34 HALは安岐に都市との相性の話をする
「変だ」
安岐は思わずにはいられない。
同じ所をぐるぐると回っている気がする。いくら歩いても、走っても、どうしても結局この公園に戻ってきてしまうのだ。
…夢の中で歩いている時の感触に似ている。
自分は正しい方向に歩いているつもりなのに、結局はその「正しい」にもつじつまが合わなかったりする。
だとしたら、俺は夢を見ているんだろうか。
そう考えもする。結構その考えは正しいような気もする。
だが自分が夢の中にいるのを気付くことなどあまりない。
何度も何度も、公園を出ようとした。実際出てみた。だが、そのまま離れていっている筈なのに、数本の大通りを越えると、またあの噴水塔が見えるのだ。
かなり怖くなっていた。
無意味に繰り返されることが、これほど怖いとは知らなかった。朱夏の不快感も少しは理解できる。
自分がどれだけ逃げようと、遠ざかろうと、そこにあるのが当然、というように、古めかしい形の噴水塔は水を吐き出す姿を見せつけるのだ。
そこの天気は良かった。ずっと良かった。
だが決して暑くはない。通りを歩く人々がどれだけ半袖だろうがノースリーヴだろうが、陽射しに焼け付くような熱はないし、大気にはこの都市特有の、ねばっこい、あのまとわりつくような湿気もない。
そして歩いても疲れることもないし、時間がずいぶん経ってるはずなのに、空腹になることもない。音も無い。風も無い。地面の感触すら無い。
…冗談じゃねえ。
安岐はつぶやく。疲れもしないから汗もかくこともない。だが気分だけはどんどん低下している。
ずいぶん時間が経っているように思えるのに、太陽はずっと中天にあって、動こうともしない。木の影はずっと同じ位置にある。
だけど人だの車だの、そんなものは通りすぎていく。それは判る。だが彼らは安岐の存在に気付きもしないようだった。彼らの声も、車の音も、何一つ聞こえてこない。静かに通りすぎていくだけだった。
「…冗談じゃねえ!」
今度はもう少し大きな声でつぶやいてみる。奇妙なものだ。自分の声だけは聞こえる。だが周囲の、影のように過ぎていく人々にその声は届いていない。
まるで幽霊じゃないか。
身体も足も全く疲れてはいない。だけど何となく、歩き回るという行為自体に疲れてしまった。
何度となく姿を現す噴水塔のへりに座ると、安岐はぼうっと通りすぎる人々を眺めることにした。
「あれ?」
目の前を通りすぎていく人の顔ぶれが変わってきていた。少女が多い。
何かあるんだろうか、と安岐は噴水塔のへりから立ち上がる。
もちろん近付いたところでその少女達の、さざめくような声も聞こえる訳がないのも何となく判ってきていた。だけど、何となく少しだけ期待していた。
陽射しが、かたむきかけていた。
それに気付いたのはいつだったろう。ずいぶん長い時間が経ってしまったような気がする。
緑が両脇に立ち並ぶ公園内の、レンガ色の歩道を、ひらひらした恰好の少女達が歩いている。よく似た恰好が多い。それも似合う似合わないで選んでいるものではなく、一種、制服と同じものが感じられた。
何処へ行くんだろう?
だがその問いに対する答はすぐに見つかった。公会堂だ。
公園の中には二つのホールがある。
一つは「公会堂」と呼ばれ、もう一つは「ワーカーズホール」と呼ばれている。どちらも二千人くらいの人を収容できるコンサートホールになっている。「公会堂」の方が古い。入り口の石造りの柱だの階段の手すりだの、凝ったつくりになっている。
少女達はその前でたむろしている。そして目の前にはまた噴水があった。位置関係がおかしい、と安岐は思う。どうしてここに噴水塔があるんだ。
…夢だもん。
ふとそんな声が聞こえたような気がした。
風が起こった。
肌に触れる風が生暖かいものに変わったのがいつだったか、安岐は自覚していなかった。
急に音が耳に一斉に飛び込んできた。噴水の水の落ちる音、少女達のざわめき、風に揺れる周りの木々…
地についた足に実感が湧く。靴底にへばりつく小石がぐりぐりと足の裏を押す。ぽかんとしていると、急に肩をとん、と押す者がいる。
「あー、ごめんなさぁい」
にこやかに、自分と大して変わらないくらいの女性がそう言って通り過ぎる。連れの男は、何やってんだよ、と彼女を自分の方へ引き寄せる。彼女は暑いからよして、と軽くそれをかわす。安岐はそれを見て小さく笑う。
公会堂の前には次第に人が集まりつつあった。入り口の上には、その日のライヴのアーティストの名前が書かれた看板が掛かっているようである。白地に黒、シンプルなものだ。
安岐は噴水のへりに再び腰を下ろした。人間を見ているなら座っている方がいい。
「遅いーっ!」
さっきの女性が誰かに向かって怒鳴っていた。
いい根性のひとだ、と思いつつ安岐は視線を飛ばした。彼女の周りには彼氏らしい男と、その友達らしい男と、もう一人別の男が居た。
え? と安岐は目をこする。
「遅くはねえよ…」
低音が響く。
「だって開場六時、開演六時半だろ?まだ六時ちょっと前じゃないか? 夏南子はせっかちすぎるんだよ」
低音の男は、のそのそと、だけどわざわざチケットを出して開場開演時間を指でしめす。彼女はそりゃそうだけどさあ、と腰に手を当てながら、
「だって放っておいたら、パンフとか買えなくなっちゃうじゃないの。あたしそーゆうのやだからね」
彼女の後ろに控えていた二人は顔を見合わせ、苦笑いする。
「ま、とにかくそれでも開場時間前に来たんだから、文句はないだろ?で、余ってた一枚だけどな」
「誰かに売れたの?」
そうは言いつつも、彼女はどうも低音の男の周りに居るものに目線が行く。
「特に見つからなかったからな、俺がも一枚引き取ることにしたわ。でこいつを連れてきたから」
「それってお前の言ってた」
後ろの二人のうち、彼女の彼氏らしい男が口をはさむ。
「そ。電話したら隣の県から、とことこと一人で来やがった。いい根性してるよ。弟だ」
「それは兄貴の悪い影響じゃねーのか?」
にたにたと、後ろの一人が腕組しながら笑いを飛ばす。「兄貴」は自分の腰程度の身長の弟の頭をわしづかみすると、ほれお前ちゃんと挨拶しろ、と頭を無理矢理下げさせようとする。
「なんすんだよっ!」
まだほんの少年の声が周囲に飛んだ。
「初対面の人には挨拶! それが礼儀とゆーものだっ!」
「てめえっ無理矢理押さえつけるのは礼儀に反しねえのかっ!」
そう言って「弟」は必死で「兄貴」の力に抵抗して首に力を込めて下げようとしない。
「あ、そ。じゃ」
ぱっと手を放す。いきなりすこん、と上からかかる力が取れたので、「弟」はげ、と声を立ててそっくりかえりそうになる。おっと、と「兄貴」はそれを支える。
気がつくと、友人達は声は立てないが腹を抱えて笑っていた。特に彼女は、顔を真っ赤にして、目に涙をためている程だった。
「…馬鹿あ… 化粧が落ちたらどうするのよっ!」
「お前の面の皮厚いから大丈夫だろ?」
「化粧ってのは厚い面の皮の上に塗るんだよ、馬鹿」
「あんたらねーっ!」
まあまあ、そろそろ行こう、と彼女の彼氏が全員の肩をぽんぽんと交互に叩く。伸びかけた髪を首の所でくくっている彼は、「弟」の目線と同じ位置にくるようにかがみ、ぐしゃぐしゃとまだ荒れてない髪をかきまわす。
「けっこう今日のバンドいいからな、しっーかり聞いてくんだぞ」
優しい笑顔だった。
うん、と「弟」はうなづく。
そして五人は横並びになって会場に入っていく。
それと同時に音はすうっと消えていった。耳なりだけがひどく高い音で安岐の中に残った。
陽も沈みかけていたまま動きを止める。風も止まる。
安岐はため息をつく。見覚えのある光景だった。だがずっと忘れていた光景だった。
忘れていた。本当に忘れていたのだ。
だが彼の知っている光景は、カメラアングルが違う。少なくとも、安岐は、あの「弟」の姿を見たことがなかった。いや手はある。足はある。だけど顔と背中を見たことはない。何故なら。
あれは俺だ。
「…ふうん… そんなことがあったの」
心臓が止まるかと思った。相変わらず音はしないのだ。なのに声はちゃんと聞こえる。
「あんまり安岐とここで会いたくはなかったな」
「HAL… さん」
安岐は目を疑った。HALがいつの間にかそこに居た。噴水のへりの、自分の左隣にいつの間にか座っていた。
ふっと手元が明るくなる。
振り向くと、噴水塔の外側に取り付けられた小さなライトが点いていた。オレンジと白の混ざったような色の光は、上からこぼれ落ちてくる水を照らし出す。
白いぴったりしたニットのHALもその光に、オレンジ色に染まっていた。
いつの間にか、辺りは暗くなっていた。街灯の冷えた色の光と、噴水塔の暖かい色の光が、どちらも綺麗に安岐の目の前に浮かび上がっていた。
「…何で…」
「ん?」
「何でHALさんここに居るの? 俺は川に落ちた筈だろ?」
「そうだね… 君は川に落ちたよ。それは事実。実際ここにいるんだから」
何か、違う、と安岐は思う。いつもの彼とは何処かが違っていた。座りながら片方の足だけを立てて抱えている。
そして顔からいつものくすくす笑いが消えている。
「HALさんも川に落ちたの?」
「俺?」
形の良い唇の端がきゅっと上がる。
「俺は違うよ。前、君に言わなかった? 俺はここに居られるの」
「いつも? だってこれは川の底じゃないの?」
「川の底にこんな街があるってのも妙だよね。水もないし」
それはそうだけど。嫌な奴だな、と安岐はつぶやく。
「あの時、君と朱夏をさらっただろ? あれと同じ空間だよ」
「違う空間? でもそれが… どういう意味か、俺にはにはよく判らないよ」
まあそうだよね、とHALはつぶやいた。
「ところで、さっき君、どっかで見た人達を見なかった?」
「見た」
確かにあれは、見たことがある。兄貴。自分。兄貴の友達の… 壱岐と… 東風… 「タカトウ」と夏南子。
「だけどあれは」
「そ。あれは十年前」
「十年前」
「十年前の夏。七月二十三日。この都市が切り離されて閉じてしまった記念日」
ああそうだ、と安岐は思った。確かにその日だったんだ。
「じゃあ音が無いのはどうして? 無いのにどうしてあんたの声はここで聞こえる訳? それにあんたの声、いつもと少し違う…」
「質問の多い子だ」
くす、とHALの顔にやっといつもの笑いが浮かぶ。
「そこで子供扱いする? 見かけから言ったらよっぽどあんたの…」
そこで安岐は言葉を切る。見かけとは関係ないんだっけ。ちらり、とHALは安岐に横目をくれる。
「前も言ったよね。俺の本当の年からしたら君は子供もいーとこ。ま、それはいいけどね。音がないのは、ここには基本的に時間が無いから」
「時間が無い… さっきあの人達の声が聞こえたのは?」
「あれは過去の光景」
「過去の」
「そういうものを映し出す分には大丈夫なんだ。だってそうだろ? ここにライトが君のいる筈の時間に、点く訳がない」
「あ」
そうか、と今更のように安岐は気がつく。
「この噴水塔、こんな綺麗なものだったんだ」
「うん。それは俺も思った。この都市は結構雑に作られてるとか言われてるけれど、時々こうゆうものが無造作に、無意味に残されてる」
「無意味…」
「…かどうか本当には知らないけどな。まあ俺が昔住んでた地方ほどにそういうもの多くはないけど、それはそれでいいと思ってきたし、無計画にいろいろ作っては組み合わせるそのばかばかしいところが俺は結構好きだったし」
誉めているのか、けなしているのか判らない言いぐさだ、と安岐は思う。
「HALさん西の人… だったんだよね」
「判る?」
「言葉が西の人だよ」
「そ。西に居たんだ。それから東の首都へ出向いて、そこから旅巡り…」
「大道芸人のような言い方だけど?」
「近いんじゃない?」
ふっと彼は腕を上げる。
「今からあのバンドのライヴが始まるんだ」
「…読めない」
「読めるよ」
よく目をこらして、と彼は安岐につぶやく。言われるままに安岐は黒く細く書かれたその文字に目をこらす。それまで意味の無いアルファベットの羅列の様だった文字が、意味を持ち始める。
「…判る」
「うん。ここなら読めるはずなんだ」
「ここなら?」
HALはうなづく。
「あの都市の中では、俺達のバンドに関する記憶は、全て隠してきたんだ。あの時、あの場所に居合わせた君達の記憶を初めとして、出したソフトとその中身に関する記憶…」
「あんた達のバンド…」
「決して出してはいけない。思い出せてはいけない。大気に乗せてはいけない」
安岐があのソフトの上に見た彼らの姿。そうだ、確かにあの名前だった。妙に綺麗な字面で。
「あの時も、何てことない、ただのツアーの一部だったはずなんだ」
「あの時…」
「十年前の、夏」
暑い年だった、と今になって安岐は思い出すことができる。
「西や南の都市を回って、何日も何日も、旅の日々。いろいろ楽しいこともあったし、誰かが身体壊して倒れてしまったこともあったし、いろいろ。全部が全部いいことじゃなかったけれど、全部が全部嫌なことでもなかった」
「学校時代のような言い方するなあ」
「どんなことだってそうだよ。でもね安岐、俺は結構この都市へ来るのは不安だった」
「どうして?」
「この都市は俺を嫌っていたから」
「え? だって今はあんたが都市なんだろう?」
「ううんそれじゃなくて、当時の。『彼女』だよ」
ああ、と安岐は城の地下(?)で聞いた話を思い返す。
「あの頃、『彼女』に俺は嫌われていたし、布由の奴は好かれていたんだ」
「?」
都市がそういう好き嫌いを見せる、というのが安岐にはイメージできなかった。
「『都市』の意志である『彼女』とね、俺の出す声は、何でか判らないけれど、ひどく反発していたんだ。別に俺にそんな気があった訳じゃない。はっきり言えば言いがかりに近いんだけど、まあ朱夏にとっての布由の声みたいなものかな…いやちょっと違うか。『彼女』は俺の声が自分の中に響くと、ひどく心地悪かったらしい」
「……へえ」
「で逆に、布由の声は『彼女』の中で心地よく響いたらしい」
「そういうこともあるんだね」
「うん。人間だってそうだろ、声の好みなんて本当にみんな別だもの。『いい声』って世間一般で言われてようと好きじゃない声ってのもあるし、逆に『すげえだみ声』とか言われても、俺にはたまんない、ということもあるだろうし」
「そうだね。それは凄く判る」
尤もそれを「都市」というレベルに持っていくとよく判らないと言えばそうなのだが。
「で『彼女』は俺を来させたくなくて、いろいろ妨害したんだ」
「妨害?」
「声が、上手く通らない」
「声が?」
どういう感じなのだろう、と安岐は首をかしげる。それに気付いたのか、HALは言葉を足した。
「君が歌うひとだったら判りやすいんだけど… まあギターでも何でもいいや。そのギターの音が、妙に他の音に埋もれてしまうような状態って聴いたことない?もしくはその逆。何か無性に音が響くような日」
あ、と安岐は思い出す。時々、何かの拍子で津島のギターの音が妙に耳障りな日があった。
「何となく判る」
「ん、なら良かった。そうしたら説明しやすい。それでも安岐はまだいいね。説明して一応全部呑み込んでくれるから。頭の固い大人はやだね、こっちがいくら説明しても肝心の部分を判ってくれない」
「それはあんたの説明不足じゃないの?」
「俺の?」
HALは眉を軽くひそめる。
「だってHALさん、あんたがそういうアタマで説明すれば、結局相手には伝わらないんじゃない? 絶対相手は理解できないなんて初めっから思って説明したもんなんて、相手も真っ直ぐに受け取れないよ」
「言うねえ」
そしてようやくにっ、と彼は笑いを浮かべる。
「まあいいさ。とりあえず、今こちら側で俺が説明できるのは君だけだし、俺も何か判らんけど、君には説明しやすい。安岐ねえ、この都市にどのくらいライヴのできる会場があるか知ってる?」
「B・Bだろ? エレクトリック・キングダム、ミュージック・ビレッジにアメジストホールにハートビート、クラブ・バジーナ、芸術創造センター、公会堂にワーカーズホールに国際会議場… 総合体育館もそうだっけ。市民会館に厚生年金会館、…そのくらいだっけ」
「まあもうちょっとあるらしいけどな。実際に俺たちが出たのはそう多くはないんだけど… ハートビートに始まって、バジーナ、B・Bも出たな。で次がワーカーズ。最後が公会堂」
彼はふっと手を伸ばす。指のさす方向には、淡い茶色のこじんまりとした建物があった。
「ここだよ。ここが最後」
「最後…」
「あれから、俺達のバンドは音楽を止めた」
最後の公演。そういう意味だった。
「…まあね、どの場所の時も、それなりに出来は良かったんだ。音自体はみんな良かったからね… だけど俺の声に関しては、滅茶苦茶だった」
「声だけ?」
「そう。声だけ。どんな機械を通そうが、どうスピーカーの位置を変えようが全く無駄。どの会場でも、俺の声だけが響かない。届きはするよ。一応ライヴの形にはできたんだからね。だけど」
「HALさんには不満は残る」
「そう」
彼はそれそれ、と指を立てる。
「だけどそんなこと、普通有り得ないんじゃないの?」
「そう。有り得ない。なのにそうなる。必ず。それは俺がプライヴェイトで友達の所へ遊びに行った時もそうだった。遊びで歌ったりする。その時でもそうなる」
「まるであんただけをねらい打ちしたみたいに」
「そうそう」
「でもそう言ったところで、それを判ってくれない奴が殆どだったんじゃない?」
自分のように、という言葉を暗に安岐は含める。
「そうだね。誰も本当の意味を理解はできなかった」
もう片方の足も上にあげて、彼は両足を抱え込む。
「歌わない奴には判らない。それがどういう感触なのか。空間に自分の声が響くかんじ、というのが… 実際の会場ではアンプとスピーカーが間に入るんだけど、それ以前からして違っているんだ。空気自体が、通らせまいとしているのが判る。声に、絡み付いているんだ」
「ふうん…」
「安岐もやっぱり信じない?」
やや困った顔になっている安岐を見て、HALは訊ねる。すると安岐はうなづいて、
「そうだね」
と答えた。
「HALさんがどう言おうと、俺にはそれがどういう状態か、やっぱり理解できない。俺は歌う人じゃないもの」
だろうね、とHALは目を伏せる。
「でも」
伏せた目を開く。
「でもHALさんがそう信じて言うんだから、俺はあんたの言うことは信じるよ。少なくとも、あんたの中でそれは本当なんだろ?」
それは、安岐の本心だった。それは事実と真実の違いに近い。事実としての「声が通らない」は、安岐にはとうてい理解できない。だが、理解できなくとも、それを体感しているHALにとっては真実なのだ。
「本当だよ。そりゃ確かに俺も、そのせいで声が出にくくなっていたかもしれない。だけど俺はプロだよ。そういうことで出なくしてしまうような声の鍛え方はしてないんだ。そりゃ別に俺は無茶苦茶上手い訳じゃないよ。だけどそれでもやってきたんだ。やってこれたんだ。何度も、ひどいコンディションのところでも何とかしてきたんだ。この都市の会場は、何処もコンディションが悪いなんてことはないんだ。楽器の音だってよく通る。みんな楽器隊の連中はやりやすいって言ってたよ」
安岐はうなづく。
「ただ、俺の声だけが通らないんだ」
「…うん」
「…で、その逆の奴も居た」
「逆?」
「うん。俺の逆。この都市の、どの会場でも、どんなコンディションでも、そいつの体調が滅茶苦茶でも、絶対に声だけは通る奴がいたんだ」
それを聞いて、安岐は思い当たる。
「もしかしてそれがBBのFEW?」
「そ」
ぱちぱち、とHALは拍手をする。
「…それで、あんたはその声がすごく好きだった?」
「うん、すごく好きだった。絶対俺にはできない声だった。別にそうなろうとか全然思ってはいなかったけど、好きで、自分には無いものはうらやましい」
彼は組んだ足の上に顔を伏せる。
「無いものねだりだ。別に本当に自分の声として欲しい訳じゃない。だけど人が持っていて、それをやすやすと使う様を見てると、欲しくなる。あったからって自分が使う訳でもないのに」
「そうだね。確かにあんたにはあの声は似合わない」
「俺もそう思う。でも皮肉だよね」
「何が?」
「結局さ、俺と『彼女』は同じ奴の声を好きになってしまったんだ」
…やはりその感覚は安岐には判らなかった。




