五番目の月
四番目の月から――――――
――――――月は満ちて
五番目の月――――――
翌朝――――――
携帯の着信音が鳴り響き、香澄は目を覚ました。
「…………ん……?………このメロディーは…………」
寝ぼけた頭で、なんとなく着信メロディーを聴いていたが、電話の相手が思い浮かんだ時、呑気に寝ている場合でないことに気づく。
…………!!!…………
………なつみだ…………
香澄は手探りで、携帯を探し始めた。ベッドサイドに置いてある充電器を手繰り寄せてみても、携帯はない。
…………あれ?…………
………司がいない………
携帯を探していて、やけに動きやすい事に気づいた香澄は、隣に司がいない事に気付いた。と同時に、昨晩、携帯をリビングに置きっぱなしだった事を思い出す。
……昨日あのまま寝ちゃったんだ……
……手紙なんか書いちゃったし……
再び恥ずかしさがこみ上げ、身体に何とも言えない違和感を感じて、頬を染める。
……まだ、初心者マーク付きなのかな、私……
…だるくて、起き上がれない…
突然、“ガチャ”っという音がして、司が入って来た。
「おぅ……起きたか」
ご機嫌な司の顔を見て、香澄は、にっこり笑った。
だが、昨日の事を思い出すと、恥ずかしくなって、布団を頭まで被った。
……みんな、あんな事するの?……
「……ハハハ…起こすの勿体ねぇぐれー爆睡してたな……」
そんな香澄の気持ちを知らない司は、呑気に香澄に近付き、布団の中に手を入れる。更に片足を布団に入れ、香澄の肌に触れた―――
と思いきや、
……………?!…………
いきなり、布団に邪魔をされた。意表を衝かれた司は、一瞬戸惑うが、布団を剥がしたい衝動にかられる。
…………??……………
司に触れられると、変な気分になってしまう香澄は、とっさに布団を盾にしていたのだが、司に分かるはずもない。
「なんだ?朝は、ご機嫌ナナメか?」
……機嫌とかじゃないから……
香澄の頭のスクリーンには、口を尖らせた司が映っていた。
が、司は、さほど落ち込んではいなかった。昨日の手紙で、香澄の気持ちが聞けたからだろう。
「起きて来いよ。シャワー浴びたら目ぇ覚めるぞ」
司は、ベッドに座り、優しく微笑みながら、声をかける。
……眠いんじゃないよ…
香澄は、布団から顔を半分だけ出し、司を見つめて呟いた。
「起きるの……つらい…だるい…し…ちょっと痛い…」
…………は?…って、その……昨日の“あれ”だよな…………俺、手加減したぞ?……いや、したつもり…………
「まだ、いてーのか?」
………まだいてーのか?じゃないよ………
「…起きるの辛い……」
涙声で訴える香澄に、司は少し反省しながらも、戸惑っていた。
……もう何回ヤってんだ?……そんなにずっと、いてーのか?………
司が、首を傾げていると、また同じメロディーが鳴りだした。その音を聞いた司の表情は固まる。
「……さっきから鳴ってんぞ?」
司は、ぶっきらぼうに言い放つや否や布団を剥ぎ取り、香澄をお姫様抱っこしてリビングに向かった。
「ちょっと…っ……つかさ?………服着せてよ!!……キャ―――!!!!………恥ずかしいってば、………イヤー!!!……」
「俺しかいねーんだから、いいじゃねーか」
暴れる香澄の悲鳴が響く中、司は、楽しそうにリビングのソファーに座った。香澄を抱えたまま。香澄は、既に鳴り止んだ携帯を取ろうと向きを変えるが、再び司に引き寄せられて、スッポリ抱き締められる。
「電話……するから…」
……ちょっと離れて?……
香澄が再び身をよじると、司は、口を尖らせて、
「俺より電話か?……っ……」
不機嫌そうに言葉を落とす。
…司って甘えん坊?!……
あやしい手の動きが止まって、少しホッとした香澄は、司が可愛くて、
「奈津美からだから、かけ直さないと、ね?……」
子供に諭すように言いながら、司の頬を両手で包んだ。その行動に司は驚いた。
……なんか俺、ガキみてーだな……
……素のままでも受け入れてくれるっつーか、コイツの前だと、ガキみてーになっちまう……
……昨日の事も、本気で怒っては、なさそうだな………
香澄が怒っていないと分かり、司はホッとしていた。
「その前に、“おはようのチュウ”がまだだろ??」
司は目を瞑って、目尻にシワを寄せ、唇を突き出す。
“ボッ”と、火が点いたように、香澄の顔は赤く染まる。
「早くしろよ~電話するんだろ?」
目を瞑ったまま、司は急かすが、香澄は何故か恥ずかしくて、躊躇していた。
…………っ……………
そこで、再び同じ着信メロディーが鳴り始める。
「電話に出なきゃ……」
香澄は、再び鳴った電話が、“天の助け”に思えた。が、携帯の方に気をやると、司に腕を掴まれ、キスで口を塞がれた。
「…………ん…っ…ぅん………」
唇を離し、満足そうに微笑む司は、香澄を抱いたまま、香澄の携帯を手にとった。
「奈津美ちゃんなんだよな?」
……男じゃねーだろうな…………
「う、うん…」
香澄は、じっと見つめられて、胸がドキドキしていた。司から携帯を受け取り、不在着信になってしまった画面からすぐにかけ直す。司の視線を感じながら。
……電話って本当に女か?……
近くで相手の声を確かめようと、司は香澄にくっついていた。
「もしもし香澄?あんた、今日休み?」
奈津美は電話に出るなり、しゃべり出し、少しばかりお怒りのご様子…………。
……休み?…何で?……
香澄は休むつもりはない。奈津美の言っていることが分からない。が、“もしかして”と思い、尋ねてみる。
「え?今何時?……って、ちょっと司、やめてよっ……っ…」
司が大人しくしているはずもなく、香澄の肌を撫で始める。
「…ハァ………まぁ、新婚だから?分からなくもないけどさ…………、朝からイチャついて……ハァ……もうすぐ十一時だよ!じゅういちじ!!!!!」
………え―――!!………
香澄は、驚いて、司の顔を見ようとした。が、背後霊のようにぴったりくっついていて、振り返れない。司のあやしげな手の動きは、止まりそうもない。
………司、何で起こしてくれなかったの?……
……あ、起こされても、これじゃあ、学校行けないか…って…んん……
司の唇が香澄の首筋を這い、耳たぶに触れ、香澄は甘い感覚に酔いそうになる。
……………っ……………
「香澄!欠席とか珍しいから、心配したけど、大丈夫そうで安心したよ。昼の授業が休講になったから、あんた四限目とってないし、休めるよ。じゃあまた明日!ごゆっくり~」
返事を待ちきれない奈津美は、早口で言い切った。
「あ………うっん…………ありがとう…」
香澄は、切れた電話を握りしめて、理性を保つ事に必死になりながら、
「つかさ?」
抑揚のない声で司に呼びかけた。
「休みになったんだろ?良かったな」
司は、“チュッ”と音をたててニコニコ笑いながら香澄の額にキスを落とす。まったく悪びれもなく。
……………?!…………
………まぁ、三限目は助かったけど、…電話中に何やってんのよ!……………
「……っ…その手……やめて?」
あやしげに動く手を、香澄は止めたかった。
「香澄がこんな格好なのが悪い」
……………っ……………
「…………」
ベッドからそのまま運ばれた香澄は、全裸なわけで……。全く、恥ずかしいったらありゃしない。
「……………クックッ…昨日は可愛かったぜ?“大好きっ”とか…」
司の言葉に、香澄は赤面する。“ボボボッ”っと音をたてて炎が燃えているように。
「もぅ!何で起こしてくれなかったの?」
むくれる香澄を見て、司は、ますます楽しそうに言葉を吐く。
「寝たの朝方だったろ?ま、覚えてないだろーけどな?お前が先に、眠りの世界にイッちまっ……」
「ちょっと!もういいから、その話は」
「………クックッ…起こすっつっても、俺も起きたら十時だったからな」
……俺も、爆睡してたんだ…昨日は嬉しかったしな……
「そうだったんだ、ゴメン。司、仕事遅れちゃったね」
………私が寝坊したのも悪いんだ………
「仕事は、大丈夫だぞ。それより、お前、シャワー浴びたいだろ?」
……司の微笑みが、いやらしく感じるのは、私だけでしょうか?…………
「ひ…独りで入れるからっ!」
香澄はゆっくり立ち上がり、なんとか歩けたので、バスルームに向かおうとしたが、
「遠慮するなよ、連れてってやる」
結局、司に支えてもらって、バスルームにたどり着く。
……ハァ……裸にエプロンより恥ずかしいよ……
「もう、大丈夫だからっ」
香澄は、赤い顔を見られないように、俯いたままドアを閉めた。ドアの閉まる音と同時に、司は“ふっ”と笑い、自分の部屋に向かった。
司は、香澄がシャワーを浴びている間に秘書に電話をかける。
「あぁ………今日なら………あぁ…頼んだぞ」
用件だけ伝え、携帯を閉じ、部屋を出る。
キッチンには、昨晩食べ損ねたおかずが並んでいた。司は、苦笑いしながら、電子レンジに入れていく。
香澄はシャワーを浴び、ふらふらとバスルームから出て来た。司は、
「バイト行くのか?」
心配そうに言う。
「うん。ドタキャンは迷惑になるし」
「そうか。じゃあ、終わったら連絡しろ」
「うん」
「…ふっ……香澄も起きたし、飯食ったら、仕事行く」
司は、香澄の頭を撫でながら微笑んだ。
テーブルには、温め直された昨日のおかず。ご飯をよそおい、香澄も一緒に食べた。
「行ってらっしゃい」
にっこり笑う香澄に、司はキスを落とし、
「何かあったら、すぐ電話しろよ?」
もう一度キスを落とし、頷く香澄に後ろ髪を引かれつつ、家を出た。
香澄は、洗い物を済ませ、洗濯機を回しながら化粧をし、洗濯物を干し、掃除機をかけた。
洗濯物を干す時に、司の下着に赤面しながら………。
…本当に結婚したんだ…
洗濯物を見ながら、香澄は実感していた。部屋でゆっくりしながら、アイロンがけが終わる頃には、バイトに行く時間が来ていた。
バスの時間に合わせて、マンションを出た。
「香澄さん」
エントランスで名前を呼ばれて顔を上げると、いつかの運転手がいた。
「秘書の海堂です。社長の命令です。カフェまで、送らせていただきますよ」
「あ、はい」
香澄は驚いたが、知らない顔ではないので、車に乗り、司にメールをしておこうと、携帯を開いた。
…………わ………………
待ち受け画面には、“受信メール二件”の表示。
恐る恐る見ていくと、どちらも司からだった。
……司って結構短気なんだよね……
――海堂に送らせる。海堂が来るまで、部屋で待ってろ。
――返事しろ!寝てるのか?!仕事で電話は出れねーから、起きたらメールしろ。
二通目が受信されたのが……十分前。
「社長からのメール、今、御覧になられたようですね。すぐに返信して下さい。平和のために」
…………は?……………
………平和って……
香澄はカチカチとメールを素早く打ち込んだ。
――司、ごめん、今メール見たの。
掃除機で聞こえなかったみたい。
海堂さんに送ってもらっているよ。
お仕事、がんばってね。
――送信――
「ふぅ……」
任務を終えて、座席にもたれかかった香澄に、
「………ハハハ…そんなに慌てるとは……ハハハ」
海堂は、笑いながら言った。
…………なに?…何で笑われてるの?私………
「いや、……すみません、あまりに素直だから………ハハハ…」
キョトンとしている香澄を、ルームミラーで見ながら、海堂は笑いが止まらないようだった。
「着きました。帰りも、勝手に帰らないように、お願いします」
「はい。ありがとうございました」
あの“笑い”が、腑に落ちない香澄だったが、お礼を言って車を降りた。
そして見上げれば、流れる雲に、月が見え隠れしていた。
…もうすぐ半月だな……
半月に近づく月、満ちていく月は、何か言いたげな顔を向けていた。
香澄は、なんとかバイトをこなし、控え室に下がった。それを追うようにマスターがドアを開けた。
「香澄ちゃん、今度の土日は、バイト休みに出来たからね」
「え?」
「あれ?聞いてない?」
……聞くって、マスター以外に誰に?……って、司しかいないや……
「もしかして、司ですか?」
何でも先に決めてしまう司に、ついていけばいいだけの香澄は、その強引さが、心地よかった。香澄は、“自分で決めるのは苦手だから、相性良いのかも”なんて、呑気に考えていた。
「あぁ、聞いてなかったなら、聞かなかった事にしてくれないかな……」
マスターは、クラブで司の席につくよう頼んできた時と同じ表情をしていた。
「ハハ……はい。ご心配なく」
香澄が笑顔で言うと、
マスターは、あの時と同じように、ホッとした様子で仕事に戻って行った。
………土日、何かあるのかな?……
香澄は“バイトが終わった”と、司にメールを送り、マスターの奥さんと、話をしていた。
そこに携帯が鳴り始め、一瞬にして頬は染まる。
………司からメールだ……
香澄は、“着いた”と言う言葉を思い浮かべていた。
ところが、
――香澄、悪い。用が出来た。海堂が迎えに行く。
メールを読んで、香澄は、一気に気分が落ちた。が、そのまま返信画面に向かう。
……用ってなんだろう……
―――分かった。帰って待ってるね。
返信を送り、心の中でため息をひとつ。
「ありがとうございました。また、“料理のコツ”を教えて下さい」
マスターの奥さんに御礼を言って、調理場から出た。
……………わ…………
「お迎えに上がりました」
……はやい……
ドアを開けると、目の前には海堂がいた。突然現れた海堂に、一瞬驚いた香澄だったが、スタスタ歩く海堂に、付いて歩く。
マンションまでは、車だとすぐだ。香澄は、司に夕飯を作ろうと思った。
「スーパーに寄ってもらえませんか」
香澄は、食材を買いたかった。冷凍庫はパンパンだが、冷蔵庫の中には全く食材がない。
「はい、スーパーですね。社長の食生活、御存知ですか?」
…………?!…………
………冷凍飯しか知らない…………
「まだ、よく知らないんです」
…好きな食べ物も、嫌いな食べ物も、詳しくは知らない……
香澄は、“司の事を知っていかなきゃ”と思った。出会って、まだ一週間も経っていない。これから知っていこう、そう思った。
「香澄さんが作れば、社長は、何でも食べると思いますよ」
海堂は自身ありげに言葉を落とした。
スーパーに寄り、カートをひきながら、香澄はキッチンを思い出す。
……お姉さんが料理をすると言っていたけど、調味料がなかったんだよね……
みりん、料理酒、醤油、味噌、など、重さを考えながら、かごに入れていく。
野菜、肉、魚、豆腐………。とりあえず、買い物をして、車に戻った。
マンションのドア前まで、海堂に送ってもらい、部屋に入る。
食材を冷蔵庫にしまって、ベランダに出ると、月は、雲がかかって、よく見えなかった。
その頃司は―――――
「えっ?!ケッコン?!」
諒子は驚いて、目を丸くしていた。
「あぁ、結婚した。一応報告に来た」
「………そう……良かったわ。どんなお嬢さんなの?」
「……今時珍しい、生娘だった」
司は、ニヤニヤ笑っていた。
「まぁ、どんな手を使ったのかしらね………ふふっ………、ご両親は、許してくれたの?」
「……いろいろ複雑なんだ……」
司は、仕事が終わって、実家に来ていた。母に、香澄との事を報告するために。
香澄の実家の事、これまでの経緯を、簡単に話した。
「そう、なんだか、私の若い頃を見てるみたいね……。いきなり結婚させられるなんて……ふふっ」
…………?……………
「あの人も、強引で、しつこくて、……ふふっ……気がついたら一緒に暮らしていたの」
司の母、諒子は、幸せそうな顔をしていた。いつも、司の父親の話をする時は、こんな優しい顔をする。
「俺、親父の記憶、あんまりねーんだ」
「そうね、司は小さかったものね」
「お袋は、今、幸せなのか?」
司は、自分の口から出た言葉に驚いていた。
驚いたのは、諒子も同じだった。
「司も、大切な人に出逢えたのね。優しくなったわね………ふふっ…。“幸せ”はいろいろよ?………そうねぇ、あの世であの人に会うまでは、分からないかもしれないわ」
諒子は司の実父、幸司の事を思い出していた。親の反対を押し切ってでも、一緒に暮らし始めた諒子は、幸せだった。
誰に何を言われようと、幸司がいてくれれば、それで良かった………
司が産まれてからは、穏やかな日々を送っていた………
諒子は、毎日、作ったご飯を、美味しそうに食べる二人の姿を思い出していた。
「司、あなたに、話しておかなきゃいけない事があるの」
諒子は、畏まって座り直した。
「なんだ?親父の昔の事か?」
司は、実の父の過去に、薄々気付いていた。
「知ってたの?!」
諒子は驚いて、司を見上げた。
「なんとなく、な」
司の顔を見て、諒子は我が子の成長を知る。
「そう……あの人、幸司はね、大工になる前、“下條”の組員だったの。司がお腹に居る事が分かって、堅気になって、……平和に暮らしていたの…………なのに…………っ……ぅ……」
諒子は、涙を堪えながら、言葉を詰まらせた。
「親父は、“優し過ぎたんだ”って聞いたんだ。ここにいた頃にな。本当に事故だったのか?」
司の言葉に、諒子の涙腺は壊れた。
「…っ………事故よ。……そう……ック…思わないと………怨んでも……っ、幸司………は、……戻ってこないわ」
諒子は、悲しみに打ちひしがれていた当時を思い出していた。何度も“後を追おう”と思った。でも、司がいたから、“生きよう”と思えた。司を見ていると、幸司を見ている気がしていた。
司は、幼稚園だったか、小学校に入ったばかりだったか、もう記憶も曖昧だが、
家に帰ると、黒と白の幕が張られていた事は覚えていた。
「お袋、兄貴の代になったら、俺んとこ、来ていいぞ?香澄が、“お母さんが欲しい”って言ってるんだ」
「……まぁ…嬉しい事、言ってくれるわね。………でも、同居は遠慮するわ。今は、ここが私の家。よくして貰っているのよ?……司の事が気掛かりだったけれど、いい子に巡り会えて、安心したわ。今度、香澄さんに会わせて?……仲良くしたいわ」
「あぁ、うちに来いよ。香澄も喜ぶ」
「楽しみだわ」
「つーちゃんも、幸せ見つけたのね。いい顔になったわよ?……ふっ」
「その呼び方やめろよ!香澄の前で、絶対言うなよ…」
司は耳だけを赤くして、俯いた。
「あ、後、飯の事も…………言うなよ。食えねーわけじゃねーんだ」
「ハハハ…まだ嫌いなの?レトルト食品」
司はバツが悪そうに苦笑いした。
「私のせいね、食事だけは、必ず作っていたから。つーちゃん、レトルトだと、『いらない』って、ワガママ言って……」
「もう、やめてくれよ………」
司は、首まで赤くなっていた。
「そのワガママを可愛いと思って、甘やかしたのかしらね、私……」
司は、外食が殆どだ。
だが、朝ご飯や休みの日など、家で食べるとなると、作れない司は、レトルトに頼らざるを得ない。それが寂しい気がして、未だに、姉が余り物を持ってくれば、冷凍庫に入れてもらっていた。
「香澄が作ってくれるなら、レトルトだろうが食う」
「………ふふっ…御馳走様。今度お邪魔するわ。お忍びで」
諒子は、昔暴れていた司を見て来たからこそ、ホッとしていた。
………幸司、司もあなたによく似てきたわよ?………
近々、幸司の墓に報告に行こうと思った。
司が帰った後、すっかり沈んでしまった月に、諒子は心の中で呟いた。
……見えないけれど、そこにあるのよね?幸司……
……あなたへの愛は、ずっと胸の中にあるわ……
香澄は、帰りが遅い司を待ちながら、キッチンに立っていた。
煮魚と煮物が出来上がり、火を止めた。揚げ物は、食べる直前に揚げる事にして、下準備したものを冷蔵庫に入れる。
………司、遅いな、用事って何だろう………
いつもより遅い司が今何をしているのか気にしながら、椅子に座ったその時、
“ドン!バタンバタン!!!!”と、玄関の方から物音が聞こえた。
……………?……………
……な………に……?…
………つかさ?…………
香澄は、司が帰って来たのかと思ったが、尋常でない物音に、玄関に向かうのを躊躇った。
“ドクン”と胸が騒ぎ出す。
“ドンッ!!!ドンッ!!!”と激しい音と共に、部屋が揺れる。
…………?!……………
………な……に…?……
………司なら、名前を呼んでくれるはず…………
……………っ……………
“バン!!!”
音はやむ様子もない。
“ガンッ”
それどころか、激しくなる一方だ。まるで、怒りをぶつけるかのように。
“ドンッ…ガンッ…”
音と揺れから、力任せにドアをバタバタ言わせている事が分かり、香澄は怖くなった。
“バンッ”
物凄い音がして、香澄の身体が“ビクッ”と震えた。
『俺が帰るまで、誰が来ても開けるんじゃねーぞ』
司が出掛けに言った言葉を思い出し、震え上がった香澄。
“ドンッ”と音がするたびに“ドクン”と胸の奥に痛みが走る。
……こわいよ……
物凄い音と揺れに、香澄の頭の中では危険信号が点滅していた。
心臓の音がやけに大きい。
“ドクン”と波打つたびに、息苦しさが増す。
“バンッ…………ドンッ”
………怖い…………
香澄は、身を震わせながら携帯を握りしめ、一番奥の部屋に入ってカギを閉めた。
“ドクン”とまた息苦しくなる。
………司助けて……
司にメールしようにも、手が震えてボタンが押せない………。
“ガンッ…………ガンッ…ドンッ……”
堅いドアロックですら、壊すのではないかと思うほど、激しい音と揺れに、香澄は震えが止まらない。
…………っ……………
メールは諦めて、震える指で、通話ボタンを押したその時、―――――
「司、いるんでしょ?!」
若い女の声が聴こえた。
……?……女?!………
………なんで?………
香澄は、司にかけた電話が、留守電に切り替わった事にも気づかず、しばらく固まったままだった。
「つかさ!帰ってるなら、開けな!!!」
“バンッ”激しい音の合間に、女の声が飛んでくる。
「このアタシに、居留守使おうなんて、いい度胸してるわね、壊すわよー!!」
“バンッ……バンッ……”
音は止まない。本気で壊す気なのではないかと感じるほどに、激しさはエスカレートする。
…………え……………
“壊さないで下さい”なんて声も出ない香澄が、伝える術もなく……
“ドクン…ドクンドクン”と波打ち苦しくなる心臓。ただただ、震えていた。
…このままではドアが壊れる…
………どうすれば?………
香澄には、その激しい音が、だんだんドアの音には聞こえなくなっていった。
―――――“ドンッ”
『開けな!!』
『香澄、開けなさい!隠れても無駄よ!出て来なさい!』
『いや、来ないで――――!』
香澄の脳裏に、過去が、蘇る。
『やめて…やめてお母さん……』
母の折檻から逃れるために、部屋に逃げ込んだ時の自分と被った。
“ドンッ”という音と、女の声に誘発され、香澄は現実から遠ざかって行った。
『来ないで―――!!』
声の出ない香澄が、夢の中で叫ぶ――――
“ドンッ……ドンッ”
香澄の夢中の叫びが聞こえるはずもなく、女はドアを開けようと奮闘を続けていた。
………やめて…………
……………っ……………
マンションの部屋の中では、ドアを開け閉めする激しい音にかき消されるように、司からの着信メロディーが鳴り続いていた。
司は実家にいた。防音設備のせいか、電波が入りにくい。香澄からの電話は、留守電に転送されていた。
マンションに帰ろうと車に戻った司に、留守録通知が届いた。香澄の声は、録音されていなかった。代わりに、微かな物音と金切り声が聴こえた。
慌ててかけ直したが、繋がらない。司は、胸騒ぎがして、すぐに海堂に電話をし、香澄の居場所を調べさせた。
マンションにいると聞き、ひとまずホッとするが、香澄の顔を見るまでは安心など出来ない。
………マンションには“下條”の関係者以外、入れないはず………
……セキュリティーは、万全のはずだろ?どうなってんだ?……
腹を立てながら、急いで車を走らせる。
実家の様子は穏やかだった。何事もなく、“おかえり”そう言って駆け寄る香澄に会えることを、司は、切に願っていた。
……月、沈んじまったな……
既に沈んでしまった月に、胸騒ぎは増す。
司は、アクセルを、更に踏み込んだ。
マンションに着き、車を降りた司は、エレベーターを待たずに階段を駆け上がった。息を切らして辿り着いたドアの前、
司は、その光景に、息をのんだ―――――
司が、ドア前に立つ人物と遭遇した時の、相手の間抜けな顔は、後になれば笑えるだろう。
相変わらず、気性の激しい瑠璃だ。ドアを力付くで開けようとしていた。ドアロックは、チェーンと言っても鎖ではなく、鋼の棒のような物だ。
……壊せるわけねぇだろ!……
司はすぐに部屋に入りたかったが、内側からでないとロックが外せない。苛々しながらも、香澄を優しく呼ぶ。
「かすみ~」
返事はない。司は、焦った。すぐ後から駆けつけた海堂に、管理人室から工具を持って来させ、鍵を壊し、中に入る。
「ねぇ、誰がいるの?」
「うっせー!黙ってろ!」
司の様子に、海堂も瑠璃も、口をつぐんだ。司は、血走った眼で、般若のごとく顔を歪めたまま、真っ直ぐに部屋に入って行く。
「かすみ~」
何度呼んでも返事はない。
……香澄、何かあったのか……
香澄の部屋、寝室、バスルームにトイレ、ベランダ、どこにもいない。司は、奥の部屋に入ろうとして、鍵が掛かっていることに気付いた。
…………っ…………
そこは、司の仕事部屋だ。一緒に住み始めてすぐ、香澄を案内したが、“司の部屋だから、司がいない時には入らない”香澄はそう言っていた。
司は、すぐさま持っていた工具で、鍵を壊した。
“ガンッ”という音に、後ろにいた瑠璃も海堂も、一瞬震える。
…………っ………………
ドアを開け、司がそこで見たのは、部屋の隅っこで、倒れている香澄だった……
司は、心臓が止まりそうなほど、胸に衝撃を受けた。一目散に、香澄に駆け寄る。心臓は“バクン”と大きく波打つ。
そっと顔を近付けてみた。
……息してる…………
………良かった…………
「海堂、救急車呼べ」
自分は医者ではない。動かしていいのかすら分からない。司は香澄が心配でならなかった。
「ちょっと!大袈裟じゃない?!何なのよ!!」
瑠璃の言葉に、司の中で何かが切れた。
「お前、何しやがった、あぁ"?」
地獄の底から聴こえて来るような声音で怒鳴りつけ、瑠璃を睨みつけた。
「し、知らないわよ、誰よ、その子……何かしようにも、アタシは部屋に入れなかったのよ!!」
……何よ!!あたしがどれだけ待ったと思ってるの!!!……
……何なのよ!その女!……
瑠璃は、“その女”のことしか頭になく、自分の事など全く眼中にないといった司の態度に腹を立てていた。
喧嘩腰の二人を余所に、香澄の様態を見ていた海堂は、
「救急車は無用ですよ、気を失っただけのようです」
冷静沈着に、言葉を落とした。
司は、それを聞いて、香澄を大事そうに抱き上げ、寝室に運ぶ。ベッドに寝かせ、しばらく香澄の頬を撫でていた。面白くなさそうに、ふてくされる瑠璃に気付くこともなく。
気を利かせた海堂が、鍵の修理を手配し、鍵はすぐに取り替えが終わった。司は、海堂に礼を言い、帰らせた。海堂は、今にも怒り出しそうな瑠璃と目を合わさぬよう、部屋を後にした。
……香澄、気ぃ失う程怖かったのか……ごめんな……
司は、予想外の瑠璃の訪問に、自分を咎めていた。リビングに立ったまま、座る気にもならない。
………俺が言っておけば、こんな事には…クソッ!!!………
司が思い切り壁を殴り、“ガンッ”という大きな音が部屋に鳴り響いた。
「ちょっと、説明しなさいよ!誰よ、あの子!」
先ほどから、自分がいることを気にもしていない司を見ていた瑠璃は、とうとう金切り声を上げた。
………うっせーな、香澄が起きちまうだろ?………
司は、眉を歪めていた。
「で、今日はなんだ?また、喧嘩か?」
穏やかな口調で、質問を質問で返すが、顔は険しいままだ。
「司に、これ、持ってきてあげたのよ。あんなヤツに食わせる必要ないから……」
瑠璃は、店の残り物が入った保存容器を司に見せた。“あんなヤツ”とは、瑠璃の旦那だ。また喧嘩でもしたのだろう。
瑠璃は、名目上は洋風レストランのオーナーだ。旦那は“下條”の幹部。男兄弟の中で、たった一人の女の子、我が儘に育った瑠璃は、ちょっとした事が我慢できない。
夫婦喧嘩の度に、司のマンションを宿代わりに使っていた。瑠璃が来る時は、司は女の所に泊まっていた。
「……ハァ……夫婦喧嘩じゃねーか、“犬も食わねー”って言うだろ?!来るなら電話しろよ。いつもそうしてただろ?」
「したわよ。あんた電波の届くところにいなさいよ!」
「お袋んとこにいたんだよ!結婚の報告!!」
「はぁ~?結婚?!知らないわよ?!」
……司がケッコン?!…嘘でしょ?!……
瑠璃は胸がズキリと痛んだ。その理由には、気付く事もなく。
「これから言うつもりだったんだよ!!鍵返せってな」
「じゃあ、ここ使えないの?!」
「あたりめーだ!新婚ラブラブの邪魔すんな!!!」
司の言葉に、瑠璃は目を丸くし、立ち上がった。キッチンに走って行き、鍋の蓋を開ける。
「へぇー、ちゃんと作れるんだ、あの子」
瑠璃は、面白くなさそうに呟き、持って来たおかずを冷凍庫に入れ始めた。
……あの子、料理なんか出来ないと思ったのに、……なによ!…
それを見ていた司は、鍋の中身が気になり、キッチンに移動し、瑠璃の横で鍋の蓋を開けた。
そのニンマリした司の顔に、瑠璃の胸の中は、穏やかではなかった。
「まぁ、ここは司の名義だけど、たまにくらい、いいじゃない!」
「いい加減にしろよ!もう、俺独りじゃねぇんだ!香澄に何かあったら、俺、何するか分からねーからな!!!!」
……気ぃ失うとか、どんだけ怖がらせたんだよ!!!………
司の凄まじい形相に、血が上った瑠璃は負けじと言い返す。
「ずいぶんな入れ上げようね?司がねぇ……どうせまた、すぐ飽きるんでしょ?」
“司が本気で香澄に惚れている”などと、瑠璃はまだ信じたくなかった。腕を組みながら自身ありげに言ったものの、心臓は震えていた。
司は“連れ子”である事に遠慮もあり、瑠璃を邪険にする事は殆どなかった。
が、今回は自制心すら利かなくなったのか、口が先に動いた。
「うっせー、鍵おいて、とっとと帰りやがれ!!!」
「なによ!そんなにあの子が大事なの?!」
「あぁ、大事だ!」
司は、真剣な眼差しで言い放った。瑠璃は、そんな司を見て、寂しさを感じながら、
「あんたにそんな顔させるオンナが出来るなんて……、司、変わったわね。鍵は返すわ!!」
鍵を置き、ズカズカと玄関に向かい、勢いよくドアを閉め、出て行った。
………全く困った猛獣様だぜ………地響きがしたぞ?……香澄が起きるじゃねーか!……
司は、あの“二日月”の夜、香澄が泣きながら話してくれた母親の事を思い出していた。
自分の思い通りにならなければ癇癪を起こす。“瑠璃と香澄の母親は、どこか似ている”そう感じた司は、香澄に瑠璃を近付けない方がいい、そんな気がした。
……姉貴も悪いヤツじゃねーんだけどな……っ…………
部屋を出た瑠璃は、
「…………もう!何で出ないのよ!!……」
携帯を耳に当て、イライラは頂点に達していた。
「……あ、あなた?……今すぐ迎えに…っ………………司のマンションよ!………………はぁ?あたしとどっちが大事なのよ!!!……………じゃあ今すぐ、すぐ来てよ!!!」
旦那を相手に、言うだけ言って、電話を切る。
電話の向こうには、“やれやれ”と溜息を吐きながらも、組長の顔を思い浮かべ、キーを握り締める男が一人いた。
司は、香澄の様子が気になり、寝室に入った。
………泣いてるのか…………っ…………寝言か?…
「……ぃゃ…来ないで…………っ……ごめんなさい……」
呟きながら涙を流す香澄を見て、司は、香澄の肩を掴んだ。
「来ないで!!!…………イヤ……っ……」
「俺だ!香澄!目ぇ開けろ!」
司は、香澄を揺らして起こそうとした。怖がる香澄を助けたい一心で。
「…………っ…」
香澄が目を開けた時、目の前には、真剣な眼差しで自分を見つめる司の顔があった。
「気がついたか。俺だ、もう大丈夫だ」
司は、香澄の頬を撫で、髪を撫で、目尻にキスを落とした。そして、香澄の横に寝そべり、向き合うように抱きしめ、背中を撫でた。
「ごめんな。怖かったよな……」
司の泣きそうな声を聞いて、
「ううん……っ…………」
香澄は、返事をしてみたが、頭の中は整理できずにいた。いったいどうしてベッドに寝ているのか、分からないのだ。
……何でベッドに?………
「あ、司、ご飯は?」
…………?……………
突然、香澄が言った言葉に、司は戸惑いながら、
「起きれるか?」
頷く香澄の上半身を、ゆっくり起こしてやった。
「大丈夫。起きれるよ」
香澄は立ち上がり、寝室を出ようとした。
ドアを開ける、その背中が妙に寂しそうで、司の体は無意識に動いていた―――
司は、香澄を後ろから“ギュッ”と抱き締めた。
「大丈夫か?」
心配だった。どこか、いつもと違う香澄が。
「私、なんでベッドに?」
……眠ってたの?……怖い夢をみてたの?……
「俺が運んだ」
香澄を支えるように部屋を出て、司は足でドアを閉めた。
“バタン”
……あ………………
香澄は、ドアの音を聞き、思い出した。ご飯の支度、ドアの音、女の声…。
……あの女の人は誰?………
だんだん記憶がよみがえり、女の事を思い出した香澄だったが、聞けないまま、
「ありがとう」
と力なく呟いた。
「飯、作ってくれたんだな」
香澄は、気絶するほど怖かったんだろう。食事が済むまでは、思い出させないように、と司は明るく振る舞った。
「うん…」
「食おうぜ?まだ食ってねーだろ?」
「うん…」
香澄は鍋を火にかけ、ご飯をよそおった。
煮魚に、野菜の煮物。
ビールはいらないと言う司に、香澄はお茶を入れて出した。香澄の頭は、まだ、ぼーっとしていた。
二人は、遅い夕飯を食べ始める。
「これ、美味いな。お前、料理できるんだ?」
……見かけによらねーな……ふっ……
煮物を食べながら、ニコニコ笑う司を、香澄は、何処か遠くに感じていた。
「ありがとう。がんばったんだよ?マスターの奥さんに聞いたの」
笑って見せるけれど、うまく笑えていない香澄は、箸も進んでいない。
「食欲ねーみたいだな」
司は、心配でならなかった。だが、聞きたいことが聞けない。
「……うん」
司は、香澄の残したおかずも、全部食べきった。その姿を見て、香澄は、“司を失いたくない”そう思った。
………美味しそうに食べてもらえるって幸せ………
……あの女の人なんて、どうでも良くなっちゃうな………
“女の人の事は聞くまい”と、そっと心に鍵をかけた。
「あ、…………揚げ物揚げるの忘れてた!」
………どうしよう………
香澄は、突然思い出し、申し訳なさそうに俯いた。心なしか震えているようだ。何かに怯えるような香澄の様子に、司は戸惑う。
……俺が怒鳴るとでも思ってんのか??………
「今日は、これで充分だ。明日作ってくれ」
司は、微笑みながら香澄を見た。香澄は一瞬びっくりしたような顔をしたが、だんだんと穏やかな表情に戻った。
「うん。ありがとう。司は、優しいね」
………司は優しい…………忘れてても、怒らないんだね………
香澄は、完璧でなくても許してくれる司に、心が少しずつ溶けていく気がしていた。
司は、“明日”の約束をしたかった。
どこかいつもと違う香澄の様子に不安が募る。
……明日帰って来たら、“三行半”置いて、いなくなる、とか、ねーよな……
………アイツ、独りで抱え込んで、前触れもなく、いきなり“別れの手紙”とか、ありそうで、こえぇぇーんだよな………
………親元を出た時だって、親は、“寝耳に水”だったらしいしな………
司は、香澄に気を失う程怖い思いをさせた事に、自分で自分を責めていた。
………“守ってやる”とか言いながら、何やってんだよ俺は………
「俺が片付けてやるから、座ってろ」
司は先に立ち上がった。
「もう大丈夫だよ。私やるから」
にっこり笑って、香澄は立ち上がり、流しに向かった。
流しに立つ香澄は、“ふわっ”と背中に司の温もりを感じて、手を止めた。
「話せるか?」
耳元に、司の吐息と優しい声。そして、ぎゅっと抱き締められた。
そっとしておこう、とも思った司だったが、“三行半”より怖いものはなく……。無性に香澄に触れたくなった。
………俺を見ろよ………
司は、妙によそよそしく、しっかり目を合わそうとしない香澄の様子が気になって仕方ない。司の手は、香澄のお腹から上に上がり、首筋にはキスが落ちる。
「うん。これ洗ったら…………って、つかさ?……ん……っん…………っぁ……ひゃん…………邪魔しないで……キャッ……っ……ん……」
「いいから洗えよ」
耳元に響く妖艶な声がくすぐったくて、香澄は身をよじる。
「………っ…あ…洗えないでしょ!……ちょっと………ゃん……っ…」
香澄は、両手が塞がっているため、お尻で司を後ろにやろうとする。が、司はぴたりとくっついて、離れない。
「…………っ…邪魔しないで、座っててっ……んんっ…………っんん……」
顎を持ち上げられ、司の唇に口を塞がれ、香澄は、さっきまでかろうじて手にしていたスポンジを、手放した――
………………っ…………
………香澄に触れてねーと、どっか行っちまいそうで……怖いんだ…
司は、得体の知れない不安にかられていた――――――
唇を離した司は、香澄の耳元で囁く。
「早く洗えよ」
…………っ…………
その色っぽい声に、香澄はゾクッとした。司のあやしい手の動きは、止まらない。
「……んっ……っ……ひゃん……これじゃ…………力が入らないから……ね?……やめて?…………っん……」
香澄は、司を追い払おうと、力なくもがく。が、司は香澄の肌に執拗に甘い刺激を与えてくる………………。
“プチッ”という音とともにホックが外れ、奇妙な感触に晒され、体温がさらに上昇し始めた。
…………っ…………
水は流しっぱなし。カラダの反応に負けそうになりながら、香澄は、
「ダメッ!」
すばやく手をふき、司を押しやった。
……ヤバッ…止まらなくなるところだったぜ……
一瞬ハッとした顔をした司は、我に返り、香澄の顔を覗き込む。そして、その真っ赤な顔に唇を近付けた。
……………っ……………
無意識に目を閉じた香澄の唇に、キスを落とす。
香澄が、柔らかくて湿った感触に目を開けると、司はにっこり笑い、“チュッ”と音を立てて今度は頬に、もう一つキスを落とし、ソファーに座った。
“ボッ”と頬を染め、スポンジを握る香澄。止まっていた手を、再び動かし始めた。
…………ふぅ……とにかく洗い物を済ませなくちゃ!………
司は、ソファーにドッカリ座って、香澄の横顔を見ていた。
香澄は、洗い物を終え、手を拭き、ホックを留め直した。コーヒーを入れて、リビングに持って行き、マグカップを二つローテーブルに置く。そして、司と向かい合わせに座った。
「そんな遠くに座るなよ。こっち来いよ」
司に腕を掴まれて、香澄は司の前に座りなおす。
「あ――お前、俺がせっかく外したのに……」
司のふてくされたような声が耳元に響く。
……………っ…………
………や、外したままじゃ変だし、着けるでしょ?普通………
司の手は、線を辿るように、香澄の背中を撫でる。そうしているうちに、すっぽり抱き締められて、ふわりと温かい司の体温に包まれた。
「香澄、話せるか?」
耳元で優しく囁く司の声に、香澄は頷いた。
司の温もりを背中に感じながら、ポツリポツリと話し出す。
「………玄関の方で、凄い音がして……………………怖くて、……司の部屋に逃げ込んだの………………………………………泥棒かと思って………………司に電話したんだけど、…………………………………………『開けなさい』って…………女の……人……の声がして、…………………………怖くて…………ドア……壊す………………って……っ……………………怖くて…………開け…な……って………………母さんに……………………『開けなさい』…………っ…………開けたら…………っ…思い……出…して…………っ……」
司は、震えながら話す香澄の言葉を遮るように、きつく抱き締めた。
母親の事を思い出していたとは……。司は驚いていた。
………トラウマか………
「怖かったな。ごめんな。俺がいたら……」
「ううん、」
香澄は、首を横に振った。司にぎゅっと抱き締められて、香澄は、次第に落ち着いてきた。
………司がいるから、もう大丈夫…女の人は気になるけど、もう、いいや……
香澄は、あの恐怖も、司の心臓の音を聞いていると、忘れられそうだった。
「目が覚めた時、…………つかさが…いて…すごく…………すごく…安心した……よ?……もう…………大丈夫って……」
香澄は振り返りながら、司に抱きついた。
司は、香澄を腕に抱きながら、愛おしそうに頭を撫でた。
………こいつ、なんでこんな、可愛いだろうな………
自分を責める一方で、瑠璃への怒りがこみ上げてくる。
「姉貴のヤツ……」
………許せねー!………
司がぼそっと呟いたその言葉に、香澄はすばやく反応する。
「え?」
………お姉さん?…って、あの、冷凍飯の?……
「姉貴が、怒り狂って、怒鳴り散らしてたんだろ。入れねーから」
「お、お姉さん?!」
「あぁ、あれでも性別は女だからな」
……………っ……………
香澄は、ホッとした。姉なら、合い鍵を持っていても頷ける。
「なんだ?誰だと思ってたんだ?」
司は、香澄の様子から、姉だとは思っていなかったと気付き、胸が弾んだ。
「ん?……女の人だったから……その……」
香澄は、疑った自分を咎めながら、苦し紛れに言い訳を考える。
「………クククッ…お前、可愛いな。……ふっ…………女がいるとか勘違いしたんだろ……」
……まぁ、今までは、いなくもなかったんだがな……
香澄の顔は、“ボッ”と真っ赤に染まる。
「…う…ん…………あ、挨拶しなきゃ!」
香澄の反応を見ながら、司は、“今まで関係した女は、早めに切ろう”そう思った。
「……クククッ…………」
“チュッ”と音をたて、司は香澄の目尻にキスを落とし、涙を舐める。
……不思議だよな、女のヤキモチなんか、鬱陶しい以外になかった俺が、コイツのヤキモチは嬉しいんだよな………
「挨拶は、そのうちな?」
………姉貴の機嫌が直るまでは、会わせねぇ方がいいからな……
司は、香澄を実家に連れて行く気はない。“下條”の内部の事は、香澄に話すつもりもない。
……しばらくすれば、また来るだろ……
司は長年瑠璃を見ていて、学習していた。何事もなかったように、また夫婦喧嘩の度にやってくるだろう。
………鍵がねーし、今度は、インターホンでも鳴らすだろ………
「俺、今日、お袋んとこに、行ってたんだ」
「え?………お母さんのところに?」
「あぁ。結婚のこと、喜んでたぞ?香澄に会いてーってよ」
司が微笑みながら言っているのを見て、香澄は、にっこり笑った。
「ありがとう。司」
……司のお母さんに、会いたいな……
……仲良くしたいな………お姉さんも、……ちょっと怖そうだけど、会ってみたいな………
「自分の親だと思え。仲良くしてやってくれ!」
司の言葉を聞いた香澄は、回した腕に力をこめ、さっきより強く抱きついた。
………ふっ…可愛いな………
そんな香澄に、司の頬は緩む。
「司、ありがとう。…………っ…ぅ……」
泣き出した香澄の腰を抱きながら、司は、囁く。
「泣けよ。すっきりするまで」
「……うぅ…………っ……」
………私、お母さんが欲しかったんだ…司のお母さんだもん、きっと温かい人なんだろうな……
香澄にも、母親はいる。ただ、母親に愛された記憶がない。親にとって、親戚や知人への自慢の種にならなければ、居場所がなかった。
香澄は、ただ、そのままの自分を受け入れてくれる母親が欲しかった。アクセサリーとしてではなく、内面の自分を見てくれる、母親が欲しかった。
司の言葉が導火線となり、香澄は赤子のようにわんわん泣いた――――――
本当は、怖かった。声も出ないくらい。
ヤクザの世界など、何も知らないが、とんでもない事に巻き込まれたのではないかと、いろんな事を考え、余計に怯えていたのかもしれない。
母の事を、思い出し、胸が苦しくなって、何を叫んだか覚えていない。体が痺れたようになり、息苦しくて……
気がついたら、………………目の前に司がいたのだ。
……つかさ…だいすき……つかさがいてくれて、よかった…………………………ありがとう……
香澄は、心の中で何度も呟いた―――
香澄が泣き止むまでずっと、司は香澄を抱き締め、後頭部や背中を撫でていた。
「………ズズ…ズズッ……っ……ック……」
「落ち着いたか?」
「ん……あながあみだい………グス……」
……何言ってんだ?コイツ………?…?…
「…?!……あ、待ってろ…………クククッ…ひでー顔…………クハハハ……」
司はティッシュの箱に手を伸ばし、鼻声と言うよりは息ができずに窒息死しそうな香澄に、数枚とって渡した。
「クハハハ………ック…ッハハハ…………」
香澄が鼻をかむ“シュ――ン!”という繰り返し響く音に、それはそれは豪快な音に、顔に、司は爆笑していた。
……恥ずかしいけど、司の前だと、こんな姿も……見せられる……不思議………
香澄は、人の前で、それも惚れた男の前で、豪快に鼻をかむ事は初めてだ。涙なのか鼻水なのか、分からないくらいグチャグチャな顔を、さらけ出している自分にも驚いていた。
“二日月”のあの日、司の胸の中で泣いた時より、醜い姿を晒していた。
「お前、すげーな………クククッ……」
「いどーいっ……」
「ひどくねーよ!気が済むまで泣け!不細工な香澄も、香澄に変わりねぇ」
「……ぅ…………っ………グス………ック……」
………司がいなくなったら、私、生きていけないんじゃないかな……
香澄は、誰かに縋ったことはなかった。どんどん司に惹かれていく自分が、嬉しくもあり、怖くもあった。
司は、香澄と親との柵が、思ったより深いことに気付いた。
……ヒデェ事しやがって……
そして、香澄の親に怒りを覚えた。
確かに、近所にまで子供の泣き叫ぶ声と母親の金切り声が聞こえていたと、調査資料にはあった。が、大人になっても消えない香澄の傷に、司は心を痛めた。
……香澄は、帰る場所がねーんだ…俺がしっかりしねーとな…………
………あぁぁぁ――!!!!!……でっけぇ男になりてぇ――――!!!!!…………
司は、自分が香澄にしてやれる事を、考えていた。
―――愛すること―――
それ以外には浮かばなかった……。“愛すること”の意味も分からないまま。
泣き疲れたのか、寝息をたて始めた香澄。
「………ふっ……寝てやがる……可愛いヤツだよな?お前……」
司は、香澄をベッドに寝かせて、シャワーを浴びようと立ち上がろうとした。が、何かに引っ掛かっているのか、シャツに引き戻された。
……………?……………
シャツの端を香澄が“ぎゅっ”と握っているのを見て、嬉しくなり、再び腰を降ろし香澄をよく見ると…………。
………は?寝てるじゃねーか……
香澄はスースー寝息をたてたまま、熟睡中。
………寝てる間も、俺を誘うのか?!……ったく、勘弁してくれよ……
司は、そのまま、香澄を腕に抱いて、横になった。
………頼られるって、くすぐってぇけど、嬉しいな………
司は、自分を必要としてくれる香澄が、可愛くて仕方なかった。実家で、自分は“いてもいなくても変わりないように扱われている”と、思っていたからかもしれない。
司のシャツを握りしめていた香澄は、安心したのか、司の胸に頬をつけて穏やかな顔をしていた。
………心配すんな、俺が守ってやる………
寝顔を見つめていた司も、いつの間にか、眠りに落ちた――――
五番目の月は、すでに沈んでしまったが、遠くから、二人を見ていた――
次の日―――
“rurururu―rurururu”
鳴り響く電話の音に起こされた司は、しぶしぶ携帯をつかんだ。
「…………うっせーな。…なんだ?……聞こえねーなぁ……あぁ"?……ったく……分かった…」
………ん?…朝?………
司が誰かと電話している声で目を覚まし、寝ぼけ眼をこすっていた香澄は、
「……キャッ……??…」
司に突然お姫様抱っこをされて、すっかり目が覚めた。
「……起きたか?かすみちゃん!」
…………?!…………
………ひょっとして危険なパターンですか?……
司はご機嫌な様子で、バスルームに向かっている。
「さ、風呂だ!脱がずに入るのか?」
ニヤッと笑う司に、香澄は首を横に振った。二人は脱衣場に立ち、向き合ったまま動きを止めた。司は、じーっと香澄を見ていた。
「…………え…」
……まさか、…目の前で……脱げ…と………?………
何か言いたげな司の視線に、香澄はドギマギしていた。司は、視線を合わせたまま、昨日のシャツを脱ぎ捨て、ズボンも下着も脱ぎ、あっという間に裸になった。
「キャッ…………」
思わず後ろを向いた香澄に、
「……クククッ……脱がせて欲しいのか?」
楽しそうな司の声が飛ぶ。
香澄は、みるみる熱くなる自分の顔を見せないように、言葉を落とす。
「だ…だいじょうぶ……先に入ってて?」
司は、ニヤニヤ笑いながらバスルームに入って行く。
「一緒に入るのは確定なんですね……」
ボソッと呟きながらも、香澄は、素直に脱ぎ始めた。
そして―――
一緒にお風呂に入り、朝ご飯を食べて、身支度も整った頃、学校に行くのを渋る香澄に司の声が飛ぶ。
「学校行けよ!」
「……目腫れてるもん……それに……」
風呂場の鏡を見て、びっくりしたのは香澄だった。
“あなたは誰ですか”と自分に呼びかけたくらいだ。
「誰も、香澄だって分かんねーだろ?」
「………な………っ…ヒドい!!!」
「クククッ………大丈夫だ。俺が迎えに行く頃には、元に戻ってるだろ……クククッ……こっちもな?」
「……ひゃん………っ………もう!…司のエッチ!!……」
………どこ触ってんのよ!!………
「………クククッ……さっきはあんなにっ……イテェ――ッ……」
香澄は、思わず司の腕を叩いた。
「お前、叩くことないだろ……」
司は、香澄が触れた腕をさすりながら、香澄の顔を覗き込んでいた。
「………ごめん…なさい」
………素直だよな~………痛いわけねーだろ?……イジメたくなるんだよな…………
「“大好き”って言えよ。許してやっから」
…………?!……………
……だ…だいすき?!…………
色気のある司の声に、香澄は真っ赤になってオロオロしていた。
顔から火が出そうな香澄を見て、頬が緩む司だったが、香澄の口から、“好き”を聞いたのは、一度だけ。手紙を入れても、二回だけ。
………言って欲しいんだよな………新婚だろ?………
「好きじゃねーのかぁ?」
司は、ふてくされたように言い、挑発する。
………言えよ………
「……そ、…そうじゃないよ」
香澄は瞳を忙しく動かせていた。
「だったら言えよ」
畳み掛けるように言葉を繋ぎ、司は香澄の腰に腕を回して顔を近付けた。
香澄は、じっと司の瞳を見ながら、声を出そうと試みていたが、恥ずかしくて俯いた。
「は……恥ずかしい…………」
………言いたいけど恥ずかしいよ……
「じゃあ………キスしろよ」
「……え…」
すでに司は目をつぶり、口をつきだし、目尻を下げて微笑んでいた。
………か…かわいい………って、そんな事考えてる場合じゃなくて………………
「…ん―――まだかぁ?」
香澄は覚悟を決めた。
司の首に腕を回して、
あと十センチ………
あと三センチ………
目を閉じて―――――
“ピンポーン”と、高らかに鳴り響くインターホンの音に、香澄の緊張の糸は切れた。
…………っ…………
「あぁぁ―――!!誰だよ!…っ……」
悔しそうに叫ぶ司に、気が抜けて、へなへなと座り込む香澄。
モニターを見た司は、
「……っ……隠しカメラでも置いてんじゃねーだろうなぁ……」
とキョロキョロしながら、悔しそうに呟いた。
「か、隠しカメラ?!」
………嘘でしょ?………
司の言葉が、“下條家”ならばあり得そうで、冗談に聞こえなかった香澄は、大声を出した。
「……ックハハハ…………ハハハハッ……お前、面白れぇなっ……」
「え?」
「大丈夫だ。ここにはねーよ」
……ここに“は”って……事は……?……
キョトンとする香澄を見ながら、
「あーんな事やこーんな事する場所に、置かせるかよ……ふっ…」
司は、穏やかに笑っていた。
が、再び“ピンポーンピンポーン”と、鳴り響くインターホンが、司の眉間にしわを寄せる。
「あぁ、うぜぇ―」
司は、モニターの通話ボタンを押して、相手に、“すぐ行く”とだけ言ってスイッチを切った。
「香澄、バイト終わったら、連絡な?あ、これが新しい鍵だ」
「うん」
香澄は、新しくなった鍵を握りしめ、玄関に向かう司の背中を追いかける。
司は、振り返り、香澄をぎゅっと抱きしめ、キスを落とした。
「行ってらっしゃい。気をつけてね」
「あぁ、行ってくる」
ドアが閉まる音を聞き、香澄は忘れないように鍵をかけた。
泣き腫らした目で、ずいぶん不細工になった香澄だったが、気分はとても清々しく、司に言われた通り休まず学校に行った。
奈津美に、開口一番、爆笑され、追及されたことは、言うまでもない……
“三行半”とは、離縁状・別離状(離婚届)の事です。
昔、離縁の際に使われた書類。夫から妻へ、三行半程度の文面であったそうです。
現在では、どちらかが一方的に別離を迫ると言う意味を含みます。
“Second Moon Ⅰ”では、一方的な別離という意味合いで用いております。