32 土岐から見たあの頃の出来事
だがやはりあいまいだった。
何があいまいだったと聞かれてもきっと自分は答えられない、と布由は思うのだが、何か大切なことがすっぽり抜けているような気がするのだ。
逆かもしれない。何かがすっぽり自分の心から抜け落ちているために、自分はHALに対してどんな感情を持っていたのか、HALが自分に本当はどんな感情だったのか、思い出せないのかもしれない。
ただ、朱夏の言う「いなくて寂しい」はHALには無かったような気がする。
「朱夏は」
「何だ?」
「そういう風に『いなくて寂しい』相手が居るのか?」
「居る」
彼女はきっぱりと言う。そこには迷いはない。
「それが例の安岐くん?」
「そうだ」
「向こうもそう思っているかな」
朱夏は首を横に振る。
「それでも安岐のために、こうやってわざわざ俺を捜したんだ?」
「当然だと思うが?」
「何で」
「もう一度会いたいからだ」
真っ直ぐすぎる答え。何となく布由は、意地悪をしてみたい衝動にかられる。
「だけど彼は君に助けられたからと言って、君に感謝するとも限らないよ。もしかしたら『川』の中の居心地が良くて、帰りたくなくなっているかもしれない」
「可能性としては否定できない。だが別にそんなことはどうだっていいんだ。感謝だって要らない」
「どうだっていい?」
「私がそうしたいからそうするんだ。そんな不確定な未来を懸念して動けなくなる、そのことの方が私にはよっぽど良くないことのように思える。だってそうじゃないか」
「まあそうだね」
布由は苦笑する。
「ごめん朱夏。俺はちょっとばかり君の真っ直ぐさに苛立ってた」
「判らない」
朱夏はふらふらと首を揺らす。
「布由の言うことは判らない」
「判らなくていいさ。君はまだ本当に子供と同じだから」
「だけど、子供だと言って、許されることと許されないことがあるはずだ。私は安岐と約束した。お前を呼んでくるって。そうすれば全て上手くまとまると、私も思った。だってそうだろう。都市は元に戻るし、私の中の不快な音も消える…」
「音?」
「私の中に、お前の声があるんだ」
「俺の? 何で?」
「判らない。確かにお前が必要だから、その手がかりとして入れたのだとは思う。でも不快だ。ずっとずっとずっと同じCDだけが頭の中で回り続けている状態というものが理解できるか?」
「…確かに拷問だな」
それも自分で選んだのではなく。
「お前の声が、というのではなく、同じものが延々回っているのが嫌なんだが…これは私の第一回路に入っているから、作った奴にしか消せないんだ。でも安岐が居ると、その不快さが消えるんだ」
「消える?」
そうだ、と朱夏はうなづいた。
「安岐だけなんだ。彼が触れているとそうなんだ。他の誰でも駄目なんだ」
「…不思議だね」
それは確かに不思議だ、と布由は思う。
「私をずっと保護していてくれた東風でも、私を可愛がってくれた夏南子でも駄目なんだ。安岐じゃないと」
「…それは強烈だ」
「でも布由は、そういう話を私がいるたび変な顔になっている。そんなに私の話は変か?」
布由ははっとして顔を上げる。
「そんなに変な顔してたか?」
してた、と朱夏はうなづきながら断言する。
「別に話は変じゃないさ。ただ、お前、HALと似てるのは外見だけだなあって思ってね」
「だけど基本的に違うところないと思うんだが。私が一度消去されて、新しく始めたのは第二回路だ。第一回路は同じはずなんだ」
「でもお前の話じゃ、HALの入っているレプリカはただの容れ物ってことだろ?」
「そうだ。だけど布由、容れ物と言っても、自分と同じ姿のものに、別の性格を入れたいと思うか? 常識として」
「…まあ、不気味だろうな」
朱夏から「常識」という単語が出るのもやや不気味ではあるが。
「そう言えば、安岐はHALに、訊ねたんだ。あの時」
「あの時?」
「私を使って、都市を元に戻すことを言った時だ。それまで何を言われても平気だったHALが、動揺した」
それは珍しい。
「何て訊いたんだ?」
「何のために…いや、『誰のために』そうしようとしているのかって」
「誰のために?」
朱夏はうなづいた。
「そうしたら、いきなりあの空間から追い出された」
「らしすぎる…」
「今までにもそんなことあったのか?」
「さすがに『空間』から追い出されたことはなかったけど…」
「部屋から追い出されたとかそういうことはあったのか?」
「あった」
「どういう時だ? 何か興味がある」
「それは…」
言おうとして、布由は、気がついた。
思い出せない。
その部分に、完全に霧がかかっている。
*
「あんたは忘れっぽい人ですよ」
相棒は辛辣に言った。
自分にはどうやら忘れていることがたくさんあるらしい。
その晩、その件についてみっちり話をしたくて、久しぶりに布由は土岐を呑みに誘った。
それも芸能人御用達の店ではなく、ごくごくありふれたチェーン店飲み屋である。ごくごくありふれすぎているので、彼らの姿は案外簡単に周囲に紛れ込んでしまう。
「よく昔はこういう店で呑みましたよねえ」
イカの姿焼きをつつきながら土岐はぐるりと辺りを見渡す。
「そーだよな。まだ俺達があの街に居た頃だ」
「もう十年、帰ってないってことになりますよね。それにあの県にも」
「まーな」
「布由さん徹底的に、あそこ避けてましたよね」
「ん? お前にはそう見えた?」
「見えました」
熱、と言いながらも土岐はイカを口に放り込んではふはふと冷ましながら断言する。
「その代わりといっちゃなんですけど、絶対その周囲の県ではこまめに回ったでしょ。**市民会館、とか**県民会館、とか結構普通のロックの人達が無視するような所。その県の人達が絶対行けるように」
「お前って鋭いのかボケてんのか、時々わからねーな」
「何言ってるんですか。俺は基本的にはボケてんですよ。その方が楽ではないですか」
「へいへい」
もちろん本気で言ってるのではないことは布由にもよく判っている。布由も自分の前に置かれたエビチリに箸をつける。
「こういう所の料理ってさ、全然味とか変わんねえんだよな、昔っから」
「マニュアルの世界ですからねえ」
「よく昔、インディの頃、言われたよな、たまには打ち上げ出ろって」
「ああ言われましたよねえ」
「でも結構逃げてたよなあ。つきあいとか面倒だったし」
「そう言えばあのバンドもそうだったじゃないですか」
「ん?」
土岐はHALのバンドの名を出す。
「そう言えば、そうだったな。あそこは朱明以外、酒に弱かったし…」
「朱明さんですか。あの人も結局あれでそのままあそこにいるんですよね」
ああそうだ、と思い出した。一度はメンバーにしたかった奴。それだけの腕と上昇指向を持っていた奴。
「正直言って、俺は朱明さん入れたかったですよ。あそこで入れていれば、ウチもずっとギタリスト居たかもしれませんよね」
「ま、過去は過去さ」
「そうですけれど。あん時、結構あいまいなまんまでしたでしょ」
「あん時」
「何ヶ所かサポートで出てもらったじゃないですか。俺あん時、結構演ってて気持ちよかったですからねえ」
「リズム隊として?」
「あれ以上の人がいなかったから、結局ウチは、専門にやってもらうことを選んじゃったじゃないですか」
「ああ、そうだったよな」
布由は運ばれてきたビールをコップに注ぐ。
土岐は空揚げに手を伸ばす。
「…美味い手羽先。みそおでん。どて煮。味噌煮込みうどん。串カツ… 全くいろいろありましたよねえ、あの都市には」
「うるさいっ。話が先っ」
「ああそう言えば、あの都市の会場って、何処でも布由さんの声、よく通りましたよね」
「そう言えばそうだったな」
一杯目が空になったのを見て、土岐は布由のコップに二杯目のビールを注ぐ。
「最初のB・Bからそうでしたよ。すごく俺、不思議だった」
「? 何で」
「だって、何処でもそうなんですよ。B・Bのようなすげえ小さいライヴハウスでも、アメジストホールのような大きいライヴハウスでも、ワーカーズ・ホールでも、市民会館でも、公会堂でも、厚生年金会館でも。…さすがに総合体育館は知りませんがね」
「あ、それともう一つあったぞ、制覇してない会場。国際会議場」
「あそこは今はその機能は果たしてないようですね。ロブスターだって、本当にただの総合体育館としか使われてないようです」
「お前詳しいな」
ちら、と土岐は相棒をのぞき見る。
「あんたが目を塞いでるだけですよ」
かたん、と音がする。それが自分の箸の落ちた音と気付くのにやや時間がかかった。
「だいたいあんた、だいたいのことについて前向きなのに、あそこのことだけは目を塞いでて、しかも気付いてないんですから」
「気がついてない?」
「そうですよ。俺はいつ気がつくかと思ってました」
「お前はいつから気がついてた?」
「あの後の最初のツアーの時からですね」
「そんな頃からかい」
「ちょうど俺達売れ出して、結構、中都市とか回れるようになりましたよね。地方都市って奴。だからあの都市に行けなければ、あの県の第二の都市に行くのが筋でしょ」
「まあそうだよな」
「なのにあんた、もうあの都市のある、あの県がないかのような回り方をさせたじゃないですか」
「そうだったっけ」
「社長に聞いたら、あんたが主張したって。確かに気になるのは判りますけど、そんなに無視するほど傷が深かったのかな、って」
そういうことは、そんな、空揚げを食べながら言うセリフではない、と布由は思う。
心臓がどきどきする。
酔いが回った?
そんな筈がない。たかがビールじゃないか。それもまださほど呑んでない。そして相棒の言葉は容赦ない。
「何か、あったんですか? あの頃、HALと」
「…何も…」
「何もなくて、あんたがそういう風になる訳ないでしょう?ね、俺はこう踏んだんですよ。あんたとの何か、で、HALはすごくショックを受けて、そこで声が暴走して、空間が歪んだ」
「SFじゃないか、それじゃ」
「SFですよ」
あっさりと土岐は言った。
「だって、あの都市そのものがソレですよ。そうなったモノが目の前にあったら、誰が反論できるんですか。それに、そうでなかったら、彼の声を都市から閉め出す理由が判りませんよ」
確かにそうだ。土岐の箸は次に肉じゃがに向かう。身体のわりによく食う奴だ。
「…で、空間がどーの、というのは俺の頭じゃ理解できませんが、空間と声がどうの、ということについては、気になることがあるんですよ」
「何だよ」
「さっき言いましたよね。あんたの声があの都市では何処でも通る、って」
「ああ」
「逆の事があの人達のバンドには言えたんですよ」
土岐もいつのまにか箸を休めていた。
「正直言って、おかしいんですよ」
コップを持ったまま、それを口に運ぶこともしない。
「例えばB・Bは首都だったら、規模的にはブレイクド・ボーン・クラブだし、アメジストはクラブ・ファニイですよ。西のあそこだったら、リバーサイド」
似たよう規模の会場のことを次々と土岐は口にしていく。
「でも何処だってあるじゃないですか。音響の善し悪し。どんな上手い人だって、会場によっては、全然抜けないことがあるじゃないですか」
そうだな、と布由はあいづちを打つ。
「だけど、あの都市では、全くいつも、どんな条件でもあんたの声は抜けましたよ。無茶苦茶良かった。逆にHALの声は駄目でした。とにかくあの都市と相性が悪かった」
「都市と相性が悪い?」
「としか言いようがなかったですよ。逆にあんたは異様に都市と相性が良かったんですよ」
言われてみれば、そうかもしれない。
「そう言えばお前、HALの声があの都市ではどーのって、どうして知ってるの? 結構当時、同じ日程ってことが多くて俺達行けなかったことが多かったじゃないか」
「藍地さんがよく伝えてくれましたから」
「藍地が」
「あの人もやっぱりベーシストだったし、そういうことあのバンドの中で一番良く気付いたの、あの人なんですよね。一番神経細かいし、リーダーだったし」
そしてようやく土岐は自分のコップに次のビールを注いだ。
「藍地があのバンドを作ったんだったよな」
「ええ。HALさん誘って。かなり惚れ込んだらしいですよね。当時。朱明さんもそうだ。あの人が見つけて引っぱり込んだんでしたよね。…あの位の熱意がうちにもあったら朱明さんも居てくれたかも」
「いや、それは無いだろ」
「そうですか?」
「だって奴は、HALの声に惚れたんだ。自分は泣き声に弱いからって」
へえ、と感心したように土岐は声を立てる。
「それは初耳でしたよ… でも泣き声ね」
くっくっ、と土岐は笑い声を立てる。
「確かに布由さんは歌で『泣き言』は言っても泣き声ではないですからね」
「ま、それはそれでいいんだよ。それに、朱明は結構俺を…」
「え?」
朱明は… どうだったろう。いきなりその部分がぼんやり、あいまいになっていることに布由は気付いた。
「どーしたんです?」
「おい土岐、朱明が俺のこと嫌いとか何とか言ったの聞いたことはあるか?」
「直接にはないですが」
「直接に? じゃ間接的にはあるのか?」
「うーん… こう言っていいのかなあ…」
「言えよっ」
「…じゃあ言いますよ。視線がねえ…」
「視線が」
「何っか、時々怖かったんですよ」
「怖い?」
「どんなこと言ってました? 朱夏は。彼については」
「朱夏はそうでもないが、奴は周囲には恐れられているらしいぞ」
「…はあ、なるほど…」
土岐は何となく納得したようにうなづいた。
「俺はそのへんがいまいち釈然としないんだが…」
「何がですか?」
「奴って恐がられる柄か?」
「場合によりけりですよ。あの人は、大切なもののためなら何でもできるタイプの人です。本当に、何でも、ね。その辺はあんたとよく似てませんかね?」
似てねえよ、と布由は吐き捨てるように言う。
そうですかね、と土岐はにやりと笑った。
「ま、あんたに似てる云々はどっちでもいいですけど… さっき言ったでしょう? あの人は、誰かが関係無い奴が、ドラムかHALに下手に触ると、ずいぶん怖くなったんですよ」
ドラムとHALを並列するところが妙と言えば妙だが。
「要は、何よりも大切なものってことですよね」
「…朱明は俺をそういう意味で敵視していたってことか?」
「意識してそうしてたかは知りませんがね。あの人は藍地さんほど優しくも弱くもないですから、露骨には出しませんでしたけど」
そういうお前が一番強いんじゃないか、と布由は相棒に向かってちらり、と横目でにらむ。
だが確かに考えられない訳ではない。
「いつだったっけ」
ふと布由はそんな疑問が湧いた。
「おい土岐、あの『都市』が閉じたのはいつだったっけ?」
この記憶力が良さそうな相棒に聞けば間違いない、と彼は思った。そしてそれは間違いではない。
「閉じたのは、十年前の、七月でした。七月二十三日。夏でした。ねえ布由さん、その日、俺達が何処に居たか、覚えてますか?」
「…いや…」
妙だった。そのあたりの記憶が自分の中で本当にあいまいになっていた。
「あの頃、ツアー中だったじゃないですか。うちはアルバムが出たばかりで」
「そうだったか?」
「…で、向こうはアルバム一枚につき、結構長いタームを置いたでしょう。だから向こうはアルバムを出した翌年でも、全国ツアーを組んで」
「ああ…」
そう言えば。
「うちが北回りで、向こうが南回りでした。…で、それがちょうど折り合うのが」
「あの都市」
「そうです」
布由は相棒の顔が真剣になっているのが判る。目の前の料理達は、いつのまにか彼らの興味の対称外になっていた。
周囲のざわめきは大きくなる。時間が時間なのだ。そして初夏は、最も若者が昼夜問わず活動的になる。
「あの日、俺達はオフでした。おまけに、実家のあるあの都市の隣の県まで来てました」
「隣まで」
「一緒に帰ったじゃないですか」
彼らは出身地が同じだから、帰る時は一緒のことが多かった。
「…記憶にない」
「…だろうと思いました」
はあ、と土岐はため息をつく。
「でもあんたのことだから、HALは友達…以上でしたね、…だったし、ライヴ見に行ってもおかしくはないと思ってました。俺がわざわざ誘わなくとも。まあ俺は俺で藍地さんに誘われてはいたんですから何ですが。ただあん時は家族孝行ということで」
「…」
「どうしたんですか?」
様子がおかしい。布由の顔色か、このあまり明るくない店内でもよく判るくらい悪くなっている。額には脂汗が浮いている。
「布由さんっ!」
「…大丈夫。…悪い土岐、ここ、出よう… 何かひどく気分が…」
「布由さんっ!」
どうして?
土岐が呼ぶ声が聞こえる。
ああそうだ。
記憶の彼と、今の彼がオーバーラップする。
そうだ土岐だ。たしか、あの時、奴は、何か知らないけれど、ひどく嬉しそうな顔して、飛びついてきたんだ。
そのまま布由は、眠りに入る自分が判った。




