キレイのジレンマ
わたし、いつかあの海に戻れるかな。
わたしが生まれ育ったのは漁業船生海丸。主にマグロやカツオといった、大きな魚を獲るのを生業にしている。
ときには乗組員が総出でクジラを獲ることもある。大地がある頃は規制がかかっていたみたい。けど海だけの世界となった今、クジラは繁殖して増えすぎちゃっている。それに大きいから、食料にはもってこいね。
わたしは生海丸の中で、天才として育ってきた。誰よりも速く、誰よりも綺麗に、誰よりも海に潜って漁をする。
そりゃ大人たちには負けるけど、年の近い子たちは凌駕していた。
あまりの違いから、畏怖と尊敬の念を込めてマーメイドなんて異名で呼ばれたんだから。
わたしを取り巻くグループは、だいたいふたつに別れていた。わたしの優秀さを褒めてくれるグループと、才能をひがむグループ。どちらにしろ、祭り上げられていた。
神聖な海で、自らの命を懸けて魚と対峙する。わたしはその緊張感がたまらなく好きだった。獲物がいなくてもいい。海は中から眺めるだけで心を奪われるから。
一日一日が同じようで、一日たりとも同じ景色はない。
大きな漁にはそれ相応の危険も伴う。何人もの仲間が海に散っていった。
数が少なければ、サメとだってやりあった。
わたしだって限界を見誤って溺れたことが、何度もあった。そのたびに仲間に助けてもらっていたっけ。
溺れたからといって、海を恐れることなんてなかったな。だって海はやっぱり綺麗で好きだし、いざというときには助けてくれる仲間がいる。
だからわたしは、たとえ漁の途中で海に散っても構わなかった。
そのときは笑って、命を海にゆだねようって思っていた。
そしてある日のこと。
仲間と一緒に漁に出たとき。わたしはいつものように、みんなよりも長く海に潜っていた。次々に銛で魚を獲って、肺が押しつぶれるような苦しさの中、限界に挑んだ。名残惜しいけど、限界はすぐに訪れる。
自己ベストを更新するほど大漁だった。口元を綻ばせて海面に出る。思いっきり息を吸い込んで、周りを見渡して気づいた。
生海丸がどこにもいない。
わたしは慌てて、命綱を確認する。腰あたりに巻きつけてある縄。漁に出るときは船に繋ぐのがルール。一度たりとも破ったことはない。
縄をたぐり寄せると、先端が斜めにスパッと切れていた。
自然と切れたものじゃない。誰かが人為的に切らなきゃ、こんな綺麗な切り口にはならない。引き千切れたならもっと、ワシャワシャと手入れのされてない筆先みたいになっているはずだから。
つまり、わたしを助けてくれる人はいない?
信じられる仲間がいない。孤独。考えると急に怖くなった。さっきまで怖くなかったはずの、大好きな海さえも。
そのあとのことはパニックになっちゃってあんまり覚えてない。焦って、あがいて、力尽きて……。
気づいたときには、孤児院船ナナシのベッドの上だった。
話を聞くと、ママがわたしを見つけたみたい。
船員は少なくて、人手が足りなさそう。
さっそくわたしは、漁に出て貢献しようと思った。服を脱ぎ捨て、命綱を結び、船べりに立つ。
海を見下ろした瞬間、心臓がドクンと跳ねた。見えているものが急に暗くなって、身体が震えて、船酔いしたように気持ちが悪くなった。
口元に手を当てて、力が抜けたように座り込む。
わけがわからない。何でか知らないけど、恐ろしく怖い。大好きだったはずの、海が。
とにかくわたしは、漁に出られなくなっていた。
漁に出ることしかしてこなかったのに。
わたしにできることが一瞬で何もなくなった。つまり、ナナシで一番の役立たずになる。さすがにまずいって感じた。
何か、わたしでもやれそうなことがないか探してみる。
見ていると、ママの仕事がやたらと多い気がする。とりあえず掃除から始めてみることにした。
これがなかなか大変で、思ったより重労働。船も大きいから、最初はすみずみまでできなかった。
何日かしてふと思う。喋り方をどうしようって。わたしが誇れるものは漁の腕前だけだったから、今はもう何もない。つまり三下。
ふと生海丸にいた、取り巻きたちを思い出してみる。みんな敬語で話していたっけ。
ならわたしも習うべきだって思う。
いつの日か、再び漁に出られるようになる、そのときまで。
夢を見ながら掃除をし続ける。気がつけばスピードも上がっていて、他の家事にも手を出していた。
わたしはいつのまにか『キレイ』って呼ばれるようになっていた。ナナシをすみずみまで綺麗にするからだって。
ちょっとおかしいよね。呼ばれるほど、綺麗に生きていないのに。
表面を綺麗に取り繕った野心家。いつか願いが海に届くまで、わたしは汚れた心を隠し通すことに決めた。
朝の陽ざしが、まぶたを焼きにかかってくる。しかし、わたしのまぶたは鋼鉄のごとく堅牢。こんなことで簡単に起きるほど、寝起きはよくないよ。
まぶた越しの太陽なんて、わたしの敵じゃないね。すぅ……。
二度寝を何度か繰り返したわたしは、ようやく目を覚ました。ぬくい布団をめくって、半身を起す。手を口に当てて、気が抜けるようなあくびをした。
じっくりと十秒ぐらいぼーっとしてから、部屋の中を見渡す。
ベッド近くの壁には、生海丸で使っていた銛が飾ってある。気を失っても手放さなかった、わたしの相棒。
「すっかり飾りになっちゃってるね。待ってて、絶対に出番を作ってあげるから」
誓うように口に出して、苦笑いした。
窓の外を眺める。短い線上に光を反射させながら、海はユラユラと波打っている。
「ただ眺めるだけなら、こんなにも綺麗なのに。どうして飛び込もうとすると怖くなるんだろ」
部屋にはわたししかいないのに、誰にも聞こえないほど声を小さくした。
「でも、いつかは絶対、飛び込んであげるからね」
着替えるためにベッドから出る。黒のネグリジェを脱いで、黄緑色のシンプルなワンピースを着こむ。
海に出るには不向きだけど、普段着にするには楽だから最適ね。
「さてと、ママの朝ごはんを食べに行こうかな。たぶん、冷蔵庫に入ってるよね」
わたしはドアに触れることなく、部屋から出た。
朝ごはんをひとりで食べたわたしは、掃除道具を取りに物置に向かった。
物置は食堂のちょうど反対側ね。
掃除道具はドアを開けて、左にすぐのロッカーに入っている。
「さてと、今日も始めようかな……あれ、何だろ?」
ドアを開け、一直線にデッキブラシを取ろうと思っていた。けど、正面の床に何かが落ちていることに気づいた。
首を傾げながら近づく。人の顔よりちょっと大きいぐらいの、木製の板が落ちていた。左右対称で、縦に引き伸ばしたような五角形の板。正面には『王将』って模様が描かれている。
「置きもの……かな?」
両手で持ち上げてみると少し重い。左右や後ろを見渡してから、手の甲でコンコンと叩いてみる。中は詰まっている感じね。
「何の道具か知らないけど、この重さは使えるかも。もらっちゃっても大丈夫だよね。部屋に持ってこ」
掃除道具をいったん無視して、置物を手に部屋へと持ち帰った。
これくらいのサボりは、よくやるよ。
暖かな日差しが肌にしみこむ。耳を澄ませば、静かな海のさざ波が聞こえる。わたしは身体をうーん、と大の字にして伸ばす。
改めてデッキブラシを手にしたわたしは、掃除をするために甲板に出た。
「さて、始めようかな……きゃっ」
気合を入れようとしたら、後ろから抱きしめられた。背中を包み込むんじゃないかって思うほど、大きくて柔らかいふたつの感触。安心できる小麦粉のような、ふんわりと甘い香りが鼻に届く。
「んふふ~。キレイおはよっ」
「あっ、ママ。おはようございます。急にビックリしましたよ」
ご機嫌そうに声を弾ませて、後ろから頬ずりしてきたのはママだった。言葉を敬語に切り替えて、なすがままにされる。
「だって、キレイがかわいいんだもん。このこの」
ギュウギュウと抱きしめる腕に力を入れてくる。まるで我慢していたぶんを開放するように。当分は離してもらえなさそうね。
原因はわかっているよ。お目当ての子をなかなか抱きしめられなくて、モヤモヤしちゃっているんだ。
ママはナナシの縁の下を支えている。わたしひとりでやる気を補充できるなら、好きにさせてあげるのが三下の役目よね。
「もぉ、ママったら」
「なぁに? 当分は離さないんだからね」
ちょっと不機嫌を装ってみると案の定、楽しそうにじゃれてくる。ママはわかりやすいからね。機嫌をとるのも簡単でいいな。
昨日はヒメがガレキと、これでもかってぐらいイチャイチャしていたからね。ヒメ信者のママには我慢の連続だったんだろうな。
たっぷり三分ぐらい経ったところで、ママはようやく満足したみたい。コロコロと笑って離してくれた。
振り返ると、本日初めて顔を見合わせた。
ママは茶色い髪を三つ編みに、背中にしておろしている。黒くておっとりしたたれ目をし、青色の色のエプロンを身に着けている。
ナナシに一番長く住んでいるから、何気に重要なこともいろいろ知っているんだよね。油断のできない人だけど、どうしても危険視できないな。
「むー、ちょっと苦しかったんですよ」
むくれた顔を作る。上目づかいに、不満を訴えるイメージでママを見つめる。
「ごめんね。ついやりすぎちゃった。てへぺろ」
ママは楽しそうに、自分の頭をグーでコンってやって舌を出した。しぐさが若々しすぎて、思考が凍りついちゃうよ。
「さてと、キレイはこれから掃除かしら?」
「……あっ、はい。見た目は変わりませんが、毎日やらないとすぐに汚れちゃいますしね」
デッキブラシをわざわざ両手で持って答えた。自分でもあざといって思うけど、ママ相手ならこんなもんよね。
「もぉ、いい子ね。いちいちかわいいんだから。もう一回抱きしめちゃうぞぉ」
ママは手をワキワキとさせながら迫り寄ってくる。わたしでもつい、後ずさってしまうほどの恐怖を抱くんだよね。ヒメには物語の魔王のように、恐ろしく見えるんだろうな。
まぁ、わたしはママの好きにさせてあげるんだけどね。
ママは私の頭を両手で抱え、豊満な胸に引き込んだ。やわらかいんだけど、息が苦しいのがちょっとね。
「ん~、やっぱりキレイはいいわ。もぉいくらでも抱いていられるわ」
髪の毛をワシャワシャと撫でて、ママはご満悦みたい。まるで小動物かヌイグルミになった気分ね。
「ちょ……ママ。ちょっと苦しいです」
身長のわりに大きい。でも、泳ぐときは邪魔になりそう。海を相手に泳ぐなら、レッカぐらいがちょうどいい。わたしも育たないといいけど。
気がつくと、海のことを考えちゃう。こんなにも思っているのに、どうして飛び込めないんだろ。
ママの胸で疑問に思う。抱きしめられている間が、一番落ち着けるかもしれない。
やがて抱擁はとかれる。ママは頬を桃色に上気させて、ニコやかに笑っていた。
わたしは頬を膨らまして、恨めし気に上目づかいに睨んでみる。
「ふふっ。ふてくされなーいの。満足したわ。ありがとね、キレイ。ナナシの掃除、よろしくぅ」
「もぉ……わかりました。任せてくださいね」
ママは手を振ると、踵を返して歩いていった。これからお洗濯かな?
わたしも気分を入れ替えなくちゃね。
掃除道具を持ち直し、船首を目指して歩いた。
わたしはいつも、甲板の掃除を船首から始める。右舷を回って船尾で折り返し、左舷側を通って船首に戻ってくる。
途中でソーラーパネルの拭き掃除も忘れない。表面が汚れるだけでナナシの電気は大打撃を受けちゃうからね。
一周するころには、半日がすぎることになる。
ちょうど右舷に入ったぐらいかな。ゴシゴシとデッキブラシで磨いていると、船べりにふたつの縄が結んであった。
「へぇ。レッカとゲンキはここで漁をしてるんだね」
わたしは手を休めて、海を見下ろした。ユラユラと揺れる波に、陽光が乱反射して輝かしい。ふたつの縄は輝きの中へと伸びている。
「ふたりは、あの向こうの海にいるんだね。羨ましいなぁ」
掃除をしている自分に、もどかしさを覚える。
眺めているだけなら、漁の様子を想像するだけなら、全然なんともないのに。どうして飛び込もうとすると、足がすくんじゃうんだろ。
全身が、嫌いな料理を食べろって言われたときのように拒んじゃう。
考えているとふたりが海から顔を出した。白くて短い髪の少年と、赤く長い髪の少女。
「どうしたレッカ。さっきから魚とたわむれて」
「うっさい。毎回いいところで、横からかっさらうくせに。その言い草はなによ!」
「たまたまだろ。さて、次行くか」
「まだ話は終わってないわよ! 勝手に行くな、この!」
ふたりはわたしに気づくことなく、再び潜っていった。
「ホント、飽きないなぁ。レッカは」
ゲンキの言うことに、いちいち反応しちゃっている。それに、とても楽しそう。
やわらかな潮風が、髪と服を揺らした。ふと水平線を眺めてみる。遠くを見ようとすればするほど、海と空の境界線がボヤけてわからなくなる。
「見えそうで、見えないな。まるで将来の夢みたいな景色」
何となく、空と海が交わる場所を探してしまう。ないとわかっているのに、無性に探したくなるときがある。
「って、サボってばかりもいられないか。掃除、再開しよ」
視線を戻す。腰に力を入れて、デッキブラシを床にこすりつけた。
船尾を回って、左舷に到着したあたり。わたしは珍しいものを見た。船べりに両手をそえて、景色を眺める少女。
フワフワした金髪に、白いドレス。風が吹くたびに、髪と服がユラユラしている。
「珍しいなぁ。ヒメがひとりでいるなんて。ガレキはどしたんだろ?」
ヒメは小舟に乗って、何かから逃げるようにナナシに辿り着いた少女。
だからヒメがナナシのどこにいても不思議じゃないんだけど、たいていガレキとベッタリしている。ひとりでいるのって、まれなんだよね。
「ほとんど一心同体みたいな感じなのに」
わたしの予想では、トイレもお風呂もベッドも一緒ってイメージ。昨日はバッタリお風呂で出くわしちゃったし。
あのあとは喜劇だったな。レッカが一方的にガレキを攻めて、騒ぎを聞きつけてやってきたママが、バトンタッチしちゃって……。
「そういえば、朝からガレキを見てないな」
ひょっとして、ベッドから出られない状態だったりしてね。
とりあえず、掃除する手を止めて近づいてみる。ヒメは足音に気づいて振り向いた。青い瞳をギョっとさせて、一歩後ずさっちゃった。
「――っ」
「ふふっ。相変わらず、ヒメちゃんは油断なりませんね」
微笑みながら肩をすくめる。敬語で話しかけるのは念のため。ヒメは多分、ナナシの中で一番、精神年齢が高いと思う。だから油断できないんだよね。
「今日、ガレキさんはどうしたんですか。一緒にいないみたいですけど」
「――っ!」
ヒメはガレキの名前に反応してか、声を大きくした。目じりを吊り上げて、力強く一歩踏み出した。
挑発しているように思ったのかな。
「大丈夫ですよ。とったりしませんから」
ヒメはわたしが何か言うたびに、身体をこわばらせて目の角度をキツくする。
安心できるような、やさしい声色で言ったつもりなんだけどな。ヒメはどうしてこうも、警戒するんだろ。
「まぁ、いいですけど。ママやレッカと違って、特別仲が良くなりたい、なんて思っていませんし」
ただ探りあったり利用しあうにしても、言葉が通じなきゃ始まらないよね。同じ船に乗るんだから、最低限の疎通はしときたいんだけど。
ないものねだりだって気づくと、ため息が出てきた。不意に、海の方を眺めてみる。
「ヒメちゃんは、何を見ていたんでしょうか?」
独り言を呟く。
わたしは物思いにふけるとき、よく海を眺める。ヒメもそうなのかな。
やわらかな風が心地いい。太陽はやさしく身体を温めてくれる。落ち着くさざ波の音が耳に届く。時間が、とてもゆっくりしている。
慌しさなんてどこにもない。悪い言い方をすると、平和ボケしそうな感じ。
「こんなにもゆったりしてて、ホントにいいのかな?」
息を吐くような音で呟いた。
のんびりと視線を戻すと、いつの間にかヒメはいなくなっていた。
「あら、逃げちゃいましたか」
別に一緒にいても、何かができるわけじゃないからいいんだけどね。
わたしはデッキブラシを持ち直すと、掃除を再開した。
甲板の掃除が一通り終わった頃、ちょうどお昼ごはんの時間になる。ママと一緒に、漁に出ていたゲンキとレッカを回収する。
ふたりは隙さえあればケンカする。ママは隙さえあれば抱きしめてくる。まるで一種の仕事のように、執拗に繰り返す。
漁の成果はふたり合わせて五匹。ちょっと心許ない。やっぱりわたしも漁に出たいな。
ママはこれから昼ごはんをレッカとふたりで作る。ホントはわたしも手伝えたらいいんだけど……な。
料理を焦がして、ショックを受けていた頃が懐かしい。まだほんの、かわいい序章にすぎなかったのに。
電子レンジの卵爆弾を三回は繰り返したし、お皿とかコップを次々に破壊しちゃったからな。三日で出入り禁止を食らっちゃったっけ。
だから少しだけ時間があく。ちょっとした小休止だね。
「お疲れさまです。ゲンキさん。レッカの調子はどうでした?」
ゲンキは船べりに背中からもたれて、空をぼーっと眺めている。白くて短い髪は、滴って垂れ下っている。乾くと逆立つから、クセっ毛だね。
さっきまで漁をしていたから、上は裸。水滴が流れる身体は、ツヤやかでうっすらと筋肉を浮かべている。少し細く見えるけど、立派なものね。
さらしも緑のカーゴパンツも、ビッショビショに濡れている。特にパンツの色は、乾いているときより深く暗い色になっていた。
いたるところからポタポタと水が落ちている。
「あー、レッカ……普段通りに戻ってるぜ」
ゲンキは空を眺めていた顔を、気だるそうに正面に向けた。緑色の瞳と目が合わさる。
「そうですか。一昨日はツラそうだったので、心配だったんです。よかったぁ」
わたしは両手を胸の前で合わせて、首を傾げた。
「確かに。レッカがおかしいと、調子狂うからな。からかい甲斐がねぇ」
ゲンキはニっと歯を見せて笑う。一見すると子供っぽいんだけど、その実、何を考えているかわからないんだよね。
「もぉ、レッカも女の子なんですからね。ほどほどにしてあげてください」
手の甲を口元に寄せて、コロコロと笑ってみせる。
「言うわりに楽しそうだぜ」
笑ったまま手をピストル状に握って、わたしを指差してくる。まったく、礼儀がなってないんだから。
「失礼ですよ、ゲンキさん。人を指差すなんて」
「何で失礼なんだ?」
「何でって……何ででしょうね?」
両手を腰に、少しかがんで睨んでみた。けど、そういえばわたしも詳しく知らない。
握り拳をあごに、首を傾げてみる。常識を説明するのって、意外と難しいなぁ。
まっ、いっか。また気になったら誰かに聞いてみよっ。
「ところで、ゲンキさん。ちょっと前にヒメちゃんがひとりでいたんですが、理由をご存じないですか?」
「ん、あぁ」
ゲンキは一瞬、斜め上を見上げた。けど思い出すと、わたしと目を合わせた。
「昨日ガレキが、レッカたちの入ってる風呂に侵入しただろ」
何か、だいぶ事実が捻じ曲げられているな。誰から聞いたんだろ。
「そうですね。突然入ってきたのでビックリしました」
でも訂正するのもめんどう。ここは話を合わせちゃおう。
「それでママがさぁ、さすがにヒメの教育に悪いからってやる気になっちまったんだ」
何だろ、すごく話の方向がおかしくなっている気がする。
わたしの表情が苦笑に変わっていく中、ゲンキが続けた。
「ママは自分の部屋にヒメを連れ込むことで、ガレキから適度な距離を取らせようとしたらしいぜ」
「……具体的には?」
「ママは朝一で起きて、ガレキの部屋の前でヒメがくるのを待ち伏せしたってさ」
何やってんのママ。笑顔が引きつっちゃうよ。
だってヒメにとってママって、名状しがたい何かなんだよ。一時的狂気に陥っちゃうよ。そりゃ逃げるの一択だよ。そんなことしても逆効果なのに。
さすがにヒメを気の毒に思っちゃう。見かたを変えると、ママの方が気の毒な人なのが何とも言えないけど。
そういえば、さっきヒメを見たときピリピリしていたかも。ひどい仕打ちを受けた後にわたしと会ったんじゃ、不機嫌になるのも当たり前か。
「納得しました。どおりで、ヒメちゃんはひとりだったんですね」
「あぁ、納得した。だからヒメはこなかったんか」
いきなり入ってきた低い声に振り向くと、ガレキがいつの間にか近くにいた。
「よぉ、ガレキ。おもしろいことになってたな」
ゲンキがケラケラ笑いながら、片手を上げて挨拶する。ガレキはずいぶん前からいたのかもしれない。
「おはようございます。ガレキさん。よく眠れましたか?」
若干、皮肉を含めてガレキを見上げた。別に裸を見られたことを恨んでいるわけじゃない。けど、いじるとおもしろそうなんだよね。
「死んだように寝てた気がする。なかなか起き上がれなかったな」
ガレキは紫色の瞳を半目にして、気だるそうに後ろ髪をガリガリかいた。わたしよりも頭半分ぐらい背が高く、身体つきは細くて白い。
茶色くてダボダボな服を着ているけど、背が高いから意外と着こなせている。ちょっとずるい。
「で、ヒメはママさんとこにいんのか?」
「さぁな。どうなんだ、キレイ?」
ゲンキは両の手のひらを空に向けると、話をそのまま振った。
「まずありえないと思いますよ。ママはヒメちゃんに警戒されていますから」
まぁ、かくいうわたしも警戒されているけどね。
「ってことは、久しぶりにひとりを満喫できる。ってわけでもねぇか」
めんどくさそうに舌打ちしているけど、内心ホッとしているんだろうな。ガレキってば、確実にヒメに籠絡されているもん。ほら、今も手がヒメの頭を撫でようとしている。
「まっ、そのうちヒメに見つかってやれよ、ガレキ」
「余計なお世話だ」
ゲンキが茶化して、ガレキがため息交じりに切り捨てる。何っていうか、男の子だよね。ドライな会話が不思議と楽しそうだもん。
気がつくとわたしは、口元に手をやって微笑んでいた。
「どうしたキレイ。珍しく楽しそうだけど」
「ふふっ、なんでもありませんよ」
平然と切り返すふりをする。今のは驚いた。ゲンキってばたまに、本心に足を踏み入れてくるから侮れないんだよね。ヒメの次に行動が読めない。
「わたしはお邪魔みたいですね。たまにはボーイズトークでも楽しんでください。せっかくヒメちゃんもいないんですし」
わたしがいたら気まずい会話もありそうだし。
よくよく考えたら、滅多にない機会なのかも。お風呂はふたり別々に入るから。
「別に気にしなくてもいいんだがな」
ガレキはどっちでもよさそうだね。やっぱり人生を捨てちゃっているんだろうな。なんとなく、わたしと同類の匂いがするから。
けどまぁ、ヒメの奮闘次第では拾い直せるかもしれないけど。
わたしとどっちが早いかな……ヒメの方が早そうだね。比べるまでもないか。
「俺も別にかまわねぇぜ」
「ゲンキさんはもうちょっと、周りを気にしたほうがいいと思いますよ」
ときたま、お風呂に侵入しちゃっても、ゲンキは気にしないからね。デリケートって言葉を本気で知らなそう。ホント、大物だと思う。
笑顔を作ってゲンキを見たんだけど、表情が硬くなっちゃっているのが自分でもわかる。ゲンキは何でもないように、あっけらかんとしているし。
「それに、そろそろレッカがシャワーを浴び終えると思います。着替えを持っていかなくちゃいけませんから。ゲンキも頃合いになったらシャワーを浴びてくださいね」
自然な笑みを作って、コテンと首を傾げた。たぶんふたりには愛らしさなんて通じないと思うけど、念のためにね。
踵を返して甲板から船内へと足を進める。
「あぁ、そうだキレイ」
思い出したように、ガレキが呼び止めた。足を止めて、半身だけ振り返る。
「ガレキ。どうしましたか?」
「昨日は悪かったな。いろいろ事故っちまって」
ガレキはつっ立ったまま、抑揚なく平然と言いきった。けど、罪悪感はわずかにあるみたい。気にしちゃうタチなんだね。ちょっと意外。
「ふふっ、ガレキさん。そういうことは、言わない方がいい場合だってあるんですよ」
「んっ、そうなんか」
ガレキは若干だけど、首を傾げた。
まぁ、わたしが気にしてないから、危機感が伝わらないのかも。
風呂上がりに下着姿でいても、何とも思わないし。でもナナシにきて、下着の一線を軽く踏み越えちゃうだなんて思ってなかったけどね。
「そうですよ。デリケートな話題ですからね。特にレッカには言わない方がいいですよ」
一応、忠告はしておいた。たぶん、言っちゃうんだろうな。
「じゃあ、今度こそ行きますね。遅れるとレッカが不機嫌になっちゃいますから」
ふたりに頭を下げてから、洗面所へと向かったわ。
「わあった。覚えとく」
「俺もちょっとガレキとダベったら、サッパリしに行くことにするぜ」
ふたりの声を背中で聞いて、軽く手を振った。
さて、ごはんを食べたらもう一仕事しなきゃだね。
午後になるとわたしはもう一回掃除をする。今度は、漁から上がったゲンキとレッカが通った場所を中心にね。海水で汚れちゃてるもん。
終わったら洗濯物を取り込む。ママとレッカの三人で。風にはためく洗濯物は見ていて気持ちがいい。手分けして取り込むんだけど、わたしは三回、レッカは一回ママに抱きしめられた。
ママってば、場所を選ばないんだから。ヒメじゃなくても逃げちゃうよ。
取り込むのが終わったら、船尾の方にある菜園に行く。農業船みたいな、本格的な畑じゃない。陸地があったころでいう、家庭菜園みたいな規模。
こういう植物を育てているところって、独特な臭いがするんだよね。蒸せるような、絡みつくような……そんな生臭さ。慣れればたいしたことないけど。
船の上だから、船内菜園とでもいうのかな? んー……やっぱり家庭菜園でいいや。
木造の船上に、海底砂を盛って作ったスペース。レンガで三つに区分けされている。
育ち具合は種類によってバラバラ。収穫期の野菜はイキイキと葉を広げている。芽を出したばかりの子は、赤子が乳を求めて手を伸ばすように育とうとしている。しっかりサポートしてあげないとね。
近くにはニワトリ小屋もあって、二羽の雌鳥が貴重な卵を産んでくれる。この子たちのエサは朝夕の二回。朝はママが、夕方はわたしがやる習慣になっている。
野菜たちは穏やかな陽光を浴びながら、みんなスクスクと育っている。
水を撒いて、雑草を抜いて、場合によっては肥料も与える。
水はただ撒くだけだし、肥料も分量を間違えなきゃさほど問題は起きない。
身体に応えるのは草むしりだね。しゃがみ込んでの作業になるから、もぉ腰が痛くて痛くて。少しは慣れてきたけど、やっぱり座りっぱなしってツラいな。
想像すると、気が遠くなっちゃう……。
「って、茫然としてても仕方ないね。チャッチャとやっちゃおう」
つい棒立ちして、遠くを見ていた。菜園にくるたびにやる、儀式みたいになっている。
「草むしりの他にも、野菜によって余計な葉は取らなきゃいけないし」
言葉に出すことで気合を入れる。まずはジョウロで水やり、シャワー状の水が緑の葉っぱにかかる。キラキラ輝いて見えるから好きだな。
「ただ、これが正しいやり方なのかは知らないんだけどね」
言葉にすると愉快な気持ちになった。
元々わたしは漁師だから。専門家が見たら鼻で笑われちゃうんだろうな。
「もし次、ナナシに誰か流れ着くなら農家がいいな」
身も蓋もないことを言いながら、軽く水やりを終了させる。肥料はまだよさそうな気がするから、必要なし。
「さぁ、次は草むしりね」
気分はもう、ダダ下がり。でも、やらなくちゃ。しゃがみ込んで、はじからスタート。近くで見ると、どこから湧いてきたのか小さな雑草がいくつもあった。
「ホント、何も言わずに消滅してほしいな」
本音がついこぼれちゃう。最初は態勢がちょっとツラいかなって感じだった。けど五分も経つと、足全体がプルプル震えだす。張りつめたようにパンパンになった。
腰にくると、背中全体が後に続くように痛くなっちゃうんだよね。限界なんてすぐに訪れちゃう。ちょっと作業するたびに立ち上がって、腕で額を拭う。
「野菜の世話をしてると毎回思っちゃうな。わたしって、こんなに根性なしだったっけ?」
「キ~レ~イ~」
「きゃっ」
完全にひとりだと思って油断していると、後ろから抱きしめられた。身体に巻きつく二本の腕。背中に当たる柔らかな感触。どう考えてもママだね。
「菜園仕事大丈夫? 腰とか痛くない?」
「ちょっと痛いですけど、何で抱きついてから聞くんですか」
ワタワタと軽く抵抗しながら、首を回してママを見る。
「んふふ。それはね、キレイがかわいいからよ」
ママは理由になっていない理由を言い切ると、キュウキュウと抱きつく腕を強めた。いつもより主張が激しい。たぶんヒメに振られたか、それ以前に見つからなかったんだと思う。
「もぉ、しょうがないですね」
ため息を吐いて、肩の力を抜く。ママに流れをゆだねちゃおう。
「でしょ。かわいい女の子を抱きたくなるのは、しょうがないことよねぇ」
頬をスリスリしながら、全身で包み込むように丸まってくる。温かくてホッとするんだけど、ゆだねるにはちょっと欲が強すぎるんだよね。
「あの、ママ。ちょっと気になってたんですけど、何でヒメちゃんに固執するんですか」
前々から気になっていたけど、聞いていいか迷っていたんだよね。けど今朝のこともあったから、もう聞いちゃおう。
「だってヒメちゃんって、小っちゃくてかわいいじゃない」
すっごくストレートだった。気にする必要もなかったかな。
「それに、言葉が通じないからねぇ」
「えっ?」
「だから心を通わすには、ボディタッチしかないじゃない」
横目でママの顔を見てみると、いつもよりも優しい表情をしている。
「同じナナシの中にいるのに、ひとりぼっちだなんてツラいわ。早くみんなと馴染めるように、私が導いてあげなくちゃ。家族は笑顔で支え合うものだからね」
「ママ」
シャクだけど、すごく感心しちゃった。ママも意外とみんなのことを考えているんだな。理想と欲望がない交ぜになって、本末転倒になっちゃっているけどね。
「でもママ、それならガレキさんあたりに任せてじっくり待つ方がいいと思いますけど」
実際、ヒメはガレキに一直線だし。下手につつくより、ガレキを経由して仲良くなるほうがいい気がする。
「ダメよ。あのままだとヒメちゃんはガレキの魔の手に堕ちちゃうわ。その前に何としてでも、私の手で救いださないと。意地だってあるんだから」
「そ……そうなんですね」
額から汗が流れた。言葉もうまく出てこなかったよ。
予想外かも。ママがガレキのことをこうまで想っていたなんて。もちろん悪い意味でだけど。なんか、ガレキも気の毒だな。好かれたせいで目の敵にされちゃうんだもん。
わたしはエサをつけ忘れて釣りをしている人を見るような、そんな微妙な気持ちでママに抱きしめられていた。
抱きしめることに満足したママは、自分の仕事に戻っていった。
わたしも菜園作業の続きをした。草むしりが終わったら廊下とあき部屋の掃除。それから自分の部屋の掃除もする。
各部屋の掃除は、部屋主がやることになっている。
終わったあたりで、ちょうど晩ごはんの時間になる。食堂にみんなが集まって、おいしいごはんを楽しく食べる。
席って、自然と決まっちゃうんだよね。お昼のときは、ママが無理やりガレキとヒメの間に入ったから空気がとても重かった。
さすがに晩ごはんはそうならなかったけどね。ママが自重したのか、ヒメが強引に突破したのかはわからない。けどヒメは、ガレキの隣をガッチリとキープしていた。
みんな家族みたいに、楽しそうなごはんのひとときだった。ママの望みが叶っているような光景だった。願っている本人を除いて。
ゲンキとレッカは相変わらずのケンカ腰だし、ヒメとガレキはイチャイチャ状態。眺めているわたしも平和そうでいいなぁって思っている。
ただママがね。誰よりもナナシの平穏を願っているはずなのに、黒いオーラのような、とても重い空気をまとっているんだよね。
思わず、乾いた声で笑うところだったよ。
ごはんが終わると、あとはお風呂に入って寝るだけ。
「昨日は予想外でしたね」
モワモワと湯気が漂う浴槽。浸かっているお湯は温かくて、頭の中も湯気に包まれたように思考が緩くなる。やっぱりお風呂は癒されるよ。
わたしは一緒に入っているレッカに、話しかける。ツインテールはほどいてあるから、ロングの状態だね。
「ホント、ガレキにはガッカリした。ヒメを無理やりお風呂に連れ込むだなんて。もっと常識はあると思ってたのに」
レッカは水面を睨みつけると、両手をバシャンと叩きつけた。しぶきが盛大に飛び散って、怒りの大きさを表しているみたい。
「きゃ。あはは、ホントに驚きましたよ」
でも昨日のできごと、レッカにはそう見えていたんだ。どう見たってヒメの犯行なのに。レッカはピュアだな。
「キレイも気をつけなきゃダメよ。普段からのほほんとしてて隙だらけなんだから、警戒しないと」
レッカは睨みつけるような真剣な眼差しで、目を合わせてきた。
「大丈夫ですよ。少なくとも、ナナシにいるときに危険は訪れませんから」
ゲンキもガレキも、その手の危険はゼロだって断言できるし。
ニコリと笑って、ちょっと首を傾げる。
レッカは正面まで移動する。キョトンと見守っていると、ガバっと両手でわたしの両肩をつかんだ。顔もグイグイと近づけてくる。
「甘いキレイ。男なんてどれだけ気心が知れてても、危険な欲望は心の奥底に溜まってるんだから!」
無理やり納得させるように叫ぶから、目が白黒しちゃった。
口を開けて驚いていると、レッカは首に腕をからめてわたしを抱き寄せた。
「キレイが傷つくところを、あたいは見たくないから」
耳元で囁いた。不器用なりに、心配してくれているんだと思う。
しょうがないお姐さんだな。ため息をついて、レッカの背中に手を添える。
「レッカも知っているとは思いますが、女の子は心の成長が早いんですよ。だから、男に遅れは取りません」
特に、ヒメの成長は著しいと思う。まあ、これは言っても納得できないだろうけど。
「それもそうね。うん。男どもは結局、みんな子供だもの。でも、気をつけるに越したことはないんだからね」
レッカはわたしから離れると、指を立てて言い聞かせてきた。
「もちろんですよ」
笑顔で肯定する。危険はないと思うけど、警戒心は持っておかないとね。
わたしたちは少し見詰め合ってから、一緒に笑った。
「さてと、身体洗おっか。今日は気分がいいから、特別に背中を流してあげる」
レッカは立ち上がると、手を伸ばしてきた。
下から見上げるレッカの身体は、ちょっと日に焼けた健康的な肌をしている。ほぼ膨らみのない胸は、水の抵抗を受けなさそうで羨ましい。あっ、手がピクっと反応した。
くびれも申し訳ない程度に、女の子らしくヘコんでる。赤いロングの髪は、ちょうどそのくびれあたりまで伸びている。
「じゃあ、よろしくお願いしますね」
わたしは手を取って立ち上がると、レッカに身をゆだねることにした。
何のハプニングも起きないまま、お風呂から上がる。最近、予期せぬ遭遇が多かったから、ちょっと拍子抜けだった。
お風呂でほてったわたしの身体を、黒いネグリジェが包んでいる。レッカには、過激すぎるからもっと着込んでって、うるさく言われているけどね。
ママからも言われた。しまいには、そんな格好するなら私の部屋に持ち帰ってみんなから守るわよって、とても危険なことを口走っていた。
ただもう生活に染みついちゃっているんだよな。慣れちゃっているから、今更パジャマを着込もうとも思えない。
ガレキだって堂々のパンイチなんだし。
もう部屋に戻って寝るだけだから問題ないでしょ。薄暗い廊下を歩いていく。途中、部屋から出てきたゲンキと鉢合わせた。
「ん、よぉキレイ。風呂あいたか」
緑のバンダナに白いシャツ。いつものスタイルだね。緑色の瞳と目が合うと、片手を上げて確認してきた。
「えぇ。今は誰も入っていませんよ。ひとっ風呂浴びますか」
「そうだな。ちょうどいいし、入ってくるぜ」
簡潔に決めると、ゲンキはすれ違うようにお風呂場へと向かっていった。わたしも部屋に戻ろう。
「あっ、そうだキレイ」
不意に呼び止められたので笑顔を作って振り返る。ゲンキは肩越しに、こっちを向いていた。
「今更だけどさ、すげぇパジャマだぞ」
頬を染めるわけでも何でもなく、ただ感じたことを口に出しているみたいだね。やっぱり考えが読めないな。
「かわいいでしょ。お気に入りなんですよ」
身体をゲンキに向ける。首をちょこっと傾げながら、両手で裾をつかんで見せびらかしてみた。
「言われてみれば、確かにかわいいぞ」
「ふふっ、ありがと。用はそれだけですか?」
ゲンキも意外とちょろいのかなって思いながら、確認した。すると首を横に振って、身体ごと振り返った。
「いや。何でキレイって、海が好きなのに潜れねぇのかなって思ったんだ」
笑顔がピキリと凍りついた気がした。やっぱりゲンキは油断できないな。いきなり人を海に突き落とすようなこと、言ってくるんだもん。
「何ででしょうね。わたしも知りたいですよ」
差しさわりない会話で済ませるために、どうにか笑顔を張りつける。
「それと、今のは結構デリケートなテーマですからね。不用意に聞いたりしない方がいいですよ」
それから釘も刺しておく。自然な流れで持ち出せたのか心配だけど、多少は強引でも言っておかなきゃいけない。
「ん、あぁ。キレイがさ……」
ゲンキは緑色の目をしっかり合わせながら、言い訳してきた。この会話を終わらせたい。けど続きが気になるから、あえて促してみる。
「わたしが、どうしたの?」
「誰かに聞いてほしそうな雰囲気だったから。キレイはまだ、ナナシのみんなが怖いのか?」
言われた瞬間、身体がビクンと震えた。刺されるような衝撃って、このことかな。わからないけど、心臓部分に暗い何かが住み着いちゃっている感じ。
「んだな、確かにデリケートだったみたいだな」
「えっ?」
見ると、ゲンキは顔を斜め下に向けると、すまなそうに後ろ髪をかいていた。
わたし、いつのまにか何も見ていなかった。今、わたしってどんな表情をしていたんだろ。わかんないけど、笑顔は完全に壊れちゃっていた。
「……気にしないでください。わたしもちょっと、ほんのちょっぴりだけ、過剰に反応しちゃっただけですから」
大丈夫だと伝わるように、必死に笑顔を取り繕った。
「まっ、あんま無理すんなよ。キレイもヒメもガレキも、じっくりナナシに馴染めばいいんだからよ」
まったく、何考えているんだか。わたしがガレキやヒメと一緒なんて。ホント、侮れないな。
「そうですね。そろそろ寝ようと思うので、行ってもいいですか?」
平静を装えている気がしないけど、でも平気なフリをする。
「あぁ、悪ぃな。んじゃ、オレも風呂入ってくる」
ゲンキは踵を返すと、右手をヒラヒラさせながらお風呂に向かっていった。
足音がしなくなるまで、笑顔で手を振って見送る。そして廊下が静まり返って、たっぷりたってから肩の力を抜いた。
「無理すんな……か。そう言われちゃうと、無理したくなっちゃうかも」
何に意地を張っているのか、わたしは含み笑いをしてから部屋に入った。
頼りない月明かりが、うっすらと部屋の内装を照らし出している。暗い色のタンスとテーブルとベッド。そして壁にかけてある、わたしの銛。
「さっき、ゲンキになめられちゃた。生海丸のマーメイドと言われた、このわたしがね。でもしょうがないよね、海に飛び込めないんだから」
自嘲しながら、ゆっくりと銛の前まで歩く。
「家庭菜園の世話は腰が痛むし、掃除もそんなにやりがいがない。けど、生きるためには何かをしないといけない。それが、海に入ることじゃないのが、何よりもツラい」
銛を見上げながら、いつも心で思っていたことを口に出す。
「ねぇ、わたしが海に入って溺れたとして、ナナシのみんなはわたしを回収してくれるかな? そこまで信頼しきることが、わたしにできるかな?」
口に出すと、思いが心の奥底からあふれてきた。身体中が震えるほど熱くなって、限界まで溜め込んだ感情が、不覚にもボロボロとあふれ出しちゃう。
「自分のことは信じられる。一番わかっているから。でも他人はどうしても信じられないよ。ねぇ、どうすればわからないものを信じられるの」
海に潜ろうとした瞬間、また独りになるビジョンが頭に浮かんじゃうんだよ。所詮人なんて、自分のことしか考えてないんだよ。どうすることもできないんだよぉ。
「わからない。怖いよ……」
なんだか立っていられなくって、テーブルに手をつこうとした。すると、何か別の物に指先が触れる。
「え?」
確認すると、朝倉庫から持ってきた『王将』の置物だったわ。
「もしも物に、何らかの力があるのなら、わたしを守ってくれないかな」
不意に思ってしまった。何でもいいから、すがれるものがほしいって。
変なタイミングで見ちゃったものだから、つい期待しちゃった。肌身離さず持っていれば、わたしを守ってくれる、お守り代わりになるんじゃないかって。
「気休めだけど、まだ他人より信じれるかも」
何の役にも、立たなそうなのにな。でも持っているといいことありそうって、直感がささやいちゃったんだよね。
「よし、明日から肌身離さず行動してみよう」
奇異の目で見られちゃうかもしれないけど、何かのきっかけにはなりそう。
わたしは、自分でもはかなすぎると思う希望を抱いてベッドに潜り込んだ。