ゲンキの家族
毎日楽しくすごせれば、それでいいじゃん。
オレは中級船アクアダンサーで生まれ、生活してきた。船員は全員で一五〇人ぐらい。大所帯の船じゃないし、小規模な船でもない。中くらいの規模の船だぜ。
家族ぐるみのつきあいもたくさんあって、馬鹿をしあう友達もいた。
アクアダンサーに専門的な仕事はない。毎日、生きていけるだけの飯を獲れればそれで充分だ。
生活には特に不満もなかったし、毎日を楽しくすごしていたぜ。
男友達とはふざけ合いながら楽しんでいた。女友達からはガキっぽいって笑わてたけど、からかい半分に楽しんでいるのもわかっていた。
ときには恋愛沙汰もあったりなかったり……たぶんオレにはなかったと思う。
よく女友達からふたりきりで相談ごとを持ちかけられたけど、たぶん関係ない。
毎日が平和で、毎日が海との戦いだった。歳とか性別なんて関係ない。動けるやつはみんな海へと潜っていった。
そりゃ危険もあるし、悲しい事故だってある。でも友達とのバカし合いは、いつどんなときでもやっぱり楽しい。
楽しいんだけど、あの日はちょっと度がすぎたな。
理由は忘れたけど、軽いケンカが起こった。殴り合うことはなかったんだけど、ちょっとした肩の押し合いになったんだよな。
場所も船べりだったのがいけなかった。
肩を押された弾みで、海に落っこちまった。
船べりは腰ぐらいの高さはあった。ちょっと押されただけで落ちるだなんて、オレも相手も含めて、その場にいる誰も思わなかっただろうな。
みんなの叫び声。オレはわけがわからないまま、アクアダンサーが行ってしまうのを見守ることしかできなかった。
オレ、死ぬのか? こんな呆気なく。
「冗談じゃねぇ。こんなところで死んでたまるか!」
まだ充分に生きてない。もっと人生を楽しみたい。けどあがく方向がわからない。
なら体力は温存だ。
すがれる物が何もない海だ。オレは人が浮く原理を使って、船が横切るのを祈るしかない。持久戦の一発勝負をする。
何もできない日々は退屈で、だけど浮いているだけで体力を使う。
けどオレは生き続けた。やがて、孤児院船ナナシに拾われた。
小規模な船の更に下。船員たった五人、いやオレを含めて六人の船だった。
しかも何かわけありっぽいやつが多い。
けどやること変わらないし、アクアダンサーでやってきた生活を続行させるだけだ。
何事にもへこまないで、騒がしく生活していたら『ゲンキ』って呼ばれるようになった。
親からもらった名前もある。けど何かナナシの仲間になったぽい気がするから、ありがたくゲンキを名乗らせてもらうぜ。
オレは毎日を楽しく生きる。そしてナナシでみんなと一緒に暮らすんだ。みんなにも楽しく生きてもらわなきゃな。
たった六人の、ナナシの家族なんだから。
どことなく照らされた気配。背中には堅い何か。オレはぼんやりとした意識とまぶたを、強引にこじ開けた。
ほの明るい天井。右を見ると一組のテーブルとイスが視界いっぱいにあるな。床も見えるぜ。首をグルンと回した左側にはベッド、特に足の部分がよく見える。
「いつ落ちたんだろ。また気づかんかったぜ」
オレは腰からさらしをまいて、上に黒のカーゴパンツといった状態で、床に大の字になっていた。寝るときは確かにベッドの上にいたはずだけど。
「まぁいいや。いつものことだし」
ナナシに来て半年。部屋をもらってから一度だって、ベッドの上で目覚めたことがない。一体どんな寝相をしているんだか、自分でも見てみたい。
堅い床に手をついて身体を起こす。なぜかしわひとつないベッドの向こうには窓があって、朝っぽく薄い色の青空が広がっていた。
「おー。晴れた晴れた。雨で退屈だったから、お喋りしかできなかったんだよな」
昨日は朝飯がてらにキレイと喋って、昼飯がてらにレッカをからかった。晩飯は普通に喋ったな。風呂に入る前にガレキと喋って、ヒメにも一言だけ喋ったっけ。
「ヒメ、驚いてたな。何となく嬉しそうだったし」
あいまいだったけど「ガレキはすごいな」みたいなことを言ってみた。
やっぱりお喋りは楽しいもんな。まだちょっとしかわからねーけど、少しずつ喋れるようになりてぇ。
同じナナシの中で暮らしているんだ。楽しいことは一緒にやらねーと。
わけもなく朝日を眺めながら、ヒメ語の解読を心に誓う。
「あれ? 何か忘れてる気が……まいっか」
きっと些細なことだろ。それより腹が減ったな。
右手で腹を押さえながら、廊下の方へ振り返る。
「しっかしナナシもボロいよな。もうちょっとで幽霊船になっちまうんじゃないか」
きっとそのときには、住民が誰もいなくなっちゃっているんだろうな。
「すっげーさびしい光景だな。レッカあたりに喋ると張り倒されそうだ」
喋りながらタンスを強引に開ける。手加減しているとギギギって悲鳴を上げるんだよな。だから力を一瞬に集中させる。もたついていると壊れそうだ。
タンスから白いシャツを手にとり、羽織る。続いて緑のバンダナを頭に巻いた。
「さてと、レッカを見つけたら幽霊船の話をしないとな。きっと目くじら立てて怒るんだろうな」
想像するだけで、楽しくなってくる。リアクションがおもしろいからやめられないんだ。
「あー腹減った。朝飯何だろ。うまけりゃなんでもいっか」
おいしい飯を期待しながら、オレは部屋を出た。
ずらりと並べられたテーブルとイスは、歴史を感じる木製のものだ。左右の窓際と中央の三列に並んでいて、昔はたくさん住人がいたんだって物語っている。
食堂は朝日に照らされてほんのりと明るい。
奥のキッチンからはジュウジュウと聞こえ、焼き魚の香ばしい匂いが漂ってくる。
「おはよーママ! 今日の朝飯は?」
姿は見えないが、奥にいると思うママにメニューを尋ねた。
「あっ、ゲンキね。おはよう。今日は焼き魚だけよ!」
朝も早いのにハッキリした声だ。ママは一番働いているはずなのに、底なしの気力が満ちあふれているぜ。
「てか焼き魚だけ? 他は?」
いくらなんでも、一品料理のみだなんて。もうちょっと何か用意してあるだろ。
「ないわよ。いろいろ食材が切れちゃったのよ! よしと」
料理の音が途絶えると、ママは食堂に来た。茶色い三つ編みの、背が低い女性だ。見下ろしているけど、歳は圧倒的にママの方が上だぜ。
ん、ママに睨まれたかな? まぁいいや。
身長の割に巨乳の持ち主だ。寄生虫のように、胸に全部栄養を持ってかれたのかもしれないな。そう思うと何かかわいそうな気がしてきた。
「ゲンキ。朝ごはんを抜かれたいの?」
「何で? オレはむしろ、レッカの分まで食いたいぐらいだけど」
ニッコリとした笑顔で、軽い冗談をかましてきた。年齢的には大人だけど、ちょっぴりお茶目なのが特徴だな。
赤いTシャツにデニム。エプロンは黄色になっている。
両手には浅い皿の上に、ほどよく焦げ色のついた焼き魚が乗っている。食欲を増す匂いが鼻を刺激して、反射的に白いご飯が欲しくなった。
「なぁ。ほんとに他に飯ってないのか?」
すっげー物足りないんだけど。
「もう絶望的なほどないわね」
ママはキッチンから近いテーブルに皿を置きながら、笑顔で応えた。
「だから、今日からナナシに帆を張るわよ。何かしらの船に接触して、食料を分けてもらわなくちゃね」
「ってことは、みんな起こさなきゃいけねーな。ガレキ起きるかな?」
帆を張るのはナナシの全員でやる。マストの数は一本だし、帆もそんなに多くない。けど重労働には変わりねぇ。
高いところに上るから、危険もある。命綱はつけるけど、油断はできねぇ。女子供には任せられない作業だ。特にレッカは落ち着きがないから危なっかしい。
「もちろん起こすわよ。私が部屋に行ってじかにね。あっ、ガレキだけじゃ不平等よね。ちゃんとレッカやキレイ。それにヒメちゃんも起こさなくっちゃ」
ママは両手を組んで頬に寄せ、片足立ちで妙にハイテンションなったぜ。
えっと、ガレキを理由に女の子の部屋に入って起こしたい。本命は……ヒメだろうな。どこかで惨事が起きなきゃいいけど。
オレには関係ないから、生暖かく見守ることに決める。
「まぁいいや。それよりどこかの船と接触するんだろ。オレ肉を食いたいから、酪農船とかとあたりてーな」
「ちゃんと野菜も食べなきゃダメよ。それに労働力を対価にするんだから、あんまり大型だと仕事がツラいわよ」
海後期になってからお金の価値はほとんどなくなった。大型船や貴族船といった、大人数が暮らす船では使っているみたいだけど。
でも散りぢりとなった小中規模の船では無用の産物だ。狭い船の上では、使いようがないからな。
金を貯めるぐらいなら、食べ物を作った方がまだ生きていけるぜ。
そんなわけで、他の船と接触したときにやれることはおおよそふたつ。
やれる作業を手伝わせてもらうか、獲った魚と物々交換のどっちか、場合によっては両方だな。
「何でもいいや。飯にしよーぜ」
とにかく、腹が減っていたら何もできねーからな。
「もぉ、ゲンキは。まぁいいわ。食べましょ」
オレたちはふたりで、焼き魚を食べることになった。おいしいにはおいしいけど、一品だけだと物足りねぇぜ。
昨日の雨模様はさっぱりと消えて、青く澄んだ空と海が一面に広がっている。こういうときオレは、水平線の境目を見たくなるんだよな。
限界の限界まで遠くを見て、分かれ目を探すんだ。
白い雲が一面をずらすように動いている。水面は穏やかに揺れて、白く波をうねらせる。だけど平和とはちょっと言えないな。三角のヒレが、海から顔を出しているから。
「サメが一匹いるな。そんなに大きくないけど、海に潜るのは怖ぇかな」
オレは船べりで、両手を手すりにつけながら思った。羽織ったシャツが風にはためき、ゆらゆらとひるがえる。髪もやさしく揺れている。
「飯、大丈夫かな。最悪、一日ぐらいなら何とかなるけど、それでもツラいぜ」
飯抜きになる想像をしただけで、腹が減ってくるな。魚がまだストックしてあるといいけど。
不安になりながら、オレは振り返ってマストを見上げた。そんなに高くはないんだけど、青空のかなたまで続いているように見える。帆はいつも通りたたまれている。
「まだ片手で数えれるぐらいしか、上ったことないんだよな」
オレたちの手で、久しぶりに封印を解く。
風を背に進むナナシは、いったいどこに向かうんだろうな。
「おはようございます。ゲンキさん」
声をかけられて視線をおろすと、キレイがすぐ傍に立っていた。
青い瞳が輝き、水色のショートヘアが風に揺れていた。右肩から斜めに大きめのショルダーバッグをかけている。服も風に揺れているんだけど、バッグが重石になっているからどこか中途半端だ。
ちなみにバッグの口からは、角ばった木製の板がはみ出ていた。
バッグはかなり年季が入っているみたいで、色あせている。昨日までは一度も着けていなかったけど、どうしたんだ。
「おはよーキレイ。ソレは?」
キレイが首を傾げたから、オレはあごでクイっと、バッグを示した。
「あぁ、これですか。昨日見せた木製の置物が入ってるんですよ」
キレイが両手でバッグを持って、前に出す。けど頭がちょっとはみ出ているからな。
思わず目を細めて、呆れちまったぜ。
「あはは。昨日はずっと手に持ったり、抱えたりしてたんですが……やっぱり仕事をするには邪魔になっちゃうんですよね。ほら、デッキブラシも片手じゃもてませんし」
キレイはバッグをもとの位置に戻しながら、口元を綻ばせた。
「最初は適当な縄か何かを見つけて、背中に結びつけようと思ったんです。それで昨晩、倉庫を一通り探してみたらショルダーバッグを見つけまして」
大きさ的にもちょうどいいですし。とキレイは続けた。
「昨日の朝飯食ってるときも思ったけど、それそんなに大切か?」
バックの中身は『王将』(こんなもよう)が描かれた木の板だ。一度持たせてもらったけど、けっこう重かった。
キレイは昨日、一日中持っていた。今日からもずっと持ち続けそうな勢いだ。
占いに夢中になりすぎている女の子並に、いきすぎた執着を感じる。んでもって、何か危なっかしい。
「いいじゃないですか。わたしの気分にシックリきちゃったんですから」
いつもの営業的スマイルには、ほんのりと幼さがにじみ出ている。
「違いない。レッカだって不思議な形の貝殻を集めたり、無駄にさらしを巻いてるからな。アレ、何の願かけだろうな」
レッカは平らな胸をへこませようとでも努力をしているのか。まぁオレには関係ないから、好きにさせとくけど。
「ゲンキさん。絶対にレッカの前では言っちゃダメですよ」
頬をヒクヒクさせた笑顔で、危険物の取り扱い方を教えるように注意した。
「大丈夫だって。他人の趣味を誰かに話そうだなんて、そんな性格じゃねぇから」
「いえ、わたしの宝物のことじゃないんですけど……」
キレイの頬に、汗が一筋流れた気がした。そんなに暑いとは思わないんだけどな。
「そういやキレイ。ママからはもう聞いたか?」
ふと思い出したから、話を吹っかけてみる。キレイもオレが何を示しているかわかったようで、笑顔を作り直して頷いた。
「帆を張るんですよね」
キレイは風に揺れる髪を抑えながら、マストを見上げた。
「大変ですね。わたしも手伝いたいんですが……」
「危ないからダメって、ママが言うだろうな。正直、オレから見てもキレイは危ういぜ」
オレもつられてマストを見上げ、船べりに背中を預けた。
「そうですか。わたしはまだまだ子供ですもんね」
キレイの声は、最後の方に向かってだんだん小さくなっていった。
「焦っても仕方ねぇと思うぜ」
「え?」
キレイが目をまん丸にして、顔を向けた。オレも合わせてやる。
「ママはかわいい子が好きだからな。よっぽど人が足らない限り、キレイに危険なことはさせねぇだろ」
「それだと、ゲンキがかわいい子じゃないみたいですよ」
「んー、キレイはオレがかわいいと思うか?」
ちょっと視線を上に逸らしてから聞いてみると、キレイは首を横に振った。
「ちょっと、かわいいとは言えませんね」
「だろ」
納得したところで、オレたちは再びマストを見上げる。
「いい天気ですね。風があって」
「だな」
「なんかゲンキさんみたいです。からっぽで、気ままで……」
おや、珍しい。滅多に踏み込んでこないんだけどな。
横目でチラリと覗くと、心なしか笑顔が自然に見える。
「まっ、能天気だからな」
「それでいて、果てしなく澄んでいる……ときもある」
キレイは再びあごを引いて、身体ごとオレに向けた。
「基本的に透明でまっすぐなので、一緒にいて安心できますよ。だから、かわいいとはやっぱり違いますね」
その笑顔、まだ少し偽りがありそうだな。でも、少しはまともになっているかも。
「わたし、高いところはちょっと怖いかもしれません」
照れ隠しなのか何なのか、急に話題を変えやがった。
「まっ、そんなもんだろ。キレイにマストは似合わなそうだしな」
オレは挑発するようにニヤけてやったぜ。
「その心は?」
「バカと何とかは高いところが好きってやつ。キレイよりもオレやレッカの方が似合うぜ」
ピストル状にした手をキレイに向けて言い切った。
「ちょ……ゲンキさんって、サラっと失礼のこと言いますね」
口元が引きつった。どうやら受けなかったみたいだ。渾身のネタだったんだぜ、これでも。ちょっとへこむぞ。
「だいたい、『何とか』が何かわかってますか?」
「ハサミだろ?」
「違うよ!」
反射的にツッコミが返ってきた。
おっ、珍しく素が出たな。
オレからすれば敬語は、人との距離があるときに使う言葉だ。だからキレイの言葉はどうも他人行儀で、よそよそしい。
しかも、自分の気持ちをギュウギュウに敬語で押し込んでいる感じだ。
キレイは間違いなく敬語で壁を作っている。
「違ったっけ?」
「……もぉ、いいでず」
かわいそうなものを見るような表情で、ため息をつかれた。
何か間違っていたっけ。
「レッカはマストに上りませんよ。ゲンキとガレキだけって、ママは言ってましたし」
「そうなんだよ。惜しいよなぁ。絶対レッカが似合うのに」
オレは額に手を当てて空を仰いだ。キレイから放たれる空気が、どことなく微妙になった気がする。
「まぁ、別にいいですけど。ところで、今日は漁に出ないんですか? こんなに天気がよくて、海も穏やかですよ」
あからさまに話を変えられちまった。この手の話、キレイは苦手なのかも。
「あぁ、よく見てみろよ。あんなのいるぜ」
親指を立てて海へと促す。キレイは視線を海に向けて、しばらく眺める。やがて、あっと声をあげて発見した。
「サメ、ですか。見たところ一匹だけのようですね」
キレイは船べりに手をつけて観察する。
「だな。けどサメはサメだからな。警戒するに越したことはないだろ」
キレイは深く潜るように、黙って海を見下ろしている。
「そうですね。素人が下手に潜るのは危険ですもんね」
やがて諦めるように首を振ると、仕方がないといった感じに微笑んだ。
まるで知識を知らない、かわいそうな人を見下すように。
……まだちょっと、キレイも油断ならないぜ。
「そういうこった。だから今日のオレは、帆を張って終わりだな」
「事故が起きないように、気をつけてくださいね。わたしは、ちょっと忙しくなりそうです。久しぶりに帆を広げるので、ほこりが大変そうです」
笑顔が、完全なよそ向きに変わったな。
「おう、まためんどうだな」
「ふふっ、仕方ないですよ。じゃあわたしは、先に廊下の掃除をしてきますね。では、失礼します」
キレイはお辞儀をすると、踵を返して歩いていった。
オレは背中を眺めながら思う。
キレイはまだ壁を張っているな。他人との距離を測るように笑顔を作っている。何があったか知らないけど、そんないびつな表情じゃ、楽しいもんも楽しめないだろうに。
「かといって、焦ってもしょうがねぇか。あのショルダーバックに入ってる置物のこともあるし、刺激するのが怖ぇな」
けど、手をこまねいているのも趣味じゃない。
ちょっとずつでもいいから、笑顔の壁を壊さなくっちゃな。
「何か、きっかけでもありゃいいけど」
オレは船べりにもたれながら、空を仰いだ。
マストの下に着くと、もうみんな集まっていた。
レッカが肩をすくめてため息している。キレイは微笑ましくも困った笑顔だ。ママも困った微笑みで腕を組みながら唸っている。
そして三人の視線を受けているのは、いつもの無表情をしたガレキだった。あっ、よく見ると、やっぱりヒメもくっついている。
そりゃあもう、ガレキの足元にピッタリと抱きついてママを警戒している。
「あー、また始まったか。ヒメはガレキから離れないからな」
ナナシで帆を張る作業は、今回が初めてじゃない。四回ぐらいガレキと一緒に上ったっけか。だけど毎回、ヒメが駄々をこねたように張りつくんだよな。
「……実際、駄々をこねてるのかもしれねぇな」
ガレキを挟んで、ママと対角にいるヒメ。長い金の髪が風に揺れている。
青い瞳はまん丸でかわいいんだけど、ママと一緒にいるせいでむちゃくちゃな角度に吊り上がっているぜ。
「王子様と引き裂かれる悲劇のヒロインって、あんな感じか?」
呟きながら、みんなが揃っているマスト下へ向かう。
「よぉ、今回もヒメはご機嫌斜めなのか?」
みんな振り返ったから、片手を軽く上げて挨拶した。
「遅いじゃないの。もしも説得がスムーズだったら、ゲンキ待ちになってたんだからね」
真っ先に突っかかってきたのはレッカだ。黄色いリボンでツインテールにしている髪の色は、燃え上がるような赤。
人を責めるように目じりが吊り上がっているけど、ヒメと違ってレッカのは素だ。
胸というには、なさすぎる胸にさらしを巻いているのが笑える。
「オレよりヒメの方が早くなることってあるのか?」
ヒメはガレキにベタ惚れで、加えて言葉も通じねぇ。説得そのものができねぇんだから、時間がかからないはずがねぇ。
「もしかしたらあるかもしれないじゃないの。何が起こるかなんてわからないんだからね」
責めるようなセリフだけど、呆れている感じだな。ジト目っぽくなって鼻を鳴らした。
「起こらなかったみたいだぜ」
自慢げにケンカを振ったら、うっさいわねと返された。
「で、今はどういう状況だ」
「見ての通りよ。ヒメがガレキにくっついて、作業ができない。おまけにママが加わってから余計にややこしくなっちゃった。何でかしら」
レッカはわけがわからなそうに首をすくめた。ヒメがママを嫌っているのを、まったく知らないような反応だ。
「さぁな。でも今には始まったことじゃねぇだろ」
「そうなんだけど、わからないのよ。ママのどこがイヤなのかが」
あ、そっちか。鈍さで有名なレッカでも、そりゃわかるよな。
「何よゲンキ。気持ち悪い笑顔で頷いたりして」
「気にすんな。今からヒメをはがすから、あとは頼むぜ」
「ちょっと、頼むって何をよ?」
レッカの反論を背中に、オレはヒメの方へと歩いていく。
「ヒメちゃん。ガレキなんてほっといて、ママの下においで。ずっと抱きつかれてたら、お仕事できなくなっちゃうから」
ママが膝に手を当てて中腰になる。ヒメと視線を合わせながら猫なで声で説得していた。
説得しているわりには、ガレキに対して容赦ねーぞ。妙な気迫というか、どすピンク色なオーラを感じる。今のママにはオレも近寄りたくねぇな。
見ているだけで身体が固まって、冷や汗が出てくるぜ。
「なぁ、ガレキも何か言ったらどうだ?」
呆れたオレは、とりあえずヒメに話が通じそうだから、ガレキに声をかけた。
「って言われても、このありさまだかんな。ヒメも俺が危ないとこに行くの、わかってんだろ」
「あぁ、だからガレキは守られてるのか」
ガレキは眉を少しだけひそめた気がする。
ヒメは必死にしがみついているんじゃなくて、子供を守るように包み込んでいるってわけか。コアラみたいになっているからわからなかった。
「ヒメ」
オレが呼ぶと、ヒメはゆっくりと見上げてきた。ママの相手をしていたときの敵対心はないみたいだ。
「げんき――っ」
「オレとガレキでマストに上ってくるから、ヒメは留守番な」
マストを親指で示して、簡単に説明する。ヒメの表情が、昨日の雨のようにみるみる曇っていく。
「で、ガレキが上ってる間、レッカの傍にいろよ」
「えっ、ちょっとゲンキ」
親指で示されたレッカが何か言っているけど、何だかんだで受け入れてくれる性格だからから無視だ。終わってから文句が飛んでくるだろうけど気にしねぇ。
ヒメはガレキ以外に信じられる奴がいないみたいだから。悪い言い方をすると、ガレキに引きこもっている感じだ。
ガレキを好きなのはいいんだけど、せめてもうちょっと視野を広げてほしい。
楽しいこともひとつだけだと飽きちまうからな。脇役でもいいから、ヒメを刺激してやりたいぜ。
「――っ」
ヒメはガレキから手を放すと、子供を預ける親のような雰囲気で睨んできた。
「安心しろ。オレがガレキを見ててやるぜ」
親指で自分の胸を差して宣言した。
「――っ――」
ヒメが目をとがらせながら顔を近づけてきた。攻めるような口調で始め、最後は託すように、小さな拳でトンとオレの胸を叩いた。
どうやら説得できたみたいだ。自然と口元が緩む。
「さっきも言ったけど、オレたちが作業してる間はレッカの傍にいろよ。きっとママから守ってくれるからさ」
「ちょっとゲンキ。私を何だと思ってるの?」
ママが文句を言っているような気がするけど、何とかなるだろ。レッカだってヒメの心境をわかって……ないかもしれない。
だけどキレイがフォローしてくれるだろ。あんまり身体を張らないといいんだがな。
キレイをチラリと見る。視線が合った瞬間、笑顔が苦笑に変わった気がした。
「――っ」
ヒメは他の女性衆を見渡すと、表情を硬くした。警戒心っていう曇りが、顔の上からかかっているみたいだ。
「ナナシには、ヒメの敵はいないぞ。まぁ、ちょっと厄介なやつはいるけどな」
オレは頬を人差し指でポリポリかいて、口元を引きつらせた。
警戒心がなぜだか薄いオレとレッカなら、何とかできると思ったんだけどな。ちょっと甘かったぜ。
「なぁガレキ。何でもいいから一言ヒメに言ってくれないか」
対処に困ったから、ガレキにめんどうを押しつける。
ガレキは、んっと頷いた。ヒメに近寄り、頭をポンと叩く。
「行ってくる」
ヒメは振り返って見上げると、ガレキと目を合わせる。それだけで自然な笑みを浮かべた。緊張が解けたようで、うんと言うように頷いた。
「ゲンキ、これでいいのか」
「充分だ」
実はガレキがヒメを説得するのは毎回のことだ。今回こそは、ガレキの手を借りずにヒメを説得したかったんだけど、なかなかうまくいかないな。
「じゃあレッカ、ヒメを任せたぞ」
「まったく。どうなっても知んないんだからね。あたいだって、ヒメには嫌われてるのに」
レッカは最後、自信なさげに声をモゴモゴさせた。不満があるみたいだけど、留まり続けていても仕方ないからな。新しい飯も食いてーし。
「じゃあガレキ、行こうぜ」
「あー、めんどくせ」
ガレキは後ろ髪をボリボリかきながら、渋々動きだした。
右舷の方を見ようが左舷の方を見ようが、あたりの海を一望できる。
「おー。絶景かな、絶景かな」
オレは手で庇を作って、グルグルと回りながら遠くを見渡した。
海なんて普段から見慣れているけど、やっぱり高いところからだと迫力が違うぜ。
「ったく、何が楽しいんだか」
傍にいたガレキが、疲れたように呟いた。
縄バシゴでマストに上ったオレとガレキは、いったんトップっていう足場で落ち着いていた。狭いから、あとひとりでギュウギュウになるな。
「景色が変わるだけでもだいぶ楽しくなると思うぜ」
至近距離でガレキを見る。黒いチリ毛のドレッドヘアーに、やる気なさそうな紫色の目。背が高くてヒョロイあんちゃんって感じだぜ。
「そんなこと言うなって。ほら、今度ヒメと一緒に上ってやれよ。きっと喜ぶぜ」
「いや、さすがに危なっかしいだろ」
「ガレキが傍にいるだろ。それとも世話しきれないか?」
挑戦的に笑ってやると、棒立ちのジト目でガレキが返す。
ガレキは覇気がないんだよな。最初から持ってなかったんじゃなくて、どこかでなくしちゃった感じだ。
だけどヒメの影響で、ちょっとずつ生き返っている気がする。だからガレキはヒメ任せでもいい。
いいんだけど、そのヒメを何とかしないと、どうしよもないんだよな。
「世話なんて……やっぱめんどうなだけだ」
「そう固く考えることじゃねぇと思うぞ」
顔に陰りを含ませるガレキは、怯えているように見えた。
宝物が壊れるのが怖いから、遠ざけているって感じだ。とにかく求める心を無気力に否定しているみたいだ。
「ガレキはヒメをかわいいと思うか?」
「別にどうでもいいじゃねぇか」
関心がないように見下ろしてくる。
「じゃあ、ヒメは不細工か?」
「……あれで不細工だったら、たいていの人間が不細工になっちまうな」
一安心だ。まっすぐ気持ちを言うのはできないみたいだけど、悪く言われるのはイヤみたいだ。ヒメを大切に思っている証拠だな。
「確かにヒメはかわいいよな。レッカとは大違いだ。オレ言葉が通じてたら口説いてたぜ」
正直、女にそこまで飢えているわけじゃねぇ。ホントだぞ?
「ゲンキがヒメにか……」
眉を少しだけゆがめて、不安をほのめかす。
「軽く振られるんじゃねぇか」
「何だよ。応援してくれないのか?」
ガックリと、肩を落として恨めしく見上げてやる。
「んー、しても変わらんだろ」
考える素振りをしたわりには、イヤにキッパリ否定しやがった。何か確信があるのかもしれねぇ。
「つれねぇな。まぁいいや。そろそろ作業しようぜ」
オレはポールから左右に伸びるヤードを示した。
「めんどくせぇ。そもそも、ふたりでやる作業でもねぇだろ」
「仕方ねぇだろ。ナナシにはたったの六人しかいねぇんだぜ」
ガレキはイヤそうに深いため息をついた。
「ガレキは左舷側で、オレが右な。手前の方から奥に向かって、一ヵ所ずつ縄を解くぜ」
「言われなくてもわあってるよ。たくっ」
ヤードの下には、フットロープっていう足場用の縄がぶら下がっている。
オレはガレキのため息を聞きながら、左右に展開して帆を広げ始めた。
黄ばんだ帆がナナシのマストに展開される。しまい込まれていたわりには、しわがほとんどない。後は帆の下隅についているシートっていう縄を引っ張って、位置を調整するだけだ。
風向きに合わせないと推進力にならねぇからな。大事な作業だ。
縄を引くのは思った以上の力作業になるから、全員で綱引きみたいに引っぱった。
ナナシが風を受けてグングンと進みだす。白波を立てて、どんな船に出会うかもわからずに。
一仕事終えたオレたちは、時間もちょうどいいから昼飯にした。
何かレッカが味について聞いてくるから、軽くからかってやる。火が急激に燃えさかるように反応するから、おもしろい。
キレイが毎回温かく……ってより羨ましそうに見ているのが気になるけどな。
一方でヒメとガレキはイチャイチャとあーんしながら飯を食っている。互いの足りないものが少しずつ埋まっているような気がするから、ウザったいけど好きな光景だ。
ママが恨めしく見ているのがとても気になる。きっと触れちゃいけない祟り神の化身か何かだから、視界に入れないようにした。
「今日は帆を張って疲れたし、サメもしぶとくついてきてるから半日休暇にするわよ。せっかく天気もいいんだしね」
ママが全員を連れて甲板に出ると、とても素晴らしい提案のように手を広げて宣言した。
その手がワキワキしている点については、触れないことにする。
「つまり、いつもと変わらねぇわけか」
「ガレキ、あんただけは働きなさいよね」
「――っ」
ガレキにレッカがつっかかって、ヒメが間に割り込む。
「ふふっ。たまにはゆったりとすごすのもいいですね」
「てか、昨日も雨でほとんど休みだった気がするぜ」
「そういえばそうですね……きゃっ!」
「んふふっ。ゲンキも細かいことは気にしないの」
キレイがリラックスしていると、後ろからママが抱き着いた。まずは手始めにキレイからって思ったのは、オレの気のせいにしておきたい。
「たまには私ものんびりしたいんだから、ね」
かわいく言うママの目は、オレとは違う方向にいるレッカに向けられていた。
こうして、ママの欲望半日休暇が幕を開けた。きっと、ヒメで閉めるつもりだろうな。ちゃんと閉まるのか不安だ。
「あー、昼間の空って、無駄に青いよな」
「――っ」
右舷の船べりで手すりに背中からもたれながら、オレは五歩ぐらい向こうにいるガレキとヒメを眺めている。
白い雲と太陽だけが浮かぶ水平線を眺めながら、並んで手すりに持たれている。
「ゲンキさん。サメを捕まえることってできますか?」
「は?」
キレイが透き通るような声で、いきなりとんでもないこと言ってきた。思わず反射的に振り返る。
「無理だぞ。さすがにサメは危ねぇ……ってか、何でロープなんて持ってんだ?」
漁に出るとき身体に括っている縄を、キレイが持ってきていた。
「もしよかったら、サメの狩りかたでも教えようと思って」
「……えっと」
オレはのけぞりながら海を覗き込んだ。三角形のヒレがしっかりとついてきている。今飛び込んだら海底に引き込まれる気がする。
「アレを?」
「はい。あれくらいの大きさが一匹ならいけると思いますよ」
指を差してキレイに確認すると、当たり前だとばかりに応えた。
何かの意趣返しか。オレ、キレイに何したっけ。
「ゲンキさんも逞しいおにいさんですし、サメの一匹や二匹、素手で狩ってもいいと思います」
薄らと微笑むキレイに、冗談を言っているような雰囲気は感じ取れない。
「やっぱり、ゲンキさんには早すぎましたか。仕方ないですね」
クスクスと笑うキレイ。バカにされているのは、オレの気のせいか?
まぁ、軽口を叩けるようになるのはいいことだと思うけど、いくらなんでもシャレになってない。口元がひきっつっちまう。
「あらあら。キレイも言うようになったわね。ゲンキを言い負かすなんて」
ママの声に振り向く。どこから出したのか寝そべるように座れるチェアに座っていた。
足を海に向け、サングラスをかけてくつろいでいる。丁寧なことに、服装もエプロン姿から黒のビキニに変わっている。
「ママは本気でくつろいでんな。そんな物、出すのも手間がかかるのに」
てか、ビーチチェアなんてどこにあったんだ。
「んふふっ。私もセクシーだからね。ゲンキが遠慮な~く、熱い視線を注ぎこんじゃうのも仕方ないのよ」
いや、半眼になって呆れていただけなんだけど。
ママは足を組んで頬に手を当てる。口元も綻んでいて上機嫌なのがよくわかる。きっと頭の構造が複雑なわりに、いろいろ足りない部品が多いんだろうな。
「ふふっ。ゲンキも男の子なんですね」
微笑みながら少しずつ後ずさっていくキレイ。
「すげー誤解してないか? 第一ママには、身長・くびれ・ヒップ・手足の細さ・淑やかさ・そして何よりセクシーさが足りないだろ」
「ゲンキは二・三日、絶食がしたいのかな?」
ニッコリとママが怖いことを言ってきた。
「なんでママに色気がないことが、オレの絶食に繋がるんだよ。わけわかんねーぞ」
そんな理由で飯抜きなんて、堪ったもんじゃねぇ。
「ゲンキ、それはちょっと言いすぎだと思いますよ」
キレイは顔から汗を垂らして、笑顔を苦いものに変えていた。
「そうか?」
そりゃキレイやガレキ、言葉は通じないけどヒメなんかには言いすぎちゃいけないって思う。三人は自分を保ててないからな。
対してママは、心の軸がしっかりしているからな。年の功もあるから、ちょっとやそっとじゃ折れないはずだ。
「ちょっとゲンキ。さらに失礼なこと考えてない?」
ママは身体を起こし、サングサスを外して漆黒の瞳で睨んできた。
「いや、別に」
思ったのは全部、ホントのことだしな。ママも何を気にしているんだか。
ちなみにレッカは自分を保ててないわけじゃないけど、ママほど軸がしっかりしているわけでもないからな。
まぁ、おつむが一番成長してないからな。からかうといい反応するんだ。
「何よゲンキ、気味悪い笑い方して」
クツクツと笑っていると、いつの間にかレッカが目の前にいた。
「ん、あぁ。今日はいい天気だなって思ってただけだ」
「何それ。ゲンキの頭の中はいつでもお日さまがテカテカなんでしょうね」
両手を腰に前屈みになったレッカは、呆れたような半眼で睨んできた。
「毎日がお天気なら、お洗濯がよく乾いていいですね」
胸の前で両手を重ねて、キレイが微笑む。
「それいいな」
キレイを指差して声を弾ませると、レッカが眉をひそめた。
オレは気にせず、船べりから離れる。五・六歩ゆっくりと進んでから振り返る。
「レッカも太陽光を浴びればさ、グングン身体が成長すると思うぜ」
主に胸を見ると、レッカの顔が真っ赤になった。ドスドスと、床に穴でも開くんじゃないかってほど音を立てて近づいてくる。
「誰の胸がフライパンみたいに平たいって!」
そこまで言ってねぇ。
反射的に脳内でつっこむのもむなしく、レッカが鬼気迫る表情で左に身体をねじった。
まるで雑巾をギリギリ限界まで絞るように、力を溜めている。まずいかもしれない。
顔面から熱が消えていく。身体が硬直して動けなくなる。
そして雑巾を絞り終えた瞬間、レッカの左拳がオレの右ボディに勢いよく刺さった。
「ぐへっ」
「キャっ!」
口から何かが潰れる音が出た。身体が左へ飛ばされ、たまたまそこにいたヒメに突っ込んだ。
だがオレとヒメの悲鳴は、ナナシが立てたバキっていう、絶望の音に飲み込まれる。
……え?
船べりの一部が壊れ、ヒメの身体が木片と一緒に宙に舞っている。イヤにゆっくり見えるのが、かえって焦りを生む。
やべぇ。あのままだと落ちる――。
手を伸ばさなきゃ――。
走れ、オレの足――。
頭ん中がいろんな考えで埋まるのに、身体は全然動かねぇ。
「――っ」
ヒメが振り返り、悲鳴を上げながら手を伸ばして……落ちていく。
まずい。このままじゃ――。
「ヒメっ!」
ガレキが叫ぶと、伸ばしたヒメの腕を右手でガッチリつかんだ。左手で半壊している船べりを抑えて、力の入れどころにしている。
バキっ!
「なっ!」
ガレキの叫び。絶望の連鎖。半壊して脆くなっている船べりは、ガレキとヒメの体重を受けた瞬間に力尽きた。
ふたりして、海に飲み込まれようとしている。
「こなくそっ!」
だがガレキはただじゃ落ちなかった。かろうじて床に残っていた足で踏ん張り、回転しながらヒメをナナシに投げ入れた。
「ゲンキっ!」
「っ! ガレキ!」
無造作に投げ託されたヒメを、両手でしっかり抱え込む。ガレキは安心したように微笑むと、背中から海に吸い込まれていった。
「がれきっ……がれき!」
オレの腕の中で、ヒメが身動ぎしながら必死に両手を伸ばす。
「ヒメ、落ち着け。お前まで行ってどうする」
気持ちはわかるぜ。この慌てよう、きっと顔もひどいもんになっているんだろうな。
「うそっ、どうして?」
キレイが慌てて、船べりから海を覗き込む。
「冗談でしょ! 今日は穏やかな休日のつもりだったのにっ!」
ママはビーチチェアから飛び起きると、慌てながらどこかへ走っていった。
「あっ……あぁ。ここ……あたい、何で……」
レッカの声がしおれていた。チラっと後ろを見る。口元に手を寄せて、膝から崩れ落ちていた。目が飛び出るんじゃないかってほど見開いていて、ブルブルと震えている。
何だ、あの怯えようは? 確かに非常事態だけど、驚き方がこう、異常すぎる気がする。けど、今はそれどころじゃねぇんだ。
だってガレキは、泳げねぇ。
「――っ! ――っ!」
「レッカっ、おいレッカ!」
「あた……あたいは……」
叫んでも、まるで聞こえてないみたいに反応がない。
ヒメを離すと海に飛び込みそうで怖いのに。今のレッカじゃ頼りなさすぎる。
「クソっ、キレイ!」
溺れたような表情で、身体を震わせながら海を覗き込んでいたキレイ。
「えっ、あっ。ゲンキさん?」
ハっと我に返って振り向いた。
「ヒメを頼む!」
「――っ!」
「ちょっ、ゲンキさん!」
戸惑うキレイにヒメを渡して、オレは上着を脱ぎ捨てながら海へと飛び込んだ。
飛び込むときのフワっとする浮遊感。内臓全部がバラバラになりながらも、ギュっと詰まるような不思議な感じがする。
バシャンって入水する衝撃、身体が一瞬で冷やされる爽快感。これがいつもの漁なら、ゆっくり堪能しているんだけどな。クソっ!
青っぽい透明な世界。海面からは光が、薄いカーテンのようにユラユラと差し込んでいる。魚が身を光らせながら泳ぐのを視界に入れつつ、漂っているはずの無気力な男を探す。
どこだ。もう流されちまったのか。早く、早く見つけねぇと……いた!
少し離れた底の方に、脱力しながら沈んでいくガレキを発見した。まるで人生を諦めたように、手足を大の字に伸ばしながら沈んでいる。
何だよガレキのやつ。絶体絶命なんだぜ。少しはあがけよな。
あがいてないってことは、まだ息に余裕があるってことだ。オレは安心してガレキのもとへと泳いだ。
ガレキもオレに気づいたみたいだ。何で来たんだって言いたげに、目を丸くしたぜ。
同じ船に住む家族が危ないんだ。きて当然だろ、バカ。
口元が緩む。オレはガレキの後ろに回り込んで、背中から肩を担いだ。
あとは海面に出て、ナナシに追いつくだけだな。
見上げると、ナナシの船底がかなり遠くにあった。不意にアクアダンサーがあっという間に離れていったことが頭によぎる。
ちっ、厳しいな。でも完全に見えなくなったわけじゃねぇ。急がないと……なっ!
正面から近づいてくる魚影に肝が冷える。
ギョロっとした目玉に丸っこいフォルム。鼻から上は黒っぽい色で、下は白。口は裂けているように横に長い。頬の向こうにある三本の縦線は、恐らくエラだ。丸っこい胸ビレと背ビレが三方向に延びている。
認めたくないけど、イタチザメだ。
クソっ、すっかり忘れていた。ただでさえ厄介……ん?
首にかけていた腕が身じろぐ。振り向くと、ガレキは表情をゆがめて首に手をかけていた。口元からはあぶくがこぼれている。
ただでさえ時間がねぇのに!
迫りくる狂気とタイムリミット。横一文字の口がパカリと、レンガ状に開いた。中には白っぽい歯がビッシリと並んでいやがる。
冗談じゃねぇ。まだ死ねるか!
オレは奥歯を噛んで睨みつける。まぶたのないギョロっとした目玉に、鋭い角度で睨まれているような気がする。身体に黒い何かがまとわりついているような気分だ。
ひるむなオレ。もうサメはそこまできてんだ!
叫びを身体の中に響かせながら、オレは下へと潜った。頭上をサメの平たい頭が通りすぎる。
躱せた。戻ってくる間に少しでも海面に近づかねぇと。
見たところ、ガレキは無茶な動きの反動でもう溺れる寸前だ。正直、オレもヤベェ。
必死になって身体を動かすけど、思ったより進まねぇ。クソっ……サメは?
縦長のシャープな魚影は、スムーズに迂回して再び狙いを定めてきた。
早ぇよクソ。少しは容赦しやがれっての。
だけどサメは無情にも、長方形に口を開けて下から迫ってくる。心臓を銛で貫いてくるようなスピードで。
やられる――っ。
サメに食い殺されるビジョンが頭に浮かんじまった。身体が凍りついたように動かなくなって、歯がガタガタする。
生還を壊されかけた瞬間、迫りくるサメとオレたちに間に颯爽と誰かが割り込んだ。
っ……人魚。
ユラユラと揺れる水色の髪。素早くしなやかな泳ぎは優雅で、水を意のままに操っているようでもあった。
そいつは迫りくるサメに正面から向かっていく。『王将』(こんなもよう)が描かれた木片を両手で振り上げ、敵の鼻っ面に思いっきり叩きつけた。
サメは重い一撃に怯んだのか、ウヨウヨとあたりを遊泳し始めた。
助かった……でも、何が。
呆然と漂っていると、黄緑色のワンピースを着た人魚が振り返った。水色のショートに青い瞳、口元は楽しそうに綻んでいる。
やわらかで包み込むような表情に見とれてしまった。
……キレイ。
ワンピースのスカートが魚のヒレのようにユラユラと揺れていて、身体の一部のように感じる。海特有の青と薄い光のカーテンに照らされると、幻想的に見えてくる。
キレイは微笑んだまま、手に縄を持って何かを示してきた。
え……あっ!
縄はキレイの腰に括られている。振り返ると、もう片方は漂いながらも海面へと伸びていた。
これを辿ればナナシまで戻れる。弛んでいるのは距離が近い証拠だ。いける。けどその前に、息をしないと。
ガレキの限界は近い。オレは縄を手に緩くつかんで、まっすぐ海面へと上昇した。
だけど、途中で魚影が視界のすみをかすめる。ゾクリと悪寒がした。見ると、さっきのサメがまだオレたちを狙っていた。
あいつ。まだオレたちを狙っ……。
遊泳していたサメは向きを変え、再び襲いかかってきた。
油断していた。キレイの一撃で終わったと思っていた。避ける態勢も覚悟もできちゃいない。今度こそ死という、ドス黒くまとわりついてくる何かに捉えられたと感じた。
だがキレイは水中の動きにくさをものともせず、サメとの間に割って入った。再び鼻っ面に放たれる木片の一撃。
再度阻まれたサメだけど、諦めた感じは全然ない。
くそっ。キレイひとりで大丈夫なのか?
心配して見下ろす。視線を感じ取ったようで、振り向いた。穏やかに微笑んで、わたしは大丈夫って言うように頷いた。
自信に満ちあふれた、力強い表情だ。
かといって相手はサメだ。キレイひとりに任せていいとは思えない。けど……。
しっちゃかめっちゃかにガレキが暴れまわっている。もう見なくても危険域だ。
くっ、頼むぜキレイ。
サメとキレイを尻目に、海面へ急いだ。
「ぶはっ。はぁはぁ……」
「げほっ。げほっ。かはっ……はぁ……」
海と空を分ける境界線。オレたちは海面を突き破ると、大きく息を吸い込んだ。波に揺られつつも、必死に息を吸い込む。
「ガレキ、大丈夫か」
苦しそうに咳き込んでいるガレキを確認する。水を飲んじまっているんだろう。早く安全なところ、ナナシで落ち着かせないと。
つかんだ縄を目で辿る。光がチラチラと反射する海面の向こうに、木造船体があった。青い海の上、透き通るような明るい空を背景に、佇んでいるように見える。
「てか、止まってないか」
ピンと張ってあったはずの帆が、はためいている。あれじゃ風なんて推進力にならねぇ。
「げほっ、げほっ。ゲンキ……何で……」
「家族が死にかけてんだ。助けて当然だろ!」
この期に及んでガレキは陰気なことを言いやがる。もっと助かったことを、素直に喜べばいいのに。
「いろいろ言いてぇことがあるけど、いったんナナシまで戻るぞ」
キレイが気になるけど、ガレキをここでひとりにはさせられない。オレが戻るまで無事でいてくれよ。
気持ちを無理やり押さえつけて、ナナシのもとへと急いだ。
早く……早く。
ただでさえ泳ぐスピードは速くない。ガレキを抱えてだとより遅くなる。ナナシになかなか近づくことができない。
くそ。急がねぇといけないのに、何でオレはこうまで遅いんだ。
呪いたくなる気持ちを奥歯に込めて噛み潰す。
嘆いている場合じゃねぇ。とにかく進むんだ。
全力で腕を伸ばして、足をフル稼働させる。動力炉である心臓が悲鳴を上げようが、とにかく動かす。
バシャバシャと水しぶきを上げて、全身で海を叩きつけながら進んだ。
「はぁ、はぁ。着いた!」
それでも辿り着くのに時間がかかっちまった。
視界いっぱいに広がる木造船。息を荒げながら左右を見渡すと、船の腹の部分に縄バシゴが垂れさがっていた。
「ゲンキ、ガレキ」
「がれきっ!」
見上げるとママとヒメが並んで顔を出していた。
てかヒメ。オレの存在が消えているだろ。別にいいけどさ。
「ガレキ、縄バシゴ、ひとりで上れるか?」
縄バシゴの元まで泳ぎながら聞く。
「上れるっての。ここまできたら、ウダウダ言わねぇ」
呆れたような返事。ため息でもつきたそうな感じだ。
「そっか。はっきり言ってお守りはしてやらねぇぞ。キレイが気になるからな」
本当はすぐにでもキレイのもとに行きたかった。けどガレキは泳げないから、最低でも縄バシゴはつかませなければいけない。
最後の仕上げが、本当にもどかしい。
「ったく。たいしたもんだ。お前も、キレイもな」
ガレキが感心したような捨て台詞をはいて、縄バシゴをしっかりと握りしめた。
「ガレキ、そういうのは全部終わってから言うもんだぜ!」
オレは荒れる息を無理やり大きく吸った。荒々しい強引な深呼吸を二・三回繰り返して、海へと再び潜る。
思ったより時間を食っちまった。キレイは無事なのか。早くしないと。
漂う縄を辿って、海中を進む。穏やかで波なんて起きようもない空間。差し込む光と深い青色の狭間を進む。
くそっ、思ったより遠い。まだ見えねぇ。
透明で透き通っているはずの海なのに、いざ遠くを見ると視界が効きにくい。普段は色鮮やかで心が奪われる光景なのに、今はやたら憎らしい。
とっさだったから、さっきはサメを任せちまった。キレイは確かに昨日まで、海にトラウマを抱えていたのに。
偽りのない、楽しそうな表情で微笑んでいた。力強くて頼りがいのある笑顔だった。見とれるほど、綺麗な存在感だった。
だからつい、ひとりっきりにしてしまった。
たぶんそれが、一番キレイが怖がっていることなのに。
前方に漂うふたつの影が見えてくる。
見つけた。状況はどうなっている。
何がどうあれ、急がなければいけない。近づくと、ふたつの輪郭がはっきり見えるようになる。
なっ、これは……キレイっ!
ふたつの身体は、海にプカプカと浮かんでいた。
サメは進むわけでもなく、グッタリと横になっていた。
キレイは服や髪先をユラユラと漂わせながら、力なくのけぞっていた。
相打ち? いや、どうやったって相打ちにはならねーだろ。たぶんキレイがどうやってか仕留めたんだ。けど終わったところで息が続かなくなって……急がねぇと!
キレイが溺れた。
どれくらい経った?
間に合うのか?
いや、何としても間に合わせる!
自分でもわからないくらいの速さで考えが進む。とにかく時間がないから、急ぐ。
キレイの身体を脇に抱える。何ひとつ抵抗がない。危機感が凍るような冷たさになって、身体中を巡る。
ダメかもしれない?
諦めるな。
絶望が浮かび上がってくるたびに、強引に押さえつけて泳いだ。
海面を突き破って、外に顔を出す。
「ぶはっ。はぁ、はぁ……キレイ。おいキレイ!」
キレイを抱えなおして、顔を海から出す。
ガレキのときと違って、せき込む反応すらない。グッタリと俯いて、髪が濡れて垂れさがっている。
「キレイっ。キレイっ……くそっ!」
呼びかけながら、必死になってナナシへと戻る。
進め。
海そのものがオレの敵に思えてきた。
進め。
憎っくき海面をひたすら蹴って、ウザったい波をかき分けて、ひたすらナナシを目指す。
進め!
一秒でも早く辿りつく。ただそれだけを胸に手足を動かした。
近づく船体。悲鳴を上げる身体。早まる鼓動。
もう、全部がウザったい。オレを行かせろ。今すぐにっ!
ようやく縄バシゴに手をかけたオレは上に向かって叫んだ。
「縄っ、引っ張って! キレイが溺れた!」
見上げると、ママがひとりこちらを見下ろしていた。
「っ! わかった。ゲンキもできるだけ上ってきて!」
ママが反応して、首を船内に引っ込める。縄の回収をしてくれているんだと思う。けど長さが相当あるから、すぐにキレイを引き上げるサポートにはなってくれない。
「これ……上りきらなきゃいけねぇんだよな」
縄バシゴを上るのは思ったより体力がいる。衣類が水を吸っていれば重くなるし、ひとしきり泳いだ後だと疲れも溜まる。
自分ひとりでさえ重労働だ。なのにキレイを抱えて上らなければいけない。意識のない人間の身体は、アホみたいに重い。
「とはいえ、縄が張るまで待ってられねぇぜ」
一刻を争う。握っているハシゴに力を入れて、ひとつ身体を持ち上げる。縄に足をかけて、ひとブロックずつ上っていく。
「なんだ。思ったより余裕じゃねぇか」
軽口を無理やりはき出す。最初の方は、水に浸かっていたから余裕があった。
だけど海面から腰が出たあたりで、重みが急激に増す。
左腕にキレイの全体重がかかった。上に伸ばす腕は、一回ごとに弾みをつけなければ届かなくなってしまう。
不安定な縄バシゴの上だ。一回バランスを崩すだけで、まっさかさまに落ちてしまう。
「うっお、これは……ママが縄を手繰り寄せるまで待った方がいいか?」
まだ足が海から出たぐらいだ。まだまだ遠い。けど、キレイを支えている腕がプルプルしてきた。腕も次の段に伸びない。
「……でもっ! ここで留まってるわけにはいかねぇんだ!」
気合でひとつ手を伸ばして、縄をつかんだ。引き上げるたびに、身体が悲鳴を上げる。
船員六名しかいない、かけがえのない家族なんだ。
みんなで楽しく、笑ってすごしたいんだ。
こんなところで、欠けて堪るか!
「うおぉぉっ!」
叫びを力に変えてひとつ、またひとつと上っていく。
そして、ついに船べりに手がかかった。
「うしっ!」
あと一歩だ。あと一歩でキレイの身体を船べりに預けることができる。
そう思った瞬間、気が緩んでしまった。溜まっていた疲労が身体中にのしかかってきて、動けなくなる。
おい、冗談だろ。こんなところで動けなくなってどうすんだよ。あと一歩。もう、とどめを刺すだけでいいんだぞ。
思いとは裏腹に、身体は冷えを感じて震えだす。まだ昼間だっていうのに、視界が暗くなってきた。
まだだ。まだ終わってなんていない。
胃の中の物がグルグルと動き回っている気がする。踏ん張りどきだっていうのに、力が抜けていっている。
左腕から、キレイの身体がずり落ちる。
ちょ、待てよ。冗談じゃねぇぞ。こんなっ……こんなところで。
暗闇に埋もれていく中で、じんわりと右手に温かさを感じた。
「えっ?」
不意に見上げると、ママの微笑みがあった。
「ほら、あと一歩よ。男の子」
何って気の抜けた声援だよ。ホントに状況わかっているのか?
怒るわけでも、急かすわけでもない。子供を励ますように、両手でオレの手を包み込んだ。ご丁寧にウインクもつけて。
「年甲斐もなく力が抜けることを言ってくれるぜ」
だけど、余裕が出てきた。もう一歩ならいける。
ママはオレの悪態を気にすることなく、期待のまなざしを向ける。
いいぜ。応えてやるよ!
「せーの……そらっ!」
勢いをのせて、もう一段上ってやった。キレイの肩が船べりまで持ち上がる。
「よくやった。あとは任せて。どっせい!」
ママがキレイの両脇に腕を入れると、気合を一声入れて一気に持ち上げた。少し引きずりつつも、甲板へと収まっていく。
「ははっ。さすがママだぜ」
乾いた笑みをこぼしつつも、軽くなった身体をナナシに押し込んだ。船べりを這うように、ベタリと頭から甲板に落ちた。
「はぁ……はぁ……」
仰向けに転がって、太陽の光を真正面から浴びながら息を吸い込む。疲れた、身体がだるい。でも……。
「まだ終わってない」
うつぶせに転がり、床に手をつけて身体や顔を揺らしながら立ち上がった。
なんか、生きたまま死んでいる気分だぜ。まぁ、死んでなんていられないけどな。
周囲を見渡す。レッカがオレの上着を握りしめて、オドオドしながら甲板にへたり込んでいる。
ガレキが口をポカンと開けながら船べりにもたれて座っている。胸には泣きじゃくるヒメがいた。
全身ずぶ濡れでベタベタなはずなのに、ヒメは一切気にした様子もなくガレキに抱き着いている。
そして目の前にはママの背中があった。渾身の力を込めて、キレイに心臓マッサージをしていた。ドスドスと音を立てながら、心臓に動けと直接叫んでいるみたいだ。
鬼気迫る感じに、足がすくんじまう。
これは私の役得だから邪魔するな。
小さいくせに大きく見えた背中。私に任せときなさいと言われた気がした。
……さすがはママってことか。今だってキレイは危ういのに、不思議ともう大丈夫だって思えちまう。
「なぁ、ゲンキ」
人工呼吸をしている姿を眺めていると、弱った声をかけられた。振り向くと、ガレキがヒメを抱えたまま見上げている。
「どうした?」
「俺は、生きてていいのか? 生きることを望んでいいのか?」
遠い目をして、独り言のように空へと疑問をこぼす。
あまりに今更な問いかけだったから、即答してやった。
「いいに決まってんだろ」
「っ! ……そっか」
ガレキは瞳にわずかな穏やかさを灯すと、視線をヒメへと下ろした。小さくて、存在感の大きな命を、震えた手でゆっくりと抱きしめる。
ハシゴを上っているときに見かけないと思ったら、イチャイチャしてやがったのか。必死になっていたことを考えると、文句のひとつも言いたくなるぜ。
けど、何か一線を越えられたみたいだ。ようやく進展したんなら、余計なチャチャは入れない方がいいな。
「ごほっ! かはっかはっ。はぁはぁ……」
盛大に咳き込む音。反射的に視線をキレイへと戻すと、水を吐いて息を吹き返していた。
「キレイっ!」
疲れ切った身体が勝手に動いた。キレイの傍で両手と膝をついて顔を覗き込む。
濡れた髪と服が甲板にペッタリとはりついているように見える。
胸を荒々しく上下させて、ゆっくりと薄目を開いた。うつろに視線を動かして状況を確認しているみたいだ。
「はぁはぁ……ママ、ゲンキも。よかった……無事だったんだ」
蒼白な顔で、髪も額に張りついている。弱々しい姿を目の当たりにして、不謹慎だけどオレの心臓が確かに跳ねた。消え入りそうな声が耳に届く。
「そんなことよりキレイは大丈夫なのか!」
「ほらゲンキ。そんな大声出さないの。ちゃんと聞こえてるから」
声を大きくして早口に確認したら、ママにやんわり叱られた。
「わたし? ……そっか。溺れちゃったんだっけ。やっぱり、ブランクが大きいなぁ」
普段まとっている敬語が外れている。右手を空に伸ばして広げながら、独り言のように続けた。
「しぶとかったな。サメなんて根が臆病だから、鼻っ面を一発殴れば、普通は逃げていくのに。しつこいったらありゃしないよ」
自分の手を見つめながら、独白を続ける。
「一メートルぐらいの小型のサメ。一匹だけなら余裕って思ったのにな。絞め殺すところまではできたんだけど、それから溺れちゃった」
手をゆっくり下ろすと、オレと視線が合った。
「ゲンキが、助けてくれたの?」
言葉に詰まる。
助けられた。助けようとした。間に合わなかった。溺れさせてしまった。急いで泳いだけど全然遅かった。
「一応……そうだぜ」
だから目を逸らして曖昧に言った。堂々と助けただなんて宣言できねぇ。
「そっか。助けてもらったんだ……助けて、もらえたんだ……」
「キレイ?」
青い瞳がうるんでいって、あふれ出した。小鳥がさえずるように息が途切れ途切れになって、表情がクシャクシャになった。
「怖かった……怖かったよぉ。誰も助けてくれないんじゃないかって……また縄が切れちゃってるんじゃないかって……うあぁあぁぁ!」
キレイは勢いよく身体を起こすと、オレに抱き着いて耳元で泣き叫んだ。
「えっ……と」
手をあたふたさせながら戸惑う。
この役目はオレでいいのか。オレにその資格はあるのか?
わかんねぇ。わかんねぇけど今だけは抱きしめたい。
「大丈夫だぜ。オレは間違っても、見捨てたりだけはしないから」
「うんっ……うん……」
しばらく、キレイのしたいようにさせてやった。
「……ありがと、ゲンキ。ごめんね、いきなり抱き着いちゃって」
キレイは落ち着いたようで、腕をほどくとばつが悪そうにはにかんだ。
「いや、別にいいけどさ」
満更でもなかったからな。そういや、いつの間にか呼び捨てで呼ばれている。壁が壊れたのか、いい感じだ。
「それより立てるか?」
オレは聞きながら立ち上がると、手を差し出す。キレイはありがとと言って手をとった。
「よっと」
一声あげて引き上げ、キレイを立たせた。
「ふふっ。ホーント、ゲンキは油断ならないな」
はにかみながら、冗談交じりに微笑んだ。
「そうか? まぁいいや。さて、と」
今だにへたり込んでいるレッカの方に振り向いた。みんなもつられて注目する。
かわいそうなほど怯えている。まるで悲劇のヒロインだな。
「ごっ……ごめんなさい。ごめんなさい!」
身体を震わして、ひたすら謝ってきた。
レッカは、急なことに物凄く弱いからな。
「いや、別に責めてるわけじゃねぇぞ。あのときはオレも調子に乗りすぎてた」
頭をかきながら左下を見て謝る。
「そうそう。レッカが全部悪いわけじゃないわ」
ママが両手を胸の前で合わせて、微笑んだ。
「誰も茶化しあいで船が壊れるだなんて思わねぇだろ」
ガレキが船べりにもたれたまま、同情する。たぶん本音だ。
ヒメはガレキの胸から離れて立ち上がると、レッカに歩み寄った。
「……ヒメ?」
「れっか――っ」
一回り小さくなったんじゃないかってほど、縮こまるレッカ。震える肩をヒメがトンと叩いて、穏やかな声色で言った。
険悪な感じなどみじんもない、穏やかな表情で。
「――っ」
ヒメは言うだけ言うと、ガレキのもとに戻ってちょこんと座った。
「大丈夫。誰もレッカのことを怒ってなんていないよ」
キレイが安心させるように笑って、手を差し出した。
「ちがっ……違うの。ゲンキを殴り飛ばしたこともそうだけど、それだけじゃないの!」
レッカはキレイの手を拒絶するように、赤いツインテールを揺らしながら首をブンブンと振った。
「あたい、知ってた……その場所が腐ってて、脆くなってるのを知ってたのに、誰にも言ってなかったから。ついさっき壊れるまで……忘れちゃってたから。知ってたのに……」
声がしおれて、力なく俯いていく。目元には涙が溜まっていた。
あぁ、それでこの落ち込みっぷりか。ただでさえ非常事態に弱いレッカだ。自分で重ねちまったミスが、アホみたいに膨らんで気持ちがギュウギュウなんだろうな。
ため息をついてから、レッカに近づく。顔は上げてないけど、足音が聞こえるたびにビクビク身体を震わせる。
オレは手のひらを、赤い髪の上にやさしく置いて撫でた。
「何で勝手に落ち込んでんだよ」
「え?」
レッカは驚いて顔を上げる。
「ほら、みんな無事に生きてるだろ。何の問題もないぜ」
オレはレッカに、全員を見るように誘導した。穏やかに並んで座るガレキとヒメ。ビキニ姿が痛いけど、様子を見守ってくれるママ。自分の意志でちゃんと立って微笑んでいるキレイ。みんな、誰も失わなかったことに幸せを感じている。
「あっ……」
「なっ。だから気にすんな」
からかうように歯をイーってして笑ってやった。
「あっ、うっ……あっ。うわぁぁあぁ!」
レッカは安心したのか、握りしめているオレの服に、顔をうずめて泣き出した。感情が決壊してあふれ出したみたいだ。
何っつーか、今日はみんなよく泣くな。
オレは呆れながらも、レッカの頭をひたすら撫でた。
レッカは落ち着くと、改めてみんなに謝った。
みんなもう気にしてなかった。けどここはいったん受け止めないと、延々と引きずりそうだったので好きにさせてやった。
後から知ったけど、オレがバシゴを上っている途中で、ママが縄を引っ張ってサポートしてくれていたらしい。夢中で全然気づかなかった。
さらにママは、ナナシを止めるために帆の縄をほどいていたみたいだ。
だからもう一度、全員で帆の張り具合を調整。それを終えてからみんな、思い思いに休暇を楽しんだ。
日はあっという間に沈んで、晩飯を食った。
オレはひとりで風呂に入って、右手を眺めながら考える。
暗い気分になるのもらしくないって思うから、首を振って切り捨てた。
腰にさらしを巻き、緑のカーゴパンツ姿で洗面所を出た。
後は部屋に戻って寝るだけだ。
「ゲンキ。ちょっといい?」
電気に照らされているけど、薄暗い廊下。呼び声に振り返ると、グレーのスウェットパジャマを着たママがニッコリと笑っていた。茶色い髪は無造作に背中に流れている。
胸さえなければ、違和感なくお子様だ。
「ママか。どうした?」
「ちょぉーっと、屈んでほしいんだけど」
ママはオレに近づきながら、よくわからないことを要求してきた。
「なんで屈まないといけないんだ?」
「まぁまぁ。ママを助けると思って、屈んでちょーだいな」
「ったく、何がしたい……おうっ!」
オレが中腰に屈んだ瞬間、ママは何を血迷ったのか、顔を胸に抱き寄せられてしまった。
「ちょ、いきなり何がしたいんだよ」
吸い込まれるような柔らかさに、一瞬理性を手放しかけた。
「キレイを海において戻ってきたとき、悔しかったんでしょ」
やさしくも無造作に、敏感な部分を握られた。
ガレキが落ちたとき、飛び込んだとき、ひとりで全部片づけられると思っていた。
サメに襲われて、ガレキが溺れかけて、海の奥底にある深い闇に包まれたような恐怖を感じた。
キレイに助けられたとき、泳ぐ速さに、揺るがない力強さに、滑らかで無駄のない動きに、不甲斐なくも実力の壁を感じた。
ガレキの……オレの限界を感じて、無責任にもキレイに全部押しつけちまった。
胸の奥に潜んでいた、重苦しい鎖のようなものに心が締めつけられる。
「大丈夫。誰だって弱い部分はあるんだから。隠し通すだけだと、いつか爆ぜちゃうわ」
ママはやさしく包み込みながら、オレの背中を撫でる。
がんじがらめになっている心を、ちょっとずつほどくように。
「……の泳ぎは遅かった」
「っ……」
心の呟きが、言葉になって口からはきだされる。
「急いでも全然進まなかった。泳いでるうちにガレキをうっとうしく感じてきた。何度も、ガレキを捨ててキレイのもとに行こうって思っちまった」
「うん」
「それでもガレキをナナシまで運んで、すぐにキレイのもとに向かったんだ。けどやっぱりオレは遅くって、辿り着いたときには、キレイとサメが浮かんでて……」
もたもたしていた自分を呪った。間に合わなかったって思ったら、身体が凍りついたように冷えた。一瞬、確かに諦めちまった。
「オレは……オレは……」
言いようのない悔しさは体中を駆け抜けて、目からあふれそうになる。
気づいたらママを全力で抱きしめている。のどが喘ぐもんだから呼吸が苦しくなる。言いたいことがゴッチャになって、それでもオレの中の意地ってやつが、決壊させないように抑え込む。
「大丈夫。ゲンキのしたことは無駄じゃないわ。だから、全部をしょい込まなくてもいいのよ。みんな、無事だったんだから」
みんな生きている。当たり前に終わった結果が、オレの意地を叩き割った。
まいったな。オレがレッカに言ったことが、まんま返ってくるなんてな。
ママの小さな身体に、力いっぱい抱き着いた。まるで子供みたいに。
「そうそう。行き場のない感情は爆発させちゃう方がいいわ。みんな何かしら抱えてるんだから。私にだって、ママの意地はあるのよ」
ママには敵わないな。
感情の荒波の中で、妙に冷静にそんなことを思ったぜ。
心は妙にすっきりした。部屋に戻るとストンと眠っちまった。
朝起きると、オレはやっぱり床で寝ていた。
またいつもの一日が始まる。食堂に行って、ママをからかいながら朝飯を食べた。
倉庫で漁の道具を取ってきて、甲板へと出る。
穏やかな青空と海。帆に風を受け、白波の軌跡を刻みながら進む木造船のナナシ。
「おはようございます。ゲンキさん」
振り向くと、キレイがデッキブラシを両手に持っていた。青い瞳が穏やかに輝いている。ショルダーバッグをかけていないのが、昨日と違うところだな。
「おはよう。ってか、キレイは漁にでないのか?」
言葉も敬語に戻っちまっているし。やっぱ人間、そんなに簡単には変われないか。
「はい。別に海が怖いってわけじゃないんですよ。昨日潜ってみて、改めて好きな場所だって思いましたし」
「じゃあ何で?」
「だってわたしが漁に出たら、ナナシを掃除する人がいなくなっちゃいますよ」
口もとに軽く握った手を寄せて、クスリと笑った。
昨日までと比べて、自然な動作になっている。少しは影響でてるのかもな。
「でも、ときどき交代してくれると嬉しいです。実はわたし、掃除ってあまり好きじゃないので」
「ははっ。それいいな。あとでレッカに言っとかないと」
ちょっとした打ち明け話に、思わず声を出して笑っちまった。
「なにを他人事みたいに言ってるんですか。ゲンキさんとも変わってもらうつもりですよ」
一瞬、何を言われたかわからなかった。
「……おい、マジか?」
「ふふっ。漁の気分になったら、わたしのわがまま聞いてくださいね」
微笑みながら、青い瞳をウインクさせた。
おいおい、昨日までは気にならなかったのにな。急に色っぽく思えてきた。
「あっ、そうそう。昨日のことで、ちょっとショックなことがあったんですよ」
キレイは何かを思い出すと、ばつが悪そうに視線を甲板に落とす。
「どうした。何かめんどうなことでもあったか?」
驚いて両手と足幅を広げ、膝を曲げた。
「はい。あの木製の板、溺れたときに海に落としちゃったんです」
「……あぁ」
どれほど重要なことかと思ったら、どうでもいいことだった。
「だから今日は、バッグをかけてないのか」
「バッグだけじゃ意味ありませんからね。アレ、気に入ってたのになぁ」
口もとに指を立てて、もの惜しそうに呟いた。
でも、少しぐらいわがままな方がらしい気がする。ちょっとずつ、心に溜まっているものをはき出せられるようになれよ。
「もう一回、倉庫漁ってみようかな」
「ほどほどにな」
若干呆れながらも、キレイと別れてオレは海に飛び込んだ。
漁の結果はいまいちだった。
落ち込んでいても仕方ねぇから、気分を変えて昼飯を食う。
特に何かやろうと思わず、甲板を散歩する。
「げんき――っ」
甘くかわいい声に目を向けると、ヒメが笑顔で手を振っていた。長い金髪をフリフリ揺らしている。機嫌がよさそうだ。傍にはガレキがセットでついている。
「よぉ」
ガレキも顔近くまで手をあげて、低い声で短く挨拶をした。
「よぉ。ふたりとも気分はどうだ?」
「――っ」
ヒメがガレキの手を引っ張って近づいてきた。相変わらず何を言っているかわからない。わからないけど、妙に上機嫌で人懐っこくなっている気がする。
「上々だ……ヒメはな。普段は仲の悪いレッカにも、ヒメから声をかけてたからな」
「へぇ。急に友好的になったな。いいことじゃねぇか」
あの、ガレキ以外興味なしって感じだったヒメがね。
「おかげで、いろいろと振り回されてめんどうだ」
ガレキは頭をかきながら、ボソリと吐き捨てた。
「満更でもねぇくせに」
でも表情はどこかやわらかく、ヒメの行動を楽しんでいるように見える。だからついついニヤけちまう。
「がれき――っ」
ヒメはガレキに振り返ると、ギュムっと足に抱き着いた。
「あぁ、今日も平和だな」
対してガレキは適切に言葉を返しながら、口角を少しだけあげてヒメの頭を撫でる。
「ホント平和だな、お前ら」
微笑ましい限りだぜ。もしもオレがママだったら……。
オレは考えるのをやめて、邪魔にならないようにその場を離れた。
「で、あんたはこんなところで昼寝してるわけ」
ガレキとヒメのコンビと別れたオレは、大の字になって昼寝をしていた。
呆れた声に目を覚ます。濃い青空を背景に、レッカがすぐ傍で立っていた。腰に手を当てて、見下ろしている。
……相変わらず平たいな。ほぼ垂直に下から見るとよくわかる。そういや自称フライパンだっけ。ひょっとするとへこんでいるかもしれない。
フレアスカートの中もバッチリ見えていたけど、レッカのスパッツなんて今更だ。
「何か失礼なこと考えてない」
「うぐっ!」
レッカの足が顔面に、容赦なく振ってきた。手足が反動で跳ねる。
「何すんだよ。オレの顔がフライパンみたいにへこむじゃねぇかっぁぁぁ!」
反論したら足をグイグイとされた。
「あだだだ……レッカ。少しは手加減を覚えたらどうだ?」
「論外ね。あんたに手心を加えたらつけあがる一方でしょ」
呆れつつも足をどかして、隣に腰を下ろすレッカ。オレも身体を起こす。
「痛ててて……で、何か用か?」
ぶっきらぼうに返して表情を覗くと、赤い瞳が俯いた。
「あっ、うん。昨日は、何っていうか……その。お世話になったから……ね」
「気にすんな。もう済んだことだぜ」
空を見上げながら、テキトーに返す。昼間だけあって、塗りつめたような青が広がっている。
「それでも、ちゃんと謝りたいのよ!」
勢いのある叫びに視線を戻すと、赤い瞳がオレを突き刺さんばかりにまっすぐ向けられていた。
謝る……か。
「……悪かったな」
「ちょっ、何でゲンキが謝るのよ」
「いや、そういやオレ、誰にも謝ってなかったからな。だからまず手始めにな」
頭を下げると、開いた両手をブンブン振って戸惑った。
「やめてよ。ゲンキにそんなことされるなんて、何だか調子が狂うじゃない」
「だよな」
「へっ?」
オレが呆気なく切り返すと、レッカはポカンと口を開けちまった。
「こういう謝るの連続って、やってるとキリがないし気分もどんどん沈んじまうぜ」
レッカ相手にらしくねぇけど、安心できるようにニヤっと笑ってやる。
「だからこれで終わりだ。んでもって、明日からどっちが多く魚を獲るか勝負しようぜ」
膝に手をついて立ち上がり、振り返って見下ろした。
赤い瞳を真ん丸に広げて、見上げていたレッカ。
「まっ、オレとレッカじゃ勝負にならねぇだろうけどな」
見開いていた目が、だんだん鋭い角度に変わる。心が身体に戻ったように、瞳が輝きだした。
「上等よ。大差で圧勝してやるんだから」
レッカは宣言すると、挑戦的にニヤついた。
「……ふっ、はははっ」
睨み合っていると、何だかおかしくなってふたりで吹き出した。
「明日からまたよろしくな、レッカ」
ひとしきり笑い終わったオレは、レッカに手を伸ばす。
「足引っ張ったらブン殴るんだからね」
手を取り、立ち上がってから睨まれた。
ナナシは今日もどこかへ進んでいく。
繰り返すようで、ちょっとずつ違う毎日を重ねながら。
ハプニングもたまにはあるけれど、六人の家族でならきっと乗り越えられる。
「上等だぜ」
みんないろんなことを抱えている。すぐに変われるわけじゃない。けど、ちょっとずつ成長することも、染まっていくこともできる。
ちょっとずつ日々を変えながら、ナナシは明日へと進んでいく。
海を裂きながら、どこまでも。どこまでも……。