9 世界に色がついた日、そして曖昧な過去
それに「朱夏」という名をつけたのは夏南子だった。
彼と長いつきあいの夏南子が、一週間も店を休んでいる東風の所へ「見舞い」へ行ったら、そこでは友人とも愛人とも知れない男が、少女のレプリカントをチューニングしているところだった。
「仕事さぼって何やってると思えばまた仕事?」
「見舞い」らしく果物をクラフト紙の袋に詰めて抱えてきた彼女は、部屋に入るなりそう言った。
「いや、仕事じゃない」
「じゃあ何よ」
「道楽」
「じじい」
すかさず答えた夏南子に、じじいとは何だ、と東風は言い返す。だが無論彼女は馬耳東風、持ってきた果物の中から一つ二つ取り出すと、キッチンで皮をむきはじめた。
「道楽で女の子作っちゃうなんて、あんた最近趣味変わった?」
毎週来てはこの男と寝ている彼女は言う。
「違ーう! 拾ったから」
「拾った… あんたねえ、拾うなら猫か犬程度にしときなさいよ。こんなに大きくちゃもらい手もないわよ」
切ったのは桃だった。パステルカラーのガラスの器に、皮をつるりとむかれ、いくつかの破片に分けられた桃がてんこ盛りになっている。
彼女はその破片の一つにフォークを突き立て、手の離せない東風の口に押し込んだ。驚いたが桃である。すぐに口の中でふしゅん、と崩れる。それを飲み込んでから、彼は一応の反論を試みる。
「別にもらい手を捜すとかとういう気はないよ。だから道楽って言っただろ?」
「ふーん、じゃあ一緒に住むんだ」
「あれ、妬いてる?」
「誰が。それにあんたが欲情するような体型でもないでしょうに?」
トランジスタ・グラマーは胸を突き出す。自慢するだけのことはある。
「…ちゃんの代わり?」
彼女は東風の妹の名を持ち出す。答えない彼に彼女は図星でしょ、と追い打ちをかける。
「別にいいけど。でも一度拾ったんならちゃんと面倒は見るのよ」
「へいへい」
「で、名前なんていうの?」
「名前?」
彼はそれを失念していた。
「それにまだ髪型とか決めてないでしょ。そういうのあたし決めんの好きよ」
人の悪い笑みを彼女は浮かべる。
「お前の趣味を入れさせろって?」
「当然でしょ」
そして彼女はその新入りの「彼女」に「朱夏」とつけた。
傷ついた顔を多少治し、ウェーヴのついた長かった髪を切ってストレートにして。
拾った性別不詳のレプリカントは東風の妹分になった。
夏南子が言ったことは当たっている。東風は、何となくこの拾った華奢な体型のレプリカントに妹を見たのだ。
「外」に居る筈の、今ではもう、この都市に閉じこめられた時の自分や夏南子を追い越しているはずの。
だけど彼の記憶の中では変わらないままの。
歪んでいるな、と彼は思う。少なくとも、「自分を破壊する訳にはいかない」と真っ直ぐに答えたあのレプリカントよりずっと、と。
*
「でも変だな」
朱夏は首をかしげる。そして手を伸ばして、ぺたん、と東風の頬に触れる。
「別に東風に触っていてもそういうことはないのに」
ははは、と彼は力無く笑った。
「そりゃそうだ」
「何で」
「そういうことは自分で考えるんだよ、朱夏」
「東風はいつもそうだな。そういうことは絶対私に言わない。安岐は判らないことは判らないって言ったぞ」
「あき?」
「その昨日の、彼だ」
こういう字だ、と彼女は紅茶でテーブルに書く。その字を目で追っていくうちに、冗談であってほしい、と彼はカップの取っ手を握りしめた。
*
「誰かと寝るというのは面白いものだったんだな」
朱夏が帰り際に言ったのをふと思い出してしまって、安岐はぷっと吹き出してしまった。
「…どうした安岐?」
「…あ、何でもありません。ええ」
冷や汗が出そうになるのを安岐は必死でくい止めていた。
お前今日変だぞ、とつぶやくと、壱岐は仕事の説明を始めた。
だがどうしても安岐の頭の中の情景は、気がつくと昨晩から今朝の情景に移ってしまう。
印象的、という言葉の意味が理解できたような気がした。あまりにも心に焼き付く出来事というのは、記憶の中ででも極彩色に彩られるのだ。
その時見た情景の一つ一つの色が、ひどく鮮やかに思い出せるのだ。
すり硝子ごしの光が無性に綺麗だというのに初めて気付いた気がする。そんなこと思う余裕も今までなかった。女と寝たのが初めてだったという訳でもない。むしろ初めての時のことはもう雑多な記憶に紛れてしまった。
なのに。
「…で安岐、そこはお前が担当しろ」
「はい?」
またか、と言いたげに壱岐は手を組んでため息をつく。
「あのなあ。今日お前、本当におかしいぞ。病気か何かか?だったら仕事から外すぞ。使いでのない奴など必要ないからな」
「いや、違います、大丈夫です。ちゃんと聞いてます」
慌てて付け足す。嘘である。聞いてはいなかった。
だが彼はとっさに横の津島が取っていたメモを見る。それでだいたいのことは把握できる。
津島は派手な外見の割には几帳面な奴なので、仕事の順序をその場できちんと書き取っておくという習慣があった。もっともそんなメモが何処かで目に触れたら困るので、集合と会議の後、実行の段になる頃には頭に叩き込んで、そのメモは下水に消えるのだが。
「OK、では今呼ばれた奴は四時にSKの地下のいつもの場所へ集合」
安岐は反射的に時計を見る。時計の針は二時半を指していた。がたがた、と椅子から立ち上がる音があたりに広がる。手帳を閉じた津島がにやにや笑いを浮かべながら、安岐をつつく。
「何だよ」
「昨日の、どーだったの」
しまった、と安岐は思った。今の今まで、あのライヴが津島に頼まれて行ったものだということを全く忘れていたのだ。
二人はそのままビルの階段の踊り場まで行く。
その様子を見ていた壱岐は、何ごとだ、と眉を吊り上げるが、どうやらプライヴェイトの話だ、と気付くと、そのまま階段を降りて行った。
彼はそういう時には実に寛容だった。自分達にもそういう時代があったのだ、と。
そんな壱岐の心情など安岐にはとりあえず考える余裕はない。問題は昨日のライヴである。全然見なかった訳ではない。だが。彼は必死で記憶をたどる。
「ああ、何かすげえバンドだったな。ギターレスじゃん。お前がああいうの好きだって、意外だと思った」
とりあえず第一印象を述べる。嘘ではない。
「そおか? 別に俺はギターが入ってなきゃ駄目ってことねーぜ?」
「あれ、そーだったっけ」
「うん。それにあそこの曲にどうギターを入れたらいいかって考えるのは面白いし」
ああ駄目だ。こういう打算なしの部分に自分は弱いんだ、と彼は思わずにはいられない。
「…あー… と、津島っごめん!」
両手を合わせて拝むようなポーズを取る。
「実は… あの、一応最後まで居たんだけど、四曲目までしかマトモに聴いてない!」
「…だろーな。そんな気はしたよ」
津島は肩をすくめる。
「あ、でも、気に入らなかったとかそーいうんじゃないんだ」
「そぉかあ?」
「そぉ。アクシデントが」
「アクシデント」
にやり、と津島は笑う。いきなり安岐の肩に手を回すと、
「やっぱりそーでしたか。何のアクシデントかなーっ? おにーさんに言ってごらんなさいーっ?」
「誰がおにーさんじゃ! お前の方が二ヶ月下だろーに!」
「まあそんな些細なことなど気にして…」
前回の今回である。そして津島はそういうことには妙に勘が良かった。
「こないだのギタリストのお嬢さんでも居たの?」
「…そ」
ほほー、と津島は裏声を立てる。
そして空いている方の手で猫にそうするように、ごろごろと安岐の喉を撫でる。よしてくれえ、と安岐は笑いながら逃げだす。その様子を見て津島はへらへら、と笑う。
「良かったじゃん」
「まーね」
だが、何だかんだ言って、この友人が心からそう言ってくれるのは事実なので、安岐もそれに応える。
「で安岐くんには進展が?」
「…あると言えばそうだけど…」
「…ほほー」
「ちょーっと先走ってしまって。いーのかなあ、って思ってたところ」
「何処まで?」
「行くところまで」
「まだ墓の中には入ってないでしょうに?」
「何じゃそりゃ」
「行き着くところ。最終的には同じ墓の中ってね」
「…縁起でもねえ」
実にそうである。
「だってそうよ。俺達何だかんだ言っても、結構明日も知れなくねえ?ウチのメンツだって、俺達が加入した頃に比べて、ずいぶん入れ替わり立ち代わり多いじゃん。辞めた奴もいるけどさあ、そうじゃない奴も」
「…だよなあ」
「だからさ、別に急ってこともねーんじゃないの? いきなりいろいろしても構わねーと俺、思うけど」
「いろいろ、ねえ」
安岐はため息をつく。
いろいろと言えばいろいろありすぎるのだ。
考えすぎようと思えば、考えすぎになど、いつだってなれるようなことが一気に重なってしまったような気がする。
*
この都市に来たのは十のときだった。
どうしてこの都市に来ていたのか、それがどうしても彼には思い出せない。
おそらくは、兄の所へ遊びに来たのだろう、と今になってから彼は考える。兄は十歳違いで、その都市の国立大学の学生だった。
実家は北隣の県である。通って通えない距離ではなかったが、学校が工業大学ということもあり、泊まり込みの実験や何かが増えてきた時、一人暮らしに切り換えたのである。
いい環境だったらしい。学校は「T-M」の駅の近くにあり、そのそばの公会堂で入学式もしたらしい。
「それ」は夏に起こった。
―――ということは、夏休みで兄を訪ねてきていたのではないか、とも考えられる。
何せ安岐はその頃小学生だった。夏休みなら、隣の県くらいなら、兄を訪ねに行くくらい、一人でも行ったのではないか、と。
でも、何故。
その理由がどうしても思い出せない。
壱岐もまた、そう言う。彼は兄の同じ大学の友人だった。
他にも友人は居た。少なくとも、あと二人。だけどその名前が思い出せない。
何で思い出せないのだろう、と彼は思う。その夏の、「その時」の記憶はひどく不鮮明なのである。
不鮮明な記憶はもう一つあった。
この都市に来てから、兄と、そして誰かと住んでいた筈なのだ。しばらくの間。
そしてある日、ある満月の夜、彼らは「川」を越えようとした。
冬だった。ひどく寒い夜だった、という記憶はある。電化街だけではなく、ものが安く買えるマーケットもある「O-S」で誰かが買ってくれた綿でもこもこのブルゾンを着て、走り出した。
当時は、「増えてきた」と言われる現在よりずっとこの都市を脱出しようとする者が多かった。同じように「川」を越えようとする者が、公安の目を盗んで橋を渡ろうとしていた。
おそらく自分もその一人だったに違いない。
だがそこからが曖昧だった。
記憶にあるのは、公安の車の赤い回転灯、黒い制服、命令する誰かの低い、鋭い声、銃声、同じように「川」を越えようとする誰かの悲鳴、兄の声、…冷たい満月。
兄がいったい、撃たれたのかどうかも確かめる術はない。
呆然としていると、誰かが自分を横抱きにした。そして言い争う声。誰かが自分を持ち上げたまま走る。冷たい風。風で目が開けられない。
それでも、ちらりと薄目を開けると、やはり月があった。
ひどく冷たい月だった。
その時彼を横抱きにして逃げ、それから五年間彼の保護者だったのが壱岐である。兄の友人らしいが、詳しいことは彼は語らないので判らない。
津島とは、学校で出会った。
学校は無料で行けた。だが元からのこの都市の住民の子供は、「よそもの」の彼をいじめようとした。無論彼は反撃に出た。兄はいつも言っていた。殴られたら殴り返せ、お前にはその権利がある、と。
権利や義務という言葉の意味も判らない子供ではあったが、何となく兄の言いたいことは判ったので、彼はその言葉を忠実に守っていた。やられたらやりかえせ。
当然敵は多かった。だが味方もできた。
津島とはその時出会った。彼は隣の市に住んでいたらしい。たまたま映画を観に来ていたら、「その時」に巻き込まれてしまったのだという。
だが彼は自分が巻き込まれた時のことを覚えている。映画館でアニメ映画を観ている時、その画面がいきなり消えたのだという。
それは他の人々に聞いてもだいたい似たかよったかの反応で、自分のように記憶が欠落している者など、ほとんどいないのだ。
それが安岐を時々不安にさせる。




