自由落下な地獄訪問
「うわぁぁぁぁぁ!!」
真っ暗な空間に、匡の声だけが響き渡る。
自分の姿さえ視認できないほどの闇。ただ、耳元で聞こえる風切音だけが、自分達の落下を伝えてくれる。
延々と続く漆黒の世界は、どこまで行っても途切れる事は無い。
何度か通った事のあるこの通路だが、こんな使い方をしたことなんて一度も無い。
まさかの自由落下だなんて。
ともすれば現実逃避をしてしまいそうな意識だが、匡に強く掴まれている右手だけが、現実を思い出させ。
オレは深く、それは深く溜息をこぼした。
何でこんなことになったんだか……。
◇
きっかけは、親父が路を閉じ忘れた事に始まる。
黄昏辻と称されるこの通路は、常世と現世を結ぶ路だ。
本来であればしかるべき手順を踏んだ後、開かれるものである。まぁ、稀に自然発生してしまうこともあるから、運悪くそれに落ちてしまって現世に戻れなくなるケースがある。それが所謂、神隠しと呼ばれる現象に繋がるんだけど、今はいいか。
とにかく、出勤の度にそれらの手順を踏むのが面倒だと宣った親父が時間短縮の為に考えたのが、鏡を用いた時間短縮出勤だ。
鏡は古来より神秘的なものとして、祭祀の道具としての性格を帯びていたし、鏡面が単に光線を反射する平面ではなく、世界の「こちら側」と「あちら側」を分けるレンズのようなものと捉えられていたから、鏡の向こうにもう一つの世界がある、という観念が通文化的に存在しているくらいだ。路を開く為の媒体としてこれほど都合の良い物はない。
もちろん、普通の鏡であっても媒体としては十分だったが、丁度いい時期に親父の職場で新旧の入れ替え作業が行われる事になり、これ幸いと貰ってきたのがこの鏡だ。
名前は浄玻璃鏡。本来は、地獄を守護する閻魔が亡者の裁判で亡者の善悪の見極めに使用する水晶製の鏡だ。この鏡には亡者の生前の一挙手一投足が映し出されるため、いかなる隠し事もできない。もしこれで嘘をついていることが判明した場合、閻魔に舌を抜かれてしまうという。一節によればこの鏡は亡者を罰するためではなく、亡者に自分の罪を見せることで反省を促すためのものともいわれている。
では何でそんなものがこんな所にあるのか。それを説明するにはまずは親父の職業が何なのかを語る必要がある。ただ、おいそれと人様に説明できるような職種ではない為、聞かれたときはこう答えるようにしている。
“裁判官”
それが親父の職業だ。中々に言い得て妙だが、実際の所、その答えは親父の職業の本質ではない。なぜなら、裁判が行われるのは国内でも、ましてや海外でもない。
それが行われるのは、常世。いわゆる死後の世界だ。ここまで言えばわかると思うが、親父は閻魔。何がどうしてそんな職業なのか、説明しようにも色々と複雑な事情があるので今は敢えて割愛する。
とにかくそんな特殊な事情故か、うちには訳有りな品が多数存在している。勿論、この鏡もその一つだ。老朽化のため、永の勤めを終えてお役御免になってしまったのだ。
(よくよく考えれば、想像上の存在でしかないとされる浄玻璃鏡が一般家庭にあるってのも中々にシュールだよな・・・・)
歴史を紐解けば、地獄として語られる書物には大体件の鏡が登場してくる程、かなりの貴重品なそれが、老朽化なんて理由でポイされるのだから苦笑いが浮かんでしまうのも仕方がないだろう。
まぁ、それはとにかく。
奴が落ちた。それはもう、見事に。
しかも、オレまで巻き込んで。
今はこっちのほうが大問題だ。
「おい、匡。オレの腕、そのまましっかり掴んどけよ!」
匡に声を掛ければ、返答は無いものの、今まで以上に力が込められたことが判った。この闇に果てなどは無い。明確な意思の元、自らの力で辿り着きたい場所へと路を繋げなければ永遠にこの闇の中を彷徨うことになるのだ。
(とりあえず、市街地近くに繋げとくか……)
そう結論付け、意識を集中させる。
そして、果てなく続くと思われた長い落下は、始まりと同じくらい呆気なく終りを告げた。ふわりとした一瞬の浮遊感の後、足の裏に感じるごつごつとした地面の感触。履いていたスリッパは落下の最中に脱げてしまった為、今は靴下のままだ。
しっかりと立っているオレとは逆に、匡は地面に膝をついて荒い息繰り返している。まぁ、何の気構えも無しにフリーフォールの様な事が起きればそうなっても仕方がないかもしれないが。
息を整えている匡を見下ろしながら、落ちた時の事を思い返す。
確かに親父が路を閉じ忘れたのが一番の原因ではある。だがそれでも、徒人が触れただけではこんなことになるはずがないのだ。でなければあんなところにおいそれとは置いておけない。
一つ、一定量の霊力を保持していること
一つ、見鬼の才を有していること
一つ、組紐を所持していること
この条件をクリアしていて初めて双方の路がつながるのだ。
霊力に関しては、大体の人が持っているもので、魂の質にもよるが訓練次第では増やす事が可能だ。勿論、日々生活していく上で必要になるものではないので大概の人は自分自身の霊力には気づかずに一生を終えることにはなるけど。これはいい。匡がそれを保持していたというそれだけなのだから。
だが、次の見鬼、これは霊力の有無、その保有量、質によって見え方が大きく変わる。簡単に言えば、霊感がある人には霊が見えるのに、ない人には見えないとかいうあれだ。見鬼の力を有していると、鏡に自分の姿は映らない。そう、落ちる前に匡が言っていたように。
でもここからして既におかしい。普段あれだけ周囲に浮遊している雑多な霊にも気付いた様子が皆無だった匡に見鬼の才があるとは思えない。当然、見えないという演技をしている風でもなかったし。
そして最後の組紐の所持。これは徒人との決定的な違いである。
『死神』、そう呼ばれる者たちが所持することを認められているもので、これは地獄への通行証の役割も果たす。それらを踏まえて鏡への干渉が為った今、つまり、匡も死神であるという判りやすい証拠だったりするのだ。
「大丈夫か?」
匡が落ち着いた頃合を見計らい声をかける。
「あぁ。・・・・っていうか、昂太郎。お前死神だったんだな・・・」
大きく息を吐きだし呼吸を落ち着けた匡が軽く驚いたように見上げてくる。
「あー・・・、まぁな」
本当のことを言っても良かったが、親父のことを知ったとき匡がどんな反応をするかがちょっと気になって、敢えて何も言わないことにする。
「そういうお前こそ。いつの間に死神なんて」
「オレは高校の入学式んときに声かけられたから、まぁ・・・半年くらいかな。」
からからと笑いながら告げられたことに、思わずため息が出る。そうならそうと暁さんも教えてくれたらいいのに。いやでも、見た目に反して面白好きな所があるし、多分知ったときオレが驚くだろうと思って黙ってたんだろうな。
「しかも、オレ、暁秘書官にスカウトされたんだよ!すごいだろ。」
っていうか、暁さんが自らスカウト?それってかなり珍しいというか、それだけ匡がお眼鏡に適ったって事なんだろうか。
「そうだな、暁・・・、秘書官は忙しいから滅多にスカウトにはでないって話だしな」
危ない危ない。
いつもみたいに呼ぶところだった。
「にしても、さっきのあれ。黄昏辻、だったよな。なんで昂太郎んちの鏡が・・・?」
不思議そうにしている匡は、あれが浄玻璃鏡だってことには気がついてないみたいだな。いちいち説明するのも面倒だしな、適当にごまかしておくか。
「まぁ、あの鏡もかなり古いからな。その年月の中で不思議な力が宿ったとしてもおかしくはないさ」
「あ!先輩に聞いたことある。付喪神、とかそういうのだろ。」
「まぁ、そんなもんだな。……それはともかく、家に帰るためには閻魔庁に行かないとな。」
「そうだな。自力じゃまだ黄昏辻を開けないし」
同意する匡には悪いが、オレ一人ならいつでも帰れる。ただそのためには色々説明が必要になるし、せっかくの楽しみである閻魔の息子だということも話さないといけなくなるから、まだ内緒だ。