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14 HAL、自分の正体を安岐に告げる

「ずいぶんと難しい顔してるね。若者にはなかなかいろいろあるようで」

「またあんたか。ころころよく髪型が変わるね」


 奇妙なことに、髪が伸びている。ゆらゆらとしたウェーヴがつき、後ろで無造作に止めている。


「偶然っていいね」


 にっこり笑って、彼はコーヒーだけを乗せたトレイをテーブルの上に置く。


「別にあんたがそう言いたいならいいさ。だけど今俺は切り返す気力がないの。で、あんたこそあのお目付け役はいいの?今日もまいてるの?」

「いい訳じゃないけど。まあもう一人の俺と寝てるだろうからそう簡単には来ないと思うけど?」


 何か一瞬妙なことを聞いた気がした。


「好きってそういう意味?」

「まあね。でも今日はただ寝ているだけだと思うよ。奴も疲れてるからね」

「HALさんは疲れてない?」

「俺は疲れないの。疲れたくとも疲れないの」

「?」

「別にいいけどね」


 軽く目を伏せて彼はコーヒーを口にした。

 その仕草を見ていると、どうしても彼女のことを思い出さずにはいられない。最初から彼と朱夏には既視感のようなものが感じられた。

 単純に似ているかどうか、と言われたらこれは困る。何はともあれ、男と女のパーツの違いはあるのだ。

 だが、全体の雰囲気であったり、背の高さ、肩から下へ降りていくライン、彫りの深い顔立ち、ちょっとした仕草、そういうものが妙に似ているのだ。

 朝の陽の光が穏やかにウィンドウから入り込む。ゆらゆらとした彼の髪に降り注ぐ。ややまぶしげに目を伏せる。


「そう言えば」


 聞きたいことがあったのだ。切り出すと彼は何、と首を傾げる。


「BB、好きなの?」

「ん? どうして?」

「いや、俺にくれたでしょ? CD。好きなのかな、と思って」

「うんまあ、好きだよ」


 それだけ言ってまたコーヒーを口にする。とりつくシマもない、と安岐はやや唇をとがらせる。だがそれで彼はめげない。何と言っても、話を続けるには努力というものが要るのだ。


「あれって結構前に出たCDだよね。後で調べたんだ」

「おや熱心じゃないの。どうだった?」

「いや、ちょっと寒気が」 

「寒気?」


 何それ、と彼は苦笑する。

 当初は苦笑だけに治めたかったらしい。だが結局苦笑にはおさまらず、彼はぷっと吹き出した。

 安全な所にコーヒーを避難させ、おもむろに声を上げて笑いだす。

 そんなウケることだっただろうか、と安岐は自分が言い出したことなのにきょとんとする。


「そんなおかしいですかねえ?」

「い… いや、別に…」

「別にって言うような感じじゃないよ」

「…ああごめん… だけど妙におかしくて」


 だけど涙が出るほど笑わなくとも。


「そんな、変だった訳? 結構人気あったんだけどな、あの頃からあいつらは」

「そうなの? だって俺は、まともに聴いたの初めてだったからさ」

「へー珍しい。ヒットチャートにはよく入ってるじゃない」

「そりゃそうだけどさ、ヒットチャートに入ったからって全部が全部耳を傾けるという訳じゃないだろ?」

「まあそうだね。でも何が安岐に寒気を起こさせたの?」


 あれ、とふと彼は思う。俺自分の名言ったっけ?


「何か、ねとねとして… 背中から絡みつかれるみたいで… でも周りの音は綺麗だから、何って言うんだろう? 美しい納豆…」


 一度出た笑いはなかなか止まらないらしい。仕方ない、と安岐はしばらくHALのその笑いが止まるまで待つことにした。紅茶が空っぽになったので、もう一杯買いに行く。

 戻ってくると、ようやく笑いが止まる所だった。 


「ま、確かにそうだろうな」


 笑いやむと、彼は妙に嬉しそうになった。


「変わった声ってのは事実だし、結構好き嫌いあるよね」

「うん。でもさあ、珍しい声だな、と思った。結構武器になるって思うし」

「うん。珍しい声だった。…今でもきっと珍しい声だろうな」


 しみじみとHALは言う。その様子がずいぶん懐かしげなのが安岐は気になった。

 考えてみれば、おかしいのだ。「黒の公安長官の友達」にしては見かけが若すぎる。自分と大して変わらないようにも見える。本人は安岐より上だ、と言っている。

 だがぱっと見の性別が判らなかったという前科があるから、見た目で判断はできない。

 買ったCDは十年前のものだったのだ。ふと安岐は思いつく。


「そう言えば、こないだ」

「ん?」

「何かよく判らなかったんだけど… どうも気になるんだけど、あんたが言ったバンドの名」

「ああ、別にあれは大したものじゃないから」


 HALは再びコーヒーに口をつける。


「だけど、聞かされてそれで判らないって変じゃない。もう一度言ってくれない? 俺必死で聞き取るから」

「だから、言っても判らないよ」

「え?」


 いい? とつぶやいて彼は口を動かす。

 ある単語を発音する。

 言っていない訳ではない。

 彼の喉は動いている。

 空気が震えている。

 耳にもその音が届いているのが判る。


 …


 同じだった。

 音は発せられている。耳に届いている。頭にも、きっと。

 なのに、それは意味をなさない。


「…ね」


 形の良い唇が、そう締めくくる。

 ね、じゃねーよ、と安岐は思わず悪態をつきそうになる。

 だがHALは、その安岐の勢いには構わない。


「ねえ安岐、俺はあの声、好きだったよ」

「え?」

「BB。FEWの声。あの無茶苦茶ウェットな声。滅多にいない声。絶対に俺には出せない声。何かね、俺は、すごく好きだった。安岐は、絡み付くみたいで嫌と言ったけど、俺はその絡み付くような感触がすごく好きだったな」


 さりげなく混じる単語に神経がとがる。記憶をたどる。俺は自分の名は言ってないはずだ。

 HALはうっとりと目を閉じる。

 どうやらその絡み付く声を思い出しているようだった。安岐はほんの少し意地悪な気分になって、探りを入れてみる。それで簡単に探られるほど簡単な奴ではないことは判ってきていたが。


「変わった名だよね。FEWって」

「そ。aをつけると『少しはある』とかいう意味もなのに、つけないから『ほとんど無い』って意味。どうして否定型の方にするの? と俺が聞いたら、『今、何もないなら、これからどれだけでも増やせる』って」

「…」

「守るものが少しでもあると、守る方ばかりにアタマが行ってしまって嫌だっていつも奴は言ってた。いつだって攻撃に回る奴だったから…」


 それではまるで思い出話ではないか。安岐はすらすらと彼の口から流れる話に驚く。ひどくそれが楽しそうなことも。

 誰か人づてに聞いた話、とか、人気アーティストの雑誌インタビューを読んで、とか、そういう口ぶりではない。これは知り合いのものだ。


「冬と春は隣り合わせ、か」

「季節?」

「ああ、そう言えば安岐も季節だよね。朱夏も夏のことだ。結構間抜けだよね、ああ言う言葉って。朱夏は綺麗だけど、対になる言葉たちって、青春だの白秋だのだから、青春じゃ笑うし、白秋だと詩人になるもんな」


 そういうことを言っているのではない。


「あのさ、BBのヴォーカルの名は冬なんだ」

「冬?」

「布・由って書くから。その音からバンドネームつけて。で早く春が来ないかとか言ってあの頃は周りにからかわれて」


 話が見えない。いや、話を見えなくしている。だが全くその話をしたくない訳ではないらしい。その気がなければそんな話はしない。

 明らかに彼は、何か謎をかけているのだ。


「さて」


 そろそろ行かなくてね、と彼はトレイを持って立ち上がりかける。慌てて安岐はその手を掴んだ。


「引き留めるのが好きだね、安岐くん」

「どうして俺の名を知ってるの、HALさん」

「俺は何でも知ってるよ。たとえば君の『会社』のしていることとか、君の可愛い可愛い彼女とか」

「どうして?」


 HALは目を見開く。見上げる安岐と視線が絡む。


 ぞくり。


 見下ろす視線は強烈なものだった。


「HALさん… あんたは誰なんだ」

「さあ誰でしょう」

「はぐらかすなよ」


 そうだ。はぐらかされてる。最初から。


「言ったって信じないよ」

「信じるよ」

「何でも?」

「何でも!」


 口の端がくっ、と上がる。そしてその唇から、言葉が漏れる。

 辺りの音が消える。全ての音が、耳に入る寸前に、切り離される。

 何だ?


「俺はこの都市だよ」


 耳をくすぐる、甘くて低い声。ただそれだけが、その瞬間、安岐の耳にすべり込んできた。


 え?


 思いがけない言葉に安岐の手の力が一瞬緩んだ。すっ、とそのすきをつくように、彼の手は力を無くした安岐の手からすりぬけていく。

 言葉を乗せた音が耳に残る。あのBBのFEWとは対極にあるような、乾いた音。


 俺は・この・都市・だよ。 



 朝帰り、というのは朝帰る、だけのことではない。待っている人が居て、しかもその相手に多少の罪悪感を持つ時に適用される言葉だ。

 緑茶の袋を抱えて朱夏が帰った時は、既に時間的には朝だった。

 お帰り、と東風はモニターから目を離さずに声をかけた。

 かたかたかたかた、キーボードの音が耳障りだった。

 朱夏は緑茶の袋をテーブルに置くと、部屋の隅の寝台にごろんと転がった。すると視界に入った天井付近の、熱量が上がっていることに気付く。明かりはずっとついていたのだ。


「ずっと仕事していたのか? 起きていたのか? 東風」

「まあね」

「ずっと?」

「ああ」

「…怒っているのか東風?」

「怒ってはいないさ」

「だけどテンションが落ちている」


 かた、とキーを叩く音が止まる。


「何か私は東風に悪いことをしたように感じる」

「どうしてだ?」

「判らない。だけどさっき東風がこんな時間に起きてたのを見たとき、何か心地が悪かった」

「そうだな。せめて連絡の一つでも入れてくれると嬉しかった。電話の一つとかね」

「ごめん」


 ぴょんと起きあがると、朱夏は素直に謝る。


「ま、いいさ。夏南子が言った通り、朱夏がずっと同じ朱夏でいるという訳じゃないし… 俺がどうこう言ったって始まらない」

「でもやっぱり連絡はするべきだったと思う。ごめん。私が悪い」


 そんな彼女を見て東風は苦笑する。そういう意味ではないのだ。


「朱夏のせいじゃないよ。俺は俺の、別の問題もあってちょっと精神的に疲れてもいるの。確かに朱夏のことも多少あることはあるけれど、基本的にはそれは俺自身の問題」

「…」


 彼女は軽くうつむく。


「朱夏こそ元気ないじゃないか?」

「そうか?」

「ああ。何か判らないことができたのか? 俺に判ることなら答えられるから、言ってみな」


 再び寝ころび、朱夏は頭を抱える。


「理解不可能なことが最近多すぎる。何でこうも世界は厄介なのだ」

「大げさだな」


 東風はぷっと吹き出す。


「そりゃまあ、人間は複雑だし、その人間の作る世界はもっと複雑だよな」

「だが東風、その人間が私を作ったのだぞ。私を直した東風だって人間だ。人間より上手く動けるようにと」

「それは確かにそうだ」


 椅子を動かして彼は寝台のそばに寄った。


「朱夏は確かに単純なことも複雑なことも、人間以上によく動けるのかもしれない。だがそれは朱夏に余計な感情が少ないものだったからだ」

「余計」

「そう余計だ。少なくとも一般的にはそう思われているだろうな。…君のおおもとの作り主はどうか判らないけれど」

「何で?」

「『規則』のことは教えたろ?」

「ああ」

「あれが第一回路に組み込まれていると、レプリカントは感情を持つ可能性自体が封じられる。だけど君の第一回路に『規則』はない」

「どうしてだろう?」

「それは、判らない。ただ何の目的もなしにそうした訳ではないと思うんだ」

「私の『音』もそうなのか?」

「たぶんね」

「じゃあ『命令』は?」

「『命令』?」


 耳慣れぬ言葉に東風は身体を乗り出す。


「『音』の裏に『命令』があったんだ。やっと判った」

「どういう命令?」


 東風にとってそれは初耳だった。

 もともと『音』にしても、結局は朱夏の自己申告に過ぎない。どんな音が出ていて、彼女がどう聞こえているのか、は彼には…ここでは判らないのだ。 


「あの音は、歌なんだ」

「歌」

「BB、というのを知ってるか?」

「君に行かせたライヴハウス? それとも…」

「ロックユニットのほうだ」


 東風はうなづく。


「知ってるよ。俺も昔は聴いたことがある」

「その声だ。今流行ってるっていうそれじゃなくて、十年以上前のCDに入っているあの声なんだ」


 十年前、というところに彼は引っかかった。

 それこそ、彼がよく知っているBBの頃だ。彼に勧めたのは、友人だった。

 都市が閉じる前の秋には、「I-S」地区にある厚生年金会館にライヴを観に連れていかれたこともある。


「それに気付いたのはいつ?」

「昨日。安岐が、何かよく判らない奴からCDをもらったっていうんで、それを聴いたら、それだったんだ。私は何かひどく心地が悪くなって、安岐とそれから抱き合ってた。そうしたら、その音の、終点が聞こえたんだ」

「終点?」

「つまり、同じ一つのCDが、私の頭の中で、延々ぐるぐる回っているんだ。だからもちろん始まりと終わりがある」

「その合間が、聞こえたということ?」

「そうなんだ。それが、『命令』だった」

「何って言ったの?その『命令』は?」


 朱夏は仰向けのまま、両手で目を覆う。


「東風、答えたくない質問には答えない権利があると言ったな」

「あ? ああ」

「ごめん、私は今、答えない権利を行使する」


 東風は目を細めて彼女を眺める。こんな朱夏は初めてだった。

 拾って三年になる。「規則」が組み込まれていないことを知った彼は、彼女に「感情」が生まれればいい、と思っていた。

 半分は好奇心だったが、あと半分は花を育てる時の気持ちにも似ていた。

 無論自分の、何処か欠けた感情を丸ごとお手本にすることほど悪いことはないので、何かと世話好きな夏南子の手を借りた。そしてそれは間違いではなかった。

 成果はゆっくりだった。だがこんなものだろう、と彼は思っていた。

 ところが最近ときたら。

 彼はやや寂しいような気持ちになる。「代わり」の妹もまた、自分の手元から去っていくのだ。


「別にいいさ朱夏。君の買ってきた茶でも入れよう」

「ありがとう」


 目を伏せたまま朱夏はそうつぶやいた。


「ところで朱夏、安岐くんは元気なんだな?」

「ああ」

「彼はどういう奴だ? ずっとこの都市に居たのかい?」 

「いや」


 彼女は起きあがる。答えられる質問には誠実に答えようとしているように彼には見えた。


「十年前にこの都市に来たと言った。兄が居たらしいが川に落ちたらしい」

「今幾つ? 二十歳くらいかな」

「ああ、そのくらいだと言っていた」

「じゃあ。誰が彼の面倒を見ていたのかな? 子供の頃… 施設か何か? それとも…」

「あ、保護者が居た、と言っていた」

「保護者」

「兄というひとの友人だと言っていた。その人に五年間保護してもらって、その後彼は、そのひとが副長をする会社に勤めているという」


 会社ね、と東風はつぶやく。額面通りに信じていい言葉ではない。だが何にしろ、彼の危惧は当たっていたのだ。

 安岐はあの安岐だ。

 東風は確信していた。

 川に落ちた友人の――― 彼と壱岐の共通の友人の弟だ。

 共通の友人が川に落ちるのを共に救えなかったこと以来、壱岐は、東風と夏南子と完全に接触を絶ったのだ。

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