17 眠り男は都市を開くことを提案する
その部屋は暗い光に満ちていた。
暗い光というのは妙な言い方だが、安岐には少なくともそう思えた。
そしてその光にしても、変と言えば変なのである。
光源が何処にもないのだ。空気の流れがないのだから、おそらくここは屋内なのであろう。
だがそのわりには天井と呼べるものが見えない。壁があるのは判る。だがその壁の端から端が見えない。床があるのは判る。だが床から光がにじみ出ている訳でもない。
もちろん窓もない。
だがそこは、何かがそこにはある、と認識できる程度の光が満ちていた。
彼らはゆっくりとその光の中を歩いていく。
…どのくらい歩いただろうか。正面に、何か、があった。置かれていた。
そしてその上に、誰か、が居た。暗い光の中、その誰か、のアウトラインがぼんやりと見える。
安岐はその誰か、に心当たりがあった。
誰か、はひらひらと彼に手を振った。安岐は、はあぁぁぁ、と大きく深くため息をついた。
「…HALさん…」
何故自分がここに居るのか、何故彼がここに居るのか、それはさっぱり安岐には判らない。
だが確かに目の前に居るのは、最近意味もなく自分の目の前に姿を表す正体不明の美人だった。
そしてその美人は何かの上に座ったまま、形の良い唇を開けてこう言った。だが表情までは見えない。そして髪は… 長い。長くて真っ直ぐで適当に結って… 最初に橋の上で見た彼と同じだった。
「ご苦労様」
「何がご苦労様なの!」
「ああごめんね。ちょうどいいタイミングだったから、君達を連れてきてしまったんだ」
「連れてきて?」
彼はよ、と声を立てると、何か、の上から飛び降りた。
よく見ると、彼が乗っていたのは、降りた時ちょうど彼の腰くらいの位置にある… ガラスのショウケースのようなものだった。
ショウケースには何かが入っているらしい。だがそれが何だか安岐の目にはまだ届かない。やや距離があった。
「M線列車を三両ほどちょっと借りてね、ここの在る空間につなげたの。そうでもしないとここにそう簡単に人間は連れて来れないからね」
は? と安岐は問い返した。何やら理解するには遠い単語を聞いた気がする。
「そっちが君の可愛い彼女?」
ぎゅ、と朱夏が腕を掴む力を強くしたのを安岐は感じた。彼女は明らかに何かに戸惑っている。安岐は肩を引き寄せる力を強くする。
「ああ別に危害を加えようとかそういうのじゃないから安心して」
「あんたがしたのか?」
「そうだよ」
ショウケースにもたれかかったまま、あっさりと彼は答えた。
「何で」
「君達に頼みがあるから」
「頼み?」
安岐は訝しげにHALを眺める。次第に目も慣れてきて、ショウケースの中身がゆっくりと意識の中に形をなしてくる。
そして安岐は目を疑った。
「…誰か… 人間?」
ん、とHALはちらりと後ろを向く。そしてそうだよ、と軽く答える。だがその答えはそれで終わらなかった。
「それは、俺だよ」
矛盾した答えだ、と安岐は思った。少なくともそれは目の前で話している人間の放つ台詞ではない。
「見てみる?」
見たい、と思った。だがその半面見たくない、とも彼は思った。
だがいずれにせよ、身体が意志とは関係なく、そのショウケースの方へ近付いていくのが判る。朱夏をくっつけたまま、安岐はHALがうながすまま、ショウケースの前に立った。
そこには、確かに人間が入っていた。眠っている様だった。だが眠る人間のためには、それはあまりにも棺めいていた。ガラスの蓋は閉ざされ、その中の大気は全く動いていないように見える。生きていないのだろう、と思う方が間違いないと思われた。
だが、それは確かに目の前のHALそのものだった。
「…あんた… まさか」
HALは首を軽く傾げる。
「あんたが、眠り男なのか?」
そうだよ、とHALは重力の無い言葉で答えた。
「眠り男」の噂は安岐も聞いていた。だがそれはあくまで噂であって、本当にそんなものが居るとは考えてもいなかったのだ。
「…何で」
どんなに不条理に見えることでも、目の前に現実がある場合、それは信じなくてはならない。
安岐はその切り換えは早かった。単純と言えば単純であるが、そうでなくては、この街で立て続けに起こった不条理に適応はできなかった。
「やっぱり安岐は珍しいよね。だってこっちがニセモノってことも考えられるんじゃない?」
「ニセモノ?」
「ここにいる俺は本物で、こっちに眠っているように見えるのはレプリカとか」
「そうなのか?」
「いーや」
ふるふると彼は首を横に振る。そして喋っている自分の胸に手を当てる。
「こっちがレプリカ。寝てるのが本体」
「でも『眠り男』は十年前から眠っているって」
「そうだよ。十年前から眠っているの。時間が止まっているんだ。ここでは」
少なくとも君よりは上だよ。HALが歳のことを聞かれた時のことを思い出す。
「ねえ朱夏、『音』はうるさくない?」
安岐は自分にかじりついている朱夏がびくっと身体を震わせたのに気付く。
「…うるさいが… お前は何だ? …お前… 見覚えがある!」
「そりゃあそうだろうね。君は俺に見覚えがあるはずだ。ねえ朱夏、『音』を消したくない?」
「消せるのか?!」
「どうだろう。消せるかもしれないよ」
朱夏はぐい、と身体を乗り出す。
「そんなに嫌? あの声が」
「あの声が、じゃなく、延々同じ音がめぐり巡ってみろ! 誰だって壊れそうになるじゃないか!」
「そうだね。俺は壊したかったんだから」
「ちょっと待って」
安岐は口をはさむ。
「それって、あんたがまるで彼女に『音』を仕掛けたみたいじゃないか?」
「まあそういうことだね。俺が作った訳じゃあないけど、俺が頼んだことだから」
「何で」
「この都市を元に戻すために」
突然話が大きくなってしまったことに安岐は驚く。
「君言ったよね。何にしてもとにかくこの都市が開かなくてはいけないって」
「え?」
「あの橋の上。俺が花を投げていた時。安岐は言ったじゃない。結局何にしても、この都市が閉じている限りどうしようもないって意味のことを」
「…ああ」
確かに言った記憶がある。そしてそれは間違いではない。彼がずっと思ってきたことだ。
「俺も、そう思う。だから、開かなくちゃならない」
「そんな、開く開くって簡単に言うけど、あんた…」
「開くよ」
HALは断言する。
「開くんだ。ちゃんとやるべきことさえやればね。然るべきところに然るべき人を置いて、然るべきことさえすれば、この都市は開くんだ。十年前のように」
「どうしてそんなことが判るんだ?」
「判るよ。閉じたのは俺だもの」
「眠り男」は、都市を閉じるために眠りについた…
仮説の一つが安岐の頭をよぎった。
「あの時は、そうしなくては、都市自体が壊れるところだった」
「あの時って… あの時?」
「そう、あの時。でも安岐は思い出せないはずだ」
確かに思い出せない。その時、自分が何処で何をしていたか。
「不安定要素はなるべく排除したかったからね」
「排除」
その言葉は、彼に一つのことを思い出させた。
「『適数』もそう?」
「そう」
「だから黒の公安は『川』へ人を落とす?」
川に、兄は落とされた。
「そう」
「それは、あんたの命令なんだ?」
安岐は自分の声が微かに震えているのが判る。
「そうと言ってもいいけど、それは少し違う。あいつらは、俺を守っているんだ」
「あんたを」
「安岐に前に言ったろ?」
そうだ。安岐は思い出す。朝のファーストフードスタンドで、彼は確かにそう言ったんだ。自分がこの都市なんだと。
「もともと『都市』として成立してしまうような人やものや情報や流通の密集地には、そこを都市たらしめる『意志』があるんだ」
「意志?」
「ここにも元々その『意志』はあってね。俺は便宜的に『彼女』と呼んでいるけれど… 俺はその彼女と、ちょっとしたトラブルで入れ替わってしまったんだ」
「ちょっとしたトラブル?」
やや皮肉げに安岐は繰り返す。だが原因について、HALは話す気がないらしい。
「その時に、この都市空間自体が丸ごと、別の次元、別の空間に飲み込まれそうになった。…ま、『彼女』はそうするつもりだったらしいね。『彼女』はとても情熱的だったから… で、俺はそれをちょっと力技で俺の身体の方へ閉じこめて、『彼女』と入れ替わったの」
淡々と言うには大きすぎる内容じゃないか?
安岐はめまいがしそうだった。だが朱夏が自分を掴んでいる。それが彼を正気にさせていた。
「だから要するに、現在この都市は、『外』とはややずれた次元の中に居るんだけど、それを元に戻すのは、俺では無理。俺にはそこまではできない。『彼女』じゃなくちゃ」
「だけど『彼女』――― あんたの言うことが本当なら、『彼女』を眠らせたのはあんただろ? HALさん」
「…」
HALは困ったような笑みを浮かべる。
「とにかく『彼女』を起こして、『彼女』を口説き落とさなくてはならないんだ。そのために必要な奴がいるの。ねえ安岐、そのために君と朱夏に協力してほしいんだ」
安岐は何となく釈然としなかった。黙っていると横で朱夏の声が聞こえた。
「それでは、そのお前の言う『必要な奴』がこの『声』の持ち主なのか? そいつを捜してこの都市へ連れてくれば私の中のこの『音』も『命令』も消えるというのか?」
「かもね」
都市を元に戻す。これは願ってもないことだ。HALの言うことも判らなくはない。嘘をつくにしても大がかりすぎる。
朱夏の中の「音」と「命令」。それはBBのFEWだ。彼を連れてくれば彼女の中の不快な部分は消える?
それは悪くない、と思う。
とりあえず安岐はHALの言うこと自体は本当だと仮定してみる。筋は通っていなくもない。だが。
何か釈然としない。
HALは嘘はついていない、と思う。
ここで嘘をついたところで彼が得る利益など無い。そもそも、彼が言うことが本当ならば、彼は今ここで、安岐と朱夏を自由にできるということでもあるのだ。あの列車をここまでつないだように。
つないだ?
そこで安岐ははたと気付く。
「ねえHALさん聞いてもいい?」
「何?」
「もしかして、この間の『S-K』の停電はあんたが起こした?」
「ああ、やっぱり気がついたね」
「仕組んでいた?」
HALは黙る。黙ったまま、軽くうなづいた。
ああそうか、と安岐は気がついた。釈然としないのはそこだったのだ。
自分達は―――自分と朱夏は、見られていて、会うべくして会わされたのだ。




