四番目の月
そして次の日、
目が覚めた香澄は、身動きができない事を悟って、司の寝顔をぼんやり見つめていた。
“パチッ”と音がしたかのように、片目を開けた司と目が合い、“ドクン”と胸の奥が跳ねた。
「起きてたの?」
「んーおはようのチュウしてくれんの、待ってたんだけど?」
司の鼻にかかった甘い声に、香澄の頬は、一瞬にして真っ赤になる。まるで“ボッ”とマッチを擦った音が聞こえそうなほどに。
「昨日はあんなに」
「キャーやめて……」
司が言いかけた言葉の先を想像した香澄は、耳を両手で塞ぎながら目を閉じた。
「クククッ」
司は楽しそうに微笑みながら、香澄の両手を掴んだ。
「……キャッ……んんっ……っん………」
深いキスを交し合い、ゆっくりと唇を離すと、香澄の顔は更に赤く染まっていた。
「はよ」
「おはよ……」
香澄は、恥ずかしくて顔を背けた。
「起きれるか?」
「…………」
起きれるはずもなく、香澄は首を横に振る。
司は、香澄を抱きかかえて起き上がらせた。
………イタイ…………
顔をしかめた香澄を見て、司は、布団を剥がし、
「キャッ………ゎ……降ろして……恥ずかしい…………怖い………………ねぇ…」
ニコニコ笑いながら、全裸でもがく香澄をお姫様抱っこをして、バスルームに連れて行く。
そして………
「かすみちゃん?………かぁすみちゃん……ごめんって……ね?…」
「もう知らない!今日学校あるのに………司のバカ……」
お怒りモードの香澄の行く先々に、くっ付いて回る司。
バスルームで体を洗いっこしたまでは良かったが、調子に乗って司はヤってしまったわけで……。
「ごめんって…」
謝りながら顔を覗き込もうとすれば、顔を背けられ、香澄の視野に入れない自分に苛立つ司。
……こうなったら、なし崩しだ……
司は香澄の顎を持ち上げた。
“チュッ”と軽く唇に触れるキスを落とし、
「知らない……んん…っん…………」
それでもまだむくれた香澄の口を塞いだ。
唇をキツく吸われて、ぼーっとしている香澄に、
「いったん帰ろ、まだ時間あるだろ?」
司は優しく囁いた。
「ん、二限目からだから、間に合う……」
ムスッとしながらも、自分から離れようとしない香澄に、司は幸せを感じていた。
………かわいい…………
「可愛い……香澄…………お前可愛いからつい……」
「いいよ……司だから許す……」
“チュッ”
再びキスを落とす司の頬は、緩みっぱなしだ。
モーニングサービスで朝食をとり、二人は通勤ラッシュが落ち着く頃、ホテルを出た。
司は、香澄に言おうか言うまいか迷っていることがあった。事務的な手続きは“下條”だが、“朝霧”を名乗るように大学に話を通してある。
……俺が、普通だったら……
「なあ…」
「……ん?…」
「俺とこうなった事、誰かに話すのか?」
司は、信号で停止中、香澄に視線を投げた。
「ん?言っちゃまずいの?」
「大学は、旧姓のまま。結婚したことは黙っとけ」
「え?」
司は、再び車を走らせながら考えた。
……正直も、いいが、……
「着いたな、まだ、時間はあるな」
「うん」
マンションに着き、二人は部屋に向かった。司の後について歩きながら、香澄は、さっきの司の言葉を思い出していた。
……結婚したこと……言うとまずい?……
ドアを開ければ、目の前にダンボールが置いてあり、二人は顔を見合わせて笑った。司は、ダンボールを抱えて香澄の部屋まで運び、キッチンでコーヒーを入れ始めた。
香澄は、着替えを始めたのだが、薬指のリングが引っかかり、ストッキングを破いてしまった。
……指輪貰ったの初めてだし……ずっと着けていたいけど……
厚地のタイツに履き替えたが、高価なダイヤを身につけて学校に行く事に抵抗もあり、香澄はリングを抜き取り、鏡台の引き出しにしまっておいた。
準備を済ませて部屋を出ると、コーヒーのいい匂いが漂っていた。
「コーヒー飲むだろ?インスタントだけどな」
「うん、ありがとう」
香澄は冷蔵庫から牛乳を取り出し、カップに注ぐ。
「俺も」
「うん」
「香澄も牛乳入れんだな、砂糖なしだろ?」
「うん」
……俺たち、結構、あうんじゃねーか?……
司は、香澄が牛乳を注ぐ姿を見ながら、目尻を下げていた。が、それも束の間。
「おい!」
急に顔をしかめて大声を出した司。
「え?」
香澄は、司の眉間に寄ったしわを見て、一瞬怯えた。
……なに?……入れすぎたかな?……
司の視線の先は、香澄の手元だ。
香澄は牛乳を入れすぎたのかと思い、手を止めた。
……どうしよう……聞けばよかった……
「ごめんなさい、入れすぎだった?」
俯きながら謝る香澄。
「は?」
司は、香澄の萎縮した反応に気づき、自分の顔を想像した。
……ああ”―!クソッ…怖がらせてどうすんだよ!……
……おちつけ!俺!……
司は、ゆっくり息を吐き、深く息を吸い込み、口を開いた。
「指輪、どうした」
「え?」
素っ頓狂な声を上げながら、香澄は自分の左手を見た。
「気に入らなかったか?」
低い声を聞き、司の機嫌が悪い原因は指輪だと気づいた香澄は、懸命に言い訳を始めた。
「っと、ストッキングが破れちゃって……」
……ストッキング?!んなもん知るか……
「トイレで外したりしてて、なくしたくないし……大事なものだから、…」
……つけとかないと、意味ねーだろ……何で外すんだ?……
瞳を左右に動かしながら、話す香澄を見ながら、司は、イライラしていた。
「かすみ」
「ん?」
「ストッキングとか、俺、分からねー」
司は、意味の分からない事を並べる香澄に言い放つ。
「っと……、トイレに行くたびに、ストッキングを下ろすから、その……ダイヤに引っかかって、破れちゃうの……」
身振り手振りで、説明する香澄を見ながら、司は、“ダイヤが邪魔”と言うことだけは分かった。
……あの店員、そんなこと言ってなかったぞ?……
司は、香澄をカフェに迎えに行く前、ジュエリーショップに指輪を買いに行った。サイズは香澄が寝ている間に測っておいた。婚約期間は半日だ。エンゲージリングもマリッジリングもよく分からない司は、“女が喜びそうな指輪を”と店員に相談しながら決めたのだ。
「分かった。ストッキングが破れねーのならつけていくのか?」
「うん」
香澄は、ようやく司に伝わったと思い、ホッとして肩の力が抜けた。
司も、コーヒーを口に含み、落ち着きを取り戻した。
「女って大変だな…」
「…ははっ……」
……女の子のカラダの事は、わたしより詳しいのに……
香澄は、女慣れしていると思った司の意外な一面を見た。
司が詳しいのは、女は女でも“裸のオンナ”限定だとは、気づくはずもなく。
「それからな、大学では、“朝霧香澄”だ。話を通した」
「なんで?」
「その方が、友達が減らねーだろ。ま、俺の経験上な」
笑いながら話す司を見て、香澄は、言葉に詰まった。
「悪いことをしてるわけじゃないのに……」
むくれた香澄を見て、司は笑い出した。
「…クククッ……お前、損するぞ?」
「損?」
「ああ。ま、とにかく内緒にしとけ」
腑に落ちないといった顔のまま、香澄は、奈津美の顔を思い浮かべていた。
「奈津美には、言っていい?」
「奈津美ちゃん?友達か?」
「うん、奈津美は分かってくれると思う」
「そうか、いい友達なんだな。そろそろ行くか?」
コーヒーを飲みきり、車のキーをかざす司は、さっきよりやわらかい笑みを浮かべていた。
「うん、ゆっくりじゃないと歩くのが…」
「まだ痛いのか?」
「もう!司のせいなんだから!」
頬を染めながら、むくれる香澄を見て、司は笑い出す。
「クククッ…抱っこして欲しいならそう言えよ」
「……歩けるから!」
司は、香澄の反応を楽しむように、微笑んでいた。
その後、二限目に間に合うように香澄を大学に送り、仕事に向かった。
そして…
「……………………………………」
ポカーンと口を開けた奈津美は、暫く放心して、幽霊でも見ているような眼差しで、香澄を見ていた。
「え?…………っえぇぇ―――――っ!!!!……ちょっと、香澄、それで、結婚しちゃったの?」
「うん」
「………………それで、香澄は、そそ…その…彼と、一緒にいるの?」
「うん」
「……………ハァ………何がどうなったら、そんな事になるの………」
呆れたような、諦めたような表情で、奈津美はため息混じりに呟く。
「……気がついたら、そうなってた……」
香澄は、ここ数日間の出来事を思い出し、幸せそうに微笑んだ。
「…………香澄、好きになっちゃったんだ……」
奈津美は、あまりにぶっ飛んだ香澄の話に驚きつつ、香澄の幸せそうな笑みに、頬を緩ませていた。
奈津美は、大学に入ってから、香澄と知り合った。
正直な香澄と、気が合って、いつの間にか二人でいるようになった。
香澄が、まだ愁と付き合っていた頃、愁の後輩にあたる晃と奈津美が知り合い、付き合う事になった。
その頃から、奈津美は、愁に相談を持ちかけられる事があった。
“理性が吹っ飛びそうになる”と、愁はよく、こぼしていた。
……愁先輩、ご愁傷様です……
……香澄はオンナになったようです………
昼休みに大学祭実行委員の集まりがあった奈津美は、香澄の話を放課後まで聞けなかった。何かあった事は、香澄を見ていれば分かったが、まさかこんなことになっているとは思いもしなかった。
「香澄?…相手は会社社長って、どこの会社なの?…」
「…………下條さんって言って……」
……………!!…………
………し……下條?!…
…………は?………………“下條”…………って、…えぇぇぇぇ―!!!!!!…………
奈津美は、香澄の口から“下條”という言葉が出たとたん、目を見開き口を開けたまま固まった。
「……………………」
……落ち着け!落ち着けあたし!名字が同じだけなのかもしれないじゃない……
奈津美は興奮して、体温が急上昇した。
バサバサと睫毛の音をたてて、まばたきを繰り返す。
……香澄知らないんじゃ…………
奈津美は、落ち着こうと思い、ゆっくりと深呼吸した。そして、言葉を選びながら話し始めた。
「香澄、……地元じゃないから、………………………知らないだろうけど、………………………………………"下條"って、この辺りで有名なヤク…」
「知ってるよ」
……………!……………
小さな声で囁くように、奈津美が言った言葉を、香澄は遮った。
「……香澄?」
奈津美は、我が耳を疑った。“トクン”と心臓が跳ねる。
……知っててなぜ?………
「聞いたから。………………それでも…」
「ちょっと!香澄!!!!…………ちょっと待って―――――――!!!……」
奈津美は頭を倍速に回転させた。いや、四倍速に。
先程は、香澄の純潔が奪われた事に驚いていた奈津美。
……まさかのまさか、相手が、あの、“下條”?!……
…………?!……………
……香澄が極妻?!……
……あの…着物着て、啖呵切る?…いや、………あの香澄が?!………
……見た目は似合いそうだけど、…………………………ってそんな事言ってる場合じゃないよ…………
……騙されてるんじゃ?……
……何かの間違いよね?……
奈津美は大きく深呼吸し、小さな声で、香澄の顔を伺いながら言葉を繋いだ。
「“下條”さんって、今は会社社長かもしれないけど、昔、派手に暴れてたんだよ?香澄、知ってるの?」
……………?……………
「派手に暴れてた?………司が?」
香澄は、“信じられない”といった顔をしている。
………司が?……信じられない………
「若い頃、荒れてたらしくて、…………噂だけどね」
この辺りが地元の奈津美は、姉から“下條司”の噂を聞いたことがあった。噂とは言え、“火のないところに”なんとやらだ。敢えて関わろうとは思わない、そう思っていた。
…………?!……………
香澄は驚いていた。
……あの優しい司が?!……
……時々、表情が変わるけど…根っこは優しいよ?……
「……昔の事でしょ?今は、優しいよ?」
「……ま……そうだけどさ…………」
……でなきゃ、香澄が落ちるわけないし……
………こりゃ相当やられてるわ…………
奈津美は、香澄が本気で好きになっていると気付き、複雑な気持ちになった。
………香澄には幸せになって欲しい………
……ヤクザの奥さんで、……香澄は幸せなの?……
……変なところで、肝が据ってるんだよね?香澄って…………ハァ……
「でも、香澄、綺麗になったよね。……あんたを落とした男、見てみたいわ…………」
……怖いもの見たさってヤツかな………
奈津美は、未だに信じられず、興奮したままだ。
「司に話してみる」
香澄は、キラキラした笑みを浮かべていた。
……………っ…………香澄、本気にしちゃった?!………
……いきなり、何も言わずに拳銃ぶっ放す、とかは、ないよね?……………
……テレビの見過ぎだよ、うん…………
ドキッとした奈津美だったが、その笑顔を見て、香澄が信頼する人なら会ってみたいような、そんな気がした。
「忙しいだろうし、そのうちね?」
……それにしても、人生何が起こるか、分からないわ…………
……あれだけ箱に入れて、厳重にカギをかけて育てた親が聞いたら、腰抜かすだろうね………
「司がね?“大学では内緒にしろ”って言ったんだけど、奈津美に隠し事したくないから……」
何かを懇願するような眼差しに、奈津美の腹は決まった。
……人を疑わない、人を外見や肩書きで判断しないのも、香澄の良いところだしね……
「誰にも言わないから、心配ないよ!あたしと香澄の仲じゃない!奈津美様を見くびらないで!」
キッパリ言ってのける奈津美に、香澄は目を潤ませて微笑んだ。
「奈津美がいてくれて、良かった」
香澄は心の中で“ありがとう”と呟いた。
その時“ブーッブーッブーッ”と携帯が震える音が聞こえて、奈津美は香澄のカバンに視線を移した。
「出なよ」
奈津美に言われて、香澄が携帯を開いた。
パァーッと香澄の表情が明るくなり、目の前で見ていた奈津美は、電話は司からだと悟る。
「もしもし…………うん、……ハハッ…奈津美とお茶してた…………うん分かった……」
奈津美は、幸せそうに話す香澄を見ながら、ミルクティを飲みきった。
「司さんでしょ?行きなよ」
「奈津美、ありがとうね」
香澄は、化粧を直して門に向かった。
門を出ると、司の車が視界に入り、香澄は早足で、車に向かう。
上機嫌で助手席に乗り込む香澄を見て、司は目を細めた。
……今朝の事は、もう怒ってないみたいだな………
……歩き方も、ペンギンじゃなくなって……ふっ……
「何かいい事でも、あったのか?」
「奈津美がね、これからも友達でいてくれるんだぁ……」
ニコニコ笑いながら言う香澄に、
「良かったな」
左手で香澄の頭を撫でながら、司はホッとしていた。
……俺の中学時代なんて、悲惨だったからな……
司は、小学校を卒業するまでは、母の旧姓を名乗っていた。“下條司”として中学に入学してからは、それまでのツレにまで距離を置かれた。
そして、司は荒れた。強くなりたい一心で、武道を習い始めたのも、その頃だった。
「ねぇ、司………どこに行くの?」
車は、マンションのある住宅街ではなく、繁華街に向かっていた。
「まぁ、着いたら分かる」
司の耳は赤く染まる。
…………?…?…………
しばらくして、車は、パーキングで止まった。
「着いた。降りろ」
……どこに行くの?……
香澄が車を降りて、司に近付くと、“グイッ”と司に肩を抱かれて、温もりに包まれた。“ボッ”と頬を染める香澄。
「寒くないか?」
優しい声音に“ドクン”と胸が跳ねる。
「うん、あったかい」
香澄は恥ずかしながらも、自然に司の懐に身をあずけていた。
そして――――
「いらっしゃいませ、下條様。お待ち申し上げておりました」
自動ドアを抜けると、黒いデザインスーツをバッチリ着こなしたスタイル抜群の美女に迎えられた。案内された場所には、キラキラと光るジュエリー達が、待っていた。
………うわぁ~!すごいっ!…………
香澄は目を輝かせた。
その表情を見た司は、耳を赤くしていた。
………本当に嬉しそうだな……ふっ…その顔は反則だろ!!………
「奥様、念のため、サイズの方、測らせていただいて、宜しいでしょうか」
………お…おお奥様!?………
香澄は顔を真っ赤にしながら、手をバタバタと振っている。
「………ふっ…二日で急に太ってなけりゃ、コイツは七号だ」
司は香澄の左手を掴んで微笑む。
香澄は握られた手に反応するように、司の顔を見上げた。柔らかい笑みに顔をほころばせながら、自分も知らない指輪のサイズを司が知っている事を不思議に思った。
……………?……………
「何で知って………あ、……」
香澄は、昨晩、司にもらったダイヤの指輪がぴったりだった事を思い出した。
………司、いつ買ったんだろ…………?………
……………?……………
「では、奥様は七号で。ごゆっくり御覧下さい」
店員は、そう言って微笑み、奥に下がった。
香澄がキラキラ輝く指輪を眺めていると、店員は、何やらケースを持って戻って来た。
ケースの中には、ゴールドや、プラチナ、ピンクゴールドなど、ペアリングが並んでいた。
「つけてみますか?」
店員に勧められて、香澄が手に取った指輪は、小さなダイヤが、数え切れないほど並んでいた。
…………?!…………
……高いんじゃない?…
香澄は、値段の安いもので充分だと思っていた。でも、綺麗なリングを見ていると、顔がほころぶ。
………司はゴールドが似合うよね………
司とペアのリングを想像しながら、香澄は夢心地だ。
司が、店員に小声で何か言い、店員はまた奥に下がった。
リングを、キラキラした目で見つめながら微笑む香澄に、
「お前が好きなのを選べよ」
司の目尻は下がりっぱなしだ。香澄ばかり見ていて、リングには視線すら向けていない。
「綺麗!!司、これ、高いんじゃない?」
心配そうな香澄の顔を見て、司は苦笑いする。
「ここにあるもんは、俺が買える範囲だ、心配するな」
……つーか、お前の方が綺麗だぜ?……ふっ………言えねーけどな…………
香澄の後頭部に手を当てて、優しく微笑みながら司は思う。
“コイツ、男に強請ったこともねーんだろうな”と。
そして…
「これだな?」
司は突然、リングを指さして言い放った。
「え?」
…………私何も言ってないよ?…………
香澄が遠慮するのは、分かっていた。司は敢えて、値札を付けずに持って来させていた。
香澄の視線が、一点に集中し始めたのを見た司は、そのリングを記憶して、
「よし、帰るぞ」
…………え?……………
戸惑う香澄の肩を抱いて、立ち上がった。
「お帰りですか」
「あぁ、決まった」
司はさっきのリングを店員に示す。
…………え?……………
司は、香澄から少し離れて、リングを指差しながら、店員と何か話し始めた。
……………?!…………
それを見た香澄は、“ドクン”と胸の奥が大きく震え始め、身に覚えのない体の変化に戸惑った。
……な………な…何?……
体温が急上昇して、顔がすごく熱い―――。
“ドッドッドッドッドッドッ”
心臓がうるさい――。
………こんな顔見られたくない………
鏡を見なくても、自分の真っ赤な顔は想像できる。香澄は司に気付かれないように、こっそり店の端っこに移動して、しゃがみ込んだ。
そして、小さく丸くなりながら、止まない心臓の痛みに耐えていた。
司は、指輪を早く用意したかった。昨日渡したダイヤの指輪は、“ダイヤがストッキングに引っかかって破れる”とか、“外して無くしたくない”と言って、香澄が学校に着けていかないからだ。
……着けて行かねーと、虫除けにならねーじゃねぇかっ!………
店員に、“大至急準備しろ”と圧力をかけた。香澄に聞かれないようにと離れたところで話をしていたのだが、気づけば香澄の姿がない。
……………?!…………
……香澄どこ行った!?………
司は、店内を探し始めた。
一方香澄は…
……な……に……この感情………
司と店員が、話しているのを見た香澄は、司の笑顔が、店員に向けられている事に、どうしようもなく苛立った。
嫉妬くらい、今までにも経験した。だが、自分で自分をコントロールできないほどではなかった。信じられない、いや不思議な気分だ。
……今までのは、嫉妬じゃなかったの?………
小さくなって、うずくまりながら、戸惑っていた。高熱を出した時の熱い感覚、緊張して言葉が出ない時の胸の鼓動、どれも今の自分と比べたら、冷静だったと感じる。
……司とあの美女を見ていられない……
……自分が自分でないみたい……
嫉妬が醜い感情だと思っていた香澄は、自分の中に黒い感情があったことに、ショックを受け、驚いていた。
「おい……かくれんぼか?……ククッ……」
……いきなり消えるなよ…探したじゃねーか………
司の声が頭上から降って来て、香澄は大きく深呼吸をした。
……まだ顔が熱い………
“ドクン”と胸の鼓動が確かに聴こえる。
「帰るぞ」
香澄は、司に抱えられるようにして、立ち上がった。そのまま顔を見られないように俯いて、司にくっついて店を出る。
……早くおさまって……
自分の感情をコントロールできないなんて、香澄には初めてだった。
もうすぐ十一月、外はひんやりして、風が冷たい。少し落ち着きを取り戻した香澄は、顔を冷やそうと、上を向いた。
空には昨日より少し満ちた月、四番目の月が顔を覗かせていた。
香澄の激しい嫉妬心を、月だけが見ていた。
車に乗り込み、司はそんな香澄に気づくことなく、マンションに向かって車を走らせた。隣を見れば、黙ったままの香澄。
「何ぼーっとしてんだ?」
「え?」
「………ククッ……さっきから何もしゃべらねーし……眠いのか?」
………眠くないし………
……嫉妬に狂って、落ち着かせるのに、いっぱいいっぱいだったなんて、言える訳ないし…………
「明日は朝から学校か?」
「うん」
「そうか、じゃあ早く帰らねぇとな」
司はニヤリと笑った。
……わ……わわ…………
香澄の胸が跳ねると同時に、司は香澄の肩を引き寄せた。
……キャッ…………
「……ゃ…………」
香澄は、心の中で悲鳴をあげ、無意識に司の腕をほどいていた。
…………は?……………
……なんだ?俺を拒むのか?…………
…………何でだ?………
司は、香澄の反応に驚き、慌てて車を左に寄せ、路側帯に停めた。香澄を見れば、オロオロしながら自分の腕をさすっている。
………俺、拒まれたんだよな……
………ハァ……ショックでしばらくはタチ直れねぇ………
「ごめん…なさい」
…………っ……………
……ごめんってなんだ?…
……やっぱり結婚止めるとか、言うんじゃねーだろうな………
突然謝る香澄に、司の頭の中は更に混乱する。
「嫌だったか?」
司は内心ビクビクしながらも、ぶっきらぼうに言葉を放つ。
香澄は、フルフルと首を横に振りながら、
「違うの……自分でも、分からない」
蚊の鳴くような声をあげた。
…………は?分からない?!…生理的に受け付けないとかか?…………
………それなら何やってもダメなパターンじゃねーか………
司は自分の腕を鼻に近付けて、確かめた。
……俺はまだオヤジ臭はしていない………
「指輪、気に入らなかったか?」
「ううん、あんな綺麗な指輪、私、凄く嬉しい!」
「……じゃあ、なんだ?……」
………あぁぁぁ――!!!!!!!…………イライラする…………
……女の気持ちなんか、考えた事ねーんだ、分からねー!!!!!…………
「………嫌じゃなくて………」
「帰ってから聞く」
言いかけた香澄の言葉を遮り、司は、再び車を走らせた。
………どうしよう…司怒ってる………
険しい顔をした司の横顔を見ながら、香澄は泣きそうだ。どうしてなのか、自分でも分からないが、司の腕を振り払ってしまった。
………もしかして、司があの美女に優しく笑いかけていたから?………
険悪な空気が漂う狭い空間の中で、香澄は、オロオロしていた。理由の分からない自分の行動に戸惑いながら。
マンションに着き、車を降りてからも、司は黙ったまま。
“バタン”と大きな音をたて、ドアが閉まる。
その音と同時に、香澄の体は宙に浮いた。
「……ちょっ…と…つかさ?……」
無言のまま、司は香澄を寝室に運び、ベッドに降ろした。
“ビクッ”と香澄の体が跳ねる。身震いがするような鋭い眼差しを見た香澄。
「俺を拒むなんて許さねー!」
「……………っ……………」
「訳を言え」
じっと香澄を見据えて、追及する司の瞳は、悲しげな色をしていた。その瞳を見た香澄は、何か言おうと息を吸い込む。
………言わなきゃ…………
……でも、恥ずかしい………
「言わねーなら」
「……キャッ………んん…っ…んふ………っ……」
司は香澄を押し倒し、唇を重ねた。
「………っん………っ…………ぁ………んん…」
激しいキスに、香澄は頭がぼーっとして、何も考えられなくなった―――
「……ゃん……つかさ………シャワー浴びてない…………ん……っぁ……」
司は容赦なく攻め続ける。香澄のカラダは熱くなり、自ら腕を伸ばして司の首を引き寄せた―――――その時、
「飯にするか」
……………え………………
司はベッドを降りて、リビングに向かった。
取り残された半裸の香澄は…………
「………………っ…………」
真っ赤になりながら、身なりを整える。そっと寝室のドアを開け、外を伺えば、司はソファーに座っていた。こっぱずかしくて、顔を見られないように、香澄はキッチンに立った。
「冷凍庫ん中、適当に漁ってあたためろ。俺、ちょっと、仕事残ってっから」
……頭、冷やさねーとな……
奥の部屋に向かう司の声を背中に聞きながら、香澄は出来るだけ平然を装う。
「うん、出来たら呼ぶね?」
振り返りながら普通に言ったつもりだが、どんな顔をしていただろう。
部屋の中は、電子レンジの機械音だけが、虚しく響いていた。
香澄は、自分の気持ちを口に出す事が苦手だ。
嫉妬なんて、恥ずかしくて言えない。
……でも、司、怒ってるみたいだし……
電子レンジが回っている間、香澄は、愁の言葉を思い出していた。
『言わないと伝わらないよ』
何度か愁に言われながらも、香澄は自分の気持ちを声に出来ないままだった。声に出して伝えることが苦手な香澄に、愁が提案したのが、交換日記だ。高校時代、携帯電話を持っていなかった香澄。電話もメールも出来ない、話す時間もない二人は、二冊のノートを毎朝交換していた。
香澄は、自分の部屋から便箋を持ってきた。
……司に伝えなきゃ……
―――― 司へ――――
言うのが苦手だから、書くね。
指輪ありがとう。凄く嬉しかった。
さっきは、ごめんね。
美人の店員さんと話している司に、頭に血が上って……
だから、嫌とかじゃないから。
司、大好き!
―――――――――香澄
おかずを温め終わり、夕飯の準備が出来た後、香澄は、司の茶碗の前に手紙を畳んで置いた。心臓は、“ドクンドクン”と波打ち始める。
そして、司の仕事部屋の前に立ち、深呼吸をひとつ。
“トントン”とノックする手は、自分の手ではないような感覚だ。すぐにドアは開き、司が顔を出した。
「あぁ、出来たか?」
「う…うん………」
「なんだ?何か変だなお前……」
司に顔をじっと見られて、香澄は、内心ドキマギしていた。
「あ……お風呂にお湯張ってくるから、先に食べてて」
引きつり笑いをしながら司に言い放つが、司の眼を見れない。
…………逃げたい…………
「あぁ、」
様子がおかしい香澄を見て、司は、もう一度香澄の顔を覗き込む。そして、首を傾げながら食卓に向かった。
……なんだ?変なヤツだな……
「……………ハァハァ…………」
香澄は、息切れしたときのように胸を押さえて、急いでバスルームに逃げ込んだ。“ドクン……ドクン……”胸の奥は騒ぐ一方だ。
お風呂の掃除をしてお湯を溜め始める。戻らなければと思いながら、戻るのが怖くなった香澄。
『あんた中学生じゃないんだから!!』
……奈津美様の声が聴こえて来そう………
『あんたが黙ってるから、愁先輩悩んでるよ?愁先輩の髪の毛が真っ白になったら、あんたのせいだからね!』
それは、幾度となく、奈津美様に言われた言葉だった。大学に入学してからも、“大好き”などと言えるはずもなかった香澄だ。司への手紙は、読まれている様子を想像するだけで、心臓が飛び出してもおかしくない。
………ハァ…
…司、手紙読んだよね……
……恥ずかしい………
「ぉーぃ」
……わ………わわわ………
「かぁすみちゃん!」
嬉しそうな司の声に、更に恥ずかしくなった香澄。
「かすみー」
………ゲッ…………………
司の声はだんだん大きくなり、ドアのすぐそばに立っていることが伺える。
「……………っ………………」
香澄の体温は更に上昇し、顔から火が出そうだ。咄嗟にバスルームに鍵をしてしまう。
“ガチャガチャ”と音がすると同時に、
「お前、鍵閉めるとか止めろよ」
言っている言葉に似合わない、デレッとした司の声が聞こえた。
“ドクン”と波打つ度に、香澄の心臓は、破裂寸前の風船のように膨らんでゆく。
「出て来いよ」
優しい声につられて、香澄はドアノブに手をかけ、鍵を開けた。
司は、俯いたままの香澄に視線を送り、瞳孔を広げたまま微笑んでいた。
「シャワー浴びようぜ?」
…………?!………………
顔を上げた香澄は、ニコニコ笑う司を見た。司は香澄に近付き、香澄は後ずさりする。
……え……ちょ…っ……
一歩、また一歩と逃げる香澄を追う司。あっという間に脱衣場の奥に追い込まれ、香澄は捕まってしまう。
「…………え?…待って……」
「待てねーな」
司は、ニヤッと笑って、香澄に迫る。膝立ちになった司は、香澄を抱きしめるようにして、スカートのファスナーを下げた。戸惑う香澄は、慌てて言葉を吐く。
「……つかさ…ご飯は?……」
「はいバンザーイ!」
「バンザーイ……ってえ?!」
………何つられてバンザイしてんのよ!私ってば!………
いつの間にか服を脱がされ、お風呂場に連行され……。
………………っ…………
「………キャッ……ちょっと……自分で洗えるってば………ゃ……んん……」
お互いの身体を洗い合い、湯船に浸かる。バスタブの中で、司は香澄を後ろから抱きしめる。
手と唇が香澄の肌を這う……。
「…………っ……ゃん……司のエッチ!……」
司の唇、舌、指に香澄のカラダは熱を持つ。
「……お前がかわいい事するからだろ?責任とってもらうぜ?……ふっ…」
「…………っ………ぅん………ぁ………ひゃん…」
香澄は、逆上せそうになりながら、虚ろな眼差しで司の顔を見上げた。
…………っ…………
司は、目尻を下げ、穏やかに微笑んでいる。
……今日は止まんねー!!!………
「さ、上がるぞ。続きはベッドな?」
司は、楽しそうに笑いながら、香澄を脱衣場に運び、恥ずかしがる香澄の体を拭き、お姫様抱っこでベッドに運んだ。
「寒いよ……」
呟く香澄を愛おしそうに見つめながら、司は香澄に優しく触れる。
「すぐ熱くしてやる」
甘い口づけと、肌を撫でる優しい手……
香澄は、司の愛に包まれ――――
朝日が昇る頃、疲れ果てて、ベッドで抱き合うように眠る二人。
食卓には、手付かずの夕飯。
あの手紙は、司の手帳に、大事に仕舞われていた――――――