夢
莉多は誰もいない家へと帰った。電気はもちろんついていない。エアコンも切ってあるため、生ぬるい空気が部屋を覆う。すぐさま二階の自分の部屋へと引っ込み、エアコンを真っ先につけた。ベッドに飛び込むと、鉛のように瞼が重い。とうてい心地よさとは無縁だが、その睡魔に莉多は屈し、眠りの底へと沈んでいった。
気が付くと莉多は、自分が空に浮いているのに気付いた。
そればかりではない。目の前に広がるのは、とてつもなく巨大な、球体の連なりだった。ガラス玉のように透明な球が、とても目で見えないほどの遠くまで連なっている。しかも、数も多い。
丁度それは、顕微鏡で細胞を見たものに似ている。球体はとてつもない多さで、空間全てを覆い隠すほどである。そして、よくみるとその球体同士に赤い血管のようなものが連なっているのが見える。球体同士は、その赤い血管のようなものでお互いに繋がり、絡み合うようにその赤い糸は四方八方を覆い尽くしていた。
いったい、目の前に広がるこれが何なのか。莉多は理解できなかった。
球体はせわしなくその色を変え、その間を血管がうごめき、その血管が脈動し、何かが通っていくのが見える。非常にきれいではあったが、とてつもなく得体の知れない光景だ。
そんな様子をぼうっと見ていると、目前に姿を現したのは、黒髪をした女性と、橙色の髪に赤い目をした女性だった。二人は、透明な板を歩くように、空中に浮きながらゆっくりと莉多の足下へと歩み寄り、寂しそうな目を莉多へと向けた。
そして、燃えるような赤髪の女性がおずおずと口を開く。
「茂平莉多さん、ですね」
何かを詫びるような目つき。一体、何を言うのか、莉多は恐ろしかった。だが、質問には答える。首を縦に振ってみせる。すると、赤髪の女性は言葉を続けた。
「あなたに、お願いがあります」
お願い? それよりも、そもそもここがどこで、目の前でうごめいている、あのガラス玉がブドウのように連なっているものが何かを莉多は聞きたかった。
「お願い、とは?」
「『フェアツェルング』として、この世界を『コーダ』から救ってください。お願いします」
莉多は、この赤髪の女性が何を言っているか理解できなかった。『コーダ』は知っている。いつかこの世界を襲うという終焉。『コデッタ』よりも激しく、この世界全てを消滅させるという。だが、それを救え、というのはあまりにも莉多にとって遠い。一介の女子高生にとって、あまりに荷が重すぎた。
そして、『フェアツェルング』とは何か。莉多は何一つ理解できなかった。
困惑していると、もう片方の橙色の髪の女性が、赤髪の女性を責めるような目を見せた。赤い瞳の色が余計に攻撃的に思わせる。
「ジュリエッタ姐さん、説明が必要だと思うわ。確かに私たちには時間がない。でも、彼女にとっても一生を左右しかねない、そんな選択なのよ」
ジュリエッタ? 莉多は耳を疑った。そういえば、希代の大量殺人者として、その名を聞いたことがある。
「アントーニア、結論から申し上げた方が誤解がないわ」
アントーニア。その名前も聞いたことがある。大量殺人を犯しかねないと、名前のあがっている人間だ。
「あなたたちは、『コデッタ』の大罪人ですか! もしかして!」
身構えつつ、莉多は言ってからしまったと思った。そんな大罪人、相手にしても勝ち目はない。言うべきではなかった。だが、怒るどころか、二人とも悲しそうに目を伏せた。
「そうね。私も、アントーニアも大罪人ね」
ジュリエッタは打ちひしがれたような顔を見せた。
「私も、ジュリエッタ姐さんも、そんな大それたことをしようと思ったわけではないの」
莉多は激昂した。
「大それた? 『コデッタ』の被害を、知らないわけではないでしょう! ヨーロッパの五分の一を消滅させたんですよ、跡形もなく!」
アントーニアは橙色の髪を揺らし、首を横に振った。
「正確に言いましょう。世界はすでに、『コーダ』という終局に向け、綻び始めているの。見て」
そう言って、アントーニアは眼下の、透明な玉が連なっている方向を指差した。とても不可思議な光景。確かに、これが一体何なのかは気になる。
「あれは、因果を抽象化したもの。私たち『フェアツェルング』はあの玉を動かしたり、消したりすることで、因果を変革する。わかりやすく言えば、運命を変えるの」
莉多は、何を言っているのかがわからなかった。ポカンとしているのを見かねて、ジュリエッタが続ける。
「あの玉が結果を表しているの。何かが起きた結果。つまり、因果の果。そして、そこに結びつく沢山の赤い線は、原因となる出来事が何と結びつくかを示している。因果の原因、因に結びつくわけ。でも、その因も何かしらのさらなる因と結びついている。その因から見れば、因であったものは果になるわ。因果はお互いが複雑に絡み合っているものなの」
うーむ、と莉多はやはり悩んだ。わかりづらい。
「姐さん、具体例が欠けているわ。ある交通事故があったとする。この場合は交通事故が起きることが果ね。そして、それに連なる線をたぐると、たとえば車のブレーキが故障していた、とか、雨が降ってきた、だとか、無灯火で被害者が道路を走っていた、だとかの因にぶつかる。そして、因の因を探れば、車を買っただとか、実は自転車のライトを盗まれていた、だとかの理由に繋がっていく。連綿と、数珠繋ぎにね」
なるほど、だからこんなに莫大な数の透明の玉と、赤い線が絡み合っていたのか、と莉多は少しは納得した。
「それと、『コーダ』に向けて世界が綻んでいるというのは、何の関係が?」
莉多の疑問に、アントーニアは頷いた。
「見て頂戴」
すると、透明の玉が少しずつ後ろへと巻き戻り、ある時点で止まる。
「『コデッタ』発生の時、私たちが手を加えなければ、こうなっていたの」
それは、莉多であろうとも何を彼女たちが言わんとしているかが即座に理解できるものだった。直前まで莫大なガラス玉に向け、赤い糸があらゆる箇所で絡み合い、ねじれあい、空間を埋め尽くしているのに、ある地点から、そのすべての線がまっすぐに、特大の球体に向け繋がっている。そして、その先には何もなかった。ただ荒涼とした闇があった。
「まさか……これは……」
莉多が口篭った後に、ジュリエッタが続けた。
「そう。『コデッタ』ではなく、あの日、本当は『コーダ』が起きる予定だったの」
莉多は仰天した。『コーダ』がすでに起こるはずだったという話に。
「でも、その証拠はどこにも!」
「確かにないわ。『コーダ』自体も少し、先に起こるはずだった。でも、突如としてそのスケジュールが乱されたの」
莉多は首をかしげた。
「一体、誰にですか?」
「『エピゴノイ』。我々の敵よ」
莉多の質問に、アントーニアは吐き捨てるように答えた。
「彼らは、なりふり構わずに、『コーダ』を起こすため、あらゆる因果を操作した。その中でも修復不能な程に大きな操作が、『コデッタ』となって起こったの。その証拠に、前後には『第四の壁』が揺れ動いている。これは、『ザナドゥ』の『エピゴノイ』から強烈な干渉を受けたからよ」
莉多は考え込んだ。
「あなたたちの言葉が本当なら、あの『コデッタ』は『エピゴノイ』が引き起こしたもの、ということですか?」
「ええ。その通り。私たち『フェアツェルング』は、因果を見て、変革する能力を使い、『エピゴノイ』がめちゃくちゃに破壊した因果を元の姿に戻し、来るべき『コーダ』を回避するのが目的なの」
ジュリエッタは、莉多をじっと見ながら、言った。だが、莉多は釈然としない。
「わかりました。確かに、あなた方が大罪人だと言われていても、そうではないという理屈はわかりました。でも、まずこれはわたしの夢でしょう? わたしの中の断片があなたたちの姿を借りて、何を言っても説得力なんかありません。第二に、すべてが事実だとして、わたしと何にも接点がない。なぜ、わたしはそんなことを?」
次の瞬間、莉多の背後から拍手が聞こえた。
莉多が振り返って見ると、そこには橙色のスーツを着、髪の毛を逆立てた男がいた。
「さァすがに聡明だ。確かに彼女たちが言うことは仰るとおり、そのまま信じるには信憑性に欠ける」
「あなたは?」
莉多は尋ねた。
「名乗るほどの者ではございませェん。私は方々頭を下げて、助力を願っている者です。茂平莉多さん、まことに申し訳ないが、おそらくあなたに、選択の余地はありませェん」
パチン、と男が指を鳴らすと、彼の背後に映像が映し出された。ブレザー姿で、その体の表面に青い炎を漂わせ、剣を構える高校生くらいの男と、傷だらけになったクロヲ。
背後には、燃えさかる道場が見える。
「これは、今から九時間と二十四分、いや、二十三分後に起こる光景です」
ブレザーの男は剣を構え、クロヲは拳を構える。そして両者間合いを詰めるが、クロヲが拳を叩き付ける前に勝負は付いていた。青い斬跡が見えたかと思うと、次の瞬間、クロヲはバラバラの肉片となって砕けた。様々なクロヲの言葉が思い起こされる。彼と過ごしてきたこれまでのこと。そのどの瞬間も、彼は莉多を気づかい、何よりも莉多のことを考えていた。世界を敵に回してでも、守るとすら言ってくれた。それがこの結末だ。最後に、彼を見たときの姿が、目に焼き付いて離れない。
「莉多さん、まことに恐縮ながら、これは現実に起きます。あなたがその運命から逃げれば、確実に起きてしまいます」
涙は流れ続ける。だが、こらえながらも莉多は口を開いた。
「こ、こんなこと、あるはずない!」
それを聞き、おどけるように男は肩を竦めた。
「あなたがどう解釈しようと勝手ですし、最終選択はまだ先です。ゆっくり考えるといいでしょうねェ。ですがねェ、我々にはちっとも時間がない。あちらにいるのは『フェアツェルング』のお二人ですが、片方はすでに故人だ。そして、もう一人の命の火も尽きようとしている。もし、『フェアツェルング』がいなくなれば、即座に『コーダ』はやって来る。彼女たちが命を投げ打ってきたことも、すべて無意味です。そんなことを許すわけにはいかないでしょう?」
「それでも! なぜ、わたしなんですか!」
ジュリエッタは声をあげた。
「私は、『あの子』の母親です。こちらのアントーニアは私の妹。お願いです、もう、あの子が信頼してくれる人は、いないのです!」
そして、次の瞬間、莉多は視線を感じて振り返る。すると、そこには白い髪をした少女が微笑んでいた。先ほどの男が車椅子を押している。そして、白い髪をした少女は、必死に腰をかがめる。
「お願いです……。どうか、どうか私に、力を貸してください。こんなことを頼める人は、いないんです……。お願いです。どうか、どうか……」
はらはらと涙をこぼしながら、少女は願った。
途端、莉多は少女の元へと歩み寄り、彼女の体を抱いた。
「そう。あなただったの」
「ごめんなさい」
少女はか細い声で囁くように詫びた。
「いいえ。そうね、わたしはただ一人の友達、だったものね。信じましょう」
そして、男をきっと睨む。
「その代わり、クロヲは助けてもらうわよ。わたしは、死ぬ気で世界を変革して、『コーダ』を食い止めてあげる。でも、それにはクロヲが絶対条件よ!」
男は微笑んだ。
「元よりそのつもり。ただし、ひとォつ注意点がございます」
莉多はため息をついた。
「何?」
「彼女たち『フェアツェルング』は、刻限に間に合わなかった。『コーダ』を『コデッタ』に組みなおすのは間に合っても、『無』にまで組みなおすのは至難の業。その場合、無理に組みなおそうとすると、反動があなたに来ることになる。つまり、死ぬって事ですねェ」
莉多はハッと驚いたが、すぐに強い眼差しを男に向けた。
「でも、未来は決まっていないんでしょう?」
「ええ」
「ならば、受けましょう。すべて、この手で変えてみせる!」
男は微笑んだ。
「天が定めた、くだらない運命など、その手で打ち破ってください。どうか、どうか……」
そして、頭を下げる。
「ええ。じゃあね」
莉多は頷くと、少女に手を振った。少女は泣きながら、左手を振った。
その瞬間、莉多はベッドの上で目を覚ました。考えられないほどの寝汗。
だが、あの男の笑みと、二人の女性、そして少女を抱いたときに感じた感触は、生々しく残っている。
莉多は電話をした。こんな時間だったが、すぐに電話をした。そして、相手はこんな時間だったが、3コール以内に電話に出た。
「はい、白 鴻凱です」