オリュンピアの過去
その日は、オリュンピアにとって最悪以外の何物でもなかった。彼女の当時の存在意義、それは『繋脳者』の脳手術を受けずして、『繋脳者』の『エンバディ』を撃てるというものだった。
ただ、それだけであった。しかも、オリュンピアの能力は弱く、微々たるものであった。クローバー級の低レベルなクオリア・エンバディを、息せき切って数回扱うのが精一杯。これでは、通常の『繋脳者』の方がまだマシだ。
彼女はその弱い存在意義を、体術で埋めようと試みた。成程、その天賦の才はあったのだろう、彼女はめきめきと頭角を現わした。しかし、それは凡百の人間でも、努力次第で到達できる程の物であり、彼女達を研究している人間が、諸手を挙げて歓迎する類いの物ではなかったのである。
彼女達を研究していたのは、大手の企業、ヴァスチアンの系列会社が持つ、研究施設の人間である。莫大な維持費がかかる研究において、成果を出すのは絶対条件であり、そんな状況で、やれ体術が凄まじいだのという理由でどうこう出来る程、ヴァスチアンという会社の価値判断は甘くない。
ヴァスチアン社は、最後通牒とも言える融資の打ち切りをちらつかせ始め、その状況は研究者達にある変化を促した。それは
、『ニージョー送り』。それは絶対的な弱者の立場である被験者にとって、最悪の言葉とされていた。それが、研究者達の言の端に出始めたのである。
それほどに、オリュンピアに対する研究者達の不信感は相当なものであり、いつどんな状況に叩き落とされてもおかしく無かった。まさに、オリュンピアにとって崖っぷち。最悪の状況である。
そして、更に決定打となったのは、精神的に追い詰められたオリュンピアが、ただでさえ芳しくない成果を、更に落としたことだった。
最早、弁護の余地はない。研究者達は問答無用でオリュンピアを『ニージョー送り』へと処した。
睡眠薬を射たれ、知らぬ間に『ニージョー』へとオリュンピアは送られた。
『ニージョー』へと向かう船内で、ぱちりと目を覚まし、自分の境遇を知ったオリュンピアは、『ニッポン』に着いた途端、逃げた。彼女は常人を超える力を所持しており、警備兵をあっという間に倒し、監視の目を掻い潜り、見知らぬ土地で逃げ惑う。
友はなく、知り合いもない。自身の存在意義も見つけられず、失敗作として葬られようとしている。人相を隠し、少しでも延命しようと帽子を目深に被り、オリュンピアはその小さな体を震わせ、泣きながら歩いた。
もちろん、彼女にはお金も無い。逃亡生活も三日目を過ぎた頃、オリュンピアの疲労はピークに達していた。冷たい雨が幼い彼女の体力をじりじりと奪っていく。
そして、ついには彼女は力尽き、倒れた。
再びオリュンピアが目覚めたとき、介抱され、温かいベッドに寝かしつけられていた。
意識が戻った瞬間に、彼女の意識は急速に戦闘へとスイッチする。
場所、状況、身体の状態などを、完全に客観視し、分析する。
場所や状況は、特に今この時に危機が迫っているとは思えない、非常に落ち着いたものであった。場所は、単なる民家であり、華美な装飾等は一切無く、質素さが滲み出るような家の一室だった。状況は問題なく、雨音のみが聞こえる程度で、窓の外にも外敵の気配は無い。
身体は、酷くお腹が空いており、相当に全身にだるさがあるが、四肢を動かせないという程ではなく、その証拠に直様オリュンピアはベッドから起きあがり、警戒をし始める事が出来た。
信じられないほどに穏やかな環境。それがオリュンピアがこの場に対し下した結論だった。
その時、ドアが開けられ、少女が姿を現わす。その瞬間に、獲物を狩るような目つきをし、オリュンピアは身構え、四肢に力を込め、何時でも動けるようにする。
「あら目覚めた。あなたってば運が良いわね。あたしが見つけてあげたんだから」
優しそうな少女が、オリュンピアを見つめていた。その手には、トレイが握られており、クラムチャウダーが温かそうな湯気を立てている。その横には、柔らかそうなパンに、ベーコンとサニーレタスが添えられた、簡単なサンドイッチが添えられている。
オリュンピアは、じろりと少女を睨み付けた。
「恐い目つき。でも毒なんか入っちゃないわ。入れてもしょうがないし」
そう言い、少女はスプーンでクラムチャウダーを一匙すくい、口に入れて見せた。
それでもオリュンピアは射るような目つきを止めないので、サンドイッチも一口囓ってみせる。
次の瞬間、やおらオリュンピアは立ち上がり、少女の手からトレイをむしり取る。
そして、貪り食い始めた。
「……なーんか、訳アリって感じね」
オリュンピアの様子を見て、椅子に腰掛けつつ、少女は訝しげに見る。
まさにその食べ方にマナーなどこれっぽちも感じられず、生を得る迅速な手段を取っているだけだろう。
食べ終わったオリュンピアは、やはり少女をじっと見る。
獲物を狩るような目つきこそ無いにせよ、睨んでいる事に変わりはない。
「……さあさあ、次はシャワーでも浴びなさいな」
少女はタオルと着替えを持ち、バスルームにオリュンピアを案内した。
熱いシャワーが、緊張を押し流す。張りつめていた糸がぷつんと切れるかのように、堰を切った様にオリュンピアの目に、涙が浮かんできた。声を上げ、泣く。あまりの心細さに、この先の不安に、泣くしか無かった。
バスルームから上がり、出された服に袖を通すと、あの少女が待っていた。
「ちょっと、散歩しない?」
最早、抵抗する気持ちは無かった。恩を受け、仇で返すつもりも毛頭無い。おずおずと、少女の後ろを付いていく事にした。
体術には自信があった。外敵からこの少女を守る事くらい、出来るだろう。そう勝手に思い、付いていくことに決めた。
自分の境遇なんかは、既に頭には無かった。
少女は、バスに乗り、電車を乗り継いだ。
その間、見かける光景はオリュンピアにとって、どれも新鮮だった。
知らない街並み、知らない風景。バスや電車の外を流れる景色は、此処が一体何処で、此処がどれだけ自分の過ごした場所と違うかを、否応なくオリュンピアに認識させた。
目的地である病院に着く頃には、オリュンピアは年相応に怯えきっていた。
オリュンピアが目深に被った帽子から見つめた限り、そこは一般的な病院だった。
ところが、着いた途端に少女が口にしたのは、意外な言葉だった。
「ねえ、貴女。死んだことはある?」
冷水を浴びせかけられたかの様に、今までの甘えた気分が瞬時に吹き飛ぶ。
少女から数歩飛び退き、構え、じろりと顔を睨み付ける。
「ごめん、特に意味はないの。ま、驚くわよね、そんな事言われたら」
あっけらかんと、殆どオリュンピアの様子など意に介さぬ様子で少女は歩いていく。
やはり、敵意から口にした言葉では無い。
そう認識したのか、オリュンピアも後ろを付いていく。
ところが、彼女が向かう先は、指紋、角膜、細胞採取によるチェック、パスワード、カード。何重にも渡る厳重な警備を、何のためらいもなく少女は進んでいく。
あからさまにこの少女はおかしい。ピクニックにでも行こうという様子でオリュンピアを誘ったというのに、この厳重警備を軽々とすり抜けなければならないところに、易々と入り、なおかつそこに部外者であるオリュンピアを、何の断りもなく通し問題がない人物。
しかし、少女からは殺意も、何も感じられなかった。それが、一層オリュンピアの疑惑を濃くしていた。
この少女を縊り殺し、逃げ出すのは容易である。しかし、それを行うべきなのだろうか。嫌な顔一つせずに、一宿一飯の恩を受けた相手を縊り殺すなど、畜生にも劣ろうというもの。
いざと言うときにその手を、一切の躊躇無く下せばいいと、半ば投げやりで、オリュンピアは付いていった。
やがて、辿り着いた先には、一人の眼鏡をかけた女性がいた。
「莉多? 今日も来たの? そちらは」
「『トモダチ』かな? ごく数時間前に発生した」
茂平陽子は、茂平莉多に言った。
「じゃあれっきとした『トモダチ』ね。通りなさい」
あんぐり、とオリュンピアは口を開けた。一言も会話せず、素性も知らず、一宿一飯の恩も返してもらっていないのに、何故こうも軽々しくも人をこの女、そしてこの女性は信じるのか。
大人の欺瞞と、悪意と、利己主義が支配し、死の商人が自分の値段をグラム単位で値踏みする。誰も信用できず、存在意義を細胞ひとつにも見出される。そんな狂気の世界に居たオリュンピアには、『他人の無為の善意』が信じられなかった。
「ここは一体……何だ! 答えろ! 何故私をここに連れてきた!」
オリュンピアは憎悪と嫌悪、そして怒りを込めて彼らを一喝した。
「あなたは、ここがどこかわかっていないの?」
茂平陽子が尋ねる。だが、オリュンピアは声を荒げるばかりだ。
「惚けるな! ヴァスチアンの手の者か、貴様!」
それを聞き、莉多はきょとんと首を傾げた。
「いったい、何のこと?」
「そう、ヴァスチアンから逃げてきたのかしら。あそこは地獄と聞くわ。この『ニージョー』も大方屠殺場とでも聞いたに違いないでしょうね。でも、実際にはそうではありません。私の名は茂平陽子。安心しなさい、あなたを悪いようにするつもりはないわ」
オリュンピアは更に強く茂平陽子を睨み付けた。
「信用出来るか! 何故そこまで内情を知っている? 答えろ!」
陽子は凄まじいまでのオリュンピアの殺意を受けても、何事もないように受け流し、返す。
「私の言う事が事実かどうか、それは聞いてみてから判断して頂戴。もし仮に、私の言うことが事実でも、ヴァスチアンの研究施設が、君に事実を語るかしら? 教えるワケがないでしょうね。表沙汰に出来ない社会の暗部。武器産業の独裁を守るために、ああして人知れず触れてはならない部分に踏み込み、人命を踏み躙る。許せないことだわ」
「……だが、それだけでは信用は出来んな」
オリュンピアはやはり身構える。
「ほんと、可愛い顔しておっかないのね、貴女。でも、苦しいのは貴女だけじゃない」
「どういう事だ?」
ガラリ、と莉多は扉を開けた。
其処に居たのは、一人の少女だった。白い繭を突き破り、世に出たばかりの少女だった。羊水がまだ髪にへばり付き、全身が粘液に塗れたかのようにてらてらと光っている。
「この子は、一日が始まると同時に生まれ、一日の終わりに差し掛かると、自らを殻として、硬く化石の様になって死ぬの。そして、それを突き破り、生まれる」
「全身の隅々、神経組織の細部にまで悪性腫瘍が巣食い、覆い隠し、常人なら耐え切れぬ痛みの中、叫びを上げもがき苦しむ。断末魔の瞬間まで、ずうっとね。そして、夜が訪れると死ぬの。そして生まれる。痛みをまた受け、死ぬために生まれるの。この子は。何度も。何度も」
「そんな……」
オリュンピアは押し黙り、怯えた表情を見せた。
「私は、こんな子を見ていて、助けたいと思って研究に身を捧げてきた。だからこそ、尽くせる手は尽くしてきたつもり」
「そんな……」
目の前に居る少女は、生まれてすぐの、澄んだ目で一心にオリュンピアを見つめていた。穢れなき、一点の曇りも無い純白の意思が、こちらを向いている。
何の疑いもなく、穿った目も持たず、裏切られる事も知らず、そして自らが僅か一日に満たない間に死ぬことも知らず。
オリュンピアは帽子をかなぐり捨てた。そして、粘液が滑るその少女を、しっかりと抱きしめた。
「あたたかい……」
逆らえない。あの目の前では、何も逆らえない。
「この子は、私と毎日、一日も欠かさず『トモダチ』になるの。毎日、毎日同じように『トモダチ』になるの。そんな子を知ってると、貴女なんてぜんぜん。完全に『トモダチ』よ」
オリュンピアは涙を流していた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
誰に対する謝罪だったのか。オリュンピアは、何度も謝り続ける。
(赦します)
どこからとも無く声が聞こえる。オリュンピアは辺りをきょろきょろと見回した。
目の前の少女からだろうか。いや、もっと深い、どこかからの声だ。
(貴女は『トモダチ』に、なってくれますか?)
オリュンピアは、その瞬間凄まじい恐れを感じた。
他人を信じれば、裏切られる。無為の善意は存在しない。凡ては利己的な意思の元に組み立てられていて、自分以外を信じる事はあまりにも危険。
それが今までの鉄則。信じれば、馬鹿を見る。
しかし、この目の前の少女からは、敵意も、悪意も、裏切りも、何も見えなかった。
信じられるかもしれない。何一つ、掛け値のない善意は、存在するかもしれない。
悪意と欺瞞しか知らない凍えたオリュンピアの心が、刹那揺らいだ。
口に出して、オリュンピアは返そうとした。
「あなたと私は、『トモダチ』だ」
「いいよ、『トモダチ』になろうよ」
オリュンピアと莉多の声が交わり、 オリュンピアはハッとした顔をした。
「あなた、やっぱり『トモダチ』になってくれるんだ?」
莉多はオリュンピアに語りかける。
「ああ」
(私と『トモダチ』になると、辛いかもしれません)
「構うものか」
(苦しいかも、しれません)
「構わない。どんな事も、私は引き受けよう」
(本当に?)
「ああ。一度死んだような身だ。私は『トモダチ』の為なら何でも出来る」
(ありがとう)
「いや。私とあなたは、『トモダチ』だろう?」
(ありがとう。ほんとうに、ありがとう)
「『トモダチ』は、助け合わないと。おいで、改めてあなたを『トモダチ』として招待するわ」
「私の名は、オリュンピアだ」
(そう、私は『コッペリア』)
「わたしは、茂平莉多。よろしくね」