十一番目の月
―――――十一番目の月から
満月を過ぎて―――――――
――――――立待月
…………眩しい…………
布団から出る事が億劫になる季節、香澄が司の温もりから離れるには気合いが必要だ。
………起きたくない…………ん……
香澄は、瞼の向こうの明るさで目が覚めた。隣からは、“ス――……グゥ―――…”と繰り返す司の小さな鼾が聴こえる。その寝息のようなイビキに安心し、瞼を上げる事を躊躇う。
……もう少しこのままでいたいな………
香澄は、光から逃げるように司の脇に顔をうずめた。“ス―――………ス――……―”と繰り返す心地良い響きが二度寝を誘う。
が、司の左腕が香澄の腰を撫で始め、意識を戻される。
…………え?…………起こした?!……
……っ…………ひゃん……
まだ頭が起きていない香澄は、声が出ない。司の触れる場所がくすぐったくて、モゾモゾ動きながら、司の顔を見ようと首を動かす。
……目……瞑ってる……
司は、目を閉じたまま、“ス――………ス――……―”と寝息をたてている。
…………可愛い…………
香澄は、寝ている司に、ちょっとだけイタズラをしようと手を伸ばした。
………これくらい…いいよね?……
「ス――――………………ック……ック…」
香澄は、司の鼻をつまんだり離したりしながら司の顔を見詰めていた。鼻をつままれれば呼吸が乱れる。司の寝息が途切れると手を離すが、また触れたくなり、それを繰り返す。起きて欲しいような、このまま寝顔を見ていたいような、そんな香澄だ。
が、その手は、突然司に振り払われた。“バシッ”と音がしたかのように。驚いた香澄は、一瞬固まり、身を縮めた。恐る恐る引っ込めた頭を出して司の顔を覗けば、目は閉じられたままだ。
“グゥ――…………ス――――……”と寝息は続いている。
………ふふっ……びっくりした……起きたのかと思った………
香澄は、名残惜しかったが、朝ご飯の下準備もまだなので、先に起き出しパジャマを羽織り、寝室を出た。
…………寒いっ…………
ブルッと震えながら、バスルームに向かう。シャワーを浴びながら昨日の夜を思い出せば、ニヤニヤと顔の筋肉が勝手に動く。
………幸せ…………感じちゃった……
…………今日は、お母さんの煮物とフライがあるし、お弁当作ってみようかな………
そんなフワフワした気分でシャワーを止めた時、“カタン”と硬い音がし、香澄は、音のする方に振り返る。
…………?!……わ………
「お前、起こせよな……」
全裸で寝ぼけ眼を擦りながら浴室の扉を開けた司は、まだ半分寝ているような顔で、少し不機嫌そうに呟いた。
……起きたら居ねぇし、一瞬ビビったぜ………
「……つかさ、爆睡してたし、……ふふっ…」
香澄は、ニコニコ笑っていた。寝ぼけた司が愛おしく見え幸せを感じたのは、きっと、昨日の夜のせいだろう。
司は、その笑顔にホッとしながら、香澄に近づく。
「……ん――じゃあ……」
…………?!……………
「…………キャッ……っ……」
「……キャッ……ちょっと…って……え?…」
香澄は腰に腕を回され、思わず身体をよじる。司は、更に香澄の腰を引き寄せ、目尻を下げて微笑みながら、キスのおねだり。そう、目を瞑り、唇を尖らせ、突き出していた。
「早くしろよっ…」
………この顔に……弱いんだよね……可愛いっ………
香澄は、無防備で子供のようなこの顔に弱い。香澄は、迷わず司の首に腕を回し、そっと唇を重ねてゆっくり離す。香澄が目を開けると、司は、にこっと満足そうに微笑んでいた。
………しあわせ…………
二人とも、幸せな朝だった。
先にバスルームを出た香澄は、朝食の準備を始めた。刻んだ具を炒め、卵を流し入れ、ご飯を加えてフライパンを振る。香ばしい香りがキッチンに漂い始めると、それに釣られるように着替えた司が顔を出した。
「朝はしっかり食わねーとな」
司は、香澄の作ったチャーハンを、美味しそうに頬張る。“朝からチャーハンって重いかな?”と思っていた香澄は、そんな司をキッチンからチラチラ見ながら、ホッとしていた。
司のお弁当用に卵焼きを作り、諒子の作った煮物はレンジで温め直す。フライはオーブントースターで温めた。レタスを間に挟んだり、煮物をアルミホイルで包んだりしながら、お弁当箱に詰めていく。
「お弁当出来たよ」
香澄は、詰めきれなかった煮物やフライ、バンダナで包んだ弁当箱をテーブルに置いた。
「ありがとうな。…弁当なんか久しぶりだ…………ハハッ…」
顔をくしゃくゃにしながら照れ笑いする司を見て、“またお弁当を作ろう”香澄はそう思った。
「お母さんに、作り方聞いて、がんばるね!」
香澄は、司のために出来る事が見付かった気がして嬉しくなった。
「無理すんなよ!大学忙しくなるんだろ?」
「うん」
そろそろ大学祭の季節。香澄の大学でも準備が始まっていた。司は、がんばり過ぎる香澄を心配しながらも、子供のようにお弁当にウキウキしていた。
「行ってらっしゃい」
香澄は、司の背中に微笑んだ。司は、ドアノブから手を離し、振り返り、香澄の唇に“チュッ”と口付けた。ほんのり頬を染め、目を閉じたまま幸せそうに微笑む香澄をじっと見つめていた。
香澄がゆっくり目を開けた時、司は、視線を逸らし、
「あぁ、……今日から、帰りが遅くなる」
今思い出したかのように言葉を落とした。
…………昨日、海堂から聞いた話、オジキに確認しねーとな…………
…………身辺整理もな…………
司の言葉に、香澄の顔色が変わる。
「うん。…ご飯は?」
…………仕事……忙しくなるのかな………
司は、香澄の寂しそうな顔を見て、心の中で喜びながら、
「あー、先に食ってろ。俺のは残しとけよ!」
ぶっきらぼうに言葉を投げた。
その言葉に、香澄は少しだけ安心し、にっこり笑って見せた。
………ご飯はうちで食べてくれるんだ………
そんな香澄に、司は、もう一度優しいキスを落とし、仕事に向かった。
司を見送った後、香澄は、いつものように洗濯や掃除を済ませ、大学に行く準備をした。諒子に御礼のメールを送り、作りすぎたチャーハンを自分のお弁当箱に詰め、海堂の車で大学へ向かった。
「昨日は、買い物、ありがとうございました」
香澄は、ルームミラー越しに海堂に頭を下げた。
「構いませんよ」
「お母さんに、宜しく伝えて下さい」
「はい」
海堂はいつもより口数が少なく、香澄は、自然に話しかけるのをやめていた。聞いてしまった途切れ途切れの会話が、脳裏を掠めた。
香澄は、大学の授業中も、司と海堂が昨日話していた会話を思い出していた。
………途切れ途切れで、全く分からなかったけど…………
………なんだか嫌な予感がする………
…………帰りが遅くなるって言ってたし…………
気になりながらも、香澄にはどうすることも出来ない。ぼんやりしていた香澄は、板書を半分消し始めた教授の姿に気づき、慌ててシャーペンを走らせた。
昼休みになり、香澄は、奈津美と学食に向かった。
「それで、その指輪?」
「うん」
「そっか、お母さんに紹介してもらったんだ?」
「うん……優しそうな人で、嬉しくて……」
香澄が司の母親に会ったこと、デートが出来たことを聞き、にっこり笑う香澄を見て、奈津美は安心した。
「で、好きって言えたの?」
…ッ…………
奈津美の言葉に、突然香澄は、リンゴのように真っ赤になり、目を泳がせた。俯いて顔を上げようとしない。奈津美は、そんな香澄を不思議そうに見つめていたが、
「言えたんだ」
確信したように言った後、穏やかに微笑んだ。
……あれは、言ったの?………
香澄は、昨晩ベッドで司に“言わされた”事を思い出していた。
………思い出すだけで恥ずかしい………
香澄は、今にも火が出そうな顔を両手で覆った。
「ちょっと香澄聞いてる?」
「ひゃ?」
「……ぶっ……ッハハハハ…ハハッ……香澄、大丈夫?!……」
「うん?伝わったとは、……思うよ?」
香澄の頭には司しかいない、そう悟った奈津美は、言おうかどうしようか迷っていた事に蓋をした。
………愁先輩の事は、もう割り切れたんだね………
「がんばったね!…………あ、学祭どうすんの?アンタ今年は出ないとヤバいよ?」
香澄の大学では、学祭の指揮をとるのは、三年生。香澄は、連休にバイトを休むと生活費に困るため、去年までは出れなかった。今年は司のおかげで、生活費の心配がなくなった。“楽しめるかも”、香澄はそう思っていた。
「今年は、出れるよ。奈津美と一緒にまわれる?」
嬉しそうに言う香澄を見て、奈津美は心配になっていた。
…………香澄は知らないからなぁ……学祭………………
「あたし実行委員だから、香澄も手伝って!」
「うん」
奈津美は、微笑みながらも、心の中で香澄を心配していた。
その頃司は……
「あれ、社長……弁当ですか……」
海堂は、いつものようにお昼を食べに出るものと思い、社長室に入って来た。
「悪いな……今日は、弁当だ…」
司は、ニヤける顔を引き締めようと必死に取り繕っていたが、隠し切れていない。海堂は、そんな司を見ながら、ホッとしていた。昨日の司とは別人だったのだから。
昨日、司の部屋で調査報告をした。急を要する事態ではないが、そのうち動きがある。司の悲痛な顔を思い出せば、海堂も複雑だ。
「では、私は、出ても…」
「あぁ……ゆっくり食ってこい!」
右手を挙げながら、上機嫌な司に見送られ、海堂はいつもの定食屋に向かった。
司は、早速結び目を解き、弁当を食べようとした。が、箸が見当たらない。
…………?!…………
………香澄のヤツ、どっか抜けてんな……
「ふっ……箸がねぇぜ?……ックククッ……」
司は、給湯室に割り箸を取りに行き、弁当を味わいながら、至福の昼休みを過ごした。
午後の仕事はハイペースに済ませ、叔父に電話をかける。ある人物の動向を叔父に尋ねれば、海堂の情報と一致した。司は、ひとまずホッとする。
…………しばらくは……問題なさそうだな…………
究極の選択を強いられる時期まで、まだ少し猶予があるらしい。司は、“その時”が来たらどうするか、迷い始めていた。
“トントン”
ノックする音が聴こえるまで気配に気付かなかった司は、苦笑いした。
「海堂です」
「入れ」
勤務時間も終わる頃、海堂が社長室に入って来た。海堂は、司に何か伝えに来たようだが、申し訳なさそうに司の顔色を伺っていた。
「なんだ?昨日の事か?」
………まだ、動きはねぇはずだろ?………
「いえ、その件は手を打ってあります」
「じゃあ、なんだ?」
………早く帰りてぇんだ!!俺は!!………
司は、これから“下條”の仕事を早々に済ませて帰るつもりだ。いつになく歯切れの悪い海堂を急かすように視線を送った。
「社長……すみません。レイカさんの件で……」
海堂は頭を下げた。
………は?……レイカ?……
司の顔が、一瞬強張った。レイカは、司の馴染みの女だった。
幼いころ、病弱だった母親を亡くし、父親は女を作って蒸発。親戚の世話になりながら、美容師になるために修行を積んでいた矢先、父親が方々に借金を作り、行方を眩ましたと知らされる。そこからは、夢を諦め、朝から晩まで働き返済するも、減らない元金。とうとう夜の世界へ踏み出した。
レイカは、勤めていたクラブで司と知り合った。司は、レイカの父親を探させたが、既にこの世にはいないことが分かり、以来数年の付き合いだ。
「一度は話がついたのですが、……」
海堂は、言い辛そうに目をウロウロさせていた。
…………あぁぁぁ――!!!!……じれってぇ!!ハッキリ言え!!………
「で!?」
司の様子から、これ以上渋っていては、“爆発する”と身の危険を感じた海堂は、腹を決めて話し始めた。
「社長に会うまでは納得しない、愛人で構わないと」
海堂は、内心ビクビクしていた。海堂は、司が、他の女達と違ってレイカとは長い付き合いだった事を知っていた。司にとってはカラダだけの関係ではあったが。海堂が察するに、司は、レイカに情が移っているのではと思っていた。
「おいおい、海堂、脅してでもケリ付けて来んのがテメーの仕事だろーが!あ"ぁ?!」
「はい」
「俺は、愛人はいらねぇ」
………お袋が泣いてるところ、見て来たからな………
司は、今までのオンナ関係を香澄に知られたくない。当然、これからも愛人など作る気もない。関係したオンナと偶然居合わせることのないよう、遠ざけるつもりだ。司の言葉を聞いて、海堂は、任務のため、使いたくない手を使うことにした。
「では、……」
「待て、…」
「……は?……」
司に言葉を遮られ、海堂は、驚きのあまり間抜けな声をあげた。
「レイカだろ?俺が行く」
「……いや、ですが、」
「テメー、さっきは俺にどうにかしろって言ったじゃねーか、あぁ?!」
「か…香澄さんが…気付かれたら……心配されないかと…」
…………!!…………
「んなこと分かってんだよ!!テメーまさか…………」
………香澄に惚れてんじゃねーだろうな………
「違います!」
司の形相に、心の声まで聞こえたのか、海堂は、必死に否定した。
「……今日、俺がケリ付ける。俺が蒔いた種だしな」
司は、きっぱり言い放った。今まで、日替わりのように女を抱いてきた。後腐れのない女を選んで。時々惚れられて面倒になり、手荒な手を使って遠ざけたこともあるが、痛くも痒くもなかった。
司は、香澄に出会い、ようやく失う辛さが想像出来るようになったらしい。レイカに手荒なマネをしたくない、そう思った。情が移るとは、このことだろうか。海堂は、司の変化に驚いていた。
その日、司は、レイカを説得に行くことにした。
………香澄には、気付かれねぇように、……どうにかしねぇとな……………
……アイツだけは…………失いたくねぇんだ………
勤務時間も終わり、社員を帰らせる。“下條”の仕事に取り掛かり、香澄の迎えは海堂に行かせ、仕事を片付けてからレイカの店に向かった。
香澄は、授業後に学祭の準備を手伝い、バイトに行き、買い物をして帰った。諒子にメールでレシピを送ってもらい、今日は、“レンコンのきんぴら”と“親子どんぶり”。香澄は、作りながら食べていたため、作り終わった頃には、既にお腹がいっぱいになっていた。
きんぴらは沢山作って、半分は保存容器に入れる。お弁当用のコロッケも作り、これも保存容器に入れて冷凍庫に入れる。
―――司は、お皿に盛られたものは残さず食べるから、よっぽど沢山作るか、先に取っておかないと、残らないわよ。
香澄は、諒子からのメールを読み、司の事を一つ知ることが出来た。
……学祭が終わるまでは、冷凍飯のローテーションで乗り切ろう……
香澄は、明日はカレーを作って……と、いろいろ考えながらアイロンをかけていた。日付が変わっても、司は帰って来ない。
不安になりながらも、お風呂を済ませ、司を待っていた。寒くなり、寝室から運んできた毛布にくるまりながら、ソファーでうとうとしていた。
司は、十一番目の月が沈む頃、海堂の運転でマンションに向かっていた。レイカと会い、話し合いをした帰りだ。その時の事を思い出して、胸を痛めていた。
――――――――『惚れた女と結婚した。愛人作る気はねぇ』
レイカは、司の口から出て来た言葉に、唖然としていたが、司の眼差しから本気が伝わり、静かに涙を流した。
『…………独りぼっちになっちゃった……っ……』
『困った事があったら、海堂に言え。俺が出来る事はしてやる』――――――――
「……あぁ…なんつーか、……胸がいてぇ……」
「社長、すみません」
「いや、……テメーのケツはテメーで拭けって言うだろ?…………ハハッ……」
司は、レイカの気持ちを考えると、なんとも言えない罪悪感にかられた。
………深入りしねぇように、惚れられねぇように、して来たんだけどな………
……レイカには、世話になった…………ごめんな…………いい男つかまえろよ?………
せめてもの罪滅ぼしに、司は、レイカの幸せを祈るしかなかった。
「海堂、レイカから連絡があったら知らせろよ」
「はい」
海堂は、複雑な思いを抱えていた。レイカがあっさり納得した事が、妙に気になっていた。念のため、レイカに見張りをつけた海堂だったが、胸騒ぎはおさまらなかった。
マンションに着き、司を降ろすと、海堂は再び“下條”の仕事に戻った。
司は、重い足取りで部屋の前に立ち、ドアを開ける。玄関には電気が点いているが香澄は寝ているだろうと思い、遠慮なくドアを閉めた。
“バタン”
…………ん?……………
香澄は、物音がして目を覚ました。
「……おか…えりなさい」
香澄は、リビングの入り口に佇む司をぼんやり見あげていた。
「起こしちまったな……ごめんな……つーか、風邪引くぞ!」
司は、香澄に触れたかったが、レイカの部屋の匂いが自分に付いていないか気になり、躊躇した。
……匂いはヤバいよな………
司は、香澄には近付かず、そのまま部屋に向かい、スーツを脱ぎ、バスルームに入って行った。
………おかず、あっためなきゃ…………
香澄は、なんとなく司の様子が気になったが、急いでご飯の準備を始めた。溶いた卵でとじて、親子丼は完成。きんぴらも温め直した。
司は、風呂から上がるとすぐに、ご飯を食べ始めた。
「……ふふっ…そんなに急がなくても……ふふっ…」
………こんな遅くまで仕事して、お腹も空くよね………
香澄は、司の食べっぷりを、微笑みながら見ていた。
「今日、大学はどうだったんだ?そろそろ学祭だろ?」
司は、空になった“どんぶり”を香澄に渡しながらいつものように大学の様子を尋ねる。香澄は、にっこり笑って立ち上がり、お代わりをよそおう。
「学祭の準備はしてるよ。奈津美は実行委員なの。私は、手伝いしてる。今年は参加できるから、楽しみなんだぁ」
香澄の嬉しそうな声を聞き、司は、部屋のカレンダーにある“大学祭”という文字と日付を見た。
………学祭って…いろんな男が来るんだろ?………
……愁もいるんだよな………
司は、なんとも言えない不安と苛立ちを隠せなかった。
………俺が出て行く訳にも行かねぇしな………
「良かったな」
「……あ…………、バイトは、前日から三日間だけ、休ませてもらう事にしたよ」
………マスターから聞いてるぜ…………帰りもおせーんだよな…………っ…………
「あぁ…。楽しめよ!」
…………ッ……格好つけちまったぜ………
司は、香澄の身辺に、不穏な動きがないか、見張らせることにした。香澄には、気付かれないように。
「ありがとう。司のおかげだよ!」
振り返って笑う香澄の無垢な笑顔を見ていると、自分の心まで浄化されるような気がする司だった。
………コイツといると………ホッとするんだよな…
………コイツだけは、失いたくねぇ………
司が食べ終わったのを見て、香澄は片付けを始めた。司は、ソファーでビールを飲んでいる。香澄は、洗い物をしながらふと思い出す。
「司?お弁当箱は?」
「あ……わりぃ……会社に忘れてきた……」
空き缶をゴミ箱に入れながら、司は申し訳なさそうに言う。
「明日持って帰ってね。学祭が終わったら、また作るね」
………しばらく、お弁当を作る時間がないんだよね……
「……ふっ……無理はすんな!うまかったぞ?たまごやき!」
司は、目尻を下げて微笑んでいた。香澄は、その言葉が嬉しくて、司に抱き付いた。
「ありがとう…」
………気付いてくれたんだ………
今回香澄が作ったのは、卵焼きだけだ。諒子の味と違う事は棚に上げ、今は優しい司に素直に甘えたかった。
「誘ってるだろ」
“ギュッ”と、香澄を抱き締めながら囁く司に、
「うん……」
香澄は、素直に頷いていた。
…………つかさ…大好きだよ…………
香澄は、心の中で呟いた。
その日から、司は毎晩、帰りが遅くなっていた。仕事と過去の清算に神経をすり減らしながらも、司は、毎晩香澄が手料理を作って待っていてくれる事に幸せを感じていた。
香澄は、毎晩遅い司を心配していた。話す時間は、ほとんどない。少しでも一緒にいたいと思い、起きて待っていた。気を紛らわすために、料理をしたり掃除をしたり、大学の課題に集中したり…。
“浮気”の二文字が、頭に浮かばなかったと言えば、嘘になる。だが、毎晩自分を抱いてくれる司を信じていた。