38話 餓鬼道
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全体的に赤黒い色彩の異空間。見つめれば見つめるほど吐き気を催しかねないほどの色彩と平衡感覚を狂わされる足場がアテネ達に襲い掛かる。
しかし、二人は自らの意志の強さでそれらをねじ伏せた。
アテネは鎌型法具グリフィンを、ほむらは炎の拳を握り締めて召喚した『火炎処女』を引き寄せた。
これから何が起きるか。
それはアテネにもほむらにもわからない。
しかし一つだけ明確にわかっていることがある。
これから餓鬼の反撃が始まるということ。
呪いや絶望や障気といった負のエネルギーが集まってできた空間の穴、鬼が創り出す異世界、それが“谷”。
“谷”は鬼が獲物を捕らえるために作り出し、時に蜘蛛の巣のように獲物が勝手に引っかかるのを待つために使い、時に蟻地獄のように獲物を引き摺り込むのに使われる。
“谷”を作るには、まず始めに鬼が自らの魔力を削って空間に罅を入れて異空間を創り出し、自らの魔力でその空間を満たすことによって“谷”が完成する。“谷”はその創り出す鬼によってその特色が変わり、基本的にその鬼の性質を端的に表わしたものになる。炎を操る鬼であれば燃え盛る炎ばかりの炎獄の“谷”、影を扱う鬼であれば一面が闇に包まれた存在の希薄・消滅させる“谷”といった感じになる。
鬼にとって“谷”とはそういったものだ。しかしこの“谷”を使うのは下級を少し超えたあたりから中堅にあたる鬼達のみだ。下級の鬼には“谷”を生み出すだけの魔力がないからだ。一方でなぜ上級の、特に七つの大罪クラスやその幹部クラスの鬼は“谷”を使わないかと言えば、速度と信頼性に欠けるからである。これらの鬼が相手取るのは基本的に魔法少女である。魔法少女は魔力の扱いに精通し、通常の人であれば脱出不可能な“谷”を突破するだけの力を持つ。“谷”の強度はそれに注ぎ込んだ魔力の量に比例し、どれだけ魔力を注いでも自身に魔力強化施す方が強度は高くなる。また、“谷”自体に攻撃力はなく、せいぜい使用者の魔法を補助する役割がある程度だ。機動力に優れる魔法少女と戦うには分が良くない。つまりは“谷”を創るよりも別のことに魔力を使った方がいいという訳だ。
そうであるはずなのに、餓鬼はここで“谷”を創り出した。
これは何を意味するか。
餓鬼がとる行動はただ一つ、反撃である。
それであるなら、その反撃とは……
「♓おおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
突然の咆哮。
アテネとほむらは一瞬びくりと体を竦ませるものの、すぐに持ち前の精神力で心の片隅に生じた恐怖を叩き潰した。
「かかってきなさい」
ほむらのぼつりと呟いた言葉に反応してなのか、少し先に姿を現した餓鬼の姿が何重にもぶれる。
「逝け、我が半身よ」
餓鬼の声が厳かに上下左右至るところへ響き渡る。その声が響き渡る間も餓鬼の姿はいくつも、いや何十にも分裂していく。気が付けば餓鬼は何百もの姿へ分け放たれていた。
分身というのが正しいのかといえば正確には正しくないのだが、どれをとっても餓鬼の姿形をそのままコピーしたままだった。同じ顔が何百もそろっている様子は圧巻というべきか、狂気の沙汰だった。
「これは厄介」
ほむらはぐっと手のひらを握り締める。
隣にいる『火炎処女』は創造主であるほむらを気遣うそぶりを見せながら両手を餓鬼の集団へ向ける。
「メイデン、やって」
ほむらの言葉にこくんと頷き、『火炎処女』は厳かに詠唱を始める。
赤い魔法陣が『火炎処女』の足元で大きく輝き、ゆっくりと魔力を充填していく。
魔力の影響を受けて小さな炎がちらほらとかすかに燃え上がり、火の粉がぱらぱらと輝きを見せる。
「私も、行くわ」
ほむらと『火炎処女』の様子を見て、アテネも魔法を準備する。
集団を一掃できるだけの大規模魔法を。
口内に魔力を収束させ、ある一点まで魔力を凝縮させた状態で解き放ち爆発させる魔法。
その名も『竜の吐息』。ドラゴンにしか使えない魔法である。本来なら『竜の力』を意図的の暴走させた最終形態としてドラゴンの姿を取らないとうまく発動できなかった魔法だが、修練を重ねた結果規模を多少抑えた形で発動できるようになった。
「全てを燃やし尽くせ! 『蒼炎壊塵』」
「すぅーぅう! 『竜の吐息』」
ほむらとアテネの声が重なり、蒼き炎の塊と黄金の風が解き放たれ餓鬼の集団へ襲い掛かった。
「ぎゃぁぁああ!」
「ぐぉおあおお!」
「ぬぉおおおぃ!」
悲鳴を上げて餓鬼たちは次々と消滅していく。さすが大規模魔法といったところか。『イージス』を使えるのであればなんとか耐えることもできるが、すでに『イージス』を打ち破られしばらく使えなくなっている以上ほむらとアテネの魔法攻撃を止められる者はいなかった。
「さすが、といったところでしょう。お見事ですよ」
『蒼炎壊塵』と『竜の吐息』の猛攻に餓鬼の集団が軒並み文字通り消し飛ばされる中、一人本体である餓鬼が悠然としながらぱちぱちと手を打った。
「ですが、その魔法はそうそう連発できるものではないでしょう。それでは、私の軍団を破ることはできませんよ」
餓鬼がぽんと柏手を打つと、その後ろにずざざっと餓鬼とそっくりの分身が何百と現れた。
餓鬼が“谷”である『餓鬼道』を発動した理由。
それは七つの大罪という鬼の最高峰である餓鬼の膨大なる魔力を使った物量作戦で、いくら強いとはいえ魔力は餓鬼の足元にも及ばないほむらとアテネを圧倒する。それが目的だった。
『餓鬼道』
餓鬼にしか使うことのできない荒業。自らが収集してきた魂に魔力を注ぎ込み、自らの肉体・多少の魔力を与え、餓鬼の姿を取る兵士として運用する魂を汚す魔法。たとえどんな低レベルの魂でも関係なく、餓鬼の肉体の情報をその魂へ上書きさせ、餓鬼と同じだけの肉体スペックを持たせる。餓鬼の肉体のスペックは他の七つの大罪の鬼達と比べかなり低いが、それでも中堅の鬼以上のスペックを持つ。一体では魔法少女を倒せなくても何体も、何百体も用意すれば倒すことも容易である。これも全てたくさんの魂と膨大な魔力を持つが故にできる荒業だった。
「くっ……これはめんどうくさい」
「そうね……何度も『竜の吐息』は連発できないし。ここは近接戦に切り替えるしかないかな」
「それだと、こっちの体力が切れるのが先になる。ある程度魔法で削りつつ、ってことになる」
「わかった。ならっ!」
アテネは自らの中に流れる魔力をきゅっと肩甲骨の上あたりに流し込み、新たな魔法を組み上げる。
ほむらも拳の炎を勢い良く燃え上がらせ虚空から炎の剣を取り出し、『火炎処女』は両掌にいくつもの炎の球を生み出した。
「『竜の靭翼』!」
アテネの背中から太古の翼竜プテラノドンのような広々とした翼が生えた。翼には頑丈そうな鱗がびっしりと生えており、アテネはその翼を力強く羽ばたかせた。本来なら羽ばたくのではなく滑空するのに向いている翼の形状だが、魔法の力を得たこの翼にはそんなことは関係なく辺り一帯に旋風を吹かせた。
「これで、嬲るっ!」
アテネは翼を勢いよく羽ばたかせ、餓鬼たちへ飛んでいった。
翼には魔法陣を展開して、自動的に魔法弾が撃てる仕様になっている。
グリフィンで斬りかかりながら、翼で移動・銃撃をかますというのがアテネの考えた戦法だ。
機動力を強化したアテネと違い、ほむらは炎剣を振りかぶり餓鬼へ斬りかかる。周りに炎を撒き散らしながら自分の陣地を広げ、敵を蹂躙していく。斬りそこなった敵は『火炎処女』が炎球を撃ちだしとどめを刺していく。
アテネとほむらの二人は、膨大な数の敵を前にして臆することなく立ち向かっていく。
たとえ叶わないと心のどこかで思っていても。
魔法少女達は希望を求めて前へ前へ突き進む。
そんな様子を見ながら餓鬼は一人ほくそ笑んでいた。
『餓鬼道』は現在の餓鬼であればほぼ無尽蔵に分身を創り出せる。
もう勝ちは見えていた。
どんなにほむらとアテネが頑張ろうとも、それはいつ二人が力尽きるかの違いでしかなかった。
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「くそっ……俺では力になれないか」
「神内君は十分頑張ったよ。後は見守るだけだよ」
悔しげに顔をゆがませる真理に天女のように慰めるあかり。
「それはわかっているんですけど……」
「二人が帰ってくるのを待とうよ」
あかりは内心の不安を押し込めながらそう言う。一番自分が心配しているのに、それを隠して真理を宥める。
そんな二人の後ろからこつこつぱたぱたと足音が聞こえてきた。
「ん? 誰だ?」
「ぅーん……なんか二人組だね」
真理とあかりは後ろを見るが、まだ視界には入ってこない。
そうして待っていると、見たことのある顔がそこにいた。
「やぁ、神内君。それと九条君だね」
「が、学園長! それと隣にいるのは……舞島先生!」
「どうしたんですか、その格好は?」
そこにいたのは海道左袒と教頭の舞島凛だった。
海道は右腕を懐に入れて、出ている左手はゴリラのように大きかった。舞島は狐の特徴を顕著に表わした姿だった。
「格好も何も凛君は妖狐だからね」
「本来の力を出しているだけです」
その言葉に真理とあかりは互いに顔を見合わせた。
「妖狐……ですか」
「私、初めて見た」
「いや、そうだろ。妖狐といってもここまで力を持っているのはフェル、いや凛君しかいないからね」
海道はどこか誇らしげにしていた。
「さて、これが『餓鬼道』、つまりは“谷”だね」
「えぇ、おそらくそうです」
「そうか」
海道は目の前にある空間のゆがみをじっと見つめた。
「よし、行こうか」
「了解です」
「あの、俺たちも行きましょうか」
真理がそう言うと、すぐに海道は首を振った。
「いや、君たちはここで待っているといい。すぐに戻ってくる」
「あ、はい」
海道と舞島は空間のゆがみに手をやり、“谷”の中へ入っていった。
それを真理とあかりはただ見ているしかできなかった。
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「はっはっは。それで終わりか」
餓鬼がどこからともなく声を高らかと上げる。
「くそっ、自分はどこかに逃げやがって」
「これはきつい。そろそろ危ない」
アテネとほむらは互いに息を荒げながら得物を振り上げた。
戦闘が始まって何十分か。その間ずっと餓鬼の分身集団と戦い続けた。そのせいでほむらとアテネの体力は限界に近づいていた。
魔力はほむらはまだなんとか残っているが、アテネの方は限界が近かった。
「いつ力尽きるのかな?」
「舐めやがって……!」
「いい加減、死んで欲しい」
二人は心身ともにぼろぼろでなんとか気力だけで戦っている状態だった。近づいてくる餓鬼の分身を切り裂き、魔法を撃ちこむ。攻撃の気配があったらそこから空いた空間へ飛び下がり、反撃する。ただそれだけのルーチンワークを淡々とこなしていた。どのように戦っていくか、考えることさえできなかった。
「……ん?」
そこで餓鬼はふと真剣な表情を浮かべる。
何か別の存在がこの“谷”の中に侵入してきたことが分かったからだ。
「まさか……」
「そのまさかだ!」
「速い……」
気配を感じたと思えばすぐに声が聞こえてくる距離まで接近されたことに餓鬼は驚いていた。
「俺、参上だ」
「私もいますわよ」
その二人の姿を餓鬼は認めた。
「サタン……!」
元七つの大罪『憤怒』と七つの大罪『暴食』がこの場でようやく対面することになった。
初めの失態を灌ぐべくサタンは自らの武器を取り出す。
「お前を裁きに来たぜ」
海道は獰猛な表情を浮かべながら朗々と言い放った。