彼女の不安
ウェンディの道場は、和風の家屋である。故に、廊下は板張りだし、襖を抜ければ其処は縁側である。猫の額ほどの庭ではあったが、文字通りの庭へと抜けるエアースポットであり、涼しい風が吹き抜ける。そしてまあ、どんちゃん騒ぎの宴会会場からは少し離れるので、ゆったりと出来る訳であり、退避場所としてはもってこいであった。
足を投げ出し、莉多は何をするでもなく、ぼうっと外を見ていた。ただし、頭の中は、ぐるぐると回る。色々な事実が駆け巡り、交錯し、鬩ぎ合う。
突然の襲撃。助けられたであろうことには感謝している。だが、そこに寂しさがあることも確かだ。一番の当事者であるはずなのに、完全な部外者扱い。おまけに、事情も完全には把握できていない。そして何より、一番近しいはずの存在が傷つき、苦しんでいるのに手を差し伸べられないのは、辛い。そんなことを止めどもなく逡巡させている折り、背後の廊下がぎしり、と鳴った。
「クロヲ?」
「ああ、うん」
歯切れの悪い返答。
「何なのよ、はっきりしないわね。何やってんのよ」
クロヲはそれにも胡乱な返事をする。
「ま、夕涼み、だな」
「横に座りなさいよ。話があるの」
有無を言わさずに後ろを振り返り、クロヲをじっと見る。諦めたかのように、クロヲは莉多の隣に座った。だが、特にクロヲに話題があるわけではない。ばつが悪そうに、あらぬ方向を見るばかりだ。特に会話もなく、秋の訪れを感じさせる夜風が、涼しく頬を撫でる。
さすがにそんな時間がしばらく過ぎ、気まずくなったのか、クロヲは口を開いた。
「体、大丈夫か」
彼なりに気遣った結果、できるかぎり普通に振る舞おうとしていたのだろう、と莉多は考えた。でも、それが裏目に出て、結果ぎくしゃくしている。
「おかげ様で。何があったか、あたしは全然わからないけれど、無理矢理車に押し込まれたのは記憶がある。助けてくれたんでしょ?」
単刀直入に切り込んでみる。うやむやな返答など莉多は望んでいない。
「ああ。正直な話、とてつもなく焦ったよ。今、平気そうで心からホッとしてる」
感情論で逃げようとしているらしい。莉多は少しムッとした。
「何があったか、教えてよ。あたしは何にもわからないじゃない」
クロヲはその言葉を聞いて少し口ごもった。
「確かに、その権利は大いにあるよな。ただ、あまりたいした話じゃない。ただのチンピラさ」
「そ」
チンピラ、というだけであれば、特に莉多に文句はない。
「でもあたしは怖かった。とっても怖かったの!」
大声で莉多は続けた。クロヲは、じっと莉多を見つめた。
「俺もだよ。俺だって怖かった」
莉多は首を傾げた。
「え?」
「俺はさ、小さい頃からずうっと莉多が近くにいるって生活で、いるのが当たり前なわけで。だからこそ、莉多が連れ去られそうになった時、かーっと頭に血が上った。膝は震えるし、もしここで怪我でもしちまって警察の厄介になったらまずいって考えも浮かんだ。 でも、莉多が、莉多がいなくなるって考えたら、走り出してた。走馬燈って感じでさ、お前との思い出がずーっと流れてた。無我夢中だった。後先考えずに動いてた」
莉多はぼんやりと思った。そうか、クロヲだって怖かったのか。自分だけじゃなかったのか、と。
「だからさ、ほんとありがとう」
何故クロヲが礼を言っているのだろう。莉多は理解できなかった。
「俺はさ、気付いたんだ。莉多がただそばにいるだけで俺はいいんだってことに。無事でいてくれて、ありがとうな。俺は、お前がそばにいてくれるなら何でもする。誰にも手出しはさせない」
莉多は赤面した。歯が浮くようなことを真顔で言われたからである。
「ば、バッカじゃないの? 酔ってんじゃないの?」
クロヲはにやりと笑った。
「じゃ、酔いついでに続けさせてくれ。俺は莉多、お前が好きだ。だから、次に似たようなことがあっても、何があってもお前を守る。何が起きてもお前を救う」
クロヲはじっと莉多の目を見た。
莉多は、目を合せられず、目をそらした。
「そんな、突然言われても……」
「早いか遅いか、そんなに重要なことじゃないだろ」
「タイミングは重要よ!」
莉多は叫んだ。
「そう、だな。悪かったよ。そして、俺がこんなこと言い出すのは、割に差し迫っての話があってのことだ。結構前に、『コデッタ』の危険範囲にこの辺が指定されていたのを覚えてる?」
莉多は話が突然切りかえされて戸惑ったが、咄嗟に切り返す。
「誰も相手にしなかったけれど、そんな話もあったわね」
「まあ、五年前の『コデッタ』でヨーロッパの一部が消し飛んで以来、何十回も予測を出しては、その都度何も起きなかったからな。今回もすごく眉唾物だってされてて、誰も動じてない」
「なら、いいじゃない」
クロヲは、莉多の言葉に首を横に振った。
「ケインさんが帰ってきているだろ。ケインさんは、『ザナドゥ』と現実世界を隔てる、いわゆる『第四の壁』の強度分析もしている。まあ、さっき言った通り極めて評判は悪いけれど。でも、今回は『コデッタ』がこの『新居条』で起きる可能性が極めて高いって言ってるんだ。そして、その期日は間近だ」
莉多はすうっと背筋が寒くなるのを感じた。五年前の『コデッタ』は文字通りヨーロッパの一部が全て消し飛ぶという大惨事だった。まるで巨人が上からスプーンで抉り取ったかのように、根こそぎ全て消滅した。別に爆発とか、そういうことはなく、ただ一瞬にして消えた。その上に乗っていた何千人という人間と一緒に。
幸いなことに、その日はたまたまその一角を離れていた人が多かったようで、難を間一髪で逃れた人はかなりの数に上った。だが、それでもこの世界から、ヨーロッパのその地域は永遠に姿を消した。映像で見た時には、あまりにもその切断というよりも消滅したとされる面が鋭利で、綺麗だったのを覚えている。だが、それは紛れもない大惨事の爪痕なのだ。
世界は仮想世界である『ザナドゥ』が現実世界に浸食した結果、この『コデッタ』が発生したという仮説が発表された途端、一斉に『ザナドゥ』の閉鎖を訴えた。そんな折、実は『エピゴノイ』という厄介な敵すら『ザナドゥ』が抱え込んでいることも暴露され、より一層『ザナドゥ』は厳しい立場に立たされた。だが、それでも『ザナドゥ』は閉鎖されなかった。いつまた『コデッタ』が起こるかもしれず、また『エピゴノイ』という驚異的な化け物が生活を脅かす危険性を孕んでいるにも関わらず、国際世論の大反発を押し切り、『ザナドゥ』は計画を推し進めた。
「それで、避難勧告に従って避難することになってる。勿論、俺もだ。そこで、一緒に、来てくれないか?」
「そんな、突然……」
クロヲは首を振った。
「莉多、お前のことは俺が守る。だから共に来てくれ。俺と共に生きてくれ」
くすり、と莉多は笑った。
「バカね。今までありがとう。これからもよろしく」
そう言って、クロヲの手を取った。
「行きましょう。もう、十分涼んだし。肉もあんまり食べてないし」
莉多は全てを受け入れたわけではないのだろう。だがその際、傍らに一人でも確実な味方がいることは、精神的に大きいはずだ。
二人が食堂に戻ろうとした矢先、割烹着姿のケインさんがやって来るのが見えた。
「どうしたの、ケインさん」
特に暗い表情を浮かべず、どこか吹っ切った表情の莉多に、ケインは一瞬安堵し、言葉を返した。
「ウェンディが何か話があるんだとさ。でも、こっちに来るんだったら無駄足だったか」
ふう、と小さなため息をケインは漏らした。
「ありがと。じゃ、クロヲ行きましょう」
「了解」
三人はゆっくり食堂へと向かっていった。
まだ、夏だというのに。どこか寒く冷たい、秋の訪れを感じさせる風が頬を撫でた。