妹の縁談のために「今年だけ笑って家族の肖像画に座れ」と言われたので、顔は描かせませんでした
「今年の絵に、お前も入れ」
十年で初めて、父がわたしの顔を見て言った言葉だった。
その朝も、わたしはいつものように広間の肖像画を拭いていた。
ベルドラート家の広間には、十枚の家族の絵が掛かっている。一年に一枚。謝肉祭の初日に覆いを取って、客に見せる絵だ。名門の家々がそうするので、十年前、商いが大きくなったころから、父も同じことを始めた。
拭くのは、わたしの仕事だった。
柔らかい鹿の革で、上から下へ。ニスの表面に細かいひびが走っていないか、額の角がゆるんでいないか、窓から入る潟の湿り気で、絵の具が浮いていないか。気になるところを見つけたら、帳面に書きつけて、年の暮れに工房へ送る。左上、指一本分の割れ。右の角の金箔が剥げかけ。去年より青が沈んだ。
十年、そうしてきた。
どの絵でも、継母の左の同じあたりだけ、革の下でかすかにでこぼこする。画布の癖なのだろうと思っていた。一枚目から十枚目まで、場所が同じなのは、同じ工房が同じ画布を使うからだろう、と。
継母の左には、決まって金の額が一つ描かれている。中に何も入っていない、空の額。絵はこの広間で描かれるから、壁の額がそのまま写るのだ。
その額は、いまもわたしの背中の壁に掛かっている。父が「名門の名簿に家の名が載った年に、その年の絵を入れる」と言って、十年前に掛けたものだ。ベルドラートは額縁と金箔の商家で、この額は父が自分で選んだ最上の一つだった。
だから毎朝、わたしは十枚と、空の額を一つ拭く。
絵の日には、わたしは灯りを持って立つ。画家の手元を照らす役目だ。継母の左、ちょうど空の額の前に。
そして、仕上がった絵を見ると、そこには誰もいない。
最初の年のことは、よく覚えている。九つだった。新しいドレスを着せてもらえなかったので、いちばんましな紺の服を自分で選んだ。画家のジャコモ様は、白い髭の、無口な人だった。わたしに灯りを持たせ、継母の左に立たせ、炭で何度もわたしのほうを見ながら描いた。見られている、と思った。わたしも絵に入るのだ、と。
謝肉祭の初日、覆いが取られたとき、わたしは客の後ろから背伸びをして、自分を探した。
父がいた。継母がいた。継母の膝に、六つのビアンカがいた。継母の左には、壁の空の額が描かれていた。
わたしは、いなかった。
継母のドナテッラ様は、その夜に言った。
「修道院へ行く娘は、家の絵に描かないものなのよ。名門ではそういう習わしなの」
ヴェレンツァの名門は、財産を分けないために、長男のほかは修道院か商館へ送る。うちは名門ではないけれど、父は名門のすることなら何でも真似た。わたしは謝肉祭が明けた朝、修道院へ入る。持っていくものは、母の形見の指輪だけ。母のことは、何も覚えていない。わたしが一つのとき、熱病で死んだ。指輪の内側に彫られた名前で、母を知っている。
拭き終えて、革をたたんだときだった。
父の使いの者が、書斎へ来るようにと言った。
◇
書斎には、父と継母がいた。
「ビアンカに、コンタレッロ家から縁談が来た」
父は机の上の手紙を指で叩いた。声が弾んでいた。
コンタレッロは仮面職人の大家で、謝肉祭を仕切る名門だ。名門と縁を結べば、ベルドラートも名門の名簿に載る日が近くなる。父の、十年来の望みだった。
「ただ、ヴァレンティナ様が条件をつけてこられた。今年の家の絵に、家の者を一人残らず描け、とな。ベルドラートは前妻の娘を奥に隠している、という噂を耳にされたらしい」
父は、そこで初めてわたしを見た。
「だから、今年の絵に、お前も入れ」
「コンタレッロ家は、仮面の下の顔を見せた家とでなければ縁を結ばないの」
継母が、静かに言い添えた。
「家の絵は、家の素顔ですもの。だから今年だけ、あなたも絵に入りなさい。真ん中に座って、笑っていればいいわ」
今年だけ。
「謝肉祭が明けたら、予定どおり修道院へ。それは変わりません。分かるわね、ルチア」
「はい」
答えながら、わたしは、自分の胸が鳴っているのに気づいていた。
今年だけでもいい。一枚だけでもいい。家族の絵の中に、わたしがいる。修道院の冷たい部屋で、その一枚を思い出せるなら、それでいい。
そう思ってしまった。
書斎を出ると、廊下にビアンカがいた。立ち聞きしていたのだろう。十六になったばかりの妹は、金色の巻き毛を指に巻きつけながら、わたしの顔をうかがった。
「お姉様も、絵に入るのね」
「今年だけ」
「……そう」
ビアンカは何か言いたそうに口を開き、それから、ぱっと笑った。父に似た、明るい笑い方だった。
「エンリコ様ってね、仮面を外すと、そばかすがあるのよ。謝肉祭の舞踏会で一度だけ見たの。内緒よ」
そう言って、ビアンカは駆けていった。
毎年、絵の真ん中で笑っている妹だ。笑うのが上手な子だと、わたしはずっと思っていた。
三日後、工房から画家が来た。
ブルネッリ工房の親方は、秋に亡くなっていた。十枚を描いた先代のジャコモ様だ。来たのは息子で、マッテオと名乗った。二十四。背が高く、指先に絵の具の染みがついたままの人だった。
「父が描いた絵は、ここに全部あるんですね」
マッテオ様は広間を見回して、十枚の前でしばらく黙っていた。一枚ずつ、近づいては離れ、額の縁に指をかけて傾きを確かめた。十枚目の前で、首をかしげた。
「この額は、毎年同じ場所に描いてありますね。奥方様の左に」
「あの額です」
わたしは、壁の空の額を目で示した。
「家の看板のようなものだと、父は言っています」
「看板」
マッテオ様は、壁の額と絵の中の額を見比べた。何か言いかけて、やめた。それから、わたしに目を向けた。
「工房の掟は、見たものだけを描くことです。今年はもう、ほかの皆さんは描き終えてあります。あなたを、奥方様の左に描き入れます」
わたしは、継母の左に立った。いつもの場所だった。ただ、今年は灯りを持たなかった。両手が空いていて、どこに置けばいいのか分からなかった。
炭が紙の上を走る音だけが、しばらく続いた。
肩、腕、手。ドレスの裾。下描きの最後に、マッテオ様は手を止めた。
「笑ってください」
わたしは、口の両端を上げた。
マッテオ様は炭を持ったまま、わたしの顔を見ていた。長いあいだ、見ていた。
「それは、見たことのない顔です」
「……すみません」
「謝ることではありません。描けない、というだけです」
その日、マッテオ様は顔を描かずに帰った。
夜、鏡の前で、わたしはもう一度笑ってみた。鏡の中の女は、口の端を上げているだけだった。
笑い方を、知らなかった。
それに、わたしは気づいてしまっていた。描かれる理由は、わたしではない。ビアンカの縁談だ。
◇
「顔の下描きは、工房で」
マッテオ様にそう言われて、わたしは十日目から工房へ通うことになった。
継母は渋い顔をしたけれど、縁談のためだと言うと黙った。一人で家の外へ出るのは、ほとんど初めてだった。
ブルネッリ工房は、運河を二つ渡った先の、古い石の建物にあった。中へ入ると、膠と油とテレピンの匂いがした。描きかけの絵、修繕を待つ絵、額だけ、画布だけ。壁という壁が、絵で埋まっていた。
マッテオ様は無口な人だった。椅子を勧め、窓の位置を直し、炭を削る。話しかけてもこない。けれど、壁の絵についてわたしが一つ尋ねると、止まらなくなった。どの家の誰が、何年に描かせたか。この赤は高い虫から取る赤で、だから百年たっても沈まない。この青はすぐ灰色になるので、父はもう使わなかった。
「すみません、つい」
「いいえ。聞いていたいです」
本当だった。
座っているあいだ、マッテオ様はときどき、炭を止めて訊いた。
「疲れませんか」
「慣れています。絵の日には、いつも立っていましたから」
「立って?」
「灯りを持って。先代のジャコモ様の手元を照らすのが、わたしの役目でした」
マッテオ様の炭が、紙の上で止まった。
「……父は、毎年、ベルドラート家から戻ると、しばらく口をきかなかった。仕事のあとはいつもそうだと思っていましたが」
それきり、マッテオ様は黙った。わたしも、何も言わなかった。
「工房の掟は、父が決めたんです」
しばらくして、マッテオ様は言った。
「若いころ、名門の当主に頼まれて、病で痩せた奥方を、肥えた頬に描き直したことがあったそうです。奥方は亡くなって、その絵だけが残った。誰も覚えていない顔が、壁に掛かっている。それから、見たものだけを描くと決めたと」
「いい掟ですね」
「父は、守っていたはずなんです」
そのときは、その言葉の重さが分からなかった。
三日目の午後、マッテオ様は棚の奥から木の箱を出してきた。
「父が、これを捨てるなと言っていました」
蓋を開けると、紙の束が入っていた。見覚えのある字だった。
左上、指一本分の割れ。右の角の金箔が剥げかけ。去年より青が沈んだ。
「ベルドラート家から、毎年暮れに届いていたものです。父は、この字の人にいつも礼を言っていました。名門の家でも、絵の具合をここまで見ている者はいない、と。誰が書いているのか、一度会ってみたかったと」
わたしは、紙の束から目を上げられなかった。
「……わたしです」
マッテオ様は、しばらく黙っていた。
それから、わたしの手を見た。鹿の革と蝋で荒れた指先を。
「そうでしたか」
その声が、思っていたよりずっと柔らかかったので、わたしは困ってしまった。
十年、あの家で、わたしの書いたものを読んだ人はいなかった。読んで、礼を言ってくれた人がいた。毎年わたしに灯りを持たせていたその人は、書いたのがわたしだとは知らないまま、わたしを探していた。
マッテオ様は気まずくなったのか、修繕を頼まれた古い絵を一枚、壁から下ろした。
「面白いものを見せます」
鎧戸を閉めて部屋を暗くし、灯りを一つ、絵の真横に置いた。正面からではなく、画面すれすれに、横から。
絵の上に、細かな影が生まれた。絵の具の盛り上がりが、山脈のように影を落としている。そのうち、男の肖像の右手のあたりに、もう一つ、別の手の形が浮かんだ。
「描き直しの跡です。画家が手の位置を変えて、上から塗った。色は消えても、絵の具の厚みは残る。横から灯りを当てると、それが影になる」
「下にあるものが、見えるんですか」
「形だけですが。絵は、下に描いたものを覚えています」
帰りの小舟の上で、わたしは指先を見ていた。
気がつくと、明日も工房へ行く日を、待っていた。
◇
その夜、家じゅうが寝静まってから、わたしは燭台を持って広間へ下りた。
十枚の絵が、闇の中に並んでいた。
一枚目の前に立ち、灯りを絵の真横に置いた。画面すれすれに。
継母の左。いつも、革の下でかすかにでこぼこしていたところ。空の額の前。
影が、輪郭になった。
小さな肩。細い腕。両手で、何かを胸の前に掲げている。灯りだ。灯りを持った、子どもの姿。
九つの、わたしだった。
二枚目へ移った。同じ場所に、少しだけ背の伸びた娘がいた。三枚目。四枚目。灯りを持つ手の位置が、一枚ごとに高くなる。髪が伸び、肩の線が変わる。
五枚目の娘は、肩に何か掛けていた。輪郭だけでも、分かった。十三の年、絵の日の朝に寒くて、ビアンカのお下がりの肩掛けを借りたのだ。継母に見つかって、絵の日に勝手なことをしないでと叱られた。
あのとき、わたしは確かにそこにいた。
七枚目の娘は、灯りを少し傾けていた。十五の年、ジャコモ様が「もう少し右を」と言ったので、腕がしびれるのを我慢して傾けた。あとで、ジャコモ様が小さな声で「ありがとう」と言った。絵の中で、誰にもありがとうと言われたことのないわたしに、あの人だけは言った。
そして、塗った。
十枚目には、十八の娘が立っていた。
どの娘も、灯りを持っていた。自分の手元ではなく、画家の手元を照らす灯りを。
燭台を持つ手が、震えた。
いなかったのではない。
描かれていた。描かれて、そのあとで、塗り消されていた。十年、毎年。わたしの背中にあった壁の色で。空の額は、わたしを塗った絵の具の上に描かれていた。
十年分の「いない」が、十年分の「消された」に変わった。
どれくらいそうしていたのか分からない。後ろで、床の軋む音がした。
寝間着のビアンカが、戸口に立っていた。灯りが見えたのだろう。
「お姉様……?」
ビアンカは近づいてきて、わたしの隣で絵を見た。灯りの横で浮かび上がっている輪郭を。
しばらく、ビアンカは何も言わなかった。
「……お姉様、ここにいたのね」
わたしは、返事ができなかった。
◇
翌朝、わたしは工房へ行って、見たことを話した。
マッテオ様は話を最後まで聞くと、黙って奥の部屋へ入り、革表紙の帳面を抱えて戻ってきた。先代の仕事の控えだった。
ページをめくる指が、途中で止まった。
十年前の冬の欄。ベルドラート家、年の肖像。
その下に、先代の几帳面な字で書かれていた。
――長女の姿、描いてのち塗る。奥方の指図。塗り代、奥方より別に。
次の年も、その次の年も、同じ書き込みがあった。十年分。
マッテオ様は長いあいだ、帳面を見下ろしていた。
「父は、見たものを描いて」
声が掠れていた。
「売ったものを塗った」
工房の掟は、表では守られていた。絵の具の下で、売られていた。
「父は、毎年、まずあなたを描いた。見たものだから。それから、金をもらって塗った」
マッテオ様は、帳面を閉じた。指が白くなるほど強く。
「痩せた奥方を肥えさせた絵を、父は一生恥じていた。それなのに。それより、ずっとひどいことを、十年」
わたしは、ジャコモ様の小さな「ありがとう」を思い出していた。あの人は、自分の塗る娘に礼を言っていたのだ。描いて、塗って、礼を言って、また次の年に描いた。
それが慰めなのか、もっと悪いことなのか、わたしには分からなかった。
「名門の皆さんに、このことを――」
「言わないでください」
自分でも驚くほど、すぐに声が出た。
「どうして」
「……まだ、分かりません。でも、言わないでください」
マッテオ様は、わたしの顔をじっと見て、それから頷いた。帳面の十年分の書き込みを紙に写して、わたしに渡してくれた。わたしはそれをたたんで、胸元にしまった。
それから、わたしは左手の指輪を外した。
母の形見。修道院に納めるはずの、わたしのただ一つの持ち物。
「お願いがあります」
指輪を、作業台の上に置いた。
「十一枚目を、わたしのために描いてください。家の絵ではなく、わたしの絵を」
マッテオ様は指輪を見て、わたしを見た。
「これは、修道院の」
「はい」
「本当に、いいんですか」
「いいえ。でも、決めました」
自分の口から出た言葉を、わたしは自分で聞いていた。決めた。わたしが。
「寸法は、あの空の額に合わせてください。内寸を書いておきます。額の溝は深めなので、画布の厚みは気にしなくていいです」
額縁屋の娘だ。毎朝拭いている額の寸法なら、目をつぶっても書ける。わたしは作業台の紙の端に、縦と横の数字を書きつけた。
マッテオ様は、ほんの少しだけ口元をゆるめた。それから真顔に戻って、指輪を手に取った。
「代金として、お預かりします」
施しにしない人だった。わたしは、そのことが嬉しかった。
「それと、もう一つ約束します。家の絵のあなたの顔は、あなたが本当に笑うまで描きません」
それから、マッテオ様は作業台の端に指輪を置き、新しい紙を一枚、広げた。
「どう描かれたいですか」
そんなことを訊かれたのは、生まれて初めてだった。
わたしは少し考えて、答えた。
「灯りを持って」
「灯りを」
「十年、持っていましたから。でも、今度は、誰かの手元を照らすのではなくて」
わたしは、言葉を探した。
「わたしが見たいものを、照らしているところを」
マッテオ様は頷いて、炭を取った。その日から、家の絵の顔を描かない時間に、わたしの一枚の下描きが始まった。
わたしの一枚のためには、マッテオ様は「笑ってください」と一度も言わなかった。灯りの高さを直し、拭き布を肩に掛けるかどうかを二人で迷い、結局掛けた。わたしが何を見ているかを訊き、わたしが答えると、黙って描いた。
描かれるというのは、こういうことだったのか、と思った。見られるだけでなく、訊かれること。
工房を出て、運河の橋の上で、わたしは指輪のない左手を見た。
修道院への道は、もう閉じていた。
◇
謝肉祭の五日前、父が工房へ来た。
顔のところだけ下塗りの色のままの絵を見て、父は声を荒らげた。
「何をぐずぐずしている。披露まで五日だぞ」
「笑った顔を、まだ拝見していませんので」
「笑った顔など、適当に描けばいいだろう」
「見たものだけを描くのが、工房の掟です」
「掟だと?」
父は鼻で笑った。
「仕上げなければ、ヴェレンツァの名門のどこにも、ブルネッリの工房は出入りできないと思え。名門の披露に穴を開けた工房を、誰が使う」
マッテオ様は何も言い返さず、黙って頭を下げた。
「前夜までに、仕上げてお届けします」
「当然だ」
父は、壁に立てかけてあったもう一枚の下描き――灯りを持ったわたしの一枚――の前を素通りした。目にも留めなかった。父は、見ない人だった。
帰りの小舟で、父は一度もわたしを見なかった。
その夜、継母がわたしの部屋へ来た。
十年で、初めてのことだった。
「笑えないのですって?」
継母は椅子に腰を下ろし、灯りの向こうからわたしを見た。
「ルチア。笑いなさい」
「……」
「笑えば、修道院はやめにしてあげる」
息が止まった。
「コンタレッロ家と縁ができれば、名門の方々とのお付き合いも増えるわ。あなたにも、いい家を探してあげる。ベルドラートの娘として、嫁げるのよ」
ベルドラートの娘として。
十年、いちばん欲しかった言葉だった。家の絵の中の席。家の娘としての未来。修道院の冷たい部屋ではない、どこか。
継母の声には、初めて聞く本気があった。わたしを動かそうとしているのではない。本当に、そうしてやろうと思っている声だった。
「あなたが笑えば、全部うまくいくの。ビアンカも、旦那様も、あなたも」
継母は、わたしの指に指輪がないことに気づかなかった。十年、わたしの手を見たことがなかったから。
継母が出ていったあと、しばらくして、戸が小さく叩かれた。
ビアンカだった。
「入ってもいい?」
ビアンカは寝台の端に腰かけて、膝を抱えた。
「毎年ね、絵の左が一人分、空いてるのに、気づいてたの」
小さな声だった。
「お母様に訊いたら、額の位置がそうなっているのよって。でも、絵の日には、お姉様がそこに立ってるでしょう。灯りを持って。だから、変だなって、ずっと思ってた。思ってたのに、言わなかった」
「ビアンカ」
「ごめんなさい」
ビアンカは膝に顔を埋めた。
「わたしの縁談のために、笑わないで。……でも、お姉様が笑ってくれたら、わたしはお嫁に行ける。どっちも、本当なの」
わたしは、妹の背中に手を置いた。
十六の妹は、自分のずるさを、自分で口にした。わたしは十九にもなって、まだ何も口にしていない。
ビアンカが出ていったあと、わたしは胸元の紙に触れた。
帳面の写し。奥方の指図。
これを出せば、わたしは正しかったことになる。
◇
謝肉祭の前夜、マッテオ様は絵を広間へ運び込んだ。
覆いを外したイーゼルの上に、家族がいた。父、継母、ビアンカ。まだ誰も座らない、真ん中の椅子。そして継母の左に、わたし。ドレスの襞まで描き込まれた、わたし。
顔だけが、下塗りの色のままだった。
灯りは一つ。壁には十枚の絵と、空の額。
マッテオ様は筆を取り、パレットに肌の色を練った。
「今、笑ってくだされば、描けます」
静かな声だった。
「笑ったふりなら、私には分かります。でも、描けと言われれば、描きます」
わたしは、マッテオ様の顔を見た。
この人もまた、掟を曲げる覚悟をして、ここに来たのだ。父の工房を、自分の代で潰さないために。わたしが一言、描いてくださいと言えば、この人は描く。
「工房には、弟子が三人います」
マッテオ様は、パレットに目を落としたまま言った。
「名門の仕事がなくなれば、春までに二人は暇を出すことになる。……あなたに言うことではありませんが」
「いいえ。聞いておきたかったです」
この人は、自分の重さを隠さなかった。隠せば、わたしが選びやすくなると分かっていて。
笑えば、全部手に入る。
家族の絵の中の席。ベルドラートの娘として嫁ぐ道。ビアンカの縁談。マッテオ様の工房。
笑わなければ、わたしには何も残らない。修道院へ入る指輪は、もうない。家にはいられない。マッテオ様の工房は名門の仕事を失う。
そして、笑えば。
わたしは、十年消されてきたことを、愛されていたと呼ぶことになる。今年だけの席を、ありがたく受け取ることで。
胸元の紙が、重かった。
十枚の絵の中で、灯りを持った娘たちが、塗られた壁の下で立っていた。
わたしは、自分の頬に触れた。
「顔は、描かないでください」
マッテオ様の筆が、止まった。
「わたしは、この家で笑ったことがないので」
胸元の紙は、そのままにした。
マッテオ様は、長いあいだわたしを見ていた。それから筆を置いた。
「では、見たとおりに」
マッテオ様は、絵に覆いをかけた。
その夜、わたしは眠らなかった。夜が明けるまで、十枚の絵を一枚ずつ拭いた。この家での、最後の朝の仕事として。空の額も、いつもより丁寧に拭いた。
拭きながら、塗られた娘たちに、一人ずつ話しかけた。声には出さずに。
九つのあなた。紺の服で、背伸びをして自分を探したあなた。十三のあなた。肩掛けを叱られたあなた。十五のあなた。腕がしびれても灯りを傾けたあなた。
明日、あなたたちを、皆に見せる。
誰が塗ったかではなく、あなたたちがいたことを。
◇
謝肉祭の初日の宵、ベルドラート家の広間は仮面で埋まった。
金の仮面、羽根の仮面、黒い天鵞絨の仮面。名門の当主たちが、扇の陰で囁き合っている。奥の席に、白い仮面の女の人が座っていた。コンタレッロ家の女当主、ヴァレンティナ様。隣に、ビアンカの相手のエンリコ様。
父は上機嫌だった。継母は落ち着いて客に笑いかけていた。ビアンカは青い顔をしていた。わたしは、家族の列のいちばん端に立たされていた。灯りは持っていなかった。
「皆様。今年の、ベルドラート家の顔をご覧に入れます」
父が覆いの紐を引いた。
布が落ちた。
広間が、静まり返った。
家族の絵の真ん中、継母の左に、ドレスを着た娘が立っていた。
顔がなかった。
髪も、首も、耳飾りまで描かれているのに、顔のところだけが、平らな下塗りの色だった。
誰かが、仮面の下で息を呑んだ。
「……仮面の都でも、顔のない娘の絵は初めて見たな」
さざ波のように、囁きが広がった。
「ベルドラートの娘は、顔も描けないほどの病なのか」
「いや、隠していたのは、そういうことか」
噂が、噂を呼んだ。誰も、わたしのほうを見なかった。列の端に立つ娘と、絵の中の顔のない娘が、同じ人間だと思わなかったのだろう。
父の顔が、赤くなり、それから白くなった。
「ブルネッリ!」
父は、広間の隅に控えていたマッテオ様に詰め寄った。
「これは何だ。今すぐ描け。客の前で恥をかかせる気か」
「見たものだけを描くのが、工房の掟です」
マッテオ様は、まっすぐに父を見た。
「この家で、この方の笑った顔を見た者はいません。私も、まだ見ていません」
広間の誰もが、わたしを見た。
わたしは、列を離れた。
壁の燭台から、灯りを一つ取った。手が震えないように、両手で持った。十年、そうしてきたように。
一枚目の絵の前へ行き、灯りを絵の真横に掲げた。
仮面の客たちが、何事かと近寄ってくる。
継母の左、空の額の前に、影の輪郭が浮かんだ。灯りを持った、小さな娘。
誰かが声を上げた。
わたしは二枚目へ移った。三枚目、四枚目。一枚ごとに、灯りを持った娘の背が伸びていく。広間のざわめきが、一枚ごとに大きくなる。
十枚目の前で、わたしは振り向いた。
「わたしは十年、この家の絵の中にいました」
自分の声が、広間の天井まで届いた。
「消されていただけです」
父の顔から、色が引いていった。父は、知らなかったのだ。十年、覆いを取った絵を一度見るだけで、わたしがどこに立っていたかも、見ていなかった。
「誰が、こんなことを」
名門の誰かが言った。
「塗ったのは、私の父です」
マッテオ様が、前へ出た。
「ブルネッリ工房が、十年、塗りました」
ざわめきが、別の色に変わった。マッテオ様は、それ以上は言わなかった。誰の指図か、とまた誰かが訊いた。
わたしは答えなかった。
胸元の紙には、触れなかった。
継母が、わたしを見ていた。仮面のない顔で、まっすぐに。
一言でいい。奥方の指図、と言えば、広間の仮面はいっせいに継母のほうを向く。わたしが十年されたことを、継母が今夜、一度にされる。
継母の唇が、かすかに動いた。何と言おうとしたのかは、分からない。
わたしは継母から目を逸らさなかった。そして、何も言わなかった。
「家の絵には、入りません」
わたしは灯りを燭台に戻した。
「代わりに、わたしの一枚を」
マッテオ様が、運び込んでいた二つ目の包みの覆いを取った。
わたしは壁から、空の額を外した。十年、毎朝拭いてきた額だった。重さも、手触りも、知っている。床に寝かせ、絵を、その中へ収めた。
あの日、紙の端に書きつけた数字のとおりに。
ぴたりと、合った。
額を壁に戻した。
金の額の中に、一人の娘がいた。灯りを横に掲げて、壁に並ぶ十枚の絵を照らしている。肩に、拭き布を掛けている。笑ってはいない。まっすぐに、こちらを見ている。
額の下の札に、名前が一つ。
ルチア。
広間は、もう囁いていなかった。
小さな足音がして、ビアンカがわたしの隣に来た。わたしの手を握った。冷たい手だった。
「わたしは、姉のいない絵の中で、十年笑ってきました」
ビアンカは、ヴァレンティナ様のほうを向いて言った。声が震えていた。
「来年の絵は、姉と並んで描いてもらいます」
白い仮面が、ゆっくりとこちらを向いた。
ヴァレンティナ様は、仮面を外さないまま言った。
「この家で、仮面の下の顔を見せたのは、娘二人だけね」
父が、何か言おうとして口を開き、閉じた。
「縁談は、一年待ちます。来年、ビアンカ、あなたが自分の絵を持っていらっしゃい」
ヴァレンティナ様は立ち上がり、エンリコ様を連れて広間を出ていった。名門の客たちが、一人、また一人と後に続いた。誰も父を責めなかった。責める必要もなかった。十年、自分の娘が消されていても気づかなかった家の主を、仮面の都の人々は、仮面の奥から見ていた。
父の名門の名簿は、この広間で終わった。
客の去った広間で、父は、顔のない娘の絵の前に立ち尽くしていた。
◇
その夜、継母がわたしの部屋へ来た。二度目だった。
継母は椅子に座らず、戸口に立ったまま言った。
「なぜ、帳面を出さなかったの」
知っていたのだ。わたしが何を持っているか。
「消された人間が、消す側に回ったら」
わたしは、荷造りの手を止めずに答えた。
「十年が、無駄になります」
継母は、長いあいだ黙っていた。
謝りはしなかった。わたしも、待ってはいなかった。
「わたしの生家の絵にも」
継母は、窓の外の運河を見ながら言った。
「二十の年から、わたしはいないの」
それだけ言って、継母は出ていった。わたしは、赦すとも、赦さないとも言わなかった。言う言葉を、持っていなかった。
翌朝、わたしは家を出た。
荷物は、小さな鞄が一つだった。十九年住んだ家から持ち出すものは、それで足りた。
出がけに、ビアンカが階段を駆け下りてきて、わたしに抱きついた。
「来年の絵、約束よ」
「ええ。マッテオ様に頼んでおくわ」
「お姉様が、真ん中ね」
「並んで、と言ったでしょう」
ビアンカは泣きながら笑った。この子は、ちゃんと笑える子だった。
玄関で、父が待っていた。わたしの絵を、空の額ごと抱えて。
父は何も言わなかった。額をわたしに渡すとき、初めて、絵の中のわたしを正面から見た。それから、目の前のわたしを見た。
それだけだった。
ブルネッリ工房の戸を叩くと、マッテオ様が出てきた。目の下に隈があった。
「修繕師として、置いてください」
わたしは額を抱えたまま、頭を下げた。
「絵の傷みなら、十年見てきました。ニスの割れも、額の歪みも分かります」
マッテオ様は、わたしの抱えている額を受け取って、壁に立てかけた。
「工房は、名門の仕事を半分なくしました」
「はい」
「父の名も、なくしました」
「はい」
「それでも、来てくれますか」
「わたしが、来たかったので」
マッテオ様は、少し黙った。それから、ひどく真面目な顔で言った。
「では、毎年一枚、あなたを描かせてください。十年分、取り返すまで」
「十年は、長いです」
「知っています。それと」
マッテオ様は、言いにくそうに目を逸らした。
「まだ一度も、あなたの笑った顔を見ていません」
あまりに真面目な顔で、そんなことを言うので。
わたしは、笑ってしまった。
自分でも驚いた。声が出て、止まらなかった。マッテオ様が、目を見開いた。それから慌てて作業台の上を探し、白墨を探し、見つからずに袖をひっくり返した。
「待ってください、今の、今のをもう一度」
「無理です」
わたしはまた笑った。
次の朝、工房の壁には、金の額が一つ掛かっていた。
わたしは鹿の革を手に取った。上から下へ。ニスにひびはない。額の角も、ゆるんでいない。
一枚、拭く。
そこに、わたしがいる。
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