キャンドルの行方
~キャンドルの行方~
“ポン”と間の抜けた音が鳴り響くと、勢いよく飛び出したコルクが天井に当たった。
「…キャッ…」
香澄は咄嗟に耳を塞ぎ、目を閉じた。
「…………ックククッ…………耳塞いで、どうすんだよ……ックククッ……」
……この音がいいんだろ?……
司は香澄の仕草に頬を緩めながら、シャンパンのボトルを傾け、グラスに注ぐ。布巾でボトルの口を拭い、並んだグラスの一つを香澄の前に滑らせた。香澄はボトルの方を凝視していた。そして、
「あ、これ……」
思わず声を上げた。
…………見たことがある…………
シャンパンのラベルに視線を向けたまま、何処で見かけたのかと思い出そうとしていると、横から司の声が飛んで来た。
「……あぁ……これな?マスターからの誕生日プレゼントだ」
…………言い忘れるところだったぜ…………
司が『マスター』と言った時、香澄の脳内が晴れ渡った。目を見開き、溢れんばかりの笑顔が司に向かう。
「……あの時のシャンパン?」
そう、二人が初めて言葉を交わしたあの日、初めて乾杯したシャンパンと同じ銘柄だったのだ。
「……よく覚えてんな……ックククッ……」
司は、耳をほんのり赤く染め、目を細めた。
…………あの時は…………
……香澄とこうなるとは……
……思ってなかったな……
…………つーか、……まさか…………処女だとは……
……思ってなかったな……
司は、独り、回想にふけっていた。
『そんなこと、いろんな人に言ってるんでしょう?』
『いや』
『彼女は何人いるんですか』
『……ククッ……いない』
『うそ』
『俺が嘘つくように見えるか?』
『見えます』
『即答かよ……ックククッ……可愛いな……お前』
『……』
二人は、ほんの数十分で不思議なほどに打解けた。香澄は毅然とした態度をとろうと必死だったようだが、司の質問に頬を染め、くるくると表情を変えた。その素直さに、司は自然と顔が綻び、腹を震わせたのだ。
香澄は、シャンパンの小さな泡を見つめていた。
…………光って見えるのは、気のせい?…………
「香澄?」
一通りの回想から戻ってきた司が、香澄を呼んだ。
「うん?」
香澄が顔を上げ、司を見上げると、司はグラスを香澄に持たせ瞳を合わせた。
「乾杯な」
「…っ……」
香澄の胸が“ドキリ”と跳ねた。真っ直ぐ瞳を合わせる司が、あの日の司と重なるようだ。
……挑戦的で、だけど、どこか寂しげな瞳だった……
今、目の前にいる司は、あの日より優しい瞳をしている。何より表情が柔らかい。“コツン”とグラスが合わさり、じっと瞳を合わせたままグラスを口に近付ける。シャンパンを味わいながら、二人は穏やかに微笑んだ。
…………いきなりキスされたんだよね…………
香澄は、シャンパンの香りに誘発されたように、あの日の記憶を辿り始めた。
……キスは、初めてじゃなかったけど……
……あんなふうに……ほんの一瞬で……身体に電気が走ったみたいなキスは…………
……初めてだった……
香澄は、回想シーンに頬を染めながら司の手元に視線を下ろす。司は、二杯目を半分残したところでグラスを置いた。
「あ、ナイフ」
フォークを手にした司に気付いた香澄は、まだ切り分けていないケーキを切るためにナイフを取りに行こうと慌てて腰を上げた。が、司に二の腕を掴まれ、“グイッ”と引き寄せられたために、再び腰を下ろすことになる。
「……?!……」
“意図が分からない”と言っているような、窺うような香澄の視線が、司に向かう。その視線を受け止めた司は、
「切らなくていいだろ」
そう言いながら、ホールケーキにフォークを突き刺し、ケーキを香澄の口に運ぶ。反射的に口を開けてしまった香澄は、ふわっと広がる甘さに頬を緩め、目を細めた。
「おいしい」
幸せそうに微笑む香澄を見て、司の目尻は下がる。自分の口と香澄の口に、ケーキを運びながら、頬は緩みっぱなしだ。
…………この顔が見たかったんだ…………
…………海堂に感謝だな…………
二人は、一本のフォークでケーキを四分の三は平らげた。シャンパンもなくなる頃、香澄は口元にケーキを差し出されたまま、首を横に振った。
「もう、お腹いっぱいだよ」
「……ックククッ……俺ばっかり食ってるぜ?……」
司は、香澄の口元に近付けたケーキを自分の口に入れると、あっという間に飲み込んだ。それを見ていた香澄は、突然大声を上げた。
「あ!司、ご飯食べてない」
…………どうしよう…………忘れてた……
香澄は先に食べていたが、司の夕飯は、ダイニングテーブルに置かれたままだ。大失態に気付いた香澄の顔は、硬直した。
「……今日はもういいから気にすんな……」
ケーキを半分近く食べたとは言え、それだけで足りるはずはないのだが、司は珍しく腹がいっぱいだった。胸がいっぱいだったのかもしれない。
「明日の朝ご飯でいい?」
香澄は、ダイニングテーブルの方を見ながら申し訳なさそうに問いかける。司の耳に“朝ご飯”という言葉が飛び込み、司は瞳を翳らせた。忘れていた現実を思い出し、これから朝まで僅かな時間しか一緒にいてやれない、そう思うとやりきれなくなる。司は、背後にあるソファーの座面に肘を乗せ天井を見上げた。
「あぁ……明日か……もう、今日か……仕事行きたくねーな」
司は、ため息混じりにぼやく。この半月余り、香澄に構ってやれなかった。年末年始は、会社も“下條”も忙しい時期。司は、香澄を置いたまま、独りで実家に行き、夜更けにマンションへ戻る生活を送っていた。元旦も独りにしてしまった香澄を思うと、胸が痛んだ。今日くらいは、せめて誕生日くらいは一緒にいてやりたい、その願いとは裏腹に、出勤時間は刻々と迫り来る。
「朝、早いの?」
香澄の声に、力がなくなった。楽しい時間はあっという間に過ぎ、また長い独りの時間がやってくるのかと思うと、胸に痛みが走る。
……私も……今日は一緒にいたい……いて欲しい……
……学校始まっちゃったら、一緒にいられる時間がもっと減るし……
…………でも…………
香澄は、天井に視線を向けた司を見ながら、言いたい言葉を飲み込んだ。
…………仕事休んでなんて言えないよ…………
今は司の仕事が忙しい時期だ。今日も無理をして早く帰って来てくれたのだろう。香澄は、これ以上望むのは我が儘だと自分に言い聞かせた。
「……ん……」
司は、天井に視線を彷徨わせたまま、力なく返事をする。徹夜でパソコンに向かっているであろう海堂の姿を思い浮かべながら。海堂は、朝迎えに来る事になっている。それも、早朝だ。歯切れの悪い司の返事に、香澄は怪訝な顔をしていたが、司は気付かない。
「ねぇ……もしかして……海堂さん徹夜?」
香澄は、司が電話で言っていたことを思い出し、自分が幸せに浸っている今、独り仕事をする海堂の姿を思い浮かべ、顔を強ばらせた。
「あぁ……」
司の気の抜けた声が天井に向かう。
……俺と海堂しか触れねぇデータだからな……
司は、顔色一つ変えないまま、当たり前のように肯定する。そんな司を見ながら、香澄は、
「謝らなきゃ」
ぼそっと言葉を落とした。司が毎晩遅くまで仕事をしていると言う事は、海堂もまた、睡眠時間を削りながら忙しい日々を送っているのだと、予想はつく。
「…………気にすんな!早く帰れっつったのアイツだぞ?アイツからの誕生日プレゼントだと思え……ふっ……」
……俺がプレゼント貰った気分だぜ……
海堂は、予約したケーキを司に渡しながら、こう言った。
『誕生日ケーキに蝋燭を立てる習慣には、言い伝えがあるようです。三日月の形をしたケーキに蝋燭を立てた女神がいたとか……“月の女神”だったと思いますが、純潔の象徴を兼ねた神であったとか……』
司は、香澄の好きな“月”と聞き、あの演出を考えた。海堂の話では、蝋燭の炎は、女神が放つ月の光だと言う説があると言う。また、ケーキに蝋燭を立てる習慣には、歳の数より一本多く蝋燭を立て“生命の光”とする慣わしもあったらしいと言う。司は、ケーキの箱に貼り付けてある数の足りない蝋燭を見て、ケーキ屋に電話をかけ、足りないロウソクを持って来させた。それまでは、“蝋燭を立てるとかガキの誕生日くらいだろ”そう思っていたのだが。
……香澄が喜んでくれて、良かったぜ……
司は海堂に感謝すると同時に、天井に向けていた視線を香澄に移した。
「ありがとうって言わなきゃ」
香澄は自分に言い聞かせるように呟いた。司が今ここにいてくれるのは、海堂のおかげなのだから。
「俺が言っといてやる。お前は気にすんな。正月もなかっただろ?ごめんな」
司の胸は痛んだ。香澄の顔色を窺うように謝るが、埋め合わせも出来そうにない。
……当分、ゆっくりする時間もないしな……
「うん。お正月は去年もなかったから、平気だよ」
悲痛な面立ちで香澄を見詰める司に向かい、香澄は明るい声音で言い切った。
……去年も独りだったし……
……今年は、……起きた時、隣に司がいてくれた……
笑って見せる香澄を見て、司は言葉に詰まった。
「…………」
「早く帰って来てくれてありがとう」
香澄はもう一度司に笑いかけ、残ったケーキを手にしてキッチンに向かった。
……コイツ、文句一つ言わねーんだな……
司は、“朝までの時間は香澄のために使おう”そう思った。
…………クッ…あんまり時間ねーな…………
ふと時計に目をやれば、海堂が迎えに来るまであと四時間余り。司は、心の中で舌打ちをする。背中をソファーから離し、胡坐をかいたままテーブルに肘をつき、キッチンに向かって呼びかけた。
「かすみ?」
「なに?…………コーヒー入れようか?」
香澄は、ケーキを崩さないよう冷蔵庫に入れるため、厚紙を丸めて囲いを作り、ラップを掛けていた。手元はそのままに、身体を右に傾かせ、司と視線を合わせる。
「いいから、こっち来いよ」
司の甘い声音が香澄の耳に届いた。
「うん」
香澄は、ケーキを冷蔵庫に入れると、吸い寄せられるように司の隣に向かい、腰を下ろした。隣り合うように座った二人は、しばらくテーブルに視線を向けていたが、やがて、香澄の身体は“ふわり”と何かに包まれた。
香澄は、背中に温もりを感じ、胸の下で交差された司の腕に手を添える。
…………この腕の中……安心できる…………
心地良さそうに目を細め、香澄は穏やかに微笑んだ。司は、香澄を優しく包み込み、時折耳元にキスを落とす。香澄の身体がビクンと跳ねる度、香澄の頭上で意地悪な笑みを浮かべながら。
「香澄、本当は何を想像したんだ?」
……え……覚えてたの?……
頭の上から降って来た司の声に、香澄の体温は上がり始めた。その声音から、ニヤリと意地悪な笑みを浮かべている司が思い浮かぶ。香澄の胸が“ドクン”と波打つ。
「……っ……」
…………部屋に“イレテクレ”って意味だった…………
…………アレ……だよね…………
司は、香澄をひょいっと抱えて自分の膝に乗せた。顔を覗き込めば、予想通り、リンゴのように真っ赤な顔をした香澄。目を伏せ、恥じらう香澄に、司は頬を緩め、その耳に唇を近付けた。そして、ラズベリーよりも甘い吐息とともに囁いた。
「当ててやろうか」
司の囁きは、その色気のある声音は、香澄の耳元に“ボッ”と火をつけた。その熱は、一瞬にして耳から体中に広がる。“ドクン…ドクン”と、香澄の心臓は更に大きく波打ち始める。
「…………」
司は、香澄の反応を楽しむかのように続けた。
「……久しぶりに暴れてもいいか?」
耳朶に当たる唇に、香澄の身体は“ビクン”と跳ね、体中に電気が流れた。“暴れる”司を思い出し、羞恥心と口に出せない期待に震える。熱でどうにかなってしまいそうな身体の中心で高鳴る鼓動。“ドクン…ドクン”と次第に強く胸を打つ。
…………言わなきゃ…………
香澄は、浅い呼吸のまま、息を吐くと同時に口を開いた。
「………うん………」
香澄が微かに動かした唇に、司は自分の唇をそっと重ねる。甘いキスを交わし合い――――
穏やかな心の灯火が、消えぬよう――――
願うは女神の放つ光――――
Happy Birthday
~キャンドルの行方~
――――――――――完
お越し下さり、読んで下さり、ありがとうございます。心より御礼申し上げます。
更新が遅くなり、すみません。
“Happy Birthday”はここで完結とさせて戴きます。ここまでお付き合い下さった方々に感謝の気持ちでいっぱいです。
本当にありがとうございます。
今後のお話も、お付き合い戴けると幸いです。
宜しくお願い申し上げます。
気温の変化が読みにくい春ですね。お身体を大事になさって下さいね。
貴方様が健やかに過ごせますように……
3月31日
愛祈蝶