19 満月の夜―――東風は朱夏達のために旧友と再会する
黒の車が、走りだす。
黒の公安が黒である理由は、彼らの活動時間が主に夜であることに由来する。長官の好きな色という噂もなくはないが、…まあ噂である。
「行くなあ」
「うん」
出動する同僚を大きな窓から眺めながら、黄色と赤の長官はどうしたものかな、と顔を見合わせる。
「知らないって、いいことなのかなあ。俺ちょっと罪悪感」
芳紫は特有の高い声で嘆息する。それに対して藍地は穏やかな声で答える。
「知らなくて済むなら、それでいいと俺は思うよ」
「ああ、藍地そう思うんだ」
「綺麗な嘘ならずっとつき続けてほしいもの」
「ロマンティストだなあ…」
「芳ちゃんが言うといきなりロマンもへったくれもなくなるんだけどなあ…」
「悪かったなあっ」
「いいや、俺、芳ちゃんのそういうところすごく尊敬してるのよ」
「またそんな口の上手いこと言って…」
「いやホント」
空は綺麗に澄みわたっていた。満月の夜である。上り始めた月は、まだ暗く、赤い。欠けたところのないその輪郭は、まだぼんやりとしている。
「あの人ならああいうのは血の色だって平気な顔で言うんだよ」
「言う言う。ああいう顔してそういうこと平気だからなあ」
「HAL、今何処に行ってる?」
話題に登った人物のことを藍地は訊ねてみる。芳紫は首を横に振る。
「今朝からずっと見てないな。何処へ行ったんだろ」
「俺も見てない。何考えてるのやら。朱明はアレだし…」
大気条例のせいで、公安も軽自動車しか使わない。高いところから見たら、黒い小さな車が列をなしていくところはややおもちゃめいて見える。
「高見の見物、か」
ふう、と藍地はため息をつく。
「仕方ないだろ、今回俺達にはそれしかできないし」
「やるべきことはした、か」
「そおそお。本当か嘘か判らない振りをした情報を流すこと。それにその現場に本当に『御禁制品』を紛れ込ませること」
「『御禁制品』って… 何だかなあ」
「時代劇みたいでいいじゃん。『これは御禁制の南蛮渡来の品を見逃して頂いたお礼でございます』」
そう言って芳紫は棚のレモンケーキを箱ごと藍地に差し出す。苦笑すると藍地は、小判のつつみならぬレモンケーキをそれらしく手に取る。
「『ふっふっふ越後屋、貴様も悪じゃのう』」
「『いいえお代官様こそ』」
「芳ちゃんも好きだねえ」
びりびり、と薄い黄色の、内側をビニルコーティングした和紙でできた袋を破りながら、藍地はやや苦笑から笑いらしい笑いになる。
「考えたって仕方ないことは考えない方がいいんだよ」
「まあな。俺、芳ちゃんのそういうところも尊敬するよ」
「やだねえ照れるじゃないか」
「いや本当」
「よし紅茶も入れてあげよう」
照れながら芳紫は簡易キッチンにと立って行った。湯を湧かす音と共に、甲高い声が後輩兼友人兼同僚に話しかける。
「なあ藍地、レモンケーキってメロンパンとどっか似てると思わない?」
「メロンパン?何で?」
「だってなあ別にレモンの破片が入ってる訳でも香りが大している訳でもないじゃん。なのにそれらしい色の甘いのかかってるだけで。メロンパンもそうじゃん。何か薄黄色か薄緑のビスケットかかってるだけでさ」
「芳ちゃん美味いよこれ。どうしたの?」
「いや、昼間結構暇だったんで、評判の店に…」
「食い道楽…」
そして藍地は二つめに手をかけた。芳紫はポットとカップをまとめて持ってくる。
「こんなことばかりしてると俺達太るよなあ」
「忙しいし育ち盛りだから太らないって」
「誰が育ち盛りじゃ」
「あれ知らなかった? 俺まだ地道に伸びてるのよ」
「嘘お」
「いや本当。おまけに年々若返っているとか言われるし… 一体俺は何じゃ」
くっくっく、と藍地は声を立てて笑う。
「あ、でも俺さあ、HALの歳くったところってあんまり想像できないな」
「それは俺も思った。あのボディのせいか、前よりずっと想像しにくい」
だな、と芳紫もレモンケーキの袋を破る。やっぱり美味いわ~とほおばっていると、不意にトーンの落ちた声が聞こえた。
「なあ芳ちゃん、本当言うと俺は、歳くったHALは見たくないと思ってる」
「藍地?」
「こういうと何だけど、俺は何処か、奴に夢持ってしまうんだ。それって変かな、まずいかな?」
「別にまずくはないとは思うけど」
「そおかなあ…」
でも、と芳紫は思う。HALはお前のそういう視線には気付いているぞ。
芳紫は自分がHALに対して自由な立場にあることを知っていた。
彼にしてみれば、藍地にしても朱明にしても、どうしてHALにそういう目を向けられるのかが不思議だったのだ。
だが不思議とは言え、彼は柔軟な考えの人間だったので、それに気付いた時も、ああそういうこともあるのかな、とのんきに考えていただけだった。
HALもそれを知っていたから、藍地や朱明には相談できないことも、この一見「永遠に隣のガキ」にはすることもある。
だから余計に彼には判るのだ。HALの執着が誰にあるのかを。
可哀想にな、と芳紫は内心ため息をつく。
*
けたたましく電話のベルが鳴った。
「もしもし?」
『夏南子! そっちに朱夏来てないか?』
「朱夏ちゃん? 来てないわよ?あたし今仕事から帰ってきたばかっかなんだから… 何、いないの?」
いないんだ、と電話の向こうの友人とも愛人と知れない男はわめいた。
「何あんたしっかりしなさいよ!いない、ってあんた、もしかしたらほら例の、安岐くんのところに居るかもしれないじゃないの」
『いや、そっちにはもうかけたんだ。ところがそっちにもいない』
「じゃあ一緒に出かけているのかもしれないでしょ? 嫉妬に狂うおにーさんってのは見苦しいわよ、東風」
『そういうことじゃないんだ』
夏南子は受話器を反対側に持ち返る。どうやらいつもとは違うらしい。
「…とにかく行くわ! 動くんじゃないわよ!」
はあ、と夏南子はため息をつく。そしてせっかく脱いだばかりの靴をもう一度履き直す。
つきあいの長い彼女は、東風という男は、ダメージを受けると、考えが悪い方へぐるぐると堂々めぐりをすることがあることを知っている。
そういう性格だから、自分のような、ものごとに根を残さない女が好きなんだろう、とは思う。
もちろん夏南子とて落ち込むことが皆無という訳ではないのだ。
彼女にしたって、「外」の、隣の県に家族が居る。彼女が今でも使っているベッドカバーは、キルトが趣味の母親のお手製だし、都市が閉じた直後あたりに兄の結婚式があった筈である。
だからそういった、無くしたもののために泣いたこともなくはないのだ。
だけどねえ。
普通だったら頼りにしてもいい筈の、男友達も恋人も、実に情けなかったのだ。
もちろん何かしようという意志もなくはないのだし、背中を押してやれば人並み以上に働くことができる奴らなのだが、一度座り込むと立ち上がるのが遅い。
それは東風にしてもそうだったし、壱岐もそうだった。違うのは、安岐の兄くらいのものだった。彼は夏南子と同じで、人が落ち込んでしまうと、自分が落ち込むことができなくなる体質だったのだ。
だったらあたしが動くしかないじゃない。
虚勢ではない。体質なのだ。頼られれば力が湧く。頼ってくれる人は欲しいのだ。それがエネルギーになる。
「そうでなかったらあの馬鹿と十年もつきあってはこないわよ」
あの馬鹿、と夏南子は東風を称する。都市屈指のレプリカ・チューナーも形無しである。実際彼女にとっては、ずっと変わらない。あの馬鹿はあの馬鹿、なのだ。そして彼はその馬鹿であるからこそ、彼女にとっては可愛くて愛しいのだ。そのへんをあの馬鹿は判っているのやら。
ばたん、とドアを閉めて、飛び出して、地下鉄に飛び乗って、二十分後には夏南子は東風の部屋のチャイムを押していた。
「何が何してどうなったのよ。はじめからちゃんと言いなさい」
ああやっぱり、と開けた扉の向こう側を見て、彼女は嘆息する。全体的に重苦しい空気が漂っていた。
「今朝がたのことだよ。また例の如く、朝早く帰ってきたんだ」
「安岐くんの所から?」
「ああ。だけど妙にほこりまみれで。ほこりと言うより砂、かな?何処行ってたの、と訊ねたら、『お城』と答えた」
「お城… M城公園かしら」
「砂利がたくさんで靴に入って仕方なかった、と言うからそうだろう」
「何でそんなところ行ったの? あそこは夜間立入禁止区域じゃなかった?」
「朱夏はあちら側には行ったことがないからな… 『S-K』止まりだったから」
箱入りもいいところだわ、と夏南子は呆れる。もう少し連れ出しておけばよかった、と。
「妙なことを言っていたんだ」
「妙? 何?」
「『S-K』でM線に乗ったら、お城の地下に連れ込まれた、とか」
何よそれ、と夏南子は眉を寄せる。
「お城の地下、なんて、十年前から閉鎖したはずよ。あそこもまた空間がどーのって公安が言って…」
「うん。だから何か変だなとは思ったんだけど。で次に言ったのが、『都市を元に戻すために私は外へ行かなくてはならない』」
「はい?」
さすがに夏南子も耳を疑った。
「何それ?」
「真顔で言うんだ」
「ちょっと待ってよ… ちょっと東風、じゃ、もしかして、朱夏ちゃんがいない、っていうのは」
「そう」
東風は窓の外を眺める。
「今夜は満月なんだ」
「駄目よ!」
即座に夏南子は叫んでいた。
「あんた知ってるじゃない! そうやって出ようとしたあたし達に黒の公安は何をしたの? あのひとが川に沈んだのは何で? あたし達それ見て、この都市に留まろうって決めたんじゃないの!」
「そうだ」
東風は目を伏せる。唇を噛みしめる。
「だけど朱夏は出たがってる」
「駄目よ! 殺されに行くようなものじゃない! あんたが何考えてるか判らないけどね、あたしは妹が殺されそうになるのをはいそうですかと見過ごす訳にはいかないのよ!」
「だけど朱夏は自分の『音』を消したがってる」
「何か言ってたわね、朱夏ちゃんの頭の中で消えない音? でもそれがどーしたのよ! 殺されたらおしまいじゃないの! それで探しに行きあぐねてるのあんた?」
彼はうなづく。その顔が元にもどるか戻らないか、というところで、彼は頬にひどい衝撃を感じた。
「おい何すんだ夏南子!」
「あんたみたいな馬鹿には言ってもわかんないのよ!」
「俺が馬鹿だってえ?」
「そんなこともわかんないから馬鹿だって言うの! あんたが何ぐだぐだ考えてるか知らないけどね、そんな理屈こねてる間に朱夏が黒の公安に川に叩き込まれるようなことがあったら、一生絶交よっ!」
彼は目を大きく瞬かせて夏南子を見る。ああそうか。そういうことではないのだ。
「安岐くんのところは? 一緒にいるんでしょたぶん」
「さっきかけてみたが、いなかった」
「どうして? ああ今日は『仕事』してる可能性も多いわね。じゃあ『仕事』先へ連絡つけましょ。すぐ出して!」
「何を」
「あんたねえ、せっかく十年前に命からがら逃げ出した子まで危険にさらしたいの? 壱岐の居場所くらい知ってるんでしょ!」
そう言うと、つかつかと作業机の上のパソコンの電源を入れる。
「ほら座って!」
言われるままに東風は座る。
「あたしはあいにくあんたのは動かせないんだからね。あんたが動かさなくちゃ、朱夏ちゃん助けられないんだからねっ!」
それは、壱岐と連絡を取れ、と言っているのに等しかった。
ややためらったのち、彼は一つのデータを呼び出した。それは都市内の「裏会社」のリストだった。その一つを大きく提示する。そこには、連絡先や従業員等の細かい情報が並べられている。確かにそこには、夏南子も知っている壱岐のフルネームや安岐の名前もあった。
「ちょっと受話器取ってくれ」
「いい、あたしが掛ける」
大きくディスプレイに映し出された数字を夏南子は素早く押す。すぐにコール・サインが聞こえる。何度も、何度も。
「東風、お留守のようだわ。二十回しても出ない」
「そうか?」
ちょっと貸してくれ、と彼は受話器を夏南子の手から受け取った。彼は別のデータを呼び出すと、そこの電話番号を押した。
「あ、もしもし、こんにちは。**家電のタカトウです、いつもお世話になっています…」
声が駄目社員のモードになっている。表情も、うって変わってにこやかになっている。
「ええ。…で、ちょっとすみませんが、向かいのビル… え?」
夏南子は耳をそばだてる。
「ああそうですか。いえ、電話してみてお留守だったので… はい。すみませんでした」
ぴ、と外線のボタンを切る。
「どうだったの?」
「居るんだ」
「居る?」
「向かいのビルに入ってる企業が、ウチの家電屋のお得意でね、だいたいあのビルの五階は丸見えのはずなんだ。カーテンも無いところだし」
「で見てもらった? 誰か居るって?」
「ああ。だが居留守を使う必要もないと思わないか? 今日残っているということは、連絡待ちか…」
「待ってるのは壱岐なの?」
「いや、それはどうだか判らない。奴は副長格ということになつているけれどもしかしたら陣頭指揮かもしれないし」
「じれったいわね」
夏南子は東風の手を引っ張った。何すんだよ、と彼は目を丸くする。
「行くのよ。壱岐であれ何であれ、要は問題は、安岐くんでしょ!」
確かにそうである。彼は立ち上がろうとして… 少し思い返すと、一度ページを閉じて、何やら操作し始めた。
「何してんの」
「ちょっと情報を収集… 回線に入り込んでだな、ある種の情報だけをコレクションするように」
「あたしは急いでって言ってるのよ!」
「判った判った」
この男はやることが決まれば、あとは有能なのだ。彼女はそれを知っている。
*
東風の住む「K-Y」と、安岐達の「会社」のある「F-S」は、直線ではそう距離が無いように見えるが、地下鉄では乗り換えが必要である。
M線で「S-K」まで行き、そこからH線で一つ。「I-2」と大して変わらない。
駅近くのコンビニの前や、ネオンチューブが綺麗なライヴハウスの前を抜けると、そのデータにあった「会社」のビルがある。
「五階… 確かに電気がついてるわ」
夏南子は見上げながら言う。基本的にゴーストビルであるその建物は、入る人を選ばない。だがさすがに二人ともエレベーターの無いことには参った。
「こんなことだったらもっと歩きやすい靴を履いてくるべきだったわ」
「仕方なかろ。でも俺も歳くったなあ…」
「同じ歳の奴に言われたくないわっ!」
そのまま登ると息が上がりそうだったので、あえて夏南子は悪口雑言をぶつける。
五階に登っても、廊下は暗かった。一寸先は闇、という程ではないが、見えにくいことは確かである。だが暗ければ暗いほど、光には敏感になる。
「あそこの部屋が明るいわ」
「―――のようだな」
彼らは迷わずそこへ進んだ。扉のほんのわずかな隙間から光が漏れている。ドアの前に立つと、東風はなるべく軽い音が立つようにノックをした。返事はない。ノブに手をやると、鍵は開いている。
そっと、開けてみる。
「…」
寝てるのだろうか?反応はない。
誰かが椅子に深く、腰掛けている。オフィスで課長部長クラスの座るような、事務的ではあるが、肘掛けのついているようなものである。
「…すみません…」
椅子に掛けた人物は、ぴくりとも動かない。東風はゆっくりと近付く。
「!」
その人物は、薄目を開けていた。だが、焦点が合っていない。
「東風?」
夏南子は思わず声を上げていた。この男は時々自分をこうやって驚かすのだ。
両手を広げる。そしてその手を真正面やや下に…
びたん。
ああ痛い! 他人事ながら夏南子は思わず目を逸らした。
妙なもので、どれだけ残酷なことでも、自分に近い体験がないと、人間はその痛みに鈍感である。スプラッタ映画で刃物が残酷だと感じるのは、包丁で指を切った痛みを知っているからである。そういう意味では、これは非常に痛かった。
だが痛いだけあって、効果はあった。
「何をする!」
「安岐は何処へ行った? 壱岐!」
「…タカトウ…?」
壱岐は自分の目が信じられなかった。
「…本当にお前か? 何でお前ここに居るんだ? 俺さっき話を聞いたばかりだと思うのに…」
「俺は聞いてるんだよ?」
「安岐? 何で安岐のことを…」
ああじれったい。夏南子は思わずふたりに近付く。
「何やってるのよ全然話がかみ合ってないわよ!」
「か、かなこ…? 何でお前まで」
「今はそんなことどうでもいいのよ!」
彼女のその声で、情けない男達は最大の問題を突きつけられていることに気付く。
「あたし達は、あたし達の朱夏ちゃんを… 妹を捜しているの。その朱夏ちゃんには、たぶんあんたの弟分であるはずの安岐くんが一緒だわ。安岐くんは何処?壱岐なら知ってるでしょう?」
「安岐? 奴なら今日はもう帰った筈じゃないか?」
「今日は、満月よ!」
え? と壱岐は慌てて窓に近寄る。赤かった月も、次第に光を増して、白く輝きだしている。
「満月? ちょっと待て! どうして今日が満月なんだ?」
「どういうことだ?」
「ちょっと待ってくれ… えーと…」
壱岐は頭を押さえると、目を軽くつぶる。見たものは信じよう。だとしたら。
「本当に今日が満月なら… 本当なんだよな?」
「本当に、本当よ!」
「俺は知らない。今日安岐が何処にいるかなんて… 何で今日が、満月なんだ? お前らいつ来たんだ? 何で居るんだ?」
東風と夏南子は顔を見合わせた。どうなっているんだ?
「ああそうだ、たしか停電が起こったんだ… そのちょっと前に津島から安岐が東風の知り合いと付き合ってとか聞いて…」
「それはいつの話だ?」
「三日くらい、前だ… 満月なら日曜か… 木曜かそこらだった… その時に…」
東風は、ひどく嫌な予感がした。




