破天
莉多は自分が何者であるかを理解した。そして、はっきりと自分が何ができるかを認識した。悪夢の中で死んでいたクロヲ。バラバラに切り裂かれたクロヲの姿が、容易に想像できる。それらが脳の内部を交錯する。既に、クロヲがこのブレザーに勝てないことは、莉多をしてもわかった。次は、自分の番だ。
夢で見た、あの子の手の温もり、ジュリエッタやアントーニアに告げられた願い、そしてあの男との誓い。
(わたしに、この運命を打ち砕く力があるのならば、わたしは他に何もいらない!)
疑っていた。夢で言われても、誓っても、それが事実だとはとうてい思えなかった。だが、今、もしそれが事実で、その力を使えるならば。
(わたしは運命を、天命を、破壊する! そして、クロヲを助ける!)
その瞬間、虹色に光る糸が、どこからともなく莉多の周囲を包み込み始める。
莉多は選択したのだ。クロヲの運命を、そして自分の運命を変革することを。それは、自らが日常の住人でなくなることを意味していた。だが、莉多はそれを覚悟した上で選択したのだ。
「いかん! 『フェアツェルング』の継承が始まった!」
瀬亥は、折れた剣を振りかざし、駆けた。それに、クロヲは呼応するが如く、駆け出す。そして、間合いを詰め、先ほど自分が負った傷をものともせずに、発勁を見舞う。
「ぐああああっ!」
だが、苦悶の表情を浮かべ、悶え苦しんだのはクロヲの方だった。
「愚かな……」
炭化寸前にまで燃える拳。だが、クロヲは止まらない。次は、肘。確かに、凄まじい速度で入る。が、クロヲは絶叫をあげる。
「何が……何がお前をそうまでさせる!」
瀬亥は思わずそう叫んでいた。
「俺は、何があっても莉多と一緒に生きていきたい! だから彼女を守る! 何があっても、何を犠牲にしても守る! 誓ったんだ、あのときみたく、守ってみせるって! だから!」
「茶番だな!」
瀬亥は押し通ろうとする。クロヲは何度も高温によるひどい火傷を負い、意識が朦朧としてきていた。その動きに精彩はない。だが、そんな状況でも、クロヲは莉多の前に立ちはだかった。両手を一杯に広げ、全身を盾にするかのように。
莉多の周りを取り囲む虹色の糸は、既に莉多のほとんどを覆い尽くしていた。瀬亥にとっては時間がない。
「邪魔だ!」
瀬亥は、剣を振り下ろした。クロヲは、既に機敏な動作を取れない。その全身は、既に煤黒く焼け、広範囲がケロイド状と化している。
そして、クロヲは右腕を切り落とされた。
クロヲは痛みのあまり、絶叫をあげた。迸る血。切断面を左腕で押さえる。そして膝を付く。瀬亥は、彼の横をゆっくりと通り過ぎる。既に、クロヲは無力化したと判断したからだ。
だがその脚に纏わり付くものがある。クロヲの左腕だ。
「離せ!」
肉の焼ける胸が悪くなるような匂い。クロヲの左腕は音を立てて燃え上がった。
「離さない……! 莉多はやらせない!」
「離せェ!」
瀬亥は大きく振り上げた脚で、クロヲを強く蹴飛ばした。何かが盛大に砕けた嫌な音が響き、クロヲは遥か遠くに投げ出された。
(体が、動かない……)
クロヲは、夥しい血を口から流し、混濁した意識と、今にも閉じそうな瞼を開け、遠くの瀬亥と莉多を見つめた。
(畜生、莉多を、莉多を守らないと)
だが、体は動かない。まったく、動かない。急速に、意識が遠のく。
(こんなところで、俺は死ねない……! 今守らなければ莉多が、莉多がッ!)
もはや、指の一本を動かす力もない。唯一動くこの目で、この残酷な光景を見なければならないのか。そして、ゆっくりと瀬亥は折れた剣を振りかざした。対する莉多は、虹色の繭に覆われ始めてはいたが、眠ったような状態で完全に無防備だ。
(助けて、誰か助けてくれ! お願いだ、誰でもいい、莉多を助けてくれ!)
クロヲは無力感で涙を流した。惨めだった。武とは、自分に立ちはだかる全てに敵対できる力であり、その生き方だとクロヲは信じてきた。
だが、どうだ。
瀬亥には一矢すら報いられなかった。足掻いても、抗っても、どうにもならなかった。誰よりも、何よりも守りたいと思っている人間一人守れない。それが、現実だ。その時である。走馬燈なのか、クロヲに語りかける声がある。
「惨めですねェ、クロヲくん」
辛うじて動く目で声のする方を向く。オレンジ色のスーツを纏い、毛を逆立たせた男がそこにはいた。
(ああ)
「あなたはこのまま死にまァす。何一つできずに、死にます。惨めですねェ」
(ああ。惨めだ)
男は冷笑する。
「私が助けてあげましょう。ただし、ただしです、あなたは全てを失う。その上、何よりもあなたが選択したくない、最悪の結末を迎えることになりまァす」
閉じていく意識。失われていく感覚。淀んでいく思考。そのいずれもと、クロヲは戦っていた。
「それでもいいなら、助けてあげましょう。あなたに、彼女を救う力を授けてあげましょう」
死に瀕し、何一つとして策はない。そんな状況だった。まばたきの後には、最悪の結末が待っている。そんな状況だった。
(呑む。俺に、力をくれ)
「後悔しないでくださいね。あなたはあなた自身を含め、全てを滅ぼす力を得るンですからねェ」
(後悔など、しない)
男は笑った。正確には笑ったと思ったが、次の瞬間、クロヲの意識は暗転した。
その時、瀬亥は剣を振りかざしていた。
「悪く思うな。お前の死が俺たち全てを救う」
そして、剣は何のためらいもなく、莉多の懐へ呑み込まれようとした、その瞬間。
猛然と駆けてきたクロヲの強烈な拳が、瀬亥を捉えた。瀬亥は咄嗟に砕けた剣でその拳を受け止める。
「右腕……だと? 馬鹿な」
そう、クロヲが放ったのは強烈な右ストレート。先ほど、瀬亥が切り捨てたはずの右腕である。だが、それは単なる右腕ではすでになかった。握られた拳の周りには黒い潮流が取り巻き、青白い火花が散っている。その上、瀬亥にとって不可解だったのは、障壁として機能するはずの『青い炎』がまったく働かなかったことだ。
(馬鹿な。何かの間違いだ)
瀬亥は、なおも折れた剣を構える。既に切れ味などないに等しいだろう。だが、構え続ける。そして、クロヲの間合いに入ると、彼を袈裟懸けで斬り捨てた。
恐ろしいことに切れ味は鈍っていない。証拠に、クロヲの背後にあった道場の柱は、鋭利な切り口と共に、炎をあげながら倒れた。だが、その直線上の、クロヲは微動だにしない。
「何が起こっている……? 俺は貴様を斬り捨てたはずだ」
瀬亥は焦りの表情を浮かべる。そして、あろうことかクロヲはその一瞬の隙を見逃さず、瀬亥の間合いに入ると、強力な肘、続いて発勁を掌全体で見舞い、矢継ぎ早に背面を相手に向け、強力な体当たりを見舞った。そして、そのことごとくが、一切障壁に邪魔されずに、瀬亥に直接入る。三連の威力は甚大で、一直線に瀬亥ははじき飛ばされ、道場を覆う『青い炎』へ叩き付けられた。瀬亥は口からごぼりと血を吐き、折れた剣を支えに、立ち上がる。
「慢心したか……。だが、もう手抜かりはない」
そう言うや否や、瀬亥は剣の刀身を撫でると、剣は青く輝いた。そして、瀬亥の周囲にも、青い炎が火の玉のように飛び交う。その数、無数。
「一刀で仕留められぬなら、万の剣でお前を打ち払おう」
そう瀬亥が呟くと、火の玉は姿を変え、その全てが青い剣へと変わった。
「最後だ!」
そして、瀬亥は疾駆する。傍らには万の剣を携えながら。だが、クロヲは動じない。そのままの姿勢を保つのみ。対する瀬亥は、言葉通り一切の手抜かりなく、クロヲを間合いに捉える。そして、万の剣が、一度に振るわれる。そのことごとくが必殺。だが、クロヲは右腕を翳すのみ。右腕は漆黒を色濃くし、青い火花が激しく散る。
次の瞬間、クロヲの右腕は、瀬亥の胴の真ん中を貫き通していた。青い剣の全ては消え、クロヲは大量の返り血を浴びながら、右腕を引き抜いた。
「万の剣に対して、先の先を取ったのか……。見事だ」
そして、瀬亥が崩れ落ちるのを見ると、クロヲは、そのまま膝を折り、その場に倒れ伏した。彼の全身もまた、膾に刻まれており、先ほど瀬亥の『青い炎』に触れたときに負った傷も、まったく癒えてはいなかった。まさに、満身創痍の状態。辛うじて立てるかどうか、という状況下だった。だが、それでもクロヲは、這いながら、莉多の元へと向かう。
獣のように這ったその道には、血が彩られる。いつ、その命が尽きてもおかしくはないほどの重傷。それでも、一心にクロヲは這った。道場が、焼け落ちていく。クロヲがこれまでの人生のほとんどを過ごした思い出深い場所。彼が、莉多を守るために武を学んだ懐かしい場所。それが、何一つ残さずに灰へと消えていく。
這いながらの道は、あまりにも険しい。全身が焼け付くように痛く、動く度に気が遠くなりそうな痛みが全身を突き抜ける。それでも、這う。
そして、ついにクロヲの目は、虹色の繭が覆い隠そうとしていた莉多を捉えた。
血みどろで戦っていた状況とはかけ離れた、際だって幻想的な風景。『青い炎』と赤い炎の間に彩られる、虹色の繭。あまりに神々しい風景だ。もう、この体では彼女を守ることはできないだろう。クロヲは、溢れ出る涙を止められなかった。ただ、勝手なことだとは思ったが、彼はやれることは尽くした、と考えていた。『エピゴノイ』はどうにか撃退した。いずれ、この『青い炎』はその影響で崩れ去るだろう。
閉じていく意識の片隅で、クロヲはそんなことを考えていた。
だが、次の瞬間、彼の目は信じられないものを見る。突如、『青い炎』の一角が崩れ落ちたのだ。そして、そこから白い服を着た一群が入ってくる。そして、莉多に手を掛けた。
「待て!」
クロヲは消え入りそうな声で、彼らに手を伸ばした。だが、もう誰にもその声も、手も届かない。ゆっくり、慎重に白い服を着た一群は莉多を抱え、そのまま担ぎ出した。糸と三人の女性が描かれたエンブレム。それだけが、辛うじて彼らが何者かを判別できるシンボルだった。
「莉多!」
クロヲは、最後の力を振り絞り、一歩だけ立ち上がり叫んだ。だが、もう立つことはできず、そのまま彼の意識はブラックアウトした。