軍靴の浸食
そして、出発の日はやってきた。莉多は、事前に言われていた集合場所である道場に来て、唖然とした。
道場に、暖かみは失われていた。道場の周囲には軍用と見られるジープが駐められ、塀の周りには見渡すかぎり、明らかに重装備を決め込んだ軍の関係者がひしめいていた。
飛び交う聞き慣れない言葉、物々しい雰囲気、こちらを伺う数多くの殺気を持った視線。
そして、軍靴の音。
道場は、先日までの様相とは一変した、信じられないほどに緊迫した砦へと姿を変えていた。
茫然自失とその光景を見ていた莉多は、青いベレー帽を被った男に呼び止められる。
「君、茂平莉多くんだね。こちらへ」
眼光鋭い男が、サングラス越しにこちらをじろりと見ながら、手招きをした。
途端、背後から金属が擦れるような重い音がした。ちらりと見ると、厳つい軍人が銃を構え、二人背後に立ったのだ。護衛、なのだろうが、そこから漂う圧迫感は誘拐と何ら変わらないように莉多は感じた。
本心では気を許さないまま、サングラスの軍人の後ろをついていく。途中、無表情で銃を構え歩く軍人とすれ違ったり、塀の前に立った軍人と目があったりする。
明らかに非日常の住人が、昨日までの自分たちの領域に全力で侵犯してきた、そんな印象。
迫り来る『コデッタ』。それが現実であることが、軍をここまでさせる要因なのだろう。
サングラスの軍人に導かれ、門を潜り道場の中へと入る。すると、軍人は一人の軍人に敬礼をした。
「ご苦労様。下がっていいわ」
「は!」
敬礼と共に、莉多を連れてきた軍人たちは別の場所へと赴いた。
その場に残ったのは莉多と、一人の軍人。金色の髪を後ろで結んだ、青いベレー帽を被った軍人。
そう、それはウェンディ師匠だった。
「師匠……?」
莉多は焦った。今まで受けていた印象とは違う、明らかな軍人然とした引き締まった表情、厳しい目。
だが、一方でうなずける部分があるのも確かだった。あそこまで一瞬で長年慣れ親しんだ道場を閉鎖する判断を下したり、人並み外れた技術を持っていたりするのは一般人のそれではない。今から考えれば、強力なバックボーンのある軍の関係者であっても、なんらおかしくはない。
「まさかこんなことになるなんて、ってちょっと驚いているんじゃないかしら」
ウェンディはわざと笑顔を作って笑って見せる。だが、莉多は表情を強ばらせた。
「もちろん、驚いています。あなたが軍の関係者だったということに」
それを聞いて、ウェンディは若干悲しそうな顔をした。
「そうね。悪かったわ。でも、これだけの警備をせずに、あなたを護衛することはできない。『ザナドゥ』は勿論使えない。となれば、ある程度は陸路であなたを護衛する必要がある。いつか来るだろうその日に向けて、準備作りが必要だったの」
「どういうことです! 私も数多いる避難者のうちの一人のはずでしょう?」
ウェンディは首を振った。
「まさか、ここまで大仰な準備して、そんなわけないって、わかってるでしょう。詳しい事は明かせないけど、あなたは超VIPよ」
莉多は愕然とした。
いつか来る日に向けた様々な準備。それがウェンディの役目だったというのか。そういえば、国連の科学者であるケインが出入りしていたり、言うまでもなく国連に所属する白が来たりしていた時点で、その辺りは察するべきだったのかもしれない。
「つまり、こうなることは仕組まれていた、と?」
背後ではジープの排気音や、聞き慣れぬ声、アスファルトを擦る金属音が響く。風鈴が涼を告げたり、打ち水で涼を求めたりなどという日本の夏は、とうに終わっていた。
「ええ。ある程度は。でも、ギリギリになるまで、あなたには普通の生活を営んで欲しかった。だからこそ、ここまで引き延ばしたの」
しれっとウェンディは言い放ったが、莉多は納得がいかなかった。
「監視も、警護の数も必要最小限。あなたの生活を崩さないように、最大限の配慮をしてきたわ。本当よ」
莉多は、頭を横に振った。
「そうね。そうかもしれないわ。でも、それにお礼を言えるほど、あたしは人間が出来ちゃいません。クロヲはどこです?」
ウェンディは、道場の中を指差した。同時に、言葉を告げる。
「言っておくけれど、クロヲは民間人よ。でも、どうしてもこの護衛について行くと聞かなかった」
莉多は、ウェンディが最後まで言い切る前に、道場内部へと入っていった。
「嫌われるのも、無理ないわね」
その様子を見て、ウェンディは悲しく笑った。その途端、ウェンディの携帯電話が鳴る。渋い顔でそれを取る。
二、三返答をすると、見るからに嫌そうな顔で携帯電話を二つ折りにして仕舞いこんだ。
「ごめん、ちょっと出てくる」
ウェンディは傍らにいた青いベレー帽を被った軍人にそう告げる。
「え、どうかされたんですか?」
ベレー帽の疑問に、ウェンディは渋い顔で答えた。
「スパランツァーニ派からの呼び出し。参ったわね、時間、もうギリギリだってのに。ちょっとだけ留守にするからあとヨロシク」
「え、困りますよ!」
困り顔を見せたベレー帽に、ウェンディは両手を合わせる。
「大丈夫大丈夫、時間までには戻るから」
そう言って、返答を聞かずに駆けていった。
一方、莉多は道場の中へと入っていった。意外なことに、ほとんど内部には軍人がおらず、周囲を固めるのが主であるらしい。
ただし、まったく変わらず、というわけではない。恐らくは警護の軍人たちが軍靴のまま上がり込んだ結果、元は綺麗に磨き抜かれていた日本家屋には靴の跡が残っていた。そんな様子に心乱されながらも、莉多は先に進む。
何度も訪れた道場。皆と共に食事を食べた食堂も、そこを抜けて広がる縁側も、昨日の今日なので、様変わりはしていない。しかし、覆う雰囲気は、尋常ならざるものだった。
そして、莉多は畳敷きの格闘場へと足を踏み入れた。いつ、どんなときでも、ここに足を踏み入れると、たとえその場に誰一人いなくとも、裂帛の気合いの残滓のようなものが感じられ、誰かがいるかのような錯覚にとらわれる。
そんなわけで、余程のことがない限り莉多は格闘場へは足を踏み入れなかったが、今度ばかりはそうも言っていられない。
そして、莉多の予想通り、クロヲはたった一人で、格闘場で正座していた。ただし、莉多にとってショックだったのは胴着ではなく、国連の制服に彼が身を包んでいることだった。
彼は目を閉じ、黙って冥想していた。やや声を掛けづらいと感じたが、莉多は格闘場に足を踏み入れ、声を掛けた。
「クロヲ……」
心なしかその声はか細くなる。見知ったと思っていた人間の皆が、自分に隠し事をしていて、そしてそのいずれもが、心から信用していた人間だったのだから。
クロヲがその象徴である軍服に身を包んでいたのは、莉多にとって相当にショックだった。
クロヲは莉多の声に反応し、ゆっくり目を開けた。
「すまない……」
そして、口を開くなり謝罪の言葉を口にした。
「どうして、謝るの?」
「驚いただろう、こんなことになるなんて。その上、俺までこんな服だ」
クロヲは苦笑した。
「その服、どうしたの?」
クロヲが自分から気になっていた服のことを切り出したので、莉多は尋ねた。
「服従の象徴、とでも取ってくれていい。莉多を無理矢理にでも護衛したい、と言ったら形式上でも、軍の指揮下に入れ、とさ」
クロヲは笑った。だが、それを莉多はとても笑える気にはならなかった。
「いいよ。でも、クロヲはクロヲでしょ」
わざと明るく返す。
「ああ。俺は莉多、お前を守ってみせる」
そう言って、クロヲは莉多の方をじっと見つめた。莉多は一瞬、夢に出てきた光景を思い出す。燃え盛る道場の前で、ブレザーの男にバラバラに切り刻まれるクロヲの姿。
夢なのだから、気にすることなどないはずなのに、莉多は胸騒ぎがしてならなかった。
そして、何より莉多は聞いておかねばならないことがあった。クロヲの思いとは恐らく違う、暗い見通しの話。
「で、結局、この後わたしはどうなるの?」
クロヲが言う裏打ちのない言葉や、自信よりも、莉多は今後の具体的な計画を聞いておきたかった。
「俺が聞いている限りでは、『コデッタ』予想地域から離脱後は、しばらく日本に留まるはずだ。その後は政府と国連との綱引きの結果次第だろうな。日本に留まるか、もしくは国連施設で護衛するために空路を使うか。そこは今のところは何とも言えない」
つまり、事実上はっきりしたことは何も決まっていない、ということだ。決まっていることは、新居条を離れることだけ。物々しい警備も、今後何が起こってもいいように、という部分も含んでのものなのだろう。
「そう……」
聞いても、莉多にとって不安材料は一つも消化できなかった。
不安。そう、莉多はどうしようもないほどの不安に襲われていた。昨日の悪夢も手伝い、その上今日の皆の変貌ぶり。誰一人として、信用できなかった。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。ほんの数日前までは、皆で笑い合っていたはずなのに。明日も、今日と変わらない平穏な一日が訪れることを、何も疑わずにいられたはずなのに。
だが、今となっては既に、すべてが遠い過去のことに思える。
莉多の頬を一筋、涙が伝った。
すでに帰らぬ日々に対する、悲しみの涙。
そして、図らずもその瞬間に、さらに莉多を取り巻く世界は激変することになる。
塀の周りには、相変わらず軍服を着込んだ軍人と、ジープが厳戒態勢のまま待機していた。その数、おおよそ六十。
彼らは、政府と国連との綱引きに翻弄されながらも、次の指示を待っていた。そもそも、国連が何故ここまで物々しい状況に持ち込んだのかといえば、それは日本政府に対する圧力に他ならない。だが、日本政府の思惑もあり、思うように事態は運ばない。だから、彼らはずうっと待機状態を強いられていた。苛つきは高まる。
そんな折、さらにその周囲を、青い炎がゆっくりと取り囲んでいた。その数は最初こそ数えられるほどだったが、無数に増えていく。そして、周囲を円状に取り囲む。
数多くの兵はそれに気付かない。田舎であるし、何より周辺の家屋の住人は、あらかた避難勧告が出されており、不在のはずだ。だから、騒ぐ声も聞こえない。
そして、その青い炎は円を描くと、アメーバの様に炎の触手を伸ばし、上空の何もない場所を燃やし始めた。それは、透明なドームの上を炎が匐うように、だんだんと円盤状に道場を覆い始めた。兵たちが異変に気付いたのは、空が暗くなってからだった。すっぽりと蒼い業火が道場周囲を包み込み、燃えさかる音が聞こえる。
だが、炎が相手では何をすることもできない。異変に気付いた瞬間、塀を取り囲んでいた兵たちは、上空から青い炎の舌が伸びるのを見た。それは、粘液のようにぽたりと落ち、落ちた箇所にいた兵を燃やし尽くす。
一瞬にして、地獄絵図と化した。通信もその途端途絶したようで、連絡も取れず、時折上空から襲いかかる焔で、兵は焼き殺される。
クロヲと莉多がいる道場は、灼熱が覆い尽くす悪夢のような場所の中心へと姿を変えた。
その異変に、クロヲはすぐに気付いた。何か良からぬことが起きた。虫の知らせにも似た直感で、クロヲは立ち上がるや否や、莉多の手を取って駆けだした。
「胸騒ぎがする……」
そして、格闘場を出て、その悪夢のような光景を目の当たりにした。
いつの間にか、太陽の光が照っているはずの時間なのに、光は見えず、かわりに上空では青い炎が熱をあげている。周りからは兵のものと見られる悲鳴があがり、そして、道場自体にも火が付いていた。煙がもうもうと立ち籠め、まだ火のつき始めなのだろうが、既に道場が火の手に包まれるのは時間の問題であることが、素人目にも理解できた。
「何が起きたんだ……?」
クロヲは、莉多を背後へと追いやり、すぐさま懐からハンカチを取り出し、身をかがめ、莉多に口を覆うよう指示した。
そして、そのまま道場の外へと出ようとした。明らかに危険だからである。
格闘場から廊下を通り、縁側へ抜け、食堂側から玄関へと進む。その途上でも、炭化したと見られる兵の死体が折り重なっている。そして、どうにか赤く燃え上がる道場を出て、門まで辿り着く。しかし、そこでさらなる絶望の光景を目の当たりにする。見渡す限りの周囲は全て、青い炎が覆い隠しており、炭化した兵が折り重なるように倒れている。周囲からは悲鳴と、苦痛に喘ぐ声が響く。
逃げ場など、ない。
一瞬にして指示系統を失い、兵力を焼き尽くされたのだろう、すでに兵たちの大半は単なる烏合の衆と化していた。
だが、莉多を庇うクロヲの前に、兵たちが駆けてくる。
「無事でしたか」
六人ほどの集団が駆けてくる。
「何があったんですか?」
クロヲの声に、兵は首を横に振った。
「突然のことで、何が何やら。その上、たぶん『エピゴノイ』の『青い炎』だとおもうんですが、あれの影響であらゆる通信手段が遮断されています」
誰一人として、この状況を理解している人間はいない。あまりに突然の出来事に、ほぼ全員、気が動転していた。
だが、莉多は恐怖に打ち震え、クロヲの服を後ろからぐっと握り締めた。
そんな中、クロヲたちからやや離れた箇所から声が聞こえた。
「今、ジープに乗って強行突破しようと試みています。どうか、乗ってください!」
クロヲは、自分たちの近くにいた兵の目を見た。判断を仰いだのだ。
だが、兵は首を横に振った。まだ行くな、ということのようだ。
ジープはそのまま数人の兵を乗せ、『青い炎』目掛け、突貫する。
そして、その瞬間、ジープが横から真ん中に切られ、切られた羊羹のように、上がスライドして、下に落ちた。何が起きたのか、クロヲたちは理解できなかった。
そして、そのジープの手前、燐火のごとく燃えさかる青い炎を踏み越え、黒い影が剣を携えているのが見える。
そして、その影が暗い瞳でこちらを見つめる。ぞくり、とするような冷たい目。
瞬間、長年の経験からか、クロヲは莉多を連れ、横合いに飛んだ。
クロヲたちは燃えさかる道場の玄関を背にしており、兵たちはそのままその場に残っており、クロヲたちは玄関からはかなり離れた側へと抜けた。
すると、次の瞬間、玄関が音を立て、斜めに切れ、崩れた。
そして、その鋭利な切り口と同じように、その場に立っていた兵の体も、斜めに切断され、赤い液体を撒き散らしながら、下へずるりと落ちた。あの剣を携えた影から玄関までは、おおよそ百メートル。到底、剣が薙げるような範囲ではない。
「外したか……」
影は呟いた。
クロヲは、焦りを覚えた。あの影が敵であること、そして、射程範囲が明らかにおかしいこと。そして何より、莉多の恐れ方が尋常ではないことに。
クロヲは構えた。いつ、どんな状態であろうと、相手を一撃で葬れるように。
チンピラを倒したときのように、莉多を守り抜けるように。
「何だ貴様!」
そして、この様子を見ていたのか、もしくは今見つけたのか。遠くに切断された兵の遺体を見つけながらも、兵の集団が影を見やり、言った。
「……この有様も、貴様のせいか!」
「撃てェ!」
十人ほどもいたのだろうか、一斉に銃器を撃ち慣らした。マズルフラッシュが赤く燃え上がる道場を、さらに照らす。
だが、その銃弾は、影の手前で青い焔をあげ、燃え尽きた。
「消え失せろ」
そして、影は剣を薙ぐ。距離はさらに離れ二百メートルほど。途端、兵たちは単なる肉片となって、その場に折り重なった。
そして、眼光鋭い目が、今度はクロヲを射貫く。よく見れば、影が身に包んでいるのは濃紺のブレザー、そう、学生が身に包むような服であり、その手に握るのは西洋剣、恐らくフランベルジュのような、刀身が波打っている剣を持っていた。
クロヲの背中に冷や汗が流れた。何故なら、相手は防御も完璧、少なくとも銃弾程度の貫通力では、物ともしない何かしらの装甲を持っている、ということだ。おまけに間合いは未知数。太刀筋は見えない。そして、容易にジープすら切り裂く圧倒的な攻撃力を持っている。ジープの装甲など、バターのように切り裂いていた。
すなわち、肉薄する距離に近づくことはおろか、打撃を当てられるかも定かではない。
四方を『青い炎』に取り囲まれているため、逃げ場もない。まさに、絶体絶命の状況下に叩き込まれていた。
じりじりとブレザー姿の男はこちらへと迫ってきていた。何者かは相変わらずわかるものではない。だが、クロヲも莉多も、この男が何者かをなんとなく理解していた。
それは、『エピゴノイ』なのだろう、という予測だ。だが『エピゴノイ』とは『ザナドゥ』に出没する化け物、としか聞かされていないため、人型、その上自分たちと殆ど年齢が変わらない相手だとは予想もつかなかった。
だがその腕は飛び抜けて凄まじい。気を抜くわけにはもちろんいかない。
圧倒的な不利。もし一撃でも食らえばやられる。その上こちらは護衛すらしているという状況。相手が何故かすぐさま仕掛けてこないために、クロヲには千載一遇のチャンスが生まれていた。
といっても、無論、クロヲの戦法はただ一つ。間合いを一気に詰め、至近距離にまで近づかなければ、何も始まらない。
じっとこちらを見据える酷薄な目。そして、それに目を合わせた瞬間、クロヲは駆けた。
ブレザーの『エピゴノイ』が剣を振るう、その刹那にも満たない時間。それだけがクロヲに許された時間。だが、クロヲは迅かった。疾風のように駆ける。しかも、横薙ぎであろうとも、縦から斬られようとも、対応できるように、腰を落としつつの早駆け。
だが、間に合わず、一閃が走る。横薙ぎ。肩口をほんの僅か擦り、肉が持って行かれる。だが、その程度。百五十メートルはあろうかという距離で、一太刀しか斬らせずに、クロヲはブレザーの『エピゴノイ』に肉薄した。クロヲの速度に『エピゴノイ』は焦る。だが、この一瞬、相手が力量を見極めるまでの一瞬のみが、クロヲの勝機。そして、流れるような体捌きで、クロヲは拳を振るった。
ブレザーが持つ剣に向かって。
クロヲの目論み通り、剣は破砕された。ブレザーは驚愕の表情を浮かべる。そして、その隙をクロヲは見逃さない。今度は背面を相手に向け、強力な体当たりを見舞う。練気も十分な上の痛恨の一撃。だが、クロヲは手応えを感じなかった。そればかりか、猛烈な痛みを覚え、そのままその場を離れた。クロヲはその時気付かなかっただろうが、彼が身に纏っていた軍服ごと、ずるりと彼の背中の肉は刮げ落ちていた。そして、その傷は広範囲に及び、その上ケロイド状に焼けただれていた。
「剣に防御機構がないことを見抜き、破砕するとはな。狩り甲斐のある獲物だ。次は殺す」
ブレザーの男は、折れた剣を携え、眼光は緩めずに言った。クロヲは未だ構えを解けない。
だが、クロヲは既に万策尽きていた。仮にこれで相手から攻撃を奪えても、次が続かない。その上、傷口はかなり深い。動けるかどうか。
「貴様は……誰だ!」
クロヲは男に尋ねた。あまり策があっての行動ではない。だが、ブレザーはそれに答えた。
「時間経過での回復を狙っているのか。いいだろう、策に乗ってやる。俺の名は檜皮瀬亥。貴様が思うとおり、『エピゴノイ』だ」
瀬亥は、静かな口調でクロヲに答えた。
「驚いたな……。『エピゴノイ』ってのはもっと化け物然としていると思っていたぜ」
瀬亥は薄く笑った。
「貴様らがどういう風に俺たちを評しているのかはわからんが、俺たちはお前たちとそう変わりはしない。だからこそ、染色体の違いでしか、違いを判別できない。俺とお前とでは、おそらく年もそうは変わらないだろう」
クロヲはそれにさらに続けた。
「何故莉多を狙う!」
「よもや知らずに護衛しているわけではあるまい。俺たちは、お前たちに足掻かれると困る。だから、可能性を排除する必要がある。歴史が今のまま動けば、俺たちはお前たちに干渉などしない。だが、その女は歴史を、事象を変革することができる。俺たちにとっては脅威だ。だから殺す」
莉多は、理解した。いよいよもって、自分が『フェアツェルング』であるという事実を完全に理解した。状況は、まったく好転せず、絶望のみが場を覆った。