亞子とデヴィット
亞子はコグレと会うや否や、即空港へと向かっていた。向かう先は、コグレが紹介してくれた医師の元であった。性急に過ぎるきらいはあったが、何よりも亞子にはある種の直感があった。長年、ルポライターをやってきた上で、危険な場所へのに取材をこなしてきた中で身に付けた、非常に危険な事実に肉薄してきているという直感。
そして、それを知らなければ、前へ進めないだろうという直感でもあった。
幸い、地球は狭い。空港同士なら、それこそ飛ぶような速さで往復が可能である。勿論、それに見合う費用は供出の義務があるのだが。そして、迷うことなく亞子は、速さをお金で買い、最速のルートを使って、一時間も経たない内に目的の場所へと、足を踏み入れていた。しかし、亞子がその間目にしたのは窮状以外の何物でも無かった。
容赦なく薙ぎ倒されたまま、一切修復されずに残る家屋。戦闘の傷痕も生々しく残るが、その上を乱雑な落書きが取り巻く。たまに見かける人々の様子は一様に暗く、明らかに余所者じみた亞子を見る目は警戒と、恐怖が綯交ぜになった、何か大きな物に押さえつけられた者の目だった。
日常に戦闘があり、そしてそれが住民全てを蝕み続け、都市、言ってしまえば国家自体が疲弊し、得体の知れない恐怖感に覆われていた。
どこもかしこも、内戦に明け暮れていた。そして、たまたまその被害者がこの国だったに過ぎない。
そんな中、亞子が訪れようとした場所には、比較的戦闘の痕跡の目立たない建物が集まっていた。とは言え、二十分そこらも歩けば、戦闘の痕跡をあちらこちらに見る事が出来る。全くの安全地域という訳には行かないのだろう。
呼び鈴すら無く、ドアに付いていた鉄の鐘を軽く鳴らした。
やや暫く間があって、覗き窓から怯えた目がこちらをぎょろりと見た。
「どなたです?」
少々嗄れた女性の声だ。
「どうも、はじめまして。私、ルポライターをやっております、求亞子と申します。デヴィットさんのお宅ですよね? 少し、お尋ねしたい事が何点かあるのですが」
「帰って下さい。主人は誰とも会いません」
少しの躊躇いも見せず、女性はあっさりと拒絶を告げる。
「そこをどうにか。私、コグレさんの紹介で来ました」
そう言った途端、うっと相手が言葉を詰まらせた。
気配が遠のく。そして、足跡が一つ、こちらへ近づいてきた。
「……コグレだと。本当かね?」
今度は男の声だ。あまり若い声ではない。
「嘘を申すつもりはありません」
「入りたまえ。話を聞こう」
男はドアを開けた。白髪交じりで、ぼさぼさの髪をそのままにし、金縁眼鏡にはチェーンがかけられている。無精髭も蓄え、何より目に生気が無かった。だが、一応は白衣も着ている。そして、通されたのは居間ではなく、どうも診察室だった。
「客人を通すのに此処では味気ないのだが、何分此処が一番片付いていてね」
「いえ。お構いなく」
社交辞令を返すが、亞子は少々面喰らった。
「しかし、遠路はるばるご苦労だったね。まさか、ニッポンから私の様な藪医者の診察を受けに来た訳ではあるまい」
デヴィット医師は、亞子を見通す様な目でじっくりと見た。
「はい。これを見ていただきたくて」
亞子はデータディスクをデヴィット医師に手渡した。
「これは?」
「父が遺したものです。コグレさんが言うには、あなたに見て貰うといい、って」
その場にあった端末へとデータディスクを放り込み、中身をチェックしてデヴィットはううむ、と唸った。
「結論から言おう。これはサンドマン症候群のカルテだ」
「サンドマン症候群? 耳慣れない名前ですね」
亞子は首を傾げた。
「臨床例は世界でも十件に満たない上、情報は秘匿中の秘匿とされている。知るわけが無い。潜伏期間も明らかではない。そもそもウィルスか、細菌か、はたまた遺伝病が原因かも定かではない。ただ、症状は極めて重篤且つ予後不良で、しかも進行も異常な速度かつ、ほぼ確実に死に至る。まず、最初に症状が出るのは目だ。水晶体がまっ白に濁り、白内障の様な症状を引き起こす。これが分けるのならばステージⅰだろう。
次に、一つの臓器に悪性腫瘍が発生する。この時点で極めて進行速度は速く、重篤な症状を引き起こす場合が多い。これがステージⅱ。
次に、各箇所のリンパ節に悪性腫瘍が転移する。これがステージⅲ。
その後は二十四時間から四十八時間の間に、全身に悪性腫瘍が転移、多臓器不全を起こして死に至る場合が多い。これがステージⅳか。
尋常な症状ではない。ほとんどの例が、発症から一週間以内に死亡している。といっても、十例も無いのでそれ以上のデータは存在しない」
言い終わってから、デヴィットの顔は強ばった。
「この病気のことを、さらに聞きたいというのかね?」
亞子は頷いた。きっと、それが真実への近道なのだろう。
「この隠れ家もコグレ氏が見繕ってくれた物だ。恩は余りあるほど受けている。が、私にあの件を語らせようと言うのかね……」
あまりにも重苦しく、苦悩に満ちた表情を浮かべたデヴィットを見て、亞子は言葉に詰まった
「は、はい……先生しか存じ上げないと、仰っていました」
デヴィット医師は頭を掻きむしり、苦虫を噛み潰したような顔をした。
「当然だ。この件を知っている者は、ほとんどが今土の下に居る。生きている者は永遠に口を噤む事を誓わされているのさ」
「それは……」
金縁眼鏡の奥から深く見通すような目をデヴィット医師は見せた。亞子の目をじっと見る。
「いいだろう。話すよ……長い話になる。今から十年以上前の話だ。当時の私は、幾つもの斬新な論文を発表し、学会での評価も、オペの評価も高く、ずば抜けた出世コースを邁進していた。大学きっての俊英、と噂されていたよ。正直な話、慢心していた。そんな私の元に、一通の招待状が舞い込んできた。
最高の設備、最高のスタッフ、莫大な研究費用。それら全てを提供するので、一年契約で研究をしないかという内容だった。大学も一年程度の出向なら問題ないと太鼓判を押し、私自身も武者修行と意気込んで、その話を呑んだ。そこは新居条研究所。今では『コデッタ』で吹き飛んでしまって、劇場が立っている、あそこだ」
亞子は驚きを隠せなかった。あそこで一体、何が行われていたというのだろう。
「続けて下さい」
デヴィットは頷いた。
「果たして、実際に施設も設備も、スタッフも考えられないほどに最高級だった。学会で良く目にしていた、権威も実力も伴った尊敬すべき医師が、ずらりと勢揃いしていた。そればかりではない。科学や生物学、その他ありとあらゆる方面の超一線級の人間が肩を並べ、国の垣根を越えた最高のチームが目の前にあった。身震いがした。こんな場所で思う存分自分の力を振るえる機会に恵まれたという僥倖に。しかし、それらの並外れた頭脳を持った人間は、皆、一様に青ざめた顔で、打ち拉がれたような絶望感を漂わせていた。求くん、何故だと思うね?」
亞子はううむ、とやや考え、こう答えた。
「研究結果が、想像を超えたおかしな結果だったから、でしょう?」
「簡単に言えば、そうだ。明らかに異常だった。でも当時の私は、それを見抜けはしなかった。これだけの人員が揃っていながら、何故こんな状態になっているのか。私にはさっぱり見当が付かなかった。現実を目の当たりにするその時までは。
翌日から私も研究に取りかかる事になった。机の向かい側に座った男は科学専攻で、横には生物学。斜め向かいには内科専門の医師が居た。私は、はなから二人の科学者とは目も合わせず、内科の医師に軽く会釈をした。何故って、関係ないからだ。科学と医学じゃあ、ステージって奴が違う。青白い顔をしたその医師は、私と目が合うと、にっこり笑う私とは対照的に自嘲的な笑みを見せた。そしてぼそりと呟いたのさ。
『今からでも遅くない。今すぐ荷物を纏めて帰りなさい。此処は地獄だ』
当時の私は有頂天だった。天は私にシュヴァイツァーやコッホの様な大発見をさせるために、この地に私を呼んだのだと信じて疑わなかった。その私にとって、その内科医師の言葉は、冷水を浴びせかけられるような言葉だった。後に、その内科医師は私にその言葉を言った数日後、飛び降り自殺している所を発見された。彼自身、追い詰められていたのだろう」
亞子は眉を顰めた。
「勘弁してください……」
「そうは言っても、事実なのでな。彼が追い詰められる理由も、何となく今となっては判る気がする。次の日から、私も他の人間に混じって研究を始めた。何もかもが異常な研究だった。臨床データの一覧をファイルで貰うと、良くもまあ此程までに詳細に集めたなという程に、仔細に渡り、ありとあらゆる角度から収集されたデータがリストされていた。
貪るように読んだ。最初の三日はその莫大な資料の山を片付ける事から始めた。そして、その三日が過ぎる頃には、あの医師の言葉の意味が判りかけていた。
サンドマン症候群に冒された患者のデータだけをまず読み、そして実際に取りかかるある一人の患者のデータに手を伸ばした。スクリーニング検査は元より、腫瘍マーカーの値は滅茶苦茶であり、生きているのが不思議な程で、一体今現在どういう状態であるかが判別が付かなかった。制癌剤の対照実験も似たような調子だし、インターロイキンによる免疫療法やら、陽子線や重粒子線の照射という一般的な方法も、一切効果を現す事はなかった。
まったくもって、異常そのものと言って良い。そんなデータだった。
それが終わると、この研究に携った何百人という人間の残した報告書を次から次へと読んでいった。
元々私にとってサンドマン症候群自体は、異常な速度で増殖する悪性腫瘍という認識を出るものではなかった。それはそれまでの患者のデータを見ても、認識の明らかな変化は起きるものではない。しかし、今回の研究対象となる患者のデータは、私の想像を遙かに超えていた。私の知っている限りのありとあらゆる薬品配合や理論が試され、医師の専攻する分野としては内科外科訊わず、神経科や病理、細菌学に至るまでの斬新かつ、考えられない程に緻密な施策が、完璧な仮説と共に試され、その全てが悉く打ち砕かれていた。
簡単に言おう。現代医学の全ての理論が、真向から否定されていたのさ。
私は絶望した。普通に考えて舌を巻くほどの理論の全てが、何もかも徒労に終わっているという事実に。医学からのアプローチは、非常に困難だという事が資料を読むだけで理解できかけていた。私は、来た当初見向きもしなかった、科学や生物、遺伝子学の側面からの報告書を、貪るように読んだ。
しかし、やはり絶望感は薄まらなかった。専門分野で無いにせよ、一部の隙もなく完璧に構築されたと専門外の私ですらも判るほどの仮説が、何十も何百も完全に打ち砕かれていたのだから。
私が研究に取りかかる遙か以前に、隅々まで、本当に隅々まで研究し尽くされ、その上で現代の学問全てが敗北しているという現実を、私は目の当たりにした。しかし、私はそれでも諦めは抱かなかった。何しろ、一切その時点まで自分自身の研究を行っていないからな。可能性の芽は全て潰されたかのように見えるが、何かしらの光明はあるはずだ。隅無く探し尽くし、この難問を完璧に解決しようと、私は息巻いていた。
そして、打開策も見つけていた。何百とある優秀な論文の中でも、優劣は流石に存在する。その中でも特に凄まじい理論が書かれた物を、俺は見つけ出していた。茂平陽子。日本人の女性でありながら、ずば抜けた理論を書いていたよ」
それを聞き、亞子はメモを取った。
「茂平。変わった名字ですね」
デヴィットは肩を竦めた。
「日本人の名前は俺からすれば皆変わってるさ。さておき、彼女の理論はずば抜けていた。一切諦めず妥協も見せず、それでいて斬新で精力的で、何よりも説得力があった。彼女の話を聞けば、アプローチの矛先を定められるかもしれない。私の持ち札として、これ以上の札は恐らく無かっただろう。
私は、彼女に接触した。しかし、話をしようと愛想良く振る舞う私に、茂平陽子は冷たく言い放った。
『君は、患者も見ずに何を制した気になっているのかしら。君の仕事は報告書を書くことではないでしょう。医者の本分は、患者を正常な生活が出来る状態に戻すことだと考えます。違うでしょうか?』
私はその言葉を聞いて、この茂平陽子という女性が何故それだけこの論文に注力しているか、判った気がしたよ」
亞子は尋ねた。
「それは、何故だと?」
「彼女は、真に患者の事を考えていた。目先の発見に囚われていた私とは、全然違ったのさ。私は反省し、彼女と共に、全ての科学が寄って集っても、肯定することが出来無いその有り得ない患者と対面した」
亞子はごくりと生唾を呑み込んだ。
「非常に興味があります」
「彼女は、五歳やそこらの普通の女の子だった。体毛という体毛、そしてその肌も何もかもが白く、儚く、そして幼かった。
と言っても、強化ガラスを三重に張り、エアロックは何重に張り巡らされてるか判らないほどの厳重な状況下、周りの研究員は皆、バイオハザード防護服を着ていた。細菌感染の経路も拭えなかったからだ。しかし、茂平陽子は、その中に、白衣のみを着て、その患者の居る部屋へと入ったのだ。
唖然としたさ。確かに細菌培養の結果も問題ない事は判っていたが、クリーンルームに文字通り土足で上がり込むなんて事は、俺たちは誰一人としてやらないからだ。
『あの人は例外なんだ』
バイオハザード防護服を纏った男の内の一人があきれ顔で呟いた。
『迷惑な話だ。あの人が来ると、患者の体温は上がるし、意識レベルもバイタルも通常値を上回る。あの人の後始末は相当に面倒なんだが、あの笑顔を見せられるのが何よりも、迷惑だ』
硝子の様に折れそうで砕けそうな笑顔を、幸薄いその顔に浮かばせるだけだった女の子が、普通の女の子の様にはしゃいで、上半身を起こすんだよ。跳んだり跳ねたりは出来無い。立つような体をしていないからだ。上半身を起こすだけでも重労働の筈だ。しかし、茂平陽子に縋ろうと女の子はその身を乗り出すのだ。殺風景極まりない、クリーンルーム内で飼われた鑑賞動物から、生を伴った普通の少女へと、ぽっと灯りが燈るのだ。
私はやりきれない思いに囚われたよ。医者として何千、何万という患者と接する度に、自分の中の人間としての部分は摩耗してきて、次第に職業という膜が、私自身が痛まないようにコーティングしてくれていた。その滅金が剥げてしまった。そんな印象だった」
亞子が口を挟む。
「で、それからどうしたんですか?」
「データを再度隅々まで見返したさ。改めて見返すと、酷いデータだった。
原発不明の悪性腫瘍である事は間違いないが、制癌剤の効果と言うと、アルキルは元より、代謝拮抗も抗腫瘍性抗菌も何もかも効かない。イマチニブも効力を発揮しない。
これらの一般的にコンセンサスの得られている療法が全滅しているという事実は、つまり長い時間投薬を続けるという行為もできないことを意味していた。
では予後良好の可能性の高い、外科手術はどうかと言えば、十数時間という長い手術時間の最中に、病巣が目の前で転移したのを見たそうだよ。打つ手無しって訳さ。
まったくもって、八方塞がりだった。研究対象としてではなく、治すという考え方に立ち戻れば、実に厳しいものだったよ。そして、当初から私はこの研究自体が疑問だった」
亞子も首を傾げた。
「確かに。どこが資金提供をしていたのか、さっぱりと憶測すらできませんね。新居条研究所自体も母体は不透明だった記憶があります」
「その通りだ。普通、患者数が数百どころの疾病じゃ製薬会社は重い腰を上げない。罹患例が数千を超えても、まだ利潤が出るか微妙だろう。一研究室で研究を認める程度ならそれ程費用もかかるまいが、しかし大がかりな研究となれば兎角何より金がかかる。
だからこそ、確実に金になると踏んだところから臨床は始まる。当然の話だ。
それを、たかだか患者数が十居るか居ないかというレベルのこんな病気に、大枚を叩く事は断じてあり得ない。況してやこんな大がかりな施設や、人員を確保してなど尚の事だ。
明らかに裏があると私は判断した。だが、それを聞く度胸は私には無かった。まあ、もし聞いていたらどうなっていたかは、想像に難しくない」
「ま、とりあえずは原因は判らじとも、異常な状況であったと言う事は判断できたという事ですね」
「資金の流れを考えれば、恐ろしい事だ。しかし、私たちの元にはそんな漠然とした不安ではなく、実際に大変まずい状況が起きた。あの忌まわしい『コデッタ』だよ。全ては終わってしまった。新居条研究所ごと、新居条はすべて廃墟と化していた。確かにあの少女の件は心残りだった。しかし、これ以上、一介の単なる医師が手を打つ術は無かった。結局、私は大学すら追われ、こんな片田舎に、イノウエ医師の手助けでどうにか医院を開いて糊口を凌いでいる有り様さ。私が知っているのはこの位だ。参考にならなかっただろう?」
亞子は首を激しく横に振った。
「いいえ。どうもありがとうございます」
デヴィットは自らの財布から名刺を取り出し、亞子に手渡した。
「一人、知り合いを紹介しよう。彼は、『サンドマン症候群』を医師ではなく、科学者としての面から研究していた人物だ」
亞子の中に直感があった。この糸を手繰った先には、更に知ってはならない事実があるのではないか、という直感だ。
しかし、恐らく知らねばならない、事実なのである。
「ありがとうございます」
亞子はデヴィット医師に一礼をした。
「いいや。礼なんて良い。それよりも、貴女の調査がどこに行き着くか、それが楽しみだよ」
ドアへと通され、デヴィット医師は軽く手を差しのばす。握手しろと言う事らしい。硬く手を握る。苦労の滲んだ、硬い手だった。
「それでは、どうもありがとうございました」
「ああ、イノウエ医師によろしく」
軽くデヴィット医師は手を上げ、笑顔を見せた。
亞子は、足早に場を去り、空港への道のりを歩み始めていた。