亞子、科学者に会う
デヴィット医師と別れ、すぐに次の目的地へと飛んだ亞子。まったく、世界は狭くなったと思う反面、あまりに急激に動く世界を呪いたくもなる。
父から貰ったディスクは、波紋を広げ劇場の話に辿り着き始めていた。
どう考えても、足を踏み入れるべきではない領域なのである。だが、同時に興味もある。
とは言え、既に命を賭けたゲームと化しており、降りる事は許されない。
そんな風に考えを巡らせつつ、亞子は公共機関を乗り継ぎ、目的地に到着した。ひどく辺鄙な所で、あばら屋と言ってもいいほど荒れ果てたところだった。
確かにデヴィット医師の住むところも凄まじい所ではあったが、生活臭すらしないというのはまた別だ。
そして、その荒ら屋のドアをノックした。
「どうぞ~」
素っ頓狂な男の声がする。ハミングしながら足踏みをしているらしく、その度に床が抗議の声を上げていた。
鍵はかかっていなかった。がらりと開ける。
「どうも、スミスさんでしょうか。デヴィット医師の紹介で……」
「いやあ! 貴方が求さんか。話は聞いている。どうぞ、どうぞ中へお入り下さい!」
「は、はあ」
言葉を遮られた上、やけにフレンドリーな態度に不信感を抱きながら、亞子は中へと足を踏み入れる。
ボサボサの金髪を真ん中で分け、丸眼鏡に無精髭の姿をし、一昔前のヒッピーの様な格好に、薄汚れた白衣を羽織っている。まるで怪しい格好に、亞子は嘆息の声を漏らした。
「いやあ、話は伺っておりますよ。あの奇妙な研究について、嗅ぎ回っていると言うじゃありませんかあ。僕がお力になれるのなら、もう、いくらでもお力をお貸ししますよ。ホント」
男は亞子に歩み寄り、ぎゅっとその手を握りしめた。亞子は正直な話、少々たじろぎ後ろへと下がりかけたが、ぐっと堪える。
「……はあ」
しかし、生返事を返すのが精一杯だった。まったく、底の知れない人間である。
「それで、それで一体、何が知りたいのです? はい?」
スミスは腰掛ける。亞子にも薄汚れた、木で出来た椅子を手で指し、座るのを促した。ぎしり、と心臓に悪い音をさせながら、椅子は最低限の仕事をしてみせた。勿論、人を座らせるという仕事だ。
「医師からは、いわゆる医療的な見地の話しか伺っていなくて。科学の面からもお詳しいとお聞きしましたので」
それを聞き、目を閉じながらスミスは深く頭を縦に振った。何かの冥想のようにも見える。
「……素晴らしい。あー、求さん。私は素晴らしいと感じますよ。良いですか? あの少女はまっさに、神でした。神です。アッラーでもヤハウェでもない。あれは真の神です。良いですか? 私はいわゆる遺伝子学の見地から、あの少女を拝見しました。素晴らしい。素晴らしいのです」
話している間に興奮し、亞子の方へずずいと身を乗り出す。
「はあ、何が、でしょうか」
そして、亞子は少々身じろぎしながら、答えを切り返した。
「ご存じないのですか? 良いですか? 人間は、約60兆個の細胞で構成されています。そして、その細胞は、日々老化している。老化の果ては死です。細胞分裂には限界が存在するのです。それはヘイフリック限界と呼ばれ、それを迎えると、もう細胞は分裂できません。死です。しかし、その死を超える方法が存在します。所詮、細胞レベルの話、ですがねえ」
「それは、一体?」
亞子は首を傾げた。見るからに変人なこの男からまともな返答が来たことと、その意味の難解さにだ。
「あー、求さん。良いですか? 細胞はテロメアという、まあ判りやすく言うと、残り分裂回数が記されたチケットを持っています。そのチケットを使い切れば、まさしく死。そう言った存在と捉えて下さい。えー、しかしですね、そのチケットの使用回数を伸ばす酵素があります。テロメラーゼ、と言いましてね、チケットがずうっと使えるんですよ。
人間の通常の細胞には、このテロメラーゼは見られません。では、何処にあるでしょうか。あー、求さん」
亞子はまたもううむ、と首を捻った。
「確か、悪性腫瘍には存在するという話が」
スミスは手を叩いて喜んだ。
「はいご名答です。癌細胞には、このテロメラーゼが大量に存在します。故に癌は不死です。良いですか? 不死なのです」
「しかし、癌化すればした時点で、個体は深刻なダメージを受けるはずではないですか? 細胞だけが不死化しても、結局は不死にはならないですよね」
スミスは大きく首を横に振った。手もついでに横に大きく揺らす。
「いえいえいえいえ。違うのですよ求さん。簡単な話です。あの少女は、死にます」
亞子は完全に一瞬固まった。
「……何ですって?」
ぎろり、とスミスは亞子の目を見る。
「おや、あの医師も大概ですね。あの少女の一番の特徴。それは、一日の始めで生まれ、一日の最後に死ぬのです」
亞子は目を丸くした。
「……そんな話は聞いたこともありません」
スミスは続ける。
「ええ、サンドマン症候群の他の患者には見られない特徴です。いいえ。それどころか、そんな人間は例がない。新発見です。そして有り得ない。そうですよね。もっとも、彼女はテロメラーゼなどには拠らない、もっと違う方法で死からの再生を行っているようですがね。死なない、と復活は完全に別でしょう?」
またもスミスは身を乗り出す。
「ええ……」
「まさしく。しかし、別に凄く珍しいという訳でもない。C.エレガンスという線虫が居ましてね。二十世紀には既に、ゲノム解析が全て完了している上に、神経回路ネットワークまで全て判っている、という、遺伝子学上とても役に立つ存在です。
そのC.エレガンスですが、僅か一個の遺伝子を書き換える事で、寿命が著しく延びます。clk 1や、daf 2などと呼ばれる遺伝子です。具体的なメカニズムは省きますが、ま、つまり遺伝子の変化により、具体的に寿命自体にすら影響が及ぶ、ということです」
なるほど、と亞子は首を軽く縦に振った。
「なるほど。では、その少女の遺伝子は?」
「異常です。異常だったんですよ」
「と、言うと?」
「変わるんですよ。くるくると。目まぐるしい速さで、変わっていくんです」
「……何ですって?」
亞子は驚きにまたも目を見張った。
「本来、それほど遺伝子はその姿を変えたりなどしません。何せ、変える必要も無ければ、そもそも受け継ぎ、受け渡す物ですしねえ。ころころ変わるようなものではありません。
しかし、彼女の場合は違いました。凡百の人間が、一生かかっても追いつけない程の、変化が常に起こり続けていました。それはまるで、莫大な進化を遂げようと、必死に摸索しているかのようでしたよ。まあ、これは私の勝手な推測ですがね、フフフ……」
薄気味悪く笑うスミスに、亞子は正直恐怖を覚えながら、相槌をうった。
「はあ……」
気にせずスミスは続ける。
「その証拠に、彼女の遺伝子を解析すると、今まで定説として護られていたその遺伝子の役割が、がらりと幾つも打ち壊されていったのです。悪夢ではありましたが、此程面白い事もありませんでした。いやあ。あれは神が我々に齎した、新たなる人類への縄梯子と言っても良かった。数百年経っても、そりゃあ取れないような貴重なデータが、あっという間に収集できてしまいました。素晴らしい。故に私は神と感じたのです」
スミスは立ち上がり、両手を天に掲げた。
「神、ですか」
「ええ。間違いありません」
スミスは真面目な顔で断言した。それを見てコグレはたじろぐ。
「それで、彼女は一体、今はどうしているんですか?」
スミスはポンと手を打つ。
「そうです! それを忘れていました。あー、求さん。一つだけ前置きしておきたいのですが、宜しいですか?」
「何でしょうか」
「危険な情報です。まあ、今まで語ったのも危険ですけれども」
スミスはにこり、と笑うと、とんでもないことを言った。
「彼女は、『コッペリア』。国連のスパランツァーニの娘です」
「なんですって……」
亞子は二の句が出て来なかった。『コデッタ』は、一本の線で繋がったのである。
そう、スパランツァーニ、新居条。すべてが繋がる。
だからこそ、『サンドマン症候群』は禁忌とされたのだろう。それは、言うまでもなく『コデッタ』に一番近い話となるからである。
「ええ。では、私は研究に戻ります。あー、亞子さん。楽しかったですよ実に」
そう言ってスミスは奥へと戻る。亞子は真実のあまりの恐ろしさに呆然となりながら、家を後にした。