時軸漂流
〈骨化した曼荼羅南風吹き渡り 涙次〉
【ⅰ】
時軸麻之介が置き去りにされた町は、髙田馬場と云ふところだつた。無一文なので飯にありつけない。空き腹を抱えた時軸にとつて、勞務者の為の炊き出しは、例へ雜炊一杯とは云へど有難かつた。每朝行列に並ぶ時軸。もう働くしかない(勞働嫌ひ)。或る朝彼は思ひ切つて、勞務者を工事現場に運ぶトラックに、飛び乘つた‐
「ひやうろく玉」と呼ばれる友人らしき者が出來た。決して身の上を語らない、名前すら明かさない彼は、他の勞務者たちに苛められてゐた。そんな「ひやうろく玉」に時軸は【魔】のにほひを嗅いでゐた。
【ⅱ】
苛められてゐる「ひやうろく玉」は、勢ひ危険な部處に回される。或る日彼はクレーン車の詰まらぬ事故に卷き込まれ、死んだ。「よくある事さ」‐人間たちは冷淡だつた。無名佛の為の墓(塚、と云つた方がいゝか)に詣り、こんなところにゐたら、俺もいつかこいつの二の舞ひになる、と思つた時軸は、田所と云ふ、担当現場監督の名だけを胸に秘し、(「ひやうろく玉」、いつかお前の仇を取つてやるからな)と、西に(何故西なのかは分からない。「野生の勘」と云ふやつか)に向けて歩き出した。
【ⅲ】
道々見る人間たちは倖せさうだつた。と云ふか、皆我知れず、倖せを演じてゐる‐「阿呆くさ」。時軸は呪詛した。が、腹が減るのだけには、だうにも閉口した。「もう駄目だ。限界だ」辿り着いたそこが、カンテラ一味の地處に建つ「開發センター」だつた事は、運命の皮肉なのか、だうか。
管理人の牧野は最近忙しい。火氣取扱責任者の試験が近付いてゐた。勉強嫌ひの牧野にとつて、その試験は一大事で、日々の雜用にまでかまけてゐる暇がない...
⁂ ⁂ ⁂ ⁂
〈水遊び場に子供らのはしやぎ聲幾分超音波も混ざる 平手みき〉
【ⅳ】
漂着した、と云ふ感じだつた。「なんだあんた。腹が減つて動けない? 仕事は」‐「む、無職です」‐「掃除、買ひ出しぐらゐなら出來るだらう?」‐「は、はい」
料理の達人、牧野にスパゲッティをご馳走になり(夢のやうな味だ...)と思つた時軸、牧野の云ふなりに、「センター」で働く事になつた。(あの工事現場の地獄から比べれば、何処でも天國だ‐)
「一應、カンさんに面通しゝなくちやな。人件費の件も相談しなくちや」時軸、牧野の愛車・ホンダ LY125fiにタンデムさせて貰ひ、野方のカンテラ事務所まで同道した。事務所門前、タロウが吠える。「おやこいつ、【魔】か」
【ⅴ】
タロウの吠え聲に釣られて、じろさんが出て來た。「なんだフル、珍客を連れて來たな」‐「先生、こいつご存知で」‐「時軸つて云ふ、ちやちな【魔】だよ。一體どこで拾つて來た?」‐「『センター』前で、行き倒れ同然でした。ときに、カンさんは」
「はゝ、これも何かの縁だ。火氣取扱責任者の試験優先だよ。雇つてやらう」カンテラ、「いゝだろ? 涙坐ちやん」時軸が涙坐に惚れてゐる事、承知の上での、問ひ。‐「わたしは別に構ひませんけど」
【ⅵ】
結界の中では、時軸、息苦しさうだつたが(何事も慣れが肝腎。「センター」にも結界は張られてゐる)なんとかこれ迄の經緯を話し終へた。「これを」‐とずぼんのポケットからヴィンテージ・ロレックスの腕時計を取り出した。「これで『ひやうろく玉』の仇を‐」
【ⅶ】
テオの調べで、田所の處屬する建設事務所は割れた。カンテラ・じろさん急行。「田所さんはゐるかい?」カンテラ飄々と建設事務所のドアから(ドアロックは脇差しでぶち壊した)入る。何だ何事だ、と屈強の男たちが集まつたが、じろさんの「拳法」に行く手を阻まれた。
「田所は、俺だが」‐「あ、さう」‐「『ひやうろく玉』つても、あんた覺えはないだらうが、仇討ちの件、俺、OKしちやつたんだよ」‐「???」‐「ま、(と拔刀しつゝ)しええええええいつ!! こんなとこだ」。田所、袈裟懸けに斬り斃された... あれが噂のカンテラ‐ 男どもは震へ上がつた。
⁂ ⁂ ⁂ ⁂
〈滴りのイメージだけが滴れる 涙次〉
「全くこの俺が、【魔】の仇取るとは」‐カンテラ苦笑した、と云ふ。「名もしれぬ友、それが一番の友である」‐贋ラ=ロシュフウコオ
カンテラが(魔界でも類を見ぬ)「無法の剣士」である事が、時軸には倖ひした。彼は、人間界に居場處を得た、事になる。お仕舞ひ。