立待月
月は満ち、満月を過ぎ、欠け始めたある日――――
海堂は、調査資料を持って社長室に入った。
「……香澄、もてるんだな…」
司は、資料に目を通しながら呟いた。その抑揚のない声音に、海堂は身震いする。香澄が愁と別れてから今までの期間、ちょっかいを出す男が数名、告白した男が数名。結果は玉砕。男達のその後も調査済みだ。
しばらくして、動いていた司の瞳がピタリと止まり、眉を歪めた。海堂が視線を辿ると、当たって砕けた男ではなく、現在進行形で想いを膨らませる男の情報に行き着いた。そのうち文字から煙が立つのではないかと思うほどの鋭い眼差しが、一点に刺さっている。
「香澄さんは、しっかりされていますし、奈津美さんが一緒にいるようです。その男も、密かに思っているだけのようですし、さほど問題はないかと」
海堂は、“野上愁を思い続けていると噂があるからだ”と言いかけて、言葉を飲み込んだ。司の顔は、みるみる険しさを増し、眉間にシワを寄せ、眉を非対称にくねらせた。 その射るような眼差しは、紙を離れ、海堂へと向かう。
……問題ないだと?!……
………俺の許可なく、勝手に香澄に惚れてんじゃねーぞ!………
………っ……どうしてやろうか…………
「ヘタレだろうと男は男だ!何かあってからじゃおせーんだよ!!!」
司から滲み出る殺気を感じた海堂は、
「分かりました」
言葉を発し、頭を下げた。
………あたりめーだろ!悪い虫は、付く前に排除だ!!……
………クソッ…毎日学祭の準備で一緒だと?!…誰の女だと思ってやがんだ!!………
「あぁ。二度と近づけねぇように、釘刺しとけ!!」
「はい」
海堂は、頭を下げたまま出口に向かい、社長室を出た。
………あぁぁぁ―――!!!!……俺も学生に戻りてぇ――――!!!………
司は、香澄に思いを寄せる男“白井”に、苛立ちを覚えた。
………愁だけじゃねーのかよ…………
学祭を明日に控えていた香澄は、準備を手伝っていた。香澄達は店を出し、“おはぎ”とも“ぼたもち”とも呼ばれるお菓子を販売する。実家が農家だと言う学生から米や小豆を分けてもらい、足りない材料だけを買い出しに行き、分担して作る。
“おはぎ”は、作ってから時間が経つと固くなるため、販売の前日、若しくは当日に作ることになっている。昨日は、“小豆班”が自宅で“あんこ”を作り、今日は、“お餅班”が“もち米”と“うるち米”を炊飯器で炊き、炊き上がった米をついては丸めていく作業をしていた。皆で協力し合い、夕方までにはある程度の数が出来上がった。
奈津美は、実行委員の集まりがあるため、途中で抜けて行った。教授の話、サークルの話、恋の話、いろんな話が飛び交う中、同じ“小豆班”の恵理子が香澄に声をかけた。
「ねぇ、彼氏が昼から来るの、店番変わってくれない?」
「いいよ」
司が来るわけでもないので、香澄は快く引き受けた。
「ありがと~う!朝霧さん。最近、雰囲気変わったよね?話しやすくなった。香澄ちゃんって呼んでいい?」
「うん……あ…ありがとう、…」
あまり話したことのない恵理子に戸惑いながらも、香澄は、ホッとしていた。
……一日中店番してる方がいいかも………
奈津美は、実行委員というのもあり、『自由にまわる時間はないかもしれない』と言っていた。先ほどから聞いていれば、まわりの子は、彼氏や彼女と一緒に過ごすらしく、香澄にとっては目の毒だ。
………奈津美は、晃君とまわりたいんじゃないかな…………
あれこれ思いながら片付けをしていると、着信を告げるメロディーが鳴り始めた。
パアーッと笑顔になった香澄は、周りがどんな様子でいるかなど気にする余裕もなく、すぐに携帯を開いて耳に当てた。
「もしもし?…………学祭の準備してる……………………え?……あ……してない……ごめん………………うん、もう終わったから、…………うん…………分かった」
周りの学生達は、電話を切った後もニコニコ笑っている香澄をじっと見つめていた。白井が鋭い視線を投げていた事は、誰も気付かない。
香澄は、海堂への連絡を忘れていた。『遅くなるようなら連絡を下さい』と言われていたのだ。時計を見ると、約束の時間を十五分も過ぎている。海堂を待たせてしまった事に罪悪感を感じた香澄は、“早く帰らないと”、そればかり考えていた。
「彼氏から電話?…香澄ちゃん、彼氏いなかったよね?」
突然、恵理子に声をかけられ、香澄は驚いた。我に返り、問われた事をもう一度自分の中で繰り返す。
恵理子は、香澄に意味深な眼差しを向けながら、一歩近づいた。
今朝から、“彼氏が出来たのかな”“先輩とよりが戻ったのかな”“指輪、見せつけてくれるよね”などと、自分が噂話のネタにされていた事など、香澄は知らない。
………彼氏?!…じゃなくて、旦那だけど…………
香澄は、恵理子に詰め寄られながら、どう答えるべきか考える。その眼差しから逃げるように目を逸らした。
………どう答えても、嘘になるよね…………
……本当の事、言えたらなぁ………
ちらりと視線を上げると、恵理子の目はますます鋭くなったようだ。香澄は、何か言わないと帰れない気がした。
……どうしよう……
「…………好きな人……」
香澄は、迷った挙げ句、そう答えた。
………嘘じゃないし………
「先輩と連絡とってるんだ」
…………え?…………
恵理子は、香澄の好きな人が未だに元彼の“野上愁”だと思っているようだ。当然と言えばそうなのだが、香澄は、恵理子の言葉にどう答えるか困ってしまった。
……違うって言えば、誰なのか詮索されそうだし……
……恵理子の周りの女の子達にまで、問いつめられそう……
………司のこと……言えないし………………
……愁先輩だって言えば、詮索はされないけど、…………嘘になる……
「……より戻してたの?」
香澄が答えを探している間も、恵理子の追及は続いた。
………違うんだけど…………どうしよう……
「雰囲気変わったし、最近、いつも笑ってるし」
恵理子は、香澄の沈黙を、肯定の返事だと思っているようだ。
「……っと…愁先輩じゃないよ。…最近知り合った人」
香澄は、嘘をつけなかった。が、この先の追及に耐える自信もない。恵理子の反応にビクビクしていた。
「学祭来ないの?付き合ってるんでしょ?」
興味津々な眼差しで、周りの女の子達も寄って来た。恵理子は、香澄の左手の薬指をまじまじと見ている。“香澄の薬指に指輪”ならば、彼氏だと考えるのが自然だろう。結婚していなくとも、彼女達の間では、カップルが左手の薬指に指輪をしている事は珍しくない。
白井は、遠目に香澄を見つめていた。
ここにいるほとんどが、香澄の指輪に気付いている。“付き合っている”と言えば、更に追及されるだろうと思った香澄は、苦し紛れに曖昧な返事をした。
「付き合ってるのかな?分からない。学祭は来ないよ」
…………“来ない”って……口に出すと……余計……さびしくなっちゃった…………
香澄は、恵理子に視線を向けてはいるが、どこか遠くを見ていた。恵理子は、真新しい情報に胸を躍らせ、
「もしかして社会人?」
次々と質問を投げていく。知りたくて仕方がない様子だ。
「うん。仕事があるみたい」
香澄は、“自分には社会人の好きな人がいる”そういう事にしようと思った。恵理子は、ますます香澄の“好きな人”に興味が湧いたらしく、また何か言おうと唇を動かした。
名前は?写真見せて?どこの会社?何歳?……聞かれるであろう質問に、どうすればいいか、香澄の胸はざわめくばかりだ。
「……えっと……ごめんね、もう帰らなきゃ…………また明日ね」
香澄は、持っていた携帯をカバンに入れると、逃げるようにその場を後にし、海堂の待つ門に向かってひたすら走った。
……明日から大変だ………
……言ってしまいたい………
………司は、私の大切な人……
……いろんな経験をしてきた、頼れる旦那様………
……隠さなきゃいけないような人じゃない……
……でも、…価値観はそれぞれ違うし……軽蔑する人だっているかもしれないんだよね………
香澄は、司から『下條司になってから、友達に距離を置かれた』と聞いている。
……奈津美も言わない方がいいって、言ってたし………
『言ったら、友達減るぞ』
香澄は、司の言っていた言葉を辿った。元々、沢山友達がいる訳ではないが、“奈津美に迷惑はかけたくない”香澄は、そう思った。
そう、香澄の相手が極道者だと知れたなら、奈津美までが皆から距離を置かれてしまうかもしれないのだ。
「朝霧さん」
…………?!…………
必死に走っていた香澄は、急に呼び止められ、足を止めて振り返った。
…………白井くん?…………
白井は、慌てて帰る香澄を走って追って来たようだ。膝に手をつき、息を整えながら、香澄を見上げた。
「……ハァ……打ち上げ、来れるよね……」
白井は、笑顔で尋ねる。打ち上げは、学祭二日目の夜だ。バイトはないが、香澄は即答できない。
「あ……ごめん…………分からない…………明日返事する、じゃダメかな……」
“司に話してからでないと返事は出来ない”そう思い、香澄は、申し訳なさそうに言葉を落とした。
「……じゃ、明日の朝まで待つよ!」
白井は、笑顔のままだ。白井は、誰に対しても愛想が良い。香澄は、白井の言葉にホッとしながら、
「ごめんね」
と頭を下げた。そして、頭を上げながら再び走り出した。
………海堂さん、ごめんなさい………
香澄は、海堂に心の中で謝りながらも、頬は緩んでいた。
『今日は早く帰るからな』
電話の最後に、司がそう言ったからだろう。
海堂に送られ、マンションに帰った香澄は、砂糖がないことに気付いた。慌ててカバンだけを持って帰ったため、砂糖を入れた袋を忘れて来たのだ。
………昨日も砂糖持って帰るの忘れたのに……
香澄は、昨日も砂糖を忘れて帰ったのだ。昨日は、家にある砂糖で賄えたが…。
………どうしよう………
香澄は、取りに戻ろうかと思い、迷ったが、
『帰ったら、外に出るんじゃねーぞ』
司に言われた事を思い出し、水に浸しておいた小豆を鍋に入れ、火にかけた。
………ここにある砂糖で、どうにかしよう…………
水を替えたり差し水をしたり、鍋の見張りも大変だ。
……洗濯もしたいんだけどな………
香澄は、洗濯機を回しながら、コンロを片方占領された状態で司の夕飯も作り始めた。
………早く帰って来ないかな………
香澄は、時計を頻繁に見ていた。
香澄は、諒子とメールのやり取りをするようになっていた。あんこの作り方も、諒子から教わった。今日のメニューは、コンロが一つしか使えないため、炊き込み御飯とサラダと生姜焼き。
後は肉を焼くだけのところまで下準備を終えた。小豆の鍋を見張りながら、司の帰りを待っていた。
数回に分けて砂糖を加えるが、砂糖は結局足りなかった。家にある物でどうにかしようと思い、代用できそうな物を探していた。
その頃、司は―――――
「社長、……私が行きます。今日は早く帰ってあげて下さい」
海堂は、香澄が、『今日は早く帰れるみたい』と、嬉しそうに言っていたのを思い出し、司を帰らせようと思った。司は、ここ一週間、毎晩のように帰りは午前様だ。
「……俺に話があるんだろ?……すぐ終わるだろ……」
司は、『出来ることはしてやる』自分の言った言葉を思い出し、レイカに会いに行くつもりでいた。
……話を聞いてやるくれぇしか出来ねーけどな……
「私も同行させていただきます」
海堂は、“司を独りで行かせない方がいい”、そう思った。レイカは、ここ数日、仕事を休んでいる。海堂は、何故か胸騒ぎがしたのだ。
司と海堂は、レイカのアパートに着き、ドアをノックした。反応がないため、海堂がドアに手をかけた。二人は、鍵のかかっていないドアを開け、部屋に入る。
そこで二人が見たレイカは、以前のレイカとは別人のように変わっていた。あちこちに酒の空き瓶が転がり、几帳面なレイカには有り得ない程に部屋は散らかっていた。
司の顔を見た途端、レイカは嬉しそうに微笑み、司に近付きながら話し始めた。
「つかさ~……来てくれたんだぁ~……嬉しい……」
司も海堂も、レイカの様子に、目を見開いていた。
………本当にレイカか?!…………
レイカは、休みの日だろうと司が来る時は、バッチリ化粧をし身なりも整えていた。美容のために、日々の生活には気を遣っていた。カラダをはって仕事をしていたのだから。レイカの仕事はクラブだけではない。“借金を返して美容師の資格をとる”そのために昼夜問わず働いていた。
そんなレイカとは、まるで別人だった。スッピンで泣き腫らした顔は、痛々しく、司はつい、“大丈夫か”そう声をかけそうになった。
「社長に直接話があるとおっしゃいましたが、どういったご用件でしょうか」
海堂は、すぐにいつもの冷静さを取り戻し、司より先にレイカに尋ねた。
「そんな…怖い顔しないでよ……いいじゃない…………会いたかったの…………」
一瞬海堂に視線を移したレイカだったが、すぐに司に微笑みかけた。そして、椅子やテーブルに掴まらないと立っていられない様子で、ゆっくり二人に近づいて来た。
「そう言うことなら、失礼致します。社長……」
「割り切った、…………大人の付き合いって、…………ははは……そう…………演技…してたけどさ、……」
レイカは、海堂の言葉を遮って話し始める。
「……あたしは……んき…………っ……………………ほ…んきだったんだよ……ック…」
かなり酔っているのか、ふらふらと時々後ろに下がりながら、レイカは司に向かって歩いて来た。何度もバランスを崩し、転けそうになりながら。
涙を流しながらも、必死に頬を上げようとしてるレイカを、司は、呆然と見ていた。
「……つか…さは…さぁ?!……っ…………重いオンナは……抱かないでしょ?………………ック……だか…らね…………あたしは…………遊んでる…ふり…してたんだよ……ははははっ…………」
泣いているのか笑っているのか、投げやりになっているレイカを、男二人はただ見ているだけだ。
「…あたし……バカみたい…………っ…………ヒック……う……」
レイカは司に本気だった。それが司にバレれば、別れが待っている、そう感じていたレイカは、遊んでいる振りをして来た。
“次はいつ会える?”などとは決して言わない。事が済めば、“あたしは朝早いから”と司に帰るよう促した。同時に関係のあるオトコがいるように匂わせた。独りで寂しく泣いていたなどとは、思いもしないだろう。
“別れ”を突きつけられ、一度は納得した。納得しようとしたのだ。だが、どうしても忘れられなかった。“生きるため”だけにひたすら働くレイカにとって、司との逢瀬は、唯一の幸せ、“生きている”と感じられる束の間の温もりだったのだ。
「…………何でもするから、…時々抱いてくれるだけでいいから………………捨てないでよ…………」
レイカの声は、さっきまでの投げやりな言い方から消え入るような声に変わり、その声音は司の胸に響いた。
レイカは、毎晩酒を呑み、司の事を諦めようとした。だが、いくら呑んでも涙は止まらない。一生分の涙を使い果たしたかと思う程泣いても、涙は枯れてくれない。
酔っ払っていなければ、言えない。酒の勢いを借りて、司に思いをぶつけていた。
………最後になるなら、……言わせて?……
部屋の中をふらふら歩きながら、虚ろな目をしているレイカ。司は、その姿を見ていると胸が痛くなり、見ないように眼を逸らした。
…………同情か?………
………責任って何だ?……
……俺は……どうすればいい?!………
そんな司の横で、海堂は、冷静にレイカを見つめていた。
レイカは、立っているのも辛くなったのか、向きを変え、ふらふらとベッドの側に向かった。そして、ドスンと音を立てて横になり、顔を司の方に向けた。
洋服と言うよりは、下着に近い姿で、司を見上げながら、
「……わがまま…言わないから……」
消え入るような声を出した。
「……そばに…置いてよ………………独りは…もう…堪えられないの……」
レイカは、縋るような眼差しを司に向けていた。その儚げな姿に、司は胸が締め付けられそうになった。
レイカは、幼い頃から苦労をして来た。司は、それを知っているだけに、言葉が出なかった。父親が死んでいた事を知ったところで、返済が免除されるような真っ当な金融機関から借りた金ではない。司がしてやれたのは、人間でいられなくなるような地獄に落とされないよう、手を回した事くらいだ。
……………っ……………
……っ……俺は……どうすればいい………
「社長、お帰り下さい。ここは、私が」
海堂は、司が情に流されないようにと思い、そう告げた。が、司はレイカに近付いて行った。
そして、
「テメーふざけた事ぬかしてんじゃねぇぞ」
司の低い声が、狭い部屋の中に響き渡った。
海堂は司の横顔を見て、目を見開いた。哀しみでも怒りでもない、挑発でもない、感情を押し殺したような表情が、モノクロ写真のように見えた。
レイカは、司の罵声に驚きながらも、手元にあった枕を司目掛けて投げつけた。
………あたしのことなんか…………どうでもいいんでしょ?………………
「……なによ……あたしなんか……どうせ…」
鳴き声混じりに言葉を吐いた。
「あぁあぁ!ガッカリだぜ。…………身ぃひとつで、誰にも頼らず生きてきたんだろ?!…………んな…『どうせ』とか言ってんじゃねぇ!!…んな女、俺が愛人にするわけねぇだろ!」
司の怒鳴るような声音に、一気に酔いが醒めたレイカは、目を見開き、司を見ていた。ぼんやりとしていた視界は、はっきりとしてきたが、頭の中は混乱していた。
司はレイカから視線をはずし、言葉を吐き捨てた。
「俺の知ってるレイカはな!もっとイイ女だったぜ!」
司は、唖然とするレイカと海堂を気にすることもなく、部屋を出た。
“バタン”無情な金属音と共に、
「ぅわぁぁぁぁぁあ――っ!!……ぅぐ……っふ…ぐぅぅぁあぁぁあぁぁあ―――!……………」
レイカは大声を張り上げて狂ったように泣き叫び、その悲痛な声は、アパート中に響き渡った。
外に出た司は、寒さにブルッと震えながら、自分のした事が良かったのか悪かったのか、考えていた。レイカの叫び声を聞いていられるはずもなく、海堂を置き去りにしたまま車に乗り込み、エンジンをかける。何処へ行くという宛もなく、ただ車を走らせた。
空には立待月、十七番目の月が、見え隠れしていた――
………香澄、待ってんだろうな………
司は、帰る気になれず、更にアクセルを踏み込んだ。
その頃香澄は……
早く帰れると言った司を待ちわびていた。何かをしていないと落ち着かないため、先に風呂にも入った。生姜焼きも焼き、皿に盛り付けもした。
……何かあったのかな…………
既に、学祭用の“あんこ”も、作り終えていた。結局家中を探し回り、ヨーグルトの付属品やコーヒー用のシロップやスティックシュガーまで総動員して、小豆を煮詰めた。
司に帰りがけに買って来て貰おうかと、電話を手にしたが、何故か電話をしない方が良い気がして、ひたすら待つことにしたのだ。
………つかさ…遅いな………
……どうしたんだろう………
……仕事?………私の知らない世界のこと?………
ご飯を食べる気にもなれず、酎ハイを片手に窓から月を眺めていた。司の無事を祈りながら……
――ちょっと遅くなる
司から、そんなメールが来たのも、三時間以上前だ。
………司の“ちょっと”は、五時間くらいって意味なのかな………
………そうでも思わなきゃ、泣きそうだよ………
司はこのところ、帰りが遅かった。だが、今日は、早く帰れると聞いていただけに、香澄は心配だった。司は、香澄に仕事の話をしない。
………まだ知らない事ばかりだな………
香澄の不安は募るばかりだった。
『早く帰るからな』
そう言われた時、香澄は、飛び跳ねるくらい嬉しくて幸せだった。心が温かくなり、司に早く会いたくて、待っている時間も、物音がする度にドキドキしていた。
………それも幸せなのかな………待ってる時間も…幸せ?……
香澄は、司を思いながら、心の中で月に話しかけていた。
……帰ってくるよね?……
………きっと……仕事だよ………
空には、立待月――
満月を過ぎれば、月の出は遅れる。日没後、月の出を待つ間、立って待てると言われる“立待月”。
満月より少し欠けたその月が、雲に隠れる度に、不安になりながら―――