1 閉ざされた「都市」の、「橋」の上で
早朝の大気は水をはらんでいるのではなかろうか?
彼は頬をかすめる涼やかな大気の流れを感じながら、ふとそんなことを考えた。
「川」のせいだろうか?
都市は「川」に囲まれている。
朝もやだけでなく、その「川」は下がいつも見えない程の霧がかかっている。
それだけじゃないような気もする。
「川」を見おろしながら、安岐はポケットから煙草を取り出した。「大気条例」では、この時間の喫煙は禁止されている。閉ざされた都市では、無闇に大気
を汚すものには目が光らされる。
…どーせ見つかることなんかねーさ。
そして彼は不器用な手つきで一本取り出すと、火を付けた。軽く煙を口に含むと、その味が広がった。ぼんやりと、彼は見えない「川」の下を眺める。
「全部で八本」
そう言ったのは誰だった? 遠い昔の記憶だ。
「満月の夜、その八本の橋の何処かが開くんだ」
ずっとずっと昔だ。この川に落ちた人がそう言った。それはまるでおとぎ話のように思い出されること。
「次の満月に開くのはおそらくこの橋だ」
だけどこれは違う、と彼は思い返す。遠い記憶とつい最近の記憶がごちゃごちゃになっている。
あれを言ったのは壱岐だ。仕事の話をしながら奴はそう言ったんだ。
安岐は自分の上司・兼・もと保護者の声を思い出す。
満月の夜にだけ、この都市の「川」に掛けられた橋は外とつながる。
「仕事のチャンスだ」
と。
いきなり人の気配がした。
しまった、と安岐は思った。気が緩んだか?
だがほんの一瞬のことだ。もしかしたらただの気のせいかもしれない。
さりげなく煙草を捨てる仕草を取りながら振り向くと、確かに人がいた。
気がついているのかいないのか、その人物は彼に背を向けていた。彼とは反対側の橋の欄干から「川」を眺めている。そしてその欄干の上に緑が見えた。
…花だ。
白い花が安岐の目には飛び込んできた。そして改めて彼はその人物を観察した。
妙なバランスだった。
何が、という訳でもない。が、妙でない、と断言するのは完全に嘘になる。少なくとも彼の知っている者の中には、いない。
大人というには華奢すぎるが、子供の首筋ではない。
少年というには肩の線が細すぎるが、少女というには腰に丸みがない。
長い栗色の髪は無造作な量だけ上げられ、いい加減な位置で止められ、勝手に流れている。
ぴったりした薄手の黒の長袖のニットに包まれた腕は細い。そしてその下のパンツも、またぴったりとした黒。
そして右手には不似合いなほどの大きな花束があった。花束は大きすぎて、ぶらぶらとさせておけずに欄干の上に乗せられているのではなかろうか、と彼は思った。
よく見ると、花はずいぶんといろいろな種類のものが混ぜられていた。
薔薇にかすみ草、桔梗にスイートピーにフリージア、こでまりに百合に果てには菊に梅。
全て白だった。
季節と取り合わせを全く無視したそれは、ただ白という一点だけで共通していた。
だがそれは、黒一色の彼もしくは彼女にはおそろしく映えた。そこだけ強い光が意志を持ってたむろしているようにも見えた。
ざっ、とその花が動いた。
細い腕がふわりと動いた。光が飛ぶ。
花束はゆっくりと、川に落ちて行き…やがて立ちのぼる霧につつまれて見えなくなった。
見えなくなるのを見届けたとばかりに、くるりと彼/彼女が振り向いた。
予想はできたことなのに、安岐はぎくりとする。瞬き一つしない、形のいい…無表情の目。その目が安岐に一瞥を加えると、長い髪を揺らして歩きだそうとするから。
「…ちょっと…」
気がついたら、その細い腕を掴んでいた。彼は自分の行動に驚いた。
「何?」
瞳に光が入る。
低い声だった。灰色の羽毛がくすぐるような声だった。そしてこの都市では珍しい、浮遊感のある後ろ上がりの西のイントネーション。
「あ、…ごめん。すいません。…え… と、今、花を」
「君」とも「あなた」とも呼びにくいのか、安岐はしどろもどろになって訊ねる。
「花? …ああ、時々そうするんです」
低音の声は、その人物の外見からは予想ができない。「彼」だ、と安岐は半分がっかり、半分ほっとする自分に気付く。
「投げるんですか?」
豪華な花なのに、もったいない、と思ってしまう自分が哀しい。
「ええまあ。ここに沈む人が最近増えてますから」
「…ああ」
そう言えば、そうだ。落ちた人に花を投げるのはよくあることだった。
「知り合いでも?」
「そういうことではないけど…」
彼は言いよどむ。目を軽く伏せてほんの少し首をかしげる。無造作な長い髪が肩に落ちた。
「でもあまり見たくないものでしょう?」
「…そうですね。結局ここが開かない限り、駄目なんでしょうね」
「そう思いますか?」
「だって、そうでしょう?開ける方法はないもんでしょうかね」
「本当にそう思います?」
そう言って彼は、橋の向こう側を向いた。
橋の向こうには、何もない。霧がかかっているように見えなくもないが、霧すら無いようにも見える。橋の欄干の終わりは見える。だがそのたどり着く筈の地は見えない。白い橋はそのまま空間にフェイドアウトしている。
昼間、ここを越えようとしても無駄である。橋の向こうにむかって歩いていくことはできる。このままずっと。
だが、歩いていくと、真っ直ぐ進んでいる筈なのに、元来た所をそれまでの進行方向と逆に歩いている自分に気付くことになるのだ。
メビウスの輪のようなものさ、と壱岐が言っていたことを思い出す。表側を歩いていたはずなのに、裏側も通ってまた表側に戻ってくる。結局その輪の中なんだ、と。
閉ざされた輪。閉ざされた都市。このままではずっと出られない。
「思いますよ。この都市も悪くはないけれど、出られないってのは何か」
そう安岐が言いかけた時だった。パ、と明るいホーンが耳に飛び込んできた。
黒い四角の軽自動車が橋のすぐ近くの土手に付けていた。
「朱明?」
彼はつぶやくと、安岐の前をさっとすり抜けて行った。
車のドアを開けて、黒い公安の制服を来た男が出てくる。そう背は高くないが、均整のとれた身体付きから、何かで鍛えているのだろう、と簡単に想像がつく。
どうやらその車は彼を迎えに来たものらしい、と安岐は気付いた。思わず先ほどと同じように手を出そうとした。特別に意味はない。だがそれより先に彼は振り返った。そして口の端を軽くあげる。
笑っている? 一瞬そう安岐も思った。だがそれは錯覚だった。彼の表情は特に動いた様子はない。
「本当に、開いた方がいいと思います?」
公安の車が迎えに来ている。そういう人物に言うべきかどうか、安岐は一瞬迷った。
だが。
「ああ。思う。だって、それが自然だろう?」
「そうですね」
今度は本当に笑った。
「また会うことがあるかもしれませんね」
彼は黒い車の方へ駆け出して行った。彼よりもっと低い声が、何やってるんだ、とか捜した、とか人探しの際の常套文句を怒鳴っている。
何なんだありゃ?
安岐は予期していなかった出来事に、やや面白がっていた自分に気付いた。
*
月曜日の早朝。まだ普通の人々が活動を始める時間には早い。
だがここに安岐がいるのは仕事だった。
満月が近いから、次の取引になりそうな橋の辺りの様子をうかがってこい、と上司から命じられたのだ。
再び橋の上から彼は「川」を眺める。霧がかかっていて半分も見えないが、水の流れの速さはごうごうと鳴り響く音で容易に想像できる。
川の水は、ずいぶんと橋の下にあり、そこに直に手を触れることはできないらしい。
もともとは何本かの小さな川だったらしい。決してぐるりと取り囲んでいた訳ではないらしい。そもそも、この都市は海に面していて、大きな港を有していたらしい。
十年である。この「都市」が「外」と切り離されてから。
現在とて、使われてはいないが、かつて工業系の港町だったことを思わせるような広大な土地が南西の地には残っている。大気条例のせいで使われることのない大量の新車が、雨ざらしになって朽ちるのを待っている。
十年前にはピカピカのボディでも、十年も雨風にさらされていれば悲惨なものである。
この都市を取り囲む何本かの小さな川は、「都市」が外部との扉を閉じた時につながったらしい。川の流れは速くなり、水面にはどんな天候でも消えない霧がかかり、どういう訳か、低く低く流れ、向こう岸とこちら側を完全に分けたらしい。
らしいらしいらしい… 全て憶測である。誰も本当のことは知らない。
「こんな高さではありえない」ともともとこの地に長く住んでいた人々は言う。
過去の大型台風の際、高波でやられたことがある位、海抜は高くない地方である。そんなに水と地面の差が大きくなることなどありえない、と誰もが思った。
だけど現実、そうじゃないか、と安岐は橋から下を眺めながら思う。
現在のこの「都市」は、中心部である「S-K」現在のメトロの中心がある「K-Y」などを中心にしている。かつて「外」とつながっていた線の駅前は、利用価値の低下により、その地位を明け渡した。
「都市」には現在名前がない。いや、外側の人間にしてみれば、呼ぶ名はあるのかもしれないが、この中に住む人々にとっては、どうでもいいことだった。
実際それは、安岐にとっても、それはどうでもいいことだったのだ。
彼のもと保護者でもあり、彼の現在の仕事の上司でもある壱岐にとっては、「人生最良の時代」の記憶だったので大切だったのだろうが。
十年は、大人にとっては短いが、子供にとっては長い。
十年前にはまだ十歳にもなっていなかった安岐にとっては、現在のこの都市の方がよっぽど馴染み深かった。それは好き嫌いとは別である。
以前の都市が嫌いとかいうのではない。ただ、愛着が湧くほど以前の都市に記憶が無いのだ。閉じた後の都市で関わった記憶の方が安岐にとってはよっぽど鮮明だった。
そしてその「都市」は満月の夜だけその扉を開く。
次の満月は今度の日曜だった。
橋は「都市」の中心「SK」から見て放射状に八本掛かっている。
そのうちの一本だけが満月の夜「つながる」。遮断されたこの「都市」が外の世界とつながり、その時必要な物資が補給され、必要とまで言われない物資も補給するチャンスなのである。
だがそれは月一回のその機会、そしてたった一本の橋、しかもそれがどれなのか全く予測がつけられないものである。
誰かの意志が感じられる、と壱岐がいまいましそうに言ったこともある。
基本的には安岐はこの保護者の独り言のような疑問には反応しないことにしていた。だが一度だけ、どうして、と安岐は訊ねたことがある。
「裏をかくのが上手すぎる。遊んでるみたいだ」
「だけどそれは優秀なコンピュータだったら…」
反論するこざかしい子供に、保護者は厳しかった。
「だがな安岐、たった八本なんだぞ」
つながり方に法則があるなら、それは自分達でも予測ができうる程度の数なのだ。「たった八本」なのだから。
「八つの目があるサイコロを転がしているようなものだ」
「サイコロは六つしか目がないよ」
そう言ったら、壱岐にぱこんと音がする程殴られた。思い出してくっ、と安岐は笑う。だがその笑いはやがて消えていった。
この小さな都市から脱出しようとする人々が年々増えている。だが脱出はまず成功しない。
十年前から、都市の出入りは制限されていた。
その都市に、その閉じた時点に、もともと居ただけの数。それが「適数」であり、それ以上でもそれ以下でも、都市の空間のバランスが狂うのだという。
許可された人数しか出ることも入ることも許されないし、また、許可されて出る者にはたいてい人質のように家族が公安に監視されている。
「川」に落ちる分には、「都市」のバランスは崩れないのだという。「川」に落ちたとしても、撃たれて死んだとしても、「外」へ出る訳ではないから、空間は安定している、ということらしい。
現在この「都市」で最も権力を持っているとされる公安部は、「都市」を守ることを第一義としているから、「都市」のバランスを保つためには「脱出者に対し実力を行使することを許可する」のだそうだ。
つまりそれは、脱出は命がけだ、ということになる。
やれやれ、と安岐はため息をついた。
*
「よく判ったね、朱明?今日も」
シートに身を沈めると、くすくす笑いを顔に張り付かせた彼は隣の相手を見た。
「…探したことは、探した。今回も。どれにお前が居るか、まるで判らないからな」
「ご苦労なことで」
「…」
橋は「都市」の境にある。
もしくは橋があるからそこは境なのだとも言える。
いずれにせよ、公安のある地区にはやや遠い。道の関係か、大回りしないと帰れない。やがて朝のラッシュにぶつかるだろう、と朱明と呼ばれた男は気付いた。そういう時間なのだ。
その証拠に、かかっているカーステレオから流れるFMからは、今週の「中央」のヒットチャートの番組が始まっている。
ほぼ一ヶ月遅れのヒットチャートである。月に一回仕入れるものは、食糧や工業原料だけではない。月遅れの「中央」の情報をも仕入れるのだ。統制する必要のある情報以外は取り入れた方が有効だ、というのが公安の道理である。
朱明はこの番組がそう好きではない。
「ずいぶん眠そうだね、お前」
「眠いんだよ俺は」
吐き捨てるように朱明は言う。
黒の公安の制服のボタンは、上から三つ外れている。中に着ている黒いタンクトップが、ややくたびれた顔をのぞかせている。袖は半分まで折られ、細いが筋肉質のその長い腕をむき出しにしている。
「用事があったから出向いてみりゃお前はいねえ。藍地がヒステリー起こすから早く捜してくれって芳紫の奴もぎゃーぎゃーうるせえし」
「女の子じゃないのにヒステリー呼ばわりはおかしいよな」
「HAL!」
怒号する。車内が一瞬びりびりと震えた。
「怖いなあ」
「お前なあ…」
「ああ悪いな」
HALと呼ばれた「彼」は、全く悪いと思っていないような顔でつぶやいた。
「でもな、そりゃそう簡単には見つからないようにしてるものな。でも朱明、お前よく見つけるな。藍地も芳ちゃんも絶対俺見つけられないのに」
くすくすくす。
「…お前の行動は時々妙に分かりやすいからな」
声が更に低くなる。
「そうだよね。昔から朱明はそうだった。ずうっとそぉだったよな。お互い放浪癖あるからかなあ?きっと俺たち遠い昔からのお友達なんだよ」
冗談はよせ、と朱明は眉をひそめた。
中心に向かう道路に入りかけていたのを、朱明は方向転換する。やや予期しなかった行動にHALはシートベルトを身体に食い込ませてしまう。
「…ふう… あっぶないなあ」
「…言える立場かよ、全く」
「まあ確かに言えないなあ」
「何かお前にあってみろ。俺だけじゃない。この都市がどうなるか考えたことがあるのか?」
HALは正面を見続ける。何百回と繰り返される台詞。もう聞きあきている。そしてその言葉が全く効力の無いことも知っている。
だけどそんなこと言ってはいけない。何故ならそのたび彼らは本気なのだから。
「…心配せんでも、俺そぉそぉそんな馬鹿なことはしないよ」
「本当か?」
「約束する」
それが信用できないのだ。朱明にとっては。
幾度そんな言葉を聞いたことだろう。そしてそのたびその言葉は意味を無くすのだ。
「朱明は意外に心配症だ。藍地より下手するとキミ、神経質と違う?」
部分的にはそうだ。それは昔から知っている。
「誰のせいだと思ってる?」
まっすぐ進行方向を見たまま、だが大真面目に朱明はHAL以上の低音で責める。視線は絡まない。
「…俺のせいだな」
HALはつぶやく。全くそんなこと思ってもいないような口調で。
「俺のせいだよ。そぉんなことずっと昔から判ってることじゃないの。今さら何言ってんの。俺そんな繰り言いう奴嫌い」
「HAL!」
「ほらほら目は進行方向」
くすくすと笑いがHALの口もとから洩れる。
「あのな朱明…あんまり怒るとシワが増えるよ。お前もともと疲れとかすぐに出るしな。俺、お前が年取りすぎた図なんてあまり見たくないもん」
ふう、と朱明はため息をつく。そして車をややサイドに寄せ、ブレーキを踏んだ。
二回目の思わぬ行動にようやくHALは隣の席の男に視線を飛ばす。
「…危ないなあ… 俺に何かあったらお前どぉすんの?」
「本当にそう思うか?」
「思うよ」
「そう思うんだったら… いい加減お前、目を覚ませ」
ため息を一つ。大きな手で朱明は顔を半分隠した。
そしてここが何処だったかHALは気付く。
もと高速道路だ。
昔は「都市」の外へ続く高速用の道路だったが、今となっては郊外を「ただ走る」ためのコースになっているに過ぎない。何の役にも立たない、ただ広いだけの道である。
都市の中心からやや離れた地区である。平日の朝、なんて時間には、車はまず通らない。
少しだけ開けた窓から、タイマーの狂った小学校のチャイムが聞こえてきた。
「それでは次に今週の第三位…」
受信状態は良好。都市内あまたあるFM局の一つのパーソナリティが一つのロック・ユニットの名前を告げた。朱明は不快そうにスイッチを切る。
「冗談はよそうね」
HALはベルトの食い込んだ胸をさする。別に痛みがある訳ではない。これがもし胸を切り裂いていてしまったとしても、自分には痛みは感じない。
淡々としたHALの声とは裏腹に、逆に朱明の声はだんだん真剣になる。
「どうしようもないのかよ?」
「どうしようって?」
「この都市がこうなる前のようにできねえかって言うんだよ!」
「時間は戻りはしないよ、あいにく」
「そういう意味じゃねえ」
そんなことは判っている。
「お前は知ってるんじゃねえのか?何か手だてがあるんだろ?俺は知らないが、何か。いい加減答えろ。お前が知らないはずねえんだ!」
「そりゃあね。全く知らない訳ではないよ」
HALは何気なく言った。朱明は顔を覆っていた手を思わず外す。この答は初めてだった。この十年。
「ねえ朱明、いくら俺だって全く何も感じてない訳じゃないよ。でもね、今俺が、お前が、あいつらが、動いたところでどぉにもならないことばかりだ。どぉにもならん」
「じゃあどうにかなる奴があるってのか?言ってみろよ、そいつは誰なんだ?」
「…」
「言えねえのか? 言えないってことはやっぱりそんな奴いねえんじゃねえか?」
HALの顔からくすくす笑いはいつの間にか消えていた。
「…あーあ、消しちゃって。俺今のうた聞きたいんだけどな」
HALは再びスイッチを入れた。ヘヴィで華やかなサウンドと一緒にひどくウェットな声が飛び出してくる。
「俺はこいつは嫌いなんだ」
「へえ」
「ふざけてないで、俺の聞いたことに答えろよ」
朱明は再び乱暴にスイッチを切る。その勢いに、壊れるんじゃないか、と一瞬HALは思う。そしてその口から言葉がもれた。
「無くはないけどね」
「誰が」
「朱明さあ、お前の聞き方、いつも真っ直ぐすぎて俺嫌い」
「おい」
「冗談。でも俺今は言えない。今ここで言ったところでどうにもならないよ。種はずっと昔にまいてある。でもその花がどう開くかは俺にだって想像つかんもの」
「それは無責任だ」
手だてがあるならするのが義務というものだろう?と論外に朱明は含める。無論HALにもその論外の言葉は聞こえている。だけど。
「最大の無責任やらかしたんだから、もうそれ以上の無責任なんて俺にはないよ」
HALはややうつむいた。
無造作すぎる長い髪は重力に従って、彼の顔を隠す。表情が朱明には全く見えなくなってしまった。笑っているのか、泣いているのか、声の表情は、どちらともとれたから。だけどそのカーテンをこじ開けることは。
「でももしかしたら、今度こそは上手くいくかもしれない。俺の望んでいるものが現れるかもしれない」
「だからそれは何なんだ」
彼はやや苛立たしげな問いをあえて無視する。
「動かさなくてはならないものがあるんだ」
朱明は彼の表情を捕らえようする。とうとう顔をのぞき込むべく体勢を変える。だがシャッターの降りたウインドウは上手くのぞきこめない。
「それに、それを動かしたところでそれが本当に奴を見つけるかどうか、俺にも全く見当がつかんし」
「奴…」
「それに俺は本当にそれを…」
語尾の抜ける感じ。朱明はハッとして前のめりになる彼を支えた。
助手席のHALは、ただの抜け殻になっていた。