寝待月(後編2)
一方、司は――――
…………今日は、一緒に入ってくれねーんだな……風呂…………
“うまく逃げられたな”と苦笑いしながらビールを喉に流し込む。 司は、香澄が風呂に入っている間、月を見ながら飲んでいた。強引に風呂場へ乱入しようとは思わないようだ。
…………言うつもりはねーからな…………
……レイカの事も、白井の事も、……お前の親に金払った事も……
……親父の事も……下條の事も…………
…………昔のオンナの事も…………
…………あのノートを見ちまったことも…………
…………墓場まで俺が背負う…………
司は、覚悟を決めていた。納得した振りをして見せても、後になって気に病むかもしれない。司は、“幸司の死因が事故死ではない”と聞いた時の自分と重ねていた。
……――知らなければ、怨むこともなかった――……
……――知ってしまえば、知らなかったことにはできない――……
……――知らなかった頃の自分には戻れない――……
…………香澄には笑ってて欲しいんだ…………
…………真っ白いままで――…………
司の想いは伝わるだろうか。香澄の風呂がいつも以上に長い事にも気付かず、ただ窓の外を見ていた。
「お風呂、広かったよ。お湯張ってるよ」
風呂から出て来た香澄を見て、司は立ち上がり、入れ替わりで風呂に向かった。
「飲み物いろいろあったぞ?」
香澄は、すれ違いざまにかけられた声にも足を止めず、冷蔵庫に向かう。
「うん」
振り返りながら司に返事をし、すぐに目の前の扉に手をかけた。打ち上げで酒を呑んだからか、風呂に入ったからか、喉がカラカラなのだ。スポーツドリンクを取り出し、素早く蓋を開け、冷たい液体を喉に流し込みながら窓辺に移動する。先ほどまで、司がいた場所だ。
…………言うこと全然まとまってないけど…………
…………伝わればいいな…………
満月と下弦の月の間くらいの寝待月。香澄は、右側が欠けたその月をぼんやり見つめながら、司を想った。
…………堂々とキャンパス内で寄り添って歩くカップルを見れば……羨ましく思った…………
…………恵理子に言えない事が、後ろめたかった…………
……追及が辛かった…………
…………本当のことが言えたらって…………思わなかったわけじゃない…………
……奈津美が怯える姿を見て……ヤクザがちょっと怖くなった……
…………でも…………
…………わたしには…………
……かけがえのない……
…………大切な人…………
…………司が朝帰りした日の事は…………
…………何か、あるんだろうけど…………
……わたしに……言えないこと?……
……それとも…………
…………っ…………
…………女の人?…………
…………でも…………
…………司と離れるなんて……考えられない…………
…………いつか……お墓に入るまで…………
…………邪魔にならないように、ついて行く…………
突然“ギュッ”と抱き締められ、香澄は我に返る。
…………?!…………
「つかさ?……」
司は、自分の足音にも気付かず窓辺に佇む香澄を、衝動的に抱きしめていた。香澄は振り返ろうとするが、寄りかかるように抱きしめられ、身動き出来ない。
……疚しい事があるのは俺だ……
……白を見たら、吸血鬼が十字架を見た時みてーな気持ちになるんだ……
……俺は、……真っ黒だ…………
検挙されないだけで、危ない橋を渡ってきた司。香澄に言えない事もある。今までも、きっと、これからも。簡単に縁を切れる世界ではない。
……どうやっても……消せねーんだ……
……黒に何を塗っても、黒のままだ……
…………人生にリセットボタンはねぇからな…………
司は、香澄の話を聞く前に、香澄のぬくもりを感じたかった。風呂上りで火照った自分とは違い、香澄の身体は冷えていた。
「風邪引くぞ?」
司は、香澄を抱き上げ、ベッドに降ろした。
「つかさ……待って……」
香澄は、自分に覆い被さる司の肩を押しやり、離そうとした。
「イヤなのか?」
口ではそう言いながら、司は香澄の首筋にキスを落としていく。
「イヤじゃなくて…………待ってってば……っんん…………ふぁ……待っんんっ…………」
…………喋らせねーからな…………
…………話は後だ…………
“話を先に”と思っていた香澄も、いつの間にか司に誘導され、恥じらいもなく乱れていく。喋ろうとすれば司の唇で塞がれ、エスカレートする司の動きに、香澄は我を忘れた…………
司は、瞳を閉じたまま喘ぐ香澄をじっと見詰め、目に焼き付けていた。その感触を決して忘れぬよう、忘れさせぬよう、何度も愛を注ぐ。
「……つかさ……ねぇ……もう……許して……」
懇願する香澄の声を聞いたところで、司は止める様子もない。
…もっと啼かせてやる…………
「……“もっと”って聞こえたぜ?……」
「……っ……ちが…ぅ…っ…………ふ……」
「…………っ……」
…………ふっ……そろそろ休憩するか…………
司は、ピタリと動きを止めた。
「大丈夫か?」
「……ん……」
司は、香澄を腕に抱き、天井を見ていた。香澄は、ぼーっとする頭を必死に回転させようとしたが諦め、司に身をすり寄せる。
「…………ふっ……ちょっと休憩な?」
…………え……休憩?…………
香澄は、これで終わらない事は分かっていたが、正直なところ……くたくただ。
「話って何だ?」
司は優しい声で問いかける。その声を耳にした香澄は、『話があるの』自分がそう言った事を思い出す。
…………ずるい…………
…………司はずるい…………
香澄は、“司には勝てない”そう感じた。
……こんな状態で……
…………真面目な話……できる?…………
…………言葉なんかいらない……くっついたままでいたくなっちゃうよ…………
香澄は、唇を尖らせ、頬を膨らませた。
「つかさ……ずるいよ」
「何の話だ?」
司は、『ずるい』と言われ、顔を香澄の方に向ける。膨れっ面で、上目遣いに見上げる香澄を見て、
「そんな顔してっと、休憩終わりにするぞ?……お前に睨まれても……」
“そそられるだけだ”と、言いかけ、途中で言葉を止めた。香澄が、思い詰めたような顔をしたからだ。視線を逸らした香澄の唇は、僅かに震えたように見えた。
「…………かすみ?」
「………………」
香澄は黙ったまま、身体を起こし、司に背中を向けたまま、布団を抱きしめた。
「かすみちゃん?」
「…………っ……」
「どうした」
香澄は黙り続ける。司は、香澄の異変を察知し、慌てて身体を起こした。そのまま香澄を後ろから抱き締める。“ギュッ”と力を込めたのは、自身の震えを隠すためだろうか。
「……話があるって言ったのに……」
呟くような香澄の声が落ち、司の心臓は“バクンバクン”と大きく波打ち始めた。
「あぁ、………なんだ?話って」
司は、出来るだけ明るく振る舞って見せるが、心臓は不自然な収縮をしているようだった。香澄は、言葉を選んでいるのか、黙ったままだ。司には数分の沈黙が、随分長く感じられた。やがて、香澄の唇がゆっくりと動いた。
「……司とこうしてると、考えてた事とか、どうでも良くなっちゃいそう……」
香澄は、独り言を漏らすように言葉を吐き出す。
…………?!…………
その一言一句に、司の胸はざわめく。
「何かあったのか?…………言ってみろ」
…………なんだ?………………考えてた事って、…………
…………俺への不満だろうが何でも聞いてやる…………
司は、首を回り込ませ、香澄の顔を窺った。香澄は、目を伏せたまま、組んだ自分の手を持て余しているようだ。顔を見て聞こうと思い、司は香澄の肩に手をかけた。その時、
「司は、言ってくれないの?……」
不意に聴こえた香澄の声に、司は驚く。
…………?!…………
…………は?……俺が、か?…何の事だ?…………
司は、目を見開き、固まった。必死に頭の中をフル回転させている司に気付くはずもなく、香澄は続ける。
「……私、何聞いても驚かないよ……だから……」
………だから…司の荷物……私にも背負わせて……
香澄は、言いかけた言葉の先を濁したまま、口を閉じた。司は、苦笑いしながら、
「……お前、……不思議な奴だな……」
ぼそっと呟いた。
…………二十歳には思えねー時があるよな…………
……驚かねーで、聞いて、後でこっそり泣くんじゃねーのか?……
司は、香澄が自分に関心がないなどと考えていた事が恥ずかしくなった。見透かされているような、そんな香澄の言葉に、心の中が熱くなる。
「子供だと思ってる?」
香澄は、振り返ろうと首を傾けた。が、司が香澄のこめかみに頬を寄せ、それを制した。
「いや」
司は、香澄に身を寄せ、視線を合わすことなく言葉を落とす。
「司、何か抱えてる気がする……私じゃ……聞くこともできない?」
香澄は、ゆっくり言葉を選びながら呟く。声は前に向かっているが、心のアンテナは右上にある司の瞳。どうにか振り返ろうとするが、ぴったりと頬をくっつけられ、頭を動かすことが出来ない。
「……聞きたいことがあるなら聞け」
司は、香澄のため、いや自分のために、嘘をつく覚悟で言葉を発した。
…………っ…………
「……っ……そう言われても……」
…………私から聞くなんて、イヤだよ…………
…………信じてないみたいで…………
香澄は、言葉を失い、沈黙が流れる。
…………聞かねーのか…………
香澄が自分から訊ねてくることはないと、何処かで感じとっていたのかもしれない。司は、長い沈黙を打ち破るように口を開いた。
「……ふっ……心配すんな。俺は、そんなにやわじゃねぇ。仕事の事は、お前は知らない方がいい」
「仕事で悩んでるの?もしかして、この前帰って来なかったのも?」
香澄の言葉に、司は“ふっ”と心の中で安堵のため息を漏らす。
…………やっぱり……そこか…………
「あぁ……まあな。後、お前に悪い虫がつかねーようにとか?」
「…………」
「……嫉妬に狂った俺は、何するか分からねーぞ?」
「…………」
自分をあざ笑うような司の低い声。淡々と話す温度のない声音に、香澄は声も出ない。冗談などではないと感じとった香澄の脳裏に、司の幻影が蘇る。
…………本気で怒ったら、あんな恐い姿になるのかな…………
司は、黙ったまま反応しなくなった香澄の顔を想像した。
…………蛇に睨まれた蛙みてーな顔してんだろうな…………
司は、腕に込めていた力を抜き、だらりと腕を投げ出す。
…………お前の愛が……他の男に向いたら…………
…………俺は……そいつを破滅に追い込むのか?…………
自分でも信じられない感情が、司の胸の中にこみ上げてきた。“それ”に気付いた司は、自分で自分を笑い飛ばすかのように苦笑いを浮かべた。
「…………クックックッ……でもな、俺が邪魔になったら、言え」
「え?」
…………邪魔?!…………
香澄は、司の言葉に驚いた。思わず振り返り、聞き間違いであって欲しいと思いながら聞き返す。真髄を問うような香澄の瞳は、真っ直ぐ司の瞳に向かう。
司は、微かに潤んだ香澄の瞳から目を逸らすことなく、真剣な眼差しで香澄を見据えた。そして、その縋るような瞳の奥へ、言葉を放った。
「お前の前から消えてやる」
今までに聞いた事のない司の声音、冗談などではなく何かを覚悟したような声音が香澄の胸に突き刺さる。
…………っ…………
“ドクン”と波打つ心臓は痛みを伴い、息をするのも苦しいほどに胸を締め付ける。確かに心臓は動いているが、胸に大きな穴を開けられたような感覚を覚えた。
「なんで?……なんでそんな事………っ……」
ようやく声を出せた香澄は、身体ごと向きを変え、司の肩を掴んだ。
「…………ックククッ……いい眺めだなぁ……ちょっと大きくなったか?……」
司は、愛おしそうに香澄の胸を見詰め、触れていく。香澄は、全裸を隠すことも忘れ、されるがままになっていた。司は、香澄と視線を合わせることなく、香澄の膨らみを撫で続ける。幸せそうな顔をして――――
…………なんで?…………
…………そんな優しい顔して、…………
…………なんで……そんな事……言うの?…………
…………司がいなくなったら…………わたしは…………
…………っ…………
香澄の鼻の奥は、ジーンと熱くなる。視界が歪んだのは、涙だろうか。
「やめて!」
香澄は、叫びながら司の手を振り払った。司は、払われた腕を後ろに突き身体を支え、香澄の胸から視線を動かさない。香澄は、そんな司の目元をじっと見つめた。
「俺は、普通じゃねぇ……」
ぼそっと呟いた司は、相変わらず視線を上げない。香澄は司を遠く感じ、得体の知れない不安に駆られる。
…………っ…………
「普通って何?……誰が決めたの?……みんな一人一人違うのに……」
香澄の目頭は熱を帯び、今にも零れ落ちそうな涙が瞳を覆っている。だが、涙声で問いかける香澄にさえ、司は視線を合わさない。
「……ックククッ……俺も、普通って言葉、好きじゃねぇけどな?……ックククッ…」
苦笑いをしながらも、司の眼は伏せられたままだ。
…………っ…………
あれこれ考える前に、香澄の口は動いていた。
「……司の仕事の事も、実家の事も、聞かないよ。…………司が普通じゃないなら、わたしも普通じゃないから」
香澄は、拗ねたように口を尖らせ、言い放った。
「は?」
司は、ようやく視線を上げ、香澄の顔を見た。一瞬、二人の視線が合う。司は目を見開いたまま固まっているが、香澄は司に言いたかった言葉をぶつけた。
「……司がいてくれたら…………それだけでいい…………」
「…………っ…………」
普段自分の気持ちを言わない香澄が投げた言葉は、司の胸に響いた。
…………俺に……存在価値なんてもんが……あんのか?…………
…………お前は知らねーからだ…………その気持ちだけで、俺は…………
「極道でもか?真っ黒だぞ?」
司の放った言葉にも動じることなく、
「それ、仕事でしょ?……仕事の話は聞かない」
香澄は、当たり前のように言ってのけ、顔を背けた。司は、再び目を丸くした。顔が固まったのか、思考回路が固まったのか、間抜けな顔を晒していただろう。
…………ふっ…………
…………コイツ…………たいした女だぜ…………
…………ただの“世間知らず”じゃなさそうだな…………
司の強張った頬は次第に緩み、そっぽを向いた香澄を愛おしそうに見つめた。
「……頑固だな…ふっ…可愛いけどな…」
司は、想像以上に純粋で大人な香澄に完敗だ。
「…………っ……消えるとか言うからだよ……」
ムスッとして呟く香澄を、司は自分に跨らせるように抱き寄せた。香澄は、ようやく自分の姿に気が付き、体中から湯気が立ち上りそうなほどの羞恥心の中、両腕で胸元を覆った。 司は、その腕を掴み、引き寄せようとする。
「ちょっと……恥ずかしい……」
…………ゃだ……っ…………
司は、恥ずかしがる香澄の腕を自分の背中に回し、ぎゅっと抱き締め、
「…………俺は…お前が思ってるよりヒデー男かもしれねぇぞ?」
耳元で、囁いた。
…………赦してくれるのか?…………
…………こんな俺を……受け入れてくれんのか?…………
「…………司の昔の話は、…………女の人の話以外なら聞く」
「……?!…は?」
司は、香澄の言葉に驚き、間の抜けたような声が出る。思わず抱き締めていた腕が緩む。司は、そのままその手を香澄の肩にのせ、顔を覗き込んだ。香澄は、俯いたまま、懸命に何かを伝えようとしていた。
「女の人の話は、聞きたくないから、言わないで」
香澄は下を向いたまま、呟いた。
「…………っ……」
司は、香澄の口から出てくる言葉に面食らう。
…………コイツ…………本当に二十歳か?…………
司は、言葉が出なかった。香澄に言えるはずもない、言うつもりもないが、“聞きたくないから言うな”と言われるとは思いもしなかったのだろう。黙ったままの司に、香澄は言葉を投げ続ける。
「言わないでね……嘘を吐くくらいなら、黙ってて?……」
ようやく視線を上げた香澄の瞳には、目を見開き固まる司が映る。司は、返事すら忘れ、どこか遠くを見ていた。
「………………」
司は、香澄の投げた言葉ひとつひとつに胸を震わせながら、真っ暗い胸の奥に微かな灯火を見たのかもしれない。司の瞳には、何が映っているのだろうか。
香澄は視線を落とし、しばらく黙っていたが、
「…………あ、…でもね、……やさしい嘘なら赦せるから……」
言い忘れた言葉を付け足すように繋ぐ。独り言のように、だが、きっぱりとした香澄の声だけが部屋の中に響いていた。
「…………?…………」
司は、俯く香澄のうなじに手を添え、顔を覗き込んだ。
「やさしい嘘ってなんだ?!」
頷くことも忘れ、香澄の言葉を聞いていた司だが、思わず口を挟んでいた。
…………嘘に、“やさしい”も“へったくれ”も…ねーだろ!…………
香澄は、視線を上げ、司の瞳を見た。真剣で、どこか切なく、いつもより大きな瞳。香澄は、その大きな瞳の奥に言葉を送った。
「愛のある嘘」
香澄の言葉に、司は再び息を飲む。流石の司も言葉が出てこない。
…………っ……コイツ…………
「…………分かった」
司は、『分かった』と一言、かすれた声を出すのがやっとだ。
…………コイツ、俺が嘘つくって分かってやがる…………
…………だから聞かねーのか?…………
…………俺に、嘘をつかせねーために…………
…………っ…………
「……愛のない嘘は…赦せる自信…………ないから」
にっこり笑って言い切る香澄は、晴れ晴れとした顔をしていた。
「…………お前…どんな恋愛してきたんだ?」
…………愁以外は知らねーぞ?…………
「え?」
…………こんな女初めてだぜ?!…………
香澄は、ありもしない恋愛経験を訊ねられ、不思議そうに司を見ていた。度肝を抜かれた司は、まじまじと香澄を見ながら心の中で呟いた。
…………心配すんな!愛はここにある!お前に、愛のない嘘をつく事はねぇからな!!…………
…………お前は、真っ黒な俺に、やさしい光をくれるんだな…………
司は、自分の胸にある熱い想いを伝えようとしたが、出て来た言葉は、たった一言だった。
「…お前……いい女だな……」
香澄は、司の言葉を聞き、頬を染め、はにかんだ。
「…………ちょっと背伸びしてるかも……ははっ…」
…………司が気付かせてくれたんだよ…………
…………大切な気持ちに…………
…………相手の気持ちは見えない…………だから不安になる…………
…………自分を受け入れてくれなかったら……って…………
司は、恥ずかしそうに笑う香澄に、頬を緩めた。
「…………クックックッ…………背伸びなんかしなくていいぞ?……」
「え?」
「守ってやるって言っただろ?………………あ、でも、お前の方が強いかもな…………ックククッ…」
「どういうこと?」
香澄は、不思議そうに司を見やる。司は、そんな香澄を愛おしそうに見つめていた。目尻を下げたまま、心の中で白旗を揚げながら。
…………一生言えるかよ!…………ふっ…………
“ふっ”と笑みを漏らした司は、緩んだ顔を元に戻し、口を開いた。
「お前の方がエロいっつーことだ」
「はぁ~?!」
「クックックッ………ックハハハハ…………ックハハハッ」
香澄の膨れた顔に、叫び声に、司は思い切り笑った。幸せを感じながら…………幸せを噛み締めながら――――
そして、香澄を引き寄せ、
「俺が一生守ってやる。愛のない嘘なんか、つかねーから、安心しろ」
自然に言葉を発していた。
「うん……」
司の力強い言葉と真剣な眼差しに、香澄の胸の奥は熱くなる。じんわりと伝わる“何か”に心が震えた。
「背伸びなんかすんな!!お前はそのままでいい」
司が、『そのままでいい』と言った時、香澄が抱えていた重い荷物が一つ、音を立てて落ちていった。優しい笑みを浮かべた司に“ぎゅっ”と抱きついたのは、無意識だろう。香澄は、全裸で司に跨るように座っている事も忘れ、司の体温を感じていた。
…………ありがとう…………
『そのままでいい』
香澄には、心の中にしみる言葉だったのだろう。
「じゃあ、…………休憩終わりな……」
司は、座ったまま香澄を引き寄せる。予感していたのか、自分も求めていたのか、香澄は素直に司に身をゆだねる。
「………………んんっ…ぁ」
甘い吐息は絶え間なく漏れる。二人は繋がったまま、抱き合った。 何度も押し寄せる波に、さらわれないように、しっかりと――――
「かすみ」
「……っ……ぅん?……」
「好きって言えよ」
「…………っ……」
…………言いたい…………
…………だって……好きっ…………つかさが好き…………
勝手に出てくる甘い吐息を堪えながら、香澄は顔を歪ませる。司は、“言葉が欲しい時もある”そう思った。
…………贅沢かもしれねーけどな…………
…………聞きてーんだ…………
…………お前の声が…………
「かすみ?……」
司は、何度も香澄の名を呼び続ける。
…………っ……すきっ…………
香澄は、心の中で何度も“司が好き”と繰り返すが、声にならない。司は、香澄の身体も心も言葉もすべてを求めるかのようにノックし続ける。
「…………すっ…………」
――――――『見えないけれど、そこに光はある』――――
――――『月の光みたいに欠けることのない愛を、おまえにやる』――――
――――月は、裏側を見せることもなく――――
――自ら光ることもなく――
――――そばにある――――
「すっ?…………」
…………早く言えよ!もうもたねぇ…………
「………………きっ…………」
「…ふっ…………」
二人は、月の光に包まれ、眠りに落ちた――――――
――――数時間後
「……すみ」
ぼんやりした意識の中で、誰かが自分の名を呼んでいる気がした。香澄は、背中に感じる温もりと耳元にかかる吐息が心地良く、再び眠りに落ちそうになる。
「かすみ……起きろ」
「……う……ん……」
司は、布団を剥ぎ取り、目を擦りながら唸っている香澄を抱きかかえた。寝ぼけたままの香澄を風呂場へ連れて行き、有無を言わさぬ勢いでシャワーを浴びせる。
「眠い」
半分眠っているような香澄の呟きに、司は頬を緩ませ、手のひらでボディーソープを泡立て、香澄の肌を撫でる。
「……ふっ」
二人で温かい雨に打たれながら、どちらからともなく肌を寄せ合い朝一番のキスを交わすと、司はそっけなく香澄を脱衣場へ促した。
「ねぇ……もう時間?」
香澄は、バスタオルで身体を拭きながら司に訊ねた。どこか急いでいるような司の様子は、チェックアウトの時間が迫っているのかと思うほどだ。
「……出かけるぞ」
「え?」
「着替えて来い!」
司は、あっという間に着替えを済ませ、脱衣場から出て行った。香澄は、腑に落ちない点はさておき、言われるままに着てきた服を身につけた。脱衣場を出ると、受話器を置く司が目に入る。次に視界に入ったのは、窓から見える暗い空。まだ夜明け前だということが窺えた。受話器を置いた司は、二人分のコートを手にすると、首を傾げながら突っ立っている香澄のもとに歩み寄った。そして、
「お前に見せたいものがある」
そう言うなり香澄の手を引きながら部屋を出た。エレベーターの中で香澄にコートを羽織らせ、手を引きながらフロントに向かう。
「…………っ…………」
「どうした」
俯いたまま、どこかぎこちない香澄に気付いた司は、歩みを止めた。
「うん?……手、繋いでるから……」
蚊の鳴くような声で呟き、香澄は頬を赤く染め、恥じらいながら司を見上げる。
「ん?……」
司は、あまりに小さな声に、思わず聞き返していた。
「つかさ……肩抱いてくれるけど、手、繋ぐことあんまりないし……」
慣れない“恋人つなぎ”に戸惑う香澄は、うまく言葉が出てこない。無意識に司の手をぎゅっと握っていた。
…………?……どっちがいいんだ?…………
司には、香澄が嫌がっているようには見えない。“いったいどうして欲しいんだ”と思いながら口を開いた。
「どっちが……」
「……どっちも嬉しい…………」
まるで司の問いかけを読んでいたように、香澄の声が司の言葉に被さった。香澄は柔らかい微笑を浮かべ、握った手に力を込めている。香澄は、司がいつもどこか触れていてくれる事に幸せを感じていた。物心ついた頃から、両親に手を握られることも抱き締められることもなかったからだろうか。香澄は、人の温もりに餓えていたのかもしれない。体温を感じられることに、安心感を感じるのだろう。
「変なやつだな……」
司は、ぼそりと呟き、再び歩き始める。自分の頬が緩んでいることに、気付かないまま。
フロントに着き、司は大きな袋に入った毛布を受け取る。ぎょっとしている香澄を横目に見ながら、司はふっと笑い、何も言わないまま香澄の手を引く。ロビーに設置されているソファーに香澄を座らせ、自分の着ているコートを脱ぐ。
「これも着ろ……相当さびぃらしい」
司は香澄に自分のコートも羽織らせた。
「でも……司が寒いよ?」
心配そうにコートを返そうとする香澄に、
「毛布も借りたしな……」
袋から毛布を取り出し、ふっと笑って見せた。“司が内線電話を使っていたのは、この事だったのか”と、香澄は柔らかい笑みを浮かべ、大きなコートのボタンを留めた。
二人が寄り添いながらホテルを出ると、“ザザーン――サラサラサラ―”と押しては寄せる波の音が聴こえてきた。
…………綺麗…………
香澄は、思わず心の中で歓声をあげた。昨夜ここに辿り着いた時は、真っ暗だったせいか、寒くて足早に建物の中に急いだせいか、全く気付かなかったようだが、ここは海に面したリゾートホテル。早朝だからだろうか、浜辺に人気はない。二人は、寒さに身を縮めながら歩く。
冷たい潮風に、紫色の空…………
「あ…………月……白い…」
香澄は、沈みかけた月を見つけ、足を止めた。
「“白い”…か……」
司は、ぼそりと呟き、白い月に視線を向けた。
「なんだか、夜と違うね…………」
香澄の言葉は、“ザザーン――サラサラサラ”と繰り返す波の音と混じり、司の耳に届いた。
「だな……寒くないか?」
「……うん。司の、コートまで着てるんだから…………司は?」
「大丈夫だ。座るか」
司はベンチを見つけ、自分の膝に香澄を座らせた。背後から腕の中に香澄を抱き、二人で毛布にくるまる。明け方の寒空の下、二人は、ぼんやりと海を見つめる。“ザザーン――サラサラサラ――サラサラサラ”心地よいBGMは波の音。
だんだんと空が光を放ち始める頃、ふと、香澄が口を開く。
「……日の出って、水平線に太陽の頭が当たった時刻を言うんだってね」
「あぁ……まだ頭のてっぺんしか見せてねーけど日の出だ……」
……日の出は頭だけ……確か……月は……
司は、ずいぶん昔の記憶を辿る。
「月の出は…違った気がする…」
独り言のように呟いた香澄もまた、何処かで聞いた事柄を思い出そうとしていた。
………どうだったかな…………
司は、眉を寄せながら必死に思い出そうとする香澄の横顔をちらりと見やると、腕に力を込めた。幼い頃、諒子から幸司の話を聞き、月に興味を持った司は、あれこれ調べていた。
「月はな、真ん中が水平線に来たら月の出だ。……光ってねー部分も含めて、顔半分見せたら月の出だ……」
「そうそう!半分見せたら月の出なんだよね……ふふっ……」
香澄は、司の言葉を最後まで聞くことなく感嘆し、ホッとしたように笑みを見せた。
…………俺たちみてーだな……スタートは今日か?…………
「何笑ってんだ?」
司は視線を合わせようと、香澄の顔を覗き込むが、
「なんでもないよ。…………太陽と月……両方見れるって贅沢……」
香澄は、広い海に視線を向けたまま微笑んだ。
…………半分見せたら月の出、私たちみたいなんて、……恥ずかしくて言えないよ…………
お互い、何かを思いながら、昇り始めた太陽と沈みかけた月を見ていた。凍えるような冷たい風が吹き荒れる中、司は毛布の端を握ったまま、香澄をぎゅっと抱きしめる。
「……夜には見れねーモノだろ?お前に見せたかったんだ」
……親父は……太陽の下で堂々と、汗水垂らして働いてたんだよな…………
二人で寄り添いながら月を見上げた記憶を辿れば、夜の暗闇の中。司は、『いつか、下條を頼らず会社を維持してみせる』自分が香澄に言った言葉を思い出していた。その言葉に嘘はない。
「わたし、この白い月…………忘れないよ……」
香澄は、昨夜の自分を思い返していた。今まで言えなかった気持ちを言葉に出来た自分に、少しだけ自信が持てたのだろうか。“白い月”と“夜明け”ようやくスタートラインに立てたような気がしていた。
「……今日の海はどんな気持ちなんだ?」
司は、海を見詰める香澄の横顔を覗き込んだ。
「穏やかな気持ちかな…………」
香澄の返事を聞き、司は“ふっ”と笑う。
…………似たような事…思ってたんだな…………
…………コイツに出会わせてくれた事に、感謝だな…………
司は、香澄の頬にキスを落とし、抱き締める腕に力を込めた。
「……ねぇ…つかさ…………一つだけお願いがある……」
……きいてくれるかな……
「なんだ?」
司は、目を見て話を聞くために、香澄を横向きに座らせ、毛布を掛け直した。香澄は、司の優しい目を見ながら、ゆっくりと口を開く。
「帰りが遅いと心配だから、……その…………連絡……」
声は次第に小さくなり、香澄は目を伏せた。司は、そんな香澄を愛おしそうに見詰めながら、
「分かった。俺が出来ねー時は誰かに連絡させる」
朝帰りになってしまった日の事を思い出していた。
……気になってんだろ?……
「…………うん。ありがとう」
香澄のホッとしたような顔を見て、司は“背伸び”をさせまいと言葉を探した。
「この前な……あれは返信できなかったんだ。あの海にいた。メールに気付いたのは朝だ」
「……うん」
…………あの海にいたんだ…
…………じゃあ……電源切ってるよね…………
香澄は、“仕事で悩み、考え事をしていた”そう納得したようだ。海堂が必死に探していたあの日のように、携帯の電源も切っていたのだろうと。
「飯も食わずに待ってたんだろ?」
「う……ん……」
「悪かった………………」
“コツン”と乾いた音。おでことおでこをくっつけて謝る司に、香澄の不安は消えていった。雲のないこの空のように…………
白い月に守られて――――
「謝らなくていいよ」
香澄は、ゆっくり顔を上げ、先ほどよりも晴れやかな笑みを浮かべた。
「俺も、一ついいか?」
「何?」
司は、子供が母親にお菓子をねだるような目で香澄を見つめる。
…………なに?……
香澄は、その瞳に釘付けだ。
「……“早く帰ってきて!ハートマーク”とか送って来いよ」
司は、悪戯っ子のような笑みを浮かべながら言い放つ。
…………っ…………
「え?」
「“大好き!ハートマーク”でもいいぞ?」
…………えー?!…………
“ボッボボボボッ”と香澄の顔はりんごのように真っ赤になる。
「…………は…恥ずかしいよ……」
真っ赤に染まった香澄の頬を見ながら、司は心の中で呟いた。
…………口に出せないなら、メールで言え!…………
香澄は、頬を両手で覆い、恥ずかしそうに俯く。司は、腹を震わせながら助け舟を出してやる。
「……ックククック……じゃあ、ハートマーク四つで許してやる」
「四つ?なんで?」
「四つ葉のクローバーがあるだろ?シロツメクサとか言うらしいな」
司は、耳だけ赤くしながら言い放つ。
「あ!小さい頃必死で探した……押し花にして、今も持ってるよ」
目をまん丸くして喋り出した香澄を見て、司は再び笑い出した。
「…………ックククック…ハートに似てるだろ……」
…………司ってやっぱりロマンティストだね……ふふっ…………
「だから四つなんだ…………幸せを呼ぶ四つ葉のクローバー……」
一つ山を越え、雲が切れたのだろうか。司は、シロツメクサの花言葉を知っていたのか、いないのか。
朝焼けの中、また一歩お互い歩み寄れた二人を、寝待月は白く優しい光を放ちながら見守っていた――――――――