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37 十年前の七月二十三日

 暑い日だった、と布由は思う。

 どうしてその光景が今ここで見えるのか、彼には判らなかった。

 だけどそれは、確かにあの日の光景だった。自分がずっと忘れていた。自分が封じ込んでいた。

 だけどこれは夢の中だというのに。

 懐かしい都市の中。現在はどうなっているかは知らない。だって今見えるのは当時の光景だ。まだ『都市』へと車で自由に入れた時の…

 高湿度、夏のこの地方、ねっとりとした大気が身体中にまとわりつくように吹く中で、過ぎていく列車の土手にずるずると伸びている赤紫の葛の花と葉の姿が目に入る。

 きっと近付けば特有のあの甘いような酸っぱいような匂いがするのだろう、と彼は思う。だけど車内ではそんな風も入ってこないから、さわやかなあの匂いもしない。相棒が時々吸う煙草の残り香に時々気付く程度だった。

 エアコンをがんがんに効かせてきたので、車を降りた瞬間、一気に汗が吹きだした。関係者用の駐車場に車をとめると、布由は関係者入り口の方へ回る。

 受付嬢は、どうぞどうぞ、とバックステージ・パスを彼に渡す。そして布由は自分を呼んだ相手の元へと足を速める。



 三日前、ツアー先のHALにやはりツアー中の布由は、ホテルから電話をしていた。

 HALから掛かってきたことはまずない。いつも自分が掛ける方だった。そしてその時もそうだった。

 どうやらその時の自分は、向こうのツアーの合間のオフ日を聞きたかったらしい。すると。


『オフ… はしばらくないな』


 そんな風に軽く言われてしまった。ああまたか、と布由は思う。だいたい時間を絞り出すのは自分の方なのだ。


『だけど、布由お前、二十三日は空いてない?』 

「二十三日? 何で?」

『うちのライヴ、お前の故郷のあそこだよ』


 サイドテーブルの上に置いておいた手帳を取り、やや不安定な体勢でスケジュールを見る。


「ああ、オフだ」

『ならちょうどいい、おいでよ』


 そうだな、と彼は答えた。こんな風にHALが自分をライヴに誘うことはまずなかった。珍しいと言えば珍しい。

 布由はHALのバンドのライヴをまともに見たことが、メジャーへ行って以来殆どない。

 メジャーデビューの時期がほぼ一緒であるので、音楽業界の商業タームが重なってしまうことが多かったのだ。

 するとたいていBBのツアーだのプロモーション期間だのと、日程が重なってしまう。結果として、布由はHALのバンドのライヴを見られず、HALはBBのライヴを見られなかった。

 おかげで前の年の夏の、野外のイヴェント以来、布由はHALの歌を生で聴いたことがない。

 このツアーは、彼らのバンドにとって結構大切なものだ、と布由は聞いていた。彼らのバンドがブレイクして、最初の全国ツアーだった。顔が知られ、声が知られ、ある程度の曲がぽん、と売れた後の。


「うん、そうだな、久しぶりに寄るのもいいな… あそこはいい所だよ」

『いい所?』

「ああ」

『何処が?』


 おや、と布由は受話器を持ち変える。いつもの通りの軽い言葉なのに、妙に悪意が感じられる。


「いい所だと思うけど… 俺は」

『ああそお、布由には良かったんだよな…』

「は?」

『うんいいよ、おいでおいで。俺は歓迎するから』

「おいHAL?」


 ぶつ、と通話が切れる。

 何を怒っているのだろう、と布由は不思議に思った。そもそもHALは不機嫌であることはごくたまにあっても、怒ったところを見たところはない。

 それに、妙に話の内容も気にかかる。


 いい所? 何処が?


 HALにはいい所ではないのだろうか。布由は考える。

 彼にとって、と言うより、バンドにとっての地元であるあの都市は、非常にいい所だった。何がどう、というのではないが、ヴォーカリストとしては、ひどくありがたい街だった。

 と言うのも、あの都市では、どんな会場でも声の抜けがいいのだ。

 どんな会場でも、である。

 ほんの小さな地下のライヴハウスでも、二千人クラスのホールでも、城の公園内の野外ステージでも、はたまたSKの吹き抜けの広場でも、同じだった。

 どんな時でも、その都市の大気は、自分の声をつつんで、上手く広げてくれたような気がする。

 つまりそれは、この都市の環境自体が、人間の声を通しやすいものなのではないか、と彼は解釈していたのだ。

 だが。



 次の電話は、前日のホテルだった。

 打ち上げ後に戻ったホテルのフロントからメモを渡された。誰だろう、と広げてみると、見覚えのある名前が目に入った。最近やっと教えてくれたHALの本名だった。

 ずいぶん呑んでいたし、疲れていたから今かけるべきかどうしようか、とずいぶん考えたが、一昨日の彼の様子も気になった。

 相手もまたホテルに居たらしい。当初フロントにつながり、それからすぐにつながった。


「どうしたの? 珍しい」


 相手は黙っていた。


『…ずいぶん遅かったみたいだね』


 声がずいぶん遠かった。


「明日はオフだから… 打ち上げがあって」

『そう』

「なあHAL、いつもと違って、お前、用件があるんじゃないのか? あるならはっきり言わないと、俺には判らないよ」


 実際そうだった。

 いつもなら、それでもいい。どういう手順を踏んでいるのか判らないが、結果的にHALの要望が通っていることになっている。だが電話。それに距離。妙にそれが布由には遠く感じられた。


『…明日』

「明日? …ああ、お前らのライヴ。行くよ。いつ頃の方がいい?」

『いつだっていい。だけど、絶対来て』

「行くよ。行くってこないだも言ったじゃないか。行くと言ったら行く」

『本当だよね?』

「本当。お前に嘘ついてどうすんの」


 奇妙な気がしていた。明らかに電話の向こう側に居るのは、いつもの低音の友人なのに、何かしら、いつも彼が接している友人とも恋人とも知れない相手とは何かが違うのだ。

 何が違うんだろう? 布由は思う。

 何かが違う。だが、何が違うのか、決め手が見つからない。

 それはともかくとして、と布由は受話器の音量をいっぱいまで上げた。それにしても遠いな。


「もう少し大きい声で言ってくれない?」


 電話の向こう側の相手は、布由のその注文には構わないように続ける。


『俺、怖いんだ』

「え?」

『この都市が怖い』

「この、って…」


 ふっと布由は伝言メモの電話番号を見る。局番が、確かに見覚えのあるものだった。あの都市の、三桁の。

 都市が怖い。意味が通じるようでいて、ひどく曖昧な言葉だ。


「どう、怖いんだよ」

『今こうやって、お前に電話してる、その声が通りにくくなってる』 


 ノイズが耳をかすめる。


「え?」


 布由は問い返す。受話器の受信音量はフル。

 何か嫌な感じがした。


「お前、別に声ひそめていない?」

『俺は普通だよ。いつもお前声がでかいでかいって言うじゃないか。アレと同じ…』

「嘘じゃない?」

『お前に嘘言ってど… すん… よ』


 耳に切りつけるように、ノイズが入る。驚いて一瞬耳を離す。何処からか、沢山の人々が狭い部屋でがなりあっているような声が聞こえてくる。


「おいHAL! もしもしっ!」

 布由は受話器に怒鳴りつける。


『も…… 切る。…れ …じょう通じない… だ… ら絶… 来…』


 これ以上通じない。だから絶対来て。

 そう言いたかったのだろう。そこで電話は切れた。


 何だ? こりゃ……


 布由は酔いがいっぺんで醒めるのが判った。

 背筋がつ、と冷えていった。 


   *


「そういうことがあったの?」


 安岐は訊ねた。あったの、と重力の無い声でHALは答えた。


「少し時間を戻そうか」


 HALは言った。途端に光が周囲に満ちる。安岐はまぶしくて一瞬目を伏せた。

 真昼だった。

 太陽が中天にあり、緑の木々を通して光がきらきらと揺れている。

 まだ観客は集まっていない。本当にわずかな数の少女達が、会場に入ってくるメンバーに手を振るために待っているだけだった。

 不意にHALは腕を真っ直ぐ伸ばす。


「ほら、車が今あそこから入って行ったろ? あそこから奴が来るんだ」

「奴?」

「布由。俺が呼んだの」

「あんたが?」

「うん。奴のBBは北周りでずっとツアーをしていて、ちょうどこの日はオフだった。だから来ないか、と誘ったんだ。奴の… というかBBの故郷だからね。この都市は」


 ああなるほど、と安岐は納得する。


「で、BBはこの都市に好かれていた」

「うん」

「都市自体が、彼の声を抱きしめていた。抱きしめて、上手く放ってやっていた。今になってみれば俺にもそれがどういう感じか、よく判る」

「あんたが都市だから」

「そお。今なら、俺にだってできるよ」

「やってあげたくなるような声ってあるの?」

「あいにく」


 彼はくすくすと笑った。


「まあだから、布由の声は、そうだった訳。で、逆に俺の声は、都市に嫌われていた… 今になってみれば、何となく判るんだけど」

「何が?」

「俺の声が『彼女』にとってひどく耳障りだった理由」


 そんな都市の気持ちまで自分には判らない、と安岐は思う。耳障りと言ったところで都市の何処に耳があるのだろう?と思ってしまうのが関の山である。


「『彼女』はね、俺の中のどろどろした部分とひどく似てたんだ。だから同族嫌悪。自分が嫌いなくらいに相手が嫌い」


 安岐はそれを聞いてやや驚く。


「どろどろした部分?あんまりHALさん、あるようには見えないけど、あると言うんだからあるんだろうな? あるの?」

「あるの」


 彼は簡潔に答える。


「少なくとも俺はそう思ったよ。もし俺がそう見えないとすれば、それは俺自身見たくないから、まわりにもそう見せないようにしていただけのこと」

「そうなの?」

「そうなの。俺はそういう自分は嫌いだったから。あの頃、奴の声が好きで、無いものが羨ましくて、ねたましくて、どーしようもなくて… そのないものねだり、を持ってる相手へいつの間にかすり替えてしまった」

「すり替えてしまった? でもあんたはFEWのことがとても好きだったんじゃないの?」

「好きだったよ。確かに」


 乾いた声がそう言った。そこには迷いもためらいもない。


「だけど過去形」

「そうなんだ」


 聞く安岐にもそれ以上は無い。


「すり替えだろうが勘違いだろうが、好きだったのは本当。でもさ…」


 彼は空中に大きく輪を描く。輪の中に次第にくっきりと映像が浮かび上がる。


「この時間の、この公会堂の中だよ」


   *


 布由はドアをノックする。

 ドアにはバンド名とメンバー名が書かれている。どうぞ、と聞き慣れた声よりさらに低い声がした。


「こんちわ…」


 先客あり。全身黒のドラマーが、その部屋の主の以外に入り込んでいた。よお、と朱明はやや寝不足の目をしながら煙草を持った手を上げる。


「おいHAL、起きろよ…」


 友人は、ソファで眠り込んでいた。朱明はそれをゆさゆさと揺り起こす。ん、ととろんとした声が布由の耳に届く。


「ほら起きろHAL、客だぜ」

「きゃく…」


 彫りの深い、ぱっちりとした二重の目は、眠い時には半分閉じて影を落とし、本当に眠そうな目になる。「眠そうな目とはどういう目か」と問われれば、今そのこれがそうだ、と提示したくなるくらいな目でHALは「客」を確かめる。


「…ああFEW、来たの」

「お前が来いと言うから来たんだろうに」


 それじゃ後で、と朱明は言うと、ひらひらと手を振って楽屋から出ていった。布由はしばらくその出ていった扉を眺めていたが、やがて自分を呼んだ当の本人の方へ向き直った。


「で」


 一歩踏み出す。


「一体お前、何を怖がっているっていうんだ」

「俺が? 何を」


 目がぱっちりと開く。布由はぎくり、とする。

 何か、変だ。

 昨夜の会話が全く無かったかのように、彼の表情には、嘘が無い。

 だったら自分が昨夜電話したというのは夢だったんだろうか? 布由は首を横に振る。夢じゃない。ホテルを出る時の清算書にちゃんと電話代はついていた。それも、やや距離が離れた所であることが判る程度の料金で。


「お前の方が何かどうかしちゃったんじゃないのか?」


 声が通らない、と言った。だがそんなことはない。ちゃんと自分に届いている。だけど昨夜の、あのまるで妨害電波のようなノイズも、また事実だ。


「それより、来てくれてうれしいよ」


 にっこりと彼は笑う。


「今日は全部見ていってくれるんだよね?」

「ああ… そのつもりではいるけど」


 何か変だ。

 布由は次第に自分の中に疑問符が積もってくるのを感じる。

 本当にこれは俺の知ってるHALなのか?

 何が違う、というのが判るようで、うまく判らない。



「芳ちゃんちょっと…」


 朱明はギタリストを手招きする。


「なに?」


 軽く問い返して、ギターを持ったまま、音出し中の芳紫は舞台袖に走る。転ぶなよ、と朱明は半ば真面目な口調で言う。


「気になるんだけどさ俺」

「なにが?」

「HALが」

「今さら何言ってんの?」

「そういう意味じゃないよ… 芳ちゃんちょっとこの単語発音してみてくれねえ?」


 そう言って朱明は一つの単語を近くにあったスタッフ用のホワイトボードに書く。何だかなあ、と思いながらも、芳紫は言われるままに発音する。


「そうだよな… じゃあもう一つ」


 同じことをもう一回繰り返す。芳紫は朱明の言ってるのが、どうもいつもの、冗談でないのに気付いた。


「朱明… 一体何を言いたいの?」

「…言葉」

「あったり前でしょ。言葉だろうけど…」

「HALがこれをこう言ってた」


 ホワイトボードの上の、カナで書かれた単語に朱明はアクセント符号を付ける。


「何か、変じゃねえか?」


 芳紫は何回か、口の中で自分の言ったもののイントネーションと比べてみる。何だったら発音記号もつけてやろうか、と雑学の大家はつけ加える。すると芳紫の表情が曇った。


「…変だ」

「変?」

「…うん、これは俺や藍地やHALさんの使うイントネーションじゃない。どうしてHALさんがそう言う訳? 遊んでるとか、何、何かMCでここの御当地ネタ使おうとかそういうの?」


 朱明は首を横に振る。


「そう言うんじゃねえ… そういうんだったら、俺もいちいち芳ちゃんに言わねえよ。今布由が来てたんだけどさ」

「あ、来たのか。珍しい。…でも…」

「来たんで起こしたんだ」

「あ、そ」

「でもさ、寝起きにいちいちそんなこと考えるか?」


 芳紫はいーや、と一言で決めつける。


「考えない。普段からギャグかまそうとしてる俺や誰かさんならともかく、HALはそういう奴じゃないし」


 そんな芳紫もかなり真剣な顔になる。


「芳ちゃん!」


 藍地が反対側の舞台袖で手を振っている。音のバランスを見てくれないか、と叫んでいる。


「藍地にはどうする? 俺から言っておこうか?」

「頼むよ。俺、どうも気になるからもう一度見てくるわ」


 朱明はくるりと向きを変えると、元来た方向へ戻っていった。

 芳紫はホワイトボードに書かれたものを消しながら、自分の言った言葉を思い返す。


 御当地の―――



「HALお前、いつからここの人間になった?」


 布由はようやく見つけた疑問の正体を口にする。


「何言ってるの? FEWお前、そっちの方が今日は変だよ。来てそうそう、俺に訳の判らないことばかり言って」


 訳が判らんのはそっちの方だ、と布由は思う。HALはそれまで眠りこけていたソファに、傲慢な程にもたれ掛かる。布由は進められた椅子に座るのも忘れていた。

 テーブルの上には幾つもの豪華な花束が乗せられている。布由がそちらへ目線を泳がせたのを見ると、ひらりと顔に笑みを浮かべた。


「ああ、花ね。綺麗だろ」

「綺麗だ、と思うのか?」


 確かに自分は綺麗だ、と思える。こんな組合せでも。それは悲しいかな習慣的にしみついた感覚だ。だが、少なくとも、HALなら絶対に、そこにあるその花の組合せを「綺麗」とは評しない筈なのだ。

 前にたまたまTVの収録が何かのときにかち合った藍地に聞いたことがある。HALはもらった花束でも、気にいらなければ解いて自分の好みの組み合わせにしてしまうのだ、と。

 ではどういうのがHALは好きなのか、と聞くと、藍地はにやにやしながら、HALさんはもう、シンプルイズベストよ、とあっさりと答えてくれた。あげるんならその辺のことを考えてやってね、と余計なことをつけ加えて。

 目の前に広がる花の山は、決してシンプルではない。ゴージャスという形容詞がかろうじてつけられるが、一言で言ってしまえば、「節操無し」だった。

 だが布由はそれを一言で片付けられない自分がいるのを知ってる。

 それはこの地方の人間のやりがちな合わせ方なのだ。だから布由はそれはそれで「節操無し」ながらも好ましく思ってしまう自分がいるのも知っている。それが地方性というものだ。それは仕方がない。

 だけど。


「ああ、綺麗だよね」


 そしてその束の中の一つを抱える。赤系青系黄系… かろうじて白のぽわぽわした花があるからこそまとまっているが、全く似合わない、と布由は思う。

 確かに藍地の言う通りだ。

 布由は自分の額をぴしゃりと叩く。そして椅子に脱力したように腰掛ける。

 どうしたの、とHALは花束を放り出して駆け寄った。


「どうしたのFEW? 貧血?」

「…お前、誰だ」


 のぞきこむ彼に、布由は言葉を投げる。え、とHALは目を丸くする。何の含みもない、ただ驚いているだけの表情。

 それがかえっておかしいんだよ。

 そう思ってしまう自分が悲しいが、彼ならそういう表情を自分に見せる訳がないのだ。

 布由は気付いていた。HALが自分に向ける感情の複雑さを。複雑ゆえに、絶対に自分に、あからさまな表情を向けることがないことを。顔は笑っている。だけど決して目が笑っていない。怒っているように見える。だけど目は笑っている。

 ところが目の前にいる彼にはそれが無い。

 ただ単に笑い、ただ単に怒る。

 電話はともかく、最後に会ったのはほんの十日前だ。そんな短い期間…もしくは、昨夜でもいい。昨夜の会話を「無かったことにしたい」なら判る。それならHALらしい。あれは実にHALらしくない言葉だった。

 だけど、どうやら本当に「知らない」らしいというのは。

 そしてこの言葉。イントネーション。語尾の変化。


 これはこの都市のものだ。


 HALを含め、このバンドは途中参加した朱明以外、皆、西の地方の人間だった。西のイントネーションは、東の首都や、中部のこの地方のものとは全く違う。

 中央の者を装うならまだよかったかもしれない。だけど、西の人間の言葉の変化は、そう簡単に変えられるはずがない。


「お前は誰だ」


 布由は繰り返す。何言ってるんだよFEW、そう彼は繰り返す。


「HALは… 俺のバンド名なんか、呼びゃしないんだよ」


 はっ、とHALの目が険しくなる。


「お前は誰だ?」


 三度、繰り返す。正直言って、布由は背筋に得体の知れない悪寒が走るのを覚えていた。大気の流れがおかしい、と思った。


「勘のいい子だね」


 腰に両手を当てて、HALの姿をしたものは、くくく、と声を立てる。そしてにっと笑う。

 ぞくり、と布由は全身が総毛立ったのを感じた。

 ひどくそれは魅力的だった。今までこの顔その声の持ち主には見たことのない類のものだった。

 動けない。目が離せない。


「私はお前が最初にこの街に現れた時から、ずっと守ってきたというのに」


 力などさほど無いように見えるHALの手が、椅子に掛けた布由の肩を押さえつける。


「その私から逃げようとしたって、無駄なんだよ」

「逃げる?」


 覚えがない。一体何から自分は逃げたというのだ。


「俺が… 一体」

「この街がいちばんお前の声をよく通す。当然だろう? 私にとって一番心地よい声だからね?」


 露骨なまでの、この地のイントネーションの言葉がHALの声で耳に飛び込んでくる。


「何で… 俺の…」

「私は何でも知ってる。この地にお前が入ってきて、第一声を発した時から。その時から私はお前が、お前の声が欲しいと思っていた。この街に必要だ。この街の大気の安定に一番合っている」


 HALの手が、指先が布由の喉を撫でる。よく知っているはずの手なのに、悪寒が走る。


「HALは…」

「この身体の持ち主? まだ眠っているよ、私の中で。ずっとこの身体を狙っていたんだ。お前に生身で近付くために。別にこの身体の持ち主には悪気はない。いやあったかな。この身体の持ち主は、お前を抱きしめることもできる」


 確かにそれは可能だが。


「だが私は人の身体を通さないと、お前に言葉一つ投げかけられない」

「何だ… 霊か何か…」

「違うよ」

 

 きっぱりと低音が響く。


「私はこの都市だよ」


 何を、どうしようとしているのか、全く布由には想像ができなかった。思考が空回りしているのが判る。


「俺を… どうしようと」

「別に身体をよこせなんてことは言わないさ。ただこの地に留まって欲しいと願うだけさ。決して中央にも西にも行かず、ずっと、じっとして、この街で歌い続けてほしいというだけ。私のためにね」


 ひどく単純な… ほとんどそれは求愛に近い、と布由は頭の隅で思っていた。

 考えがまとまらなかった。ただ流れていく。何をすればいいのか、どうこのHALの皮を着た「都市」に言えばいいのか。

 HALはどうなるのか。


「HAL!」


 はっ、と布由は耳を澄ます。HALよりも更に一回り低い声。どんどん、と戸を乱暴に叩く音。


「おーい入るぞ」


 ぱっ、とHALの顔をした「都市」は顔を上げた。

 そして次の瞬間、表情が動いた。細い腕が、勢いよく布由を椅子ごと突き飛ばした。


「朱明! ドアを開けて!」


 叫ぶ声。


「え?」


 朱明は反射的に大きくドアを開けた。と、いきなり彼にぶつかってきたものがあった。


「な…」


 目の前には、転がっている布由がいた。HALは自分自身を抱え込むように腕を前で交差させると、大きく息をついている。


「布由逃げて! 朱明! 布由を外へ出してやって! 早く!…」

「HAL…?」

「早く! 間に合わない!」


 朱明は何のことやら訳が判らなかったが、とにかく優秀なドラマーは反射的に、言われるままに身体を動かした。半ば動けない布由をずるずると引きずり出してドアを閉めた。


「…おい布由… 何があったんだ…」

「…」


 驚いた朱明に問われて、布由は口を動かす。その時布由はぎくりとする。喉に手をやる。声が届かない。

 「都市」がHALにしてきたことはこれなのか?


「…おい布由? 話せなくなったのか?!」


 朱明の大きな目がぎょろりと開かれる。布由は頭が混乱していた。

 だけどHALの言葉… あれは絶対にHALだ。HAL本人だ… 言った言葉が頭をぐるぐると回る。


 布由逃げて!


 そうだ、俺は逃げなくちゃ…


「…おい布由!」


 朱明が止める言葉も耳には入らなかった。バランスを崩しながら、時には壁にふらふらとふつかりながらも、布由は来た道をまっすぐ引き返す。

 バックステージパスを返すことも忘れて、彼は駐車場に走った。車に飛び乗った。震える手でキーを差し込む。エンジンを掛ける。こういう時身体が覚えているというのはうれしい。ギアチェンジする。

 走り出す。

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