上に掛けた。
そして煮詰まったコーヒーの残りを自分のカップに入れ、再び通信機の前に掛けると、ヘッドフォンをかけた。
あの音は結構耳障りだからな。
おそらくこの夜じゅう、部下からの通信は入ってくるだろう。見つかるはずもない原因を捜すために。
やれやれ、と芳紫は肩をすくめた。