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42 BB、「都市」に帰還するが、布由が消える

 黙々と、作業は続く。東風は「工房」に泊まり込む日々が続いていた。

 「家族」なら面会に来ることも出来るので、夏南子はちょくちょく彼に会いに来ていた。そして週末だけはさすがに藍地も彼に休みをくれた。


「変な仕事よね」


 夏南子は言った。

 彼の部屋に越してきた彼女は、話を聞くたびにそう感想を述べた。帰るたびに、少しづつ彼女の体型が変わってきていることに彼は気付いていた。ひどく不思議な気分だった。


「何じろじろ見てるのよ」


 彼女はそんな視線を感じるたびにやや照れくさそうに言うのだが。

 作業が始まってから一か月半が過ぎていた。約束の期限の半分である。

 作業自体は順調だった。細かい作業だから神経を使う。だが時間が経つにつれて、それも慣れてくるものである。

 毎日毎日この顔を見ていると、朱夏をチューニングした時のことを思い出す。

 そしてそれだけではない。何か、自分の中で鍵をかけられたままになっている箱が開きかけているような、そんな感じがするのだ。

 今回の雇用者である「赤の長官」の藍地は、現在自分がチューニングし直しているものについては、容れ物なんだ、と説明した以外、何も言わなかった。

 さすがに彼も訊いた。それは作業に必要なような気がしたのだ。

 だが赤の長官は、それ以上は言わなかった。作業には問題ないよ、とやや申し訳なさそうな顔で笑っただけだった。

 そんな顔をされてしまうと、東風もそれ以上聞けなかった。


 だけど。


 彼は思う。


 容れ物、と言った。

 では容れ物が一つも容れ物で無くなってしまったら中身はどうするんだろう?。



「ほら見てよ安岐」


 噴水のへりに座ったHALは別の映像を映し出す。噴水はあの時間のまま、ライトアップされて美しい。

 時間の流れは、この空間と現実の空間では違っている。外の空間が一ヶ月半経とうが、安岐の実感としては、一週間くらいしか経っていない。

 しかも肉体的時間は全く経っていないのだから妙なものである。疲れもしない、空腹にもならない、眠くもならない。

 するとさすがに彼も退屈にはなってくる。仕方がないから、時々気紛れにやってくるHALの映し出す現在の光景を彼は一緒に見ていた。


「今これは朱夏を通して見てるBBのライヴ…」

「明るい」


 目がくらみそうな、光の中。


「ステージの上だよ。これは」


 ステージの上。そう言えば自分が最初に彼女に会った時、彼女はギターを弾いていた、と安岐は思う。。


「これは俺も考えもしなかったな。朱夏がギタリストか…」

「でも歌うより朱夏には似合うよ」

「そう? 確かに一番最初は俺もギタリストだったけど」

「そお? でもHALさんは歌う人だったんだろ? ねえ、何か残念だな」

「何?」

「俺は、要するに、十年前のあの時、あんたのライヴを半分も見ていないんだろ?」

「そうだね」


 くすくすと彼は笑う。


「でももうずっと昔のことだよ」

「でもさ、何かさ、やりかかったことが途中で終わらされるのって、気持ちよくないし」

「…そうだね。そう言えば、ずっと歌っていないな」


 だろうな、と安岐は思う。どんなこともこの都市では許される彼も、それだけはできなかったのだから。


「そうだな… 確かに」

「無くしたら生きてくのが辛いほどのことなんでしょ?」


 そう、と彼はうなづく。


「あれは、俺の… いろいろ心の中でわだかまっていることとか、何か上手くいかないこととか、そういうのを上手く空へ放ってやるいい方法だったんだ。でも、どうなんだろ」

「ん?」

「今の俺は、自分が昔どんなことを考えて、どうやって歌っていたのか、うまく思い出せない」

「思い出す程のことかな」

「え?」

「たぶんHALさん、それはあんたの身体じゃないからかもしれないね。あんたの身体はそれを知ってると思う」

「でも安岐、それじゃ絶対駄目だよ」

「俺は、あきらめるの嫌いなの」


 安岐はすっぱりと言う。


「HALさんは、あきらめが良すぎるよ」

「安岐がしつこいだけじゃない?」

「確かに俺はそうかもしれないけれど、それでもHALさんは特にひどいよ」

「…そこまで言う?」

「言うよ」


 安岐は止めない。


「だって言うのが俺の役目だと、俺思ってるもの」

「言うだけならたやすいよ」

「でも誰かがあんたに言ったことがあった?」


 いいや、と彼は首を横に振る。


「何か、言い辛かったらしいけど」

「じゃあ俺って結構貴重でしょ」


 全くこの子供さんは、とHALは安岐の頭をこづいた。



「アンコール曲にこれ…?」


 サポート・ドラマーは奇妙な表情をして譜面を受け取った。


「できない?」

「FEWそれ、俺に言ってるのか?」


 くっ、とサポート・ドラマー氏は笑う。できない訳ないのだ、この職人は。

 だが渡された譜面の正体が、長年の職人ドラマーの表情を変え、やや困惑させる。


「…しっかしあの人は変わったベース弾いてたんだなあ…」


 土岐ははあ、とため息をつく。


「こんな歌ってるベースなんて滅多にないですよ」

「当時だってなかったし、今だってないよな。ギターはどうだ? 朱夏」

「まあ別に何とかなるとは思うが」


 彼のコピーでなくていいのか、と朱夏は付け足して、本来のサポート・ギタリストの方を向いた。


「それに布由、全然お前の声と曲とは合ってないと思うぞ」

「当然」


 ぬけぬけとそう言う。

 BB及びサポート・メンバーの手に渡ったのは、「あのバンド」の曲だった。お遊びでやるにはシビアだ、という意見もなくもなかった。

 だがそれが必要なのだ、と布由は思う。

 その曲は、彼らの曲の中でも、さほど重要な位置にあるとは思えないし、当時、人気投票をしていたとしても、さほど上位に食い込むとは思えない。

 だが、その曲を彼が実に気持ち良さそうに歌っていたのを布由は思いだしたのだ。

 もちろん他にも気持ちよく歌える曲はあっただろう。だが、そうなってくると、自分達では全く演奏できない類になってしまうのだ。その曲はぎりぎりの線だった。


 ツアーが始まってしばらく見なかった夢を見たのだ。

 夢の中の彼は、やはり何かを言っているのに、うまく伝わらない。受け取る自分の疲れか、眠りが浅いのか、そのへんははっきりしない。ただ、昨夜の夢は、一言だけ、ひどくクリアに伝わってきたのだ。


「歌いたいんだ」


 真っ直ぐに、自分を見据えてそう言ったのだ。



 そして満月の夜がやってきた。


 夕方から都市周辺で待機していた車が、ゆっくりと開かれる道を進んでいく。

 雨が降らなくてよかった、と布由は思う。

 正確なスタッフ数は二十八人だった。同数の公安の職員がずらりと内側では待機している。彼らはこのツアー・メンバーと入れ替わりに「外」へ出る役目を負わされている。

 BBの二人とサポートメンバーは、普通車とワゴン車に分かれて乗り込んでいた。橋の上で人数を確認されて、同時に同数の職員が外へと送り出される。

 布由は窓から橋の下をのぞき込む。白い霧がどんな時にもかかっているそこは、どれだけの高さがあるのか判らない。


「これが朱夏の言っていた『川』?」

「そうだ」


 簡潔に朱夏は答える。


「…次元の境?」

「らしいな」


 布由はそれを奇妙な光景だ、と思った。

 確かにそうなのだ。

 水の一滴も見える訳でもない。それでも橋が掛かって霧がかかっていれば「川」なのだ。

 そう言われても確かに違和感はない。

 確認と交代を終えた車は、ゆっくりと橋の向こう側へたどり着く。誘導員が赤い棒ランプを上下に振る。

 どうやら指定の駐車場があるらしい。車を運転する土岐は誘導員に手を挙げて合図すると、指示されて方向へ曲がった。

 しばらく進むと、同じように赤いランプを振っているのが見えた。ゆっくりとその方向へ進むと、やがて広い場所が出た。

 コンクリート作りの倉庫が立ち並ぶ、その前のアスファルトの広場には蛍光塗料でラインが書かれている。

 赤ランプが左右に開く。止まれ、と誘導員は指示を告げる。そして止まった彼らの車に近付いた。


「…番の位置に止めて下さい。そうしたら向こうの車に乗り換えて下さい」


 どうやらこの都市では車を自由に乗り回す訳にはいかないようだ、と布由は思った。彼らが乗っているのは小型車ではない。

 言われるままに、その車の中に居た布由と土岐と朱夏は、指定の車に向かった。そこにあったのはごくごくありふれたマイクロバスだった。

 マイクロバスには既にスタッフやサポートメンバー、マネージャーの大隅嬢らが乗り込んでいた。彼ら三人が最後らしかった。少しでも都市内で動く車の量は減らしたいという当局の意向が布由には見えるようだった。


「…」

「どうしました?」


 いきなり窓の外に視線を飛ばした布由に土岐は声をかける。


「…何か、聞こえないか?」

「…別に俺には」

「そうか」


 人員の確認が済むと、すぐ車は出発した。


「宿泊先へそのまま向かわせていただきます」


 一緒に乗り込んでいた公安の職員がバスガイドよろしくそう案内した。


「そして、そこであなた方と我々の代表と会っていただきます」


 布由は身体を固くする。



 宿泊先とされたのは「M-E」にある、都市内で最も大きなホテルだった。

 「都市」が閉じるか閉じないか、という程度の時期に完成したホテルは、当時、ステーションホテルとしては全国一の高さと規模をうたわれていた。だが現在、その大半が使われていない。


「現在はホテルは数が多くはありません」


 支配人らしい男は説明した。

 ホテルというのは、外部の人間が理由はどうあれ宿泊するのが基本だ。外部の人間が殆ど入って来られない現実に、ホテル業界は、別の職種への変更を迫られるか、単純に閉鎖されるか、そのどちらかの道を選ばなくてはならなかった。

 あの時点でこの「都市」に取り残された外部の人間の宿泊所となったものが大半であるが、ほんの一握りはそれでも生き残った。

 もと「駅前」。最も新しく、大きく、豪華なホテルであったこの建物は、その生き残ったものの一つである。

 実際これをただの宿泊所にしてしまうのは確かに惜しかったに違いない、と入り口を一歩入った布由は思った。

 赤のじゅうたんがほこり一つなく整えられている。高い天井から吊り下げられているシャンデリアは、柔らかな、さほど明るくない光を辺りに振りまいている。今でもきちんと磨かれているらしい。ほこりが積もっている気配はない。

 場違いだな、と布由は苦笑する。

 自分達はこの場所にふさわしい格好ではない。何しろ自分達は、何だかんだ言ったって、ただのロック・ミュージシャンなのだ。


「似合わねえよな、全く」


 布由は横の土岐に囁く。


「全くですね」


 あっさりしたコットンのシャツにパンツの土岐もうなづいた。



 スタッフ総勢二十八人は、それぞれ個室ないしはツイン・ルームに振り分けられた。BBの二人とサポートメンバー、事務所社長と大隅嬢には個室が与えられた。

 だが個室となると暇になる。入ってすぐに用意された夕食をとったら、後はすることがない。そんな訳で、朱夏は同じフロアにある土岐の所へ出向いた。

 朱夏は相変わらず、自由な行動は取れなかった。それはこのツアー中も同じである。

 それは、「規則」を植え付けられていないレプリカントである朱夏を守るという意味もあった。何が原因で、彼女の正体が判ってしまうともしれない。

 どんどんどん、と勢いよくドアを叩くと、土岐はひょい、と顔をのぞかせた。


「土岐…」

「おや朱夏。どうしたの?」

「暇だ。楽器はまだ輸送トラックの方だし、別に他の人達のように出かけられる訳でもないし」

「ああそうだね。どうしようかな… でももうじき、『こちらの代表』と会わなくちゃならないんだ。君も必要らしいし… 遠出はできないし」 


 どうしたものかな、と土岐も考える。これが自分一人だけだったら、TVを見たり、手持ちの本を読んだり、映画のチャンネルでも眺めていればいいのだが、彼女が入るとそうもいかない。

 結局、二人して隣の布由の所へ出向いて行った。

 オートロックなので、ノックをし、呼びかけてみる。


「布由さーん」


 返事がない。


「…留守かな?」


 すると朱夏は耳を澄ませる。


「そんなはずはない。人のいる音は聞こえるぞ」

「聞こえるの?」

「私の耳は、指向性を絞ればかなり小さな音まで捕らえることができる。普段は広げているからそうでもないんだが」


 それならば、と今度は土岐も声を張り上げる。ドアを勢いよく叩く。


「布由さん居るんでしょう?」


 ふっと朱夏の表情が動いた。


「土岐… もう一人居る」

「え?」

「ちょっとどいてろ」


 朱夏は土岐をドアのそばから除けると、少しドアの前から離れた。そして助走をつけると、右の肩から勢いよく体当たりした。

 ごとん、と金属の落ちる音がして、ドアが開いた。


「布由さん!」

「…!」


 ドアのノブが落ちる。向こう側が見える。だが、そこには誰もいなかった。


「居ないな」

「誰か居るなんて、朱夏、聞き間違いじゃないのか?」


 落ちたノブと朱夏を交互に見ながら、土岐はやや困った顔になる。


「そんな筈はない。私は聞き間違えない。確かに別の個体が動いている音がしたんだ」

「別の個体」


 妙に、その言い方が気になった。そう言われると、何やらゴキブリか何かが動いているようなイメージが土岐には浮かぶのだ。


「…おい、うるさいな… ちょっと待て、どうしたんだこのドア…」


 騒ぎに出てきた社長は壊れたドアの鍵に驚く。


「済まない、社長、私だ」


 そう言って朱夏はぺこん、と頭を下げる。


「朱夏? そんな馬鹿な」

「あ、あの社長、理由は後で説明します。それより布由さん知りませんか?」

「布由? いや… だが先刻隣の部屋から電話の音とドアの開く音は聞こえたが」


 誰かに呼ばれたんだ。土岐と朱夏は顔を見合わせる。土岐は慌ててその場から駆け出した。それを朱夏も追う。


「何処へ行く気だ土岐!」

「フロントへ。何処から電話がかかってきたか聞かなくては」


 彼らのフロアは、宿泊フロアの最上階にあった。真ん中のフロアは殆ど閉鎖されている。

 迷うことなく土岐と朱夏はエレベーターに駆け込む。下の階からやってきたエレベーターには既に人が居た。降りることなく、その先客は、ボタンに手を掛け、こう言った。


「何階へ行きます?」

「…フロントは… 一階?」

「一階。でも布由は外だよ」


 くるり、と先客は二人に向きなおる。

 土岐は全身の血が真下に落ちていくような感覚を覚えた。それが降りていくエレベーターのせいなのか、それとも。


「…何で居るんだHAL、ここに!」


 朱夏が勢い良く叫ぶ。

 土岐は目の前に居る人物の姿自体が信じられない。何せ、それは彼が十年前に最後に見た彼の姿と同じだったのだから。

 違うと言えば髪の長さくらいだった。にっこりと笑いながら帽子を取ったそ髪は、朱夏と同じくらいに短くなっていた。


「どうしてかなあ」


 そんな土岐の様子には気にもかけない様子で、のんびりとHALは答える。


「それに土岐には土岐で会ってほしい人達が居るし」


 彼は「5」のボタンを押す。それはホテルとして使用していないはずのフロアの数字だった。

 ドアの上の数字が次第に点滅しながらずれていく。やがて足の裏から突き上げるような感触がし… 五階でエレベーターは止まった。

 HALは五階の一室に二人を案内した。特別な所ではない。ごくごくありふれた三人用の部屋である。

 ノックもせずに彼はドアを開けた。途端、中に居た人物の視線が一斉にこちらを向く。


「よお、久しぶり」


 だるそうな低い声が、土岐の耳に届いた。

 間接照明の、さほど明るくない室内に、見覚えのある人物が揃っていた。

 予想していた公安の制服ではなく、やってきた自分達に負けず劣らずの、思い思いの恰好をした、かつての好敵手達が、そこには居た。

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