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39 BBはツアーファイナルを「都市」で行うことにする

 目が醒めた時、布由は自分が何処にいるのかすぐには判らなかった。

 だが隣のベッドで思い思いの格好で寝ている二匹の犬っころ達を見たら、事態は理解できた。

 身体の端々が何故か鈍く痛い。まるで何処か遠くまで行ってきたかのようだった。首を回すとぽきぽきと小気味いい音がした。

 ふと、身体に何か固いものが触れているのに気がつく。何だ、と探ってみると、そこには、サモンピンクのシングルCDがあった。


 ああ、そうか…


 彼はそれをしばらく眺めると、自分の眠っていたベッドをざっと見渡す。見覚えの無いハンカチが一枚、やや丸まったまま置かれていた。

 裸足のまま窓まで寄ると、布由はさっとカーテンを引いた。ん、と犬っころ達のどちらかの声が聞こえた。


「…あ、布由さん起きたんですか…」


 もともと大きくはないが、それがほとんど開いてないような目でぼんやりと土岐は光の中に立つ布由を見る。

 彼もまた、何度か首をまわし、大きく伸びをする。朱夏と適当に話しているうちに眠ってしまったらしい。やや無理のある体勢だっただけに、彼もまた、身体の所々が痛かった。

 ぽんぽん、と朱夏を背を軽く叩くと、こちらは条件反射的に目をぱっちりと開けた。大きな目は何の戸惑いもなく全開になる。


「朝か? 土岐」

「朝だよ」


 そして辺りを見回す。習性なのだろうな、と布由は思う。


「布由もう大丈夫なのか? 何処か気持ち悪いところはないか?」

「…ああ、大丈夫だ。よく眠ったな…」

「何時? 朱夏」


 朱夏はちらり、とベッドサイドのデジタル時計を見る。


「八時半だ」

「…本当に『朝』だなあ…」


 普段はその時間にはまず目を覚まさない二人は顔を見合わせて苦笑いする。


「十時にはあの女が来るがどうするんだ? 布由」

「大隅?」

「お前達このままスタジオへ行くんだろう? 今日はお前達と一緒に行けばいいのか? 私は」

「そうだな」


 布由はやや考え込む。


「…そう。一緒に来てくれ。今日は朱夏にも頼みたいことがあるんだ」

「布由さん?」


 布由の言葉に驚いたのは土岐の方だった。彼はそんな相棒には構わずに続ける。


「朱夏、あの都市の内部については、お前よく知っているんだろう?」


 ああもちろんだ、と朱夏はうなづく。


「じゃあ俺に、それに俺達のスタッフに教えてやってくれ。とにかくまず俺達には情報が足りない」

「布由さん!」


 それじゃ、と土岐は腰を浮かす。   


「ああ。ツアー、やるぞ」

「ツアー…」

「全国ツアーだ。レコーディングを予定より急いで終わらせよう。今仕上がっている曲だけでもいい。何曲出そろっている?」

「予定は全部で十二曲でしたよね」


 土岐は指を折って数え出す。


「…トラックダウンが終わっているのが三曲。レコーディング自体が終わっているのが二曲。歌録りが終わっていないだけのが三曲。残りはドラムだけ入ってるんでしたっけ」


 問題は五曲か、とすぐに布由も反応する。


「じゃあ俺は一気に自分の分は何とかする。お前も自分の分は何とかしてくれ」

「判りました」


 もちろんその言葉の中に、クオリティを落としても、という仮定は入ってしない。自分の全力を出してかつ急げ、と言っているのだ。


「インディの頃は、一日に七曲歌を録ったこともあった」


 ああそんなこともありましたね、と土岐は笑う。


「でもまあ、あの頃より格段に機材も揃ってますしね」


 その頃よりずっと自分達の耳も判定基準も質が上がっているののだが。


「とにかくなるべく早く出なくてはな… 北からでも南からでもいい。…ラストは…」

「あの都市なんだな」


 朱夏の言葉に布由はうなづいた。


「最後のツアーになるかもしれないけれどな」

「知ってましたよ」


 苦笑しながら土岐は言う。

 彼もまた、知っていた。気付いていた。

 気付いていたからこそ、問われるまで、布由が忘れていたことを指摘しなかったのだ。

 その時が来るのは少しでも向こうであって欲しかった。

 それが最後だ、と土岐は知っていた気がする。

 でも朱夏が来てしまった。記憶の封印は解けた。もう隠せない。彼が何を自分の中で封じておきたかったのか、何をすべきなのか。


「きっと皆びっくりしますよ」


 やや泣きたいような気持ちにはなる。だけど泣く暇はなさそうだ。


「当然だ」


 布由は言い放った。そして朱夏の方へ向き直ると、にやりと笑って歌うように言った。


「朱夏手を出して」


 何ごとだ、と言いたげに彼女は首をかしげる。だが言われるままに手を出す。

 布由はその手にぽん、とCDシングルとハンカチを乗せた。朱夏をそれを見るとはっと顔を上げた。


「見覚えある?」

「安岐の… 何で、どうして、布由!」

「HALからの伝言。安岐は大丈夫だって」

「…」


 両手で、ハンカチをぎゅっと握りしめる。


「だから、帰っておいでって。待ってるからって」

「布由…」

「帰ろうな朱夏、あの都市へ」


 ぽろぽろぽろ、と朱夏の目から涙がこぼれた。思わずおろおろとしてしまったのは、布由の方であったことは言うまでもない。


 そしてそれが、彼らの怒涛の日々の始まりだった。



「…ちょっと何でお二人とも居るんですか!」


 十時にドアをノックした大隅嬢は目を丸くした。布由はひらひらと手を振りながら、


「まあいいじゃないの。それより美保ちゃん、今日社長は?」


 大隅嬢はちら、と朱夏を見、そして土岐を見、最後に布由に思いきり仏頂面をしてみせる。


「…今日は午前中出張先から帰還、で午後には事務所の方へ戻ると聞いています」


 午後ね、と布由はつぶやく。


「何か御用でも?」

「うん。相談があるの。大隅、午後時間作って」

「…はい、判りました」


 意外に素直な応答に、布由の方が面食らう。


「何の、とは聞かない?」

「聞きたいですがね、どうせ言わないでしょ? その調子じゃ」

「さすが大隅」


 にっ、と布由は笑ってみせる。そしてぐい、と横に立っていた朱夏の肩を横抱きにする。


「それで、その場にはこの子も参加させるから、そのつもりで」

「はい」


 さすがに今度は大隅嬢も信じられない、という顔つきになる。


「いいね?」


 布由は訊ねる。だがそれは許可を求めている訳ではなく、確認。


「…はい」


 大隅嬢はうなづくしかない。彼女はBBのマネージャーである。

 BBの意向を如何に現実的に通すかが彼女の役目なのだ。悲しいかな、彼女は布由が本気であるかどうか、は長いつきあいゆえ判ってしまう。彼は本気だった。


「でも、せめてその喋り方何とかして下さいよ。そうでないと、私が怒られるんですからね!」

「はいはい、朱夏少し大人しくしていてね」

「…十分大人しいと思うんだが…」



 遅い朝食兼早い昼食を済ませた後、布由と土岐の二人は朱夏を連れて彼らの事務所の社長に会いに出向いた。そしてその日二人目の犠牲者は、意外にも冷静だった。

 そこには大隅嬢も入れなかった。社長と、布由と土岐と、そして朱夏。その四人だけだった。大隅嬢は四人にコーヒーを出すとその場から下げられた。

 事務所の社長は、彼らとはかなり古い付き合いだった。

 彼らがまだ、閉じる前の「都市」で活動していた時には、社長も、あの「都市」にあったロック専門の一レコード屋だった。

 だが、彼はその立場で彼らをバックアップするうち、彼らと一緒にやっていくことに賭けることにしてしまった。結果して彼はあの「都市」を離れ、首都に事務所を構えた。

 近県の出身である布由と土岐とは違い、彼は生粋のその都市出身者だった。


「そうですか」

「葛西さんは驚かないんだね?」


 葛西社長は黙ってうなづく。


「…どっちかと言えば私は待っていた方ですからね」


 この二人を実に現実的な面でサポートしている社長は、現在いくつかの、ヒットチャートに登る人気バンドを抱えている今でも、最初のきっかけであった彼らに敬語をつかう。おっとりした口調で、時々あの都市出身者特有のイントネーションと発音を交えながら。


「これで最後になるかもしれないけれど」

「解散するかも、ということですか?」


 言いにくい言葉をずばり、と言う。だがそう言ってくれるのが布由にはありがたかった。


「そりゃあね、できれば俺だってしたくないさ。だけどいざとなったら、そういう処置にして欲しい。…俺に関しては大丈夫だろう?」

「君はね」


 社長は布由にそう強調する。布由は苦笑する。


「本当に君には見事なくらい、そういう人がいなかったね」


 土岐はああ、そうか、と今更のように気付く。

 この人は、封じ込めていたにも関わらず、判ってはいたのだ。

 どれだけ好きな相手ができても、生活していく上で気の合う女性ができたとしても、決してそれを法的に認めた相手にせずに、短い期間で別れていく。

 つまりそれは、自分がここから消える可能性を感じていたということだった。


「何とかするよ。その位の力は、今のここにはある。君達の力も大きかったしね」

「その通りでしょ」


 くすくす、と誰かの様な笑いを布由はもらした。彼らの横に座っている朱夏は、表情一つ変えずに話をじっと聞いている。


  

 そのままレコーディングスタジオにも朱夏は連れて行かれた。その日はもう、ただ連れていかれるだけではない。彼女は特別参加のスタッフ扱いとされていた。社長と布由がそう言うのだから、大隅嬢も、他のスタッフも何の文句もつけられない。

 レコーディングの合間に、ツアーの最終日のための相談もする必要があった。

 ツアーの話を聞いた時、もちろん大隅嬢は驚いた。だが目標が決まれば動きやすいですね、と言い、すぐさま自分のできることを探し始めたのはさすがである。

 会場は?との朱夏の問いに、布由はあっさりと、


「ロブスターは制覇してなかったからね」

「総合体育館か」


 通称「ゴールデン・ロブスター」という総合体育館は、一万人収容のホールにもなる。

 もちろんスタジアムだから、音楽を前提としたコンサート・ホールに比べて、格段に音響関係は劣る。空調設備とて必ずしも良いものではない。

 だが収容人数に関しては、球場以外では一番大きな会場だった。

 一般に、大都市においては、動員数という点において、会場はランクができる。

 最初に彼らが始めたB・Bはせいぜい250人程度。

 それからだんだんに350人くらいのクラブ・バジーナ、500人くらいのアメジスト・ホール、800人程度の芸術創造ホール、二千人弱のワーカーズ・ホール、厚生年金会館、二千五百人くらいの公会堂、市民会館、三千人収容のフューチュア・ホールへと段階がある。

 その上、というのがアリーナ・クラスである総合体育館だった。

 考えてみれば、奇妙な通称である。直訳すれば、「黄金の海老」だ。

 正式名称は、市立中央総合体育館。

 建設時、市はその愛称を一般募集した。まあよくあることだが、そしてその中にその名前があった。

 どうも、上空から見た会場敷地全体の形がそっくり返った海老に似ていたらしい。言われてみればそうだ、と作った側もその時気付いたらしい。

 そしてその名前がついてしまい、市民からはその通称のさらに略称の「ロブスター」が通り名となった。

 「ロブスター」は、首都における武道館、西の都市における城ホールと並んで、全国第三の都市であるそこにやってくるアーティストのステイタス・シンボルだった。特にその「都市」もしくは近県出身のアーティストにとっては。


「現在は本当に、総合体育館としてしか使われていない。それもせいぜいがところ、中学高校の市内大会だの、大企業の社内運動会程度だ」


 朱夏は自分の中に無意識に取り入れられているデータを分類して、取り出す。耳に入ったもの、目に入ったものは、一応記憶する。だがそれは彼女が意識して出さない限り、ただのデータに過ぎない。


「音響関係は完全に打ち捨てられている、という訳か」

「おそらく。私は行ったことがないが、データではそうなっている」

「まあ実際、あそこでライヴができるような奴もいないだろうしな…」


 全くだ、とそこに居た関係者全員がうなづく。


「…どれだけのスタッフが内部に入れるか、問題ですね」


 土岐は朱夏の言った「都市」の状況と考え合わせながら発言する。


「現地調達はできませんか?」

「不可能じゃないな。他の都市はともかく、あの都市に関しては、セット自体、ややこしいものを作ろうとは思わない。だからその分トランポは少なくともいい」


 と、言うと?と辺りの視線が布由に集中する。


「要は、あの都市にどれだけ音を広げられるか、なんだ」

「だったらFM局を召集しよう」


 朱夏は地図の真ん中に手を置く。テーブルの上にあるのは、過去の地図だった。まだ都市が分かれる前のものである。従って、現在の地形とはやや違っている。だが中心に関しては大した相違はない。


「FM局?」

「『S-K』の電波塔がFMの中心になっている。空間条例によって、『都市』全部に、常に音が満ちるように設置されてる。都市には音楽が必要だから」


 なるほど、と常識とは異なった状態に周囲はうなづくしかない。


「それに『都市』では電波は、FMのそれしか通らない。だから電波塔から発信されるそれは、街の隅々に設置されてる受信機からクリアな音を広げられる」

「街のあちこちに設置されているのか?」

「赤の公安がそのへんは細かく設置したらしい」


 らしいな、と土岐は内心つぶやく。細かいことが得意なのは藍地らしい。


「会場は会場、として、ライヴはライヴとして、か」

「目的が目的だろう?ライヴ自体は中断する可能性だってある訳だ」


 朱夏は言葉を選ばない。周囲の、布由と土岐以外のスタッフがぎくりとするようなこともあっさり言ってのける。


「…だろうな」


 十年前のあのライヴも中断したのだ。


「問題は、どれだけお前の声が広げられるか、なんだ」

「そうだな」


 布由はうなづく。

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