二日月
翌朝――
目が覚めた時、香澄は、ベッドで腕枕をされた状態だった。よく見ると、司は整った顔。寝顔は可愛い。香澄は、思わずその頬に触れ、こめかみ、鼻に触れた。頬を緩めながら、手を引っ込めようとした、その瞬間……
「…………っ…………」
“ぎゅっ”と司に手首を握られ、香澄は息を飲む。そのまま腕を“グイッ”と引っ張られ、司の上に乗せられた。
「キャッ……起きてたの?」
あっという間に反転し、今度は司の下に組み敷かれる。
「お前に起こされた」
香澄のおでこにかかった髪をよけながら、司は香澄を見下ろしていた。
「可愛い事してくれるじゃねーか」
司は、“チュッ”と音を立ててキスを落とすと、驚いている香澄をよそに、ベッドから降りる。そして、振り返ることなく部屋を出て行く。
「……っ…………」
…………?…………
しばらく香澄は、寝惚けた頭を必死に回転させていた。
「かすみぃ、こっち来いよ」
部屋の外で司が香澄を呼ぶ。まだ寝ぼけたまま、香澄は起き上がり、言われたとおり寝室を出る。そして、リビングにいる司に近づいた。
…………あ…………
香澄は口をあんぐり開けたまま固まった。
香澄の視線の先は、香澄の欄以外すべて埋まった婚姻届――――
……本当だったんだ?……
司が最後の一文字を書き終え、無言のまま香澄にボールペンを差し出す。
…………マジ?…ですか…………
香澄は床に座り、ローテーブルに置いてある“それ”を見つめた。
…………何でこうなったんだっけ?…………
香澄は、昨日の自分を思い返そうとした。が、
「ほれ、早く書け」
司は、当たり前のように急かす。まるで香澄に考える隙を与えないように。婚姻届を見据えたまま固まる香澄に、司は、
「書き方が分からねーか?」
穏やかな口調で訊ねる。
「……………………」
香澄が書くべき場所は、きれいに空欄になっている。香澄に分からないはずはない。香澄は、黙ったままボールペンを握り締めていた。
……名前書いちゃって、役所に出しちゃえば、朝霧香澄は下條香澄になるわけで……
……これでいいの?……
「本気?」
香澄は、思わず言葉を漏らした。
「あ?今更何言ってんだ?明日まではダメ!とか言いやがって……俺を 生殺しにした女はお前だけだぞ……」
司の声は、だんだん小さくなっていく。香澄は、その司の言葉に、昨夜の自分を思い出し、顔が熱くなる。
「ヤりたいから結婚するの?」
……ヤッたら離婚とか、そんなのイヤ……
どこまでも疑ってしまう香澄に、司は、言うつもりのなかった言葉を吐く。
「あのな、ヤりてーだけなら不自由してねーんだ、俺は。お前は…なんつーか……とにかく名前を書け!俺が一生守ってやっから」
ほんのり耳を赤く染めた司のその言葉に、香澄は、なぜか、ボールペンを走らせていた。そして、何故か用意されている印鑑を迷うことなく押す。
司は、今まで、朝まで女と眠った事などなかった。落ち着かなくて、眠らずに過ごすか、ヤったら帰るかだ。自分に近付く者を簡単には信用しない。そんな司が、今朝は不覚にも眠っていた。司は自分に驚いていた。香澄の寝顔を見ながら、いつの間にか眠ってしまったらしい。しかも熟睡していた。“コイツなら一緒に暮らせる”そう直感したのだ。
香澄が判を押したのを見て、司は用紙を持って立ち上がった。
「役所行くか?」
……善は急げだ、放してやらねーぞ……
「うん…?…」
「すぐシャワー浴びて準備しろ!」
司は、香澄の頼りない返事を気にすることなく言い放ち、自分はキッチンへと向かう。香澄は、司に言われるままバスルームへと向かった。シャワーを浴び、着替えて化粧を施す。香澄は、急いで支度をした。
身支度を整え、司のいるであろうキッチンに行くと、司は朝ご飯の準備をしていた。テーブルの上には、トースト、シチュー、ほうれん草入りオムレツ。
「これ、下條さんが作ったの?」
香澄は思わず声を出した。
「あ?ま、冷凍したヤツを、あっためただけだがな」
司は平然と答える。
「作って冷凍してるの?誰が?」
…………まさか、女?…………
どう見てもレトルトではないシチューにオムレツ。それを見て、香澄が不安になるのも不思議はない。
「姉貴だよ、何だ?ヤキモチか?……ふっ……」
「な……ちがうし……」
真っ赤になりながら否定する香澄を見て、司は笑い出した。
「クッ……ここに入れた女はお前と姉貴だけだ。いい加減認めろよ、俺に惚れたってな?」
「…………っ……」
香澄は、顔が熱くなるのを感じ、俯いたままトイレに向かった。とにかく、顔の火照りを見られたくなかった。司は、そんな香澄を愛おしそうに見つめていた。心の中にひっかかっている“下條”の事を隠して。
「おいしい」
香澄は、シチューを食べながら思わず呟いた。
「そうか」
司は、おいしそうに食べる香澄の顔を見ながら食べているからか、いつもと変わらぬ食事が、いつもよりおいしく感じられた。朝食を食べ終わると、香澄は食器を流しに持って行き、洗い始める。
「……ふっ……」
司は、香澄の後姿を見ながら頬を緩めた。
「ん?」
香澄が何気なく振り返った時には、司は背を向けてバスルームへと向っていた。
司がシャワーを浴び、着替えて戻れば、キッチンは綺麗に片付けられていた。キーを手にした司を見て、香澄も司の背中を追うように玄関に向かう。こうして、二人は役所に向かった。
役所に着くと、司は、封筒に入った書類と二人で書いた婚姻届を提出し、不備もなく、あっという間に手続きは完了した。封筒の中身を、香澄が見ることもなく。
十月二十四日
婚姻届は、受理された。
車に戻ると、昨日と同じ運転手が運転席に座っていた。
「さぁて、香澄の家に、荷物を取りに行くぞ」
司は後座席のドアを開けながら、当たり前のように言い放った。二人が後座席に乗り込むと、速やかに車は走り出す。香澄は、膝の上にのせた自分の手を見ていた。あっという間に婚姻届が受理され、どこかぼんやりしていたのかもしれない。先ほど司が言った言葉も、聞いていたようで聞いていなかったのだろう。ふと窓に視線を移した香澄は、その景色に目を見開いた。
…………え……この道…
司は、びっくりして固まる香澄に気付き、その顔を覗き込むように身体を寄せた。
「何だ?今日から一緒に暮らすんだぞ」
「あ…………え……ん?……?」
大きな道路から細い道に入ってからも、迷うことなく真っ直ぐアパートに向かっている。香澄は、“アパートを教えていないのに、うちに向かっているのはなぜ?”と思いながら、黙っていた。
「着いたな。降りるぞ」
「う……ん…?」
見慣れたアパートに着き、香澄は戸惑う。司は、降りようとドアを開けた。
「どうした?ここだろ?」
「そうなんだけど……え…っと…待って」
「ん?」
司は、いったんドアを閉め、香澄の方に向き直った。
……洗濯物が……
香澄は、部屋に干したままの下着が気になっていた。厳しい実家では到底買うことすら許されない下着だ。色が派手なだけなのだが、それでも恥ずかしさのあまり顔が熱くなる。
「ちょっと待って、散らかってるから……」
頬を染めた香澄を見て、司は笑い出す。
「ククックック……なんだ?俺に見られてヤバイもんでもあんのか?」
「そ…そんなんじゃないから!」
ますます赤くなる香澄。
「……クククッ…とりあえず、いるもんだけ、取って来い。後は箱に詰めとけば、会社の連中に運ばせる。十分経ったら俺も行く」
……片づけが出来ねー女には見えねーし……なんだ?……
「うん」
香澄は“十分”と聞いて、急いで車を降り、自分の部屋に向かった。急いで洗濯物を片付け、トイレを済ませ、高校の修学旅行以来使ったことのない旅行カバンを引っ張り出した。衣類を詰め込もうと引き出しを開けた時、“ピンポン”と音がすると同時に、司の声が聴こえた。
「おい!鍵!」
香澄はその大声に驚き、玄関に急いだ。慌ててチェーンを外し、鍵を開ける。
…………?…………
司は、呆れた顔で、香澄を見下ろしている。
……な…に……?……
香澄は、不思議そうに司を見上る。
「お前なあ…」
「何?」
「何で厳重にチェーンまで掛けてんだ?」
司は、眉間にしわを寄せ、眉をくねらせている。
「……?……」
香澄は、司が不機嫌になった理由が、分からない。キョトンとしている香澄を見て、司は、ふっと笑った。
「意味が、分からねって顔してんな…。俺が来るのに、鍵掛ける必要ねーだろ」
「ごめん…でも…鍵かけないのは無用心だし」
香澄が言うことは、最もだ。確かに、普段ならゴミだしや忘れ物を取りに戻る短時間であろうと、鍵を掛けないのは無用心だ。司は、そんな香澄の用心深さに感心した。“俺をその辺のへタレと一緒にするな!”と思いながら…。
「クククッ…荷物はまとめたか?」
「まだ…」
「ククッ…待っててやっから…」
「うん」
香澄は、急いで衣類や化粧品をまとめた。そんなに量はないのだが。
司は、部屋を見渡していた。
「綺麗にしてんなぁ……」
「…そうかな?」
「大学のテキストは、これか?」
司は棚を指差す。
「うん」
司は、空いていたダンボールにテキスト類を詰めていく。
“あまり物がない部屋”司は香澄の部屋を見て、そう感じていた。テレビもない、パソコンもない。靴も一足、カバンも一つ、大き目の旅行カバンに収まる衣類。あっという間に必要なものはまとめられた。
「退去の連絡は入れた。来月の十四日くらいまでに、まだ持って行きたいもんがあんなら、少しずつ荷造りすればいい。会社の連中には運ばせる」
「うん、あ、冷蔵庫の食品とか、どうしよう…たいしたものはないけど…」
香澄はギリギリの生活をしていた。月末なので、冷蔵庫の中身も寂しい。が、捨てるなんてことはしたくない。
「袋にでも詰めて運ぶか」
「うん」
香澄は、マヨネーズやケチャップ、バター、粉チーズなど、冷蔵庫にあるものをエコバックに詰め込んだ。冷凍庫からは、パンやご飯など。
「じゃ、帰るぞ」
司がカバンを持ち、香澄は僅かな手荷物を持ち、二人は車に戻った。荷物の量次第では、運転手も呼ぶつもりだった司だが、一回で運び出せた事に驚いていた。
マンションに戻り、荷物を空いている部屋に運び、片付けを済ませた時には、空は薄暗くなり始めていた。二日月が昇る時間まで後どのくらいだろうか。
「かすみー先に飯食おうぜ」
部屋の扉を開け、司が顔を出す。
「うん。作ろうか?」
「疲れただろ?今日は解凍飯でいいだろ。体力残しとけよー……」
“ぎゅっ”っと後ろから抱き締めるようにして、胸を掴んだ司に、逃れようともがく香澄。
「ゃん…………どこ触ってんのよ……」
“rururururu―rurururu”そこに突然、司の携帯が鳴り出す。
「………っんだよ………ったく……ちょっと待ってな。」
司は画面を見ると、奥の部屋に入って行った。
香澄が、キッチンに行くと、テーブルには、トマトソースのパスタ、ハンバーグにマッシュポテト、野菜スープが準備されていた。“司のお姉さんって、料理上手なんだな…”と思いながら、冷凍庫を開ける。
そこには、丁寧に保存容器に入れられたおかずが、並んでいた。香澄が持ってきた冷凍ご飯やパンは、申し訳なさそうに端のほうに詰め込まれている。一通りチェックして、和食がない事に気付いた香澄は、“明日は、根野菜の煮物と、魚の煮付けと、お味噌汁でも作ろうかな”などと考えていた。
やがて、ドアの閉まる音とともに司が部屋から出て来た。何故かスーツを着て、ロングコートを手にしている。香澄は、不思議そうに司を見ていた。
「香澄、ごめんな、仕事なんだ」
「え?今から?」
…………夜中に仕事って……何?…………
「あぁ……悪い、飯は先に食って、寝ててくれ、明日の朝になるかもしんねーから」
ちょっとムスッとした香澄を見て、司は顔が緩みそうになったが、
「誰が来ても、開けるんじゃねーぞ、俺が帰るまで、ここから出るなよ。お前、携帯貸せ」
香澄の携帯を奪い、操作を始めた。“ずっと一緒にいたからケー番交換すらしてなかった”と、香澄が思っている間に、司は赤外線で番号交換を済ませた。いつになく緊迫した司の様子に不安を覚えながらも、香澄は、
「行ってらっしゃい。待ってるね」
笑顔で見送った。顔をくしゃっとさせて、唇にキスを落とし、司は部屋を出た。
残された香澄は、独りでご飯を食べ、風呂に入り、酎ハイ片手に出会ってから今までの事を思い返していた。
司は香澄に、家族のことを聞いてこない。香澄は、“思い出したくないから聞かれない方が楽だ”と思っていた。司も家族の話をしない。どこか似ている気がしていた。
……司の事、何も知らない……
香澄は、“今から知って行けばいい”と軽く考えていた。
司は、七つ年上の大人な男。何故か打ち解けるのに時間がかからず、自分の知らない世間を知っていそうな大人な司に惹かれていた。
ただ、自分が楽にしていられるのは、“司が女の扱い慣れているから”そう思うと不安にもなる。いろんな事が急に起こったせいか、疲れていた香澄は、寒くない場所を求めて寝室のベッドに向かった。
……これからどうなるんだろう……
……でも……悪い人には思えない……
香澄は、いつの間にか電気をつけたまま、眠ってしまった。
その頃、司は――
実家に呼び出され、下條の仕事をしていた。仕事が片付く頃、秘書が部屋に入って来た。
「こちらが調査資料になります」
机に置かれた香澄に関する調査資料に目を通しながら、司は顔をしかめていた。
「わざわざ香澄の実家に挨拶に行ってくれたんだろ?すまないな」
「いえ、それで、電話で申しましたように、反対はされませんでしたので、婚姻届を司様に届けたのですが、先程、条件を出されまして…」
司の秘書であるこの男は、昨晩、下條の顧問弁護士を連れて香澄の実家に行った。本籍地と現住所が異なる場合の戸籍謄本など、法的な手続きのためだ。秘書の機転で、本日中に婚姻届を受理できた。
「なんだ?条件って」
「“下條”の事をどこかで聞いたのでしょう。親子の縁は切る代わりに、お金を請求してこられました。就職したら、自分達の面倒を見させるつもりだったようで、それなりの額です」
「は?何だそれ」
「そのために育てたんだから、当然だとおっしゃって…」
「他には?」
「香澄様の事は、煮るなり焼くなり好きにしていいそうです。親戚には死んだと言っておくから、二度と会いに来るなと」
「金ならくれてやる。香澄には二度と会わせねー」
司は香澄の過去を知り、独りで強がる理由が分かった。アパートの部屋で見た光景も納得した。司は、どこか自分と重なる境遇に、親近感を覚えた。
……見た目じゃ、分からねーな……クラブで初めて見た時は、金持ちのお嬢様かと思ったぜ……
「では、明日、もう一度弁護士を連れて行きます」
「伝えてくれ、香澄は何があっても返さないってな」
「畏まりました。念書を用意しておきます」
香澄は厳しく育てられた。学校と習い事以外は外に出してもらえず、友達関係まで親に干渉され、自由はなかった。好きな男が出来てもデートすら許されず、雁字搦めの日々を送ってきた。
大学も県外受験など許されなかったが、香澄が親を騙し県外を受け、この辺りにアパートを借りた。一人暮らしの条件は、仕送りなし。香澄は毎日実家に帰りたくない一心で働いていた。
彼氏もいたが、“結婚するまでは”と拒み続けたからか振られ、この歳まで処女を守ってきたようだ。就職難のこのご時世、実家に帰りたくない一心で就活しながらバイトをしているらしい。香澄は、“お金の面で親に頼れば、また親の言いなりにならなければならない”そう思い、親に頼らず必死に生きていた。
近頃は、卒業後の奨学金返済や、進路にも悩んでいた。新入社員の月給で、独り暮らしは厳しい。場合によってはバイトもしながらでないと暮らしていけないのでは、と。
男に頼ろうなんて、微塵も思っていない。司は、一生守ってやろうと心に決めた。
……こんないい女逃がすかよ……
………ん?…………
………暑い………
…………ん………………
生温かい温もりがくすぐったくて、目が覚めた香澄は、自分の置かれた状況を理解する事に時間がかかった。寝ぼけた頭を必死に回そうとしながら、ぼんやり司を見ていた……
香澄の胸に顔をうずめた司は、手と舌で香澄に甘い感覚を与えていた。
「…………ん……ちょっと…………何?……」
香澄の声を聞いた司は、
「やっと起きた」
キラキラした瞳で微笑みながら、香澄を見下ろしていた。
「香澄のカラダ……そそられる…………」
「…………ひゃん……っ……」
香澄は、ウエストラインに触れられ、思わず出てきた自分の声に戸惑う。恥ずかしさに身体中が熱くなる。
「全部見せて……」
言うや否や唇を重ねられ、体は益々熱くなっていく……
香澄は、司にされるがまま、身をゆだねた――――
そして…………
「いいか?」
「うんっ」
………………っ………………
「痛い……っ…………」
あまりの痛さに顔をしかめている香澄に、司は一瞬戸惑ったが、気持ちが高ぶり、あっという間にイってしまった。苦笑いの司と、痛みから解放されて安堵している香澄。
二人は、しばらく抱き合っていたが、
「バイト行かなきゃ」
香澄は、司の腕を解き、ぎこちない動きでバスルームに入って行った。
シャワーを浴び、バスルームから出てからも、香澄は顔を上げようとしない。司が話しかけようとしても、着替えたり化粧をしたり。まるでそこに司が居る事すら気づかぬように。身支度が出来てからも、司と眼を合わそうとしない。
「かすみぃ、何怒ってんだ?」
司は、嫌われてしまったかと不安になり、香澄の顔を見ようと覗き込んだ。
…………っ…………
香澄の顔を見て、司は固まった。香澄の頬は硬直し、表情がない。
「怒ってないよ?ただ…………」
香澄は、眼を伏せたまま言葉を切った。司は、香澄をじっと見ながら言葉を待った。
…どう見ても怒ってるだろ、その顔は…
……俺はダメだったのか?……
司は、柄にもなくヘコんでいた。そんな司の耳に、愛らしい声が飛び込んできた。
「…痛かったんだもん……バイトあるのに……まだ痛いんだもん…………」
耳まで真っ赤にし、むくれる香澄のぼやきを聞き、司は思わず香澄を抱き締めた。
「……ふっ……バイトあるの知らなかったんだ…ごめんな」
「ううん……私もこんな痛いと思わなかったし…………」
司は照れ笑いしながら、
「送って行く」
香澄の頭を撫で、腕をほどいた。
……あぁビビった、香澄にダメ出しされたら、一生不能になっちまう所だった……
ホッとした司は、香澄をカフェに送り、帰りも迎えに行くと約束してマンションに戻った。奥の仕事部屋に入り、パソコンを立ち上げる。
司の仕事は、表向きはパソコンソフトの開発。下條の次男ではあるが、母の連れ子。下條の血は流れていない。義理の父は、裏社会では名の知れたドン。母は、司を連れて後妻に入った。司には血の繋がらない兄と姉、異父兄弟が一人。下條を継ぐのは兄と弟。名字は下條だが、司は比較的自由に生活させてもらっていた。放任とも言うが。
大学を卒業後、会社を任せてもらい、それなりに努力もしたが、下條の力がなければ為せなかっただろう。
香澄は“下條”と聞いても怯えるどころか、普通に話してくれた。まさか出会った次の日に籍を入れるとは、司自身も驚いていた。
………そんなにヤりたかったのか?俺………
……いや、手放したくなかった………
……結婚してくれるなんて寧ろラッキーだと思った……
……俺の家族の事を知ったら、香澄はどうするかな………
司は、“いつまでも浮かれてばかりはいられない”そう思った。守りたいものができると、男は変われるのだろうか。
……香澄は、あんだけ頑なに守り通した大事なモンを、俺に……
司は、話せる範囲で、香澄に自分の事を話そうと腹を決めた。昼過ぎには仕事を済ませ、ある場所へと向かった。
一方頃香澄は、朝からなんとも言い難い痛みに耐えながら、バイトをこなしていた。
「香澄ちゃん、調子悪そうね、大丈夫?」
「あ、だ大丈夫です。すみません」
マスターの奥さんに、声をかけられ、香澄は笑顔を作り直す。
……みんな、あんな痛いの我慢するの?……
…………司じゃなかったら、我慢なんかせずに、蹴り飛ばしてるよ……
香澄は、客が引いたテーブルを片付けながら、今朝の事を思い出していた。
「すみませーん」
「あ、はい、御注文はお決まりですか?」
「カフェラテとブレンド」
チャラそうな出で立ちの客は、ニタニタ笑いながら香澄を品定めするように見ていた。
「どちらもホットでよろしいですか?」
香澄は、頷く二人を見て伝票を書き、奥に下がった。
……あと三十分がんばろ……
マスターに注文を伝えて、ホールに戻る。頭の中は司の事でいっぱいだった。
……司、何してるのかな……
夕暮れ時、カップルや仕事仲間、女子高生、いろんな客が出入りしていた。窓越しに空を見れば、うっすらと月が見えたような気がした。
「香澄ちゃん、もういいよ。帰って休んで」
マスターは、外をチラチラ見ながら、香澄を奥に下がらせた。今朝よりは少しマシになったとは言え、体調の悪い香澄にとっては、マスターの言葉が天の助けに思えた。
「ではお先に」
香澄は、司に終わったとメールをし、カバンを持って外に出た。冷たい外気に触れ、身を縮める。空には、やっぱり、うっすらと月が出ていた。