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桜の森

桜の森

作者: 零-rei-

 ──ソメイヨシノって、知ってる?

 問いかけに、僕は肩越しにふりかえった。僕だけにこっそりと繋がれた回線(ライン)をたどると、教室の隅でエイミがひらりと手をふった。

 ──授業中だろ。あとにしてよ。

 軽く眉をひそめて、僕は前にむきなおる。授業進度にあわせ、数学の先生が画面(パネル)操作を要求する。みんなとそろって眼前に手を掲げ、立体画像(ホログラム)をつまむ。先生はみんなの画面が切り替わったのを確認すると、ヒールをかつんかつん言わせて教室を歩きまわり出した。

 ソメイヨシノ。知らない単語だ。僕は先生の目を盗んで画面を二重に起動した。学校図書館のデータベースに接続(アクセス)して、詳細検索をかけてみる。ヒットしたのは、古典籍に分類されている植物図鑑が数冊。あとは文学作品が多いようだ。

 有益な情報を拾おうと、脳裏でかたっぱしから植物図鑑を開く。点描のようなひどい写真のついた説明書きは、どれも似たようなものだ。古語で書かれているが、二百年前なら、なんとか読めなくもない。

 ソメイヨシノは、サクラの一種。つぼみは淡紅色から、次第に白色へと変わる。エドヒガンとオオシマザクラの雑種とされる。

 要約すると、こんなところか?

 ふぅむ。と、軽く息をついたときだった。

 ──オトヤ。オトヤったら! また、目が動いてるわ。先生に気づかれる!

 エイミが鳴らしてくれた警告音(アラート)が頭のなかでうるさく響いた。僕はあわてて二枚目の画面を終了させようと、植物図鑑をぱたぱたと閉じてまわり、文学作品をしまった。一秒後にはデータベースから完全撤退。画面は沈黙。

 僕なりに迅速な対応をしたつもりだったが、時すでに遅かったようだ。

 目をあげる。腰にこぶしをあてた先生が、険しい顔で僕の前に仁王立ちしている。

 どうやら、見つかったのは僕だけだ。エイミはさっさと僕から回線を切って、離脱したらしい。うまくやりやがって!

 にらみつけたいのを我慢して、僕は殊勝にうつむき、先生の沙汰を待った。常習犯の僕の頭上で、先生は長く息を吐き、右手をかざした。凛とした声が告げる。

 ──出て行きなさい(ゲツト・アウト)、オトヤ。

 ひゅぅんっ

 音を立てて、一方的に授業回線が切られる。暗転した映像視界(イメージ)肉眼視界(ネイキツド)に切り替え、僕は脱力し、自室の椅子に深くもたれた。


 授業終了時刻まで待って、僕は再度、教室へと接続した。放課後の教室に残っているのは、ほんの数人だった。集まって、最近流行りのゲームに興じているようだ。

 僕の再登場に反応したのは、案の定、エイミひとりだった。ゲームにも参加せず、教室の隅で所在なさげにしていた彼女は、僕が現れたのを見てとるや、側へと飛んできた。

 ──待ちくたびれたわ。どうしてくれるの。

 高飛車な物言いに苦笑し、僕は言いかえす。

 ──だれかさんがソメイヨシノなんて言うからだよ。僕のクセは知ってただろ?

 ──目が動くのは、脳の整備不良よ。幼い子どもが黙読できないのといっしょだわ。

 言い捨て、エイミはソメイヨシノに関する情報を僕に求めた。そう言うだろうと思っていた。さきほど調べた植物図鑑の記録(データ)をごっそり送ってやると、彼女は瞬時に内容を精査し、わざと僕にわかるように記録を廃棄した。

 ──あいかわらずの古典趣味ね。こんなことを聞いたわけじゃないの。

 わかってるでしょ?

 長い黒髪をゆらし、すねたようにそっぽをむく。彼女の横顔に見とれ、僕は嘆息した。細いおとがい、とがらせた赤いくちびる、色味のない頬。そして、華奢な肢体。エイミの映像容姿(アバター)は、ほんとうにうつくしく作りこまれている。

 技術と見た目に陶然としていると、むすっとした表情のまま、エイミは黙って画面を操作し、ある記録を僕への回線に乗せた。

 タイトルは数字の羅列だが、よく見れば、記録の作成年月日のようだった。二二十三年三月二十四日。素直にとれば、六十一年も前の記録ということだ。

 うながされて中身を開き、僕はうなった。

 数枚の画像だった。不鮮明にも程がある。記録媒体(メモリー)の劣化? 否、違う。無線回線不整備の土地で映像視界を起動して、無理やり画像を撮影し、転送したのだ。おそらくは、乱れたままの画像を遠隔地から自宅の記録媒体に書きこんだのだろう。

 青空らしきものを背景に、下部に白い靄がかかったのが二枚。白い靄を前に、髪の長い少女のうしろ姿が一枚に、こちらを向いているのが一枚。この子って、もしかして微笑んでいるのかな?

 僕には、その少女がエイミに見えた。もちろん、僕が知っているのは映像容姿だけだし、映像容姿は写真でなんか残せはしない。まして、六十年も前なら、写りっこない。

 ──おばあちゃんの遺品から出てきたの。

 機先を制したことばに、僕はたずねる。

 ──じゃあ、これ、君のおばあさん?

 エイミはかぶりを振る。ただし、否定ではない。『不確実』だ。もし、僕の推測が明らかに違っていれば、この反応はない。いつものエイミなら、僕を徹底的に馬鹿にして論破する。たぶん、確信がもてないのだろう。

 遺品から『出てきた』という表現が示すとおり、長期間だれにも存在を知られずに保有されてきた記録だったのだ。

 ──オトヤ、性質情報(プロパティ)を見て。

 言われるがままに確認してみると、画像の記録地点の位置情報、時刻などの文字がずらりと並んだ。

 位置情報のタグを拾って、別画面で地図に変換する。僕の住む町から西に六十キロメートルほど、位置情報はキヌガサ、ヨコスカ(シティ)のものだった。

 表示された地名に戸惑う。いや、正確にはその地名が示す場所に、だ。

 僕はさらに『キヌガサ』を検索する。知識の裏付けを得るためだった。

 ミウラ半島(ペニンシユラ)は、北部に複数の活断層を持つ。そのひとつがキヌガサ断層帯だ。百八十年あまり前に起きた東海大震災のとき、誘発されて直下型地震が起きたのがこのあたりの活断層だった。

 東海地震の発生時、ミウラ半島の住民はまず、津波を避けるために高台にのぼった。およそ一時間で到達が予測されていた津波よりも早く、直下型地震が半島を襲った。

 連動型地震というヤツだ。ミウラ半島の直下型地震によって、隣接する大都市や都心部も大きな被害を受けた。東海大震災は歴史に名を残す大災害となった。

 持ち合わせていた知識と検索結果とをつきあわせて暗澹たる心地になった僕のとなりで、エイミがいらついたように声をあげた。

 ──何よ、性質情報も読めないワケ?

 ──読んだってば。ヨコスカ市のキヌガサで六十一年前の三月二十四日に撮影された写真なんだろ? だから何だっていうんだよ。

 ハッと荒々しくため息をついて、彼女は腰に手をあてた。

 ──やっぱり読めてないじゃないの。最後まで見なさい。作成者は?

 言われてみれば、そのとおりだ。僕は画面の下部に目を走らせる。

 見つからない。作成者、作成者。反芻しながら、今度はゆっくりと辿る。二度目、三度目。……あれぇ?

 思わず首をひねった僕に、エイミは笑った。

 ──書かれていないの。意図的に削除したんだわ。脳の個体識別番号まできれいに、ね。

 ──そんな、わざわざ一部だけ? それなら、性質情報ごと消しちゃえば一発なのに。

 ──性質情報を全部消してしまうなら、初めから撮らないでしょうね、写真なんて。

 エイミは近くの机に腰かけ、無表情に遠くを見やった。それから、ふいに目を細めて、薄く笑う。机から飛び降りざま、つぶやく。

 ──決めた。

 えっ? と、めんくらった僕には背を向け、エイミはさっさと自席へ歩きだす。

 ──明日、キヌガサへ行くわ。

 ──何のために?

 問いかけに足をとめ、エイミは半身ふりかえった。ふわり、スカートの裾がひらめく。女王が宣旨を下すみたいに、彼女は言い放つ。

 ──ソメイヨシノを見に、よ。ちょうど、明日が三月二十四日だわ。いっしょに来る?

 ──ちょっと待ってよ、エイミ。キヌガサは遠いし、第一、ソメイヨシノがあるかどうかなんて、わからないじゃないか!

 なかば叫んだ僕に、エイミは心底あきれた、という顔をした。

 ──オトヤって、ホント抜けてるんだから。わたしが何の脈絡もなく写真を見せたとでも思ってたの? うつってたでしょ。あの白いのがソメイヨシノ!

 足早に自席に戻るや、あとで連絡するわ、と言い残し、エイミの映像容姿は残像もなく教室から消えさった。


 旅客艇(ポツド)の座席に腰を下ろす。隣のエイミを盗み見て、僕はシートベルトの装着ボタンをいじった。

午前九時。最後の乗客を収容し、僕たちの乗った旅客艇は定刻どおりの出航となった。

 カナヤ・クリハマ間には、半日に一本の定期航路が就航している。大昔は大型客船が行き交っていたそうだが、東海大震災の影響で海底がそこここで隆起して以降、トーキョー湾には大型船が進入できなくなった。

 そこで用いられはじめたのがエアクッション艇だ。古くはホバークラフトという商品名で呼ばれていた船である。

 大震災前の古典SFで『日本沈没』というのがあるのだが、これにも災害時の乗り物としてホバークラフトが登場する。ただし、当時のエアクッション艇は、軍事利用はあっても、民間の運航に適しているとは言いがたい性能だったようだ。

 騒音、振動、燃費の悪さ。エアクッション艇には、いくつもの難点があった。需要が伸びるにつれ、研究が重ねられた結果、現在の旅客艇の原型ができあがった。……と、この先はエイミの受け売りになるので割愛。

 旅客艇の構造について、彼女は詳細な説明をしてくれたけど、正直ちんぷんかんぷんだった。僕がろくに理解できていないのを見てとるや、エイミは肩を落とし、長い足を組んで、窓の外へと目を転じた。

 見慣れた映像容姿そっくりの横顔が、すこし憂いを帯びる。そう考えてすぐに「ああ、相互の関係が逆か」と、自己訂正を入れた。映像容姿のほうが、現実の容姿そっくりに作られているのである。

 彼女の素顔を見るのは、今日がはじめてだ。生きていることを疑いたくなるくらい肌が白い。あまり外出しないのだろう。まるで陶器で精巧につくられた人形みたいで、僕は映像容姿にそうしたようにひとしきり見とれる。

 ぶしつけな視線に気づいて、エイミは僕を見据えた。小首をかしげてよこす。

「ひとをじろじろ見るのも、クセなの?」

「いや……映像容姿と変わらないなあって」

 言い訳した僕に、不満げに鼻を鳴らし、すこしだけ顎をあげる。

「オトヤはまるっきり違うわね。ポリゴンっぽいのは、もっとどうにかならない?」

 語気強く言い、流れていく空に再度、目をむける。本来は低学年の授業で自作する映像容姿も、昨今は整ったものが高額で売買されている。だが、僕のは自分で作ったものだ。しかも、あれから何の手もくわえていない。僕は膝元を見つめ、下くちびるをかんだ。

 先刻、待ち合わせ場所で、先に相手を見つけたのは僕のほうだった。エイミはきょろきょろするそぶりすらなかった。傲然と腕を組んで壁によりかかり、目を閉じていた。どうせ、躍起になって探したって見つからないでしょ? 口にせずとも、そう言われたようで、実のところ、少しばかり落ちこんだ。

「エイミには、わからないことなんて無いんだろうね」

 たぶん、僕史上最大の厭味を込めたことばだったけれど、彼女はあっさりといなした。

「そうね。わたしはオトヤとは違うもの」

 いつもどおりのトゲのある口調で言い、エイミは提げたポシェットから束ねたケーブルを取りだした。ほんの一メートルほどの品だ。結束をほどいて、片側を僕へさしだす。

有線回線(ケーブルライン)?」

 たずねかけた僕を無視して、もう一方を自分のこめかみの接続端子に繋ぐ。肉眼視界から、映像視界へ。瞬時に切りかえを行ったのだろう。隣の席で無防備に目を伏せるエイミにどぎまぎして、僕は手にしたケーブルの扱いに困った。

 有線回線を繋ぐなんて、恋人同士じゃあるまいし! しかも、人前じゃないか!

 周囲をうかがうが、どうやら、席の配置のおかげで僕らのしていることはまわりには見えそうもない。旅客艇の運航中、自由に船内を歩くことはできないから、クリハマに着くまでに肉眼視界に切りかえれば、だれにも見つかりはしないだろう。

 でも、なあ……。

 頬がいささか熱くなる。けっして、これは犯罪行為でもなんでもない。けど、なんていうか、その……他人と有線回線を繋ぐのって、キス、それも大人なヤツをするのと同じような感覚があるんだよなあ。いままで、こんなこと、シたことがない。僕が潔癖なだけ?

 エイミは眠るように座席にもたれている。僕は小さく嘆息し、こめかみを探って、ケーブルを挿入した。音を立てて暗転した世界の中心で、いつもの彼女が待っていた。


 真っ黒な空間のなか、僕とエイミだけが在る。へえ、有線ってこんなかあ。感心しながら、僕は彼女を見つめる。白く浮かびあがる映像容姿はいつ見ても、うつくしい。

 ──どうしてあなたって、わたしを待たせるばかりなのかしらね?

 開口一番、辛辣につぶやいて、視線をうつむかせたまま、エイミは僕のほうへ踏みだした。腰に右手をあて、舞台役者のような大仰な身振りで左腕をふりあげる。

 ──教室で話したあと、おばあちゃんの若いころの記録を洗いざらい読んだの。いまのところ、収穫はなし! ソメイヨシノがどんな意味をもつのか、手がかりすらなかったわ。

 ことばを切って、首を振る。彼女はわからないとは言いたがらない。『いまのところ』と言い添えたのはそういう意味だ。もちろん僕の意見など求めてはいない。同級生としての長年の経験から、僕はよく学習していた。

 思考するときに目を動かす僕のクセをエイミは馬鹿にするけれど、口に出して次々に思考を展開するのはエイミのクセだ。指摘すると、きっと彼女は怒る。ときに知ったかぶりのように響く彼女のことばは実は思考の断片ばかりで、何の伝達意思も持たない。

 かわいいと、ひそかに思ってる。僕は彼女が高飛車に考えをふりかざすところが好きだし、結論に到達するまで傍で見守るのも好きだ。自分だって僕を待たせていることなんて、エイミは気づきもしない。でも、それでいい。

 エイミは口元に手をそえ、下くちびるを人差し指の爪でなぞった。伏し目がちにする。

 ──あれは、母方のおばあちゃんなのよ。おじいちゃんは、ママが小さいときに死んでしまったって。ママはひとりっ子で何も覚えていないし、母方は親戚づきあいもないの。おじいちゃん自身が写真嫌いで、何も残ってなくて、ママもわたしも顔を知らないわ。

 うなずきを返して、僕はこっそりと画面を立ちあげた。有線だと気づかれてしまうのかと不安だったが、どうやらエイミにはわからないようだった。ほっとしながら、ソメイヨシノについて、ふたたび詳細な検索をかける。目を動かさないように、細心の注意をはらう。

 エイミは紙媒体や、紙から電子化された情報には興味が無い。だから、僕はあえて図書館のデータベースを用いるし、雑誌記事や文学作品のなかにソメイヨシノに関する情報を探す。まぁ、個人的な趣味もたしかにあるけど、それ以上に、エイミの不得意分野をカバーするのが僕の役目だと自認しているのだ。

 ほどなくして、求めていた情報は得られた。

 キヌガサには、かつて衣笠山公園というソメイヨシノの名所があった。だが、東海大震災の影響と、ソメイヨシノのある特性によって、現在はもう、当時の面影もないらしい。

 これ、いつの時点での『現在』だろ?

 奥付を確認する。僕が見つけたのは、百年前の旅行雑誌の電子記録だった。懐古調で書かれた文章に、いやな予感が脳裏をかすめる。

 僕はおそるおそる、かねてからの疑問を回線に乗せた。

 ──エイミ。どうして、あの写真とソメイヨシノとを結びつけたの?

 この問いに、彼女はさも当然と言わんばかりの表情で返した。

 ──亡くなる直前におばあちゃんが言ったの。「もう一度、ソメイヨシノを見たい」「あなたぐらいのころに見に行ったわ」って。だから、該当の年代の記録を探したの。

 ああ、エイミ。そのことばをもっと早く聞きたかった。

 僕は頭をかかえたくなった。いまもキヌガサへむかう旅客艇のなか、僕らの旅路はもはや無駄足の色が濃くなっている。

 「見たいと思っても見られないものだ」と、なぜ思い至らなかったんだ!

 おそらくエイミは祖母のことばを聞いて、ソメイヨシノが植物であることや、どんな形態をしているのかは調べたのだ。しかし、そこで探索の手を止めてしまった。どうして自分がソメイヨシノを知らないのか、彼女は考えもしなかった。

 僕の推測が正しければ、キヌガサには六十一年前にはすでに、ソメイヨシノは存在しなかった可能性がある。そうなれば、あの写真はソメイヨシノを撮影したものではなくなる。

 推論を告げるべきだろうか? 僕は逡巡した。いや、告げたところで、彼女は端から信じやしないだろう。自分の目で見て、納得させたほうが得策だ。

 ──エイミ、キヌガサだと衣笠山公園ってところがソメイヨシノの名所みたいだよ。

 ──そんなの、とっくにわかってるわよ。オトヤは黙っててちょうだい。

 もう、公園はそこにはない。跡地があるだけだ。僕が嘘をついて逃げを打ったことも知らず、エイミは傍目には不機嫌に見える表情のまま、楽しそうに考えをめぐらせている。

 ──やっぱり映像視界のほうが楽ね。口で話すと疲れるし、ひとに聞かれるのはおもしろくないもの。

 ──……そうだね。

 ああ、うん。有線回線を使う理由なんて、その程度だと思ってたよ。どうせ、海上で不安定な無線回線を使いたくないだけだって。

 僕は内心でぼやき、これから訪れるエイミのホンモノの不機嫌にどう対処しようかと、それなりの対策を講じはじめていた。


 衣笠山公園跡に着いたのは、十一時ごろだった。旅客艇にバスに電車。はじめて乗る旧時代の公共交通機関の連続に胸ときめかせていた僕も、電車の停車駅からの徒歩までくわわると、さすがにすこし疲れが出てきていた。

 エイミも多少は疲れているだろうが、そんな風情はおくびにも出さず、意気揚々と公園内へと足をむけた。

 衣笠山は、予想どおりにさびれていた。人気の無いうっそうとした森のなかへ、小山に巻きつくように古道が伸びている。日差しの薄く透ける道を、僕らは頂上をめざしてゆっくりとのぼりはじめた。

「何よ、名所だって言ったのに、花木なんてどこにもないじゃない!」

 はじめこそ、ぶつくさ文句をたれていたエイミも、次第に急勾配に息をはずませ、ことば少なになっていく。僕は僕で物思いにふけってしまい、話をする気分にはならなかった。

 写真で見た白い靄のような花のイメージが頭をちらついていた。あれがソメイヨシノでなかったとして、ここに咲くのは、いったい何だろう。どうして、エイミの祖母はソメイヨシノなどと口走ったのだろう。

 二十分ほどして、坂をひとつのぼりつめたところで、すこし開けた場所に出た。まだ上はあるが、いくつかに道が分かれているようだ。どれを選ぼうかと思案していた、そのときだった。

「オトヤ、あれ! 見てよ!」

 高く叫んで、エイミが僕から離れた。彼女の目指す先を見て、僕は息をのんだ。

 まるで、白糸の滝のようだった。

 山肌を覆うように、数株の花木が満開の枝振りをほこっている。枝には若い葉が混じっている。白い花弁は強い陽光のせいで、空にかすむようだ。

 エイミは花木の根元へ駆けよると、興奮したようすで両手をひろげ、枝を見上げるようにした。写真でも撮っているのかもしれない。クラウドに保存するにしても、何にしても、ここで映像視界を展開したら、あの写真と寸分たがわぬピンボケした写真ができあがるだけだろうに。

 僕は苦笑して彼女のはしゃぎっぷりを見守りながらも、その一方で、どこか違和感をおぼえていた。

 旅客艇で見つけた古雑誌の記事には、だいたいこのようなことが書かれていた。

『ソメイヨシノは、種子によって増えることができない。かつては日本全土に植えられていたが、それらはすべて人の手によって接木されたものであり、クローンと言ってさしつかえない。樹齢百年を越す古木も存在したが、おおよそ六十年ほどが寿命であるという俗説もあった。 

 二一五〇年ごろのことだ。桜前線よろしく、全国のソメイヨシノの一斉枯死がはじまった。クローンにクローンを重ね、二百年以上の時を経た遺伝子は、もはや限界を迎えていたのだろう。明治時代に政府によって全国へ植樹されたソメイヨシノは、広まったときと同様、またたく間に姿を消した』

 だから、だ。二二十三年の衣笠山公園には、ソメイヨシノは存在しない。六十一年後の僕らの前にも、存在するはずがない。

 では、あれは──?

 足音が聞こえたのは、偶然だったろうか。

 ふりかえった僕を、坂の下からひとりの老人が見上げていた。八十代に手が届くかどうかといった年齢に見える。彼は驚いたように眉をあげ、僕のそばへ近づいてきた。

「こんにちは」

 あいさつに会釈を返し、僕はエイミのほうを見やった。老人もまた、僕の視線の先をたどって、ああ、と頷き、相好をくずした。

「今年もヤマザクラが満開ですね」

「ヤマザクラ、ですか」

「ええ。いまの若いかたには、サクラもものめずらしいでしょう。めっきり人口が減ったせいで、手入れもままなりませんからなあ」

 言って、老人は頭上の木々を仰いだ。

「昔は、ここもソメイヨシノの名所だったそうですが、私も見たことがありません。いまはもう、あのヤマザクラだけです」

 僕もつられて見上げたが、そこには花のひとつもなく、空をおおうように新緑が生い茂るばかりだった。

 老人は姿勢を正し、楽しげにした。

「どれ。きれいに咲いていることだし、私もひとつ、花見をして帰りましょうか」

 ヤマザクラのほうへむかって歩きだす彼と、僕は歩調をあわせた。ヤマザクラという種についての話を聞きながら、ゆったりと時間をかけて歩いていく。

 あと数歩まで迫ったときだった。ふいに、老人は足をとめた。不審に思い、隣をうかがう。僕の見ている間にも、老人の目は大きく見開かれていった。

 僕は彼のようすを見てとって、確かめるように前に向きなおった。ヤマザクラに見とれていたエイミが、僕らに気づいてふりかえる。その姿が、写真のなかの少女とダブった。

 僕は、叫んでいた。

「エイミ! 僕、カメラを持ってきたんだ! ソメイヨシノと撮ってあげようか!」

 僕の横顔を注視する目を感じる。無視して、鞄から骨董品じみたカメラを取りだし、地面に膝をついて、それっぽく構えた。

「そんな古くさいのでほんとうに写るの?」

 あいかわらずの口調でしかめっつらするエイミをなだめすかして連写したあと、僕は腰をあげ、前をむいたまま、小声で告げる。

「僕ら、チバから来たんです。彼女の祖母が見たがっていたソメイヨシノを探しに」

 ややあって返ってきた声は震えていた。

「残念ですね。この公園のソメイヨシノは、百年以上前に枯れてしまったんです」

「知ってます。……でも、六十一年前には、咲いていましたよね?」

 賭けだった。結婚式の写真ひとつ残っておらず、娘ですら顔を知らないエイミの祖父。エイミの祖母が、脳の個体識別番号まで消去して、あの写真の撮影者を隠さねばならなかった理由。そして、そうまでして、この地での思い出を残しておきたかったワケ。

 確証のない推論に過ぎない。だが、僕の踏みこんだひとことに、老人はことばに詰まったようだった。

 僕は彼を見上げた。彼は、こちらを見てはいなかった。

 エイミはヤマザクラの下でぴょんぴょんとはねて、枝を折りとろうとしている。彼女のようすに何をみているのか、懐かしそうに微笑んで、老人は言った。

「私は、笑顔が見たかった。すでに妻があって傍にはいられなかったが、喜ぶことは何でもしてやりたかった」

「自己満足じゃありませんか?」

 即座に切り捨てた僕に、老人は開き直ったように、意地悪く目を細める。

「だろうとも。だが、今日もソメイヨシノは咲いているのではないのかね?」

 痛いところをつかれた。僕は押し黙り、老人は喉で笑う。僕らはいまや共犯者だった。

 僕らが咲かせるソメイヨシノのもとで、エイミはやっと折りとった小枝を手に、うれしそうにしてみせる。花に顔を寄せ、香りを確かめ、目を上げる。枝をさしだし、僕にむかって声をはりあげた。

「ねえ、オトヤ。写真を撮って!」

「了解。ちょっと待ってて」

 僕は老人にカメラを手渡した。操作方法を簡単に教えて、自らはエイミに駆けよる。悪態をつかれながらも頬をよせて、ちゃっかりといっしょのフレームにおさまる。

 そうしてふと、僕はその場の思いつきをことばにしてみた。

「エイミ、有線回線を使う相手は、僕だけにしてくれる?」

 エイミはきょとんとした。それから、ぐぐっと眉根をよせる。

「いいけど、なぜ? あれ、便利なのに」

「……帰り道に話すよ」

 僕たちのやりとりを目にした老人が、むこうであきれたように笑っている。僕らの頭上でヤマザクラも、同調するように揺れていた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 綺麗な物語だと思いました。 機械的なSFの世界から、桜の風景が広がる自然の世界へと変わっていく様子、ソメイヨシノの謎の行方が興味深かったです。 文章が読みやすく、風景描写がしっかりしている…
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