5 ボーイミーツガール再び。地下鉄が止まり、彼女が泊まる。
ライヴハウス「BLACK-BELT」のその夜の出演は、インストゥルメンタルのバンドだった。それも、ピアノとベースとドラム、それに時々サックスが入るだけ、という実にシンプルなもの。
だがシンプルイズベスト、音には無駄がなかった。
―――無いように、朱夏には感じられた。途中までは。
三曲くらい流れたところで、用事があった相手に東風からの伝言を渡すことになっていた。
この都市では、電話はさほど役に立たない。都市の中で通用する電波は、FMのそれだけだった。
だから、電話も、有線の、それも都市内部にある電話局に直接つながっていた分しか使うことはできなくなってしまった。
かつて一世を風靡した携帯の類も全く無用の長物となってしまった。
そして有線電話は、盗聴が簡単なため、極秘の情報交換には向かないものになっていた。
もちろんその中で言葉を暗号化すればいいのだろうが、この十五キロ同心円、という狭い区域の中では、確実かつ秘密な情報は、直接会う方が速い。
朱夏はよくその仕事で使われていた。要するに使い走りだ。
そしてこの日は、この都市のどこかで別行動をとっているチューナーの一人の連絡員に次の計画の資料を渡すことになっていた。
フロアの後ろの方に幾つか置かれた丸テーブルに、朱夏はひじをかけて演奏を見ている。
と、肩を叩く感触がした。振り向くと、自分よりやや大柄な男が居た。
『今日のバンドは私のお気に入りなんです』
『今日のバンドはいいね。何て名だっけ』
『忘れました』
合い言葉を交わす。言葉は矛盾しているから、よく聞くと決して普通の会話になっていないのに気付く。
「それじゃこれを」
データの入った媒体を渡す。
「OK。ありがとう。ところで朱夏、こないだのギター良かったよ」
「見てたのか」
「君にそういう趣味があるとは奴も言わなかったけど?」
奴とは東風のことを言うらしい。
「別に特に趣味ではない。できるからやったに過ぎない…」
「ま、どっちでもいいですがね」
連絡員は、媒体を内ポケットに無造作に入れた。
「合い言葉じゃないけど、本当に、今日のバンドはいいから、見ていきなよ」
「…」
どう答えようか、と迷っているうちに、連絡員は薄暗いフロアの、人混みの中に混じってしまった。
どうしようかな、と朱夏は思う。いいバンド、なら見ていくのもいいかもしれない。
三曲目は話しているうちに終わってしまった。
静かになったステージにウッドベースの音が響く。十六小節ばかり、うねうねとしたメロディを奏でる。そこへほんの微かな音がはさまる。
シンバルの上をロールしているような音だ、と朱夏は気付く。そこで一度ぴた、と演奏が止まる。ピアニストとドラマーが顔を見合わせる。スティックを四回合わせる。ピアニストは思いきり大きく上体を反らせた。
*
「へ?」
ステージを見た瞬間、何で? と安岐は思った。
ギターがいない。ギターレスのバンドとは彼は全く考えていなかったのだ。何せ津島はギター好きである。ギター馬鹿である。ライヴと言えば、乗り騒ぐ、と言うよりはギタリストの手に見入ってしまう奴である。
なのに。どう見てもこのステージにはギタリストはいない。
だが、何故それでも友人が行きたがったのかは、すぐに彼にも判った。
四曲目。出だしはともかく、ドラムとピアノが狂ったように音を叩きだした。
何じゃこりゃ!
鍵盤の端から端まで手がとんでもない速さで走り回り、不安定なメロディと、その裏のメロディを高音低音交互に送り出す。どうしてこんな別々のメロディを同時に弾けるんだ? と安岐は目をむく。
一方のドラムは、基本的にはテンポ190で8ビートを延々叩いているはずなのだが、あまりにそれ以外の部分が多すぎて、すさまじく複雑なものになっている。
まるでメロディを叩いているようだ、と安岐は思った。実際、ドラムセットに付けられているタムの数も異様に多い。
そしてその様子を、ベースとサックスの奏者が平然と笑いさえたたえて見ているからおかしい。特にサックス奏者は、猫の様な笑いで、時々マイクに向かって「Out of YOUTHFUL PASSION!」と人ごとのようにつぶやいている。
それがどういう意味だか安岐には判らなかったが、そのサックス奏者の言い方からして、悪いものではないらしい、と思った。
どちらかというと社長や壱岐が、時々羽目を外して遊ぶ安岐や津島に向けて「仕方ねえなあ」と言うときの表情に近いな、と思えたのだ。
フィニッシュ。
その瞬間、フロアに向かって一気にライトが向いた。ピアノとドラムが同じリズムを叩く。
だがその音を安岐は耳からすべらせていた。…目に入ったものの方が強烈だったのだ。
「朱夏…」
見間違えるはずがない。あの目。
安岐は身体が勝手に動き出すのを感じていた。フロアの真ん中で踊り出す客の中でぼうっと立っている彼女の方へ近付いていた。
こんなに近い所にいたなんて。
彼はこれは偶然だと思う。
絶対偶然だと思う。
そして偶然なら逃してはならない、と思った。思いこんでしまった。
思いこんで、そして、思いこみのままに手を伸ばしてしまった。
明るいメロディが響く。ハイハットがうるさいくらいにしゃかしゃかと鳴る。バスドラムがその下で次第にそのスピードを上げていく。
大きな目が広げられた。視線を合わせた瞬間、彼は朱夏の手を掴んでいた。
「お前は」
「良かったまた会えた」
ほっと安岐は息をつく。明るくないフロア。それでも彼の表情はあからさまに明るかった。
「別に好きで来た訳ではないが…」
「俺だってそうだよ。偶然だね」
朱夏は首を傾げる。どうしてそんなことを聞くのか判らない、と言いたげに。
「でも好きでもないのに来るにしちゃ、ずいぶんマニアックなものじゃない」
「…」
朱夏は黙っている。仕事とは言いにくい。東風は朱夏にそのことは言わないように、と常々言っていた。嘘はつけないから、黙っているしかない。
「ま、そんなことどっちだっていいけどね」
「お前はどうして居るんだ?」
「俺は友人の代わり。急に用事が入ったとかで…」
「酔狂なことだ」
彼女はそう言って肩をすくめる。
*
「あ~まだ耳がわんわんしてる」
「性能の悪い耳だな」
「そんなねえ、身体を部品の様に言うもんじゃないよ」
終演後、彼らはライヴハウスB・Bの正面にある地下鉄の階段を降りていた。
「だいたいお前何処までついてくる気だ?」
「送ってくよ。女の子一人で帰すのには忍びない」
「その必要はない。私は一人でも道には迷わない」
「そういう意味じゃなくって」
「じゃどういう意味だと言うんだ?」
んー、と彼はやや困った顔になる。考えようによっては、自分自身が送り狼になりかねないのだ。
先刻から止まらないのは耳鳴りだけではない。飛び跳ねるような心臓の鼓動もだった。
これはまずい、と彼は思った。
女の子と何かれしたことが全くない訳ではないが、こうも心臓の調子を狂わされるのは初めてだったのである。
「とーにーかーくー、普通はそうなの。知り合いの女の子が夜の街一人で帰ると言ったら、送りたいってのが男でしょ」
「そういうものなのか」
ふーん、と彼女は感心する。
「…ではそうすればいいさ。家は『K-Y』だ」
「結構面倒だな」
「別に面倒ならそうしなけりゃいいさ。だがたかが『S-K』で乗り換えるだけだろう?」
「まあそうだけどね」
「I-2」の前から走っている地下鉄はH線という。これが一番古く、市民の昔からの足となっている。
その線上にある「S-K」は、M線につながっていて、それが彼女の言う「K-Y」という地区につながっている。
「私が頼んだ訳ではない。お前がしたいのだろう?」
「まあそうだ」
確かにそうである。
だが、かと言ってじゃあさよなら、と言ってしまったら、何かそこで全てのつながりが消えてしまうような気がするのだ。
「判った。言ったからにはそうする。『K-Y』だよね」
「『K-Y』だ」
*
「…さっき耳がわんわんすると言っていたが、あれはどういう意味だ?」
「S-K」方面へ行くH線に乗り込んですぐに、彼女はそう訊ねた。
「え?」
「言ってたではないか。どういう意味だ?」
「ああ、あれね」
何も特に意味があってそう言った訳ではなかったので、今の今まで安岐は忘れていたのだ。
「だから、さっきのバンド、結構凄い音だったじゃない。だから、耳の中にまだその音が残っているように感じられるんだよ」
「すると、それはずっと残っているものなのか?」
「いや? そんなことはないけど。だいたい今はもう大丈夫だし」
「そうか。じゃあ音が残っているということはないんだな」
「いや、そりゃ記憶にある歌とか音とかは、思い出したい時にぱっと思い出すことはあるよ」
「そういうものか? じゃあそういう時の音だの歌だのは、いつも同じか?」
どうしてそういうことを聞くのだろう、と安岐は思った。
夏の地下鉄は、基本的にエアコンを効かせない。窓は全開である。かなりうるさい。すると会話には大声が必要となる。したがって乗客は自然と無言になる。
だがこの二人にはそれはさほど関係ないようだった。怒鳴り合いのように会話は続いていた。
「いつもってことはないだろ。だって記憶違いってことはあるし」
「別に聴きたくもない時に流れてくるってのはないのか?」
「そういうのは… 少なくとも俺は無いけど」
「そうか」
彼女はやや気むずかしそうな表情になる。
「何かあるの?」
彼女は答えなかった。答えたくないという様ではない。どう言っていいのか迷っているように安岐には見えた。
そうこうしているうちに地下鉄は「S-K」に着いた。
あれ、と安岐は長い乗り換え通路を歩きながら思う。ぞろぞろと歩いてくる人の足どりがどうにも重そうなのだ。
何となく嫌な予感がした。
そしてそういう時の予感とは的中するものである。乗り換えのホームには、銀の車体に青紫のラインが入ったM線が止まっていた。
ちょうど良かったのかな、と彼は一瞬思ったが、その期待はすぐに裏切られた。扉は全て閉まっていた。
柱にはついさっき貼られたような紙があった。そして、げ、とそれを見た途端安岐はうめいた。
「…『M線停電事故により復旧の見通し立たず』つまりM線は動かないってことか?」
「…そのようだね」
朱夏の無表情な声に、何てこったい、と安岐はつぶやいた。
「…困ったな… タクシーで帰る程今日は持ち合わせがない」
「着払いにしてもらえば?」
「そうすればいいのは判るのだが、そうしていいのか聞いたことがないし」
「家族のひとだろう?」
「…家族? と言っていいのだろうか?」
何やらいろいろあるようなので、安岐もそれ以上は追求しなかった。その代わりに出たのは次の言葉だった。
「だったらウチ寄ってく?」
「お前の家か?」
「うん。俺のとこは『S-K』の駅の近くだから…」
そこまで言ってから、慌てて、別に変なことはしないから、と彼は付け足した。すると朱夏は大真面目な顔をして言う。
「変なことをする可能性があったのか?」
「ないとは言わないけど…」
何だかよく判らない、と言いたげに彼女は首をかしげる。ああ駄目かな、と安岐は自分の言い方のタイミングの悪さに内心ため息をつく。
だが。
「お前の部屋には電話があるか?」
「ああ」
「じゃ行く」
朱夏はあっさりと答えた。
「…いいの?」
「構わない」
その単純さは嬉しくもあるが… 同時に彼にはやや心配にも思えた。