有明月
それから一週間ほど過ぎたある日のこと。“ピンポーン”と鳴り響くインターホンに、香澄は首を傾げていた。
「ん?……司?……早くない?」
香澄は夕飯を作りながら司の帰りを待っていた。今朝、司は、『帰る前にメールする。誰が来ても開けるな』と、お決まりの台詞を言い残し、出かけて行った。香澄は携帯を開き、受信メールを確認するが、司からのメールはない。恐る恐るモニターに近づき、画面を覗き込む。
…………お母さん?!…………
するとそこには、薄紫色の着物を着た諒子が映っていた。
「あのっ…………」
香澄は慌てて通話ボタンを押し、諒子に呼びかけようとするが、言葉に詰まる。
「香澄さん?司に内緒で来たの」
「すぐ開けます!」
香澄は、諒子の訪問に驚きながらも、胸の奥が温まる気がした。オートロックを開錠し、手がけていた煮物の様子を確認すると、玄関に向かった。
“ピンポーン”と玄関のインターホンが来客を告げるやいなや、香澄は鍵を開け、諒子を迎える。
「突然ごめんなさいね。ふふっ……いい匂い……今日は和食?」
諒子は、穏やかな笑みを浮かべたまま草履を脱ぎ、大きな荷物を抱えて香澄の後を追う。
「はい。今日は、お母さんに教えてもらった煮物に挑戦したんです」
香澄は、諒子がソファーに荷物を置いたのを見て、お茶を入れるためにキッチンに向かった。諒子は、その後姿をゆっくりと追った。
「ふふっ……香澄さん?ケーキ焼いたの」
紙の箱が、諒子の手からテーブルの上に渡る。諒子は、香澄の表情が緩んだのを見て、中を開けて見せる。
「わぁ~!チーズケーキ、私、好きなんです!これ、スフレチーズですよね?」
香澄は、ケーキを見た途端、先ほど以上に目を輝かせた。それを見た諒子は、司に似た笑みを浮かべた。“チーズケーキにして正解だったわね”と。
「そうよ?一緒に食べない?私もまだ食べていないの」
「コーヒーと紅茶、どっちがいいですか?」
香澄はヤカンに手をかけようとすると、諒子は近くにあるコーヒーメーカーを見て、
「コーヒーにしましょう」
にっこり笑った。
「あ、わたしやります」
香澄は、慌てて食器棚の扉を開く。その慌てように、諒子は目尻を下げる。
「……ふふっ…気にしないで?煮物は?」
「そろそろ火を止めても大丈夫な頃です」
香澄は、緊張しているのか、そわそわしている。メールでは何度も会話していたが、直接会うのは二度目だ。一度目は幸司の墓前。交わす言葉もほとんどなかった。諒子は、そんな香澄に気付いたのか、その場を離れることにしたようだ。
「そう。じゃあ、あっちでゆっくり食べようかしらね」
香澄が棚から取り出したケーキ皿とケーキの入った箱を手にして、リビングに向かった。香澄は独りになったキッチンでコーヒーを準備し、煮物の火を止める。そして、ドキドキしながら、諒子の待つリビングに向かった。
「ふわふわだぁ!おいしい!」
子供のように喜ぶ香澄を見て、諒子は微笑みが絶えなかった。
「ふふっ…香澄さん、気が合いそうね」
諒子は、下條に嫁いでからは外出する事がめっきり減った。料理をしたり、裁縫をしたり、鳥籠の中で出来ることを探して過ごしていた。瑠璃が嫁いでからは、ケーキを焼くのも久しぶりだったのだ。二人は、スフレケーキの作り方について話しながら、あっという間にホールケーキの半分を食べ切ってしまった。その後、コーヒーのお代わりを飲みながら、諒子が話を切り出した。
「香澄さん、仮縫いが出来たから、着てみて欲しいの」
「仮縫いですか?……?」
香澄は、不思議そうに諒子の目を見ていた。
「司は『サイズは間違いない!香澄には、何も言うな』って言うのよ…………でも、着てみないと分からないでしょう?」
「…………?……」
香澄の頭の上には、ハテナマークが飛んでいただろう。
…………何を着るの?…………
オーダーで衣服を作ったことのない香澄には、“仮縫い”という言葉も聞き慣れないものだ。
「司に怒られそうなんだけど、ウェディングドレスを持って来たの」
諒子は、持ってきた大きな箱を徐に開けると、穏やかに微笑んだ。
…………?!…………
箱の中には、真っ白い生地に刺繍があしらわれたドレス。そう、純白のウェディングドレスが入っていたのだ。
「こ……これ……」
香澄は目を見開いた。
「司がね?ウエストラインに拘って選んだデザインなのよ。ブーケは私が造るわ」
「………………」
諒子は、キョトンとしている香澄を立ち上がらせ、香澄を部屋へと導いた。
言われるままに服を脱ぎ、ドレスを身にまとった香澄は、鏡の前の自分に驚いていた。胸元は大きく開き、膝までタイトなデザイン。まるで人魚のようなシルエットだ。
「直すところ、ないみたいね……ふふっ…」
「ピッタリ……」
「あの子が“二人だけで”って言い張る理由が分かったわ」
「え?!」
司は、『海堂が無理なら、神父はいらねー!二人だけで挙げる』そんな事を言っていたのだ。海堂は“下條”の仕事で、その日は抜けられなくなった。髪を白髪に染め、眼鏡をかけ、天使のような衣装を身に付ける予定だったのだが。諒子は、身体の線が強調されたドレス姿の香澄を見て苦笑いしていた。
……あの子ったら…………かすみさんが、可愛くて仕方がないのね……ふふっ…………
「これ、……司が?」
「……あの子ね?香澄さんにドレスを着せてやりたいって」
諒子は、優しく微笑みながら、香澄の肩に手を置く。香澄は、司の気持ちに、涙が出そうになった。
…………あの時…私が着てみたいって言ったから?…………
「……嬉しい……っ…………」
感極まる香澄を見て、諒子もまた、瞳を潤ませた。
「ふふっ……写真も撮っておくのよ?これから、友達が結婚する度に、葉書が来るから……それを見て寂しくならないようにね」
諒子は、昔の自分を思い出していた。実家から、『結婚式の招待状が届いた』と聞く度に、『欠席にまるをして出して』と言っていた自分を。皆に祝福される結婚を、羨む気持ちがなかったとは言えない。
「お母さん……」
…………嬉しくて、泣きそうだよ…………
「……ふふっ…昔の私とよく似ているのよ。だから、香澄さん、独りで悩まないで、頼ってね」
諒子は、幸司からの電話を心待ちにしていた頃を思い出す。携帯電話もない時代、自分から連絡する術はなく、愛する人の身を案じながら、ひたすら待ち続けた日々を――――
諒子にとっては命がけで愛した、たった一人の男だったのだ。今でも、生きてさえいてくれたらと悔やまずにはいられない。決して口には出せないが。
…………司も……幸司に似ているから…………
…………“カタギになる”そんな事を言い出しそうなのよね…………
諒子は、司の身を案じ、香澄の幸せを願った。
「ありがとうございます」
香澄は、涙目になりながら諒子に礼を述べる。
「かしこまらなくていいのよ。可愛い娘が出来て、嬉しいんだから……ふふっ……そろそろお暇するわ……司に見つからないように……」
諒子は、司に似た微笑みを浮かべた。
何度も頭を下げる香澄に、
「司に内緒にしてね?ケーキは、うまく誤魔化しておいてね」
そう言いながら、諒子は大きな荷物を抱えて帰って行った。実の親に分かってもらえない気持ちも、諒子になら分かってもらえそうだと、香澄は心が軽くなった気がした。諒子が帰った後、部屋が寒く感じたのは、気のせいではないだろう。
…………お母さん、憧れるな……すごく優しくて…………
……私の気持ち……言わないのに……分かってくれてる気がする……
…………素敵な人…………
香澄は、諒子に母の温もりを求めていたのかもしれない。
…………仲良くしたい、お母さんともっといろんな話をしたい…………
…………いろんな事を教わりたい…………
肌寒く感じる部屋の中、香澄が諒子に思いを馳せていると、突然、メール受信を告げるメロディーが鳴り始めた。
――――今、会社出た
司からの短いメールに、香澄は急いで返信を打つ。
――――待ってる。気を付けてね(ハートの絵文字四つ)
香澄の頬は緩み、胸は高鳴る。寝待月のあの日、朝日を浴びながら約束してからというもの、司は帰る前にメールを送る事が増えた。もちろん返信はハートマーク強制で。ハートマークを入れた後、香澄は恥ずかしいからか、なかなか送信出来ず、躊躇っているうちに司が帰ってきたこともある。最近、ようやく慣れてきたのだ。
司としては、約束したからと言うだけではなく、白井や橋本の事があって以来、香澄がどこで何をしているのか気になって仕方がなかったのだ。香澄の行動は、海堂が部下を使って細かく調べている。随時報告させ、問題がなければ司の耳には入れない。極道の情報網だ。それも海堂なのだから、抜かりはない。司は、それが分かっていても、気になって仕方がなかった。
香澄は、コーヒーカップを洗い、棚にしまい、煮物の入った鍋を火にかけた。そろそろ着く時間だと思うと、そわそわし始める。“ピンポーン”と鳴り響くインターホンに、香澄の胸が“ドクン”と跳ねた。
…………司かな…………
香澄は急いで玄関に向かう。鍵を開け、ドアの隙間から見える愛しい人の顔を見て、香澄はロックを外した。
「おかえりなさい」
にっこり笑う香澄を見ると、司は一日の疲れが吹き飛んだ。後ろ手に鍵をかけ、
「ただいま」
言葉を落とすと同時に香澄の腰に腕を回し、“ギュッ”と抱き締めた。香澄は、司の首に腕を回し、ぎゅっと抱きついた。もう習慣になったように自然に。
「かすみちゃん、おかえりなさいのチュウは?」
…………っ…………
甘えたようなその声に、香澄は身じろぎする。こちらは慣れないようだ。
「……はずかしいよ…」
香澄の頬は“ボッ”と火がついたように染まる。
「……ックククッ…………ベッドでは出来るのに?」
「……もぅ!……何でそういうこと……っ……キャッ……」
司は、嬉しそうに香澄をお姫様だっこして、リビングに運ぶ。
「……ククククッ……早くしろよ?……このままベッド行くか?」
司は、慌てる香澄の真っ赤な顔を覗き込むように顔を近づける。
「……っ…………」
香澄は、体中が熱くなる中、覚悟を決めた。司の首にしがみつき、“チュッ”っと音を立てて頬にキスを落とす。
…………?!…………
不意に感じた感触に、
「ほっぺにチュウとか、幼稚園児かよ……」
司は、ふてくされた顔をし、香澄を抱いたままソファーに腰を降ろす。そのまま香澄の胸に手を伸ばし、柔らかい感触を堪能しながら反応を窺う。
「キャッ……っ……ゃん……ちょっと……煮物!」
香澄は、その手から逃れるように身をよじる。弱火にかけているとは言え、煮物を火にかけている事を思い出したのだ。
「……またかよ……」
司は、香澄を隣に降ろし、足早にキッチンに向かう。コンロの火を止め鍋の蓋を開ければ、自分の好きな煮物が目に入り、頬を緩ませた。
「美味そうだな。先に飯食うか」
司がぼそりと呟いた時、香澄もキッチンに入ってきた。
「うん。準備するね」
香澄は、にっこり笑いコンロに近づく。すれ違いざまに微笑み合い、司はコートを仕舞いに自分の部屋に向かった。
香澄は、揚げ油を火にかけ、下ごしらえを済ませた魚を取り出そうと冷蔵庫を開ける。そこにはケーキが潜んでいた。香澄は魚を取り出すと、揚げ物の準備をしながら、どう誤魔化そうかと考える。
…………『誰が来ても開けるな』って言ってたから…………
…………誰かが家に来たとは言えないし…………
…………買いに行ったなんて嘘はすぐにバレるよね…………
大きめのグラタン皿で焼いたと言う“スフレチーズケーキ”は、どう見ても手作りだ。
…………ケーキどうしようかな…………
“じゅわー”と軽快な音を立てて魚が浮き上がり、火力を調節しながら中まで火を通す。香澄は、あれこれ考えながらも手は止めない。揚がったフライは紙の上に積まれていく。トレイの魚が全て揚げ油の中に入ると、洗い物をしながら様子を窺う。
「ふほぅ……ほふ……ひふふぁひぃ……」
背後に気配を感じて振り返ると、出来立ての熱いフライを口に含み、“ホーホーヒーヒー”言いながら椅子に座る司に気付き、思わず吹き出した。
「……もう……火傷するよ?」
香澄は咎めることなく、心配そうな眼差しを向ける。司は、しれっとした顔で熱いフライを飲み込み、口を開いた。
「火傷したら、お前が舐めてくれるんだろ?」
言いながら上目遣いに香澄を見上げ、ニヤリと笑う。
「……っ…………」
一瞬、香澄の脳裏に、司の口内を舐める自分が映し出された。慌てた香澄は、司に顔を見られないよう背を向けた。司は、満足そうな笑みを浮かべ、その背中を見て腹を震わせた。
いつものように夕食をとりながら、二人は、たわいもない話をした。皿に盛られた“おかず”がなくなる頃合を見て、香澄は恐る恐る冷蔵庫に潜むチーズケーキを取り出した。
「ケーキか?」
「うん……昼間に作ったの」
…………わたし……不自然な顔してないかな…………
「俺、ケーキは、チーズケーキとチョコレートケーキが好きなんだ」
子供のように目を輝かせる司を見て、香澄はホッと胸を撫で下ろす。
「司の誕生日に、また作るね」…………練習しなきゃ…………
香澄の頭の中は、諒子にメールで教えてもらいながら失敗を繰り返す自分の姿が浮かんでいた。実家でチョコレートケーキに初挑戦した時は、膨らまず、ケーキよりクッキーに近いものになってしまった経緯があるからだ。
「手作りっていいもんだな」
司はケーキを頬張りながら呟いた。プロが作った市販のケーキの方が美味しいが、手間暇かけて作る香澄の姿を思い浮かべると、そこに愛を感じるのだ。
司が口に運んでいるのは、手作りは手作りでも、香澄の手作りではない。香澄は、“司の誕生日までにどうにかせねば”と焦る気持ちを隠すように、ぎこちなく微笑んだ。
「司、甘いもの好きなの?」
香澄の問いかけに、司はしばらく考えていた。そして、言い難そうに口を開いた。
「好物ってほどじゃねーけど、……………………“おはぎ”よりは“ケーキ”だな」
「ぶっ…………ふははははっ……」
笑い出した香澄に、司は、ばつが悪そうに耳を赤くする。
…………もう“おはぎ”には騙されないからな!…………
「かすみ!もう、…………“お月様”は終わったか?」
色っぽい司の声に、意地悪な笑みに、香澄はドキリとさせられる。
………………っ……
香澄の体温は急上昇し、顔は“ボッ”と火がついたように真っ赤に染まる。
「…う…ん……」
司の目を見るのも恥ずかしいのか、香澄は俯きながら頷いた。司は、満足そうに微笑んだ。
…………ここ数日、我慢したんだからな?今日は……ふっ……
……止まんねーぜ?!……
「一緒に風呂な?」
嬉しそうな司の声音に、
「……うん…」
香澄は頬を赤く染めたまま、小さな声を落とす。顔から火が出る、いや、既に頭も燃えているのではと感じるほどに熱を持ち、とても顔を上げられる状態ではない。
……私も……今日は…………なんて、…………
…………言えるわけない!!…………
そして――――
「今日は昼飯、何処で食ったんだ?」
休憩という名の下に、司は香澄に腕枕をしたまま話し始めた。
「三限目が休講だったから、奈津美と近くのパスタ屋さんに行ったよ」
「そうか。何か変わった事はないか?」
「うん」
…………まただ…………
…………学食で食べなかった事……知ってるのかな…………
「何かあったら、すぐ言えよ」
「うん」
…………司は毎日聞いてくるけど、何もかも知ってる気がするんだよね…………
香澄は、バイトのシフトや授業の休講まで把握している司に、薄々気付いていた。
…………言った覚えはないし…………
…………監視カメラでもついてるの?…………
…………でも…不思議…………ふふっ…………
不思議と香澄は、束縛だとは感じなかった。親の監視には長年嫌悪感を抱いていたが、司の行動は愛が感じられるからだろうか。自分の知らない世界の事が、念頭にあったからかもしれない。極道の世界など、香澄には未知の世界なのだ。
『守ってやる』
司の言った言葉を思い出しながら、束縛ではなく“守ってくれている”そう思っていた。
「そろそろ休憩終わりな?」
司は身体を傾け、腕枕とは反対の手で香澄の肌を辿り始めた。香澄の胸は、“ドクン”と跳ねる。
「今日はもうムリ」
頼りなく呟き顔を背けた香澄に、
「……じゃあ明日の朝な?」
司は、決定事項のように言ってのけ、香澄の首に回している腕を曲げる。すると、香澄の身体は、いとも簡単に司にもたれ掛かる。
「…………っ…………」
…………身が持たないよ…………
返答出来ず、黙る香澄の唇に、再び司のキスが落ちる。“チュッ”と音を立てて落とされたキスは、湿った感触が残る。香澄が目を開けると、そこには、鼻がくっつくほど近くにある司の顔。しばらく目を合わせたまま黙っていたが、香澄の心臓は大きな音を立てて波打っていた。
「どうするんだ?今からか?明日の朝か?」
……え……そうくるの?……
……って…どっちもムリなんて言わせてくれそうにない……
香澄は、返事に困ったが、
「あした?」
尋ね返すように呟いた。司はニンマリ笑い、もう一度キスを落とし、仰向けになった。
「へぇー、かすみちゃん、朝からエロい事したいんだ?」
司は、香澄の首筋を撫でながら、一際大きな声を上げた。語尾を上げ、挑発するような物言いに、香澄は身を縮めた。
…………っ…………
「ちょっとつかさ!」
香澄は、恥らうあまり、責めるような口調になるが、
「……クックククッ……いい声で啼くようになったよな…………ックククッ……」
司は笑いながら身体を傾け、香澄の胸に手を這わす。
…………つかさの意地悪!……誰のせいよっ…………
香澄は、頬を真っ赤に染め、羞恥心に耐えていた。そんな香澄の手のひらに、何かが触れた。
…………!…………
「…………え……」
司は、片方の手で香澄に触れながら、もう一方の手で香澄の手を自分の方に導く。
…………な…………に……?……
香澄は、初めての感触に驚いた。司は、訳が分からずあたふたする香澄を見て、目を輝かせる。そして、唇を香澄の耳に近付け、甘えた声でぼそぼそっと囁いた。
…………?!…………
……は?……って…………えぇぇぇ―――!!!……
司の“お強請り”を聞いた途端、香澄は驚きを通り越し、瞳を閉じたまま羞恥心に震えた。しばらく固まっていた香澄が恐る恐る目を開けると、
「な?…」
司は、目尻を下げ、キスを強請るときのように微笑んでいた。香澄は、まるで“絶体絶命の危機”に晒されたように動けない。火が出そうな程、身体中が熱くなり、“ドクン”と胸に痛みが走る。
…………ムリ!……そんな事……できない…………
「……は…恥ずかしいよ……」
……みんな……そんなこと……するの?………………
香澄の消え入るような声音を拒否だと受け止めた司は、一瞬瞳を曇らせた。
……俺がイヤなのか?……
司は口を尖らせ、ふてくされた顔をするが、香澄は顔を伏せたままだ。
「なんだ?俺が嫌いなのか?」
司の言葉に、香澄は絶句した。“しゅん”とした司の声音に戸惑う。
「…………っ…………」
…………違う……嫌いなわけない……
…………でもっ…………
「……ちがぅ……」
ようやく香澄は、搾り出すように声を出した。
…………違う!…でも…………ゃだ……ハズカシイ……
「違うんだ?……じゃあ……」
司は弾むように何か言いかけ、覆うように掴んでいた香澄の手を“ぎゅっ”と握った。
…………え…………っ……
香澄の手は、司に触れたまま硬直し、一ミリも動かない。心臓は“ドクンドクン”と暴れ続ける。香澄の全身が羞恥心に震えた。
…………ッ……えぇぇぇ――!!…………
心の中では盛大な悲鳴を上げながら、顔を上げると、司の縋るような眼差しが目に入る。“ドクン”と波打つ鼓動とともに心臓は今にも飛び出しそうだが、その瞳を見ると、掴まれた手を振り払えない。
…………どうすればいいの?…………
「……ゃだっ……司!恥ずかしい……」
香澄は固まったまま、司に助けを求めるが、どうやら逆効果だったらしい。
「…………クックックッ……お前……可愛いな…………」
「…………っ……」
香澄は、顔中真っ赤に染め、瞳を潤ませ、懇願するように司を見詰めている。司は、その縋る様な眼差しをどう捉えたのか。
…………コイツは、俺のもんだ…………
司は、握った香澄の手をゆっくりと誘導する。
…………わ…わわわっ……ハズカシスギル…………
…………キャ―――ッ……
司は、あたふたする香澄を愛おしそうに見詰めながらニャッと笑い、香澄の耳元で囁いた。
「かすみちゃんも…………お勉強だ…な?……」
それは、まるで悪魔の囁きのように甘いボイス。香澄の耳から脳天にかけて“ビクン”と何かが走り去った。司に導かれ、司に触れ…………
長い夜の勉強会は続いた――――
東の空には、昇り始めた有明月。時折雲に隠れながらも、微かな光を降らせていた――――