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ヒメ一直進

 笑顔とは、他人に取り入って意のままに操るための仮面ね。

 ワタクシは貴族(きぞく)船ヴォルフラムという、やたら豪華な船で生まれ育った。

 けっこう身分が高い家の、第二子の姫。貴族船に乗る人々は、狭い船上生活だというのに、地位と身分と優雅さに重きを置いている。

 政略結婚なんて当たり前。暗躍や暗殺といった黒い部分もいっぱいあって、豪華さとは打って変わった、物騒な世界だった。

 みんながみんな、自分の取り巻く状況をよくしようと、笑顔の仮面をかぶる。

 笑顔で名家に潜り込んで、甘い蜜をすすろうと懸命になっていた。

 ワタクシは生まれたときから、嫁に出す道具として育てられた。仕草や佇まいを始め、夜伽(よとぎ)の作法までも教えられた。全ては家の未来のために。

 ただ、あまり目立ちすぎるのもよくない。出る杭は打たれちゃうから。

 ある日、父が事業に成功して一躍有名になった。後から思うとあれが悪目立ちの始まりだった。

 次々と笑顔の仮面がワタクシたち一家に群がってきた。

 ワタクシたちに取り入って、内側から出る杭を打つために。

 気づいたときには崖っぷちだった。兄はいつの間にか、煙のように消息を絶っていた。

 跡取りを潰すことで、家の未来を殺そうと企ててきた。次はワタクシの番。

 お母様は何とかワタクシを逃がそうと、準備をしてくれた。

 そして別れの夜は訪れる。お母様の用意した小舟にワタクシは、少しの衣服と食料と一緒に乗せられた。

 涙の別れ、そして元気づけるための笑み。

 そこでワタクシは気づいてしまった。お母様の表情が、企みが成功したときの悪い含み笑いだということに。

 あぁ、ワタクシはこれから殺されるんだ……。

 だけど当時八歳のワタクシに、抵抗するすべなんてなかった。

 別れ話がすんだ瞬間、暗く孤独な海へと捨てられた。

 独りで海に漂っているときに何度も思った。いったいワタクシの、何が邪魔だったんだろう。

 何もできずにいるのは、途轍(とてつ)もなく時間を長く感じる。昼間が二十時間にも三十時間にもなっているんじゃないかって思った。

 食料なんてすぐになくなった。昼間は焼き殺すような太陽に、夜は凍えるような寒さに襲われた。

 だんだんと頭がぼーっとしてきて、考えるのができなくなって、ワタクシは小舟での最後の眠りについた。

 次に目が覚めたとき、ワタクシはナナシという船の、ベッドの上にいた。

 もちろん、当時は名前なんて知る由もなかった。だってナナシには、言葉が通じる人がいなかったから。

 みんながみんな、笑顔で手を差し伸べてきた。通じない言葉を、猫なで声で必死に喋りながら。

 ヴォルフラムで何度も見た、作られた笑顔を。とても信頼なんてできない。

 ナナシのみんなは小動物でも懐かせるように、笑顔を向けてくる。何の役にも立たないワタクシにご飯も用意してくれた。

 食べなきゃ生きていけないけど、何かが盛られていたらって、どうしても思ってしまう。

 何を信じていいかわからない。そもそも、信じられる者なんて存在するの?

 ワタクシはナナシの中で、人から隠れるようにすごすようになった。できるだけ見つからないように、限りなく不気味な笑顔を向けられないように。

 常に神経を尖らせていたワタクシは、心を削がれるようにやつれていった。

 夜眠れない時間が増えていく、ベッドで横になることさえも怖くなった。

 夜な夜な部屋を抜け出して、食堂の隅にうずくまった。

 足音は立てないように歩いたつもりだけど、ときおり肩を叩いて話しかけられた。

 見上げると、目に飛び込んでくる。月の光に照らされた、作り笑い。まるで、お母様との別れを再現したような笑み。

 もぉやめてほしい。ワタクシに関わらないで。もぉ、イヤな記憶を(えぐ)らないで……。

 そんなことが何回かあったけど、ついに誰も喋ってこなくなった。

 ホっと安心した反面、見捨てられたような暗い喪失感(そうしつかん)に苦しめられた。

 もぉ、ワタクシなんてどうでもいいんだ。

 その日もそう思って、暗い食堂の片隅で膝を抱えていた。

 足音が聞こえてきて、食堂のドアが開く音がした。

 誰かきた。ワタクシは俯いたまま、恐怖で身体をビクリと震わせる。

 どうか通りすぎてほしい。いっそ、気づかないでほしい。

 拒絶した暗闇の中で願う。

 足音はそのまま台所の方まで向かっていった。小さな物音の中には、水を使う音も交じっていた。

 のどでも乾いたみたい。用が済んだら、まっすぐ自分の部屋まで戻ってよ。

 強く願う。同時に本心も同じことを考えているのか、わからなくなった。何かを願っているような気もした。

 台所での作業を終えたのか、足音は食堂に戻ってくる。

 そのまま部屋に帰るんだ。って思っていた音は、期待を裏切って近づいてきた。

 コトリ。

 床に何かを置く音が、とても大きく響いてびっくりする。反射的に見上げる。暗くてよく見えないけど、見たことない男の輪郭が高くにあった。

 ナナシで見かけたことある顔はどれも、笑顔の女性のものだった。初めて見る男に、身体がすくんでしまう。

 こいつもどうせ変わらない。誰だってみんな、他人に取り入ることに精一杯なんだ。

 見えてないかもしれないけど、精一杯に睨む。

「――っ」

 何か言ってきた。低い声とトーンで、独り言のように。

「あなたたちは何なのよ! ワタクシに構って一体何の得があるっていうのよ。言葉さえも通じないのに、笑顔で取り入ってこないでよ!」

 叫んだ瞬間、男の顔が月明かりに照らされた。

 え?

「――っ」

 男は特にひるんだ様子もなく何かを喋ると、(きびす)を返した。手をヒラヒラと振って台所に行くと、今度こそ水を飲む音がした。

 再び食堂に戻ってきたとき、ワタクシは男の顔をジックリと観察した。だらしないパンツ一枚の姿に、ひょろりと伸びた身体。

 ちぢれた黒髪は細かに編みこまれていて、紫に輝く瞳をしていた。

 しばらく見つめ合っていたんだけど、男は諦めたように鼻からため息をつく。そして何事もなかったかのように、部屋へと戻っていった。

「今の彼……一度たりとも笑顔を作っていなかった」

 相手に取り入るような、油断させてだますような、そんな笑みを作っていなかった。それって、つまり……()なの?

 生まれて今まで、一度も向けられたことのなかった無表情。何も考えてないような、感情を包み隠さない素の顔。

 ふと気がつくと、コップに入った水に目がいった。

 そういえば色々と思い詰めていて、のどが渇いている。飲んでも、いいんだよね。

 オドオドと両手を伸ばしてつかむ。ユラユラと揺れる水面は、ワタクシの動揺を表しているのかもしれない。

 ツバを飲み込んで、意を決する。ゆっくりとコップのふちに口をつけて、一口だけ水を飲んだ。

カラカラに渇いていた口の中が潤いで満たされる。何の変哲もない水に甘みを感じる。ゴクンと飲み込む。渇いたのどにしみ込むように、身体の中へと落ちてゆく。

「おいしい……おいしいよぉ……」

 両手でつかむコップを震わせながら、ワタクシは床に一滴、また一滴と涙をこぼした。

 見つけた。やっと見つけた。裏表がまるでない、信頼できる人を。彼なら信頼できる。笑顔で心を隠さないで、本心で人にやさしくできる彼なら……。

 ワタクシが彼に頼ろうと決めた瞬間だった。

 次の日から彼を見つけて、一緒に行動するようにした。最初こそ、うっとうしそうにしていた。ご飯もろくに食べようとしなかったことには驚いたな。

 いくら言っても聞かないし。そもそも通じてないから実力行使で、腕を引いて食堂まで連れていった。

 それでも食べないもんだから、ワタクシが直接食べさせてあげた。最初は戸惑っていたけど、ちゃんと食べてくれる。母性本能ってやつかな、すごくかわいく思えた。

 最初こそイヤイヤな感じだったけど、だんだん満更じゃなくなってきたみたい。ふふっ、順調ね。

 相変わらず言葉は通じないんだけど、言葉のトーンや表情でなんとなく言いたいことがわかるようになってきた。

 彼をわかっていく過程が、もう楽しくて嬉しくて。気がついたら夢中になっちゃっていた。お風呂とかトイレとか寝るときとか、離れているときが物凄くツラく感じてきちゃった。気になって会いたくて、ひとときも離れたくなくて。

 きっとこれが、恋なんだなって。

 ワタクシは初めて、ナナシに辿り着いてよかったなって思った。

 だって、ヴォルフラムじゃ結婚相手は選べないもの。

 気持ちに気づいたなら一点突破。何が何でも惚れさせてあげるんだから。

 彼に身を尽くしていると、悩みにも何となく触れることができた。彼はきっと、ワタクシと出会う前から苦しんでいる。

 無表情の中に、苦みを感じ取れるようになったから。

 彼の気持ちはどうあれ、あの夜ワタクシは確かに救われた。なら恩を返さなきゃ。女が(すた)っちゃうよ。

 待っていて。ワタクシがその身体ごと、心を解きほぐしてあげるから。

 ナナシで生活しているうちに、ワタクシは『ヒメ』と呼ばれていることに気づいた。意味は知らないけど、本名を伝えるのも難しいから、受け入れることにした。

 同時に彼も、ガレキと呼ばれているんだと理解した。

 見ていてガレキ。ワタクシはきっと、あなたの心をつかんで見せるから。


 サーサーと静かな音が耳に届く。重たいまぶたをゆっくり開けると、みずほらしい木造の天井が見える。いつもより薄暗くて、ちょっとジメっぽい。

 ワタクシはベッドの上で身体を起こした。外を見ると、灰色に曇った空から、無数の線を描いて雨が降っている。

「これじゃ日向ぼっこは無理そうね。暖かい日差しを浴びてのガレキの腕枕、好きなんだけどなぁ」

 ちょっとショックだけど、落ち込んでいてもしょうがないよね。

 ワタクシは着替えるために、ベッドから降りた。部屋の中は狭苦しく、古臭い調度類が収められている。

 どれもこれも貧相。言葉を整えれば、歴史があるって言えなくもない。壁をむき出しにしておくとより貧乏っぽいから、赤い布を豪華っぽく飾っておいた。自分でも子供だましって思うけど、ないよりましね。

 タンスの前で立ち止まって、ふと思った。

「このタンスって固いのよね。一人でも何とか開けられるんだけど、ちょっとめんどう」

 改めて自分の姿を見下ろしてみる。フリルがふんだんについた、黄色いネグリジェ。美しさよりも愛らしさが引き立つ仕様だと思う。

「着替えてから潜るのもいいけど、ネグリジェのままも色っぽいかも」

 思いついたら即決行。ワタクシはネグリジェ姿のまま、スッキプするような弾む気持ちで部屋を出た。


 薄暗い廊下を進んで目的の部屋を見る。うん。今日は誰もいないね。

「昨日はビックリしたなぁ。ママがドアの前で見張ってるんだもん」

 おかげでガレキとお昼まで離ればなれだったからイヤになる。あの笑顔の魔人に捕まったら、何されるかわからない。

 考えたら怖くなって身震いした。両手で自分の身体を抱きしめて。

 早く安心できるところに行かなくちゃ。

 念のために誰かいないか、特にママがいないかキョロキョロと確認する。

「大丈夫そうね。いざとなったら逃げればいっか」

 肩の力を抜きつつも、油断だけはしない。あふれる気持ちを抑えながら、ワタクシは他の部屋より壊れたドアを通って、ガレキの部屋へ静かに入り込んだ。

 飾りっ気のない部屋に、代わり映えのない調度(ちょうど)。そしてベッドの中。

 足音を立てないように近づくと、ガレキがスースーと静かな寝息を立てている。

 警戒心のない無骨な表情。起きているときのめんどうそうな表情もいいけど、寝顔もまた愛おしい。あぁ、何でこんなに無警戒なんだろ。襲っちゃうぞぉ。

 ガレキのホッペタにそっと、右の手のひらを添える。

 ゴツゴツした柔らかさ、ガレキの輪郭と温かい体温。全てを感覚で覚えたい。触っただけで、ガレキだと理解できるまで触り続けたい。

 望みのままにホッペタをスリスリしたいけど、起こしちゃうのももったいないね。心惜しいけど今はここまで。

 そっとホッペタから放して、左手で右手に移った体温を確かめる。

 すぐに冷めちゃうな。やっぱり他人だから、一筋縄にはいかないか。

 ガレキが自分の一部ではないことに、ついニヤけてしまう。

 こういうのは、ひとつずつ積み重ねていくから、おもしろいんだもんね。ふふっ。

 ひとしきり満足したワタクシは、かけ布団を持ち上げた。ガレキのパンイチ姿が中からでてくる。

もう、相変わらずなんだから。風邪を引かないといいんだけど。

 心配しながら、ベッドの中へとうつ伏せに潜り込んだ。ピッタリ寄りそうと、ガレキの匂いに包まれる。少し焼けたような、落ち着く匂い。

 目をつむるとすぐに眠気が襲ってきた。ワタクシはフワフワするようなまどろみに身を任せることにした。


「……――っ」

 呟くような声が聞こえる。頭には何だか、温かい感触がある。

 ゆっくりと目を開けると、見下ろしているガレキと目が合った。感覚からすると、ワタクシが覆いかぶさっていて、右手で撫でてもらっているのかな。

「おはよっ、ガレキ。今日はあいにくの雨だよ」

「――っ」

 ガレキは挨拶すると、ワタクシの頭をポンポンと叩いた。

 うん。すごくいい目覚め。ガレキもワタクシを撫でるクセがついたみたいだし、順調に仲良くなれている。

 ガレキはちょっとだけ口角を上げると、半身を起してあくびをした。

 微笑んだのかしら。笑みって嫌いなんだけど、ガレキの笑顔は素直に嬉しい。

「もぉ、だらしないんだから。でもそんなガレキも好きだよ」

 裸の上半身を見上げる。肉づきが少なくて、全体的にひょろりとしている。腕なんてアナゴみたいに伸びている。

「――っ」

 紫色の瞳が、何かを知らせるように見下ろしてくる。ガレキも天気に気づいたみたい。

「そうだね、日向ぼっこもお魚釣りもできないよね」

「――っ」

 ガレキは天井を見上げながら、頭を撫でてくれた。

 不器用な指先が、めいっぱいのやさしさを教えてくれる。胸の中が温かいものであふれ出して、笑みが止まらなくなっちゃう。

「ガレキっ」

「おわっ。――っ」

 ワタクシは感情のままに、横っ腹から抱きついて、ホッペタでスリスリしたわ。

「――っ」

 何かを諦めたようなガレキの口調は、満足するまで好きにしていいよっていうサイン。心行くまで触っちゃうよ。

 少しすると、また頭を撫でてもらった。ガレキも手持無沙汰だったもんね。これでもかってぐらいに愛でていいよ。

 ワタクシはこのままでもいいんだけど、ガレキにはしっかり食事をとってもらわないといけない。名残惜しいけど、ここまでね。

「ねぇ、ガレキ。朝食にしよっか」

 見上げて問いかけると、低い声で返事が返ってきた。

 反応があるって、大事なことだよね。

 ワタクシがベッドから出ると、タンスの前に移動する。着替えさせるために導こうと思ったんだけど、その前にやりたいことがあったんだった。クルンと振り返る。

「ねぇガレキ。このパジャマ、ワタクシに似合ってるかな?」

 裾をつかんで、首を傾げながら聞いてみた。

「――っ」

「でしょ。フリルがかわいいよね」

 ガレキは身じろぎせずに、何の感情も声に乗せないで応えた。でも不思議と、かわいいって言ってくれた気がしたの。やってみてよかった。

「じゃあガレキ、部屋から出るから着替えてね」

 ワタクシはタンスをパンパンと叩きながら、ガレキを呼んだ。

「――っ」

 ガレキは後ろ髪をボリボリとかきながら、めんどうそうにベッドから出る。たぶん、ホントにめんどうって言っているんだと思う。

「ほら、いつまでもパンイチだと風邪引いちゃうよ。まぁワタクシとしては、ずっと見ていたい気持ちもあるけどね」

 言葉が通じないから堂々と喋れる。ううん。通じていても喋っているだろうな。だってワタクシだもん。

 大事な部分しか隠れていない姿は、いくらでも見ていられる。浮き上がる骨の形。ほっそりとしたシルエット。足の指の形まで、脳内のキャンバスに書きとどめる。

 あぁ、紙があったら本気で描きとめたいな。ニッコニコの笑顔が抑えられない。

 ガレキはため息をつくと、のっそりとタンスの前まで歩いてきた。近くで見上げると、頭ひとつ分以上に背が高い。

「――っ」

「ここに立ってたら危ないもんね。ベッドに座って待ってるから、早く着替えてね」

 ワタクシはテトテトとベッドに腰かける。両手をホッペタにあててガレキの背中を観察する。

 ズボンを穿()くときの片足立ちの危うさとか、服を着るときの背筋の動きとかを、じっくりと見せてくれるガレキが好きだよ。

「おう――っ」

 ガレキは着替え終わると、ワタクシを手招きしてくれた。

「もぉ、焦らなくてもいいよ。ワタクシの隣はガレキの特等席なんだから」

 でも、ついにガレキからワタクシを求めてくれたんだよね。まだまだ道のりは遠いけど、ゴールに一歩近づいたね。

 ガレキの隣に並ぶと。ガレキの手がワタクシの頭に乗った。

「ふふっ。そうだよね。ワタクシの頭はガレキ専用だもんね」

「――っ」

 見上げて微笑むと、口角を上げて不器用に笑ってくれた。何っていうか、ワタクシの平和がここにある。確かに今、感じている。

「あっ、そうだ。朝食の前に、ガレキに頼みたいことがあるの。お願い聞いてくれる?」

 コテンと首を傾げてお願いする。

「んっ、――っ」

 何だかわからないけど、とりあえず返事しましたって感じかな。たぶん食堂に向かうって、勘違いしているね。これは着いてビックリかも。

 想像すると、笑いが込み上げてきちゃう。

「じゃあ行きましょ」

「――っ」

 両手でガレキの手を取って引っぱる。心配そうに声をかけられたけど、転んだりなんてしないよ。

 ワタクシは自分の部屋へと、ガレキを連れていった。


「――っ」

 ガレキが不思議そうに眉をひそめて、ワタクシに聞いてきた。

「タンスを開けるのが大変だから、ガレキに開けてもらおうと思ったの。望むなら服のラインナップも特別に見せてあげるよ」

 ワタクシはタンスに手を添えて、ガレキを見上げた。

「ったく。――っ」

 どうやら伝わったみたい。たぶん前半部分だけだけど。ガレキはため息をつくと、タンスの前に立った。近くにいると危ないから、ワタクシはバッチリ避難する。

「よっと」

 ガレキが気のない声を出すと、タンスをバンと開けた。

「わぁ。ありがとガレキ」

「おわっ。――っ」

 ワタクシが背中から抱きつくと、ガレキは驚いて少し怒った。ちょっとビックリしちゃったけど、感情が出るようになったなら喜ばしい。

「ごめんね、ちょっと調子にのりすぎちゃった」

 舌をペロっと出して、頭をコツンってした。

 ガレキから離れて、タンスを漁る。考えるのも惜しいから、シンプルな服でいいや。

 ナナシにきた当初は、組み合わせを考えながら必死にコーディネイトしたっけ。でもバリエーションが少ないからすぐに底が尽きたのよね。

 今日はたくさんフリルがついている、水色で涼しげなドレスを選ぶ。

 他の誰かに会うわけじゃないし。TPOに合わせて服を変えるのは、ヴォルフラムでの生活でウンザリするほどやった。季節の変わり目以外で服装なんて考えたくない。

「じゃあガレキ、着替えるから待っててね」

 ワタクシはガレキの見ている前で、パジャマを脱ぎ捨てた。

 チラリとガレキの表情をうかがってみる。状況についていけないのか、ポカンと口を開いている。頭がついていけてなさそう。

 見ていてもいいよガレキ。セクシィな着替えで悩殺しちゃうんだから。途中で襲われちゃったら、どうしよっかな。

 あえて何も言わずに、普段よりゆっくりと着替えた。

「おまたせ。さっ、今度こそ食事にしましょ」

 微動だにしなかったガレキに近寄り、手を取った。

 九歳のボディじゃ、魅力不足なのかな。それとも見とれて動けなかったのかしら。後者だと嬉しいな。

「――っ」

 何だか呆れたように見下ろされちゃった。やっぱり前者だったみたい。

「あーあ。早く成長したいな。そしたらガレキだって、手を出したくなるはずだもん」

 ワタクシはホッペタをプクって膨らまして、ガッカリする。

「――っ」

 するとガレキに、ホッペタをムニってつままれた。溜まっていた空気が口からもれちゃった。

「もぉ、人がションボリしてるときに遊ばないでよね」

 グーの両手を上げながら、ガレキを見上げた。

 ガレキは何かを確かめるような表情で、ムニムニとホッペタで遊んでくる。

「えへへ。こうなったらワタクシもガレキのホッペをつまんでやる」

 指を伸ばすと、何の抵抗もなくつまむことができた。意外にもやわらかくてビックリしたよ。

「お互いにホッペタをつまみ合ってるのって、何だかおかしいな。無表情なムニってされてる、ガレキの顔も好きだよ」

 ホッペタのやわらかさって好きだな。ガレキもワタクシのホッペを触って、気持ちいいって思ってくるのかな? だったら許してあげてもいいな。

「――っ」

 ガレキがおかしな口調で呆れた声を出すと、指を離した。もうちょっと楽しみたいんだけど、お腹もすいているからワタクシも指を離す。

「さっ、今度こそ食事にしましょ。朝はワタクシたちしかいないから、人目を気にしないでゆっくりできるよ」

 ガレキの手を両手でつかむ。ちょっとしたイタズラ気分の笑顔をして、背中から倒れるように引っぱった。

「おいヒメ――っ」

「平気だよ。だってガレキが傍にいるんだもん。倒れそうになっても支えてくれるよね」

 ガレキが注意するように声を上げた。怒ってくれたのかな。だったら嬉しいな。ワタクシのためを思ってくれたってことなんだもん。

「ねぇガレキ。幸せってすぐ近くにたくさんあるんだね。ガレキは今、幸せ?」

「――っ」

 知るかよ、んなもん。って言っているような気がした。意味は通じてなさそうなのに、会話が成立しちゃっている。言葉が通じないのも楽しいな。

 ガレキといるだけで心がフワフワしちゃうよ。このまま空でも飛べそうな気分。うん。今日もいい一日にしよっと。


 ドアを開くと、薄暗い食堂が目の前に広がる。ボロい木製のテーブルとイスがたくさんある。左右の壁には、格子(こうし)型の窓が一面に埋め込まれていて、海を広々と眺められるようになっている。

 部屋の数も思ったけど、何でこんなに多いんだろ。ナナシには六人しかいないのに。まあいっか。気分によって場所を変えられるって、楽しいし。

「ねぇガレキ、どこで食べよっか。今日は雨だから、窓際は景色が悪いよね。やっぱり中央あたりで……あれ?」

 改めて見渡してみると、先客が食事をしていた。

「んっ――ゲンキとキレイ――っ」

 後ろから、ガレキが気づいたように呟いた。ゲンキとキレイのふたりが、キッチン近くの窓際に座っている。雨を見ながら、隣り合って食事をしているね。

 廊下側から見て、手前がゲンキ。白髪に緑のバンダナのお兄さん。

 キレイは水色のショートヘアをしたお姉さん。

 見た目はふたりとも、一般庶民って感じかな。

「ちょっと残念だな。せっかくふたりきりの食事だと思ったのに。でも、ゲンキとキレイなら邪魔にならないかな。ガレキはどう思う」

 振り向いてガレキを見上げる。

「――っ」

 無表情だけど、微笑ましそうにキレイたちを見ていた。ワタクシの頭をポンと手で叩いてから、ふたりに近づいていく。

「ふたりが気になるの? 仕方ない、ワタクシもつき合ってあげるね」

 ちょっと不満はあるけど、ガレキの後についていく。

「――っ」

 ガレキが手を頭の高さまであげて挨拶すると、ゲンキとキレイが振り返った。

「――ガレキ、ヒメ――っ」

「あっ、ガレキさん。ヒメちゃん――っ」

 ゲンキは気軽そうに、キレイは丁寧そうに挨拶を返す。横には『王将』(こんなもよう)が描かれている、顔の大きさぐらいの置物が立っていた。どことなくセンスを感じる。

 ワタクシはキレイが苦手だ。いつもニコニコしたふりをしているんだもん。何かあってからじゃ遅いから、ガレキの後ろに隠れる。

「――ヒメちゃん」

 キレイは口元に手を持ってきてクスリと苦笑した。

「あれ、いつもより元気がない?」

 ガレキの後ろで首を傾げる。

 キレイはワタクシを諦めたみたいで、ガレキとお喋りをする。

 いつものように作り笑いで、とりとめないように会話している。けど、どこか表情が暗い気がする。

「珍しいね。いつもは見事に、心を笑顔で隠してるのに」

 誰にも聞こえないように呟いた。

 昨日バッタリ会ったときは、ガレキをまたイジメるんじゃないかって思った。つい怒っちゃったっけ。

 けど、よくよく見ていて気づいたの。キレイは他人に潜り込むような笑顔じゃなくて、拒絶するような笑顔をしているんだなって。

「だからっていって、安心できるわけじゃないんだけどね」

 警戒心を緩めないようにキレイを観察する。なんだかしきりに置物を触っている。まるで()りつかれているように。

 見上げると、ガレキは呆れたように喋っていた。ゲンキは、相変わらず楽しそうにニヤついている。

「ゲンキは相変わらず子供っぽいな。ホントに年上かしら」

 ゲンキの笑顔は素な気がする。仮面をつけるなんて高等技術、できないんじゃないかって思う。ほら、身振り手振りで無邪気に笑っている。

 だから特に警戒する必要はないね。どうとでもなるから。

「――キレイの――ガレキ?」

「――っ」

 ただ、ちょっと憎らしくも思っちゃうね。ゲンキと話しているときのガレキって、楽しそうな顔をするんだもん。やっぱり男性同士の方が気軽なのかな。

「でもその役目。ワタクシが請け負いたいな」

 ワタクシはガレキの服を引っぱって見上げた。紫の瞳と見つめ合う。

 他の何かに視線が向かない、ふたりきりの瞬間。一番心が繋がっていられるって思っている。

「ガレキ。大好きだよ」

「――っ」

 試すように気持ちを伝えてみると、やさしい表情で頭をポンポンと叩かれた。

 ガレキは一言、ゲンキとキレイに挨拶する。ワタクシに腕を伸ばしてから、手をとってキッチンへと向かった。

 う~ん。これはお腹がすいたから食事にしよって、勘違いされちゃったみたいだね。あれ、でもガレキから手を繋いでくれたのって、初めてかも。

 しょうがない、気持ちは繋がらなかったけど、特別に許してあげちゃおう。

 この後ワタクシたちは、朝食をラブラブしながら食べた。

 キレイは羨ましそうにしていて、ゲンキはガレキを茶化していた。

 ちょっと恥ずかしそうだった。ワタクシの愛で、いつか堂々とできるようにしてあげるからね。ふふっ。


「おいしかったね。これからどうしよっか?」

 ワタクシは腕を組んでテーブルにもたれながら、ガレキを見上げた。

 朝食を食べ終えたから、食器を流しに戻して食堂で落ち着いている。隣り合って座るのも距離が近くていいけど、向かい合うのも顔が見やすくていいね。

 先に食べ終わったゲンキとキレイは、もうどっかに行っちゃっている。

「――っ」

 ガレキはワタクシの頭上、窓の外を見て言った。

「そうだよね。あいにくの雨だもんね」

 イスの下で足をブラブラさせる。もともと何もやってないけど、お外に出られないだけでかなり退屈な気持ちになっちゃう。

「――っ」

 ガレキは両手をテーブルにつけて立ち上がった。ワタクシもイスから飛んで着地する。

「そうだね、食堂にいつづけてもしょうがないもんね」

 座っていたイスを元に戻している間に、ガレキはワタクシの傍まできていた。

「おまたせ。行こっか」

 ワタクシは腕に組みついて、ホッペタでスリスリした。

「――っ」

 ガレキのめんどくさそうな声。ふふっ、そんなに照れなくてもいいのに。

「ねぇ、どこに行くの。ガレキの部屋、それともワタクシの部屋かしら?」

 首を傾げて見上げると、ガレキは鼻でため息をついた。

「――っ」

 諦めたように呟くと、ゆっくりと歩きだす。ワタクシに歩調を合わせて。

「何だかんだ言いながら、やさしくしてくれるガレキが好きだよ」

 聞こえてなくてもいいから、何回でも言っちゃうよ。好きっていうたびに、身体がポワポワ温かくなって、震えるほど嬉しくなっちゃうんだもん。

 ハイテンションのまま食堂から廊下に出た。瞬間、春から冬になったような寒気を感じる。組んでいる腕をほどいて、ガレキの真後ろに回り込んだ。

「あらガレキ。ヒメちゃん――っ」

 廊下に出てすぐに遭遇したのは、ママと呼ばれる陰の支配者だった。年齢のわりに背が低くて、背が低いわりにバストがでかい。同じ人間とは思えない、おかしなスタイルをしている。

 黄色のTシャツに色あせた青のGパン、上からエプロンをつけている。

 家庭的なのをアピールしているつもりなんだろうけど、ワタクシは騙されないよ。

 ガレキの背中を両手で握って、ゆっくりと覗き見る。おぞましさを感じる満面の笑顔で、雑巾を片手に壁を拭いていた。

「よぉママさん――っ」

 ガレキがワタクシを庇って前に出てくれる。けど気をつけて、そいつはナナシを操る魔王みたいなものだから。

「――っ」

 ママの猫なで声が耳に響いてくる。ふと視線が合うと、いつの間にかフリーになっていた両手をワキワキとさせている。

 あの手で何かをやられると思ったと同時に、ワタクシは覗くのをやめた。それはもう光の速さを超える勢いで、シュっとガレキの後ろに引っ込んだ。

「ヒメちゃん――っ」

 ママのガッカリしたような声が聞こえた。残念だったね。ワタクシ、そう簡単には思い通りにならないよ。絶対なんだからね。

 ふと捕まったときのことを想像する。越えてはいけない一線を、無理やり超えさせられる予感がした。乙女として、何としても阻止しなきゃ。

「お願いガレキ。ワタクシを守って」

 震えながら小さく呟いた。

「――っ」

 声が聞こえたのか、ガレキはワタクシの頭を撫でてくれた。まるで心配すんなって言ってくれているみたいに。

「――っ」

「――っ」

 服をギュっと握って、目をつむりながら声を聞いた。

 ママの恨みがましい声を、ガレキが必死になって受け止めてくれる。

 お願いガレキ。早くママを追い払って。ママの笑顔は、ヴォルフラムでの笑顔が……特にお母様と別れる最後の笑顔が頭によぎるから。

 どれくらい経ったかな。十分ぐらいかもしれないし、一時間を越えているかもしれない。ママはようやく喋り終わったみたいで、足音が遠く離れていった。

「おいヒメ――っ」

 ぶっきらぼうだけど、やさしく呼んでくれる。ゆっくりと見上げると、ガレキの顔が遠くにあった。ワタクシはどうやら、強く願っているうちにしゃがみこんでいたみたい。

「ほら――っ」

 ガレキが仕方ないとばかりにため息をついて、手を伸ばしてくれた。

「もぉ、大丈夫だよね」

 震えながら手をとった瞬間。握った部分から温かいものが流れてきたように感じた。恐怖とか不安とか、そんなちんけなものを追い出そうとしているのかな。身体がグングン温かくなってきた。

 うん。もう怖くない。

 ガレキに引っぱってもらう瞬間を狙って、ワタクシは勢いのままに身体に抱きついた。

「おわっ」

「やっぱりガレキが好きだよ。怖いものなんて一瞬で吹き飛んじゃうもん」

「――っ」

 ガレキは仕方ないとばかりにため息をつくと、しばらくワタクシの好きにしてくれた。そんなやさしいガレキが、もうどうしよもないくらい好きだよ。


 しばらくの間、ガレキの部屋でのんびりしていた。ガレキは腕を枕に、ベッドで仰向けに足を組んでいる。

 当然ワタクシはガレキのすぐ横に寝そべっている。

 ホントは膝枕してあげよう思ったんだよ。席にベッドを陣取って誘導したんだけど、よけられちゃった。いけずなんだから。ふふっ。

 仕方ないから腕とか身体とかをペタペタ触るだけで我慢してあげるね。

「ふふっ。こうやって、少しずつガレキの身体を覚えちゃうんだから」

「――っ」

 うっとりと呟くと、ガレキは頭を撫でてくれた。

「撫で心地はいかが。なんて、気持ちいいに決まってるよね」

 見上げながら問いかけると、ガレキはワタクシをどかして起き上がった。

「きゃ、どうしたの?」

「――っ」

 ガレキは部屋を見渡しながら言うと、ベッドから降りる。いったんワタクシを見下ろすと、部屋から出ていこうとした。

「待ってガレキ。ワタクシも行く」

 慌ててベッドから抜けると、ガレキに体当たりする勢いで腕に組みつく。

「おわっ。たく――っ」

 ガレキは少し驚いたけど、一緒に行くことを許してくれた。

 どこに行くのか不思議に思っていると、倉庫に辿り着いた。

「ガレキ、こんなところに何の用?」

「――っ」

 首を傾げながら見上げると、頭をポンと叩かれた。ちょっと待ってろって言われた気がしたから、腕を離して見守る。

 ガレキは奥から、ボロっちい雑巾とバケツを取り出した。

「そっか。今日はお部屋のお掃除をするんだね」

 胸の前で両手を合わせて納得する。雨だと他に、やれることもなさそうだもんね。

「――っ」

「何言ってるの。ワタクシもお手伝いするよ。ちょっと待っててね」

 ガレキは雑巾を一枚しか持ってないからね。たぶん隅っこでのんびりしてろか、部屋に戻ってろって言ったんだと思う。

「そうはさせない。共同作業はたくさんしたいもん。ワタクシたちはいつか、一心同体になるんだから」

 聞こえるように言いながら、掃除ロッカーにタッタッて走った。ボロっちい雑巾を取り出して、ガレキの元に戻る。

「――っ」

 ガレキは眉をひそめて、呆れたように言った。

「別にいいでしょ。ワタクシも一緒にやりたいんだから」

 ホッペタを膨らませて、おねだりするように睨んだ。

「――っ」

 ガレキは投げやりに応えると、手を伸ばしてくれた。これはもう、完全にクセになっているね。また一歩前進。

 手を繋いで倉庫を出ると、ちょうどお姉さんが向かってきていた。赤い髪を黄色いリボンでツインテールにしている。

「よぉレッカ――っ」

「ガレキ――っ」

 お姉さんはレッカ。真っ赤な瞳に鋭い目つきがちょっと怖い。

 さらしでバストをつぶしているように見える。パッと見た感じは、だけどね。ワタクシ、あんなバストにはなりたくないな。

「――っ!」

 ワタクシの視線と考えなんて全く気づかずに、レッカはガレキに叫んでいる。

「――っ」

 ガレキはめんどうそうに受け流しているけど、ワタクシがムっとしちゃうんだよね。

「ちょっとレッカ。毎回ワタクシのガレキをイジメないでよね」

 ワタクシは両手を広げてガレキの前に出た。

もちろん、レッカに睨まれるのは怖いよ。でもママに比べると、ただ怖いだけ。だって笑顔の仮面をつけないもの。ナナシの中で二番目にわかりやすい。

「――っ」

 レッカはため息をつくと、呆れたようにおでこに手のひらを当てた。

「ねぇ、何でレッカはガレキにきつく当たるの」

 首を傾げて聞いてみる。何っていうか、怒り方が少し、やさしいような気がするから不思議だったんだよね。

「――ガレキ――っ」

「――っ」

 相変わらず何言っているか理解できなかったけど、後ろでガレキが息をのんだ。

 見上げてみると、ガレキは意外そうに口を開いていた。案外、ワタクシの言いたいことは通じたのかもしれないね。

「――っ」

 ガレキはポンと頭を叩くと、不器用に微笑んだ。

 レッカは怖くないんだけど、ちょっと嫌いだな。だって、何となくガレキのことを、わかってるような気がするんだもん。

「――ヒメ」

 頭に乗っていた手が、ワタクシの輪郭をなぞるように下りてきた。首、肩、腕ときて手をガレキから握ってくれた。

「ガレキ。何だか今日は積極的だね」

 嬉しいことなんだけど、きっかけがレッカだって考えるとちょっと複雑だな。

 手を引かれるまま歩くと、ガレキはなぜだかワタクシの部屋に入った。

「どうしたのガレキ? ワタクシの部屋なんかに」

 まさかワタクシを、愛のままにベッドに押し倒して食べちゃおうって、そういうことかしら。きゃっ……なーんて。雑巾さえ持ってなければ夢も広がったのにな。

 でも、だったらどうしてかな。

「――っ」

 首を傾げていると、ガレキは掃除をし始めた。

 表情を変えないまま、四つん這いになってせっせと床を拭く。

 驚きに目を丸くしちゃったけど、だんだん心が温まってきて、ホッペタがゆるんじゃう。

「もぉ。まさかワタクシの部屋まで掃除してくれるなんて思わなかった。って、ワタクシもサボっていられないね」

 ガレキにだけやらせるだなんて、性悪女もいいところだよ。ツラいことは一緒に乗り越えなくっちゃ。

 ワタクシも四つん這いになって床を拭き始めた。

 うっ。この態勢って、意外と腰にくる。床も硬いから膝が痛いよ。でも……。

 横目でチラリと、ガレキを確認する。

「やっぱりお掃除ってキツいね。でもキレイは、毎日ナナシのお掃除してるんだよね。すごいなぁ」

「――っ」

 何気ない会話をしながらの共同作業。たったこれだけで楽しくなっちゃう。

 ずっと続けていたいな。部屋が汚いのは困るけど、綺麗になんてならなきゃいいのにって思っちゃう。

 ねぇガレキ。存在を確かめ合えるって、すごく幸せなことなんだね。ずっと離れないからね。

 必死に掃除しているガレキに向かって、心でウインクした。


 始まりがあるってことは、終わりも当然ある。

 楽しい掃除の時間は、あっという間にすぎちゃった。

 ワタクシの部屋が終わった後に、ガレキの部屋も掃除した。けど、やっぱりすぐに終わっちゃう。

 ワタクシたちは雨で退屈な時間を、夕食までベッドの上ですごした。

 ナナシにほんのりと、思わずツバがでてきちゃう匂いが漂ってきたら頃合い。

 ワタクシはガレキの手を引いて、食堂まで連れていく。

 最初の頃は足取りが重かったけど、今ではちょっと力を入れるだけでついてきてくれる。かといって油断もできないんだけどね。

 ガレキってば、ふと気を抜くと食事を抜いちゃうんだもん。

 昔のような意地はなくなったけど、めんどくさがって動かないことがあるんだよね。

 ホント、手間のかかる子なんだから。なんてね。ふふっ。

 座る場所には神経を使う。

 まずガレキの近くに座ることは当然として、ママから遠い場所に座りたい。というか、できる限り近づきたくない。

 手を伸ばせば届く範囲だなんて、何をされるかわかったものじゃないもん。

 常にハラハラだよ。でもガレキと一緒に食事をできるチャンスだもん。危険な橋でも渡っちゃうな。

 そして今日も無事に渡り終えたら、待ちに待ったお風呂の時間だね。

 ガレキがひとりで入ったのを確認してから、ワタクシはネグリジェを持って、洗面所に忍び込んだ。

 ナナシは、浴槽の広さに比例して、洗面所も広い。入って真左には浴室へと続く曇りガラスのドア。ドアの横には壁一面に、上下ふたつに分けられた横に長い棚が張りついている。中には木網でできたカゴがたくさん並んでいた。

 ネグリジェをテキトーに選んだカゴの中に入れる。

「昨日はママが見張ってたから侵入(はい)れなかったんだよね。ホント、ヤになっちゃう」

 ママも忙しいはずなのに、洗面所の前に立っていたんだから。悪魔のようなオーラが見えたから、逃げることしかできなかったよ。

 なんて文句を言いつつも、簡易ドレスを脱いでいく。

「今日こそはガレキと一緒にお風呂に入るんだから。もぉ誰にも邪魔させない」

 真っ裸になってから宣言した。脱いだ服は洗濯カゴにひとまとめにするみたい。だからテトテトと浴室に向かう足を、少しだけ寄り道させる。

 浴室とは反対側の壁に、洗濯機やタオルが置いてある棚。そして使い終わったタオル用と、脱ぎ終えた服用の洗濯カゴがふたつ置いてあった。

「さーてと、お楽しみお楽しみ」

 ワタクシは自分の服を洗濯カゴへ捨てるように入れ、代わりに、ガレキの着ていた服を取り出して顔に(うず)めた。

 鼻にツーンとくるキツい匂いに、頭がクラリとする。

 人間って、どうしても汗をかいちゃうようにできているからな。うん。仕方ないよね。

 負けないように気を保ち、匂いを嗅ぎ分ける。

 ほのかに牧草のような香りを嗅ぎ取れた。他にも肉や潮の香りがところどころに潜んでいる。何っていうか安心できる男の匂いとでもいうのかな。

 クセがあるけど、好きな匂いだな。ずっとこうしていたいくらいに。

「一昨日なんかは、部屋に持ち帰っちゃったもんね。えへへっ」

 次の早朝にこっそりと、洗濯カゴに戻したからバレようがないね。もぉ完璧。

 今日もやっちゃおうかな……。

「でも、お持ち帰りしてるうちにガレキが出ちゃったら元も子もないもんね。今日はやめとこ」

 もうちょっとこうしていたいけど、扉の向こうに早く飛び込みたいもん。

 ワタクシはガレキの服を洗濯カゴに戻すと、浴室へと向かった。


 ガラガラと音を立てて浴室に入ると、モワっとした湯気が充満していた。

 広い浴槽に大きな埋め込み式の窓が特徴的だ。

「最初はものすごく驚いたな。外から丸見えだし……」

 このお風呂を造った人は、どういう神経しているんだろって思った。

「でも慣れると開放的で、星空が綺麗で、とってもロマンティック」

 左側には複数の洗い場が並んでいる。こんなにあって、どうするんだろって思うくらいに。ナナシって人数の割に大きいからな。

 改めて浴槽を見渡すと、浴槽の縁に両手を広げてリラックスしているガレキを見つけた。水滴が白っぽい腕や、首筋から胸へかけて線を引くように流れ落ちる。

 首はだらしなく床につけて、上を向いているね。

「ヒメ――っ」

 ガレキはため息をつくと、首をコテンってワタクシに向けた。

「ヤラナイカ?」

 冗談で言ってみたら、口をポカンと開いちゃった。言葉が通じていたらどう動いたんだろ? 実践できるなら試してみたいな。

「何てね。えへへ、来ちゃった」

 テトテトとガレキの傍まで近よって、見下ろす。

「どおガレキ。ワタクシの身体はそそるかしら?」

 ちょっとまだ育ちきってないけど、魅力には自信を持っているんだよ。理性を保てないときは、本能のままに動いてもいいんだよ。

 期待を込めて眺めていると、ガレキの手がワタクシのふくらはぎを触った。

「――っ」

 ガレキはいつもの声色で、ワタクシと目を合わせた。とても暴走しているようには見えないな。

「はーい。いつまでも外にいたら、風邪ひいちゃうもんね」

 ちょっぴり残念に思いつつも、浴槽の中へと身体を滑り込ませた。場所はもちろん、ガレキの隣ね。

 温かくて、身体から力が抜けていく。頭にモヤがかかってボーっとできる瞬間は、どうしてこうも抗えないんだろ。

「――ヒメ」

 ガレキはどうでもよさそうな表情のまま、ワタクシを撫でた。

「もぉ、肩まで浸かれだなんて。ガレキはちょっと、子ども扱いしすぎだと思うな」

 ホッペタを膨らましてブーたれてみる。するとガレキは口角をほんの少しだけ上げて、頭をポンポン叩いた。

 ちょっと悔しいな。女扱いされてないのに、楽しそうなガレキを見ていると、つい許したくなっちゃうんだもん。

 ほら、ワタクシもいつの間にか微笑んじゃっている。

「なんかズルいな」

 恨みがましく睨んでみた。

「――?」

「ワタクシのすること全部、ガレキの手のひらで踊らされてる気がするんだもん」

 ガレキは大人な分、いろんなことを知っている。

 ワタクシは子供な分、知らないことが多い。歳の差は絶対に埋まらない。

 どうしてガレキの歳に追いつけないのかな。どうやったら追いつけるかな。

 わからないし、無理かもしれない。けど追い抜いて、振り向かせてみたい。

 改めて向かい合うと、ガレキはよくわからないと首を傾げた。ため息が漏れちゃうな。

「あーあ。せめてバストがもうちょっと大きかったらな。ガレキのハートをズキュンってしちゃえるのに」

 ワタクシは育ちきってない自分のバストを見下ろして、両手でニギニギした。

「――っ」

 コツっとおでこを叩かれた。

「あ()っ。もぉ、どうしたの?」

 ガレキは軽く握られた手の甲をこちらに向けて、視線を右の方に逸らしていた。

「あれ、ひょっとして照れてる?」

「――っ」

 首を傾げて聞いてみると、ぶっきらぼうな返事が返ってきた。

 そっか。そういう行為を見せれば、ガレキも反応しちゃうんだ。でも、さすがのワタクシも、そこまで見せる度胸は……ないな。

 想像したら顔が熱くなってきちゃった。でもでも、効果てきめんだったら、やっちゃうのも手かな?

 あっちこっち視線を漂わせていると、不意にガレキが立ち上がった。

 目の前にはちょうど男の証がある。見上げると、胸板の向こうに気だるげな表情ができあがっていた。

「ヒメ――っ」

 残念。平常時だ。やっぱり子供の身体じゃ魅力に欠けちゃうか。

「うん。今日も背中を流してほしいな」

 仕方ない。まだまだ時間はたっぷりあるし、ゆっくりガレキを魅了していこう。

 バストだってきっと……キレイぐらいには大きくなる。かぶりつくのを我慢できなくなっちゃうかもね。ふふっ。

 ワタクシが手を伸ばすと。ガレキは引っ張ってくれる。自然とやさしくしてくれることが嬉しくて、立ち上がるついでに抱き着いた。

 ゴツゴツとした足に、柔らかくもガッチリしたお腹。

「うん。やっぱり男の人は、何から何まで頼りがいがなくっちゃ」

「――っ」

 ひとり感触に満足していると、呆れたため息が降ってきた。ニヤけるのが止まらないまま、ガレキを見上げる。

「なんでもなーい」

「――っ」

 ガレキは仕方ないとばかりに頭を撫でてくれた。幸せそうな、不器用な笑顔で。

「ワタクシね、自然と笑えるガレキが好きだよ。作ってるわけじゃない、不器用な笑顔が……ねっ」

「――っ」

 ガレキはワタクシから離れると、手を取って洗い場にエスコートしてくれた。

 もぉ、告白にはちっとも気づいてくれないんだから。

 心の中では文句があふれるのに、唇は不思議とゆるくなっちゃう。今のもどかしい距離感が、悔しくて……嬉しい。

 ずっとこの距離でいたい反面、どうしよもなく詰め寄りたくもなっちゃう。

「ガレキ」

「あ?」

 名前を呼ぶと、一言で返事が返ってくる。簡単にしかできないお喋り。

「いつかあなたを、(とりこ)にしてあげるんだからね」

 大きな声で宣言できる秘密の会話。いつか秘密じゃなくなったとき、絶対ワタクシに振り向かせるんだからね。

 この後ワタクシたちは、お互いに背中を流し合って、ゆったりとお風呂に浸かった。洗面所では髪や身体も拭いてもらったし、もう大満足。

 ただ、廊下に出るときひと騒動あったんだけどね。


 薄暗い部屋に戻ったワタクシは、部屋の明かりをひっそりつけた。普段は月明かりが部屋を照らしてくれるけど、雨がサーサー降っているからもう真っ暗。

「電気をつけないと、何にも見えないからやんなっちゃうな」

 でも、星明りはちょっぴり苦手。

 ヴォルフラムから捨てられたことを、思い出しちゃうから。

 イヤなことの方が多かったし、人の汚いところもたくさん見た。けど、安心できる瞬間だって確かにあったから。

「懐かしいとは、まだ言えないけどね」

 ポスンと、硬いベッドに前から倒れ込む。

 身体が沈むぐらい、やわらかなベッドを使っていたから、まだちょっと慣れないな。

 身の回りの物は豪華で使いやすくて、ナナシのボロっちい家具とはすっごく差があった。

「でもやっぱり、ナナシの方が好きだな」

 レッカは目障りだし、キレイは得体がしれない。ママなんて捕まったらひどい目に合いそう。ゲンキは……ワタクシよりも子供だから別にいいけど。

「あれ? 不安要素ばっかだ」

 モゾモゾって仰向けになりながら、ちょっとだけ驚いちゃった。

 けど毎日が楽しいの。怖いけど、人を騙そうとしている、毒のようなものがないのかな?

「何より、ガレキに出会えたことがものすごくよかった」

 名前を言葉に出すだけで、すっごく満たされちゃう。こんな温かな気持ち、ヴォルフラムにいたら絶対に味わえなかった。

 ワタクシは毎日こんなにも、ガレキに助けてもらっている。恩返し……したいな。

 一緒にいてわかった。ガレキには何か、黒くて大きな陰があるって。こびりついた汚れのように、しつこい何かが。

「たぶん、女の人なんだろうな。そんな気がする」

 ガレキの中には、誰が住んでいるんだろ。

 考えていたら、静かな雨が耳に降り込んだみたいに、大きく聞こえてきた。

「負けない……絶対に。たとえ誰が相手でも」

 まぶたが重くなってきた。すっと目をつむりながら、心に誓う。

 絶対にガレキを、ワタクシに振り向かせて見せるから。

 意識が少しずつ沈んでいく。

 考えがあっちこっちに行って、よくわからないことを考える。

 そういえば、お風呂から出たときは驚いたな。

 パンイチのガレキと、フリルのネグリジェを着たワタクシ。

 並んで歩いていたら、ゲンキとすれ違ったのよね。

 ガレキと一通り話したゲンキは、ワタクシに向かって言った。

 「ガレキは勇者だな」って、ワタクシの国の言葉で。

 それ以上は喋らなかったから、本当に意味を理解しているのかわからない。

 けど、言葉が理解できることが少しだけ嬉しかったな……。

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