居待月
―――立待月から
月は欠け―――――――
――――――居待月
そして、夜は明け、学祭当日の朝がやって来た。
早朝から準備のために大学に向かう香澄に、笑顔はない。海堂は約束の時間に迎えに来た。司の事を聞こうかと思った香澄だったが、抑揚のない海堂の口調に、“何も聞くな”とでも言われている気がして、何も聞けない。
結局、あのまま司は帰って来なかった。香澄は、一睡も出来ないまま、朝を迎えていた。明け方、司にかけた電話は繋がらず、送ったメールに返信はないままだ。
――司、心配だから、連絡して
届いたのかすら分からないメール。香澄は、得体の知れない不安に駆られながら後座席に無言のまま、ただ座っていた。
「帰りは、何時頃になりますか」
「……夕方には片付け終わるけど、明日の準備がどうなるか、まだ分からないんです」
香澄の曖昧な返答にも、海堂は表情一つ変えない。
「では、終わったら連絡を下さい」
「はい」
事務的に会話を終え、“何も聞くなオーラ”を纏ったまま、海堂の運転する車は、逃げるように去って行った。
そうして始まった大学祭。香澄は、朝からてんてこ舞いだった。
………司、何してるのかな………
忙しさの中で、考えるのは、司の事ばかりだ。
香澄を大学で降ろした海堂は、会社に向かっていた。
昨日、あの後――――
泣きじゃくるレイカを放って置けなかった海堂は、レイカが落ち着くまで、レイカの部屋にいた。
「ガッカリされちゃった……ははっ…………分かってたんだぁ…………司の顔、見てたら分かるって、ね?」
レイカは、おどけたように喋り出した。
「……社長は、中途半端が嫌いな人です。きっと、貴女のためを思って…………すみません、気休めしか……」
海堂は、レイカから顔を背けた。
「……はははっ……あ―――!!……泣いたら、すっきりした。……もう、絶対無理なんだって、分かったから、いいの……」
………うそだ…いいわけない………
……でも…これ以上………惨めになりたくない………
………あたし………強くなんかないのに……っ……
突然、莫大な借金を背負わされた時も、泣く泣く受け入れるしかなかった。突然、別れを告げられた今も、受け入れるしかないのだ。分かっていても、やりきれない。
…………それでも……生きていかなきゃいけないの?…………
レイカの稼いだ金は返済に消え、自由な金はない。唯一の温もりも、もう求めることすら叶わない。レイカは、唇を噛み締めた。
…………もしかしたら好きになってくれるかも……って……思ってたのにな…………
…………夢見てたけど……あたしじゃダメなんだって……思い知らされちゃった……
海堂は、レイカから離れた玄関付近に、ずっと立ち尽くしたままだった。強がるレイカに、かける言葉も見つからない。
「…………もっとズルイ男だったら良かったのに…………な~んて……はははっ……司よりイイ男、見付けてやるわ!…………」
……いないと思うけど……
………どうしようもない………
……人の気持ちだけは………
…………司がいてくれたら、他には何も要らないのに…………叶わない夢…………
レイカは、どのくらい時間がかかるか分からないが“前に進む努力をしよう”そう思った。
海堂は、そんなレイカに見送られ、朝方、部屋を出た。車を手配させ、二台で迎えに来た組員からキーを受け取ると、独りで、司のいるであろう海辺に向かった。
司は、レイカのアパートを出た後、宛もなく車を走らせ、結局その場所に辿り着いていた。聴こえてくるは、“ザザーン――ザザーン―”と打ち寄せる波の音。しばらく波の音を聴きながら、ぼんやり海を眺めていた。水面に映る月を見ながらも、脳裏にはレイカの姿。
………あれで良かったのか?………
……泣かしちまったな……
……ヒデェ男だよな………
司は、月に問いかけながら、答えを探していた。
正解などないのに――
“――ザザーン――サラサラサラ――――ザザーン――”
真っ暗だった空が紫色に変わる頃、月はまだ顔を覗かせていた。
“ザザーンザザーン”と打ち寄せては、“サラサラサラ”と引いていく波。司の脳裏に、ふと香澄の笑顔が過ぎり、司はコートの襟を立て、寒さに震えながら、車に向かって歩き出した。
……会社を出る前に、メールしたっきりだな………
レイカの話を聞いたらすぐに帰るつもりだった司は、“ちょっと遅くなる”とメールを送った。ちょっとどころか、ずいぶんと遅くなってしまった今、香澄にどう説明すべきか考えるも、弁解の余地はない。
車に戻りエンジンをかけ暖房を全開にすれば、曇ってゆくガラス越しに、だんだんはっきり見えてくる空と海。
………良かったのか、悪かったのか、今は考えても分からねーぜ……
電源の落ちた携帯を握ったまま、司は、水平線を見つめていた。
『あの世で幸司に会うまでは、分からないわね……』
司は、諒子が言っていた言葉の意味が、なんとなく分かる気がした。
……出来ることしか出来ねぇんだ……あたりめぇだけどな……
……香澄、怒ってっかな………
…………アイツは、怒るより泣く方か?……いや、……俺がいねぇと思って…………
…………くつろいで、……ぐーぐー寝てるか?…………ふっ……
………寝ずに待ってたりは………ねぇだろうな………
………香澄が起きてるとしたら、三時までだ………
司は、“寝ているであろう香澄を起こさないため”と言う言い訳で、連絡はしなかった。携帯の電源を切ったまま、帰る気になれなかったのが本心なのかもしれない。
朝日が昇り始め、月が沈みかけた頃、司は、再び車を降り、浜辺に向かって歩き出した。
………さっびぃなぁ…………
刺すような冷たい風に吹かれながら、頬も耳も感覚がなくなりそうだ。肩を上げ、ポケットに手をつっこんだまま、前屈みに歩く。“ザザーン―――サラサラ――”と打ち寄せる波の音を聞きながら、朝日に照らされた水面に視線をやる。
………香澄、今日から学祭だったよな………
不気味だった夜の海とは違い、淡い色に変わった水面。月明かりとは違い、巨大なエネルギーを感じる朝日。“ザザーン―――ザザーン――――サラサラサラ―”と繰り返す波だけは、単調に繰り返す。
司は、ふと気配を感じ、身構えた。
「モテる男はつれぇな!」
司は、そのまま海を見詰める。
「遅かったな、……」
司が言葉を発した時、海堂が腰を下ろした。男二人は、流木に座ったまま、目の前に広がる景色を見ていた。繰り返す波の音に耳を傾けたまま。
………レイカはどうなったんだ?………
………俺に、気にする資格はねぇな………
海堂は、司の隣で海に視線を向けたまま口を開いた。
「クッソさびぃとこに、ずっといたのかよ……昔はよく来たよな、…………脱走して……」
「……久しぶりだな……。お前のその口調も」
………懐かしいな…コイツと二人で滅茶苦茶してたからな……ふっ……
「……ハハハッ……ここにいる時だけだ……」
日々表情は違うが、波の音も海も、昔と変わりなくそこにある。海堂は、この場所にいる時だけ、素の自分を見せた。極道としての海堂も、秘書としての海堂も、どこか自分であって自分でない。司も、ここに二人でいる時は、昔のツレとして海堂に向き合えた。
二人は、“ザザーン――――サラサラサラ――サラサラ―”と繰り返す音と冷たい風に触れたまま、しばらく黙っていた。
辺りはすっかり明るくなり、司は、時計に視線を移した。携帯の電源は落としたままだ。
「香澄、送ってやってくれ」
司の言葉に、海堂は驚いた。
「……連絡したのか?」
「………………」
黙ったままの司に、海堂は、
「迎えに行くなら、もうそろそろだ。いいのかよ。今日から学祭だろ?」
前を向いたまま、司の様子を伺っていた。
「…………あぁ」
司は、情けない声を出していた。
………仕事で徹夜した事にするか………
………嘘は吐かねぇっつったばかりなのに…何やってんだ俺は……
………言い訳も思い浮かばねー………
海堂は、黙って立ち上がった。
「香澄さんを送ったら、私は会社に戻ります。白井の件は、片付きました」
いつもの口調に戻ったのは、深く追及したくないからだろうか。
「あぁ。俺は一旦帰って、飯食ってから出る」
司の言葉を聞き、海堂は、その場を離れた。
司は、香澄が学校へ行く時間を過ぎてから、マンションに戻った。鍵を開けて、中に入るが、
『おかえりなさい』
香澄の可愛い声はない。
…………当然か……俺……何やってんだろうな……
司は、まずはシャワーでも浴びて、すっきりしようと思った。が、すっきりするどころか、自分にイライラするばかりだった。
『……聞かないよ……司が言ってくれるまで』
いつか、浜辺で香澄が言っていた言葉が、司の頭の中を駆け巡っていた。
…………アイツ…妙に大人なところがあるよな…………
……黙ってれば、何事もなかったように、笑って暮らせるのか?……
………バレた時、余計に傷つけちまうんじゃねぇのか?…………
………バレなきゃいい…………ま、今まで俺は、そうやって生きてきた………
………“無検挙”なだけで、ヤバい事もしてきたしな………
…………どうすりゃいいんだ?…………
………学祭だったよな………
……白井は心配ねぇとして……愁は……
ふとテーブルを見れば、ラップをかけられた二人分の晩御飯が目に入る。司は、頭を抱えた。
………かすみ……飯食ってねぇのか?………
………あぁぁぁぁ―――――!!!!……俺を待ってたんだよな?…………っ……………
“ガンッ”
「………ッイテ………」
司は、力任せに壁を殴ったが、壁に殴られた気がした。
香澄は、午前中からずっと、奈津美と一緒に店番をしていた。昼も過ぎ、客も増えた頃……
「差し入れ持って来ましたよ~なつみさん」
「あ、あきら!!いいところに来たわ、あんたサイコー!!……店、頼んだよ~」
「は?……」
晃が持って来た“お好み焼き”と、“おでん”を奪った奈津美は、
「かすみ~、あたしお腹ペコペコ~!お昼食べよう!」
唖然とする晃を気にする様子もなく、香澄の手を引きテントから出た。
「晃くん、いいの?」
香澄は、呆気にとられながらも奈津美に問いかけた。学科の違う晃に、店番を押し付けるのは、申し訳ない気がした。
……奈津美と食べる気だったんじゃないの?……
「いいの!晃に任せとけば!」
………そ…うじゃなくて……いいのかな……
香澄が振り返って晃を見ると、晃は既にエプロンを着け、テントの中で接客をしていた。
………ごめんね………
香澄は、心の中で謝った。
香澄は今朝、朝御飯を食べずに家を出た。昨日準備した二人分の夕食を見ていると、独りで食べる気にはなれなかった。
……一晩司がいないだけで……こんなに寂しいなんて………
……司に愛想尽かされたら、わたし……どうなっちゃうんだろ………
今朝から何も食べていない香澄は、鳩尾あたりに痛みを覚えながら、奈津美に差し出された“おでん”をゆっくり食べていた。奈津美の話に相づちを打ちながら、平然を装っているつもりだったが、どこか上の空だった。
「あっち行ってみよ!白井におごらせるから!」
奈津美は、サークルや体育会主催の催しを行っている広場を指した。その言葉に、香澄はハッとした。そして、大事なことを思い出した。香澄の顔は、みるみる青ざめ、顔面蒼白……。
「…………っ……白井君に返事してない!!!」
………どうしよう…朝って言ったのに……もう夕方になっちゃうよ…………
……待ってもらったのは、こっちなのに…………
突然叫んだ香澄の言葉に、今度は奈津美が顔面蒼白していた。
「ちょ……ちょっと待って!!!……返事ってまさか……」
……白井…告ったの?……
奈津美は、あまりに急な展開に、頭を倍速に回転させていた。
……あの白井が?告った?………雪でも降るんじゃ………
香澄は、パニックになっていた。約束を守れなかった事に罪悪感を覚えながら、思わず言葉を発した。
「司にも聞いてないし………どうしよう…」
……今から司に、電話して聞く?………
………出てくれなかったら?………
香澄は、司に電話する勇気がなかった。
………怖いよ………
『歳上の彼女ができたんだ』
……あの時みたいに、急に司が去って行ったら……
愁に別れを告げられた時の事を思い出し、香澄は臆病になっていたのかもしれない。
………司が帰って来ない日なんて、初めてだし……
「香澄、司さんに言ってないの?」
奈津美は、信じられなかった。白井の行動も、香澄が司に言っていない事も。
………白井のヤツ、マジで告ったの?!………
「うん……昨日…………」
香澄は、言い辛そうに目を伏せた。
奈津美は、今朝から香澄の様子がおかしい事に気付いていた。香澄は、店番をしながら、ため息ばかりついていた。奈津美は心配しながらも、周りの目を考え、聞かないでいたのだ。
………白井に告白されたんだとしたら、何で迷うの?…司さんと……何かあった?…………
「昨日、何かあったの?言わなきゃ、分からないよ!」
奈津美に言われて、香澄は、ぼそぼそと話し始めた。昨日、司が帰って来なかった事。海堂が、今朝その事に触れようとしなかった事。
あの盗み聞きの事は、話さなかった。何故だか危険な話のような気がしたからだろう。
「……ハァ……朝までねぇ……で……それから電話はしなかったわけだ?……」
奈津美は、呆れたように言いながら、香澄の瞳をまっすぐ見詰めていた。
「……怖かった……徹夜で仕事してるかもしれないし…………邪魔しちゃいけないし……怒られたくないから……」
香澄は、目を伏せ、叱られた子供のように、奈津美に言い訳をしていた。
“忙しい時にかけてくるな”と思われるかもしれない、繋がらなければ、余計不安になる、待ち続ける事に変わりないなら、大人しく待っておこうと思った。
………本当は、女の人が一緒にいたらって………
…そんな事を考えると…
………ボタンが押せなかったんだよ…………
「……そっか、寝てないでしょ!目の下にクマ出来てるよ……大丈夫?」
……香澄の事だから、また……悪い方にばかり考えて………
奈津美は、香澄の考えそうな事を想像した。
………司さん、派手に暴れてただけじゃなく……
…………女遊びだって、派手だったらしいんだよね………
………香澄には言えないけどさ………
………信用出来るの?司さんって………
「……問い詰めたり、したくないんだよ……気になるけど……」
香澄は、司に嫌われたくない。面倒な女だと思われたくなくて、背伸びをしているのかもしれない。
「……う~ん……仕事だったのかもしれないしさ、……考え過ぎないようにしなよ!」
「……うん」
「香澄?司さんと、ちゃんと話した方がいいよ?……今日帰って来たら、話しなよ!」
「……うん…」
頼りない香澄の返事に、奈津美はそれ以上何も言えなかった。何を言っても、香澄があれこれ悩むのは目に見えている。
……二人の問題は………二人で話すのがいちばんだよ………
奈津美は心の中で、香澄にエールを送っていた。
………がんばれ!………
そして、白井の身を案じた。
………拉致られたりするんだっけ?………無事、生還出来るの?!………
奈津美は頭の中で、妄想劇を繰り広げていた。
「……奈津美は出るんだよね?……打ち上げ…………私、参加した事ないし、遠慮しようかな…………白井君に、今日の朝まで返事を待ってもらってたんだけどね…………」
…………?…………
………は?告ったんじゃないの?…………
奈津美は、拍子抜けしたような気分だった。
「打ち上げ?!白井に返事って、打ち上げの事?!」
思わず大声を出した奈津美だったが、頷く香澄に、早とちりでよかった、白井も無事だろうとホッと胸を撫で下ろす。
「……司さんに聞いて、明日返事でいいんじゃない?……白井には、あたしが言っとくわ。…もうこんな時間だし、……戻ろう?」
白井は今日、部活で出している店を手伝っていた。学科の出し物と部活の出し物と、両方ある学生は忙しいのだ。
「奈津美、ありがとう」
………司は、何て言うかな………
……司に早く会いたい……
………でも……こわいよ………
ちょっと長めの休憩を終え、二人は晃に謝りながら、店番に戻った。
客の切れ目にふと顔を上げれば、彼氏と仲良さそうに寄り添う女の子達。香澄は、羨ましさと寂しさを覚えた。恵理子がほとんど顔を出さなかった事が、せめてもの救いだ。香澄は、ホッとしながら、明日の準備を済ませ、学祭一日目は、どうにか無事に終了した。
白井には、明日まで返事を待ってもらえる事になった。もちろん、奈津美様のおかげで。
日は沈み、昼間の賑わいが嘘のように静まり返ったキャンパス内。月はまだ顔を見せない。奈津美が実行委員の打ち合わせから戻って来るのを待って、香澄は、海堂に電話をした。
そして、奈津美と晃と三人で、寒さに震えながら門まで歩く。奈津美と晃は、楽しそうに話をしていた。大学近郊に住む農家の老夫婦に、晃はずいぶん気に入られ、“おはぎ”をまとめて十個も買って行ってくれたらしい。老夫婦が再び戻ってきたと思えば、焼きそばやジュースを差し入れてくれたのだそうだ。
門に辿り着き、晃の話もネタが尽き、三人は香澄の迎えを待っていた。
「……そんなお通夜みたいな顔しない!!ね!かすみ……」
奈津美は、香澄を励ましていた。香澄はこれからの事が心配で、首を縦に振りながらも上の空だ。先ほどの晃の話も、耳に入っては来なかった。
…………司に会ったら…………わたしはどう振る舞えばいいの?…………
しばらく待っていると、海堂の運転する車が近づいて来て、いつもの場所に止まった。
「また明日ね!晃くんも奈津美も、ありがとう!」
精一杯笑顔を作っている香澄に、奈津美は心配しながらも、とびきりの笑顔を返した。
「じゃあね!」
香澄は二人に大きく手を振り、車に近付いた。
運転席の海堂の顔は、今朝と変わらず険しかった。香澄が後座席のドアを開けると、一日ぶりに見る司が、香澄を見上げていた。
……………!……………
驚きと戸惑いのせいか、心臓が大きく波打った。香澄の視線は、司に向いているが、司の顔は見えていない。目の前に膜が張ったような、不思議な視界のまま、車に乗り込んだ。
「おかえり」
「……た…ただいま…」
香澄は、司の隣に行儀よく座った。愛おしい人の声に安心しながらも、昨日の事が気になり、どうすればいいか分からない。肩には力が入り、ガチガチに緊張していた。“ドクン”また胸の奥が騒々しくなる。
司は、ルームミラー越しに海堂と目が合う度に、バツの悪そうな顔をしていた。
………あの男、誰だよ!!!………
司は、晃に手を振る香澄を見て、イライラしていた。
「香澄さん、明日は何時ですか」
海堂は、ミラー越しに司をチラチラ見ながら話し始めた。
「今日と同じで、お願いします」
「帰りはまた…」
「あ……打ち上げがあるかもしれなくて…」
香澄は、隣の司を見ないように、海堂に向かって言葉を吐いた。
「打ち上げですか、懐かしいです」
海堂と香澄が話している間、司は、顔をしかめながら、青くなったり赤くなったり忙しいようだった。海堂は、そんな司をミラー越しに見ながら、さらに言葉を続けた。
「……社長、私はどう致しましょう」
海堂は、その丁寧な言葉や声音とは裏腹に、意味深な笑みを浮かべながら司に視線を送っていた。司は、海堂の様子に、怒り狂いそうな殺気を必死に抑えていた。
司の大学時代、飲み会と言えば、オトコは酔ったオンナをどう口説くか、どうやって持ち帰るか、それが目的の大半を占めていた。行動に移す度胸のないオトコも、オトコには変わりない。司は、大学内のオンナには手を出さなかったが、もし香澄が当時の飲み会に参加していたらと思うと、ぞっとする。
………海堂のヤツ……覚えてろよ!………
「帰りは、俺が行く」
司はぶっきらぼうに言葉を吐き出し、顔を窓に向けた。香澄は、司の言葉を聞いて、司に視線を向けた。
司は、体を前に向けたまま、海堂の視線から逃れるように、顔だけを窓の方に向けていた。
………打ち上げ、行っていいの?………
香澄は、飲み会に参加した事がない。大学に入り一人暮らしを始めてからも、バイトを休めないため、いつも不参加だった。
「着きましたよ」
後座席の二人は、それぞれが考え事をしていたらしく、車がマンションに着いた事に気付いていなかった。海堂の言葉に、ハッとした二人は、慌てて車から降りた。司は一人で足早にエントランスへ向かった。
「海堂さん、ありがとうございました。お気をつけて」
お礼を言ってドアを閉めた香澄に、海堂は、窓を開け、
「香澄さん。社長を頼みます」
帰り際に、言葉を残して行った。
……どういう意味かな……
部屋に入ると、司はすぐにエアコンのスイッチを入れる。二人とも、コートを仕舞うため、いつものようにそれぞれの部屋に入って行く。
………無言って、こんなに気まずかった?……
司は口数が多い方ではない。今までと何も変わらないはずだが、何故か気が重い香澄だ。司は、昨日の事を聞かれたらどう話すか、考え込んでいた。
………アレだろ?!……
………『あなた、何処に行ってたのよ!』……とか言って怒り狂うんだよな?…
……仕事って言っとくのか?!……嘘つく方がいいのか?……
……正直に話すか?……………かすみは許してくれんのか?……
………過去は消せねーんだ…………
………知らねー方が幸せっつー事もあるんじゃねぇか?!………
………俺だって……あのノート……見てなけりゃ………
………いや……俺は香澄のすべてが知りてぇ……
司は、自分の部屋の中で自問自答を繰り返していた。
………あ"ぁぁぁ―――!!!!俺は、嘘が嫌いなんだ!!………
……香澄は、知らない方が……幸せか?……
……知りてーのか?………
………分かんねぇぜ………
香澄は、夕飯の支度を始めようとキッチンに立つ。
………あれ…?………
今朝、部屋を出る時テーブルに置いていた“生姜焼き”がなくなっている事に気付いた。炊飯器を開ければ、炊き込みご飯もほとんどなくなっていて、空に近い。
……司、帰って来たんだ……
香澄は、司がご飯を食べてくれた事に、ホッとしていた。今から、ご飯を炊く時間もない。今日は、ご飯もカレーも冷凍していた物で済ませる事にした。
サラダを作り、盛り付けを済ませ、学祭で作った“おはぎ”も、一種類ずつお皿に移した。
………つかさ、食べてくれるかな…………
……昨日の事……どうしよう………
………聞きたいけど、…
……ショックな事は…………聞きたくないな……
香澄は準備を終え、リビングに視線を移し、そこに司がいない事に気付いた。
………まだ部屋にいるんだ………
いつもなら、リビングのソファーにドカッと座り、くつろいでいるか、キッチンで香澄の邪魔をして回る司だ。
………呼びに行っていいのかな…………
香澄は、“仕事をしていたら悪いな”と思いながらも、“トントン”と軽くドアを小突く。
「ご飯できたよ」
…………?!………
司は、ドアの向こうから聞こえる香澄の声に、拍子抜けしていた。
…………は?…………
………かすみ、怒らねぇのか?………
ドアを開け、目の前の香澄を見れば、怒った顔すらしていない。司は、面食らって一瞬顔を強張らせた。そして、屈んで香澄の顔を覗きこんだ。
「カレー冷めちゃうよ」
司にまじまじと顔を見られて、香澄は首を傾げていた。
「あぁ……すぐ行く」
司は、一瞬寂しそうな顔をしたが、香澄は既にキッチンに向かって歩いていた。
………旦那が一晩、帰って来なかったんだぞ?………
司は、そこら中のモノが飛んできたりするのかと妄想していただけに、唖然と立ち尽くしていた。
………なんとも思わねぇのか?!………
……香澄は……浮気オッケーなのか?!………
……浮気はしてねぇけどな……アレは浮気じゃねぇ……
司は、追及されなかった事にホッとしながらも、複雑な心境だった。
………俺のこと……どう思ってんだ?………
……でも…笑顔じゃねーんだよな………っ…………さっきの男には、笑顔で手ぇ振ってやがったのにな!………っ………
………かすみが見えねぇぜ………
香澄は、昨日のことを聞く勇気がなかった。
……仕事かもしれないけど…………そうじゃなかったら……
ビールを冷蔵庫から出し、テーブルに置くと、司が部屋から出て来た。言葉を交わす事なく、夕飯を食べ始める。同じものを食べ、同じ時間に同じ場所にいるのだが、お互いの頭の中は別々の事を考えていた。
…………怒り狂うどころか、関心もねぇみたいだぜ?…………
司が昨日、連絡もせず帰らなかったのは、想定外だった。“帰らなかった”と言うより帰れなかったのだ。ご飯も食べずに待っていた香澄を思うと、司の胸は痛む。
…………アクビばっかりしやがって、寝てねーのバレバレだぞ?…………
司は、香澄に追及されるのも困るが、何も聞かれない事に寂しさを感じていた。
………変な女だよな………
「ねぇ……つかさ?」
突然香澄が、口を開いた。
………なんだ?…………
………ついに…キタか?……
司は、カレーを頬張りながら、心のアンテナを張り巡らせた。香澄は、神妙な顔をして、司を見詰める。
…………な……なんだよ…………
……別れたいとか言ったって、逃がしてやらねぇからな……
司は、香澄をチラチラ見ながらカレーを急いで食べ、香澄に空いた皿を差し出した。それを見た香澄は、言おうとしていたことを飲み込み、皿を受け取る。
「お代わり?」
「あぁ」
…………時間稼ぎにしかなんねーけどな………
……おちつけ!俺!……
香澄は、お代わりをよそおうため、皿を持ったまま立ち上がり、司に背を向けた。
「あのね?…………」
司は、顔を上げられず、俯いたまま固まっていた。“バクンバクン”と胸の奥が暴れだす。
香澄は、冷めてしまったカレーをもう一度温め直そうと、保存容器を電子レンジに入れる。司の様子など全く気づかぬまま、香澄は、ぼそっと呟いた。
「“半殺し”でいい?」
…………は?…………
………ハンゴロシ?………
……今、スゲー言葉、聴こえたぞ?!………
………香澄しかいねーはずだけど………
目を見開いたまま、司の顔は、青ざめていく。司にとっては、職業柄、珍しい言葉ではない。が、香澄の口から飛び出したことに面食らっていた。“バクン”と胸を打ちつけるよう音が聴こえるようだ。だんだん速く、重くなる鼓動。司の心臓がうるさくなった。香澄の背中を見たり、周りをキョロキョロしたり、司はパニックだ。
『“半殺し”でいい?』
司の頭の中で、香澄がさらりと言い放った言葉が、何度も繰り返されていた。壊れた蓄音機のように……
…………ハンゴロシ…………
…………まさか……レイカの事、……知って?…いや、…………そんなはずねぇ…………
心臓が波打つたびに体の中は熱くなるが、手足は冷たくなっていく気がした。レイカとの事が香澄の耳に入るはずはない。海堂が口を滑らさない限り。海堂が口を滑らすことはないだろう。
…………昨日、帰って来なかったからか?!…………
…………だからって、半殺しか?!…………
司は、我が耳を疑った。
…………幻聴か?………
「もう、“半殺し”に決めたんだけどね。“皆殺し”の方が良かった?」
「…………」
明るい声で平然と言い放つ香澄は、背を向けたままだ。司は、相槌も打てず言葉が出ない。
………“皆殺し”じゃなくて良かった……とか…そういう問題じゃねぇぜ?………
心臓が“バクン”と波打つ度に、何かが胸に突き刺さるような感覚を覚える。司は、動きにくい唇を必死に動かした。
「かすみ?」
「“潰す”のは大変だしね、腕が痛くなるし」
「かすみ…………ちょっと待て……」
「え?」
香澄は振り返り、司の顔を見た。
…………な……に…?…………
眉間にしわを寄せ、テーブルを見つめている司は、さっきとは別人のようだ。歪んだ眉を時々動かしながら、考え込んでいるようにも見えた。顔色も良くない。
「つかさ?どうかしたの?……具合悪いの?…………ドレッシング、不味かった?」
香澄は、恐る恐る聞いてみた。手作りのドレッシングは、あまり自信がなかったのだ。
「……いや、美味い」
司は、視線を上げることなく言葉を吐き出した。もはや味など判らないというべきだろうか。
「そう?」
……わたし……何か、変な事、言ったかな?……
…………説明不足?…………
電子レンジの音だけがその場に響いていた。メリーゴーランドのように軽快に回るカレーの入った容器。次第に温められ、食べごろを告げる合図を送る機会を狙っているかのようだ。
司の頭中では、香澄の言った言葉がクルクル回っていた。
…………今……潰すっつったよな?!…………
…………っ…………
「……つぶす…の…か?……」
司は、力なく呟いた。
「……っ…………そんな怖い顔しないでよ……半分だけ潰すんだよ」
平然と説明する香澄に、司は更に顔を強張らせた。
…………半分潰すって……
…………何をだよ!!…………
…………まさか…………
香澄は、顔をしかめたままの司をチラチラ見ながら続けた。
「全部潰したのを、“皆殺し”って言うんだよ」
…………全部潰すのかよ…………ムゴすぎだろ??…………
香澄は、司の顔がどんどん青ざめていくのを見て、焦った。
…………なに?……?……つかさ……どうしたんだろう……
「……お前、可愛い顔して、スゲー事言ってんぞ?…………」
…………実は、悪い女だったとか?……いや……香澄に限って…ありえねぇ…………
「…ご…ごめん……」
確かに、 “半殺し”などとは女の子が言うべき言葉ではないと、実家で躾られた。香澄は、反射的に謝っていた。
“チン”その場に似つかわしくない音とともに、電子レンジのうなり声が止んだ。香澄は、再び司に背を向け、容器を取り出し、カレーを皿に移し始めた。そして、お代わりのカレーをテーブルに置き、椅子に座る。
司は、お代わりには手をつけず、自分が“潰される”姿を想像してみた。
………それだけは、勘弁してくれよ………
お互い黙ったまま、しばらく視線を合わせていた。司は、幽霊でも見るかのような目で香澄を見つめ、香澄は、司の顔を不思議そうに見ていた。
先に表情を変えたのは香澄だった。急にハッとしたように息を吸い込む。
…………まさか…………
…………まさか……司、……“半殺し”って、……
…………“人殺し”だと思った?…………
……………!…………
「……ふっ…ははははっ……つかさ、もしかして……っはははっ…………」
しばらく顔を強張らせていた香澄だが、何か確信したような顔をし、次の瞬間、お腹を震わせて笑い出した。
…………は?笑い事じゃねーだろ?!…………
…………確かに、電話もメールも返さなかったのは、悪かったぜ?……でも……
…………電源切ってて気付かなかったんだ!!……
……潰すことはねぇだろ?……
…………昨日は俺、ヤってねーし、…無罪だ無罪!!!…………
「……っはははは……つかさ、人殺しだと思った?」
…………?!…………
「あぁ?……俺にしてみりゃ、殺されるのも同じじゃねーか?」
…………ったく、やれるもんならやってみろ!…………逃げも隠れもしねー!…………どうにでもしてくれ!…………
司は、腹をくくって、沙汰を待つ事にした。香澄は無邪気に笑っていた。その爆笑ぶりに、司は、密かに恐怖を感じた。
…………こいつは魔女か?…………
「あのね、司、……わたし、“おはぎ”を作ったの」
…………あ?…コイツの頭ん中、どうなってんだ?……
…………何で“おはぎ”の話に飛ぶんだよ!…………
「……これだろ?」
司は、テーブルに置かれた“おはぎ”を指差した。“だから何だよ”と言わんばかりの顔をして。
香澄は、司の瞳を見つめながら、にっこり笑った。そして、ゆっくりと口を開き、
「もち米を全部潰したのを“皆殺し”、半分潰したのを“半殺し”って言うの」
丁寧にゆっくりと、小さい子供に説明するように話した。
………は?…?!……
司は香澄と目を合わせたまま、しばらく固まった。思考回路がショートした。
「っふ……ごめん……っ……私、怖い事言ってると思ったんでしょ?」
香澄は穏やかな笑みを浮かべていたが、司は、頭を整理するのがやっとだ。
……どういうことだ?……………
……“もち米”ってなんだ?……
司は、ようやく動き出した頭を必死に回転させたが、意味は分からない。眉を左右非対称にくねらせ、眉間にしわを寄せたままの司を見た香澄は、もう一度、おはぎを指差しながら説明する。
「お米のつぶつぶを残してあるのが“半殺し”、この“おはぎ”は“半殺し”にしたんだよ」
香澄に優しく説明されたところで、頭が追いつかない司だ。かろうじて、料理の事だと言う事は理解できた。
……潰すのは、飯か?……
……“半殺しの刑”は“おはぎ”なんだよな?……
…………あぁ…ビビった…………俺が…オトコのシンボルが……潰されるかと思ったぜ…………
…………ったく……びっくりさせんな!!…………
司は、耳を赤くしながら、バツが悪そうに顔をそらした。
落ち着きを取り戻した司は、香澄が笑っていた理由も、ようやく理解した。“学祭で作ったおはぎは半殺しだが、それでいいか?”と香澄は尋ねたのだ。それを司は、“半殺しにされたいか?”と脅されたように感じた。オトコを潰される想像までしたのだ。
「……お前、笑い過ぎだ!……ったく…覚えてろよ…」
………料理の事なんか分かるかよ!!………
「……ごめん……っふははははっ……だって…………」
…………つかさ……死にそうな顔してたんだもん…………
司は、笑われて恥ずかしい気もしたが、“潰される心配”がなくなった事に安堵していた。そして、先程まで手をつける気にならなかったカレーのお代わりを食べ始めた。
……一杯目より数段美味いぜ………
司は、カレーを食べながら、耳だけ赤くしていた。
……オレ、まぬけだな……
……ところで、俺への審判は、どうなるんだ?…………
…………ま……かすみが笑ってっから、いいか……ふっ……
「つかさ、……っふははっ……ご…ごはんつぶ……ココ……」
香澄は、司の口の端に付いたご飯粒をとって、自分の口に入れた。
「…………」
………俺はガキか………
司は、子供の頃、諒子にそうして貰った事を思い出し、頬が緩んだ。香澄は、司を見詰めながら、箸が転げてもおかしい様子で笑っていた。
……コイツが笑ってくれるなら、……俺はピエロにだってなってやるぜ?…………
香澄は、司の食べっぷりを見ながら、何度も思い出し笑いをした。司は、開き直るしかないだろう。
…………あんな司の悲愴な顔……初めて見たよ…………
……つかさ、……おかしいよ?……
…………いくら何でも、……私が司を“半殺し”にできるわけないじゃない?…………
…………私が司に、…………力で……勝てるわけないし…………
香澄はその時、“司に、疚しい事があるからだ”とは、考えもしなかった。
香澄は、司がカレーを食べ終わった後、流しに皿を浸け、司と半分ずつ“おはぎ”を食べた。こみ上げてくる笑いを必死に抑えている香澄を見た司は、“いくらでも笑ってくれ”と言わんばかりの態度で、“おはぎ”を頬張っていた。口の中で皆殺しにしながら。
…………ったく……すぐにでも襲ってやりてー!!…………
オトコの征服欲だろうか、馬鹿にされっぱなしでは立つ瀬がない。司は、自分に疚しい事さえなければ、この場で香澄を組み敷いていただろう。
………拒まれたら?……立ち直れねーか……
司は、散々笑われながらも昨日の事が気になり、いつになく弱気になっていた。
香澄が流しで洗い物を始めたのを見て、司は、意を決して言葉を投げた。
「お前、先に風呂入れ!裸で待ってろよ!」
…………え?…………
突然の司の言葉に、香澄は動きを止めた。
「……でも」
「片付けは俺がやる」
……香澄の風呂は、なげーからな……待てねぇ……
「……もうちょっとだし、私やるよ」
………もうちょっとなんて、嘘だけど……
香澄は、何故だか素直に頷けなかった。“司がシたい事”は分かっていたのだが。
………昨日の事……結局、まだ聞いてない………
…………知りたいけど…………
…………知りたくないような…………
…………このまま流されちゃうのかな…………
……分かんないや……
司は、そんな香澄を見ながら、
「じゃあ、俺が先に入る」
ぶっきらぼうに言葉を吐き出し、部屋に下着やパジャマを取りに行き、バスルームに入って行った。
……クッ…あんだけ笑ったんだ、覚えてろよ!……
香澄は、洗い物を片付けながら考え事をしていた。
………打ち上げの事は、聞かなきゃ………
……無断外泊の事は?……
香澄は顔を曇らせた。さっきまで腹を抱えて笑っていたのが嘘だったかのように。逃げていた現実を突きつけられた気がしていた。洗い物を終え、司のビールを用意し、ソファーに座った。
…………“何してたの?”そう聞いて、…………“仕事だった”って言われても、……本当かどうかは、司にしか分からない…………
……もし、嘘だとしても……
…………わたしは…………
……そう言って欲しいのかもしれない……
香澄は、司の言葉を思い出していた。
『月の光みたいに欠けることのない愛をお前にやる』
“欠けない愛”はあるのだろうか。愛は目に見えない形のないもの。
司は、シャワーを浴びながら、頭の中を整理していた。
……かすみは呑気に笑ってやがるし……分かんねーな……
…………カラダに聞くしかねーのか?…………
司は、どこかよそよそしい香澄に気付いていた。だからこそ、昨日の事を真っ先に聞いてくると思っていた。
…………レイカの事は、バレてねぇみてーだけどな…………
司と関係があった女は、レイカだけではない。司は、顔も覚えていない女を含めれば、今まで数え切れないほど遊んできた。他の女達は、香澄や司に出くわす事がないよう“下條”を使って遠ざけた。
……俺の過去を知ったら、香澄は俺の事…………
……怒るより、黙って出て行きそうだよな……
…………怖いな…………
…………まだ“半殺し”にされてでも、赦してくれる方がマシだ…………
“疚しい事”“香澄への罪悪感”司の心は、再び深い悩みの海へと堕ちていった。
そして司は、霧がかかったような気持ちのまま、バスルームを出た。
…………呑気に寝てやがるぜ……ふっ……
…………可愛いよな…………
司が見つけたのは、ソファーで眠っている香澄だった。パッチリした目も閉じられている。微笑んでいるような穏やかな顔。無防備なその姿に、司は頬を緩めた。
………純粋なお前に、俺の過去が赦せるか?……
司は、香澄の寝顔を愛おしそうに見詰めた。
…………寝かしてやらねぇつもりだったのにな…………
……コイツ、……ふっ…風邪ひいたらどうすんだ……
司は、ビールを冷蔵庫にしまい、香澄を抱えて寝室に向かった。
香澄をベッドに降ろし、パジャマに着替えさせても、全く目覚める様子はない。
…………昨日…寝てねぇもんな…………
……っ…仕方ねぇか…………俺も寝てねーし……
イタズラをしても全く起きる気配のない香澄に、ふっと笑みを漏らしながら、布団を被せ、自分も横になった。
カーテンが閉まっていて、司は気が付かなかったが、窓の外には十八番目の月――
居待月が、雲の隙間から顔を覗かせていた――――
ここで“おはぎ”について補足させていただきます。
“ぼたもち”とも呼ばれる“おはぎ”は、あんこやきな粉でコーティングされた、お彼岸に食べるお菓子です。
“お萩”→萩は秋の植物。
“牡丹餅”→牡丹は春の植物です。
季節で呼び方が変わったり、地方によって違いがあるようです。
夏や冬も呼び方があるようです。
お餅をつくような音がしない事から、“つき知らず”
→“月知らず”
→日本(北半球)では月は北には出て来ない
→月を知らないのは“北窓”。
冬は“北窓”と呼ばれるそうです。