茂平陽子
それよりも、少し時間は遡る。
莉多は母親の気持ちがわからなかった。新居条の研究所ですべてを投げ打って研究を続ける、彼女の母親の気持ちが、だ。父親が死んだときも、研究の合間を縫って慌ただしく葬儀を行い、ほとんどを他の親族に任せきりですぐに研究所へと戻っていった。
一事が万事、その調子である。わかろうとはした。三年ほど前から、手伝いという名目で研究所に入って、清掃などをやっている。少しでも母親の気持ちを理解できるように。
しかし、未だに理解できてはいない。そもそも、一体何を研究しているのか。それすらもわからなかった。とは言え、バイトとしては割とおいしいため、莉多は今日も出かける。
莉多は、バスに乗り、電車を乗り継いだ。田舎町とはいえ、目的地である研究所にはどうしても四十分ほどは要する。交通の接続もお世辞にもいいとは言えないため、余計に時間がかかってしまう。
そして、新居条研究所にたどり着く。やけにものものしいチェック、指紋、角膜、細胞採取によるチェック、パスワード、カード。まあ、この手のチェックも煩わしいだけで、単なる掃除婦のバイトにとっては、さほど重要ではない。
たまにすれ違う研究員は、一様に顔色が悪く、一体何を研究しているのかはさっぱりわからない。特に母親からも説明はない。今日もまた、ただ掃除だけをして帰るのだろう。
ほこりがうっすら積もる廊下をモップで拭き、掃除機をかける。室内は専属の人がやっているので、室内は見たこともない。なんでこんな掃除をやっているのか、自問自答しながら、莉多はモップを絶え間なく動かした。
廊下は狭く、白い壁と蛍光灯、そして白い床以外は何も見えなかった。無機質な曇りガラスでできた自動ドアが廊下の中にはめ込まれている以外は、白以外ほとんど何も見あたらない。逆に、汚れはとてもよく目に付く。
そして、ぼうっと曇りガラスの自動ドアを見つめつつモップを動かしていると、出てきた研究員と目があった。
母、陽子だった。ぺこりとお辞儀すると、他人行儀に通り過ぎるのかと思いきや、機嫌でもいいのか、陽子は手招きをしてみせた。
こちらもバイト中だというのに。ただ、研究所で時たま会うことはあっても、手招きなんかされたのははじめてである。なんだ、と思いつつ莉多は手招きについていった。
「何か、話しない?」
陽子は、思いもよらぬ提案をしてきた。莉多は、何事か理解できなかったが、ゆっくりと頷いた。そのまま、母についていくと、おそらく休憩所なのだろう、自販機が所狭しと並べられ、ソファが三列に置かれた、突き当たりが見えた。すぐ横に座るのは気が引けたので、隣の列のソファに腰掛ける。
「コーヒーでいい?」
自販機にお金を入れ、尋ねる母に、莉多は黙って頷いた。
そして、差し出されたコーヒーの缶を開ける。陽子は、白衣のポケットから煙草を取り出し、紫煙を吸い込んだ。クロヲに対し、莉多が煙草を吸って欲しくないと強く思うのは、この母親の姿を見ているためだろう、と莉多は思った。
「恨んでるでしょう。私のこと」
肺腑までたっぷり吸い込んでから、陽子は煙草をくゆらせつつ、莉多に尋ねた。
「正直言うと、頭にきてる」
莉多は正直な感想を言った。陽子は苦笑する。
「家族を顧みず、旦那の葬式にすらまともに出ない恥知らずな女。確かに自分でも呆れるわ。本当に」
莉多は特に答えない。自分で言うとおり、莉多もそう思っているからだ。
「判って欲しい、なんて言わない。でも仕事は面白かったの」
「そう」
とっくに莉多は、世界に両親しか頼れる人がいない、という年齢を過ぎていた。それを過ぎて、冷静に単なる大人として見たときに、莉多が憤りを覚えたのは想像に難しくない。
「お父さんが死んだときは、コッポラ教授に認められた直後だった。『ザナドゥ』の基礎理論を構築した、あのコッポラ教授。言い訳には勿論、ならないわね」
「うん」
率直な感想。
「そうね。じゃあ、ついてきて」
そう言って、陽子は歩き出した。
さらに厳重な警備。全身を強力なファンであらゆる粒子を吹き飛ばされた上、バイオハザード防護服を着せられ、数多のチェックをくぐり抜け、やがて、辿り着いた先は、ガラスで覆われた病室だった。ガラリ、と陽子は扉を開けた。
そこに居たのは、一人の少女だった。白い繭を突き破り、世に出たばかりの少女だった。羊水がまだ髪にへばり付き、全身が粘液に塗れたかのようにてらてらと光っている。
「この子は、一日が始まると同時に生まれ、一日の終わりに差し掛かると、自らを殻として、硬く化石の様になって死ぬの。そして、それを突き破り、生まれる。全身の隅々、神経組織の細部にまで悪性腫瘍が巣食い、覆い隠し、常人なら耐え切れぬ痛みの中、叫びを上げもがき苦しむ。断末魔の瞬間まで、ずうっとね。そして、夜が訪れると死ぬの。そして生まれる。痛みをまた受け、死ぬために生まれるの。この子は。何度も。何度も」
「そんな……」
莉多は押し黙り、怯えた表情を見せた。
「私は、こんな子を見ていて、助けたいと思って研究に身を捧げてきた。だからこそ、尽くせる手は尽くしてきたつもり」
目の前に居る少女は、生まれてすぐの、澄んだ目で一心に莉多を見つめていた。穢れなき、一点の曇りも無い純白の意思が、こちらを向いている。
何の疑いもなく、穿った目も持たず、裏切られる事も知らず、そして自らが僅か一日に満たない間に死ぬことも知らず。莉多は清掃用の帽子をかなぐり捨てた。そして、粘液が滑るその少女を、しっかりと抱きしめた。
「あたたかい……」
逆らえない。あの目の前では、何も逆らえない。
「この子は、何度でも、何度でも生き返って、そのたびに私と話をするの。お母さんを探して、むずがるの。お父さんと会えずに、泣くの。こんなに小さくても、懸命に生きてるの」
陽子の言葉に、莉多は涙を流していた。
「そう、この子を助けようとしていたのね」
陽子は頷いた。
「彼女は本当に懸命に戦っている。その努力を私たち医学に足を踏み入れた人間が、無意味にしてはならない。そして、彼女を救う努力は、少しずつ成果を見せ始めているの。彼女の命が燃え尽きてしまうまで、わずかな時間でも惜しかったの」
「懸命に生きようとしている子を助ける以上、仕方無いわ」
そして、その子を抱きしめた。
「あたたかい……」
すると、その子はこちらに尋ねてきた。ぎこちないが、懸命に言葉を紡ぐ。
「……わたしの、なまえは、コッペリア。あなたのおなまえは?」
そして、懸命に笑顔を作ろうとする。ぎこちない笑顔。
「わたしの名前は茂平莉多。わたしと、友達になりましょう。あなたが困っていたとき、わたしは力になるわ」
コッペリアは莉多を見て、小首をかしげた。
「ほんとう?」
「本当。絶対に力になってあげる」
すると、コッペリアは小さなその手を出した。莉多はその手を掴む。
「約束するわ。わたしは、あなたとずうっと友達だって」
「やくそく」
コッペリアは、微笑んだ。本当に儚い、ぎこちない笑顔で。
莉多も微笑んだ。母親に対する長年の疑念も、どこかへ吹き飛んでいた。これだけ頑張って生きようとしているとても困難な病気に打ち勝とうとしている子を助けるのに、確かに時間は惜しいだろう。莉多は彼女に心からのエールを送る意味で、友達になることを決意した。
その日、茂平莉多は、コッペリアの友達になった。唯一の、友達に。