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Second Moon Ⅰ  作者: 愛祈蝶
光と影
12/20

寝待月(前編)

…………寒い…………



「……キャッ……っ…つかさ……やめて?……っ……」



香澄が寒気を感じて目を覚ました時、目の前には司の顔があった。



「……聞こえねぇな…」



…………え…………うそ…………



香澄が空気に晒された自分の身体に目をやると、何故か司のパジャマが肩に引っかかっている。前ボタンを外し鎖骨に唇を寄せながら、司はそれを脱がそうとしているようだ。あっという間に胸元は(あら)わになり、片手で膨らみを掴みながら、背中に回った大きな手は器用にブラのホックを外してしまう。



「……ダメダメ……きょ…………早く出なきゃ…………っん…ね?……がくさ……んん…っ…」



司から逃れようともがく香澄の口を、司はキスで塞いだ。



…………っ…………





…………ん……幸せ……なんて思ってる場合じゃないって!…………




…………学祭だから、……準備あるし……早く出なきゃ…………




「…………ん…っ…ゃめて?……つか…………ひゃん……」




司は、香澄にしゃべる事も抵抗する事も許さず、キスで口を塞ぎながら、いつの間にか器用にパジャマを上下とも脱がしていた。




…………っ……昨日、シャワー…浴びてないし……



寝ぼけた頭で必死に状況を把握しながら、香澄はジタバタもがいていたが、司の手は止まることなく香澄の肌を這い回る。最後の一枚も、いつの間にか取り払われ、香澄の素肌は空気に晒された。時折、貪るようなキスを降らせ、急かすように肌を弄る。




…………って……え?!…………




いつもと違う司に気づいた香澄は、その指先に舌使いに戸惑う。吸い尽くされるようなキスに、息をすることさえ忘れてしまいそうになる。




………つかさ…?…………





司は、余裕がなかった。目が覚めた時、自分の腕の中で眠る香澄を見て、ホッとしたのも束の間だった。何処からともなく押し寄せる不安定な気持ちが、司を揺さぶった。




……幸せが…ずっと傍にあるとは限らねーんだ…………




隠し事をしているのは自分だが、自分の事は棚に上げ、何も聞かない香澄の気持ちが気になって仕方がない。




…………悪い虫がつかねぇように、手は打った……けどな、…………




…………気持ち持ってかれちまったら……おしまいだろ?!…………




…………朝帰りしても…………何も言わねーしな……




……俺の事は、気にならねーのか?…………




…………亭主元気でなんとやら……か?…………





外はまだ暗い夜明け前、司は、激しく香澄を求めた。




……香澄は俺のもんだろ?……




…………俺を見ろ…………




…………考えてる事までは、分からねーが……




……抱いてりゃ……




……“愛があるかないか”……




……それは分かるんだぜ?……




激しく波打つ心とカラダ――――




司は、自分の心の中にある思いをぶつけていた。そうする他に(すべ)を知らないのだ。いつもより熱っぽい司に気付いた香澄は、戸惑いながらも必死に応えた。






「……そんな声…他でも出してんのか?」




…………ゃだ……声が勝手に…………




「……つかさ……っ……何言って……んの……っあ……」




……司以外にいないよ……




香澄が心の中で叫んだ時、香澄の目尻から、一滴の涙がこぼれた……。右目だけ、一滴だけ、温度のない不思議な涙の感触に、香澄は戸惑っていた。




……なんで?…悲しくなんてないのに……




香澄は司と重なりながら、無意識の中で“何か”を感じ取っていたのかもしれない。そう、何かを伝えようとする熱を、肌で感じていた。




……つかさだけだよ……




香澄は身体の奥を燃やしながら、無意識に心の中で呟いた。




……司も……不安なの?……




……どうして?……




燃えるように激しく熱い波に、香澄は何度も意識を手放しそうになった。その度に司に連れ戻され、問答は続いた。




「俺の事、どう思ってんだ?」




香澄がふと目を開けた時、垣間見た司の顔があまりに切なくて、香澄は、無意識のうちに、心の中でしか言えない“すき”の代わりに司の唇に自分の唇を重ねていた。




「……っ……んん……っ……」




香澄の行動に驚いた司は、



「お前のせーだ、責任とれよ?」



妖しげに微笑み、再び香澄を快楽の海へと導いた――――




居待月が沈むのを躊躇うかのように南西の空に傾く頃、二人の息遣いは穏やかになる。



「……お前…カラダの線、変わってきたな……」



「……え?…」



司は、香澄の腰のラインを愛おしそうに撫でた。



…………女って…ヤった後、甘えたいらしいな…………



結婚前の司は、ヤった後のオンナに興味はなかった。『もう少しいてよ』とべたべた甘えられて困ったことがある。帰り支度をする司に向かって、『アフターマナーよ』と、オンナは言った。情事の余韻に浸りながら、優しく抱きしめて欲しいのだとか。



香澄の肌に手を滑らせながら、自分の変わりように苦笑いする。朝っぱらから激しく交わり、まだ離したくないのだ。



「……ひゃん…くっ……くすぐったいよ……っ……」



香澄は、くすぐったくて、身をよじる。まだ火照(ほて)った体は、その余韻を残し、ちょっと触れられただけで敏感に反応してしまう。



「……ふっ……もう……痛くねぇか?……」



司は、少々ヤり過ぎたかと思ったが、香澄は、“ボッ”と火がついたように頬を染め、



「……うん……慣れた……かな?…」



恥ずかしそうに答える。そんな香澄を愛おしそうに撫でながら、司は、出会った頃の香澄を思い出していた。




……色気が増してきたよな……




…………“ここはダメ”とか言ってたくせに…………




……変わるもんだな……




…………ま……俺が教えたんだけどな…………




…………俺じゃなくても…………こんなふうに感じるのか?…………





寒さのせいもあってか、二人はぴったり肌を寄せたまま、布団を被ったままだ。その温もりを手放したくないかのように。カーテンの向こうは、まだ暗い。



「……そろそろ支度しねーと…お前早いんだろ?」



もう少しこのままでいたい司だが、真面目な香澄は“遅刻するなどもってのほか”だ。香澄が起きる時刻は過ぎている。“司のせいよ”と言われる気がして、早めに(たしな)めた。香澄は、起き上がろうとして、大事なことを思い出した。



…………あ……聞かなきゃ…………



……今なら聞けそうな気がする………



意を決して、香澄はゆっくり口を開く。





「ねぇ…話があるの…」



香澄は、司の胸に頬をつけたまま話しかけた。



「なんだ?」



司は、左腕で香澄をしっかり抱き、緊張しながらも平然を装う。



「………………」



香澄は言いにくいのか黙りこみ、司は、香澄が何を言い出すのかとあれこれ想像する。




……朝帰りの事か?………




……それとも、何かあったのか?…




……まさか……あのガキ……




………いや、……釘は刺したはず………




司は、天井を見つめながら、眉間にしわを寄せた。




「何かあったのか?!」



司は、胸に頬を寄せている香澄の顔を見ようと頭を傾けたが、角度的に顔は見えない。黒い髪の毛が目に入っただけだ。



「………………」



司は、再び天井を鋭い眼で見詰めながら、香澄の言葉を待った。





「司に、聞かなきゃいけない事があって……」



香澄は、言い辛そうに呟いた。その言葉に、司の心臓が、跳ねた。



……昨日……いや……もう一昨日か、…………朝帰りのことか…………



司は、覚悟を決め、ゆっくり息を吸いこみ吐き出した。




「今日なんだけど……」



…………は?……今日?…………一昨日の話じゃねぇのかよ…………



司は、一言聞く度、自分の心臓が暴れ出すのを感じていた。



……一昨日の俺を問い詰めるんじゃねーのか?……



「今日がどうかしたのか?」



ぶっきらぼうに言葉を投げる司に、香澄は、申し訳なさそうに言葉を続けた。



「今日、打ち上げがあるんだけど……」



…………行ってもいい?…………



香澄は、続くはずの言葉を飲み込んだ。





…あ?……うちあげ?……



司は、車の中で香澄が話していた事を思い出す。



……酒が入るんだよな?………




……男がいるんだろ?……




……行かせるわけねぇだろ!……って……




…………っ……………




……香澄は行きたいのか?……




「行きたいか?」



司は、天井に視線を向けたまま香澄に問いかけた。




…………つーか、コイツ確か、そういう飲み会の(たぐい)は、参加した事なかったはずだぞ?…………




…………いくら頼んでも、親に許可もらえねーから、諦めて、最初から断るようになったんだったよな…………




司は、香澄の実家での暮らしぶりを思い浮かべ、複雑な心境に陥った。




………遊んでねーんだよな………




……遊び方も……知らねぇんだ……




…………危ねぇ……よな……




…………かすみ…人を疑わねーからな…………




……俺みてぇな男がいたら…………




……………っ…………





……ダメだダメだ!……






香澄は、参加した事のない“打ち上げ”に興味があった。が、“司が行くなと言えば行くまい”そう思った。



……自惚(うぬぼ)れかもしれないけど……さっきの司………………



香澄は、司と繋がりながら感じた“何か”が気がかりだった。切ないようで、どこか幸せを感じるような、不思議な感覚がまだカラダに残っていた。




……よく分からないけど……




…………何処にも行くな…………そう言ってる気がしたんだよ…………




司は、黙ったままの香澄に、ゆっくりと言葉を落とす。



「……お前は、どうしたい?」



…………行きたいなら、そう言えよ…………




……そうやって、溜め込んでっと、爆発すんぞ?……



司が思い浮かべたのは、香澄が県外の大学を受験した時の話だ。報告によれば、香澄は、入学手続きも何もかも愁に手伝ってもらいながら済ませてしまい、親には事後報告だったとか。賃貸アパートの連帯保証人は、愁の父親に頼んだらしい。香澄は、十八年間、積もった思いが爆発したのだ。




「……言えよ」




……溜まりに溜まって………………突然爆発されて、“三行半”とか……




……シャレにもならねぇ……






香澄は、司の肩に手をかけ、顔を見上げるように司の胸に顎をのせた。



「行ってもいいの?」



天井を向いた司の顔は見えない。香澄は、司の喉を見ながら尋ねた。香澄の柔らかい膨らみは司のわき腹辺りに触れ、その感触に、司は再び理性を飛ばしそうになる。



「……聞いた事に答えろ」



厳しい口調とは裏腹に、司の綻ぶ顔は、天井しか知らない。




……………っ……………




……行きたいか、行きたくないかって事だよね……




香澄は、困ってしまった。実家では、自分の意志を尋ねられた事などなかったのだから。“親の言うとおり”それが当たり前だったのだ。




…………行ってもいいの?行かない方がいいの?…………




………わたしは………




………どうしたいんだろう…………




自分の意思を問われ、それを言って良いものかと考える。“トクン”と胸の奥が騒ぎ出す。






「どっちでも……司が決めて?…………」



香澄は、目を伏せたまま、ぼそっと呟いた。その言葉を聞いた司は、身体を傾け、香澄を視界に捉えた。




…………コイツ…………俺が“ダメだ”っつったら、行かねーだろうな……




…………それじゃ、コイツの親と同じ……か……




……行く気がねーんなら、すぐに断ってるよな?……




「行きてぇなら、そう言え!」



「……え?……」



香澄は、司の大声に驚き思わず視線を上げた。黒い瞳が、真剣な眼差しが、射るように香澄を見据えている。



「……行っても…いいなら、……行きたい……」



気が付けば、その眼差しに誘われるように、言葉が喉の奥から飛び出していた。




……やっと言ったな………




司は、香澄が自分の気持ちを言ってくれた事にホッとし、目を細めた。が、それも一瞬のこと。




……見張り、増やすか……




…………白井だったよな……あのガキ…………




…………ま、……よっぽどの命知らずじゃねぇ限り、身動き出来ねぇだろ…………




自分の目の届かない場所で“何か”が起こった時の事を考えれば、胸の奥が騒ぎ出す。司は、複雑な思いを抱えながら、口を開いた。



「俺が迎えに行く。楽しんでこい」




……今日は仕事どころじゃねぇな……




「うん。ありがとう。シャワー浴びて準備するね」



香澄は、恥ずかしそうに司のパジャマを羽織り、バスルームに向かった。にっこり笑って見せたものの、香澄もまた複雑な思いを抱えていた。打ち上げに参加出来る事は楽しみだが、“何か”奥歯にモノが挟まったままのような、釈然としない空気を感じていた。



司は、広くなったベッドの上で溜息をつく。心の中では頭を抱えていた。




…………また格好つけちまったな…………






…………俺も寝てる場合じゃねえな…………




司は、香澄がシャワーを浴びている間に海堂に電話をし、朝食の準備を始める。




……結局、何も聞かねぇんだな……




……一発殴られるくれぇの覚悟はしてたんだぜ?……




……お(とが)めナシかよ……




……俺に興味ねぇのか?…………




司は、何も聞かない香澄の気持ちが、掴めなかった。




……俺だったら…香澄が朝帰りしたら、…………怒り狂ってそこら中、破壊してるぜ?!…………




……香澄に手ぇあげたりはしねぇけどな……




……俺と結婚したのは、成り行きか?…………




…………愛は……ある…………けどな……ふっ……




香澄の温もりがなくなった左腕に寂しさを感じながらも、司は、さっきまでの乱れた香澄を思い出し、独りニンマリしていた。




人間の欲望は底無し。感じた愛に、幸せな気持ちになったのも束の間――――




次から次へと、それ以上を求めては、不安と背中合わせ――――




沈みかけの居待月は、雲に隠れたまま、こちらから見ることは出来なかった――――






香澄は、熱いシャワーに打たれながら、聞けなかった朝帰りの理由をあれこれ考える。




…………聞いて、“他にも女がいる”とか平然と言われたら…………




……“ヤるだけなら不自由してない”って言ってたし……




……他にもいるのかな……




…………哀しい…………




……ただ哀しいんだ……もし……他にもいたら……?……




……我慢するしかない……




…………司が振り向いてくれるように、がんばるしかない…………




香澄は幼い頃から“言うことを聞けないなら、出て行きなさい”親にそう言われ続けた。




――――言うことを聞かなければ捨てられる――――




――――完璧な優等生でいなければ捨てられる――――




そう植え付けられてしまったのかもしれない。




……イイ奥さんでいないと…………




……イイ女でいないと……



香澄は、“イイ奥さん”がどんな奥さんなのか、どんな女が“イイ女”なのかも分からぬまま、“司に嫌われないようにしないと”そればかり考えていた。



…………司は、どんな人が好みなのかな…………




……何にも知らないや……





バスルームを出た香澄は、キッチンで立ったままコーヒーを飲んでいる司に微笑んだ。



「ご飯、準備してくれたんだ…ありがとう」



テーブルの上には、かぼちゃのスープが用意され、トーストの焼ける匂いが漂っている。



「……あぁ、俺はゆっくりできるからな、…………お前は急がないとヤバいんじゃねぇか?」



そこで時計を見た香澄は、顔を引き攣らせた。




…………ゲッ……あと二十分しかない……




…………大変!!遅刻したら、奈津美に…………



「司、先に食べてて!まだ、すっぴんのままだし!」



「……ック……ックハハハ……化粧なんかしなくていいだろ?飯食おうぜ?」



「そ…そういうわけには…………」



香澄は、急いで自分の部屋に入り、超特急で化粧を始めた。ファンデーションとアイシャドー、眉を少し描き足す程度の化粧でも十分はかかる。



…………お風呂で考え事は、危険だ!時計がないんだもん…………



ビデオを早送りしているかのようにバタバタと身支度を整え、部屋を出ると、車のキーを手にした司が立っていた。






運転席は目に付きやすい。そのため、明るい時間の送り迎えは海堂に任せていた。が、今日は例外だ。海堂に用事を謂い付けたため、司が香澄を送ることにしたのだ。



「俺が送ってやる。ま、少しでも食ってけ!」



休日の早朝ならば人通りも少なく渋滞の心配もないだろう。キッチンを指差しながら、司の目は“座れ”と言っている。テーブルには、一人分のカボチャスープとトースト。司は既に食べ終わったらしい。



「うん。急いで食べるね!」



………せっかく準備してくれたんだもん………



香澄は、にっこり笑い椅子に座った。少し冷めたスープを啜り、トーストにかぶり付く。



「エンジンかけて、車あっためてっから、電話したらすぐ降りて来いよ」



「ん」



香澄は、頷きながらも咀嚼(そしゃく)を止めない。口いっぱいに頬張る姿を見て、司はふっと笑みを浮かべながら駐車場に向かった。




トーストを半分食べたところで電話がかかり、香澄は慌てて口の中の物を飲み込んだ。



「すぐ降りて来い!そろそろ出ないとヤバイ」



香澄は、時計を見て頷き、



「ごめん!片付け出来ない」



口の周りをティシュで拭いながら、立ち上がった。



「そのままにしとけ」



「うん」



香澄は、せめて汚れが落ちにくくならないようにと、食器を流しに浸けた。慌てて部屋を出て、エレベーターの前に立てば、エレベーターはこの階に上がってきていた。司が気を利かせてくれたのだと思い、香澄は笑みを浮かべながら箱に乗り込む。箱から降り建物から出れば、目の前に車は停まっていた。



「……ありがとう……」



「食ったか?」



「パン半分残ってる」



「俺は、いったん戻ってから会社だ……食っといてやる」



「ごめん……片付けもしないでそのまま出て来ちゃった」



「片付けくらいやっといてやる」



「ごめんなさい」



朝日を背にして走る車の中、何故か真っ黒いサングラスをかけた司をチラチラ見ながら、香澄はひたすら謝っていた。香澄にとって、片付けをせずに家を出る事は、“イイ奥さん失格”だ。が、片付けをしていたら、間違いなく遅刻だ。仕方ないとは言え胸がざわざわして落ち着かない。





「それよりお前、そんな化粧して、誰に見せるんだ?」




司は、片付けは誰がやろうと、気にはしていない。当然、香澄が落ち込む理由に気付くはずもない。




………髪ボサボサのまま、眼鏡かけさせりゃ良かった…………




………他の男に、色気振り撒いてんじゃねーぞ……




司は、香澄が食事より化粧を優先した時から、イライラしていた。香澄を送った後、打ち上げが終わるまで、司はその顔を見ることはないのだ。自分のためならば気分は違うのだろうか。




「誰って……別に……見せるためじゃないよ。……身だしなみかな?……」




……スッピンよりは、肌が綺麗に見えるし……誰かに見せるんじゃなくて、自己満足かな?…………



「そうか、……食い気より色気か……」



「……え?…………」




ボソッと呟いた司の声は、香澄には聞こえなかった。不機嫌そうな司の様子に、香澄は、“司は化粧がキライなの?”と見当はずれな事を考えていた。






ちぐはぐな会話をしているうちに、自転車や原付に乗った学生がちらほら見えてくる。大学はもうすぐ側だ。車も少なく信号にもかからず、幸い遅刻の心配はなくなった。



「お前、呑み過ぎんなよ!」



司は、ぶっきらぼうに言葉を投げた。言い方とは裏腹に、内心は心配で仕方がない。



…………コイツ、酒は弱くねぇけど、無防備過ぎんだよな…………ハァ……



「うん。気をつける!」



香澄の表情は明るい。初めての打ち上げ参加に、浮き浮きする気持ちは抑えられないのだろう。司がその笑顔をちらちら見ながら、苛々している事に気付くこともないようだ。司の頭の中は、マイナス思考な連想ゲームが繰り広げられていた。




……打ち上げ→→酒→→酔う→→→俺みたいな男→→→→酔わされる→→→→男と女→→→→→→……




…………その先は…………




……ヤっちまうな……俺なら…




夜の街、酒の勢い、司の連想ゲームが終点に辿り着いた時、門が見えてきた。



「奈津美だ」



門に入る奈津美の姿を見つけた香澄は、思わずそう呟いていた。



「奈津美ちゃんも一緒なんだろ?打ち上げ」



「うん。…あ…………前、奈津美が司に会ってみたいって言ってた……ふふっ…」



「そのうちな!」



ダメもとで言った香澄は、司の返事に驚く。



「いいの~?」



嬉しそうな香澄に、司は、目尻を下げて頷いた。司は、いつも香澄を守るように気にかけてくれる奈津美に、何処か親近感を覚えていた。会ったことのない香澄の親友に、今日は頼るしかない。海堂の調べでは、愁は就職活動で学祭には不参加らしい。司は、門を通り越し、少し離れた路側帯に車を停めた。





「……気ぃ付けろよ?」



「うん。一次会が終わったら電話するね」



笑顔の香澄を見て、司は、更に心配になった。




……本当に大丈夫か?……気ぃ付けろって、意味分かってんのかよ……




……オトコの下心にだぞ?……




司は、咄嗟に香澄の肩を抱き寄せていた。そのまま触れるだけのキスを落とす。




…………おっと……こんな場所で、欲情してる場合じゃねぇからな…………




香澄は、一瞬の温もりを名残惜しく感じながら目を開けた。



「浮気すんなよ!」



そこには、サングラスで瞳を隠した、司の顔。司の瞳が見えない事が、香澄を不安にさせた。



「……浮気なんて、しない…」



香澄は、レンズの向こうに言葉を投げた。




……つかさ……私の気持ち……分かってくれてる?……




……他の男なんか眼中にないよ……




ざわざわした気持ちが香澄を動かした。司の首に腕を回し、気が付けば、司の唇に自分の唇を重ねていた…………








…………?!…………おい!……俺は、自分を抑えて軽いキスで我慢したんだぜ?…………




驚いた司は、目を開けたまま、しばらく固まっていた。香澄の唇が離れ、真っ赤になりながら俯く姿を見つめる。誘発された衝動は抑えきれず、司は、サングラスを外し、火がついたように熱いキスを降らせた。



「…………ん…っ…んん……っふ……っ……」



香澄は、激しく口内を暴れまわる舌に息をする間もなくなり、無意識に司の上着をぎゅっと掴んだ。



唇が離れ、ゆっくり目を開けた香澄は、珍しいものでも見るような司の瞳と対面する。やがて、司の目尻は更に下がり、抱き寄せた腕が(かす)かに揺れ始めた。




「……ックハハハ…………たらこ唇になったな…………ックックックッ……口裂け女か?……ックハハハ……」



司は、(こら)えきれず笑い出し、香澄は、慌てて司の腕を押しやり、バッグから鏡を取り出した。自分の口元を見た途端、



「もう!誰のせいよ!」



あまりの醜態に口を尖らせた。司はまだ腹を震わせている。頬を膨らませた香澄だったが、嬉しいような恥ずかしいようなふわふわした気持ちのまま、口の周りにはみ出した口紅をぬぐい、ファンデーションをのせる。



さすがに司も、“直すな”とは言えない風貌だ。ツボに入ったように笑い続けた司も、香澄が化粧を直し終える頃には真顔に戻っていた。



「ありがとう」



降りようとする香澄の手を握った司は、



「携帯の電源は絶対切るな。何かあったらすぐ電話しろよ!」



香澄に念を押し、手を離した。



「うん」



香澄は車を降り、司に小さく手を振り、門に向かって歩き出した。司は、ルームミラー越しに香澄を見送った。



こうして学祭二日目が始まった。





香澄が集合場所に着いた時、既に開店準備は始まっていた。外は寒い。風が強く、雪でも降りそうな空模様。奈津美が後輩に指示を飛ばす声を聞きながら、香澄は、コートの上からエプロンを着け、慌てて準備に加わる。おつりが足りそうもないため両替を頼んで回ったり、昨日の反省から宣伝用のプラカードを作ったり、忙しく動き回っていた。




「へぇ~俺に?これ付けて歩けってか?しゃーないな……」



「橋本さん、お願いします」



OBの橋本は、近所に住んでいる事もあり、毎年学祭に顔を出している。香澄達が一年生の時の四年生だ。段ボールに[わたしは“おはぎちゃん”です]と書かれたチラシを前後にぶら下げ、一日過ごしてくれるらしい。橋本は、二年生の女の子に頼まれ、嬉しそうに宣伝板を首に掛けていた。




「あれ?朝霧ちゃん??」



珍しい顔を見付けた橋本は、緩んだ頬を更に上げ、目を輝せた。弾んだ声が香澄に向かう。



「……え……あ、お久しぶりです……」



香澄は、未だに男が近くにいると落ち着かない。例外は、司を含めた数人だ。橋本は、萎縮する香澄に近づき微笑みかける。



「珍しいな、学祭出てるなんてな」



「はい、いつも出れなくて…」



「かすみ~!ちょっと手伝って~」



そこに飛び込む奈津美の大声。香澄は、言いかけた言葉をそのままに、橋本に会釈(えしゃく)をし、急いでその場を離れた。その慌てように橋本は苦笑いする。橋本が香澄の後姿を目で追うと、奈津美の鋭い視線とぶつかった。またしても苦笑いの橋本だ。




奈津美が香澄の手を引き連れてきたのは、研究室だった。二人は、炊飯器のコードをコンセントに差し込み、追加分のお米を炊飯器にセットし、炊けるまでの時間、一緒に一息ついていた。



「あぁ疲れた、……香澄、打ち上げ行ける?」



「うん。司が『行ってもいい』って……」



「……そ……じゃ、幹事に言っとくわ。…で、話せたの?」



奈津美は、香澄の浮かない顔には気づいていた。昨日よりは穏やかになった気はするが、解決していない事は一目瞭然だ。



「……打ち上げの事は……聞いたけど……」



しどろもどろな香澄を見て、奈津美は心の中で眉間にしわを寄せる。



「……聞いてないの?……司さんは?何も言わないの?」



頷く香澄を見た奈津美は、



「あたしなら、理由はどうあれ“一発お見舞い”しないと気が済まない……ハハハ……連絡くらいしろよ!ってさ……ハハッ……」



拳を振りかざしながら言葉を吐き出した。






香澄は、聞けなかった。



『何時だと思ってる。何処で!誰と!何をしてたか言いなさい!!!』



ほんの少しホームルームが長くなり、1本遅いバスで帰っただけで、怒り狂った母親に鬼の形相で追及された。悪い事をしているわけではないのに“信用してもらえない”。香澄は、“信じてもらえない辛さ”を、幼い頃から知っていたからかもしれない。



そして、追及する母親の醜い形相に、憎悪を抱いていた。その言葉、言い方、表情から、自分を心配しているようには、どうしても思えなかった。香澄が、『ホームルームが遅くなった』と言えば、母親は、その場で担任に電話をかけていた。




…………あんな人にはなりたくない…………




香澄は、司を問いつめたりはしたくなかった。




…………信じたい…………







「……束縛するみたいで、…………嫌なんだ……」




香澄はぼそっと呟いた。




「それは……束縛とは違うよ?……まぁ…………あんまりキャンキャン吠えると、男はうざったくなるだろうけどさ……」



「……例えばね?…司に女の人がいるとしても、…………たぶん…………気持ちは変わらない…………だから、聞かない方が良い事なら、聞かない……」




……仕事で帰れないなら、連絡があってもいいはず……




司から“昨日連絡出来なくてごめんな”の一言もなかった事が、香澄には、

“聞かないでくれ”(イコール)“聞かれるとまずい”

とでも言われているように感じられた。




……言わない事が、司の優しさかもしれないし……




…………きっとわたし…………司を想う気持ちは、何があっても変わらない…………




…………だって…………




…………わたし…………








…………一目惚れだったんだもん…………




…………司には、言ってないけど…………





…………成り行きであんなことになったわけじゃない…………




…………動物的直感?かな……この人なら……そう感じたから、…………




…………カラダをゆるしたんだ…………




香澄は、初めてだった。 “この人なら安心できる”と直感で感じた人は。キスも、その先も、そうなるのが当たり前のように自然だった。口では『明日まではダメ』などと言いながら、香澄は出会った瞬間、司に堕ちていた――――




…………司に見捨てられたら……



…………わたし、…………





…………どうなっちゃうか、わからないよ…………





「香澄……本当に好きなんだ…司さんの事…」




…………辛くない?…………




奈津美は、真っ直ぐな香澄を羨ましく思いながらも、二人の関係を心配する。愁と付き合っていた時も、香澄は自分の気持ちを伝えきれていなかった。




……司さんに、伝わるといいんだけど……




……香澄の愛って……伝わりにくいんだよね?……




…………言わないから…………




奈津美があれこれ気を揉んでいる中、香澄の力強い声が耳に飛び込んできた。




「うん。一目惚れしたんだもん」



キラキラした笑みを浮かべ、言い切る香澄を見た奈津美は、



「……悪い方に考えるのヤメヤメ!今日は、打ち上げ楽しもう!」



思っている事を言わずに飲み込んだ。




……司さん…多分…“黒”だよ……仕事なら、すぐにそう言うんじゃない?……




…………まあ……言えない仕事?やくざな?とか……事情があるのかもしれないけどさ?…………




「うん。なんか、楽しみ。司が迎えに来てくれるし……ふふっ…そろそろ炊けるんじゃない?」



今日初めて笑顔を見せた香澄に、奈津美はホッと胸をなで下ろしたが、空元気(からげんき)のように思えてならなかった。




「じゃ、“おはぎ作り”再開しますか」



奈津美は、袖を肘まで捲り上げた。




炊き上がった米を手分けして潰していく。湯気の熱気で部屋の中が暖まる。



「腕が痛くなりそうだよ……ははっ…」



香澄は、単調な作業に集中した。




……自分からは……聞かない……




これから“あんこ”と“きなこ”で化粧をする“おはぎの夫婦”を思い浮かべた。




…………中身は見えないけど………………




香澄は、見た目の違うそれを自分と司に重ねていたのかもしれない。その傍らで、奈津美は、姉から聞いた司の噂話に囚われていた。




……香澄は責めないかもしれないけどさ、頭にくるんだよね…………




……だいたい、手当たり次第に寄ってくる女を食ってたらしいしさ……




……そのくせ面倒な女は、即切るとかさ、……




……噂だから香澄には、言えないけど……




……もし本当だったら……バカヤロー!!女をなめんじゃねー!!……




「…………なつみ?」




…………あ――――!!なんなの!!大嫌いなタイプだし!!…………




…………香澄傷付けたら、許さないんだから!!…………




「……ねぇ…なつみ?」




……豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえ――――!!……



「なーつーみ!」


「わっ…………びっくりした……何?」



何度呼んでも気付かない奈津美に、香澄はとうとう大声を出し、奈津美はようやくそこで我に返る。





「……えっと……何だったかな?……ハハッ……そんなに潰したら、“皆殺し”になっちゃうよ……」



香澄は、どんどん険しくなる奈津美の顔に、憎しみをぶつけるように“もち米達”を潰す姿におどおどしていた。



「あ~!そうそう“半殺し”で許してやるんだったね!」




…………あたし…声に出してた?…………




奈津美は、香澄の挙動不審ぶりに、もしもの事を考えた。先ほどまでの脳内暴言を巻き戻し、青ざめる。




……司さんの名前出してなかったっけ?……




「え?は、……あれ?あたし何か言ってた?」



奈津美は、(とぼ)けたふりをしながら香澄の顔色を伺う。



「……言ってないけど、怖い顔してたよ?何か……」



「いい!何も言ってないなら、大丈夫!」




…………よかった…………




香澄の表情を見て、奈津美はひとまずホッとした。奈津美の表情は先ほどより穏やかになったが、香澄は、遠慮がちにトレイを見せる。



「こっちは、“あんこ”入れたから」



「……あ、……じゃあ“きなこ”お願いするわ!」



奈津美は、噂や香澄の話からでしか司を知らない。信用出来る人物なのか(いな)か、未だに半信半疑、いや、八割は“疑”だろうか。潰しすぎた“もち米”を丸め“あんこ”で包みながら、香澄の身を案じるしかなかった。





午後になると、日差しが出てきたせいか、日なたは少し暖かい。が、風は相変わらず冷たい。奈津美は、実行委員の呼び出しのため、昼食も食べないまま、走って行った。香澄は、奈津美が戻るまで店番をしながら待とうと思い、ゆっくりテントに向かって歩いていた。隣のテントでは豚汁を売っていて、火があるからか暖かそうだった。



「かすみちゃん、店番してくれるの?」



…………っ……………



突然、恵理子に話しかけられた香澄は、一瞬肩を震わせた。顔は引きつっていたかもしれない。



「う……ん…奈津美が戻るまで待ってるついでだよ。お昼まだなら、食べておいでよ」



「大丈夫!いろいろ食べたから。今日も彼は仕事なの?」




…………困ったな…………




「……うん」



「日曜日なのに仕事なんだ。どんな仕事してる人なの?」




…………っ…………




…………司の仕事って…………何?……?…………




香澄は、司の仕事はおろか、会社名すら知らない。部屋でもパソコンを使って仕事をしているみたいだが、詳しくは何も知らない。知らない方が良い気がして、敢えて聞くことはしなかった。知っていても、誰にも言うつもりはないだろう。




「よく知らないの。まだ知り合ったばかりだし」




……恵理子、納得して…………




香澄は、恵理子がこれ以上突っ込んで聞いてこないよう、心の中で願った。






「そうなの?名刺くらい見せてもらった方が良いよ?弥生(やよい)の元カレなんてさ、社長だって偽ってたんだよ!本当は普通のサラリーマンなのに……」




…………っ……………




香澄は、胸に痛みを覚えた。香澄も司も、実家の事を打ち明けたのは、婚姻届を出した後だ。偽っていたわけではないが、聞かれないから言わなかっただけで、似たようなものではないかと思えば心苦しくもなる。




…………つかさ、私の事、面倒な女って思ってるかな…………ガッカリしてないかな…………




…………私は……司の実家の事を知っていたら、どうしてたんだろう…………




…………好きになる前に知っていたら、好きにならなかった?…………




香澄は、弥生の元彼を弁護するわけではないが、恵理子に同調できなかった。確かに嘘は善くないが…。




……よく思われたいと思う気持ちは、誰にでもあるんじゃないかな……




恵理子は、香澄の反応をさほど気にする様子もなく、更にしゃべり続ける。




「かすみちゃんって、野上先輩以外眼中にないって感じだったから、興味あるな~。どんな人?カッコイイの?何歳?」




…………っ………………やっぱり聞かれるよね………




恵理子は興味津々だ。目を輝かせ、さらに身をのり出した。




「恵理子の彼も社会人?」



香澄は、精一杯考えた結果、質問で返した。



「うん。もうそろそろ来るよ。土日は休みなの!」



嬉しそうに微笑む恵理子は、恋する乙女だ。見ている誰もが笑顔になりそうなくらいキラキラしている。



「すみません!きなこ二つ」



「はい」



突然やって来た客に助けられ、恵理子との会話を中断し、香澄は客に顔を向けた。客は無表情のまま香澄を見ていた。



「そう言えば、白井くん見ないよね。朝もサボったみたいだし、知らない?」



恵理子は客に気付いていないのか、香澄の腕にくっ付き、俯いたまま話し始める。香澄は、“きなこ二つ”をパックに詰め、輪ゴムをかける。



「お待たせしました。こちらになります」



客は品物を受け取り、百円玉を二枚渡すと背を向けた。香澄は客が去ったのを見届け、隣の恵理子に向き直る。



「知らない……どうしたんだろうね」



「今朝になって、打ち上げの幹事、代わってくれってメール来たんだよ?」



恵理子は百円玉を片付けながら、何やら不満そうに話し始めた。






「……用事でもできたのかな…?」



「よく分からないんだけどね?打ち上げには来ないらしいよ」



恵理子は、かなり不満そうだ。何かを含んだ言い方なのだが、香澄は気づかない。



「そうなんだ」



「あぁあ~幹事になったら、二次会も出なきゃでしょ?……OBも来るらしいし……ねぇ…かすみちゃんも二次会出ない?」




…………う…………




「…………」




…………どうしよう…………




香澄は返答に困る。司には『一次会で帰る』と言って来た。もともと二次会には参加しないつもりだ。奈津美も一次会が終わったら、晃に迎えに来て貰う事になっている。香澄は、恵理子から目をそらし、俯いた。







「ごめん…」



恵理子は、香澄の返事を聞き、一瞬表情を変えた。香澄が断るとは思っていなかったのだ。しばらくガッカリしたように肩を落としていたが、やがて笑顔を作り口を開いた。



「そっか……香澄ちゃんが参加するなんて、めったにないし、もっと話したかったな。…………彼の話も聞きたいし」




……それは困るよ?……これ以上聞かれたら…………




「ごめんね…」




香澄は首を傾け、今度は恵理子の目を見てもう一度謝った。




「……いいよ!弥生と二人で頑張る…ハハッ…」



香澄は、恵理子の笑顔を見てホッとした。恵理子は、香澄の二次会参加は諦めたようだったが、その後も客足が途切れる度に、自分の彼氏の話をしたり、香澄の“好きな人”について質問を投げかけた。






「そういえば香澄ちゃん、バイト休んだの?」



「うん」



「もしかして、その彼、お金持ち?」



恵理子は、香澄の指輪をチラチラ見ていた。



「…………」




……何て答えたらいいの?……




「香澄ちゃん、生活大変そうだったから、……バイト休んで大丈夫なのかなって……あ……ごめんね。……その指輪、彼に貰ったんでしょう?いいな~」



香澄は、恵理子の含み笑いを見つめながら、



「……う…ん…」



肯定するしかなかった。




……奈津美、早く戻って来ないかな……




「やっぱり!いいな~!…………付き合ってないのに……?付き合ってるんでしょ?ねぇ、何歳なの?」




…………っ…………付き合ってないのに指輪を貰うって、無理があったかな…………



…………でも、付き合ってるって言って、紹介してとか…………写真見せてとか…………いろいろ聞かれたら…………



…………どうしよう…………





「……二十七…」



香澄が、年齢だけ答えたその時、恵理子は急に視線を遠くに向けた。香澄がその視線を辿っていくと、



「来たみたい。じゃあ、また打ち上げでね!」



恵理子はキラキラした笑顔を浮かべながら、彼氏の元に走って行った。香澄は、ようやく肩の力が抜け、張り詰めていた緊張から開放された。ゆっくり息を吐いていると、突然“ぎゅっ”と後ろから抱きつかれた。




「かすみ~ごめ~ん!あ~おなか()いた~」




…………びっくりした~…………



奈津美は、驚いて固まる香澄にしばらく抱きついていた。



「なつみ?」



「はいはい!食べ歩きにゴー!」



奈津美は、香澄の肩に手をのせたまま上半身だけ振り返る。



「あ、あと店番、頼んだよ~!!完売したら、片付けていいからね!……あ!何か買って来るからさ!」



近くにいた二年生に言い放つと、あっと言う間に香澄をテントの外に連れ出した。そして、香澄の腕を引いて歩き出した。



「恵理子に何言われたの?」



「え?……あ、付き合ってる人がいるって事になってる?みたい……いろいろ聞かれたよ……」



「それだけ?」



「うん。社会人で二十七歳、以外は切り抜けた……はず……たぶん……ハハッ……」



奈津美は、香澄の様子にひとまず安堵する。奈津美が耳にした噂は、そんな穏やかでいられる話ではなくなっているのだ。






あまり時間のない奈津美に付き合い、香澄は、まだ完売していない店を探しては食べ歩いた。完売していない店は少なく、あまり腹の足しになるような物もなく、香澄は、朝ごはんを食べて来て良かったと思った。



「あたし、打ち上げに遅れそうなんだ。実行委員あるからさ~。香澄、どうする?」



「待ってるよ。奈津美いないと心細いし……ハハッ…」



奈津美は、香澄の返事を聞いて、ホッとする。



「じゃあ、晃と待っててよ」



香澄は知らないが、香澄の“好きな人”に関する噂話は、尾鰭(おひれ)が付いていた。指輪を贈られる間柄というところから派生し、曖昧な返事しか出来ない香澄の様子から、好き勝手に想像されている。



奈津美が気がかりなのは、もう一つ。白井の事だ。一昨日、奈津美が帰る前に会った時は普通だった白井。昨日、香澄の返事を待って欲しいと電話をした時に、様子がおかしかったのだ。




『幹事の代わりが見つかったらメールします』




白井は、そう告げて電話を切った。やけに事務的な会話が、奈津美には不思議に思えた。

そして今朝になり、



――恵理子ちゃんが幹事だから



と、一行だけのメールが届いた。




真面目で律儀な白井が幹事を土壇場で断る事も、たった一行のメールで済ませる事も、奈津美には信じられない事だった。恵理子の話では、白井は打ち上げに参加しないらしい。




…………あんなに楽しみにしてたのに…………




…………白井…どうしたんだろう…………





奈津美は、白井の事を心配しながらも、“部活の打ち上げにでも参加するのかもしれない”と、それ以上詮索はしなかった。考え事をしていた奈津美は、香澄が隣にいない事に気付かず、テントに向かって歩き続けていた。








香澄は、奈津美と連れ立って歩きながら、サークルや研究会の展示を見ていた。が、あるポスターに、ふと足を止めた。そして、雷に打たれたかのように動けぬまま、その場に立ち尽くしていた――




幻想的な月の画像を背景に、浮き出るように書かれた文字。その二十五文字が、香澄の心臓を撃ち抜いていた。







「…………っ…………」











――――――月は――――――









――――――裏側を――――――








――――見せることなく――――










――――――(みずか)ら――――――







――――光ることもなく――――












――――――(そば)にある――――――












香澄は、胸をぐっと掴まれたような苦しさを覚えた。熱い何かが足の先から頭に向かって上がってくる。何かにとり憑かれたようにその文字の前に(たたず)んだ。息をするのも忘れたかのように――




…………わたし…自分の気持ちばっかり…………




…………司の気持ち……考える余裕もなかった…………





……“裏側は、見せない”……




…………でも……“傍にある”…………




…………裏側も月なんだよ……表だけじゃないんだ…………




……今日、帰ったら……伝えたい……司に……




光の加減で見え方の変わる月。香澄は、二十五文字の背景にある、満月より少し欠けた月を見詰めながら、胸のつっかえが取れたような、どこかすっきりしたようなそんな気分になっていた。見せていない裏側。そう、誰にでもあるのではないか。月は、地球に同じ顔を向けたまま、共に太陽の周りを回っている。月の裏側は宇宙からしか見えない。付かず離れず共にある“それら”に、何かを重ねていたのかもしれない。




「ちょっと~かすみ~?……あんた、いきなり消えるからびっくりしたよ!全く!」



走って引き返して来た奈津美は、香澄の背中に向かって大声で叫んだ。香澄は、その声に振り返る。息を整えながらホッと一息ついた奈津美は、香澄の顔を見て目を丸くする。



「奈津美!ありがとう!」



香澄は、清々しい笑顔を向けている。昨日奈津美に言われた言葉の意味を、自分なりに解釈できたようだ。



「は?」



奈津美は、香澄に何が起こったのか分からなかった。先ほどとはまるで違い、どこか吹っ切れた顔をしていたのだから。






「もう時間だし、とにかく、戻って片付けよ!」



「うん」



二人は、再びテントに向かって歩き始めた。司がどんな気持ちでいるのか、香澄は大事な事を忘れていた気がした。




……見えないけれど……




…………そこにある…………




……傍にいてくれるだけで……




香澄は、いろんな司の顔を思い浮かべていた。ホテルで、月を見ながら未来を語った司。海を眺めていた司。『行って来る』と照れ笑いしながら仕事に行く司。




……『司を信じる』……




…………言ったのは…………



……わたしなのに……




今朝、ベッドの上で感じた司。




……司は今、どんな気持ちでいるの?……







テントに戻り、皆で片付けを済ませた後、恵理子たちは、打ち上げ会場の居酒屋に向かった。香澄は、晃と一緒に奈津美を待ちながら、余ったおはぎを食べることにした。



「あれ?これ……」



晃は、突然、食べかけの“きなこ”を指差した。半分に切られた切り口は、真っ白だ。



……わ……中身がない……



香澄は、それを見て顔を強張らせた。あんこの入っていない方を、きなこでまぶしてあったのだ。



「ごめん……間違えてたのかも……」



「……ハハハッ…いいよ、気にしなくて。失敗は誰にでもあるよ。悪気はないって分かるからね」



晃の言葉にホッとした香澄だったが、大失態かもしれない事に気付き、真っ青になった。




……まさか全部反対になってるとか?!……




香澄は、余りの“おはぎ”を確かめるため、ひたすら食べ続けた。二つ食べた所でギブアップし、晃に笑われながら箸を置く。




……しばらく、“おはぎ”は見たくないかも……




結局、全部を取り違えていたわけではなかった。今日作った“きなこ”は、香澄の担当だ。香澄は、あんこの入れ忘れが一つだけである事を願いつつ、自分の失態を悔いた。




……中身は、開けてみないと分からないんだ……




香澄は、また一つ学んだ気がした。中身が反対だったとしても、見た目は“おはぎ”に変わりはない。間違えることは、誰にだってある。




……夫婦だって……




…………大切なのは……



…………きっと…………











――――受け入れること――――





…………どんな司でも…………





…………(ゆる)すこと…………





…………愛があるなら…………






愛のない嘘や裏切りを赦す自信はないが、香澄は司と向き合おうと思った。自分の何を受け入れ難くて愁が去って行ったのか、香澄は知らない。突然去って行かれる恐怖を思えば、臆病にもなる。だが、逃げていたのでは、寄り添うことも出来ないかもしれないのだ。





「ごめ~ん!お待たせ~!」



明るい声と共に奈津美が研究室のドアを開けた。



「おかえり~」



香澄は、駆け寄ってきた奈津美に声をかける。



「あ~お腹空いた~、これ一個貰うね!」



腹を空かせた奈津美は、晃の手から箸を奪い、残った“おはぎ”に箸を伸ばした。昼もあまり食べていない奈津美は、ガツガツと“おはぎ”を頬張り、口の中の物を飲み込みながら、晃を見上げる。それを見て、晃は飲みかけのコーヒーを奈津美の前に差し出した。



「慌てると、喉につまるよ」



晃の優しい眼差しが奈津美に向かう。それを垣間見た香澄は、頬を緩ませた。奈津美の顔には、“ああ、もう疲れた”と書いてあり、晃の顔には、“お疲れ様”と書いてあるように感じた。



残りの“おはぎ”は奈津美が食べきり、研究室を出た三人は駐車場に向かって歩き始めた。寒さに身を縮めながら歩いていると、短い着信音がメール受信を告げた。



「ケータイ、香澄じゃない?」



三人揃って足を止め、奈津美は香澄に視線を送った。奈津美は、音の正体を知っていた。勿論、香澄が相手によって着信音を分けている事も。



「うん」



「メール?見た方がいいんじゃない?」



香澄は、頬を緩ませながら携帯を開いた。




――――今どこだ?




…………?……




香澄は、不思議に思いながらも、司の一言メールに急いで返信をする。




――――まだ学校だよ




……学校以外にどこにいると思ったのかな?……




携帯を閉じ、カバンに入れようとした時、今度は電話の着信音が鳴りだした。




…………つかさだ…………




「ごめん、電話出ても良い?」



香澄は、奈津美に断って携帯を耳に当てた。







「もしもし」


「あきら~先にエンジンかけて、暖かくしといて!」



香澄が電話に出たのを見た奈津美は、晃をその場から離すように両肩を押した。



「りょ~かい!」



晃は、振り返ることなくそう告げると、寒がりな奈津美のために駐車場へと急いだ。




「……うん………………晃君の車……えっ?…………奈津美の彼氏………………ごめんなさい…………奈津美も一緒だよ…………うん……………………わ…かっ…た…………」




香澄は、携帯を閉じながら、晃がいない事に気づき、奈津美に感謝した。晃は、香澄が結婚したことはもちろん、司のことも知らない。




…………奈津美って気配り上手だよね…………




「何だったの?晃の車だと“不満”とか?!」



奈津美は、香澄に問いかける。“ふまん”を強調するようにそこだけ大きな声になるのは、司に対する挑発だろうか。目の前にいたならば、言えるはずもないが。



「違うよ。晃くんの車で行くって言ってなかったから、びっくりしたみたい……」



「アハハッ……ジョーダンだよ!かすみ!あんた愛されてるね~」



司への疑惑は残ったままだが、晃を警戒している点から、香澄の事をないがしろにしているわけではないらしい。奈津美は、電話を終えた香澄の笑顔を見て、ホッとしていた。




…………『あきらって誰だ!』っていきなり怒るとか…………全然、噂と違うんだけど…………




駐車場に向かって歩きながら、電話の内容を聞いた奈津美は、頬を緩めた。




…………もしかして…………過保護?!…………




「あと……司も今日は外で食べるって……」



「……秘書の人とでしょ?」



「うん」




司は、独りで冷凍飯を食べたくなかった。そこで、海堂や社員を連れて食べに行く事にしたのだ。駐車場に向って歩いている間、香澄は、“帰ったら、司と向き合わなきゃ”と打ち上げよりその事に気をとられていた。







「遅いから、心配したよ」



運転席の窓を開けて見上げる晃は、不満そうだ。それもそのはず、奈津美と香澄を送った後、研究室の打ち上げに途中から参加する予定なのだから。



「……ハハハッ…ごめ~ん!」



奈津美は、慣れた様子で助手席に乗り込み、運転席まで身をのり出し、晃の胸元から香澄を見上げた。



「はやく!香澄も乗りなよ!」



「うん。お願いします」



香澄は、あっけらかんとした奈津美に急かされ、後座席に乗り込んだ。車はすぐに走り出した。大学から近い居酒屋には、五分もすれば着くらしい。日が落ちて真っ暗なはずの道路沿いは、飲食店の看板から漏れる灯りが目立ち始めていた。



「じゃあ、終わったら電話するわ!晃が飲めなくて良かった~」



「奈津美さん、それ言うかな……」



奈津美の明るい話し声を聴きながら、香澄の頭の中は、司の事で一杯だった。




……言うタイミングって、一旦逃すと…言えなくなるかも……がんばらなきゃ……






「……着いたね。奈津美さん、酔って絡まないように」



「アハハハハ……今日は香澄もいるから、セーブするわ……あきらも、飲まされないように気をつけなよ?」



「了解」



晃は、いつも、酔った奈津美の介抱役だ。香澄は、飲み会に参加した事がないため、酔った奈津美を見たことがない。だが、『酔ったら可愛いんだ』と晃から聞いたことがある。姉御肌の奈津美だが、晃と二人きりの時は甘え上手。香澄は、二人の話を聞いていて、いつも思うことがあった。




……奈津美みたいに、素直になりたい……




「香澄!着いたよ!」



「うん。晃くん、ありがとう」



「どういたしまして」




二人は、居酒屋の真ん前に停められた車から急いで降りた。




「じゃあ、また後で!あきら、ありがと~!!」




奈津美は勢いよくドアを閉め、キラキラした笑みを浮かべながら手を振っていた。




エレベーターに乗り、三階のボタンを押した奈津美は、緊張している香澄に微笑みかけた。




「かすみ?恵理子達に何か聞かれるかもしれないけどさ、…………正直に言わなくてもいい事もあるんだよ?」



「うん。最近分かってきた。……正直に言えない事、あるから……」



何かを抱えると、澄み切った笑顔にはなれないのだろうか。香澄の瞳は、どこか曇っていた。



「うん」



奈津美は、もう一度微笑んだ。




「……言うなって、司も言ってたしね……」




……司の事は、言えない……




…………次から次へと聞かれそうだもん…………




奈津美は香澄の言葉にホッとしていた。




……恵理子達には、言わない方がいい……




……司さん、香澄の事、よく分かってるね……




……香澄が正直なのはいいところだけど、……後で苦しむのは香澄なんだよ…………




…………卒業まで、まだ一年以上あるし…………




“チン”という音がフロアへの到着を告げ、奈津美は気を引き締めた。香澄は、先を歩く奈津美の後を追うようにエレベーターを降りた。そして店の中に足を踏み入れた。




「いらっしゃいませ」







「白井で予約してます」



奈津美が“白井”と言うと、店員は奥に何かを確かめに行き、



「こちらです」



誘導しながら店内を歩き始めた。香澄は緊張しながらも、奈津美の後ろについて歩く。店員に案内されたのは、掘り炬燵(ほりごたつ)式の座敷だ。部屋を覗くと、皆は鍋料理を囲み、既に盛り上がっていた。靴を脱ぎ座敷に上がった香澄は、その熱気に戸惑う。




「奈津美~!こっちこっち~!香澄ちゃんも~!」




恵理子が、手招きをしながら大声で呼んでいる。奈津美は、緊張している香澄の耳元に顔を近づけ、



「大丈夫」



そう囁き、香澄の手を握り、恵理子の指差す席に向かった。







香澄は、奈津美と並んで座り、渡されたメニューから飲み物を注文した。香澄にとっては、初めての飲み会だ。赤い顔をして語るOBや、恋の話に花を咲かせる二年生の女の子を時々見ながら、取り皿にとった料理を食べる。周囲は、誰が何の話をしているかなど聞き分けられない程、賑わっていた。




「奈津美~お疲れ~!ねぇ、二次会出ない?」



恵理子に声をかけられた奈津美は、にっこり笑い、



「あたし実家だしさ、あんまり遅くなるとうるさいんだわ、ごめんね」



やんわり断った。




………奈津美んち、うるさかった?……




奈津美の実家は、さほど厳しくない。きちんと時間と場所さえ言っておけば、彼氏の家でも許可してくれる。親公認の彼氏に限るが。香澄は、“こうすればいいのか”と一人納得していた。




……奈津美すごい……




香澄は、奈津美を尊敬の眼差しで見ていた。



「そっか~実家だもんね、また飲もうね!」



恵理子はそう言って微笑み、弥生の方に向き直り、話を始めた。






「奈津美ちゃんお疲れ~!あれ~?!朝霧ちゃん?めずらし~!」



「橋本~、飲みすぎ!!酒臭い!」




OBの橋本が、奈津美と香澄の後ろに座り、二人の肩に手をかけながら身を乗り出してきた。二人の間に顔を突き出し、顔は香澄の方に向いている。奈津美は追い払おうとしたが、



「酒臭いに決まってるやろ?飲み会やし……朝霧ちゃん?呑んでる?」



橋本は、香澄に顔を近づけた。とその時――――





“チャガチャ――――ガヂャガチャン”凄まじい破壊音が店内に響き渡った。








「す…すみません」






…………?!…………






………っ…………






大きな音に驚き、全員が音のする方を向く。皆、何が起こったのか分からぬまま、音のした方を見詰めた。





一瞬、辺りの空気が凍りついた。





数枚の皿と鍋を床に落として割ってしまったらしく、前掛けをした短髪の店員が、座敷の入り口で、こちらに向かって頭を下げている。凍り付くような冷たい風、重苦しい不気味な空気に、全員、息が出来ないまましばらく固まっていた。ビデオの再生を一時停止したかのように―――




音が消えた―――




――――――息苦しい




まるで、全員が金縛りに遭ったかのように――――









香澄だけは、店員の後ろに立っている人影に気付き、目を見開いていた。





…………え?……っ…………





「か…かすみ?ど…うしたの?」



奈津美は、香澄の様子がおかしいことに気付いた。香澄だけ、周りと違う反応をしている。不自然なまばたきをパチパチ繰り返して――




奈津美は、息苦しさの中、香澄の腕を掴み、視線を辿った。




……………?!……………




…………っ…………




そこには、今にも日本刀を振りかざし、目の前の(かたき)を斬りつけそうなオーラをまとった男。奈津美は、遠目に見ただけで再び背筋が凍りついた。視力の良い奈津美には、その男の瞳が見えてしまった。人間の眼と言うよりは、獣……いや、“蛇”だ――





奈津美がようやく普通に呼吸が出来るようになった頃、辺りの空気も少しずつ元に戻っていった。




「香澄、トイレ行こ?」



「うん?」



奈津美は、橋本から逃れるためも兼ね、香澄を強引にトイレに連れ出そうとした。あの“蛇のような眼”についても聞きたかった。靴を履いた香澄は、何かを探すようにキョロキョロ辺りを見回していた。




生き霊(いきりょう)だったのかな」




ぼそっと呟いた香澄の言葉に、奈津美は固まった。




…………イキリョウ?!…………




……?……?……?……?……?…………




後ろからトボトボと付いて来る香澄をチラチラ振り返りながら、奈津美はトイレへ急いだ。“バタン”とドアが閉まると同時に、奈津美は香澄の肩に手を置いた。



「かすみ?」



聞きたい事はあるのだが、香澄の顔は赤みがひいていて、奈津美は言葉に詰まった。





「ねぇ、奈津美……わたし、生き霊、見ちゃった……」




いつもより白っぽい顔をして、香澄は真顔で言っている。興奮しているようにも見える。




「……“イキリョウ”って誰の?」




奈津美は、まさかとは思ったが、聞いてみた。




…………そりゃあ、怨念がこもってる悪霊くらい、恐ろしい姿だったよ?あの男の人…………




…………殺気だけでグラスが全部割れそうだったし……




……視線だけで心臓止められるくらい、恐ろしい眼だったし…………




…………金縛(かなしば)りに遭ったみたいに動けなかったし…………




「……つかさだよ!……さっき、お皿割った店員さんの後ろに……」




香澄は、司の事ばかり考えていたから、司の幻影を見たのだと思っていた。幻影と生き霊では、出て来る事情が違うのだが、香澄は違いを分かっていないようだ。




「司さん?」




「そう……司が見えた気がしたんだよ。……すぐいなくなったけど……」




奈津美は、迷った。言うべきか、言わざるべきか。




…………香澄は、“生き霊”だと思ってるけど、アレは“本物”なんじゃない?あたしも見たし…………




…………香澄を見に来てるって事??司さん、確か、外で食事って…………ここで食べてるんじゃ…………




……香澄に伝えるべき?……




奈津美の足元は震え始めた。恐怖を覚えながら、言うべきか言わざるべきか考える。下條司が来ているとすれば、今、この店にヤクザがいるということだ。




「あのさ、司さんってどんな人?」



奈津美は、人違いであって欲しいと願いながら尋ねる。



「ん、背が高くて、痩せてもなくて太ってもなくて、…………髪は栗色。一見怖そうに見えるけど、…………笑うと可愛い…………ふふっ…」



香澄は、頬を染めながら話し始めた。頭の中は司でいっぱいなのだろう。




…………ありゃ~、ノロケ入ってきてるし…………




……長身に栗毛って……やっぱり……あの“おぞましい生き霊もどき”は司さん?!……




…………って、橋本は大丈夫なの?…………




…………あの眼…………橋本に向かってた気がするんだけど…………




奈津美は、背筋が凍るような感覚を覚え、顔からは色が抜けていた。香澄は、そんな奈津美には気づかず、司の話を続けていた。




「司の事ばっかり考えてるから、“(まぼろし)”まで見えちゃった……ハハッ…会社の人達と何食べてるのかな……」




香澄は、司を思い浮かべて微笑んでいるが、奈津美はその一言で顔が凍りついた。祈るような思いで、香澄に尋ねる。




「ねぇ、香澄、司さんの会社の人って……」




「……会社の若い人?連れて飲みに行くって言ってた。司は呑まないって言ってたけど」




…………は?会社の人って……“下條”でしょ?ヤクザでしょ?…………何人いるの?!…………橋本ヤバいんじゃないの?…………




奈津美は心の中で手を合わせた。




………橋本!あんたは酒癖悪いし“セクハラ大王”だったけど、素面(しらふ)の時は、イイ奴だったよ…………





その時、“ガチャ”という金属音がして、二人はビクついた。




…………?!…………

…………?!…………




幽霊でも登場したのかと思わせるような驚きぶりだ。音と共に開いたドアからは、知らない女性が入って来た。女性が通り過ぎた後、奈津美と香澄は、顔を見合わせ、苦笑いする。




「そろそろ戻った方がいいかな」



「あ……うん、香澄大丈夫?」



奈津美は、香澄を気遣いながらも、橋本が気になり心臓がバクバク鳴っていた。香澄は、笑みを浮かべている。顔色も戻り、奈津美を真っ直ぐ見詰めていた。



「うん。……あ、今日帰ったら、司と、ちゃんと向き合うから」



香澄は、司に早く会いたかった。“自分の気持ちをちゃんと話そう”そう思っていた。




香澄の笑みを見た奈津美は、複雑な心境に陥った。話し合うように言ったのは自分だが。




…………あの“生き霊”相当怒ってるよ?あの角度からだと、橋本が香澄に顔を近付けて、迫ってるように見えたのかも…………




…………香澄、大丈夫かな…………




「あ~いたいた!二人とも戻って来ないから迎えに来ちゃった」




恵理子は、二人を見つけてホッとしたようだ。二人は“ごめん”と言いながらトイレを出た。奈津美は、“生き霊”の正体を、香澄に伝える機会を失ってしまったようだ。





座敷に戻ると、



「朝霧ちゃ~ん、席替えしたよ~」



能天気な声がふわふわと飛んできた。軽すぎて、風船のように飛んでいきそうな声。奈津美はヒヤヒヤしていた。



…………っ…………その軽い声…吹き飛ばしてやろうか…………



…………何考えてんだ…………エロガッパ…………




声の主、手招きしているのは、橋本だ。酒も回り、かなり上機嫌なご様子。自分の隣の席を空け、待っているようだ。奈津美は、橋本の元気そうな姿にホッとしながら、辺りをキョロキョロ見回していた。特に変わった様子はない。だが、これから何か起こるかもしれない……。




「奈津美?」



香澄は不思議そうに奈津美を見やる。



「へ?……あ、席ね、橋本放ってこっちで飲もう?…どうせピッチャー持って、回って来るからさ!橋本は」



奈津美は、女の子の固まりを見付け、香澄を誘導した。



「ごめん、ちょっとずれてくれない?」



「いいですよ。奈津美先輩何処に行ってたんですか?」



「ん?トイレ」



奈津美は、二年生の女の子に頼み、二人分の席を確保した。香澄は、“ありがとう”と後輩に言いながら奈津美の隣に座った。




…………男が近くにいちゃあ……マズいでしょ…………




奈津美は、“生き霊”?“本物”?を気にして席を選んだのだが――――




十人は座れるテーブルの対角線上に座り、弥生と話し込んでいた恵理子が香澄に気付き、身を乗り出してきた。



「香澄ちゃん、白井君と何かあった?」



「え?」



「ごめん。聞こえてなかった?白井君がね、二次会は来るって。……香澄ちゃん、白井君と何かあった?……」



「……?……」



香澄は、恵理子の聞きたいことが分からない。『何かあった?』と聞かれても、心当たりは何もない。



「白井が二次会来るなら、恵理子、幹事の役、白井に返したら?」



奈津美が気を利かせ、恵理子に話を振った。



「そうする~。でもね、白井君、二次会に誰が来るか、しつこく聞いてきたんだよね~」



恵理子は、香澄をチラチラ見ながら含みのある言い方をする。香澄は、恵理子の意図に気付くはずもなく、不可解な顔をしながら黙っていた。奈津美は、何も気づかない振りをし、言葉を投げた。




「橋本と飲みたいだけじゃない?」




「それがね、…………香澄ちゃんと奈津美が来ないって言ったら、急に、『二次会は自分がカラオケ予約して、先に行って待ってる』って言い出したんだよ」



恵理子は、香澄と白井に何かあったのではないか、と勘ぐっているようだ。香澄は、何の事だかさっぱり分からない様子だが、奈津美は気付いていた。白井が香澄を密かに想っている事は、恵理子も奈津美も知っていたのだ。




…………白井は告ってないはずだけど……“白井が告って香澄が振った”とでも思ってるんだろうね…………




…………気まずいから、白井が香澄を避けてるとか…………そんな噂を流してるってとこかな…………ハァ…………




「白井はさ、あたしが怖いんじゃない?今朝もサボってたしさ」



「…………ハハッ…奈津美、強いもんね……ハハッ…」



奈津美の言葉に、恵理子は納得していないようだが、それ以上白井の話はしなかった。




……白井のヤツ、朝からサボって……何やってんだか……




奈津美は、不可解な白井の行動が気になったが、ピッチャーを持って回って来る後輩やOBの相手をしているうちに、忘れてしまった。






一次会は、お開きの時間が近付いていた。香澄は、かなり飲まされていた。もともと酒に強く顔にも出にくい香澄は、素面(しらふ)と間違われやすい。奈津美は、断れない香澄に、時々助け船を出していた。




「朝霧ちゃ~ん、見~つけた!」



橋本が、再び二人の間に入り込もうとしていた。




…………橋本のバカ!!!…あんた死にたいの?!…………




ヤキモキする奈津美とは対称的に、香澄は隣の後輩の恋愛相談に集中していた。橋本に気づく様子もない。




「橋本!ウーロン茶とオレンジジュース!頼んできてよ!」



「は?奈津美、相変わらず人使い荒いな……先輩に呼び捨て、タメ口…………おまけに…パシリ……」



両目を手のひらで覆いながら、橋本はため息を()く。



「ハイハイ!早くね~!」



奈津美は、“さっさと行った行った”と言わんばかりに出口を指差した。しぶしぶ立ち上がった橋本を見て、奈津美はホッと一息ついていた。







その頃、奥の個室では――――





「……………………」



誰一人話す事なく、しんと静まり返っていた。司は、同じ居酒屋の一番奥の個室で“社員と食事”の予定だったのだが。部屋の中は、重苦しい異様な空気が漂っていた。




司は、社員達を先に行かせ、後からこの居酒屋に向かった。奥の個室に向かう途中、目に入ってきた光景に、我を忘れ、今にも橋本に殴りかかろうとしていたところ、海堂とケンが羽交い締めにして部屋まで運んだ。




部屋に運ばれた司は、二人を殴り飛ばし、以後、一言も喋らなくなった。真っ黒い空気を纏ったまま、じっとテーブルを見ている。




先に着いて食べていた社員達には、事の成り行きは分からない。司が(かも)し出す息が詰まりそうな空気の中で、全員正座をし、背筋を伸ばし恐怖に怯えていた。海堂の膨れ上がった顔を見れば、一目散に逃げ出したいだろう。




「おい、……ヤバくねーか……」



「…………ヤバいな……火の粉がこっちに降る前に帰りてぇ…」



長時間の沈黙と緊張感に耐えきれなくなった社員たちは、この黒い部屋を脱出する方法を考える。が、何処に地雷があるのか分からず、苦い顔を見合わせていた。そんな中ヒトシは、“ここは自分が”と口火を切ったのだが。




「しゃ……しゃちょ…ふ………?……あのっ……コレが待ってるんで…そろそ……」




小指を立てて話し始めたヒトシは、途中から声が出なくなった。口の中が渇き、唇は震え始める。地獄の閻魔大王も、恐れおののいて逃げ出しそうな空気を纏った司が、刺すような鋭い眼でヒトシを睨みつける。そう、考えに考えたヒトシだったのだが、巨大な地雷を踏んでしまったらしい。




…………っ…………




……く……くっ…口が動かねぇ……




あまりの恐怖と極度のストレスから呼吸も乱れ、身体を自分の意志では動かせなくなった。口も、頬の筋肉も――――








「帰らせても、よろしいですね」



海堂が口を挟んだ。



「………………」



が、司は、無言のまま再びテーブルに視線を移す。海堂は、ヒトシに目で合図を送った。慌てて上着を手にして逃げ帰る社員達を見つめながら、海堂は、この後の事を考えていた。



司は、相変わらず無言のままだ。昔の司を思い出し、海堂は頭を捻る。司は、本気で怒ると無言になる。海堂がそれを見たのは、これで二度目。一度目は、幸司の死に関わる話を、司が立ち聞きしてしまった時だ。





「海堂」



司の無情な声音が海堂の耳に届く。容赦なく叩き潰せと命じる時の司だ。



「は、はい」



「あのヤロー、……」


「聞けません」



司の言葉を遮り、(めい)に従えぬ意志を伝えた海堂。



「……んだとゴラァ」



“ガシャン”


司の怒りはテーブルに落ちた。置かれていた皿は座敷に転がり、料理は散らばった。



「あたまぁ冷やせや」




海堂のいつもと違う高い声が響いた。海堂は決死の覚悟だ。二人は、じっと目を合わせたまま……。



二人とも、血走った眼で睨み合っていた。ぶつかり合うオーラだけで、鍋にひびでも入りそうな、そんな中、物音に気付いて駆けつけた店員も、引き戸の前に待機するケンを見て震えながら逃げて行った。







「香澄に手ぇ出されて、頭冷やせってか?笑わせるな」



司が先に口を開いた。司の声を聞き、海堂はひとまずホッとした。黙ったままの司が危険極まりなく何をするか分からない事を、海堂は知っていた。




「手は出していないようですが」




海堂は、いつもの口調に戻し、司に告げる。




「はぁ?!してただろ!香澄に…………」




「何を?でしょうか」




…………あ”ぁぁぁ―――!!!!思い出しただけで…………っ…………クソッ…………




「…………っ……あ”ぁ”ぁぁぁ―――!!!!…………ック……」




口に出そうとすれば、(はらわた)が煮えくり返るような怒りが再び司を襲う。



“ガンッ”



自宅であれば、壁に穴を開けようが、家具を壊そうが自損だ。が、ここで暴れるわけにはいかない。司は、ぐっと堪え、叫びながら、握りしめた拳をテーブルに落とした。



グラスは割れ、破片と液体が混ざっている。テーブルに残った鍋や器はカタカタと音を立てながら震えている。



食器の揺れがおさまる頃、一呼吸置き再び口を開いた。





「……肩抱きやがって…………それに………………チュウしやがった!」



耳を赤くしながら呟く司を見た海堂は、腹筋に力を入れた。



「……ぶっ……していませんよ」



勇ましい顔で『チュウ』と言った司に、笑いを堪えていたが、とうとう吹き出した。



「あ”?見たんだよ!俺は!この目で!!!!」



司はギラギラした目を更に見開き怒鳴ったが、海堂は、冷静さを取り戻しつつある司にホッとした。



「あちらからだと、そう見えたのかもしれませんが、顔を近付けただけです」



海堂は、緩んだ頬を元に戻しながら、言葉を落とす。



「…………っ……ほんとかよ……」



司は、少しだけ心臓が大人しくなった気がしたが、相変わらず体中が熱く、自分の身体でないような状態が続いていた。



「はい。この目で見ましたから」



冷静沈着な海堂の抑揚のない言い方に、司は正気に戻りつつあったが、あの光景を思い出す度に、心臓を(えぐ)られる思いがしてくるのだ。




「………………そうか…にしても、近付き過ぎだろ!あのヤロー!!」




…………二度と歩けねーよーにしてやろうか…………




……………誰のもんに手出してると思ってやがんだぁぁあ”?!……分からせねーとなぁ…………







「もう心配ないようですよ。奈津美さんが、隣にぴったり付いているようです」



海堂は、自分の携帯を司に見せる。表示されたメール画面には、細かい報告に加えて写真まで添付されていた。司は、ようやく正気を取り戻した。眼の色は元に戻ったが、イライラはおさまらないようだ。海堂は、司の気を散らすため、話を逸らす。



「今月の二日月(ふつかづき)ですが、教会は予約がいっぱいです」



香澄のウェディングドレス姿でも想像すれば、目尻が下がるだろうと踏んだようだ。




「は?……どうすんだ」




…………流石に、結婚式の予約に割り込みは出来ねーぞ……人様(ひとさま)の幸せ蹴散らしたら、バチが当たりそうだしな…………




「それで……遠出しませんか」



「オジキのとこか?」




司は、イルミネーションを見てはしゃぎ回る香澄を思い出し、目尻を下げた。




……あの日、俺、ずいぶんと“おあずけ”くらったんだよな……




…………帰って……ふっ…………




司は、香澄との交わりを思い出し、ニヤニヤしていた。海堂は、司の表情を見て、安堵した。




「社長?」



「あ?……なんだ」






「あの……ただ、神父がおりません」



司の叔父に頼めば、場所は借りられる。が、その他のことはこちらで準備をするしかない。海堂は、水面下で緻密(ちみつ)に準備を進めていたのだ。




「……いるじゃねーか、海堂、お前、顔変えて変装しろ」



「は?」




海堂は口をポカーンと開け、間抜け面をさらした。




「……ックハハハハッ、その顔に…………ックハハハハッあの……天使みてーな格好…………ックックックッありえねーだろ……ックハハハハッ…」




司は、海堂の神父姿を想像し、腹を抱えて笑い出した。




「社長も白いタキシードですよ?」



自分の姿を想像した海堂は、何とも言えない険しい顔になる。



「俺は、黒だ。白装束は似合わねーだろ?……俺ら、白は着れねぇな……ックックックッ…」



司は、白いタキシードを纏った自分と、天使のような格好の海堂を想像し、笑いが止まらない。



「白は苦手です」



司は、海堂の言葉に頷いた。

“自分には純白は似合わない”そう感じた。身につけた姿を想像するだけで、落ち着かなくなるのだ。逆に、香澄には純白のウェディングドレスが似合うと思った。







…………俺は、……最初は……香澄のカラダが欲しかったんだ…………




…………オンナと言えば、カラダにしか興味なかったしな…………




……初めて見た時……




…………俺は、アイツに釘付けだった…………




……欲しくなったんだ……




…………いつの間にか……純粋なアイツに……惚れちまったけどな…………




…………惚れたら、すべてが欲しくなった…………




……アイツの心も全部……




…………逃がさねーように…………




………アイツの笑った顔を見てられんなら………




…………ピエロにだって……ふっ……なってやるぜ?…………




…………白装束…………



…………上等だ…………




……柄にもねー事……させるんだよな……たいした女だぜ……




「白装束…一生に一回くらい恥さらしてやるぜ…………ふっ……」



司は、海堂に向かって言葉を投げた。




海堂は、無表情のまま言い辛そうに黙っていたが、口を開いた。



「私は……」



「……ックハハハハッ……その顔でやれ!ックックックッ……お前に誓う訳じゃねーし…ックックックッ」



付き合いの長い司は、海堂の無表情にも見えるその顔に感情がある事を知っている。なおさら笑いが止まらないようだ。“やりたくない”と書いてあるのだから。



「あの格好ですか」



「……ックハハハハッ…香澄のためだ、テメーも恥さらせ」



「……ック…道連れですか……まあいいでしょう。ドレスは、社長が選んだデザインで、(あね)さんが準備されています」



苦笑いの海堂だったが、司が正気に戻った事で胸を撫で下ろす。




海堂は、頭脳明晰。下條の“脳みそ”だ。どんな時も冷静沈着。

情に流される事はない。司も、海堂がいなければ、感情に任せて突っ走っていただろう。海堂から見れば、司も純粋だ。



その後、辛うじて無事だった鍋料理を二人で食べた。報告メールが入る度、司は、海堂の携帯を奪い眉をくねらせていた。海堂は、兄のような気持ちで、司を見ていた。






「海堂……冷やさなくて大丈夫か」



司は、今頃になって海堂とケンを殴り倒した事を悔いた。止める者がいなければ、とんでもない騒ぎになっていただろう。



「ええ。こんな顔で香澄さんの前には出れませんが」



「……そうだな。明日は俺が送り迎えする。……悪かった。俺も親父の血ぃひいてんだな……」



司は、頭に血がのぼり、自分で自分がコントロール出来なかった事に不安を覚えていた。海堂がいなければ、間違いなく橋本を引きずり回していた。今頃、橋本は……原形を留めていないだろう。




「白装束までには、見れる顔になりますよ」




「…………ックククッ……そのままの方が、誰だか分かんねーし良かったかもしれねーなぁ…………ックククッ…」




「社長、そろそろ一次会も終わ……」




海堂が急に話を止め、同時に司も息を止めた。




…………だれだ……?……



息を潜め、耳を澄ます。




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