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26 浮遊する存在、青い空の下、曖昧な感情の発露

 その話が出たのは、さらに時間が経ってからだった。


 あの夏のロック・イヴェントは「奥地」だった。

 都会に慣れ親しんだ人間にとっては、交通機関から見放されたような所である。終電ならぬ「終バス」がトリまで見られるかどうかの生命線だったらしい。

 一体誰が最初に企画したのか、と朱明は思わずにはいられない。


「…どう考えてもこの顔ぶれと炎天下って似合わないと思うが…」


 主催のラジオ局の人がぽつんとつぶやくのが聞こえた。

 まあ一年前だったらそうだろうな、とその時の彼は思った。

 その時出場が決まっていた四つのバンドは、当時の同類項くくりの名目としては、「化粧系」だった。ステージに出る時に必ず化粧をし、派手な格好をするバンド。その場合、音楽性は特に関係はない。

 だが一口に化粧系と言っても、中味ときたら今はほとんど素顔で演っている「もと」化粧系だったり、そもそも女性のナチュラル・メイクのようなものしかもともとしていない「薄」化粧系だったり、あげくの果てはとりあえずウケるためにカツラで長髪を演じていた「にせ」化粧系までいる。

 さすがにその話を知り合いのライターから聞いた時は朱明も爆笑した。

 だがお日様を避ける出身が出身ゆえ、さすがに皆暑さには弱いようで、日陰へ日陰へ、エアコンのある方へ、とひまわりの反対に顔を向けてしまうのは仕方なかったのかもしれない。何と言っても、その年の暑さは半端ではなかった。毎日毎日気温は体温に近づいていたし、実際その日もそうだった。

 だが朱明のバンドのメンバーは元気だった。

 前日のリハーサルの隙間を縫って、売店で海パンを買ってはプールではしゃぐ奴もいたし、のんびりと青い空を眺めながらビーチパラソルの下、芝生に転がってる奴もいた。

 そして彼はと言えば、床にべたりと座り込んで、延々ドラムと付き合っていた。その年の彼はそうだった。もともと好きで職になってしまったドラムだったが、その年は特にその可能性を引き出したいと、時間を惜しんでドラムと付き合っていた。

 と。


「朱明お前、元気だなあ…」


 のんびりした声が背後から聞こえた。

 HALが立っていた。長くまっすぐにしている髪を後ろで無造作に結び、顔半分を隠すようなサングラスをかけていた。

 たっぷりしたシャツを無造作に羽織っているだけなのだが、ときどきのぞく、白いくせに全然焼けもしなければ赤くもならない肌が妙に不思議に見えた。

 よっこいしょ、と声を立てて彼は朱明の横に座り込む。


「あのなHAL。かけ声掛けて動きだすってのは老化の証明だとよ」

「どぉせ俺はバンドのおじいちゃんだからな」


 彼は形の良い眉をややコミカルに動かしてみせた。どういう訳か、ずっと手は後ろに回している。


「結構手こずってる?」


 HALはセッティング途中のドラムを眺めて訊ねた。


「んー… いや、そういう訳じゃねえけどな。野外だからちょっと余計に構ってやらねえといい鳴りしねえからなあ」

「広いよね」


 HALにつられて朱明はふっと空を見上げた。


「青いよな」

「うん。夏ってこういう色だよね。よくさあ、西から首都へ移動する時の途中にこういう色の空が多いよね」

「へえ」

「高くてね。結構途中に自然がたくさんある地域あるじゃん。あのあたり」


 彼はまだ閉ざされる前の「都市」の名を出した。


「新幹線じゃあなあ」

「昔はよく鈍行にも乗ったよ。夏とか安い切符買ってさ、適当に乗り継いでくんだ」

「ああ、お前もやったんだ?」


 そういえばと彼は思い返した。


「お前にも放浪癖あったっけ」

「あったあった。やったやった。で最終逃すと、深夜の鈍行って本線じゃ一本しかないからさ、すごく眠いの我慢してじぃっと待ってるんだ」

「あぁ判る判る。でも俺はどっちかというと待ってる間、その辺の連中とわいわいやってたくちかな」

「へぇ。さすが」


 まるでそんなこと思っていないような口調で彼は言った。


「それにしても暑いね」


 HALは言った。そおだな、と朱明はうなづいた。


「大気が重さを持ってるみたいだ」


 だが言った本人の言葉には重力がない。


「確かに重いなあ」


 そう朱明が言った時だった。じゃん、と彼は薄オレンジと薄紫の裏表のうちわを取り出した。


「扇いであげよう」


 そして彼はぱたぱたと風を送った。


「…それいいなあ。一本置いてってくれ」

「やーだ。これは俺の」

「ケチ」

「その代わりこれをあげよう」


 何処に隠していたのやら。彼はじゃん、と再び同じうちわを取り出した。

 その夏の「営業」の際配りまくったものである。どちらにも、彼らのバンドの名やアルバムの名が印刷されている。


「お前の背中は何でも出てくるのかよ」

「あれ、知らなかったの?」


 彼はくすくすと笑った。


「それにしてもよくこんな暑い所で作業できるね」

「んー? 別に暑いのが特別好きって訳じゃねえけどな」

「HALさーん、朱明さーん」 


 差し入れ、と向こうからやってきたスタッフからHALは缶コーラを受けとった。

 はい、とHALは一本朱明に渡した。缶は濡れていた。どれだけ急いで持ってきたとしても、瞬く間にそれは汗をかく。ぷしゅ、と音をさせてプルを押し込むと、朱明はそれを口につけ、一気に飲む。すると汗が一気に吹き出した。

 ふぅ、と一息つくと、首にかけていたタオルで口と額をぬぐう。

 その朱明の様子がいかにも気持ちよさそうに見えたのか、やや不機嫌そうな顔になって、HALはつぶやく。


「気が知れない」

「何が」

「暑いの、俺は嫌い」

「じゃ向こうへ行けば?」

「こんな中なのに相変わらず黒ばっか着てるし」

「あいにくこれは俺の趣味なの」

「悪趣味」

「いえいえ」

「よく判らない奴」


 不毛な会話だ、と朱明はくっと笑う。HALとの会話はたいていこんな感じなのだ。


「俺だってお前はそう知れたもんじゃねえし」

「へえ」


 HALは不機嫌転じてくすくすと笑う。そういう所が知れないんだ、とは朱明もあえて言わない。だが彼は続けた。


「でも朱明はさ、俺と絶対似てる部分あるんだよ?」

「何で」

「だってアレが見えるじゃん」


 HALは真顔になる。そんな顔は、本当に久しぶりだった、と後に朱明は思った。


「俺にしてみりゃ、お前が気付いている方が不思議だったよ」

「そお? でも判るじゃん。あそこでさ」


 再びHALはあの「都市」の名を出す。


「俺にまとわりついて離れないんだから…お前さ、アレが本当は何なのか知ってる?」


 時々缶コーラに口をつけながら、変わらない調子でHALは訊ねた。


「いや? お前こそ知ってるのか?」


 まあね、と彼はうなづいた。意外だった。


「知ってるといや知ってるし違うといや違う。でもあいまいなものだし、…まあとりあえずは俺以外には実害はないし」


 あいまいねえ、と朱明はつぶやいた。


「今でも見える?」


 HALは不意に訊ねた。え、と彼は問い返した。


「何」

「アレ。あの影」

「見えない。お前は?」

「俺も見えない。ここじゃ見える訳がない。つまりはそういうものだよ」

「そういうものか?」

「そ」


 喋ったせいか、頭を使ったせいか、喉の乾きを覚えた。朱明は缶を取り上げる。勢い余ってアルミの赤い缶はぺこ、とへこんだ。


「…げ、空…」

「ばーか。さっき一気に飲んだじゃん」

「そーだった…」


 くすくす、と笑ってHALは缶を自分の頬に付けた。そしてまだ冷たいな、とつぶやくと一口含む。


 と。


 じゃあまた、とHALは立ち上がった。


「クーラーボックス詰めを注文しとくよ」


 ああ、と朱明は答えた。

 ひどく冷たい舌だった。


 何気なく朱明はHALの後ろ姿を見送っていた。

 見えなくなると、彼はくくった髪とバンダナを一度解くと、うっとうしくないように結び直した。するとその拍子に、視界の反対側に居た人物が目に入った。

 風の無い緑の風景は、さほどに動いた気配もない。ということはその人物は、結構前からそこに居たのだろうな、と朱明は気がついた。

 だったら奴は見たのだろうか。

 きり、とT字でスネアのビスを締めながら彼は思う。冗談めいたHALの行動は、昔からあった。それこそ彼が加入した直後くらいからあった。

 うっとうしいことやどろどろしたことは嫌い、と公言しているくせに、HALは男女関わらず、笑顔や軽いキスくらいを投げるのはざらであった。

 さすがによせよせと逃げていく芳紫は別として、そもそも彼を引きずり込んでヴォーカルに据えた藍地や、別に嫌がりもしない朱明は、彼の悪気のないセクハラの的になっていた。

 藍地が嫌がっていないことは、傍目にも判った。

 策士の様な顔をして実は良い人であることを全く隠せない藍地は、明らかにHALに惚れ込んでいたし、別に隠す気もなかったらしい。だからまあそれは判る、と朱明も思った。

 だが、どうして自分にまでそういうことを仕掛けてくるのだろう、と考えるとまるで答えが出ないのだ。

 何しろ、その頃HALに本命が居たことは、メンバー達の公然の事実だった。HALも隠さなかった。彼にしては珍しい程何もはぐらかすこともなく、その相手と付き合っているように朱明にも見えた。

相手は自分も良く知っている奴だった。BBの、FEW。

 朱明が自分の、このバンドのメンバーとしてBBに最初に会ったのは、ある雑誌の対談だった。

 とは言え、雑誌もその時に用があったのは、ヴォーカルであり、バンドの顔であったHALだけだった。一応全員揃ってその編集部に参上したのだが、結果的には、あぶれた楽器隊同士で交流が深まってしまったとも言える。

 朱明にしてみれば、苦笑したくなるような再会だった。実際その時の布由の顔はなかなか見られるものではなかった。

 その雑誌は、当時よくあった写真系の音楽専門誌で、その頃彼らのバンドとBBは新しく力をつけてきたバンドとして、よく比べられた。

 そしてその二つのバンドの中心的存在であり、一種カリスマ的要素を持つヴォーカルの二人が連載で対談をする。それがHALとFEWだった。

 当初は冗談だったらしい。遊び好きな編集長が適当に「第一回」などとつけてはみたものの、「第二回」は無いだろうと踏んでいたらしい。

 何しろ当時、ヴィジュアル重視という点以外、全く音楽性も人間性も違っていそうな二つのバンドである。本当にただの冗談のつもりだったのだ。したがって、その対談の載せられる場所も、当初はひどく雑多なコラムばかりの並ぶページにあった。

 ところがそこで美味しい誤算がおきた。その対談が妙に受けたのである。

 受けたのならば、記事は拡大すべきである。当然である。直接対談にして、二人揃った写真も載せる。本人同士の交流が深まるにはうってつけの状況だったと言える。

 それを思い出すたびに、朱明は今でも、当時の編集長を殴り付けたいような衝動にかられる。

 そんな機会がなくとも、当時の状況からしたら、彼らのバンドとBBは何処かで会っていただろう。メジャーのレーベルからデビューした時期も近く、他でも比べ称されることは多かった。あの雑誌で何やらしなくとも、比べられる二つのバンドが出会う機会はあっただろう。

 だが、確かに決定的だったのは、あの出会いだったのだ。

 朱明はBBを知っていた。下手すればそこに正メンバーとして入っていたかもしれないバンドである。ヴォーカリストであり、BBのバンドリーダーであるFEWの、引力のようなものもよく判っていた。だから。

 当時から、彼は結構嬉しそうに受話器を取るHALを見て複雑な気分になったものである。

 基本的には、HALは誰にもあいまいな感情しか見せてなかった。

 少なくとも当時の朱明は見たことがなかった。

 本当に嬉しい訳でもないけど笑う。本当に悲しい訳でもないけれど、困った表情をする。そして、本当に悲しいことがあったしても、絶対に泣かない。顔に出さない。行動に出さない。

 変わった奴だな、と最初は思った。

 だがそれがおかしい、と気付くのには時間はかからなかった。そしてその「おかしい」は「気になる」に変わり…


 やがて、「目を離せなく」なった。


 朱明はわりあい自分の感情については冷静に判断するタイプだった。自分の感情も人の感情も、冷静に、その正体が何であるのか考察し、結論を出すのが普通だった。


 だから、彼はすぐにその感情の正体の名前が判った。

 しかも、彼はその感情を案外簡単に認めてしまった。


 朱明は世間の常識を一応知識として知ってはいても、それが全く身に染み着かない男だった。常識というものは、社会の尺度であり、それが必ずしも「正しい」か「正しくない」かの二つで割り切れるものではない、と考えていた。

 だから彼は簡単に自分の感情を分析し、認めた。

 感情は、理性に優先する。まず感情があり、それは事実であり真実である。それを分析し、現実に生かすのが理性なのだ、と。逆であってはならないのだ、と。それが彼のポリシーだった。

 判りやすい言葉で言えば、彼はHALという人間に、意味もなく惹かれていた。

 何故かと言われれば、彼は答えただろう。判らない、と。実際判らなかった。だが言葉にならない部分では、おおよそこの様に解釈していた。


 HALが全てのものごとに絶望していたように見えたのだ、と。

 彼がどんなものごとにも「終わり」を夢見ているかのように見えたのだ。


 もちろん朱明とて簡単に全てのものごとに希望を持つというタイプではない。この世の全てのものを薔薇色に見てしまうには、彼は頭が良すぎた。

 だが朱明はあくまで現実主義者だった。そこにあるものを、そこにあるように認識し、ただその現実を抱いて、とりあえず前へは進もう。そうするしかないのだ。だから「終わり」はその際意識しない。

 立ち止まることはあるが振り返りはしない。ただそれだけである。そんなことしても仕方がないと判っているだけである。

 そういう彼から見ると、HALは時々ひどく馬鹿に見える。

 そして、ひどく悲しく見えたのだ。

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