2 ライヴハウスにて安岐、朱夏と出会ってしまう
ギリギリの音。
背筋を一気に氷でなで上げられるにも似た感覚が走る。
それが音の高さと音の色と音の速さのせいだ、と気が付く前に安岐はその音に首ねっこを押さえられていた。
強烈だった。
見えないくらいの速さで少女の右手はピックを上下に動かす。
ヴォリュームは強! ひたすら強!
爆音の様な前ノリのリズム、つりこまれていく、身体が勝手に動く、頭の中が音符だけになる。
見えない位の速さで動く少女の親指に銀の分厚い指輪が時々光る。
髪は長くはない。肩より少し短い程度だ。抜いても染めてもいない、生粋の、この国の人間の髪の色。ちょっと出来すぎくらいの黒。
「T-M」よりやや東寄りの町「I-2」。
そのメトロの駅の出口のすぐ前にライヴハウス「BLACK-BELT」はあった。
そこでは毎晩の様にライヴがある。プロアマ問わず、と言いたいのだが、あいにくこの都市に「プロ」はいない。CDを作って中央を含む正規のルートで販売して生計を立てるものを「プロ」と呼ぶなら、それはこの都市には存在しない。
とは言え、音楽でメシを食う者は多かった。
何故か都市は音楽に関係する者を優遇している。理由は誰も知らない。ただし行政レベルだけだから、せいぜいのところ、税金徴収の際、「特別還付金」という一項を加えた程度だが。
特にこの地区I-2にはそんな人間が多かった。ライヴハウスもこの街の規模にしては実に多い。
「俺このバンド初めてだよぉ!」
横で友人兼同僚の津島が怒鳴る。怒鳴りでもしなければ声は隣の奴にも届かない。
「でもすげえ!」
「何だってぇ?」
「すげえって言うの!」
「珍しいじゃん、安岐!」
実際珍しいことだった。
安岐の目はただ一つ、ギタリストの少女に注がれている。
ギターを抱えた身体はそう大柄ではない。腕はむき出し。だけど脚はゆったりとしたパンツで覆って。
音だけ聴いたら想像もつかないくらい華奢な腕を小刻みに動かし、強烈な音であたりをかき混ぜている。
耳ぐらいの長さで切りそろえられているらしい前髪が、動くたび顔を覆うから、時々見える太い眉と黒い目と、色味のやや少ない厚い唇以外はっきりしたとは判らない。
いつしかそれ以外の音は彼の耳には届いていなかった。
初めてだった。こんなことは。
ライヴ自体は初めてではない。時々、こうやってロック好きの津島に連れられて、いろいろなライヴハウスへは出かけたことがある。
けどこれは。
ふと胸の真ん中を彼は押さえた。
ステージの上を赤のライトがくるくると回りだす。サイレンが似合いそうなリズムだ。
髪が左右に揺れる。スネアに合わせて揺れる。脚は器用にベースのリズムをとって弾んでいる。軽いステップ。重い木のステージを猫科の肉食獣のしなやかさで跳ねる。回る。
光が一瞬の間を置いて一気に開く。呼吸が止まる。
撃ち抜かれた。
彼は確信した。
違う、音じゃない。
*
「何、お前、出待ちすんの!?」
熱あんじゃないの?と、津島はやや伸びかけた髪がうるさい安岐の額に手を当てた。
月曜の夜だった。
安岐はさほど音楽に詳しい訳ではない。少なくともこの友人程ではない。それにそもそもこの日の目的はライヴではなかった。
一方、友人の津島は音楽好きだった。
この都市に取り残されてから通いだした中学で出会った昔馴染みである。その頃からいっぱしのギターキッズを気取っていた。バンドこそ組んではいないが、今でもよくかき鳴らしているらしい。色を抜いた髪の明るさが、整ってはいるがやや「薄い」タイプの顔によく似合う。だが、その「薄さ」はやや彼を小柄に見せた。
一方安岐は、中肉中背、だがバランスのいい体つきのため、実際よりやや大きめに見られる。「着太り」だ、とよく津島はそう言って安岐をからかう。
髪の色も抜いたり入れることもなく、黒のままである。あまり手をかけると逆効果だ、というのはもと保護者の言である。前髪はやや長めではある。だがそれは伸ばしているのではなく、ただ散髪するのを忘れているだけである。
目が結構大きいのが、彼にとってはやや気にはなるところだったが、眉の形がいいので、さほど端から見て気になるほどではない。
「熱なんかねーよっ! 津島お前、用事あんだろ?さっさと帰れよっ!」
「へえへえ。別にいーけどさ、お前こそ早く帰れよ?」
お手上げのポーズを取りながら彼はにやりと壁に張り付いた猫的な笑いを浮かべる。
「津島っ」
「お前が変なトコ行くと、壱岐さんがうるさいんだよ」
「俺は大丈夫だよっ、それにここは安全地帯じゃねーか」
「あーそうだったな」
邪魔者は消えますよ、とひらひらと津島は手を振った。
散れっ散れ、と妙に自分の行動に照れくささを感じながらも安岐は裏出口の階段にぺたんと腰を下ろした。
まだ身体が熱かった。
もたれかかる手すりに頬を付けると、やや錆の感触が痛い。すすけた鉄のにおいがする。冷たくて気持ちがいい。頬だけでない。座り込んだコンクリートの冷たさがジーンズごしにじんわりと染み込んでくる。それが無性に気持ちいい。
どうしたんだよ全く…
腕まくりしたシャツから出した手で時々、熱くなったまま戻らない耳たぶを押さえてみる。腕時計のガラスで冷やしてみる。
大音量のせいでぼうっとしている耳には、遠くのサイレンの音がかすんでいる。
頭の芯はまだ何処ともつながらない。
今から何をしようか、どうしてここで待っているのか、考えるべきことはいろいろあるはずなのに、次にどうしようか、という考えがとりとめなく流れていくばかりで、それを捕まえるすべを知っている自分の頭の中の回路とつながらない。
あの大音響のせいだったのか、それともあのかき回した音そのもののせいなのか。それとも、音を出していた本人のせいなのか。
判らないけど。いや、判っているのだろうけど。
そんなことどっちでも良かったのだ。
ただ、さっきのギタリストをもう一度見たい、と思ったのだ。ステージの光の中、ひらりひらりと身をかわす様がまだ目に焼き付いている。
と。手すりに振動が伝わった。
彼は反射的に立ち上がる。扉が開いた。
彼女だ。
ギタリストの彼女はギターのケースを片手に持ち、もう片方の手でだるそうに、さらさらとした髪をかきあげた。やっと顔がはっきり見えた。
妙にメタリックに光る大きな瞳。色の無い、だけど厚めの唇。濃い太い眉。それは世間の流行は無視したような天然ものだ。抜いたり描いたりしているようには見えない。
だけどそれがよく似合っている。
ステージで着ていたものに短めの黒皮のブルゾンを羽織っただけの恰好だった。どうやら終わったからと一足先に出てきたようだった。
だが、彼の存在など全く気に止めず、といった状態でさっさと彼女が自分の前を通り過ぎて行きそうになっていたので。
もっともこんな通りすがりの奴を気に止める必要など彼女にも確かにないのだが。
だが。
「…ちょっと!」
口が勝手にすべってしまった。
彼女は足を止めた。そしてきょろきょろと辺りを見渡す。
視線が合う。安岐はその瞬間を逃さなかった。慌ててギターを背負ってない方の腕を掴む。
ああ、今日はこれで二度目だ。
「何だ?」
厚めの唇が動いた。
「あんたを待ってたんだ」
「私を? 人違いではないのか?」
手を離せ、逃げやしない、と彼女が言ったので安岐は手を離す。確かにこのまま力一杯掴んでいたら壊れてしまうのではないか、と思われる程華奢で柔らかな腕だった。
「私ではないはずだ。私をいちいち捕まえるような知り合いはいない」
抑揚のあまりない声が漏れる。不安定なメゾソプラノ。安岐は首を大きく横に振る。
「ううん、あんただよ」
「何故だ?」
「あんただろ? メイクは取ってるけど、さっきのギター引いてたの」
「それはそうだが」
安岐は立ち止まった彼女の前に一歩、踏み出す。
「あんたが何処の誰だか知らないけれど、俺は、さっきのバンドのギタリストを待ってたの。あんただろ?」
「ああ」
確かにそうだが、と彼女はうなづく。
「良かった」
あからさまに彼は嬉しそうな顔になる。
「…? 変な奴だ」
彼女は微かに眉根を寄せる。
「何で?」
「こういう女のギタリストを出待ちする男なんて私は初めて見た」
「そう?」
「まあ女は時々居るが… だがお前は男だ。何処が良かったとでも言うのか?」
どうやら冗談で言っている訳ではなさそうだ、と安岐は感じる。世界史の判らない部分を指摘する生徒のように、ひどく大真面目にこのギタリストは安岐に質問しているのだ。
安岐は苦笑する。
「…だってあんた上手いし、すげえ切り裂くみたいなギターだし、恰好いいし、綺麗だし…」
「…さっきから私は不確定な二人称で呼ばれているようだが…私はあんた、ではない。朱夏と言う」
「朱夏?」
「朱色の夏と書くらしい」
「へえ。綺麗な名」
「名はそうかもしれんが…つまらんことをぐだぐだと言うな」
「そう?つまらん? 俺には大事だけど」
腕組をして朱夏は本気で困った様な表情になる。
「お前の言っていることは私にはよく判らん。『恰好いい』は以前客の女の子に言われたことがあるし、ある程度理解できるが、『綺麗』は判らん。判らんものは心地よくない。だから言うな」
おかしな喋り方だな、と安岐は思う。一見理屈めいているし、言いたいことは判らなくもないが、何処かずれているような気もする。
それに初対面の男をお前呼ばわりする女というのも珍しい。
「どうして?だって朱夏は綺麗だもの。オレは綺麗なもんが好きだし」
「冗談を言うな」
彼女は語気を強める。
「『綺麗』というのは…私にはよく判らんが、一般的に私のような外見のことは言わない」
「一般的? 何処の一般的だか知らないけれど、でも俺はそう思ったよ」
売り言葉に買い言葉だな、と安岐は思う。だが買い言葉としてすぐに飛び出すものには本音がこもっている。
「俺は自分が朱夏の言う『一般的』かどうかは知らないけど、俺には朱夏は綺麗に見えた」
「…」
「少なくともステージの上では。朱夏はステージの上の自分が綺麗だって思ったことない?」
朱夏は目を見張った。真っ直ぐだった眉が片方、綺麗にアーチを描く。階段の一段上に居たから、安岐とほぼ同じくらいの高さにある視線がまっすぐ彼の方に向かう。
「そのあんたの出した音か、あんた自身かは判んないけれど、さっき俺は撃ち抜かれたような気がしたんだ」
「撃ち抜かれた? 何処にも銃などなかったぞ」
「…そりゃあっちゃ困るだろ。ライヴハウスは協定で決まっている休戦地帯だ」
そこでは如何なる集団の抗争も認められない。
「そりゃ、見た瞬間なのか、音を耳にした瞬間かどうかは覚えてないけど。ただそう感じたんだ。それがあんたなのかあんたの音なのかそのへんは判らないけど」
安岐は一気にそれだけまくしたてた。大真面目にそんなことを言ったことがないので、心臓が妙にどきどきしている。
「つまりは理由ははっきりとは判らないのだな?」
「…うん」
素直に彼はうなづく。
「私は原因と結果がはっきりしないものは心地が悪い」
「だけどそう思った、というのは本当だもの」
「…」
どう言っていいのか、朱夏はとても困っている様だった。とりあえず何とかなる言葉を捜しているようにも見えた。
「…とにかく私は急ぐ」
「じゃとにかく今度会ってくれない?」
突差に安岐はそう言っていた。今朝の奴のようにすりぬけられては後悔することが目に見えている。
心臓の鼓動がどんどん速くなっている。さっき聴いたドラムの音が頭の中で繰り返される。2ビートで、ハイハットがうるさいほど叩かれている。
「は?」
朱夏は問い返した。こういう反応は予想していなかった様である。
「駄目?」
彼女は数秒押し黙る。そしてやがてぼそっと言った。
「…判った」
「約束! また絶対ここに来るから」
「判ったと言っているだろう!」
怒鳴りつけてから朱夏はふと思い出したように、
「そういうお前は名はなんと言うのだ。たとえまた会うにしても何でも、呼びにくくて仕方がないではないか」
「…別にいーじゃん」
律儀と言えば律儀だな、と彼は思う。
「それは困る」
「だって俺は別に困らないもん」
「…勝手にしろ」
「安岐だよ」
くす、と彼は笑って付け加える。
「あき? …変な名だ」
「そお?」
満足そうに笑みを浮かべると安岐は立ち去ろうとする彼女に手をひらひらと振った。
何なんだ、と早足で歩きながら朱夏はつぶやいた。
ふと立ち止まる。彼女はん、と顔をしかめる。耳を押さえ、そして頭を押さえる。
だがやがてあきらめたように、手を離し、地下鉄の階段を駆け下りていった。




