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Second Moon Ⅰ  作者: 愛祈蝶
光と影
13/20

寝待月(後編1)

「何の用だ」



聴こえてきたのは、引き戸の前で待機していたケンの声だ。ケンの低い声は、さほど警戒していない声音。司と海堂は、耳を澄ませながら一つ息を落とす。




「あの、……あの、あの、…………こっ…ここ…これは…………多すぎる…ので………………て…てて店長が…………店長が…か…返すように…と…………お皿も……高いものではっ…………ないので……と……」



引き戸の前でのやりとりを、海堂と司は黙って聴いていた。




…………店員か…………



司は、ケンがどう治めるか、傍観を決め込んだ。





「テメーはバカか」



ケンの低い声には、抑揚がない。



「えっ?」



「聞こえねーか?」




…………ヒッ………………




「……いえ……っ……」



「くじで決めたのか?じゃんけんか?罰ゲームみてーなもんだろ、テメーも運が悪いよな……」



「て…てて店長の指名で……」



店員の様子は、声音から想像できる。会話が途切れたことで、ケンの眉間にしわが寄ったことが(うかが)えた。



「一度出したもんは引っ込められねー、分かるか」



「す、すみません。し…し失礼しました……どうすれば……」



引き戸の外で繰り広げられる会話を聞いていた海堂が、店員の『どうすれば』に、とうとう吹き出した。



「ぶっ…………ッハハハハッ…おい!!店長呼んで来させろ!…兄ちゃん、“化けもん”にビビってんぞ?」



「……ックククックッ……ックククハハハッ海堂、“化けもん”はテメーもだろ」




……ケンの顔、膨れ上がってっからなぁ、ただでさえ厳ついのに…………




海堂と司の野次を聞いたケンは、再び抑揚のない低音を放った。



「だそうだ。呼んでこい」



「は……ははい……ただいま……」



店員の足音はあっという間に遠ざかった。司は、上着を着ながら海堂に指示を飛ばす。



「海堂、後は頼んだ。あのヤローの事もな」



…………手荒なことはしねーが…………調べさせてもらうぜ…………



「はい」



海堂は、司の言わんとすることをくみ取った。



「ケン!車回してこい!」



「はい」



司は、香澄に気付かれないよう、先に店を出た。







「そろそろお開きで~す!二次会はカラオケで~す!白井で予約――――」




恵理子が大声を張り上げる中、



「奈津美、ありがとう。びっくりしたよ、みんな普段と違うし」



香澄は、奈津美に声をかけた。




「……ぶっ……ッハハハハ……あんたも違うよ?……よくしゃべってるしさ……」




「……そう?」




奈津美は、香澄が二年生の女の子に恋愛相談を持ち掛けられ、真剣に語る姿を思い出していた。




『言葉では、何とでも言える』




『愛は、口に出すものじゃない』




「……ッハハハハ…………やっぱりあんた面白いわ!……」




奈津美は、香澄の名言?を思い出しては笑っていた。




「………ちょっと…私、そんな変な事、言ってた?」




無自覚な香澄に、更に笑いが止まらない奈津美だ。ジュースを持って来た橋本が、あまりに真剣に語る二人を見て、珍しく絡まずに去って行ったのだから。




………かすみ、あんた酒呑んで司さんにぶつかってみたら?………




………抑え込んでると、いつか爆発するよ?………




奈津美は、心の中で呟いた。






二人は、恵理子に会費を払い、帰り支度を始めた。“生き霊”の存在をすっかり忘れて。




「晃に電話していい?」



「うん」




奈津美は、座敷の雑音の中、香澄の隣で晃に電話をかけた。香澄は、奈津美に背を向け、帰り支度をする皆をぼんやり見ていた。




「…………もしもし、…………あんた誰?……誰かって聞いてんだけど!!あきらの携帯よね?」




…………え?電話の相手……晃くんじゃないの?…………




突然飛んできた奈津美の声に、香澄は思わず振り返り奈津美を見た。会話の内容が気になり、聞くつもりはなかったのだが、つい耳を傾けていた。奈津美は、血相の色を変え、携帯の向こうの相手を睨みつけていた。




「…………は?……ちょっと……はぁ~?……呑ませたの?……………ちょっと晃は大丈夫なの?!…………分かったから、あたしが行くから!!…………………………で、あんた名前は?…………アユミさんね、名字は?………………サイトウアユミさんね?ありがと」




奈津美は、携帯を閉じると香澄の方を向き、口を開いた。




「あきら、呑まされて寝てるって!あたし心配だから、迎えに行くわ」




奈津美は、電話に出た女の名前をフルネームで聞いていた。さすが、しっかり者の奈津美だと香澄は思った。




「うん…?…どうやって?」




「タクシーかな……」


「奈津美?頼んでみるから、待ってて」



香澄は奈津美の返答を聞くなり携帯を取り出し、身体を出口に向けた。それを見た奈津美は、とっさに香澄の腕を掴んだ。



「待って!!」




……司さんに送ってもらうなんて、そんな……




腕を掴まれた香澄は動きを止め、不思議そうに奈津美の顔を覗きこむ。



「何?」



奈津美は、問いかける香澄の腕をそのまま引っ張り座らせた。無意識に香澄を止めていた。奈津美の体は、お化け屋敷の中にでもいるかのように強張る。






…………だって、司さんって…………



何か答えなければと焦りながら、奈津美は、



「ああ!」



何かを思い出したような声を上げた。



…………亡霊……?……ちがう……



「なつみ?」



香澄は、どこか上の空な奈津美に声をかける。が、その瞳に香澄は映っていない。




……亡霊じゃなくて…………えーっと……




……生き霊(いきりょう)!!……“生き霊”?…ううん…………




奈津美は目を瞑り、頭を左右に振った。




…………“本物”だよ、ホンモノ!!……あれはヤバいでしょ…………




奈津美の頭の中では司の世にも恐ろしい姿が再現されていた。身震いしながら、ゆっくり目を開けると、香澄の無垢な瞳が目に入った。奈津美は、自然に笑みを浮かべ、口を開いた。




「大丈夫だから、遠回りになると悪いしさ」




「……でも」


「いーから!……ね?」



奈津美は、あのおぞましい“生き霊”に、司はヤクザなのだと改めて思い知らされた。香澄の話だけを聞いていれば、恐怖を感じることはなかったかもしれない。




……あの目……香澄は怖くないの?……足に使おうだなんてとんでもない!…………あたしは、怖いから……







「いいの?」



「うん。出よう?」




奈津美は、香澄が頷いたのを見て、コートとカバンを手にし、香澄を連れて部屋を出た。




「ねぇ、遠回りじゃないと思うけど……」




香澄の言いかけた言葉に、奈津美は焦った。




「いいの!…香澄、今日は、司さんと向き合うんでしょ?」




そう言いながら、うまく誤魔化せたかどうか、不安だった。

奈津美の頭の中は、



司=怨霊+生き霊

=危険×危険



という言葉の式が成り立っていた。



そして、“危険!近寄るべからず”と言う文字が点滅していた。







二次会に移動する集団が、店の出口に流れて行く中、



「電話しなよ。あたしここにいるから」



奈津美は、出口とは反対側の廊下に香澄を連れて行き、司に電話するよう促した。香澄は、にっこり笑い、携帯を取り出した。




「もしもし………………えっと……今終わったよ……………………うん……うん一緒にいるよ?………………分かった、……うん」



嬉しそうに話している香澄を見ながら、奈津美は、心の中で香澄に謝っていた。




…………ごめん……香澄の事は大好きだから…………




……ずっと友達でいたい…………




……でも……あたしは……ヤクザが怖い…………ごめんね……




奈津美は、電話を切った香澄に、気になっている事を尋ねてみた。




「司さん、何処にいるの?」



「もう着いてるって。みんなが移動してから降りて来いって」



「…………そう…一緒に降りよう!がんばりなよ?」



奈津美は、それしか言えなかった。自分は司に関わりたくはないが、香澄の味方でいたい気持ちは、変わりないのだ。



「うん」



香澄は、笑顔で頷いた。





結局二人は、二次会移動組が帰るまで待ち、トイレを済ませた後、店を出た。




「ごめんね。遅くなって……奈津美大丈夫?晃くん………」



「大丈夫!あきらは、まだ寝てるし、起きなかったら…………代行かタクシーでアパートに運ぶわ。姉ちゃんにメールしたし、うちは大丈夫だから」




奈津美は姉と上手く連携し、今日は、一人暮らしの晃のマンションに泊まれるようだ。店の前で立ち話をしていると、香澄のバッグから着信を告げるメロディーが鳴り出した。




「司さんでしょ?早く出なよ」



奈津美に促され、香澄は携帯を取り出す。



「…………もしもし……」



「お前、どこ見てんだ?」



「…………どこって…どこにいるの?」




香澄は、店を背に、道路脇に停まる車の中から司の車を探してキョロキョロし始める。




「見えねーか?」



電話口から聴こえる司の声に、(はや)る心を抑えながら、香澄は必死に車を探す。



「……どこ?……」



携帯を耳に当てたまま、背伸びをしながら遠くの方まで見渡すが、見知った車は見当たらない。奈津美は、そんな香澄をじっと見ていた。






「遅かったな」



「ん?」



携帯からだけでなく背後からも声が聴こえた気がした香澄は、一瞬戸惑い、隣にいる奈津美に顔を向ける。奈津美にも声が聴こえたのか、二人は顔を見合わせ、同時に振り返った。



…………わっ…………




…………つかさ?…………

…………怨霊?…………



するとそこには、“怨霊”いや“司”が立っていた。片手に携帯を握ったまま、司は真ん丸い四つの眼をしばらく見ていたが、止まった空気を動かすように肩を振るわせ始めた。




「……ックックックッ…………ックハハハハッ……なんだ?二人して化けもんでも見たような顔しやがって……」




香澄は、背後に司がいたことに一瞬びっくりしたが、すぐにホッとしたように笑みを浮かべた。ところが、奈津美は思考回路が停止し、棒のように固まったまま動かなくなった。




「もぅ!びっくりさせないでよ!」



香澄は頬を膨らませ、司を見上げる。そんな香澄を見ながら、司は頬を緩めたままだ。



「……ックックックッ…で、奈津美ちゃんは、迎え待ち?」



香澄に向けた笑顔のまま、司は奈津美に視線を移す。




…………!…………




……あ……あた…し?……




…………っ…………




「……え…っと……初めまして……須崎奈津美(すざきなつみ)です」



酔いも醒めたのか、奈津美の頬は赤みが引き、硬直していた。言葉を選びながらたどたどしく、“かしこまって”と言うよりは怯えるように挨拶をする奈津美を見た司は、一瞬寂しそうな顔をした。香澄は、その一瞬に司の瞳の(かげ)りを見てしまった。






「あ、奈津美はね?タクシーで晃くんを迎えに行くの。私に付き合って待っててくれたんだよ」



香澄はいつになくペラペラ喋り出し、司は、“送って行こうか”言おうとしていた言葉を飲み込んだ。




…………まぁ、“関わり合いたくない”そう思うよな…………




「タクシー拾え」



司は振り返りながら言葉を投げた。香澄もつられて振り返れば、スーツ姿の知らない男が二人いた。やがて、男達の一人がタクシーを止め、奈津美を誘導する。





止まったタクシーに乗り込んだ奈津美は、司に何度も頭を下げていた。その表情は硬く、極度に緊張しているように見える。司は、無言のまま笑顔を作っていた。ドアが閉まりタクシーが去った時、香澄は、司が自分の手を握っている事に気付いた。



「ありがとう」



香澄は、司の右手をぎゅっと握りながら、微笑んだ。その笑顔を見た司は、チクリと胸に痛みを覚えた。




…………香澄…ごめんな…………




……お前は、俺と居て――…………




司は、自分の世界と香澄の学生生活との隔たりを改めて感じた。奈津美の反応が一般的な反応なのだ。




司は、無言のまま香澄を引き寄せ、肩を抱き、車に向かって歩き出した。自然に懐に入って来る香澄に、司は安心感を覚えた。






空には、ようやく昇ってきた“寝待月”が、雲の間から光だけを降らせていた。







「ねぇ…つかさ……海行きたい」



突然香澄が喋り出し、司は戸惑う。何処か甘えたようなその声に、目を丸くする。



「は?寒いだろ、何だ?急に……」



香澄の言う場所が“あの海”だと分かったが、司には香澄の意図が分からない。




……コイツが自分から“何処かに行きたい”とか言って来る事なんか、なかったぜ?……




「寒いかぁ~、じゃあ、ストーブ持って行こう!」




…………は?…………酔ってんのか?…………




笑みを浮かべながら突拍子もない事を言い出した香澄に、司の顔色はくるくる変わった。戸惑いながらも、香澄の肩をぎゅっと抱き、顔を覗き込む。




…………?!…………




香澄の顔を見た瞬間、司の思考回路は止まった――――




……なんで……泣いてんだ……?…




雪でも降り出しそうな寒空の下、香澄は、表情を変えないまま静かに涙を流していた。





「何かあったのか?」




司は焦った。胸に棘が刺さったような感覚に、声を出すのがやっとだ。




――――朝帰り――――




――過去のオンナ――



必死に頭を回転させ、考えた。




…………(やま)しいのは俺…………




…………白井が何か言ってきたか?…………




……見張りがバレたか?……




…………あのヤローに何かされたか?…………





……奈津美ちゃんに何か言われたか?……





…………“ヤクザなんかやめろ”…………




………………っ………………




……友達思いの彼女なら、言うだろうな……




司は、香澄の涙の流し方に戸惑うばかりだ。




…………俺は…コイツに言えねー事ばかりだな…………





「何?」



香澄は、自分に視線を向けながらも何処か遠くを見ているような司に気付き、(うかが)うように声をかける。司は、驚いたような顔をした後、急に眼差しを変えた。瞳の奥から哀しみがにじみ出るような、何か言いたそうな。




「何で泣いてる」




「……?……」




…………泣いてるって、誰が?!…………




香澄は、かじかんだ手を自分の目尻にあててみる。指先は、液体に触れた。




「……え……泣いてる?……」




……気付いてねーのか?……




司は、驚きを隠せずにいた。女の涙は腐るほど見てきた司だ。嘘泣きから号泣まで。泣き顔でもない、平然とした顔で涙だけを流す香澄に、何も出来ず固まっていた。




涙を拭ってやることすら忘れて――――




やがて香澄は、指に触れたものが自分の流した涙だと気付き、不思議そうに冷たい手のひらで頬を覆う。



「……なんで……泣いてるんだろ……わたし……ハハッ」



自分で自分を笑い飛ばすように呟きながら、ぎこちなく笑う。



「分からねーのか…?」



司は、ようやく言葉を発した。



「……なんでだろう……司が泣いてたからかな……」



香澄は、両手で頬を覆いながらボソッと言葉を落とした。その小さな声を聴いた司の目は、大きく見開かれた。




…………は?…俺泣いてねーぞ?…………




司には、香澄の言っている意味が分からないだろう。自分は涙など流していないのだから。奈津美の挙動不審ぶりを見た司がふっと見せたあの顔が、香澄の頭から離れなかった。司が泣いているように見えていた、そう、香澄には。




不思議そうな顔をする司の心臓に、香澄は右手をあてた。



「司のここが泣いてた」



香澄が呟いたのと同時に、司はその手を掴み、香澄を抱き寄せた。そのままギュッと抱き締める腕に力を込める。




「つかさ、人が見てるよ」



香澄の目の前は、司のコート。人がいるかどうかなど分からないが、恥じらいながら身をよじる。



「見せときゃいいだろ」



司は、先ほどよりもキツく抱きしめる。香澄が腕を背中に回そうとするも、身動き出来ないほどに。




……俺は泣いてねーぞ?……慣れてんだ……




…………でも、まさかコイツに気付かれるとはな……ふっ……




「結構呑んだだろ」



司の腕が緩み、香澄はようやく動くことが許された。司が照れ隠しに放った言葉は、香澄の羞恥心を煽った。香澄は、司と距離をとろうと背中を反らした。



「やだ……お酒くさい?!」



香澄は、焦ってあたふたし始めた。腕を鼻に近付けたり、手のひらに息を吐きかけてみたり。司は、香澄の腰を腕でホールドしている。緩く囲った自分の腕の中で動き回る香澄を、時折吹き出しながら見つめていた。




「お前、不思議なヤツだな……ふっ…」




司は、まだ戸惑いを隠せない香澄を引き寄せ、肩を抱き、車まで歩いた。助手席に香澄を乗せ、エンジンをかけて暖房を全開にし、自分は車の外に出てドアを閉める。ドアにもたれ掛かりながら、海堂に電話をかける。しばらく海堂と会話し、車内に戻ると、香澄はぼんやりとフロントガラスを見詰めていた。



「香澄?明日休みか?」



「え?……休講もあるけど、休みじゃないよ?」



香澄は“何?”と聞こうとしたが、



「ま、……なんとかなるか」



司がそう呟き車を発進させたので、口をつぐんだ。





司は、片手でカーステレオのボリュームを上げ、ハンドルを切りながら右車線へ移り、軽快に車を走らせ始めた。



………この曲………



BGMはドビュッシーの“月の光”。なだらかなメロディーと幻想的な不協和音は、香澄の脳裏に司と出会った日の情景を蘇らせた。




「司、クラッシック聴くの?」



「……これか?…あぁ……たまに……」




……マスターに聞いて、海堂に編集させたとか言えるかよ!……




司が初めて香澄を見かけ時、香澄はこの曲を弾いていた。クラッシクなど興味のない司だが、何故かこの曲は心に残っていた。香澄を席に呼んだあの日も、香澄はこの曲を弾いていた。司は、香澄が好きなこの曲のタイトルを、最近知った。




車は、郊外へ抜け、更に走り続けた。方向音痴の香澄でも、窓から見える街並みを見れば、行き先がマンションではない事は分かる。



「ねぇ……司、」



香澄は何かを言いかけ、運転席側に体を向けた。



「ん?」



司は、前方を見詰めたまま優しく言葉の先を促す。



「どこに行くの?」



香澄は不安そうに司の横顔を見上げる。司は、ちらりと瞳を動かし、頬を緩めた。



「……ふっ…着いたら分かる」




…………なんだかドキドキするよ?……前にもこんな事……あったな…ふふっ……



香澄は、いつもと変わらぬ司の返答に頬を緩ませた。



「な~に笑ってんだ?」



「え?……ん……思い出してた……。前にもこんな事があったなって……ふふっ……司、行き先言わないでしょ?……」



「……そうか?…説明するのがめんどくせーんだ」



司のぶっきらぼうな言い方も、照れ隠しなのか、司は耳をほんのり染めていた。



…………そうだったんだ…………



香澄は、言葉そのままを素直に受け止めていた。







……何処にでもついて行くよ……司と一緒なら……




香澄は、心の中で呟いた。声に出しては言えなかったが。




…………ちゃんと、伝えなきゃ……でも、いつも言葉が出ないんだよね……




香澄は、司に出会ってから、ドキドキさせられてばかりだ。親が決めたレールの上を歩かされてきた香澄が、初めて自ら脱線したのが大学受験。だが、自分のやりたい事と言うよりは、愁を頼って大学を選んだ。婚姻届にサインをした時、あの時が初めてだった。香澄が自分の意志で将来を決めたのは。




…………不思議……司といると、安心する…………




………ちゃんと伝えたい………




……司に出会って、私、変われた気がするんだよ?………





幻想的なドビュッシーの世界に浸りながら、香澄は後ろを振り返った。



「今日は曇ってて、月、見えないね」



どこに月があるのかは、微かに光を通している雲を見れば分かるのだが、くっきりと見えるわけではなかった。



「晴れてる場所もあるみてーだぞ?」



「え?」



「眠いなら寝てろ。着いたら起こしてやる」



司は、香澄の様子をチラチラ見ながら、雲のない場所へと車を走らせていた。月が雲に隠れている日は、どこか不安になるのだ。見えなくとも傍にある事は、知っていても……



まるで、確かな光を、優しい光を、求めるかのように、司は、アクセルを踏み込んだ。




香澄に眠気はなかった。時折目を伏せるのは、“司にいつ切り出そう”そう思いながら、なかなかきっかけが掴めなかったからだ。



「ねむくないよ」



「そうか、……打ち上げ楽しかったか?」



司は、チラチラと香澄に視線を投げながら問いかけた。



「うん、…………ああーっ……」



香澄は、打ち上げでの出来事を司に話そうと、あれこれ思い起こすうち、突然、大声を上げた。司は、その声に思わず肩を上げ、ハンドルを握る手に力を込めていた。



「…………なんだ?」



「あのね、今日わたし、つかさの“生き霊”を見たの……」



香澄は、正面を向いたまま言い放つ。




…………?!…………



面食らったのは司だ。



…………は?…………




…………?…………



耳に入ってきた予想外の単語に、司の思考回路が停止した。




…………イキリョウ?!…………




…………?……?……?……?…………




……何言い出すんだ?!…………




…………ちょっと待て…………




司は、突然飛び出した意味の分からない単語に動揺した。運転しながら話を聞くことを避け、近くの空き地に車を停める。





車を止めた事で、ひとまずホッとしたのか、息を吐き出し新鮮な空気を吸い込んだ。どうやら司は呼吸を止めていたらしい。




…………今、生き霊っつったか?…………




…………俺の生き霊っつったよな…………




…………?…………?…………



司は、頭の回転が追いつかない。サイドブレーキを引き上げ、ハンドルを握り締めたまま体は固まっている。香澄はそんな司を気にする様子もなく、更に話を続けた。




「……司の事、考えてたからかな……いるはずないのに、司が見えたんだよ……」



香澄は、前を向いたまま、何かを思い出すように話し続けた。




……俺の事考えてたのか……




司は、ニヤける顔を片手で隠しながら、香澄の言った言葉を頭の中で復唱する。




……つーか、それは生き霊か?……幻影じゃねーか?……




「いつ見たんだ?」



司は、香澄の方を向き問いかけた。




「打ち上げの時…………大きな音がして……」



香澄はその時の事を思い出しながら淡々と語りだしたが、司の心臓は大きく揺れた。




…………は?…………って…おい!……“生き霊”?……




……俺を化け物扱いすんのか?!……違うだろ!……




…………それは俺だ!ほんもんだ!!…………




体中が熱くなり、一瞬頭に血がのぼりそうになった司だが、『司の事、考えてたからかな……いるはずないのに、司が見えたんだよ』香澄の言葉を思い出し、ふと、あることに気付く。



……ん?……




…………!…………




……間違いでもねーか?……




…………ふっ…………



司は、香澄がそれ程までに自分の事を考えていたと知り、胸のあたりが熱くなった。そして、香澄にゆっくり説明を始めた。




「香澄が言うのは、“生き霊”じゃねぇぞ?“幻影(げんえい)”じゃねーか?」



「“ゲンエイ”?」



司は、フロントガラスに顔を向けたままだが、香澄は司のほうに体を向けた。



「あぁ…“生き霊”はな、俺が念力っつーか、強く念じてると、俺の(たましい)が生き霊となって現れるんだ。“幻影”はな、香澄が俺の事を考えてると、俺の幻影が見えたりするんだ。…………まーどっちも正解だな…………ックククッ……」



…………?…………



司は笑い出したが、香澄は、すぐには理解しきれなかった。意味が分からず、司の言ったことをもう一度思い起こしてみる。生霊ならば、司が何かを強く念じるあまりに香澄の元に現れたと考えられる。幻影ならば、香澄が司を想うあまりに司の(まぼろし)を見たことになる。



司が念じる→“生き霊”


私が念じる→“幻影”



……どっちも正解って…………




…………二人して、念じ合ってたの?!…………




…………なんで司が?…………





ふと隣に視線を向けた司は、キョトンとしている香澄に気付き、もう一度説明しようと香澄の顔を覗きこんだ。



「まだ分からねーか?」



司は、優しく囁き、香澄の瞳をじっと見詰めた。




「んー…?…司は何を念じてたの?」



香澄は、真っ直ぐな視線を司に向ける。問われた司は、一瞬息を止めた。




…………っ…………




……あのヤロー、ぶっ殺してぇなんて言えるかよ……




…………っ…………



顔に出さないように、だが、司は心の中で橋本を殺す。そして、真顔のまま香澄に向かって言葉を投げた。






「おまえの裸」




「はぁ~?!」



一瞬目を見開いた香澄だが、みるみる頬は染まり大声を出し、膨れっ面を見せた。




「…………ックククッ…………そんな、睨むなよ……なんだ?キスのおねだりか?」




司は、香澄をチラチラ見ながら、心の中で謝った。




…………ごめんな、あん時は、俺が俺じゃなかったんだ…………って……コイツ……見てたんだよな…………




…………怖くねーのか?…………




…………幻影だと思ったなんてな……どんだけボケてんだ?…………ふっ…………




「司のエッチ!!」



司は、真っ赤になって俯く香澄を見て思った。“コイツといると、ホッとするんだよな”と……



……ふっ……



司は、自然と目尻が下がり、胸の辺りが暖かくなる気がした。





「かすみちゃ~ん」



…………?!…………



司は、香澄の肩を抱き寄せ、戸惑う香澄の顔を覗き込んだ。だんだん赤く染まる香澄の頬に唇を寄せ、空いている手は香澄の膝を撫で始めた。



「……ちょっ…………っかさ?…………ゃん……人が見たら…………」



首筋に這う司の唇に身をよじり、香澄は、司を止めようと試みる。が、抱き寄せられた腕の中は、身動きできないほどに狭く、無駄な抵抗だと思い知る。



「ん?……こんな山ん中、人なんかいねーだろ。いたら幽霊だな。……ックククッ……怖いか?!」



司は、助手席に身を乗り出し、シートを倒す。香澄の耳に舌を這わし、コートを開き、セーターの裾から手を忍ばせた。




「…………っ……ゆ……幽霊でもっ!……っ……見られたら……イヤ……」




香澄の敏感な場所は、言葉とは反対の反応をする。司の妖しい手の動きに、香澄は、流されそうになる。




……このまま……ここで?…………





司の手が、香澄の肌に(じか)に触れた時、




「……ぁんっ…………っ……ここじゃイヤ……」




香澄は、無意識に出た甘い声を誤魔化すかのように言葉を吐いた。




「……ック…………ックククックッ…………ここじゃなけりゃ…いいのか?……」




司は、香澄の反応を楽しむように香澄を優しく導く。




…………そ……それは…………




「……っ…………」




……うん…なんて…………言えるわけないし……



香澄は声を詰まらせた。





「……ここじゃなけりゃ……いいんだな?……ふっ……」



司は、香澄の耳元で囁き、手の動きを止めた。しばらく香澄の首筋を撫でながら笑っていたが、香澄の唇を啄むように楽しみ、舌で口内を貪った。



「……ゃ……っふ…………んんっ……っ……ふ…………んっ……」



香澄は、“お酒臭いって思われたらどうしよう”と、はじめは抵抗した。が、触れる度に電気が走るような感覚が香澄の理性を崩していく。いつの間にかそんな事はどうでも良くなり自分から舌を絡めていた。体温が上昇し、意識は曖昧になる。やがて司の唇がゆっくりと離れた。



司は、虚ろな眼差しで自分を見上げる香澄の耳にキスを落とし、



「キス、上手くなったな」



耳元で優しく囁く。その甘い吐息に、香澄の耳は再び熱を帯び、身体が“ビクン”と跳ねた。





「ちょっと飛ばすぞ?ここじゃ……窮屈(きゅうくつ)だろ?」



司は、香澄の耳元に妖艶な声を落とすと、運転席に移動する。香澄の身体は声に反応し、ゾクリと震える。運転席に戻った司は、ハンドルを握りサイドブレーキに手をかけた。香澄は、そんな司をぼんやり見ていたが、寒気を感じて“ブルッ”と震えた。



「寒い」



香澄は急に感じる寒気に、思わず声が出る。



「………ックククックッ……さっきので体温が上がったんだろ。……コートも直せ。俺のコートも、ほれ!」



「うん……っ……」



司は、笑いながら後座席から自分のコートを放り投げた。香澄はそれを膝から下にかけ、下着を直し、自分のコートのボタンをとめ直した。そして、いつの間にか外れていたシートベルトを締め直す。



司は、今すぐ自分の腕の中で香澄を乱したい衝動を抑えながら、月の見える場所へと急いだ。





程なくして見えてきた景色に、香澄は目を疑う。



「……つかさ!!海だよ!……」



「あぁ」



雲の少ない夜空は暗い。海には灯台や船の灯りが(まば)らに浮かぶ。香澄の歓声を聞きながら、司は海堂の言っていた意味を考える。



『一つ山を越えたら、雲が切れる』



海堂の言った事は本当だった。




……海堂すげーな…天気予報も出来るのか?…………




……アイツ、何者だ?……




司は、目的地を目指し、車を走らせ続けた。海堂が言った言葉には、もう一つ意味があるのだが、司はまだ気付かない。




……宿も確保して、本当に出来たヤツだよな……






「ねぇ、私が海行きたいって言ったから?」



「あぁ」



「うれし~!!」



司の心が泣いていると感じた時、『海に行きたい』と言った香澄だが、まさか叶うとは思っていなかった。車が“あの海”とは違い、遠くに向かっていたからだ。香澄は、お酒が入っているからか、テンションが高いようだ。いつもより素直に“嬉しい”と感情を言葉に出せている。香澄自身は気付いていないのだが。




…………ックックッ……ガキかよ!……ふっ…………




司は、子供のように無邪気な笑顔を見せる香澄に頬を緩め、先ほどまで囚われていたオスの衝動をかき消した。



「寒いだろ?もうすぐ着くから待ってろ」



「うん」




自宅ではなく、別の場所に向かおうと思ったのは、二人とも無意識だろう。何かを告げなければと、お互い感じていたのかもしれない。いつも一緒にいる空間より、別の場所で――――



二人とも月に背中を押されていた。何かを伝えるために――――




車は、山を下り月を背に、海辺に沿う道を走り続ける。司は宿へと急ぐ。




…………コイツに逃げられたら、俺は…………




…………っ…………




幸司が事故死ではないと聞いた時以来、自分を見失うほどの怒りを感じた事はなかった司。橋本が香澄に顔を近づけたあの時、それを見た時、自分が自分でなくなった事を思い出す。司は、香澄を失うことがあれば、自分の気がふれるのではないかと思った。




…………大学なんか辞めちまえ…………




…………バイトなんか行かせるか…………




…………就職なんかさせねぇ…………




純粋無垢な香澄が社会を知り、人付き合いを覚え、誰かに惹かれ、いつか自分から離れていくのではないかと不安になる。そう、いつか、香澄が奈津美と同じ反応を見せる日が来るかもしれないのだ。司は、香澄を自分の(ふところ)にでも入れて持ち歩きたい気持ちになる。




……でもな、……それは…………コイツを縛り付けるだけで…………






…………愛じゃねーんだ…………





…………愛するって……難しいぜ?!…………







……コイツの親は、自分の思い通りにならないなら、いらねー、とかぬかしやがって……




…………大事に育ててくれたのは、ありがてーけど、…………



…………悪い虫がつかなかったしな…………




…………でもな…………アイツらの気持ちは、香澄が欲しい愛じゃねーんだ…………





……香澄は……親に愛されてねぇと思ってるしな……




……愛情の押し付けは、相手に愛だと気付かれねーこともあるんだ……




…………俺は、香澄の愛が欲しい…………




…………香澄は、どんな愛が欲しいんだろうな…………






司は、車を走らせながら、香澄のいろんな顔を思い出す。




はにかむ香澄――





――――リンゴのように真っ赤になり、膨れる香澄






ベッドの上では、魔女なのかと思うほど妖艶な香澄――――





――――――寝息をたてながら自分の腕にしがみつく香澄









…………出会いがあれば別れもある…………




……死に別れも含めてな……





…………一緒に生きられる時間は、永遠じゃねぇ…………




……親父みてーに、先に()って墓場で待たなきゃならねーかもしれねーしな…………




…………愛せる時間は、限られてんだ…………




……いつお迎えがやって来るか、分からねーんだからな……





…………もし、コイツの愛が、俺以外の奴に向いたら…………





…………俺は……







司は、ふと助手席に顔を向けた。香澄は、座席に身をあずけ、ぼんやりしている。



「香澄?」



「ん?何?」



司を見上げる香澄の瞳はしっかり起きている。司には眠そうに映っていたが、そうではないらしい。



「お前、俺が先に死んだらどうするんだ?」



司は、さらりと尋ねた。まるで、“明日の晩飯(ばんめし)は何だ?”と尋ねるかのように。



「……は?…何言って……考えたくもない!」



ムスッとしながら叫ぶ香澄に、司は目を細めた。そして、視線を前方に戻し、口を開く。



「……爺さんと婆さんになって、いつかはそんな日も来るだろ?どうするんだ?」



司は、心のアンテナを香澄に向けたまま、視線は前方を見詰めている。香澄に出逢うまでは、年老いた自分の姿など思い描いたことがなかった司だ。太く短く生きる事もまた、一つの生き方だと思っていた。司は、下條の駒でしかない。それを分かった上で義父の駒になった。守りたいモノなどなかったからだろうか。捨てられぬ思いが強かったからだろうか。




「ん―、毎日お線香あげながら、司に話しかけてるかな……」



「…………ふっ……婆さんの独り言か……ックククッ…」



「司が聞いたんじゃない!もぅ!」



香澄は、頬を膨らませ、司を見上げる。




…………嘘だよ……多分、泣いてる……



…………司がいなくなったら…………どうしたらいいか、分からないんじゃないかな…………




司は、香澄にちらりと視線を移し、腹を震わせたまま車を走らせ続ける。香澄の胸の内に気付いたのか、気付かないのか。



「ックククッ……」



司は、“もし、明日だったらどうするんだ?”そう聞こうとしたが、言葉を飲んだ。




…………親父だって、何の前触れもなく……逝っちまったんだ…………





…………生きられるっつー事は……人を愛せるっつー事は…………





…………当たり前なんかじゃねーんだ…………





司の心の中では、様々な思いが渦を巻いていた。極道者の自分が香澄を愛す事、それは、許される事なのだろうか。




「あ、でも、いなくなるなんて、想像できない!したくない!」



香澄は、何かを振り切るようにきっぱり言い切った。司が目を見開いたまま視線を投げれば、真っ直ぐ前を見詰める香澄の横顔が目に入る。感情のままに言葉を投げる香澄がそこにいる。子供のように純粋な香澄が。




…………コイツ相当呑んでるな……ふっ……




…………酔ってるくらいがちょうど良いかもな…………




……どっちが本音に近いんだ?!……酔ってる時か?……



司は、心の中が温まる気がした。




「ねぇ…つかさ」



香澄の甘えたような声が司の耳に届く。



「ん?」



司は、ハンドルを切りながら、香澄の話に耳を傾ける。“酔った香澄もいいな”と、目尻を下げながら。




「わたし……素直になりたい…」




…………?!…………



香澄の口から飛び出した言葉に司は戸惑う。




…………コイツ……自分が素直じゃねーとか思ってんのか?…………





自分の腕の中で、されるがままになっている香澄。言われた言葉をそのまま受け止め、からかわれている事にも気付かず拗ねる香澄。膨れっ面も泣き顔も、ツクリモノではない。




……素直すぎだろ?……




…………従順だしな…………




「お前、自分が素直じゃねーとか思ってんのか?」



しっかり目を見詰め、香澄の表情を確かめたい司だが、信号は青。前方不注意にならぬよう、ちらりと覗うに留める。



「…うん…なかなか言えないんだもん…」



香澄は、唇を尖らせ、拗ねたように視線を逸らす。司と反対側に視線を逸らした香澄は、そのまま助手席側の窓に顔を向けてしまった。




…………?!…………




……何を言う気だ?!……




司の視界には、香澄の後頭部しか入らない。胸がざわざわと騒ぎ出す。





…………まさか…………



…………我慢してたのか?…………




…………爆発して…………




…………別れ話とかじゃねーよな…………




…………いや、バレるようなヘマはしてねーぞ?…………




司は、疚しいことを思い浮かべては、落ち込むばかりだ。




…………疚しい事だらけだな…………




…………一晩帰らなかったしな……




……ひょっとしてそれで俺のこと、考えてたのか?…………幻影見るほどに…………




…………香澄は…………何を言う気だ?!…………




「……着いてから聞いてやる」



ぶっきらぼうにならぬよう、優しく言ったつもりだが、ぎこちない声音が香澄に向かう。この場で別れを切り出されたくない司は、せめて、ゆっくり顔を見て話を聞こうと思った。正直なところ、別れ話など聞きたくもないのが本音だが。



「うん」



香澄は、“うまく伝えられるのかな”と不安を抱えつつ、まっすぐ前を見据えた。口に出せない胸のうちを確かめるように。




司は、ルームミラー越しに月を探した。そう、無意識に。“バクン……バクン……”と胸を打つ度に、心が震えた。




やがて、二人は宿に辿り着き、寒さから逃れるように建物の中に入った。





「司?……ここ?」



辿り着いたドアの前、香澄は思わず声を上げる。



「あぁ…月が見える部屋、予約した」



…………正確には……海堂だがな…………



司は、これからの事を考えると複雑だ。そんな司とは対称的に、香澄は嬉しそうに微笑んだ。部屋に入り、南側の大きな窓に月を見つけた香澄は、すぐに窓辺に向かう。床に膝をつき、窓に張り付くようにして月を見上げる。



「ねぇ、海も見える!」



司は、はしゃぐ香澄を遠目に見ながら、ぎこちなく頬を緩める。



「風呂も広いらしいぞ?」



そう言いながら、司はソファーの横で立ち止まる。司は、ふと海堂の言葉を思い出す。




『朝日が昇った後も、月が見れます』




今日は“寝待月”。月の出が遅い分、月の入りも遅い。朝日が昇った後も、月が見られると言った海堂の言葉には、何の意図があったのだろう。




……朝まで……後十時間もねーな……




広い風呂に香澄と二人ゆっくり浸かり、冷えた身体を温めようと思っていた司だ。香澄から“話がある”と聞くまでは。窓から離れたソファーの横に立ったまま、司は香澄の後姿をぼんやり見ていた。





「……海って…夜は寂しそう……」




香澄の呟きが、静かな部屋の中に響いた。司は、その力ない声を聞くなり、持っていたキーをソファーに放り投げ、窓辺に近付いた。



「海に感情は、ねーだろ。何でも知ってそうだがな……」



司は、香澄の背中に覆いかぶさるように身を寄せ、窓から景色を眺める。窓に手をつき香澄の肩に顎をのせた。



「何でも知ってそう?……そうかも…………海って色が変わるでしょ?空の機嫌に合わせたみたいに…………空の感情に合わせてるのかな……」



「……ッククッ……おもしれー、確かにな…………人間の感情には左右されねーのにな…………」



「……広いよね……海、好きなんだぁ……」



香澄は、愛おしそうに海を見詰めながら微笑んだ。




…………っ…………



その横顔を見た司は、たまらなくなり、香澄を後ろからぎゅっと抱き締めた。



…………何を考えてる…………



掴み所のない香澄の話に、司の胸はざわめくばかりだ。




「さっきの続きしようぜ」




司は、香澄の耳元で囁き、首筋にキスを落とす。司の色っぽい声に誘われ、香澄はそのまま振り向いて抱きつきたくなるが、気持ちを抑え、口を開いた。




「…司に……話があるの……」




…………っ…………




司は、その言葉に息を飲む。




「先に風呂じゃダメか?」




…………情けねーな俺……時間稼ぎにしかならねーのにな…………




司は、甘えたような声音で香澄に問う。声に釣られて香澄が振り返ると、司の瞳は、縋るように香澄を見詰めていた。酒の臭いが気になっていた香澄は、早く風呂に入りたい。吸い込まれそうな瞳に囚われ、“いいよ”と言いそうになる。が、それでいいのだろうか。




……一緒にお風呂に入ったら、きっとそのまま……




香澄は、自分のカラダが司を求めている事に気付いていた。一旦火がついた司を止めることができるだろうか。何もかも忘れて抱き合いたい誘惑に勝てるだろうか。




…………わたしは……司を拒めない…………




……でも……話が先だよ……




……お風呂から上がって……それから…話そう……歯磨きもしなきゃ…………




「先に入る?」




香澄は、今日でなければ、また言えなくなると思った。だからこそ、一緒に風呂に入るわけにはいかない。『一緒に入るか?』と司が問う前に、別々に入る事を(ほの)めかす。




「お前なげーし、先入って来い」




「うん」



香澄は、司が“一緒に”と言わなかったことに安堵しながら、いそいそと風呂場に向かった。



扉を開けた香澄は、風呂場の広さに驚いた。浴槽も、二人でゆったり入れそうだ。香澄は、その広さを恨めしく思う。




…………一人で入ると、お湯がもったいない…………




広い浴室を寒く感じた香澄は、“シャワーで済ませるよりは温まりたい”そう思い、浴槽にお湯を入れ始める。




「やっぱり私、素直じゃないな」




ため息混じりに呟きながら、用意されている二人分のタオルや浴衣を見詰める。湯を張る間も、香澄は風呂場から出なかった。部屋にいる司はどう感じただろうか。




腰まで浸かれるくらいの湯を張り、ようやく着ていた服を脱ぐ。もう酔いも覚めた香澄は、これから言わんとする事を頭の中でまとめようとする。ゆっくり過ぎるほど時間をかけて湯船に浸かるが、言いたい事が頭の中で散乱し、なかなか風呂から出られない。




…………伝わるかな…………








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