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25 朱明がその声に捕らえられた過去

 翌日速達書留がきた。


 わざわざそこまで出向いてしまった。

 どうしてそこで足が向いたのか、後になっても朱明には判らない。

 だが、そのチケットに印刷されていたバンド名が妙なものだったことと、その即断即決即座の対応が面白かったのかもしれない。だからまず、客として見に行った。

 薄暗いステージの上に立ったのは、四人だった。

 だか最初は三人かと思った。

 さほどキャパシティの大きいとは思えないこのライヴハウスは、ステージがそう高くない。だから、そのヴォーカリストが既に定位置についているのに気付いたのは、音に合わせて客が動き出してからだった。

 次の瞬間、視界が奪われた。

 朱明は目を大きく広げた。

 白っぽいふわふわした服を着た、長いゆらゆらした髪のヴォーカリストは、いきなりこちらを向いてきつい視線を飛ばしてきたのだ。

 本人にはその意識はなかったかもしれない。だが朱明にはそう思えた。そのくらい鋭い視線だった。

 そのヴォーカリストは、小柄で、それまで見た奴にはいないタイプだった。

 華奢で、手の動きが滑らかで、足どりが軽かった。

 それだけ抜き出せば、形容詞は「可愛い」が一番正しい。だがその本人から出る声は、その外見と全くかけ離れていた。

 違和感。無茶苦茶な違和感があった。

 自分ほどではないが、少なくともその外見から出るとは、普通予想ができない程の低音だった。

 しかも、叫ぶのだ。ひどく怒りながら。

 何じゃこりゃ、と朱明は思った。

 怒っているのが確実に判るのだ。音程は所々外すし、感極まると歌詞も何処かへ行ってしまうようで、省略甚だしい。

 くるくるとその白っぽい服や長い髪を振り乱しながら歌うせいか、声量もそう大きくはない。

 だが、聞こえる。耳には届いた。

 見えないな、と次第に朱明は人混みの中に分け入っていった。

 と、ひどく不機嫌そうな瞳がステージの上からにらんでいるのが露骨に判ってしまう。明らかに自分の方へ目は向いていた。


 俺が一体何したっていうのよ。


 朱明はこうなったらこっちも応戦してやるぜ、と真正面の三列目あたりでにらみ返した。

 そんなヴォーカリストの態度にも関わらず、観客の少女達は、持ち込み禁止の筈のカメラのシャッターを露骨に切り、音にノるより先にうっとりと彼を見ている。

 何に苛立っているか、なんて一目瞭然だった。少なくとも朱明には。


 ―――後で聞いたところによると、彼らのライヴで、そんな、朱明のように黒づくめで来る男などそういなかったから、つい目が行ってしまっただけらしい。そこへもともと気合いが入るとひどく怖い顔になるらしいそのヴォーカリストは、まるでガンを飛ばしたように見えるのだ、と。


 まあそんなことは後で判った話で、とにかくその時点、そのライヴでは、結局彼と朱明はガンの飛ばしあいになってしまったのである。声はともかく、音はあまり彼の耳に入っていなかった。

 変なものである。音を聴きにいった筈なのに、声しか記憶に残っていない。そんなことは初めてだった。


 電話の相手に言われていたので、打ち上げに顔を出してみた。良かったら来てくれ、と速達の中にもメモがあったのだ。

 その日の打ち上げは、前任ドラマーの送別も兼ねていたらしい。ややムードが湿っぽかった。

 あ、とまず電話の相手であった藍地がぱかっと口を開けた。あんがい彼は驚いたらしい。

 だがそれはすぐに嬉しそうな顔に変わった。

 来てくれたんだ、と藍地は朱明に向けて手を上げ、笑った。

 ステージの続きで、髪を立てて化粧も濃いのだが、この目の前にいる藍地は電話の印象に近かった。穏やかな中音域の声。そして西のイントネーションと一緒になだれこんでくる、特有の気づかい。よく来てくれた、と彼は即座に他のメンバーを紹介し始めた。

 打ち上げの料理が並ぶテーブルの、空いた席に朱明はほとんど無理矢理押し込まれた。

 長身のギタリストの芳紫は、初対面の相手にも妙に明るかった。藍地の態度が、それでも「お客さん」に対する丁重なものであるのに対し、甲高い声で、最初からフレンドリーだった。

 言葉の端々にがんがんにギャグを飛ばし… 飛ばしていない時でもその言葉自体が笑うを誘う芳紫は、周囲に突っ込まれながらも、それに輪をかけて飛ばしまくっていた。

 アルコール類を呑んでいる気配はない。呑まなくても切れる体質らしい、と彼は踏んだ。

 逆に、ステージでは彼に露骨にガンを飛ばしたヴォーカリストは、妙にぼんやりとしていた。そして藍地は彼を朱明に紹介する。


「紹介するよ、ウチのヴォーカルのHAL」


 それを聞いた時、朱明の脳裏には、コンピュータ会社の看板が浮かんだ。

 よろしく、とHALは朱明にぺこんと軽く頭を下げた。

 あ、どうも、と朱明もそれにつられるように頭を下げた。だが頭を上げた瞬間、奇妙な感じがした。

 目の前の相手の目は死んでいる、と思った。

 ぼうっと、焦点をずらしたまま、何か別のものを見ているようだった。

 真正面に居るのは自分のはずなのに、自分などまるで見えてないようだった。

 いつもこうなのか、と藍地に聞くと、今日は特別だ、と苦笑して藍地は答えた。前のメンバーが抜けたしね、と。

 ふうん、と朱明はうなづいた。



 とにかく合わせてみよう、という話になり、西の都市にいる間に、と翌日朱明はバンドのメンバーとスタジオに入るという話になった。

 藍地はにこやかだがやはり強引だった。別れ際、時間と場所を指定すると、二本のテープを彼に手渡した。


「ヘッドフォンステレオ持ってる?」


 彼はうなづいた。必需品ではある。


「何のテープ?」

「こっちは今日の」

「こっちは?」

「こっちは、こないだウチも参加した、オムニバスアルバムのコピー」


 そのオムニバスアルバムの名前は彼にも聞き覚えがあった。BBのFEWが面白いコンセプトだ、と言っていたものだった。

 とすると、ただの集団という訳ではなさそうだなと彼は思った。


「で、俺に明日までにコピーしろって言うの?」

「何もコピーじゃあなくてもいいよ」


 藍地は西のイントネーションで、優しく、だがはっきりと言った。何となくそれは彼に挑戦しているかのようだった。


「わかった。じゃあ明日な」

 朱明は苦笑してテープを受け取った。



 泊まったのは、同じスタジオミュージシャンのようなことを演っている友人のところだった。意外にも、友人はそのバンドの名前を知っていた。


「こっちでは結構有名だよ」


 へえ、と軽く答えて、彼はデッキを借りた。ヘッドフォンステレオもあったが、やはり聞けるならこっちの方がいい。まずライヴテープを入れた。途端、結構おどろおどろしい音が流れてくる。


「ああ、それは多分昔の曲だよ」

「詳しいな」

「まあね。今のギターが入って、でもずいぶん明るい音になったっていうけど」

「ギターも変わってるのか」

「ありがちなことだろ?結構あそこのリーダーは… ベースの奴だよ、頭いいらしいし」

「そんな気はしたな」


 そして声が入る。やっぱり怒鳴っていた。


「そう上手くはないよね」

「だな」


 そう。確かにそう上手いとは彼にも思えない。あの場に居た時もそうだったし、こうやって平面的にテープで聴いてもそれは同じだった。

 取り立てていい声、というのではない。抜けだって悪い。


 …なのに。


「おい朱明、どっか悪いのか?」

「へ?」


 黒い太い眉を大仰に寄せて、友人の問いに振り返る。


「何かすげえ、変な顔してるぜ」

「…うーん…」


 実際、彼もどう考えていいのか判らないのだ。

 決して上手くはないのだ。なのに、何か引っかかる。

 彼は直感を重視する。その直感が何か告げているのだ。


「ここいらでは人気あるんだよな? このバンド」

「うん。でも、あそこのヴォーカル目当ての女の子ばっかってこともあるぜ。だって見たんだろ? あのヴォーカルの」

「HAL?」

「そう、そのHAL。とんでもねえ、って感じじゃん」

「とんでもねえ?」

「あのルックス自体が、もう反則って感じじゃん」

「…へ? そうか?」

「何お前、そう思わなかったの?」

「…」

 確かに華奢で可愛いとは思った。

 多少化粧が濃いとは思ったが、化粧などしなくても整った顔、大きな目、深い二重三重のまぶた、やや厚めの唇、同じくらいの歳の男とは絶対に思えないようなその顔だの身体だののしなやかなライン。

 確かに目に入っていたけれど。


「お前結構鈍いんじゃねえ?」

「うるせえよ」


 そしてテープを変える。

 ライヴテープはごちゃごちゃとしすぎてやや掴みにくい。オムニバスアルバムのコピーの方なら、きちんとした録音だろう、と。

 B面の二曲目。律儀にもテープはそこに合わせてあった。

 そしてその音が流れた時、彼はあれ、と思った。


 浮遊する音。


 あれ? と友人も鳩豆な表情になっていた。こんな音だったのか、とあらためて気付いたように、目を丸くしている。


 取っかかりを見つけた。 


「一曲だけ」


 翌日、スタジオに入ってきた藍地と芳紫に朱明は言った。

 彼は時間より早く出向いて、押さえてあったスタジオのドラムを自分のやりやすいようにセットしていた。


「一曲だけ?」

「あのオムニバスアルバムの中の曲。他の曲は、何が何だかさっぱり判らない」


 あけすけな口調で朱明は言う。

 初めから手加減するつもりはなかった。向こうもこちらをパーマネントなメンバーとして誘おうとしているのだから、初めから自分らしくやっていかなくては意味がないのだ。


「…そうだね」


 怒ったな、と朱明は思った。どうやらこのバンドリーダーは一見穏和な外見をしていて、ずいぶんと負けず嫌いらしい。だが彼は、だからと言って手加減するつもりはなかった。

 要は、音なのだ。それでお互い納得できたら正解。できなかったら、それだけなのだ。

 朱明は前日の夜、何度も何度も、曲を聞き返した。聞き返しすぎてテープがよれてしまったくらいだった。

 友人は先に寝るからヘッドフォンで聴いてくれ、と彼に注文をつけた。そして煙草の吸いがらがいつのまにか灰皿にあふれていた。

 彼はCDの中のものと同じドラムを叩くつもりはなかった。それでは意味がないのだ。だから、彼は、それ以外のものを身体に叩き込んだのである。

 そしてその中心に、あの声があった。


 こんな声だったのか?


 彼は最初に聴いた時点でかなり驚いていた。怒っていないHALの声。何となく固さはあったが、訳の判らないことをわめいているのではなく、歌に聞こえた。声が届いた。言葉が聞こえた。


 声が、絡みついた。


 それが、ずいぶん心地よかったので――― 

 もう一度生でそれを聴きたい、と思ってしまったのだ。


「…じゃ演ろうか」


 リーダーが合図する。このくらいのリズムで、と彼は手で合図する。

 朱明は髪が落ちないように黒いターバンをぎゅっと頭に巻いた。

 ハイハットを四回打つ。明るいギターの音が入ってくる。ベースラインはずいぶんと動き回る。まるでそれ自体が歌っているようだった。

 そこへ、その声が入ってきた。

 囁くように… 何処か外国の言葉めいた発音で、HALは言葉を放った。

 朱明は、とりあえずは、その間、基本的な4ビートのリズムを叩いていた。だが、ギターソロの合間に時々入れるフィルは確かに彼のものだった。

 それに気付いた藍地は彼の方を向く。その間も藍地の手は、うねうねとしたメロディアスなベースを弾いている。

 明るいギターの音。だけど明るいだけではなく、何処か切ない音。何故かライヴではその正体が掴めなかった、その音。

 そして声。

 やはり、叫んでいた。

 だけど、それは怒りではない。

 怒る対象がそこにないせいなのか、そんなこと考えてもいないのか、その声の中には怒りはなかった。

 だが、あの絡みつくような感触もなかった。

 何だろう、と朱明は叩きながら思った。何かに似ている。だがその似ているものが思い出せない。


 何だったろう?


 曲の調子は次第に盛り上がってくる。ふっと、彼はその盛り上がりに比例するように絡みついてくるものがあるのに感じだした。

 最後の間奏。きらきらとしたギターの音の間から、吐息のような声が漏れてくる。ふわふわとタイミングを取りながら歌う姿が目に入る。

 朱明はここぞとばかりにスネアを打ち下ろした。その音に正面で背を向ける相手が一瞬びくっとしたのに気付く。

 ちらり、とHALは朱明の方を向いた。視線が一瞬絡む。

 ちくり、と何かが胸を刺したような気がした。 

 そして最後のサビで、ヴォーカリストは、叫んだ。感極まった声。


 そうか。


 その時、朱明はその声が何に似ているのか気付いた。


 ―――これは泣き声だ。 


 演奏が終わった時、朱明はとっさに、自分の正面に振り返ったヴォーカリストの表情を探していた。

 無論HALは、泣いてなどいなかった。あくまで彼がそう感じただけである。それは朱明も判っている。だが彼は自分の直感を重視するくせがあった。


「…どう?」


 にやりと藍地は笑う。だが目は笑っていない。真剣そのものである。芳紫の顔からも、笑いは消えていた。そして彼は朱明に言った。


「あんた、すごいよ」


 だがその表情は、明らかに、音楽を演る相手として、同等か、それ以上のものとして認めたものだった。


「藍地がすげえいい、すげえいいって言ってたから、どの位かって思ってたけどさ、俺… あんたすごいよ!」


 そして真剣な表情が、一気に百万ドルの笑顔に変わる。


「俺もそう思う。本当に。一緒にできない?俺はあんたとしたい」

「うん…」


 朱明はちらり、とHALの方を向く。藍地もその視線に気付いて、HALにどうだった?と訊ねた。   


「うん。いいよね… いいんじゃない?」

「HAL?」

「俺はいいよ… 一緒にやろうよ…」


 にっこり。

 朱明はその瞬間思った。確かに反則だ。

 だって。


「…いいな。そうしよう」


 そう口から出ていた。それはBBの話を蹴るということと同じだった。絶対的に有利な条件の向こうを。

 そして彼は自分がそう答えてしまった理由が判った。確実に判っていた。反則だ。


 捕らえられた。この声に。泣き声のようなこの声に。


 決して自分の方など向いていないこのヴォーカリストの声に捕らえられてしまったのだ。

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