八番目の月
―――五番目の月から
上弦の月を過ぎて――
―――――――月は満ち
八番目の月―――――――
それから数日は、香澄にとっては穏やかな時が流れた。香澄は、マスターの言っていた“土日の事”が気になっていたが、司に尋ねる訳にもいかない。
最近、迎えに来るのは専ら海堂で、司は帰りが遅かった。香澄も、学校帰りにアパートの荷物をまとめたり片付けたりしていて、いつの間にやら金曜日になっていた。
「香澄、結局、好きって言ったの?」
「……そ…それは…」
……奈津美、そんな睨まなくても……
……口では何とでも言える……真実は本人にしか分からないものでしょ?……
「ちょっと、アンタ、言わなくても分かって欲しいなんて、思ってない?それは、別の意味で“甘え”てるから!!」
奈津美に言われて、香澄はズキンと胸に痛みを覚えた。“言わなくても分かってほしい”などとは、思っていない。だが、香澄は、自分の気持ちを口にする事が苦手だ。何故なのかは、香澄自身にも分からない。香澄の感情などないものとしてレールを敷き、その上を歩かせてきた母親の影響もあるかもしれない。
「手紙書いた事はある……」
香澄は、顔を真っ赤にしながらつぶやいた。奈津美はしばらく笑いを堪えていたが、我慢できずに吹き出した。
「…………ぶっ…ハハハ……香澄さぁ、中学生じゃないんだから!」
……言われると思った……
奈津美は、嬉しい時、体中で喜びを表せる。抱きついて“香澄大好き”と叫ぶこともあった。
……甘えるの上手いんだよね…………可愛いよ、奈津美は……
「……奈津美がうらやましい…………私、可愛くないよね……」
香澄は、視線を遠くにやりながら、ぼそっと呟いた。
「手紙でも、伝えようとはしたんだね。………ぶっ……ハハハッ……アンタ可愛いと思うよ?
司さんが良ければ、いいんじゃない?」
香澄の過去をいろいろと聞いてきた奈津美は、香澄が“好き”と言えない理由に見当があった。それだけに、がんばって気持ちを伝えようとする香澄が、可愛らしく思えた。“相手がヤクザでなければ”と思いながら、香澄に優しい笑みを向けていた。
「……司の事好きなのに……」
「………アタシに言えるんだから、がんばって言ってみな!」
……面と向かって“好き”なんて、私にとっては、“清水の舞台から飛び降りる”くらいの勇気がいるんだからっ…………っ…………
「う……ん…」
香澄は、頼りない返事をして、バイトに向かった。今日も海堂の車で。
その頃司は…
「社長、どこに行かれるんですか?」
コートを手にして出て行こうとする司の背中に声をかけたのは、ヒトシだ。まだ退社の時間ではない。珍しいと思い、何気なく声をかけたのだが……。
「あ?お前らまだ終わんねーのか?」
司の歪んだ眉を見たヒトシは、一瞬、声をかけたことを悔いた。司は、最近、前にも増して仕事に厳しくなった。表の仕事は、きっちり定時に終わらせ、早々に退社する。もたもたしていれば、拳が飛んで来てもおかしくない。
「ハ、ハイ……」
背筋が凍る思いで、返事をしたヒトシに向かって、司は、拳ではなくため息をつき、ドアを開けた。
「ったく、後三十分以内に終わらせろ!俺は、ちょっと出て来る」
………早くしねーと、店が閉まっちまうだろ?………
言い捨てるように言葉だけを落とし、出て行く司を見て、ヒトシはホッと胸をなでおろす。
司は、ジュエリーショップから“指輪が仕上がった”と連絡を受け、受け取りに行きたかった。指輪を、今日のうちに香澄に渡すつもりだ。
……悪い虫が寄って来ねーようにな………
閉店間際の店に着いた司は、出来上がった指輪を受け取り、紙袋に入ったそれを後座席に乗せ、会社に戻ろうとした。が、突然携帯が鳴り出す。画面には海堂の携帯番号が表示されていた。
「なんだ?…………は?…………あぁ……明日からいねーからな…………分かった…………あぁ……」
携帯を閉じると、司は、マンションに向かって車を走らせた。司が今朝忘れてきた書類と香澄の印鑑が至急必要になり、海堂が慌てて電話をしてきたのだ。
マンションに着き、机上に置かれた書類を封筒に入れ、香澄の部屋に入る。
香澄の荷物は、この数日で少しずつアパートから運んでいた。大学の授業が終わってからバイトまでの時間、香澄はアパートに寄り、荷物をまとめ、ダンボールに“運ぶ”と書いておく。それを、司が社員を使って運ばせていた。香澄は、その日のうちに、荷物を段ボールから出し、片付けもきちんとやっていた。
いつものように片付いている部屋なのだが、ふと机の横に目をやると、潰した段ボールが束ねられている傍らに、封が開いたまま片付けていない段ボールが一つだけあった。
……あ"?何だ?あの箱……
司は、何故か、吸い寄せられるように、その箱に近付いた。
そして――――
「…………っ…………」
司は、頭を鈍器で殴られたような、胸に刃物が突き刺さったような、そんな痛みを感じていた……。
………見るんじゃなかったな………
“ガンッ”と、物凄い音とともに部屋が揺れた。司は、メラメラと燃え盛る炎に包まれたような心の中をどうする事も出来ず、壁に当たるしかなかった。
―――愁先輩へ
今日、渡り廊下で、目が合ったよね。話ができなくて、寂しかった―――
――愁先輩、勉強がんばってね。落書き、嬉しかったよ。私も同じ気持ちだよ。――
――愁先輩とバス停まで一緒に帰りたかった。声、忘れそうだよ(泣)携帯が欲しいな―――
―――愁先輩、シャーペンありがとう。すごく嬉しい。大事にするね。ずっと応援してるからね―――
………あぁぁぁ―――!!!!………愁、愁って、うっせーんだよ!クソッ!!……………
“ガンッ”
今度は、床を殴りつける。
司は、ダンボールの中に何十冊ものノートを見付けて、つい、開いてしまったのだ。
―――香澄ちゃん、俺も気付いたよ。渡り廊下。化学室の机、落書き見た?あれ、俺だから。卒業しても、手紙書くからね。好きだよ。―――
――香澄ちゃん、第二ボタンは、香澄ちゃんに貰って欲しい―――
見ていられなくなった司は、ノートを元あったように段ボールにしまった。そして、香澄の机の引き出しから印鑑を取り出し、マンションを出た。
車に乗り込み、結婚指輪の入った紙袋に視線を向けた司は、歯を食いしばり、ただ、会社に向かって車を走らせた。
……“プラトニック”とか言うヤツだよな……
……何が“第二ボタン”だ!!……
司は無性にイライラしていた。司の高校時代は、男子校で喧嘩三昧。女は沢山いたが、あくまで“遊び”だ。カラダの関係以外に女との付き合いはない。
……カラダは手に入っても、ココロん中は、分かんねーってことか……
司は、高校時代、香澄に彼氏がいたのは知っていた。ノートを見るまでは、“彼氏”と言う言葉だけだったが、歯の浮くようなラブレターのやりとりを見てしまえば、心中穏やかでいられるはずはない。
………見ちまったもんは、見なかったことに出来ねぇ……
……ノートを燃やしても、香澄の心の中は、消せない……
……俺は、香澄の親と同じ事をしちまった……
香澄の親は、ノート、日記、手紙に至るまで、香澄が学校に行っている間にチェックしていたようだ。香澄がそれに気づいたのは、高校に入る前頃だったらしい。“やめて”と言っても、“親なんだから当たり前!疚しいことでもあるの?!”と逆切れされたらしい。あのドア事件以来、香澄は時々母親の事を話してくるようになった。司は、それを頷きながら聞いていた。
……ぜってー言えねぇ……
…………墓場まで………
司は、ノートを見てしまった自分を悔いた。そして、怒り狂いそうな自分を抑える事に必死だった―――――
………なんなんだ?この沸騰しそうな俺は………
………そこら中破壊してーくれぇ腹が立つっ!!!!………………
………あ"あぁぁぁぁ―――――!!!!!………………っ……
“ブッブーッ…ブーッ”
そこにクラクションの長い音が鳴り響いた。
…………なんだぁ"?クラクションなんか鳴らしやがって!!!!…………っ……
司は、信号が青になっている事に気付かなかった。短い音ではなく、長押しされたそのクラクションの音が、司に火をつけた。
司は、車を降り、“ガンッ”と怒りを投影するような音を立ててドアを閉める。そして、ゆっくりと後ろの車に近付いた。
クラクションを鳴らした運転手は、向かって来る司の形相に、息をのんだ――――
司が通勤や香澄の送迎に使っている車は、どこにでも走っていそうな国産車だ。まさか、クラクションを鳴らしただけで降りてくるとは思わなかったのだ。
震える手でドアをロックしようにも、指が動かない………。
「…………ヒィ……ッ……」
“コンコン”
司は、車の横に寄りかかったまま、運転席の窓を軽くノックする。
「…………ヒッ………………」
歩いてくる姿を瞳に映しながら、運転手は生命の危機を感じ取っていた。手が震えて、パワーウィンドウのスイッチすら、押せない……。
反応がないため、司は、遠慮なくドアを開けた。
“ガチャ”と鳴った音が、処刑場への扉が開かれた音に聴こえた運転手。
「…………ヒヒイッ……す……すみ……ません…」
「あぁ"?!」
司の歪んだ顔、ねじれた眉、ドスのきいた怒鳴り声に、運転席のサラリーマンは、ビビって震え上がる。
「……あ……すみみ…ませんっ……ぃいぃそぃいでたもので……っ…」
「あぁ"?!そりゃあ悪かったなぁあ!!!!ご丁寧に、クラクションまで鳴らしてくれたんだよな、ぁあ"?!」
「……ヒヒッ…ハ…ハイ。すみ…ません……っ……」
運転手の震えは止まらない。歯がカタカタと音を立て始めた。
そこにいるのは、昔の司だった。
「誰だか分かって、鳴らしてんだろうなぁ…………」
低いドスのきいた声音が響く。
司に顔を近付けられ、凄まじい眼力で、じっと睨まれたまま浴びせられた声に、運転手は、血の気が引いた―――
「…………ヒッ…………」
「………ししりりません……ゅゆる……ゅゅるしして……くださいぃ………っ…」
「はあぁ"!?」
「…………ヒィッ…………」
運転手は息をするのも苦しい。必死に声を絞り出す。
「……ぞ…ぞぞん………………じぁあぁげ…………ぁあげ……ません……」
敬語でないから怒っているわけではない事くらい運転手にも分かる。が、どうやって生命の危機を回避すればよいのか、思考回路すら回らない。
司は、カタカタ震える運転手を怒鳴りつけながらも、香澄の事が頭を離れなかった。
……何やってんだ俺……
……香澄にだって、過去に恋の一つくれぇあって当然だろ?………
だが、香澄の過去に寛容になろうとするも、追いつかず、イライラはおさまらない。
『出て来いゴラァ!!』
昔の自分を思い出し、この後、どうオトシマエをつけさせるか考える。
……昔の俺なら…コイツを引きずりおろして…
……コイツの車も…コイツもボコボコだ………
……土下座されても許すわけねぇ…それが俺だった……
……命乞いをする相手にさえ容赦しなかった……
ふと、司の脳裏に、香澄が過ぎる―――
……肌をピンク色に染めて、俺に応えようと必死にくっついてくる香澄……
………あの可愛い声……
……嫌われたくねぇ――――!!!!……
……香澄だけは、失いたくねぇ……
……この怒りを、どうしろってんだ!!!!!……
………あ"ぁぁぁぁ―――!!!!……っ…………クソッ……
………おちつけ……俺………
司は、一つ息を吐いた……。こんな街中で派手に暴れれば、どうなるかくらい分かっている。
……傷害罪か……
「…………ヒィッ……………」
司は、運転手を睨み付けたまま、ありったけの怒りを言葉に込めた。
「おい!テメェ“警笛の乱用”って知らねーのか!!!」
「……ケッ…ケーテキ…ノ……ランヨウ……?…」
カタコトの日本語を話す外国人のような運転手の声を聞きながら、司は必死に怒りをこらえた。顔は更に歪んだが。
「………ヒェッ……し…ししってます……」
恐怖に怯えながらも、運転手は、身を守るために必死に答えた。
「なら話は、はえーな!!!」
………警笛の乱用って教習所で聞いたような……
「……………ッ……」
運転手が、“警笛の乱用”とは何だったかを考えている時、予想外の言葉が飛んできた。
「ケーサツ行くか?」
「えっ……」
……警察?……
挑発するような低い声音で問いかけ、頭が追いついていかない様子の運転手に、司は、追い討ちをかけるように言葉を繋いだ。
「組の事務所の方がいいか?それとも…」
「ケケケケーサツ行きます、…………ケーサツに…ケーサツに……」
「クククッ」
司は、泣きそうになりながら慌てて叫ぶ運転手を横目に、大きく息を吸い込み、口を開いた。
「むやみにクラクション鳴らすんじゃねー!!二度とツラ見せんじゃねーぞ!!!!!」
「……ヒッ…」
血走った眼に睨みつけられ、運転手は真っ青だ。
「わかったかっ!!!!ぁ"あ!?」
「……ハッ……ヒッ……」
目を丸くする運転手をよそに、司はドアを閉めて、自分の車に戻った。“俺も丸くなったな”と苦笑いをして。
次第に増える野次馬を無視して、早々に車を出す。ルームミラーを覗いても、後続車はいない。運転手は震えが止まらず、ハンドルすら握れないようだ。
司は、会社とは反対方向に行き先を替え、車を走らせた。
「……頭冷やさねぇとな……」
香澄のバイトも上がる時間が近付いていた。
外はもうすっかり暗く、空には八番目の月が出ていた。
「これ運んだら、上がっていいよ」
マスターに言われて、香澄は、窓際のサラリーマンらしきお客さんにエスプレッソを運んだ。伝票を置いて下がろうとした時、店のドアベルが激しく鳴り、客が入って来た。
「いらっしゃいま……?…海堂さん?」
「あ、香澄さん、社長来てませんかっ」
…………え…………
ずいぶん慌てている海堂を見て、香澄に不安が過ぎる。
「まだ、ですけど…………司、どうかしたんですか?」
香澄は、こんなに血相の色を変えている海堂を見たのは初めてだ。嫌な予感がした香澄は、すぐに控え室に戻り、携帯を開いた。
「メールも、着信もない……」
香澄は、司の携帯に電話をしてみたが、留守番に転送された。“ドクン”と心臓に痛みが走った。急いで着替えて控え室のドアを開けると、ドアから少し離れた場所で、海堂はどこかに電話をしているようだった。
「何だとゴラァ!!!見失ったじゃ済まねえだろがぁあ"?!」
「………………っ…………」
“バタン”
香澄は、冷静で礼儀正しい海堂の変わりように、思わず開けたドアをそのまま閉めた。
……今のは誰?……
“ドクン”とまた、胸に大きな痛みが走る。
……海堂さん…だよね?!……って……何者?!………
“ドクン”と心臓が波打つたびに胸が苦しくなる。
…………司に何かあったの?…………
香澄は、微かに聴こえる海堂の怒鳴り声に、聞き耳を立てた。
「ミツカリマセンじゃすまねーだろうが!……あぁ"?!…………」
……司を捜してるの?……
“ドクン”とまた胸に痛みが走り、香澄は、締め付けられるような苦しさを感じた。海堂はまだ何か怒鳴っていたが、香澄の耳には入らなくなった。
……司が……いなくなったの?……
海堂は、司の携帯に電源が入っていないため、とにかく司の車を探させた。大声で怒鳴りながらも、入って来た情報から冷静に考え推測する。そう、司が突然消えたのは、一度や二度ではない。
香澄は、“ドクン”と心臓が波打つたびに苦しさが増した。何か危ないことにでも巻き込まれたのではと思うと、生きた心地もしない。
そんな時、“バタン”と硬い音と共にドアが開いた。
「…………っ…………」
「香澄さん、行きましょう」
……どこに?……でしょうか?………
そこには、いつもの礼儀正しい海堂がいた。先程とは別人…いや、先程が別人?香澄は海堂の豹変ぶりに戸惑っていた。
………二重人格?!……顔まで違う気がするのは気のせい?………………
「社長の所に案内致します」
「は……い……」
スタスタ歩く海堂の背中を追いながら、香澄は、司がただただ心配だった。
……居場所、分かったのかな………
「どうぞ。飛ばしますから、シートベルトは忘れないよう、お願いします」
「はい……司に何かあったんですか?」
香澄の問いに、海堂は、困った顔をしていた。
「……香澄さんが聞いて下さい。私にも解りかねます」
「……?……」
重要な書類と一緒に消えれば、騒ぎになることくらい司も分かっているはずだ。それで連絡もなく携帯の電源を切っているのだ。海堂は、向かっている場所に司がいなければ、最悪の事態だと覚悟をした。
今“下條”には、表立った抗争も内乱もない。が、司は、危ない橋を渡っていた。一生結婚などしないと覚悟をし、極道の世界に身を投じたのは、もう二十年以上も前の“幸司の死”、その真相を追いかけるためだと言っても過言ではない。それを知っているのは、海堂のみ、のはずだ。
乗車は郊外を抜け、窓の外は、真っ暗なはずの海。だが、月明かりに照らされて、水面が見えていた。
黙ったままの海堂に少し怯えながらも、香澄は、司に早く会いたかった。
「やっぱり…」
「え?」
車は停車し、海堂が振り返った。
「社長の車、見付けました。ちょっと失礼致します。ここにいて下さい」
海堂は、香澄にそう告げると、電話を耳に当てて外に出た。
香澄は、後座席から身を乗り出して、フロントガラスの向こうにある司の車を見た。
………ふぅ………
ホッと一息ついた香澄は、司がどうしてこんなところにいるのか気になりあれこれ考えた。が、全く見当もつかない。香澄の空想は“ガチャ”とドアの開く音に遮られた。
「香澄さん、行きましょう」
先程までの緊迫した雰囲気は消えて、表情が心なしか穏やかになった海堂が、車外に出るよう促していた。
海堂について歩いていくと、浜辺に流れ着いた流木、その上に座っている、司が見えてきた。
…………わ……………
海堂が、急に足を止め振り返ると、驚いて目を丸くした香澄の顔が目に入る。表情を変えないまま、海堂は香澄に向かって言葉を放つ。
「私はここにおります」
「え……?」
「社長は、独りで考えたい時、ここに来るんですよ。ここは、会社や組の連中も、知りません。香澄さん、行って下さい」
海堂に背中を押され、香澄は、司に向かって歩き出す。司の背中がやけに小さく感じ、気がつけば砂に足をとられながらも夢中で走っていた。
「…………っ…………」
“とくん”とまた胸が痛む。
………司、何があったの?…………
香澄は、すぐ傍にいるのに振り返ってもくれない儚げな司の背中を見て、思わず後ろからその背中を“ぎゅっ”と抱きしめた――
……この匂いは香澄か………
司は、誰かが走り寄ってきたことには気づいていたが、香澄だとは思わなかった。“ぎゅーっ”と抱きついてきた香澄の荒い息を聞き、ずいぶんと長い時間がたってしまったことに気づいた。
……バイト……終わったんだな……
香澄は、反応のない司の首に腕を回して、ぴったりと身体を寄せた。
「……つかさ……?……」
耳元に届く、愛しい人の優しい声に、司は閉じていた目を開けた。
“ザザーン”と波が押し寄せ、司は現実に引き戻される。香澄の手を握り、正面を向いたまま言葉を発した。
「手ぇ冷てぇな……。海堂は帰ったのか?」
………海堂さん?……………
「……、近くにいるよ?」
香澄は、いつもと違う司に戸惑いながら答える。冷たい風に吹かれていたからか、司の頬は強張っていた。
司は、香澄の顔を見ることもせず、無言のまま香澄の手を握りしめて立ち上がった。
寄せては引いていく波の音が、哀しげに響いていた。
司は、香澄の手を引きながら海堂に近付き、ポーンと車のキーを投げながら、言葉を落とした。
「書類入れた封筒は、車ん中だ。悪かったな」
香澄には、司の声音がいつもと違って抑揚も表情もないように聴こえた。キレイな放物線を描きながら、キーは海堂の手に収まり、海堂は、
「いえ」
と、一言だけ残して背中を向けた。
海堂の後ろ姿を見送りながら、司は香澄の手を更に強く握った。その手を握り返しながら、香澄は司を見上げた。
「心配したんだよ?」
「そうか……」
司は力なく呟き、もと来た道を歩く。歩きにくい砂浜を、香澄は、司に手を引かれながら歩いた。
寄せては引いていく波の音、冷たい風、潮の香りが、月明かりだけを頼りに歩く二人を包む。
………わ…………っ……
司は、流木に座り、香澄を自分の膝に乗せる。驚く香澄に、優しく囁く。
「服が、汚れるだろ?」
司の優しい声を耳元で聞き、香澄は、にっこり笑って、司の首に腕を回した。
「ありがとう」
………冷たい……司、いつから、ここにいるの?……
首筋の冷たさが、頬の強張りが、どれだけの時間冷たい空気に晒されていたかを物語っていた。満ち潮なのか、波は勢いよく押し寄せる。“ザザーン……サラサラサラサラ”と、心地いい波の音が繰り返す中、月の光に照らされて、司の表情も見ることができた。
……司、何があったの?……
「司、風邪引くよ?」
「……大丈夫だ。香澄、寒いか??」
「大丈夫」
……本当はちょっと寒いけど……
香澄は、波の音に耳を澄ませた。水しぶきを上げながらこちらに向かってくる波は、強くもあり優しくもある。
「俺、時間忘れてたな。ハハ………迎えに行けなくて悪かったな」
……コイツ、俺の消火器みてぇなヤツだな………
司は、あれこれ聞いてこない香澄を不思議に思いながらも、波の音に耳を澄ませた。
「ううん……司が無事で良かった」
………みんな、捜してたみたいだよ?……海堂さんなんて、青い顔してた………
「悪い」
司の儚げな声は、“ザザーン……サラサラ”と繰り返す波の音に混じって消えた。
………つかさ?………
香澄は、司の力のない声に、不安を覚えた。心配になり、言葉をかけようとするが、言葉が見つからない。司の膝の上で、耳を澄ませていた。見えない司の心に耳を傾けていたのかもしれない。
大きな波が寄せては引いていった時、司はぼそりと呟く。
「海堂が戻ってきたな」
「え?」
……私には…足音なんて聴こえないのに……なんで?……
香澄が首を後ろに向けると、こちらに向かって来る海堂が見える。海堂は、司にキーを渡し、無言のまま去って行った。
その後も、しばらく波の音を聴きながら、二人とも黙っていた。
“ザザーン……サラサラサラサラ”
心を落ち着かせる波の音。香澄は耳を澄ませ、その音を聴いていた。司は、出口のない迷路の中にいた。
「香澄………俺の事、………すきか……」
「え?」
………突然…な…に?……
突然の司の問いかけに、香澄は戸惑った。
………好きだよ………
………大好きだよ………
黙っている香澄の心の声は、届くはずもない。司は、次の言葉を探していた。
……香澄が恥ずかしくて言えねーのは、分かってんだ、手紙なら言えるんだよな……
……でも、その口から、…お前の声で……聞きてぇんだ………
……お前の気持ち………
司は、香澄の胸に頬をうずめ、
「後悔してねーか?」
呟くように言葉を落とす。
少しかすれたその声に、香澄は、胸の奥が痛んだ。
………言わなきゃ!………
が、出かかった“すき”という言葉は、喉に引っかかったまま、出てきてはくれなかった……。
聴こえてくるのは、押し寄せる波の音だけ。
………すき………
……どうして言えないんだろう……
香澄は、司を胸に抱いたまま、
「後悔なんて、してないよっ」
精一杯、吐き出すように言った。
……すきって、どうして言えないんだろ………
香澄は自分がイヤになりそうだった。香澄は、司のこんな儚げな姿を見たのは初めてだった。
「……そうか。ま、後悔させねーけどな。……………ふっ…寒いだろ、帰るぞ」
少し、いつもの司に戻った気がして、香澄はホッとした。
「うん」
香澄がにっこり笑って司を見ると、司は、真剣な眼差しで香澄を見つめていた。
……な……に……?……
波の音だけが聴こえる空間の中、だんだん司の顔が近付いてくる……。
香澄は自然に目を閉じた…………
“コツン”と音がして、香澄は、予想外の感触に驚く。
………おでこ?…………
おでことおでこが、ぶつかった感触だ。てっきり甘い感触を期待していた香澄は、拍子抜けし、思わず目を見開いた。
…………っ…………
……………!……………
「…キス……されると思ったか?」
ニヤッと笑う司の瞳に捕らえられ、香澄の顔は、“ボッ”と火がついたように一瞬にして真っ赤に染まる。“ボボボッ”と炎が燃え盛るように熱く赤く、香澄の顔は熱をもつ。鼻がくっつきそうな距離からの色っぽい囁きに、ゾクッとして、目を伏せた。
……はい…そうです…ちょっとガッカリ……なんて言えるわけないし………
香澄の顔は熱く、今にも湯気が出そうだ。
……つかさの意地悪………
…………っ…………
「“キスして”って言えよ」
司は、まるでリンゴのように真っ赤になって俯く香澄に、追い討ちをかけるように言葉を繋ぐ。
「…………っ…………」
香澄は、胸をキューっと締め付けられるような、体中の血液が逆流しているのではと思うほどの熱っぽさを感じながら、息を整えようと必死だ。“ドクン”と波打つ心臓は、他人のモノのように感じる。
司の色っぽい声に、誘われて、声を出そうと試みるが、なかなか喉から先には出てこない。
「……っ……」
“ドクン”と胸を打つ音が大きくて、寄せては引く波の音は耳に入らなくなっていた。
香澄は精一杯の勇気を振り絞って、息を吐いた――
「…………してっ…」
司は、一瞬“ふっ”と笑って、香澄に顔を近付けた。
………俺……本当は………
見てしまったノート、気になる過去の恋愛、出会った時の自分の気持ち、いろんな事が司の頭の中を駆け巡ったが、何も言えぬまま、自然に目を閉じている香澄に唇を寄せた。
香澄は、目を閉じたまま司のキスを待った。が、触れた感触に再び惑う。
……………っ……え…………
………?!………
てっきり唇に落ちてくると思っていたキスは、おでこにそっと触れただけだったのだ。
………唇がよかったな………
香澄は、“司と唇を重ねたい”そんな気持ちになっていた。が、“女から求めるなんてハシタナイ”と幼い頃から言い聞かされてきた香澄は、自分の感情を心の底に押しやった。
………っ……私、…なに考えてんのよ!…ハシタナイ………
そして、香澄は、ゆっくり目を開けた。
……………?……………
そこには、どこか哀しげな司の顔があった。
………つかさ?…何があったの?……
“ザザーン……サラサラサラサラ”と繰り返す波の音さえ切なく聴こえた。
………わたし……何かしたのかな……
あれこれ考えたところで、心の中までは覗けない。それが分かっていても、司の気持ちを知りたいと思った。だが、聞けない。すべてを知り尽くしていないと気がすまない母親を疎ましく思ってきたからだろうか。
……わからない……
………わからないよっ………っ……
ざわざわした気持ちは、押しては引く波。“ザザ―ン……サラサラサラサラ”と繰り返す波のようだ。
「お前、……俺のもん……だよな……」
つぶやく司に、香澄は、精一杯の言葉を投げた。
「……うん……司しかいないよっ……」
………伝わった?………
水しぶきを上げながら押し寄せる波に急かされるように、司は、“ギュッ”と香澄を抱き締めた。そして、ノートを見た自分を、改めて悔いた。
………白状して懺悔するか………
………墓場まで俺の胸に留めておくか……
香澄が、頬を膨らませながら言っていた言葉が胸に突き刺さる。
『親だからって、して良い事と悪い事がある』
“親”を“旦那”に置き換えれば、そのまま自分に向かう言葉になるだろう。ここに来てから散々悩んだ司だが、結局、結論が出せないままだ。
……これ以上、ここにいたら、風邪ひかせちまうな……
司は、香澄を立ち上がらせ、自分のコートのボタンを外し、香澄を後ろから包み込むようにコートの中に抱いた。
「寒くなったんだろ」
「うん?……少し……でも、あったかい……」
香澄は、胸の前で交差した司の腕を、ぎゅっと掴んだ。
…………つかさ………
……司の苦しみ………………分けてくれないの?…………
……私じゃ……頼りないかな………
…………知りたい………
…………けど………
香澄の心の声は、波の音に呑み込まれていく―――
「そろそろ帰るか」
「うん。また連れてきて?」
「……?……」
「司の秘密の場所なんでしょ?」
「……お前……何で……」
………俺、言ってねーぞ?……海堂か?………
「今の司が、本当の司なんでしょ?」
ぐいぐい引っ張ってくれる強引な司も好きだが、人は誰でも弱い部分がある。香澄は、そんな司も、愛おしく思えた。
「……かすみ…お前、歳ごまかしてるだろ 。やっぱり二十八とか……」
「は?……そんなわけないし、二十歳だよ?まだ」
香澄はムキになって、首を後ろに向けながら、司を見上げた。
「クククッ…………そういうところは、二十歳だな…………ッククッ…」
司の笑い顔が、ほんの少し寂しそうに見えた香澄は、司に何かあったと悟る。
………やっぱり…………
……何かあったんだね…
………仕事?………
……わたしのせい?…
………司が、こんな顔してると、私も辛いよ………
…………でも……聞けない……
香澄は、海に視線を戻しながら、言葉を落とした。
「司が話してくれるまで、待つ」
「………………」
………コイツ……………
……追及しねぇのか………?………
………根掘り葉掘り聞いて来られるのも、うぜぇけど………………………………あっさりしてんなぁ………………………
………俺、七つも歳下のコイツに………
…………ははっ…………
司は心の中で苦笑した。お互いどんな顔をしているのか、分からない。ただ海を見ていた。
司は腕に力を込め、不甲斐無い自分にカツを入れる。
香澄は、母性だろうか、“守ってもらうばかりじゃなく、守ってあげたい”“何か出来ることがあればしたい”そんな気持ちの中にいた。
……この人を守りたい…………
……して欲しいことを、してあげたい。だから、言ってくれるまでは、聞かないでおこう……
………どんな司でも、……ついて行くよ………
そんな香澄の心の声は、口に出来ないまま波の音にかき消される……。二人とも、黙ったまま、水面に映る、八番目の月を見ていた。
波の音を聴きながら―――――
寄り添いながら浜辺に背を向けて歩く二人。
月は、そんな二人を見守っているかのように、微笑んでいた――
「…………クシュン……」
「……クックククッ……寒かったんだろ、暖房きくまで、これ膝にかけとけ」
司は、後座席から自分のコートをとり、香澄に渡す。
「ありがとう」
ニコッと笑う香澄を見れば、司も自然と笑みがこぼれる。
…やっぱり消火器だな……
海辺を後にし、車はマンションへ向かっていた。
「司の匂いがする……」
香澄は、司のコートを抱きしめながら呟いた。
「そーゆーこと言ってっと、襲うぞっ」
「…………っ…………」
司の左腕は、香澄の肩を抱き寄せ、手は何故か?やっぱり?胸を触っている。
「もぅ!事故らないでよっ!」
香澄は、司の左手を握りしめ、動きを封じた。
「……クックッ…………お前、真っ赤……ックックク……」
真っ赤になりながらも、香澄は、司の手を握ったままだった。何故か、ずっと握っていたかった。離してはいけない気がしていた。
司は、香澄に手を掴まれたまま、片手でハンドルを切っていた。
「あ、……ご飯作ってないよ?」
香澄は、急に思い出したように、司の方に顔を向ける。
「食って帰るか……?……作ってくれんのか?」
「冷蔵庫……今日買い物するつもりだったから、…………たいした物は作れないけど……」
香澄は、完璧主義なところがある。実家では、完璧でないと許されなかったからなのだが。心配そうに考え込んでしまった。
司は、黙り込む香澄を見て、一旦車を止めようかと思った。繁華街へ向かうなら、そろそろ分岐点だ。司が聞いているのは、“面倒なのかどうか”であり、何を食べるかではない。が、香澄が気にしているのは、“メニュー”らしい。
「お前が面倒くせぇんなら、食って帰るか」
「え?」
………面倒なんて、旦那様にご飯を作るのは、当たり前でしょ?………
香澄は、実家の父親とまったく違う司の発言に目を丸くする。そう、香澄の実家では、“外食するとお金がかかるから”と、外で食べることはなかった。外で食べた記憶は、冠婚葬祭ぐらいだろう。
「面倒じゃねぇなら、作ってくれ。何でも食うぜ」
……俺のために、作れ……
…俺の事だけ、考えろ…
司は、香澄に愛されている自信が欲しかった。カラダを重ねる時間だけでなく。司は、分岐点になる交差点を、そのまま直進した。
「うん。ベーコンと卵があるし、……………………タマネギもあるし………………生クリームはないけど、…………………………牛乳があるから……なんとかなるかなっ……」
香澄は、ぶつぶつ言いながら、頭の中は既に料理のシュミレーション中だ。“面倒だから”という理由で外食をすれば、自分で自分を咎めたくなる。司が“作れ”と言ってくれて、ホッとしていた。だが、問題は、メニューだ。もう冷凍飯はない。
香澄は、毎日何品も作るのが大変なので、多めに作って冷凍しておこうと思っていた。ところが、何故か、その日のうちに司が全部食べてしまい、冷凍庫は空に近い。
……うまく作れるかな………
香澄が思い描いているのは、マスターの奥さんに教えてもらった“カルボナーラ”。
………卵……固まらないようにしなきゃ………
香澄は、料理の事で頭がいっぱいだった。司は、そんな香澄を愛おしそうに見ていた。
司は、香澄の気持ちを疑っているわけではなかった。無邪気な香澄の笑顔に、救われていた。ただ、相手の気持ちは、目には見えない。
………知りたい………
…………俺は、……お前の全部が知りたくてしかたねぇ……………
ほどなくして、車はマンションに着く。
「着いたね。司、お腹すいたでしょ?」
………コイツ晩飯の事しか頭にねぇな……ふっ………
にっこり笑う香澄を見ながら、司は、後座席に置いてある紙袋を、内心気にしていた。
「先に行っててくれるか?」
「……うん……?」
………どうして?……
急に不安そうな顔になった香澄を見て、司の頬は緩む。
「……ふっ……なんだ?抱っこして連れてって欲しいのか?」
司は、意地悪な笑みを浮かべている。
「……っ…………そんなんじゃないからっ……」
慌てて、手を目の前で振る香澄に、さらに追い討ちをかける。
「“おかえりなさ~い…………んチュッ”ってして欲しいんだけど?」
「…な……っ…」
司は、ますます慌てる香澄を、愛おしそうに見つめながら、優しい笑みを浮かべて、運転席のドアを開けた。
「すぐ行くから、心配すんな」
香澄も、助手席から降り、司に見送られるようにエントランスに向かった。
司は、後座席に目をやりながら考える。
………指輪って、どうやって渡したら、女は喜ぶんだ?………
…………前にダイヤの指輪を渡した時、……あれが俺の精一杯の演出だ…………
司は、独りで耳を赤くしながら、柄にもない事を考えていた。
………俺ら、……順番も滅茶苦茶だったしな………
………つーか、アイツの好みって、どんな男なんだ?………
………愁なのか?………
……俺、あんな歯が浮くような事……毎日言えるかよ!!…日記だろうとなっ!!!……
司は、あのノートを見てから、ずっと考えていた。強引に奪った香澄の貞操、婚姻届。そして、香澄の気持ち。
カラダは間違いなく自分が奪った。が、心は見えない。香澄の気持ちがどこに向いているのか、口では“好き”と言っていても本当のところは分からないのだ。
香澄は、独りでエレベーターに乗り、部屋に帰ってエアコンをつけた。
……夜はもう寒いな………
自分の部屋に入り、コートをしまってキッチンに向かった。冷蔵庫を開けて、材料を確かめながらも、頭の中は、司が帰ってきた時の事……。
『おかえりなさい…………んチュッってして欲しいんだけど?』
司の言葉が、何度もこだましていた。
……奈津美~助けて~………
……わたしは…奈津美みたいに、可愛くできないよ…………
香澄は、鍋を火にかけて、タマネギの皮をむきながら、いつもと違う司の様子を、思い出していた。
そこに、“ピンポーン”と鳴り響いたインターホン。香澄のカラダが飛び跳ねた。
…………わ……わわわわ……
慌てている香澄のもとに、“ピーンポーン”と先ほどよりゆっくりした音が響いた。
………はい…ただいま………まいります………
香澄は、急いで手を洗って拭き、玄関に向かった。
“がんばれ、わたし”と自分に言い聞かせながら、ドアを開ける。
.
そして、中に入って来た司の目をしっかり捉えた。
「おっ……………………おかえりなさいっ…………」
“ドンッ”
精一杯、司に体当たり……
………ふっ……香澄にしては……
……がんばったな…………………
司は、飛びついてきた香澄をぎゅっと抱きしめ、愛おしそうに頭を撫でた。
「ただいま」
………“おかえり”…言われりゃ嬉しいよな…………
“待っててくれる人がいる”それが、どれだけ幸せな事か……。
……嘘を吐いてるわけじゃねぇ…
……黙ってる事も…お前のため……
……いや、俺のエゴか?……
…………ごめんな……………
司は、自分に言い訳をする。今、この幸せを壊したくないのだ。
「かすみちゃん…………“おかえり”のチュウは?」
「…………っ…………」
香澄は恥ずかし過ぎて、司の胸に顔をくっつけたまま動けなかった。司は、香澄を抱き締めたまま、ゆらゆらとその体を急かすように揺らし、楽しそうに笑っていた。
「………クククッ…………顔あげろよ……」
「え……ちょ…っ…………」
突然、司の腕が膝裏に入り、香澄は“ふわっ”と宙に浮いた。
「……わ…………な……何?!……」
司は、楽しそうにリビングに向かい、香澄をソファーに降ろす。
「……キャッ……つか…………ん…んん……」
啄むような優しいキスから、次第に吸いつくようなキスに変わり…………
「…………っふ……んん……っ……」
唇が離れた後も、香澄の頭はぼーっとし、体はふわふわしていた。
“カタカタ――――カタカタカタ――”
どこからともなく“カタカタカタカタ”と音がしている。少し前から司には聴こえていたのだが、キスに酔う香澄には聴こえていなかった。
司は、音のする方を見て、音の正体を悟る。
「か…かすみ……鍋大丈夫か?」
何気に言ってみただけだったが、トロンとしていた香澄の瞳は一転する。大きな目を更に見開き、顔を強張らせた。
「わっ」
香澄は、慌ててキッチンに走る。司は、その切り替えの速さに苦笑いしていた。
「あつっ」
「おい……どうした…」
一旦火を切って中を見ようと鍋の蓋を掴んだ香澄は、あまりの熱さに飛び跳ねた。声を聞いた司は、慌ててキッチンに駆けてきた。そして、すぐに香澄の腕を掴み、流しに連れて行き、流し水に当てた。
「…………っ…………」
顔をしかめた司を見て、香澄はオロオロしていた。
「大丈夫だよ。ちょっと熱かっただけだから」
申し訳なさそうに言う香澄に気づき、司は、掴んだ腕の力を緩めた。自分の顔をダイレクトに鏡で見れるわけではないが、香澄の顔を見れば、自分がどんな顔をしていたかは想像できた。
「すぐ冷やしとかねーと、水ぶくれになるぞ!…………ったくドジだな…………」
司の顔は、さきほどより少し穏やかになった。
「……ごめんなさい」
と、なぜか謝る香澄に、
「……怒ってねぇよ。そんな顔すんな」
司は、もう片方の手で、香澄の後頭部を撫でた。
「つーか、何作るつもりだ?……湯しか入ってねーし……」
鍋の中を見る司は、顔がひきつり気味だ。
………まさか…“レトルトカレーを温める”、とかじゃねーよな?………
……ま、香澄が作る?なら、“何でも食う”、言ったのは俺だ…っ……
……けど、寂しいだろ……
そんな司の食に関する気持ちを、香澄はまだ知らない。
「パスタ茹でようと思ってたの……お湯足さなきゃ……」
香澄は、無邪気に笑いながら鍋に視線を送る。“レトルトではない”と聞いて、司はホッとして笑みがこぼれた。
「一緒に作るか」
「え?!」
………司、料理できるの?!………
香澄は、予想外の司の言葉に、目を真ん丸くさせた。それは、司の予想通りの反応だ。
「…………ふっ……俺、湯ぅ沸かすくれぇしか出来ねーけどな……」
………リビングに、独りでいたくねーだけなんだ…………
香澄は、苦笑いする司を見た。そして、キラキラした笑みを浮かべながら、水道の蛇口をしめた。
「なんか、楽しそう。新婚さんみたいっ。…手は、もう大丈夫」
………ふっ……子どもみてぇだな………“新婚さんみたい”、じゃねーだろ、……新婚だろ?………
「沸騰したら、塩入れて、茹で時間、8分計ってね」
司にパスタを担当してもらい、香澄は、タマネギを切る。お湯が沸騰するまで、暇になった司は、香澄が気になり、後ろから抱きついて、香澄の手元を見たのだが……。
「お………お前、タマネギとか……反則だろ?」
鼻にゾワーン、目には涙を誘うタマネギビームに、顔を背けるしかない。
「……っふっははははっ……っ……」
司のその姿に、思わず爆笑してしまった香澄。
「お前……覚えとけよっ…………っ…」
司は、罰が悪そうに言葉を放ち、片目だけ開けて香澄を見た。そこで、疑問が生じる。
……?……?……?……
「香澄……お前なんで平気なんだ?!」
そう、香澄は涙を流すこともなく、平然としていた。
………コイツ…妖怪か?……おかしいだろ!………
“ゾワーン”と鼻にも目にも容赦ないタマネギビームに、司は再び目を閉じた。
………ッヴ……っ………………
なみだ目になりながらもそれを見せないように耐えている司。
「……っははっ……私、コンタクトしてるから、涙出ないの……へへっ」
香澄は、司の様子に吹き出しながら、得意げに言い放つ。
………は?…コンタクトってタマネギに勝てるのか?……
「……コンタクト?……つーか、俺ちょっと退散する…………ック…………タマネギのヤロー!…………」
………こんな情けねぇ顔、見せられっかよっ………
ぶつぶつ言いながら、司はコンロの前に戻り、顔を反対側に向けて、鼻をすすっていた。そんな司を、香澄は愛おしそうに見つめていた。
…………かわいい………っふふ……
フライパンで材料を炒め終わり、次は、牛乳と卵と粉チーズの出番。茹でたパスタを加えた後、仕上げに入る。溶いた卵に牛乳と粉チーズ、塩、胡椒を混ぜ合わせ、卵が固まらないように、温度に気をつけながら、手早く全体に絡ませる。
“これから時間勝負!”と言う時なのだ。が……
「……ちょっと、…司……あっち行っててよ!!…」
「……俺を……ヒマにするのか?」
司は、口を尖らせる。今日の司は甘えたいようだ。憎きタマネギがフライパンに入った途端、香澄の後ろにくっついて回っていた。
「もぅ!早くしないとパスタが茹で上がって、伸びちゃうでしょっ!!」
冷蔵庫を開けるにも、卵を割るにも、動く度に司にぶつかり、イライラしていた香澄は、ついに爆発した。
が、香澄の剣幕に、司は表情一つ変えない。
………んな目クジラたてて、怒ることか?……つっても、………
………香澄、それで怒ってるつもりか?…………
司は、意味が分からないようだ。料理の事を司に言っても無駄だろう。
「……チェッ……そんなオニババアみたいな顔すんなよな…角が生えるぞ!」
…………俺は、いつから“構ってちゃん”になったんだ?………
司は、どこを触ろうと料理に集中する香澄の気を引きたかっただけだ。
「オニ…お…おに…ばばあ?!…………」
が、香澄は、司に“オニババア”と言われたことにカチンときた。醜い顔をしていたのだろうか。
………はぁ?!……司が邪魔するからじゃないっ!………
香澄は、恥ずかしさも混じってか、体中が熱くなり益々怒り出した。
………卵が固まったら、最悪なんだからっ………
「…………クッハハハッ…………ハハハッ……お前、その膨れっ面、鏡で見て来いよ……ッハハハハッ…………」
司は、香澄をチラチラ見ながら、お腹を抱えて笑い出した。
………もう!……そんな笑わなくてもいいでしょ!………
香澄は真っ赤になって、益々ふくれた。
………わたし……どんな顔してたんだろう…………恥ずかしい―――!!…………
…………えっと…………
………何でわたし………
……怒ってたんだっけ…?……
…………?…?…?…………
「……ックハハハ…………なんだ?……今度は鳩が豆鉄砲食らったみてぇな顔して……」
………コイツ…おもしろすぎだろ………
「………ねぇ…なんで笑ってるの?」
香澄は、司に笑われた事が恥ずかしくて、頭が真っ白になっていた。司は、お腹を抱えて爆笑している。
「………ッククククックッ………いいのかよ…………“パスタ”は…」
「ああーっ!」
「…………ハハハハッ…………いいんじゃねぇか?!………“うどん”だと思えば…ックックックッ………“きしめん”か?……クックックッ……」
………最悪………
熱くなった鍋の取っ手は司が握り、パスタをザルに上げる。その後は、おとなしく椅子に座った司だが、調理中も、食事中も、空元気なのか、よく笑った。“うどん”?“きしめん”?に似た、“カルボナーラもどき”を二人で食べ、夜は更けていった。
いつもと違って、よく笑う司を、香澄が気にしていることなど、司は気付くこともなく。
香澄は、いつものように寝室のドアを開け、中に入る。“バタン”と硬い音が響いた。電気はついたままだ。
「つかさ?」
…………寝てるの?………
香澄が風呂から上がって寝室に入れば、いつもは起きて待ち構えている司だ。が、今日は、“おせー”と不満を漏らしながらも抱き寄せてくれる司はいなかった。少し揺すってみたが、無反応。どうやら寝てしまったようだ。
………やっぱり司……
……私のせいかな…………
香澄は、横向きで寝ている司の背中を見詰めながら、寂しさと不安に押しつぶされそうだった。
………初めてだね…何にもシない夜………
その夜、香澄は寝付けなかった。何度も寝返りを打ち、何度もトイレに立った。
背中を向けたまま、司も、眠れない夜を過ごしているとも知らずに……
“八番目の月”は半月を過ぎた月です。
上弦の月(右側半分が光って見える月)は七日目頃の月ですので、“八番目の月”はそれより少し満ちた月です。
月の出は真昼、月の入りは真夜中です。