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44 案内人が布由の手を取る

 布由は地下鉄の切符を買って、やってきた赤いラインの入った銀色の車両に乗った。

 S線というこの線は、「M-E」の駅からだったら確か、目的の場所まではわりと楽に行けるはずだった。

 彼の記憶の中の車両はもっと綺麗だった。その頃まだ、S線は開業したばかりで、車両のクッション一つ取っても綺麗なもの゛だった。だが、十年という月日は、新品だった車両も年季の入ったものに変えた。

 当時と交通事情が変わったせいか、本線であるH線に比べ、乗る人が少ない車両だったが、現在ではよく使われているらしい。

 だが、夜遅いこの時間では、まるで一つの車両を貸し切りにしているようだった。

 どうして自分はそこへ向かっているのだろう、と布由は思う。

 行け、と言われはした。だが「何処へ」とは言われていない。

 布由はこの都市へ入った瞬間から、何かに呼ばれているような気がしていた。夢の続きだろうか、とも感じられたが、それともやや違う感触だった。どちらかというと、それは昔この都市に居たときに自分を包むそれによく似ていた。

 だから、ノックの音がした時、そのドアの向こうに居た相手に疑問は持たなかった。


「お前が呼んだのか?」


 彼は訊ねた。部屋に入れた相手は黙って首を横に振った。

 不思議な位自分がその時冷静だったことに、布由は驚いていた。

 目の前にいる彼は、夢の中ではなく、現実の、実体だというのに、十年前と同じ姿をしている。なのにそれを、平気でそのまま受けとめている自分がいる。それがひどく不思議だった。

 短い髪をしたHALは、今までで一番朱夏と似ていた。


「声が聞こえるの?」


 曖昧な笑いを浮かべて彼は布由に訊ねた。


「聞こえる」

「本当にあの声が聞こえるの?」

「聞こえるんだ」

「だったら行けばいい」


 HALは言った。彼はそれが何の声であるかは言わなかった。そして彼は空間に大きく四角を描いた。

 そこには夜の光景が広がっていた。見覚えのあるようで、やや記憶とは異なった風景だった。そしてそこへ彼は布由を押し出した。


「声の聞こえる方へ行くんだ」


 そう言い残して。

 転がり出たのは、「M-E」の地下鉄の入り口の前だった。

 白い蛍光灯の光の中、地下鉄の線名が書かれていた。H線は黄色、S線には赤。

 彼は赤の線を選んだ。  

 人がいない分だけ、走る地下鉄の音は騒がしい。反響音だけでなく、風の音までも耳にごうごうと入ってくる。

 だがそんな、間近で話す人の声が聞こえない程の騒々しさの中でも、それは聞こえるのだ。

 自分を呼ぶ声が。

 一度乗り換えて、降りるべき駅だ、と思ったから布由は降りた。

 地下鉄の出口を出ると、すぐ彼の目に入ったのは、片道四車線の広い道路と、街灯に青く透ける木々だった。

 耳を澄ます。もちろん耳で聞こえている訳ではないのは布由も判る。だが「聞こえる」と思ってしまうものには、やはりそこに神経が届く。


 …こっちだ。


 彼はゆっくりと足を進めた。

 やがて、足元の感触がややざりざりと不安定なものに変わる。アスファルトではなく、細かな砂利道になっていた。

 木々の隙間から堀の水が光るのが見える。彼は自分が居るのが昔から馴染み深い「お城の公園」であることに気がついた。

 記憶の通りに彼は歩く。入り口にたどり着く。もちろんそれは閉じられている。だが呼ぶ声はその中からする。確かにする。…迷わず布由は囲いを乗り越えた。

 だがそこからまだ目的の建造物までは長いことを、彼はよく知っている。昔はよくやってきた。この公園の中の野外ステージでイヴェントに参加したこともある。

 だから彼は走りはしなかった。やってきた道同様、この敷地内は細かい砂利道が多い。そこを走ると足を取られ、体力を無駄に消耗するだけだ。

 やがて街灯もない所へ自分が出てしまったことに布由は気付いた。

 目をこらす。満月の夜だから何とか物の形程度は見える。目を慣らしてから、方向を確かめる。


 …あの中だ。


 うっそうとした木々の向こう側に、目的の建築物があるのが判る。そこから真っ直ぐ目的地まで続いた道は無かった。だが回り道を探している時間が惜しかった。

 彼は前も見えない程の木々の間に分け行った。

 足に当たる地面は、ひどく頼りない。草ばかりを踏んでいるらしく、青臭い匂いが辺りにぱっと広がる。時々木の枝が引っかかる。何かの拍子でぴっ、と彼の顔や腕をひっかく。

 そしてようやく抜け出した。

 それまで踏んでいたものよりはやや大きめの、玉砂利の広場の真ん中に、その建造物は立っていた。月明かりに浮かび上がるその姿は、昼間の光の中での陳腐さとは逆に、威圧感まで起こさせる。

ふらふら、と布由は入り口を探した。声はその中から聞こえるような気がした。彼は石垣に手を当てて、迷路で出口を確実に探す時のように歩き続けた。


 何処だ?


 何となく彼は心の中で呼びかける。


 と。


 月明かりに白く浮かぶはずの石垣の一角に黒い四角が浮かんでいた。石垣の積み具合からいって、そこに扉がついている訳がない。穴が空いている訳でもない。

 切りとられている?布由の頭に先ほどホテルの中で、HALが描いた四角形が浮かび上がる。

 近付いて、そろそろと彼は手を伸ばす。軽く当ててみるだけのつもりだった。だが。

 ぐっ、と何が彼の手を引っ張った。

 はっと気が付いてもその時は遅かった。夜の暗さは昼間より平衡感覚を失わせる。くらり、と布由はその中へ引きずり込まれていた。


「…起きてくれないか」


 聞き覚えのない声がした。誰かが自分を揺さぶっている。目を開けるが、何も見えない。ただ闇だった。


「…起きてくれよ」


 再び声がする。誰かの気配がする。あの呼んでいる声とは別だったが。

 布由は声の方向へ身体を向ける。相変わらず何も見えない。だが気配はある。


「…誰だ? 誰が居る?」


 するとその「誰か」ははっきりとした言葉を彼に投げた。


「俺は案内人だよ」

「案内人?」

「そう。ただの案内人。HALに頼まれた」

「案内人…」

「彼は彼でしなくてはならないことがあるから、俺が手伝っているんだ」


 そして布由は手首を掴まれた。だがその感触は、人のものには感じられない。あの人間の手特有の、ざらざらとした感触が無いのだ。

 とは言え、声だけの案内人ではないらしい。

 立って、と声がする。

 言われるままに布由は立ち上がる。人間であろうとなかろうと、手を引かれる気配がする。そしてそのまま彼は歩きだした。

 何も見えない。そのせいか、時々足がふらつく。


「大丈夫?」


 案内人は時々止まっては、布由の様子を伺う。


「大丈夫。それより案内人、お前、HALを知っているのか?」

「知ってるよ」


 案内人は即答する。


「知ってるよ。ただ彼がこの空間でこうやって使えるのが、今は俺しかいない、と言うから手伝ってやってるだけで、本来こういう所に縁がないはずなんだけどなあ」


 やけに陽気な声である。


「何も見えない」

「もうじき見えてくるはずだ。ここは、全てが見えるけれど、本当の音は何も聞こえないところだ」

「聞こえない」

「でもあんたには聞こえるはずだ。あんたはここに来る理由がある。あんたは『彼女』に呼ばれているから」

「『彼女』」

「あんたを呼んだ… 今も、ずっと呼んでいる相手だ」

「それは俺がそう思っている相手か?」

「俺はあんたじゃないから、そこまでは判らない。俺はただ今この空間で、現実に起きていることを言っているだけだよ」


 それはそうだ、と布由は思う。 

 そしてしばらくは何も話さずに歩き続けた。どのくらい経ったのだろう?ふと布由は、自分の手首を掴むものの感触が、霧の日の、密度の濃い大気をまとっていることに気付いた。


「ここはもしかして…」


 だが案内人はそんな彼の言葉は聞いていないかのだった。前を指す気配がする。


「ほら、見えてきた」


 そのまままっすぐ前を見てくれ、との案内人の声に、布由は言われるままに顔を上げた。ゆっくりと、何かが自分の視界の中で形を取り始める。


「あとは真っ直ぐ行けばいい」


 だが案内人の姿は見えなかった。そしてそのまま案内人が遠ざかって行きそうな気配があったので、布由は慌てた。


「ちょっと待ってくれ…」

「何?」

「俺はここから元の所へ帰れるのか?」

「さてそれはどうかな」


 口調が真剣になる。


「それはあんた次第だ布由。あんたが『彼女』を口説き落とせるかによるんだよ」

「…お前は…」


 自分を知っている、この男は。


「別に言葉を作れとかそういうんじゃないさ。あんたが本当に思っていることを言えばいい。本当のことだよ。自分についている嘘をとっぱらったあとの」

「…お前は誰だ?」

「俺のことなら、あんたは俺の彼女から聞いてるはずだよ」


 くすくす、と笑う声が聞こえる。


「俺のハンカチ、彼女に渡してやった? ちょっとくたびれていたけれど、彼女には判ったでしょ?」

「安岐…?」


 布由の脳裏に、あのぽろぽろと涙を流す朱夏の姿が浮かんだ。


「元気なんだよね? 朱夏」

「安岐なんだな?」

「俺の命運だって布由さん、あんたにかかってるんだからねっ」


 じゃあまた、と彼は言って、気配を消した。

 しばらく布由はその場に立ちすくんでいた。するとやがて辺りの姿がはっきりと見えてくる。どこにも光源はない。だがその空間――― 部屋に見えた――― は暗い光に満ちている。

 その真ん中に、ガラスのショウケースがあった。

 口説き落とせ、と安岐は言った。布由は視線を目的物へと移す。真っ直ぐ行けばいい、と言っていた。

 そうするしかないな、と布由も思った。

 歩き出す。彼はやがてその光の正体が判るような気がした。


 月の光だ。


 彼は確信する。

 やがて自分の手が見えてくる。腕の、服のラインが見えてくる。


 やっぱり俺はここに居るのか。


 闇の中に居ると、時々自分が本当にそこにいるのか、確信が持てなくなる。たとえ自分で自分の手を掴んだとしても、それが本当の出来事であるかどうかを確信が持てない。


 誰かが自分の頭に偽の情報を送り込んでいるのではないか?

 自分の手に触れている手にも、触れられている手にも、実は違うものが触れているのではないか?


 そんな考えを起こしてしまいそうになる。だがほんの少しでも光があれば、その考えは軽い笑いと共に霧散する。

 そして彼の歩みと比例して、対象物は大きくなってくる。近付いてくる。

 近付く。

 確かにそうだった。近付くまでは、中に入っているものは見えなかった。この暗い光では中のアウトライン程度しか判らない。

 だがそれが何だか、布由は自分は知っている、と思った。

 布由はゆっくりとその上に手をかざす。そうすればいいのだ、と彼は何故か思った。

 するとショウケースはするすると左右に開いた。

 思った通りだった。

 十年前の、あの時のままの姿が、目の前に横たわっていた。それは先刻自分に会った者とは似て否なるものだった。

 そして、その中身が何であるかも、彼は知っていた。

 彼はショウケースの前にひざをつく。そしてひじをケースの端にかける。


「目を覚ませよ」


 布由は自分を呼んだものに呼びかける。


「それとも俺は遅すぎたか? そんなはずはないだろう?」


 返事はない。

 それが何だったか、布由は夢の中のHALに聞いた気がする。ただし、その夢は、あいまいなもので、他の雑多な記憶に埋もれ易いものだったが。


―――「…都市?」

―――「そう。都市。あの都市なんだ」


 その答えはひどく抽象的なような気がした。


―――「でもずいぶんあの時は俺に即物的にぶち当たってきたような気がするが」


 HALはこう言っていた。


―――「…あれは俺というフィルターを通したからだよ」

―――「お前というフィルター?」

―――「お前がどう思っているか知らないけれど、俺は即物的な奴だから、『彼女』も俺のボキャブラリィを使ったに過ぎないんだ」

―――「ふーん…」


 「彼女」ね。確かにそうだった。確かにあの時の、あの気配は女性的なものだった。いくらHALの皮をかぶっていたとしても、あの中身は、女性の気配があった。

 HALは言った。もう一度この都市を戻すには、一度彼女を起こさなくてはならない、と。布由が起こせばその時本体を止めた時間が動き出す、と。

 音を出すのはそれからなんだ、と。


 どうしたものかな。


 口説き落とせ、と安岐は言った。自分の本当の気持ちを言え、と。嘘いつわりのない本当の気持ち。


 本当の気持ち、ね。


 布由は苦笑する。それが何だか、あの時のことを思い出す時点まで、ずっと気付かなかった。少なくとも頭は思い出してなかった。だけど身体は気付いていたのだ。


   *


「どうしてあんたは一人の人に決まらないんでしょうねえ」


 土岐は自分の結婚式の日、布由にそう言った。


「知るかよ」

「だってそうじゃないですか。俺、こないだのあの人とあんたは結婚すると思ってたんですよ」


 仲間うちだけのパーティ。何やらしみじみと自分達も歳をくってしまったんだな、と挨拶回りを終えた土岐が相棒のもとへ避難してきたところだった。


「仕方ないじゃないか。あいつの方が出ていったんだ」

「…残念ですね。あんたの方がよっぽど年上なのに」

「歳とは関係ないさ」


 だが、何でだろうね、と布由はそう言うしかなかった。

 判らないのだ。何故そうなのか。自分と気が合う女性は居た。自分を心から愛してくれる女性も居た。その中には自分も、心から愛していると思ったひとも居た。

 だが。

 必ず、その関係には終わりがあったのだ。


「『あなたは最初から別れることを知っていたのよ』か」

「何ですかそりゃ」

「あいつがさ、出てく少し前に俺に言ったこと」

「ドラマじゃあるまいし。格好つけすぎですよ」


 そうかもな、と布由は笑った。そして近くにあった冷たいシャンパンに口をつけた。


「でも、確かにそうかもしれませんね」 

「何が?」

「彼女の言ったそれ」

「何、そう見える? 俺は」

「何となく。俺、彼女とあんたがいいお爺さんお婆さんになった図って想像できませんもん」

「…俺だって、お前のじーさん姿は浮かばねえよ」


 軽口を返す。だが確かにそうだった。

 浮かばない。それどころか、自分が歳をとるということに実感は全くなかった。相棒のその図は、こうなってみると、意外によく判る。パートナーが居て、子供が居て、その子供が大きくなって…想像がつく。

 だが自分に関しては、その図が全く浮かばない。見事なまでにもその未来は自分には無かった。

 何故だろう、と思った。誰かと別れる度にそう思った。


 何がいけないのだろう?

 自分には何かが欠けているのではないか?

 欠けているのだろう…


 だがそうではなかった。


「いきなり飛び出してごめんなさい。だけど私はそうせずにはいられませんでした」


 別れた彼女から手紙が来る。


「はっきり言えば、今でもあなたのことは好きです。別に他の誰かに心変わりしたとかそういうことではないのです。だけど、あなたと居るのが私にはひどく辛いのです。

 あなたは決して優しい人ではないです。時には私にはひどいと思ってしまうことも度々ありました。確かにあなたは私に手を上げたことなどないですけど、けれどあなたは自分勝手でした。

 おそらく私に、そんなあなたを無理矢理にでも止める程の我侭さがあれば良かったのですね。そうすれば私とあなたはひどく対立しながらもきっと上手くやっていけたのでしょう」


 何て勝手な言いぐさだろう、とその頃の布由は思う。自分の勝手さは棚に上げて。


「それでも私があなたを好きだったのは、それでもあなたが私のことを振り回す程に好きで居るように見せてくれたからです」


 見せていた?


「あなたは私を好きな訳ではなかったと思います」


 そんな訳はない、と彼は思う。


「私はあなたの思うような女ではありません」


 そんなこと誰が判るって言うんだ?


「あなたはきっと私が変なことを言っていると思っていると思います」


 それはそうだ。


「でもそれは本当です。違うと思うなら勝手に思って下さい。そしてあなたがまだそれに気付いていないのなら、同じことを繰り返してください。あなたは、誰かを私に見ていました」


 …え?


「それが何処の誰だ、とかそういうことを言うのではないです。ただ、あなたは私以外の誰かを見ていた。捜していた。そのはずです。少なくとも私にはそう感じました。でも私はそのあなたの『誰か』程には、あなたを独占しようとも縛り付けて動けなくしたいだの、そこまで思うことはできないのです」


 布由はそこまで読んで手紙を破り捨てた。

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