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47 ステージ上に渦が起こり、「都市」は元の姿を取り戻す

「…ちょっと東風、あれあれあれあれ!」


 ステージが真正面から見られるスタンド席から、彼女は横に居る相棒にオペラグラスを渡す。彼らはギターを弾いている少女の顔を確認して息を呑んだ。


「朱夏!」


 確かにそれは朱夏だった。ステージメイクはしているし、まるで少年のような格好をしているが、彼らが間違えるはずがない。


「…帰ってきたんだ…」


 夏南子は口元に手を当ててつぶやく。


「帰ってきたんだ! ねえそうでしょそうでしょ!」

「ああ、そうだ、帰ってきたんだ!」


 東風も思わず叫んでいた。彼はもともとこの様に感情を露骨に表す質ではない。だが、この場の雰囲気が、彼をもそうさせた。

 会場の熱気はすさまじかった。

 何しろこれだけファンが多い彼らなのに、生で見ることなど絶対にかなわなかったのだ。

 何がそうさせたのか、どうしてそうなったのか、そんなことは観客の一人一人にはどうだっていいことだった。

 とにかく、割れる程大きなギターとベースとドラムの音が、この広い空間をうねりまくる。それだけで、この類の音楽が好きな者は、わくわくするのだ。

 ああそうだ。東風の中にもその「わくわく」が吹き出し始めていた。 


「YE---S!!!」

 布由の声がスピーカーごしに響いた。


 

 驚いて、安堵しているのは東風だけではなかった。「スクリーン」を眺めている安岐もまた同様だった。このスクリーンは上手くできていて、所々が時々アップにもなる。


「朱夏…」


 思わず彼はつぶやいていた。真剣な顔をしてギターを弾いている彼女。短い髪が飛び跳ねる。目が真っ直ぐ、スクリーンごしの自分を見ているのではないか、と思わず錯覚する。

 最初に彼女を見つけたのはライヴハウスだった。あれから大して時間は経っていないのに。自分など時間が止まっているのに。

 隣でHALは食い入るように歌う布由を見つめていた。ふとその唇が動く。安岐の耳にはこう届いた。


「変わったな…」


 変わったの? と安岐はその声に反応する。


「うん。記憶の中の、ライヴで動いている彼とはずいぶん変わったよ。何かすごく上手くなってる。声の抜けが凄くいい。この都市のせいばかりじゃないなこれは」

「へえ」

「だけどそれでいてキレれば音は外すし歌詞は飛ばすし。そのへんは全然変わっていない。下手すると当時よりキレ方は激しいかも」


 やがてくすくす、と彼は笑い出す。だがその笑いは次第に小さくなり…消えていった。


「HALさん?」

「十年だ」


 彼は顔を伏せる。


「俺は同じだけの時間、歌っていられるはずだった。でもその可能性は、俺自身が壊してしまったんだ」

「歌いたい?」

「すごく歌いたい」


 彼は即座に答える。


「何故か判らない。だけど、胸の中いっぱいに、その気持ちがたまってきているのが判る。歌いたい。歌いたいんだ。俺の、本当の声で」

「だったら歌えばいい」

「安岐」

「HALさんの、本当の声が、聞きたいよ俺は」



 留置されている場所にも、FM放送は入ってくる。津島は思う。ああこの音は。やっぱり格好いい…



「ありがとうっ!」


 会場に布由の声が響いた。

 ゆっくりと、ステージ・メンバーが汗を拭きながらやってくる。二度目のアンコールに彼らは応えた。

 本編に十八曲。アンコール1で三曲を演奏している。

 BBのナンバーは速いものが多い。四~五曲ごとにスローナンバーを入れてはいるが、それでもこの曲数である。

 しかもアンコール1は、まだこの都市で活動していた頃の古い、そして異様な勢いのある曲を休み無しで演ったのだ。どれだけ古いファンが熱狂したことだろう?

 メンバーも、観客も、ひどく疲れていた。だけど求めずにはいられない。その位この日の彼らにはそんなものがあった。

 再度の登場に歓声が上がる。布由はマイクを取る。歓声がやや静まる。だが所々から、まだこらえきれないような嬌声が上がる。


「えー…」


 一度そう言って、マイクを離す。次第に嬌声はおさまっていく。やはりこのあたりは、長い時間、大観衆を前にライヴをやってきた彼の貫録だった。


「…えー… じゃあね、ここで、毛色の変わったものをやります」


 何と言ったらいいんだろう、と布由は何となく迷う。もちろん言うことはある程度決めてはいたが、この曲に関しては。


「昔、BBはこの都市から出たんだけど… その位昔、仲のいいバンドがいました。…で、今日は、本当に久しぶりのこのふるさと、ですから」


 うぉーっ、とふるさと、という言葉に客は反応する。

 確かにそうだ。全国に名高いBBでも、故郷と呼べるのはこの都市しかないのだから。


「えー、そうですね、ふるさとです。だから、その仲の良かったバンド…今は無いんですけど、俺はすごく、好きでした」


 アリーナの通路の真ん中で、朱明はその言葉を聞いている。腕組みをして、立ったまま、真っ直ぐ。

 電波塔で、藍地はライヴの中継を監督している。映像は無い。だが、音は伝わる。声も、その言葉も。

 公安部の自分の管轄の通信機を前にしながら、芳紫はFMを耳にしている。心配ごとは尽きないが、もうじき、全てが終わる。


「一曲だけ、そのバンドの曲をやりたいと、思います」


 布由は曲目を告げる。客席にややざわめきが走る。

 この都市に、十年間、その音は流れることがなかった。もちろんこれから演るこの音はまがいものだけど。

 スタンドに、この時のために用意されたエレ・アコのギターがセットされる。そして肩には普段のギターを掛けた朱夏がイントロを奏でる。


 …………


 引っ張られた。


「HALさん!」


 安岐の呼ぶ声がする。安岐は手を伸ばしていた。彼は手を伸ばしていた。だけど。

 止められないのに気付くのが遅かった。

 吸い込まれる。彼が切り開いたこの空間に。光の満ちた、あの空間に。


 そして。


 目の前に覆いかぶさっている厚手の布をHALが取り払うと、そこは光の中だった。

 何が起こっているのか判らない観客は、知らない曲だけに、横の知り合い同士、顔を見合わせ、目の前で起こっていることを確かめようとする。

 彼は頭を一度ぶるん、と振る。変な気分だった。そして次の瞬間、自分の前にマイクが突き出されるのが目に入る。ずいぶん重力を感じる。


 …これは生身だ。


 いつものレプリカの感触とは違っていた。

 布由がHALの前に、土岐の前のコーラス・マイクを抜き取って突き出していた。まだイントロがかかっている。歌が始まる前に。

 歌うんだ、と布由がマイクを外して叫ぶ。マイクと一緒に手を差し出す。HALは立ち上がる。

 もちろんステージ上では布由の叫びも、他の音の大きさで聞こえない。だが何を言っているかは口の動きで判る。そして、ステージに上がってしまったら、やり直しがきかないことも。

 HALは手を取り、マイクを取った。その表情、視線その全てが、彼がここへと連れてきた「彼女」ではないことが判る。これはHALだ。

 入れ替わったんだ。

 ベースの、かつて藍地の作ったフレーズが延々と繰り返される。

 この曲は、同じコード進行を延々と続けるんだ、と藍地が言っていたことを土岐は思い出す。

 サポートドラマーのオキ氏も驚いた。

 彼はかつての布由の、BBのライバルのようだったバンドを、そこのヴォーカリストの顔くらいは知っている。だがもちろん敬愛すべき素晴らしいプロフェッショナルのドラマーは、動揺した気分をスティックには乗せない。

 突然ステージに現れ、布由に引きずり出される人物に客席は何とも言えない声を立てる。

 だが大半は、きっと曲が終わったら紹介してくれるのだろう、と思うのか、ノリのいいリズムに身体を任せている者も多かった。

 最初のフレーズ。


 ……………


 大気が震える。 

 囁くような声でHALは歌い出す。空間が揺らぐ。頭の中は既に真っ白になっていた。


 ………………

 

 朱明は、走り出していた。

 体中に電流が走ったかと、思った。

 あれは、本体だ。彼には判った。その声が出た瞬間。十年間、ずっと彼が聞きたかった、あの。

 泣き声のような歌声が。


 ………………


「彼よ」


 夏南子は東風に告げる。


「そうだわ。彼よ。あの時、あたし達、彼らのライヴへ行ったのよ」


 ステージ上の朱夏は、目を大きく広げると、コードを一つ間違えた。ある程度リズムを取りながら、土岐に掛けよると、耳打ちをする。


「土岐聞いていたか?」

「知らなかった…」


 だけどそのくらいのことはしてもおかしくはない、と土岐は思っていた。

 サビのメロディが響く。HALは心もち重く感じられる身体を、それでもくるくると回しながら、身体が覚えている曲を一気に声に乗せる。

 あ、と土岐は重心が揺らぐのを感じた。

 やってくる。

 だが布由が二回目のAメロを取った時、それは一瞬静まった。勝手に身体を動かしている観客は、何が起こっているのか、気付かない。

 この声も、FMで、都市中に響いているのだ。


 ………………


 都市の周囲で、社のカメラマンを連れて、音楽専門誌「M・M」の編集長石川キョーコは待機していた。プレスは中に入れない。だから取材陣も、彼らが出てきた時に一斉に取材することを狙っていた。出てくるのは、一か月後にしかならないだろう… 彼らはそう踏んでいた。

 だが彼女は、布由の言ったことが妙に気になっていた。


 …周りを見張っていれば、面白いものが…


「あーっ蚊に食われたぁっ!」

「えーいうるさいっ!」


 その時だった。


 ………………


 同じフレーズを、同じ音で、だけど違う声が一斉に飛び出す。


 Please don't blame it to me !

 

 大気の震え。

 朱夏すら気付くことができる。

 彼女は手を動かしながら、時々まとわりつく何かを払うかのように頭を動かす。


 朱明はあの時、自分の背中を通り過ぎて行ったものの気配を感じていた。全身が総毛立つ。行き過ぎて、そしてまた戻ってくる。まとわりつく。自分をも含めて。


「長官どうしましたか!」


 部下の声が聞こえる。彼は揺らぎそうな身体を何とか支えながら、全速力で、アリーナ席の横を走り抜けた。

 泣き声が絡みつく。絡み付けばいい、と彼は思う。絡んで絡んで、俺を縛り付ければいい!

 目の前の、ステージが次第に揺らいでいく。それが自分の目の錯覚でないことをやがて彼は知る。


 ………………


「地震!」

「違います編集長! 地震じゃないです!」

「じゃ何よこの揺れは!」


 「外」側に待機していた石川キョーコは、叫んだ。都市の周囲を取り囲んでいる、厚い霧が夜目にもはっきりと、動きだしたのだ。

 ゆるり。都市を覆っていた霧は、雲の様に固まって、むくむくと大きくなり、やがてずるりと動き出す。

 それに伴って、周囲にも風が巻き起こる。


「ぎゃあ!」


 キョーコは帽子を慌てて押さえる。カメラマンは吹き飛びそうになった機材に体当たりする。そして二人は車内に飛び込んだ。


「何が起こってるんですか! 編集長!」

「あたしが知る訳ないでしょう! FEWに聞いてよ! FEWに!」


 そうよ、絶対彼に聞かなくては… 彼女はマイクをセットする。カメラマンも、慌ててハンディビデオをセットする。急に呼び出されたので、会社にあったのは、これしかなかったのだ。

 白い霧がうねる。耳が拾えるぎりぎりの低音が、都市の周囲に響き始めていた。


 ………………


 会場は揺れ始めた。会場だけでない。声が響いている都市全体が揺れ始めていた。

 電波塔のスタッフは、慌てた。そして地震だから緊急の処置を取らないと、と激しい揺れの中、スタッフはそこにいた赤の長官、藍地に緊急放送の了解を取ろうとする。


「駄目だ!」


 藍地は叫ぶ。


「少なくとも、会場から電波が伝わって来る限りは、それを流し続けるんだ!」

「で、でも…」


 スタッフは窓の外と、上司の顔色の両方を伺う。


「命令だ!」


 ………………


 朱明はステージに駆け出した。肩で息をついている。体育館の端から端がこんなに長いとは。ずっと忘れていた。

 そして彼は自分の見ているものが信じられなかった。

 ステージ上に、渦が起きていた。

 ステージの上だけに。真ん中だけに。正確に言うと、真ん中で歌っていた二人にだけ。

 それはちょうど、二人の声が一緒に響いた時だった。まとわりついていた「彼女」の気配が、一斉にそこへ集中していくのを彼は感じていたのだ。

 朱明はその方向へ走った。


 間違えては、いけない。


 彼はその方向を必死で感じとろうとする。公安の上着を投げ捨てる。むき出しになった腕に、鳥肌が立つ。


 そうだその方向だ。


 直感を重視せよ。どんな理屈も建て前も、ポリシーも全て飛び越えてしまう、その瞬間を探すんだ。

 彼の目は捕らえた。その渦の中に取り込まれ、目を閉じるHALの姿を。

 朱明は柵を飛び越えた。そしてステージに飛び乗った。

 ステージ上の朱夏と一瞬視線が絡む。彼女はうなづく。

 もう、御免だった。何もできず立ちすくんだままで、その時一番大切なはずのものが目の前で消えていくのを見ているだけなど。


 ここで立ちすくんだら、俺は一生後悔する。


 彼はもうあの夢はもう二度と見たくはなかった。


「そうだ」


 朱夏の唇がそう動いた気がした。


「お前が、連れ戻すんだ」


 朱明は渦の中に飛び込んだ。 


 ………………

 

「あーっ!!!!!」


 石川キョーコは自分がこんな大声を持っていることに始めて気付いた。


「あれ見てーっ! あれーっ!」


 窓の外を指さす。

風がおさまった所には、都市の姿がくっきりと浮かんでいた。霧も雲もかけらもない。クリアな線を見せて、たくさんの建物が、所狭しと立ち並んでいる街が、石川キョーコの目に入った。


「…へ、編集長…」


 カメラマンも語尾が震えている。それでもカメラを固定させているあたりは優秀である。


「あれは… 何ですか! あれは…」


 それでもシャッターを切り続けている。石川キョーコは叫ぶ。


「あれは… あれは『都市』じゃないわ! 十年前に無くなったはずの、あの街よ!」



 声が全て消えた。

 音も消えた。

 静まり返った会場に、声の消えたのを確認したように、地震の緊急放送が流れる。

 土岐はゆっくりとその場から立ち上がった。そして絶望的な表情で、自分の乗っているステージを見る。予想は出来た。だが予想は予想で、現実ではない。だが。

 ふらり、と布由もHALもいなくなったステージを見渡す。

 するとそこに一人の、見覚えのある人物が転がっていた。


「朱明さん?」


 慌てて土岐は近寄る。


「動かすな!」


 途端、朱夏の鋭い声が飛ぶ。二人は気を失っているように見える朱明のそばにかがみ込む。


「どうなっているんだ? 朱夏… 君知っているか?」

「連れ戻しに、行っているのだ、と思う」


 一つ一つの言葉を確かめるかのように朱夏は言った。


「布由は… 布由は仕方がない。彼が行きたがっていたのだから。だがHALは違う。もしかしたら呼び戻せるかもしれない、と私がたき付けた」

「朱夏…」

「生きてはいる。彼の部下にでも運ばせてくれ。…頼む」


 そう言って朱夏はふらり、と立ち上がる。そしてギターのサスペンダーを外して、朱夏は辺りをゆっくりと見渡す。土岐はそんな朱夏を見上げて訊ねる。


「君はどうするの? 朱夏」

「都市は元に戻ったんだ。私は私のしなくてはならないことをしなくてはならない」

「…安岐くんだね?」

「ごめん土岐、私は行かなくてはならない。それが私をここまで運んできたんだ。私の一番大切なものなんだ。だから…」

「安岐を迎えに行くんだね?」


 朱夏はうなづくと、一度、土岐をぎゅっと抱きしめた。

「…私はすごく、何か土岐に言いたいんだ。ものすごく言いたいんだ。だけど何を言っていいのか判らないんだ」

「いいよ、俺は」

「土岐」

「俺にはなぐさめてくれる人はいるから」

 

 ぽんぽん、と土岐はその背中を叩く。そして押し出した。

 朱夏はうなづくと、ステージから飛び降りた。そしてそのまま一気に走りだした。

 スタンドからその様子に気付いた東風と夏南子は、警備員の止める手も振り切って駆け出していた。

 一瞬身体は大丈夫か、と東風も驚いたが、夏南子はそうやわな女ではない。

 朱夏は会場の外へ出ては見たが、一体何処をどうすればいいのか、彼女には見当がつかなかった。と、その時、聞き覚えのあるクラクションの音がした。


「朱夏! 乗れ!」

「東風!」


 夏南子は後部座席に慌てて移る。軽自動車だから、後部のドアを開けて、という訳にはいかない。朱夏は助手席に滑り込む。入ったと同時に、東風はドアを閉めるか閉めないか、といううちにアクセルを踏んだ。


「…何だこりゃ」


 窓から外を見た三人は、一斉にそんな声を上げた。

 ―――街の様子が、変わっていた。

 景色が、変わっていた。

 それまで決して見えなかった、「遠くの高速道路の灯」が見えた。「遠距離列車の灯」が見えた。これで今が昼間だったら、「遠くの山々」や、「きらめく海」も見えるかもしれない。


「…畜生… 一体あの橋は何処へ行ってしまったんだ」


 東風は吠える。もともと無かったはずの橋であり、川である。元に戻った時、それが一体何処に相当するのか、見当がつかなかった。


「…土手だ」


 朱夏はつぶやく。


「東風、土手のある所を行ってくれ!本当の川沿いの、土手だ!」


 この都市を出ようとした時のことが朱夏の記憶回路に浮かび上がった。


「土手」

「あの時のだったら、こっちよ」


 夏南子が後ろからナビゲーションする。


「そこだと思うの? 朱夏」

「判らない。だけどあそこだけは確実に川と橋があった所だと思う」

「行ってみりゃ判るさ」


 東風はそうつぶやくとアクセルを踏んだ。もう迷うことはなかった。



 視界の右半分は、見覚えがある、と夏南子は思った。


「だけど左半分は全く見覚えがないわね」


 川はある。だがそこに橋は無い。

 少なくとも、あの高さと深さを持ったものは。目の前にあるのは、月の光を受けてきらきらと光る、水のある、本物の「川」であり、鉄骨がむき出しになった橋桁を持つ「道路」だった。


「…止めてくれ。見てきたい」


 言われる通りに東風は車を止めた。確かにここだ、と彼も思う。

 朱夏はやや顔を歪めて、耳に手を当てる。指向性を広げているのだろう、と東風は思う。その上で更に感度を高めているのだろう。普段よりずいぶんと神経をつかうはずである。草の陰にいる虫の鳴き声がさぞうるさいだろう。


 と。


 いきなり弾かれたように朱夏は駆け出した。


「朱夏?」


 答もせず、駆けていく。


「判ったのかしら」

「とにかく、行こう」


 二人もまた、朱夏の後を追って行く。土手をすべりおりる。月明かりだけで、足元がおぼつかない。

 夏南子はあまり走らない方がいい状態である自分をもどかしく思う。だから、その代わりに。


「先に行って東風!」


 その代わり、このあたりをゆっくりと探しながら行こう。自分の亭主の背中を見送る。


 …と。


 川のほとりに、誰かが倒れている。男だ。結構大きい。


 まさか安岐…?


 朱夏の耳を疑う訳ではないが、この場に倒れているなら、その可能性だってあるのだ。夏南子はそろりそろりと近付くと、ポケットに入れた、コンサート用のペンライトを倒れている男に近づける。

 夏南子は息を呑んだ。思いきり吸い込んだ息に声を乗せる。


「来てーっ!」 


    

 十七番目の月は、こうこうと地上を照らしていた。色の判別はともかく、形の判別は楽にできるくらいの明るさの光が満ちていた。

 だがそれが目に入った時、朱夏は目をこすった。見間違いなどある訳ないのに、彼女は目をこすった。


「…」


 朱夏は靴を脱ぎ捨てていた。

 ゆっくりと、前方を歩いてくる男の姿が見える。目をこらす。感度を上げる。焦点を合わせる。


「安岐…」


 間違いない。朱夏は声を張り上げる。一番呼びたかった相手の名を、その声に乗せて。


「安岐ーっ!!!!」


 その声に、前を歩く男は、反射的に顔を上げた。朱夏は走り出す。走る。男は立ち止まる。そして大きく手を広げる。

 勢いが良すぎた。飛びついた朱夏は、安岐を押し倒す恰好になってしまった。痛、と安岐の声が朱夏の耳に届いた。


「大丈夫か?」

「…相変わらず乱暴だな」


 くすくす、と安岐は笑う。


「…馬鹿野郎!」


 言い放つと、朱夏は安岐を抱きしめる。


「やっと、会えたね」

「会いたかった。安岐、会いたかった。ずっとずっとずっと、私は、会いたかったんた!」


 …どのくらいそうしていただろう。遅れてきた東風達が近付いてきた。だが二人ではない。三人だ。二人はようやく身体を起こす。


「…誰だろう…」


 朱夏はつぶやく。次第に月明かりだけでも人の顔までもはっきりしてくる。

 東風と夏南子は、一人の大きな男を両脇から支えていた。足を怪我しているらしい。だが、その姿に、安岐は見覚えが…あるような気が…


「…兄貴」


 その言葉を聞いて朱夏は勢いよく安岐を引き起こす。


「安岐か? やけに大きいな」


 相手は目を丸くしていた。

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