ガレキの燻り
俺、どうして生きてんだろ。
俺の生まれは酪農船サーロイン。五隻の船が連なっている連合船のひとつだ。それぞれ船で飼育している家畜が違う。船のうちひとつは、牧草を育てる専用船だ。
俺の住むサーロインは牛を飼育していた。
十九歳になるまではバカみたいに働いていた。今から考えると信じられねぇけどな。
子供の頃は親に酪農の仕事を教えてもらいながら、年の近い子と一緒に遊んだもんだ。
特に仲が良かったのはエリカとナオミのふたり姉妹だ。姉のエリカは平凡な容姿で穏やかな優しい性格だった。妹のナオミは背がちょっと小さくてかわいらしいんだけど、意地っ張りで突っかかってくる奴だったな。エリカにベッタリでホントにお姉ちゃんっ子だった。ときにはケンカもしたけど、ホント楽しかった。
特にエリカと一緒にいると不思議な気持ちになった。心がドキドキと高鳴るのに、自然と落ち着くことができたんだ。
何っていうか。傍にいるだけで生きてやるって気持ちになれた。ガラにもなく、生きがいってやつを感じていたんだ。
酪農船の朝は早い。メシを食う前に牛のエサやりや掃除、乳搾りをやんなきゃなんねぇ。独特な動物臭は、慣れねぇとツラいだろう。メシ食った後も牛の健康管理をしなきゃいけねぇし、エサの配合もしなくちゃなんねぇ。
ちなみに牛は船の上でも育てられるように品種改良してある。主なエサは海藻だ。
一日中働きっぱなしで、そりゃしんどかった。
「お疲れ。メェちゃんたち元気だった?」
「エリカ。全部の牛にメェちゃんって名前つけんの、どうかと思うぞ」
「一匹一匹の名前、覚えられないから。ねぇナオちゃん」
「もぉ、お姉ちゃんったら。おっとりしすぎよ」
「何か、すっげー気が抜ける」
でもエリカとナオミの三人で話すと疲れが吹っ飛んでいくんだ。俺がナオミをからかうとすねたり怒ったりといろんな表情を見せてくれた。そしてエリカは陽だまりのような笑顔で見守り、話がオーバーヒートしないように押さえてくれた。
やがて俺は大人になりエリカを女として迎え入れた。ナオミには思いっきり反対されたけど、エリカとふたりで必死に説得したことでわかってもらえた。
全てが順調だった。仕事は相変わらずキツいけど、エリカと一緒にいるとツラさなんて吹っ飛んでいった。
このままいけば、やがて子供ができて、温かい家庭を作っていける……はずだった。
「おはよっ。ケホっ。朝ごはんの準備できてるよ。ケホケホ。さっ、座って座って」
「どうした、エリカ。風邪でも引いたか? ツラいならムリすんなよ」
「ただ咳っぽいだけで、身体はたいしたことないよ。あっ、今水を……あれ?」
「エリカ? おいエリカ!」
ある日、エリカが病気で倒れた。必死で看病しているのにどんどんやつれていっちまう。それでもエリカは笑顔を絶やさなかった。俺にもナオミにも痛々しく見えて、何とかしたいのにできなくて……。
「何でお姉ちゃんがあんな目に合わなきゃいけないのよ! あんたちゃんとお姉ちゃんのこと見てたの!」
「……すまねぇ、ナオミ」
「謝らないで! 何とかしろ! このバカ! バカァァ……」
ナオミはどんどん心の余裕を失っていった。いや、他人事みたいに言うが、俺も余裕なんてなかった。歯がゆくて、悔しくて、かきむしるような心の痛みが身体ん中で暴れまわって、でも実際には何ともなくて、何ともないことがまた悔しかった。
俺たちの中でもっとも余裕を持っていたのは、皮肉にも死に一番近いエリカだった。病に侵された自分が一番ツラいはずなのに、俺たちに気を使い続けていた。
そして最期のとき。もぉ息をするのもツラそうなのに、必死に話しかけてきた。
「ねぇ……私、そろそろ限界みたい……今まで、お世話とかしてくれて、ありがとね」
「エリカ……」
「病気になっちゃってからの……ことじゃないよ。子供の頃から、本当にいろいろ……楽しいことをくれた。ケホっ」
「もぉいい。ツラいなら喋るな」
「ダメ……今を逃したら、もっ……たぶんチャンスはないから。ねぇ、私が生きていて、あなたは幸せだった?」
「……あぁ。全世界の人間の、一生分の幸せが詰まってたぜ」
「もぉ、オーバーね……でも嬉しい。それと、ナオミはあなたに……迷惑かけちゃうかも。でも私の妹を、恨まないであげてね」
「あぁ」
「ありがと。きっとあの子も、大変で……気持ちの整理がつかないから。あなたがそう言ってくれると、心強いわ。ねぇ、ひとつ……お願いがあるの」
「何だ」
「私が生きた証を、これからも……あなたに背負ってほしいの。ケホっ。これから、ツラいこととか……たくさんあると思う。けど絶対、逃げ出さないでほしいな」
「何気に、キツいこと要求すんだな」
「ふふっ……きっと大丈夫。いつか必ず、あなたの傷を癒す……誰かと出会えるから。そのときまで……あがいてほしいな。お願いね……」
「エリカ? エリカ……お疲れさん。お休みな……っ……くそっ!」
当時の俺は、いったいどんな顔でエリカと向き合っていたんだろうな。死にかけの人間に心配されるほど酷かったってのは確かだろ。最後まで情けない話だ。
とにかくエリカは死んだ。
数日は悲しみに明け暮れた。ナオミは俺を見るたび、感情を殺した目をしていた。不穏な雰囲気だったんだが、気にしている余裕なんてなかった。二・三日経ってこれじゃあマズいって思った俺は仕事を再開した。
再開したんだが……どうもやる気が起きなくなっていた。エリカの言葉を思い出すたびに、必死に働こうと思ったんだが、身体が全然ついていかねぇ。
ここまでなってようやく気づいたんだ。『支え』ってやつを完全に失っちまったんだって。
魂が抜けちまったように無気力な日々が続いた。眠ることさえ、満足にできねぇ身体になっていた。寝なきゃいけねぇのに眠れねぇと、気持ちがイヤにあせっちまう。
たびたび部屋から抜け出した。ひとり船べりにもたれて、むなしいほど輝く星空を眺めた。無駄だとわかっているのに星に聞いちまう。
「なぁ……何で人って、生きるんだ?」
答えなんて降ってはこない。この夜から、俺は星を見るようになった。
そして数日経ったある日の夜。俺は後ろから海に突き落とされた。
死んだように生きていたっていうのに、全身が凍てつくような恐怖を感じたな。同時にいったい誰がって思った。
その夜は大きい満月が浮かんでいて、月光が明るかった。チラリと見えたのは、目を見開いて、驚いた表情のナオミだった。
ドボンと海へと飲み込まれる。沈みながら思った。たぶんナオミに、俺を殺すつもりなんてなかったんだろうなって。
きっと俺と同じで、気持ちの整理がついてなかったんだろ。憎んじゃいけないとわかっていて、普段は必死に押し殺していたんだと思う。
だがたまたま俺が夜、ひとりでいるのを見ちまった。抑えが効かなくなっちまったんだろうな。水が溜まったタンクのどこかに亀裂が走れば、たちまち崩壊しちまう。きっと似たようなもんだろ。気づいた時には突き落とした後だったと……。
いろいろと思うとこがあったんだろうな。お姉ちゃんっ子だったし。
うん、仕方ねぇ。正直、俺も生きるのに疲れたとこだ。このまま母なる海に還るのも悪くねぇ。
エリカ、おまえの言う出会いの前に終わっちまった。すまねぇな。どうやら俺、約束を守れそうにねぇ。
こうして俺の、酪農船サーロインでの人生が終わった。
だが海の神は何を考えているのか、いたずらに俺を生かした。
孤児院船ナナシの、レッカっていう少女に拾われた。
女神のような妻が死んで、生きる気力のない、死にたがりが生きる。ホント皮肉でクソくらえな神だ。
拾われた命だが、やっぱり大切にしようなどとは思えない。人なんてメシを食わなきゃ死ぬ。だから頑なにメシを遠ざけてきたんだが、食わないっていうのは思った以上に難しい。限界を迎える前に食っちまうもんだから、道化もいいとこだろう。
ナナシのヤツらからは、俺が崩れた破片のように見えたんだろう。そのうち『ガレキ』って呼ばれるようになった。
ろくに働きもせず、寄生虫のようにナナシに張りついて生きている。
それはきっと、これからもかわんねぇだろ。
目を覚ますと明るい天井が見えた。日が昇ってから随分と経っているって感じだ。朝メシの時間はとっくにすぎているんだろうな。
とりあえず半身を起そうとして、ベッドに手をやった。すると何か柔らかな感触。ベッドなら固くて跳ね返ってくる感覚を捉えるはずだ。
「ん?」
不思議に思って見下ろすと、金髪の少女、ヒメが俺のベッドで寝息を立てていた。
何で、いんだよ。
部屋を見渡す。机やタンスは、どの部屋にも同じ場所にある。他には何もない無機質な部屋だ。そしてドア。元々イカれてたんだが、昨日レッカが暴走してさらに壊れたかんな。パタパタと中途半端な場所で揺れてらぁ。
ちなみにヒメがレッカを締め出してから、俺が後始末をした。ドアについているカギを取り外し、道具箱を倉庫に返す。最後にゴミを片づけて終わりだ。
改めて、壊れたドアを眺める。
今までは気にしてなかったんだが、本気でドアを直したほうがいいかもしれん。
呆れながら眺めてっと、手をつかまれた。振り向くと、ヒメと目が合う。澄んだ青空のような、濃い瞳をしている。寝起きのせいかトロっとした上目づかいで、ニコリと微笑んでくる。
「――がれき――っ」
「あぁ、おはよぉさん」
ヒメは出身が違うのか言葉が通じねぇ。でもまぁ、ニュアンスでなんとなくだが、言いたいことがわかるようになってきた……気がする。
ただ、ナナシにいる俺らの名前は覚えたらしい。最近は聞き取れるようになった。
挨拶ついでに、金色のサラサラと流れるような髪を撫でる。ヒメは目を細めてニコニコした。不思議と心がほっこりとしてくる。小動物を愛でるって、こんな気分なんだろうな。
撫で終わるとヒメは起き上がり、今度は抱き着いてきた。横っ腹に頭をこすりつけてくる。こいつに淑女のたしなみはねぇのか。
「じゃれんな、うっとおしい」
毒づきつつも、頭を撫でてやる。どうせ意味なんて通じねぇから、言うだけ無駄なんだろうけどな。
ヒメは小舟に乗ってナナシに辿り着いたお嬢様だ。見た目はな。フリフリしたかわいいドレスを着ていたし、装飾品も豪華そうだった。
着いた当初は警戒心むき出しで、誰も信じねぇトゲトゲした印象だったな。誰に対しても牙を向いている感じだ。
言葉も通じねぇから。近寄りようがなかったな。ママやレッカが、ナナシに馴染めるように必死こいていたっけ。まっ、俺には関係ないってタカ括っていたんだがな。
俺はみんなと同じ場所にいながら、違う世界にいるって感じだった。仲良くなろうがならまいが、たいして変わんねーんだろって思っていたんだ。
それが、何でかねぇ。ヒメは俺に一番懐いちまった。右手でヒメを撫でながら、天井を見上げる。思わず鼻から、ため息をついちまった。
ふと視線を戻す。どうしたのとでも言いたげに、ヒメがコテンと首を傾げていた。
「ん、あぁ。人生ってのは、よくわかんねーもんだな」
「――っ」
ヒメが何かを言うと、ニッコリと幸せそうに微笑んだ。
やれやれ。俺の疑問なんて、これっぽっちもわかってねぇんだろぉな。
手を放すと、ヒメは再び顔をうずめた。わき腹がくすぐってぇ。
「なぁ、ヒメは俺の何に心を許したんだ?」
話しかけると、ヒメは腕をほどいた。そして俺の太ももあたりに、身体をダイブさせやがった。俺の声を、何の合図と思ったんだか。
しかし子供とはいえ、育つとこは育っているもんだ。布越しとはいえ、直に押し当ててくるからな。将来はナイスバディになりそうだ。
そんときには俺も、三十を越えたおっさんになっているんだがな。
思考が飛んだな。何考えていたっけ?
……あぁ、ヒメが懐いている理由だ。皆目、検討がつかねぇ。それこそ直接聞かねぇとな。だが、きっかけはおそらくアレだったんだ。
ヒメがナナシに着いて数日。
俺はその日のメシを全部、抜いていたんだ。意味もなく生きることに抗って、また失敗するんだろうなと思っていた。
実際あまりの空腹と、のどの渇きで目が覚めちまった。我慢が効かなくなって、食堂へと足を運んだ。
真夜中だったが、月明かりがテーブルや椅子の影を照らし出していたな。
心もとないが、電気を点けるほどでもねぇ。足をぶつけねぇように気をつけながら、キッチンを目指す。飢えもそうだが、渇きの方がひどい。とりあえず水だ。
だが途中、何かが視界の端に入った。振り向くと、膝を抱えて俯いているやつがいる。暗くてよく見えねぇが、震えている気がする。
誰かは知らねぇが、気にかけるつもりは毛頭ねぇ。そっちはそっちで勝手に悩んでいてくれってやつだ。
俺は素通りしてキッチンに入った。コップを取り出して水を注ぎ、持ったまま食堂へ戻る。そしてうずくまっている誰かの元まで行って、コップを床にコトリと置いた。
音に反応して、身体をビクリと震わせる。バっと上げた顔は、まん丸く目を見開いたヒメのものだった。
こいつか……。
しばらくの間、何の感慨もなしに見下ろしていた。見上げる青い瞳は睨みつけるようでもあり、怯えるようでもあった。
「別にテメェがどうこうしようが、俺の知ったこっちゃねぇ。水はただの気まぐれだ。飲みたきゃ飲みゃいいし、要らねぇならそのままにしとけ」
ママさんが朝気づいて、回収するだろうしな。
「――っ」
何言ってるかわかんねぇが、冷たい刃物のような声色だった。
「へぇへぇ。お気に召さなかったようで。じゃあな」
手をヒラヒラと振ってから、背を向けてキッチンに入る。
孤立奮闘してりゃ、のども渇くだろ。笑ったりしねぇし、恩着せがましくもしねぇから、素直に飲んどけよ。
コップに注いだ水を一気に飲み干す。食道にしみ込むように、胃まで落ちていく。水一杯に極上の生を、不意に感じちまう。
極限まで腹をすかしてっと、水が甘く感じるから不思議だ。
「プハっ……チっ」
こんなんで、どうやって死ねるっていうのか。俺の全てがバカバカしい。寝るか。
コップを流しに置くと、キッチンを出た。一度ヒメを確認すると、こっちを睨んでいる。音に気づいたのか、はたまたずっと俺を見張っていたのか。
ヒメのコップはどうなっているのか気になった。水がなみなみと入っている。
俺の水……ってよりは、他人の水は飲めませんかい。
鼻から息を吐いて気を緩めた。
まぁ、気が済むまでそこにいりゃいいさ。俺は寝る。
ヒメから遠ざかる形のルートを辿り、食堂を後にした。
そんだけだったんだ、ホントに。あとは何もない。
なのに翌日から、俺はヒメにまとわりつかれるようになっていた。
朝、起こしに来るようになった。
メシの時間、手を引っぱって食堂まで連れてかれるようになった。
常に、俺の傍にいるようになった。
よく笑うようになった。
スキンシップに、俺の身体をよく触るようになった。
何の代償か、ママから睨まれるようになった。
今では人の寝ているベッドに入り込む始末だ。
これ以上のエスカレートは、そうそうないだろう。
「ホントにあの夜、俺はお前に何をしたんだ?」
呟きながら、ヒメの背中を撫でる。
「――がれき――っ!」
すると身をよじって、俺を見上げてきた。頬を赤くして恥ずかしそうに睨みつけてくる。
「ん、あぁ。悪ぃな。驚いたか?」
「――っ」
ヒメは起き上がり、ペタンと隣に座った。両手で自分の頬を包むと、身をクネらせる。
うん。わけわかんねぇ……そろそろ起きっか。
ヒメを置いてベッドから出る。ちなみに寝るときはパンイチだ。パジャマなんぞめんどくさくて着てられっか。
昔は結構筋肉もついていたんだが、今はすっかりヒョロくなったな。肌も働いていた頃に比べて色白になったもんだ。
「――っ」
背中からの視線がむずかゆい気がするが、ガキの視線なんざ気にしねぇ。タンスを強引に開けてさっさと服を着る。服自体はナナシのもんだから、かなり多い。別に好みはねぇからテキトーに着やすいもんを着るだけだ。
「おあっ……たく」
服を着ると、ヒメが背中から突っ込んできた。腰に腕を回して、背中に顔を押しつけてきやがる。いったい何がいいのやら。
身動きがとりにくいし、やることもねぇからいいけど。しばらくヒメの好きにさせてやる。
「――っ」
あらかた堪能したのか、ヒメは腕を緩める。今度は小さな両手で俺の左手を包み込んだ。熱を帯びている細く小さな十本の指が、ツヤやかな気がして何とも言えねぇ。
ヒメを見下ろすと、ニコニコした笑顔で俺を見上げている。背が頭ふたつ分ぐらい小さい。至近距離から見上げるのは、首が疲れるんじゃねぇかと思う。
心なしか、さっきより機嫌がいいような気がする。
「ホント、わけわかんねぇ」
俺はあいている右手で頭を撫でてやる。これだけで喜ぶから安いもんだ。手を握ったまま、左腕に頭をこすりつけてくるんだからな。
にしても、ヒメの髪はツヤがあって触り心地がいい。いかんな。変なクセになっているかもしんねぇ。
「がれき――っ」
考え込んでいたら腕を引っぱられた。ヒメは踊るようにクルリと振り向きながら、どこかへ連れていこうとしている。
「部屋、狭ぇんだから暴れんな」
「――っ」
注意すると笑顔が返ってくる。どうしてこうも通じてねぇのに、楽しそうなんだか。
疑問に思いながら、壊れたドアを抜ける。ヒメに引っぱられて、部屋を出た。
左右に個人部屋が連なる廊下を、ヒメに手を引かれて歩く。薄明かりに照らされていて、少し暗いが気にしねぇ。いつものことだ。
このまま行けば、つきあたりに食堂がある。
「あぁ、メシか。ヒメはまだ食ってねぇのか」
「――っ」
顔をまっすぐ向けたまま返事が返ってきた。声色からして、気分は普通だろうな。
「あっ、おはようございます。ガレキさん、ヒメちゃん」
甲板へと出る階段を横切ろうとすると、上から声が降ってきた。歩を止めて階段を見上げる。外が直接見えっから、眩しい。階段で四つん這いになりながら、雑巾がけをしている少女、キレイがいた。
水色のショートヘアにおっとりとした目つき。ヒメが空色の瞳なら、キレイは深い深海のような青色の瞳だな。
着ているのはオレンジ色のワンピースだろうか。後ろから見上げているから、よくわからん。まぁバリエーションも多くねぇから、おそらく間違っちゃいねぇだろ。
ケツをつきだす形で俺らを見下ろしているもんだから、不用心な気もすんな。
「よぉ。相変わらず飽きずに掃除してんのか」
「飽きたからって、掃除をしないわけにはいきませんよ」
マジメな奴だ。キレイは元漁師だが、トラウマで海に飛び込めないらしい。
漁に出られない代わりに、ナナシを掃除しているんだとか。
「まっ、俺にはかんけ―ねぇな」
「そんなこと言わずに、たまにはガレキさんもお掃除してみませんか」
キレイは雑巾を持つ手をあげた。
「んなガラじゃねぇよ」
視線を落として、あいている右手をヒラヒラと振った。世間話してっと、ヒメに左手を引かれる。見下ろすと、眉が不快そうにゆがんでいた。
「んっ、あぁ。腹すいたな。もぉ限界か?」
「――っ」
「朝ご飯、まだだったんですね。ごめんなさい、足止めしちゃって」
再び見上げる。ヒメの様子が気になったのか、キレイは頭を下げた。
「いや、別にかまわねぇぞ。気を張りすぎねぇようにな」
「ふふっ。そうですね」
気を使うと、意味ありげな微笑みで返された。ときどき、キレイを年上に感じることがあんだよな。怖ぇ意味でな。
心を読まれたような、未来を見通されたような、そんな抗いづれぇ恐怖だ。
茫然としていたら、両手で左腕を包まれた。輪郭を沿うようにスリスリと触られる。思わずゾクリとした感覚に襲われて、ヒメに視線を戻した。
俺には、お前が何を考えているかわかんねぇ。
「――っ」
何やっているんだこいつって視線を送っていたはずなんだが、やっぱり帰ってくるのは笑顔だ。他の表情を忘れちまったんじゃねぇかってほど、よく笑う。
好きに触らせていたら、ヒメの手はゆっくりと、腕の形を堪能するように肩まで登ってきた。昼寝するときに腕枕でもしたら、どんだけ喜ぶんだろうな……汗臭ぇだけか。
「おら、そろそろ行くぞ」
いい加減、じれったくなってきたので歩き出す。ヒメは両手で左手をつかんだまま、俺の少し後ろを歩いた。
手さえ繋げれば、どこを歩いても満足なようだ。
食堂に入ると、しんと静まり返っていた。窓から差し込む光は、埃をキラキラと輝かせている。昔はその光景を見て無邪気にはしゃいでたっけか。
「ママさんはもう、どっかに行ったみてぇだな」
こうなると、メシはねぇかもしんねぇ。
「――っ」
ヒメも食堂の様子を確認したんだろう。喋ると、俺の前に出て腕を引いた。
「着いてこいってか?」
引かれるまま歩くと、キッチンへと入っていく。シンクの水切りラックには、洗い物がキチンと片づけられていた。
さすがはママさんといったところか。仕事が早ぇ。いや、俺が遅いだけか。
考えている間も、ヒメはグイグイと俺を引っぱっていく。辿り着いたのは冷蔵庫の前。白く小さな手で開けると、黄色いオムレツがふたつ入っていた。
「よく見つけたな」
「――っ」
感心して頭を撫でると、得意げな顔で笑った。素直な奴だ。ふいに身体が、春の陽気を浴びたような感じになった。何でだろうな。
さすがに手を繋いだままだと、何もできねぇから放す。ヒメが残念そうに自分の手を見下ろした。そんなに俺の手はいいんだろうか。
気をとりなおしてオムレツを冷蔵庫から出し、レンジに放り込んでチンする。ドアを開けっと、ふんわりした甘い匂いが漂ってきた。
腹の音がふたつ重なる。顔を合わすと、思わず笑っちまった。
取りだすときに皿が熱いから、思わず手を放しちまった。レンジの中でガタンって音が響いた。
「おー熱っち。どうすっかな」
「がれき――っ」
手をヒラヒラと振って熱を冷ましてっと、ヒメが布巾を取ってきた。使う? って言いたげに、首をちょこんと傾げて差し出してくる。
「おー、あんがとな。ヒメは頭いいな」
「――っ」
褒めながら受け取る。ヒメは両手で自分の頬を包んで、嬉しそうに目を細めてブンブンと首を振った。
おかしいな。たまに言葉が通じている気がする。
疑問に思いつつも、チンしたオムレツをいったん流し台の上に置く。もう一皿も同様に温める。ヒメは律儀にも待っていた。
「先にひとりで食べてても、俺は全然かまわねぇぞ」
「――っ」
空のように透き通る瞳が、きょとんと上目づかいになる。
もしも通じているなら「何言ってるの、私も待つよ」って言っているんだろうな。
思わず鼻からため息が出る。同時に、無意識に俺の左手はヒメの頭を撫でていた。
電子レンジの音が響く。二皿目も熱かった。ヒメは二枚目の布巾を取ってきてくれた。
「よっしゃ。ヒメはスプーンでも取ってきてくれ」
「――っ」
何となく言ってみただけだ。返事はしたが通じているとは思ってねぇ。
俺は両手にひとつずつ、タオル越しに皿を持って食堂に移動する。テーブルは、一番キッチンに近いとこでいいだろ。
皿を置くと、ヒメがトレーに水とスプーンを載せて持ってきた。俺より頭がいいじゃねぇか。将来が楽しみってやつか。ってか、俺もトレー使うんだったな。
気をとりなおすため、首を横に振った。オムレツを隣り合うように置く。ヒメもスプーンとコップを同じように配置した。
「んじゃ、食うか」
「――っ」
隣り合って座り、いただきますを言う。ヒメもこの挨拶は覚えたようだ。独特なイントネーションで俺にタイミングを合わせた。
さっそくスプーンを握り、食べようとする。が、視線が気になったからストップした。
ヒメがスプーンに一口サイズのオムレツを乗せて、俺の口元まで運ぼうとしている。
ホント、ヒメも飽きねぇな。一生懸命に腕を伸ばして、俺が口を開くのを待っている。
「ったく、ほらよ」
スプーンをテーブルに置く。あーってだらしなく口を開けると、ヒメが口元まで近づけてきた。顔を動かしてパクリとしてやった。
卵の甘い香りが口ん中を占領する。
噛むとオムレツとは違う歯ごたえがある。プリプリしたのはエビだな。食感が残るように、細かく切られてらぁ。噛み潰すとエビの旨味が、卵の甘さと混ざり合うのがいいな。
もうひとつ何か入っている……焼き魚をほぐした身だな。やわらけぇんだが、噛みごたえがしっかりでてらぁ。
食感がおもしろいから、飽きがこねぇ。さすがママさんといったとこか。
よく味わってから飲み込むと、のどを通って鼻孔まで香りに包まれた。ヒメが青い瞳で見上げながら、首を傾げている。
「あぁ、うめぇぞ」
ヒメは満足げに笑うと、二口目を差しだした。そいつも顔を動かして口で拾う。
ったく、どうして女子供は、こういうことが好きなんかねぇ。ヒメのやつ、一口も食べずに、全部メシを回してきやがる。でもまぁ、かくいう俺も好きだった時期があったか。
シーフード風オムレツを食べながら、ふと思い出した。子供の頃、エリカやナオミと三人で食べさせ合いもしたっけ。
水を飲んで一拍おく。ふとした思いつきでスプーンを手にとる。自分のオムレツを、一口よりやや控えめに切りとって乗せた。
「――がれき――っ」
ヒメは頬を膨らまして、不機嫌そうに睨んでらぁ。こう見ると、駄々をこねるガキみてぇだな。いや、実際ガキか。
思わず苦笑しながら、スプーンに乗せたオムレツをヒメの口元まで運んでやった。
くくっ……ヒメのやつ、青い目を見開いてきょとんとしてらぁ。
「おらっ、あーんだ」
ちょっとした思いつきだ。こいういのは確か、一方通行じゃなかったはずだかんな。
ヒメはちょっとの間、目をパチクリさせていた。やがて頬を赤く染めながら、嬉しそうに口を開けて食べる。
モグモグと味わって、ゴクンと飲み込むのを横から眺める。
「どうだ」
「ん~~っ」
ヒメは両手で自分の頬を包んで、首を振る。バサバサと揺れる髪が、金色に輝いてらぁ。足をバタバタさせながら、身をクネらす。嬉しそうだ。目を山なりに細めている。
「オーバーだな。そこまでうめぇもんでもねぇだろうが」
そんなオーバーリアクションをとったことは、一度もなかったはずだ。たいして味が変わるわけでもねぇだろうにな。
気づいたら、口角が上がっていた。
ホント、何が楽しいのやら。わかんねぇけど、悪ぃきはしねぇな。
「一口じゃ足んねぇだろ、ほら、次だぞ」
俺は微笑ましく思いながら、二口目を用意する。二回目だろうがヒメのリアクションはとどまらねぇ。こりゃ、時間がかかりそうだ。
この後、交互にあーんしながら、ゆっくりと朝メシを食べた。
「今日も眩しぃな」
朝メシを食べ終えた俺たちは、甲板へと顔を出す。左手で庇代わりにして空を見上げた。薄い水色が一面に広がって、雲なんてひとつもねぇ。太陽が一番高くなるまでは、もうちょっと時間がかかりそうだ。
陽気はポカポカと暖ったけぇ。身体を横にすれば夢の世界へ直行できそうだ。
「――っ」
俺の右手に抱き着いて、身体を預けているヒメが上目づかいに聞いてきた。
「することねぇな。さっきまで寝ててなんだが、俺は昼寝すっかも。退屈だったら別んとこ行ってもいいんだぞ」
ヒメは首を縦に振ると、ニコリと微笑んだ。会話、噛み合ってねぇんだろうな。
「あっ、ガレキにヒメじゃない。ひょっとして、今更おはよう、だったりするわけ」
視線を向けると、燃えるような赤い瞳を宿す少女、レッカがいた。
瞳と同様に赤い髪は、黄色いリボンでツインテールに括ってある。もっとも、漁から帰ったとこなのか、濡れて垂れ下がっているけどな。
服も泳ぎやすいように、必要最低限だ。胸のさらしに下はスパッツ。左手の銛は、肩に担いで刃先を空に向けている。もちろん全部、水浸しだ。いたるとこから、水滴がポタポタしている。
昨日はかなり不調で、いろいろミスをやらかしていた。普段はしっかり者だけどな。
レッカは二ヶ月ぐらいに一度、何をやってもダメな日がくる。サイクルとして認めれば、被害も少なく済むと思う。が、当の本人が気づいてねぇかんな。その代わり……。
「あぁ、おはようだ」
「――っ」
俺は左手を軽く上げて、挨拶を返した。ヒメは何かを言って、俺の背中に回り込む。
まぁ、レッカはやさしく見えねぇからな。多少は怖くも感じるだろ。
「まったく。相変わらずの寝坊助ね。ちょっとは生きる何かをしようとは思わないわけ」
少し見下ろす。呆れたように右手を腰につけて、睨みつけられる。
何を言われようが、そんな気は滅多に起きねぇな。
俺はアクビをするように、手で口元を抑えて声を上げた。
「考えると眠くなる」
「まじめに検討しなさいよね。これだからガレキは」
レッカは右の手のひらを上にして、肩ぐらいまで上げる。やれやれといった感じにため息をついた。
「今更だな。それより、漁の調子はどうだった」
尋ねると、挑戦的にニっと笑った。白い歯を見せて、ずいぶんと楽しそうだ。
「絶好調よ。今日だけで二十匹は獲ったんだから」
「そうか。そいつは安心だ」
聞いてはみたけど、始めから予想はついていた。レッカは不調な日を終えると、決まって絶好調になるからな。このサイクルも無自覚だ。
「そうでしょ。でもだからって、サボっていいわけじゃないんだからね」
再び手を腰に当てると、威嚇するように睨まれた。
別にレッカにおどされたところで、怖くも何ともねぇんだけどな。ナナシの他の連中に比べりゃ、かわいいもんだ。特に、キレイと比べると……な。
俺が呆然としているのを、おびえているとでも思ったんだろうか。ヒメが俺の手を放すと、レッカの前に立ち塞がった。
「――れっか――っ」
後ろ姿だから、ヒメがどんな表情してっかわかんねぇ。けど声には険があって、鋭かった気がするな。
対するレッカは赤い目をまん丸くして驚いていたが、ため息をつくと俺を見上げてきた。
「何っていうか、ガレキがヒメに守られてるお姫様に見えた」
「さしずめ、姫騎士がおっさん守ってますって感じか?」
ヒメは真剣なんだろうけど、滑稽すぎて笑っちまう。レッカも吹き出してらぁ。
「あら、楽しそうね。ママも混ぜてくれないかな」
レッカの後方を見る。魚がビッチリと入った水槽を、両手とおなかを使ってママさんが運んできた。
ママさんは俺と比べて、頭半分ほど身長が低い。うっ、身長について思った瞬間、ママさんから険のある笑顔を向けられた。レッカより断然怖ぇ。
手を引かれて視線を落とすと、ヒメが心配そうに見上げていた。何だろな、つい癒しを感じちまった。
とりあえず頭を撫でてやる。何かが嬉しかったらしく、前から抱き着いてきた。ヒメは頭を、腹のあたりにうずめた。
一通りひるみが治ったとこで、再びママさんを眺める。何となくだが、見下ろすって言葉が危険な気がしたから避ける。
茶色い髪は、ゴムか何かでひとつにまとめておろしていた。正面からだと見えねぇが、腰あたりまで伸びている。おっとりとしたタレ目は、夜空のような黒色をしている。
腕が疲れたのかママさんは、よっこいしょと水槽を床に下す。身長の割に胸がやたらデケぇ。クリーム色のエプロン越しに、くっきりと形を表している。
「で、さっきヒメちゃんはレッカの名前を呼んでたわよね。次は私も呼んでいいのよ」
ママさんはフリーになった手をワキワキとさせながら、一歩ずつ、じっくりと近づいてくる。水槽を下したのは、このためかもしんねぇ。
ヒメは悪寒を感じでもしたのか、ビクリと震える。すぐに俺の背中へと隠れた。ママさんに顔すら出してねぇ。レッカんときと比べると、警戒心が比じゃねぇな。
「もぉ、恥ずかしがり屋さんなんだから。もっと素直に甘えてもいいのにぃ」
言葉は平穏を保っているが、ママさんはがっくりと頭を落としている。ナナシの中で最年長のはずなんだが、この言動のわかりやすさはどうなんだか。
「ママ。ヒメを見てると、かわいそうっていうより逆にすごいって感じる。何したらここまでおびえられちゃうのよ」
レッカも思わずって感じに、ため息をついた。
「レッカの名前を呼んだから、ナナシに打ち解け始めたのかなって思ったのに。レッカだけズルいわぁ」
ママさんは俯いて、両手の人差し指をツンツンとさせる。口をへの字に曲げてすねちまった。
「あたいだけじゃないと思う。ガレキなんてとっくに呼ばれてるんじゃない?」
レッカに視線を向けられる。ママを見ると、ジトーっと上目づかいで睨まれた。思わず目を逸らしちまった。
「ズルいわガレキ。私だってヒメちゃんに名前を呼ばれたい。撫でまわして、お互いにあーんをしたい。一緒にお風呂に入って、背中の流し合っこをしたいんだから!」
ママさんは俺やゲンキよりも欲望にまみれていんじゃねぇのか。
ふと背中に意識をやる。いつのまにかヒメは小さく丸まって、ガクガク震えていた。ママさんの色欲はどんだけだっつの。
「ママの妄想って、そこまで膨らんでたんだ……」
レッカが若干、引き気味になっている。
「でも、ガレキだって最初のやつ以外はやってないと思うよ。だからママ、ゆっくりいこうよ」
レッカのフォローを聞きながら思う。さっき、ふたつ目までやっちまったなって。知られたらあとが怖ぇから黙ってっけど。
さすがに最後のは、やらねぇだろ。ヒメだって男女の分別ぐらいあるだろ。万一に俺からいったら、関係がぶっ壊れるだろうな。
「ところでガレキ。朝ごはんはちゃんと食べた? ヒメちゃんの分も一緒に冷蔵庫に入れたんだけど」
「うっ! あっ、あぁ。ちゃんと見つけたぞ」
変なタイミングでメシのことを聞かれたから、思わず悲鳴を上げちまった。
ママさんはきょとんと首を傾げていたが、レッカは何かに気づいたように口を丸く開いた。頼むから何も言わんでくれ。
「ちゃんと食べたのよね。よかったわ」
ママはニコやかに、胸の前で両手を合わせた。首を傾げて喜んでいるサマは、何かの含みを感じる。
どうやら危機は回避できたようだ。肝が冷えるとは、よくいうもんだな。
「多分遅くなると思って、量は少なめにしてたのよ。もうちょっとでお昼だけど、食べれるかしら」
「俺は大丈夫だが、ヒメはどうだろな」
さっき食べたばかりだから不安はあんな。特にヒメはまだガキだかんな。
考えてっと、ママさんが意外そうに目をパチクリさせたわ。
「これも、ヒメちゃんのおかげかもね」
「かもね」
ママさんとレッカが目を合わせて、含み笑いで何やらわかり合っている。
「何がだ?」
これまでの話の流れに、何か変な部分でもあったか?
俺が疑問に思ってっと、ママさんとレッカはタイミングを合わせてウインクした。
「ほら、ヒメちゃんと仲良くなる前は、ガレキってよくごはんを抜いてたから」
「まっ、堂々とただ飯を食べるのはどうかと思うけどね」
レッカが首を傾げながら、苦笑する。
あぁ。ヒメが懐いてから、メシを抜いたことってないな。
「レッカは、俺が食べないことを望んでそうだな」
「できるもんならやってみなさいよ。きっとヒメが許さないんだから」
挑戦的に眉尻を吊りあげるレッカ。もっともだな。
「それに、どっちにしてもごはんは作るんだからね。食べないで無駄にするよりは、食べて働きなさいよね」
「どうあっても、俺を働かせたいんだな。レッカは」
目をつむって、空に顔を向ける。やっぱ働く気にはなれねぇな。
「期待すんなよ」
目を開けて視線を戻すと、レッカにため息をつかれた。
「あたいは諦めないんだからね」
キっと睨まれた。やはりママさんの笑顔よりかなり微笑ましい。
「ところでガレキ、今日のオムレツはおいしかったかしら?」
一段落ついたところで、ママが切り出す。作った本人としては、気になるとこなんだろう。
「あぁ。うまかったぞ」
端的に言うと、レッカがピクリと反応した。まぁ気にせずに続ける。
「俺の好みだったな。ヒメも気に入った感じだったぞ」
一瞬でポカポカした陽気が、凍てついた。ママさんがなぜか、レッカを睨みつけてらぁ。
「意外ね。ガレキがそこまで言うなんて」
レッカが口元をヒクヒクさせて、視線を斜め下に逸らした。対してママさんは、いつも通りの笑顔を張りつけている。
「ふふっ。実はねガレキ、あのオムレツはレッカが作ったのよ」
ママさんが目を山なりに細めて、見た目は楽しそうに微笑んだ。ちっと怖ぇ。
「今朝レッカがキッチンに入ってきたのよ。ガレキのタイをダメにしちゃったから、朝食を作らせてってね」
驚いたな。朝食はママさんひとりで作っているから、てっきりあのオムレツもそうだと思っていた。
「これでひとつ、借りを返したんだからねガレキ」
「別に、気にしてなかったんだがな」
嬉しくてしょうがないんだろうが、得意げになりきれないレッカがいた。だが仕方ねぇだろう。空気が冷凍庫みたいに凍てついているんだから。
「よかったわねレッカ。ガレキもヒメちゃんも喜んでくれたみたいで」
冷気の発生源であるママさんが、頬に右手を添えて微笑む。
「うっ……うん」
カクカクした動きで首を縦に振る。レッカでさえ、恐怖を抱くほどか。
「でもね、ヒメちゃんがいつもより喜んじゃうなんて。私のより、レッカの料理の方が好みだなんて。ショックだわぁ」
ママはしおれたように座りこむと、床に両手をついてうなだれちまった。
「ママ。たまにはそんなこともあるって」
レッカが気づかうように、ママの肩にポンと手を置いた。
言えねぇ。ヒメがご機嫌だった実際の理由は、絶対に言えねぇ。
頬に一筋、つぅっと冷や汗が流れる。
「……しょうがないわよね。こうなったらレッカ、昼食は私ひとりで作るわよ。絶対ヒメちゃんに満足してもらうんだから」
不意にママさんが、ガバリと立ち上がった。レッカは口を大きく開いて、二・三歩後ずさる。
「うっ……うん。わかったわ」
普段は何が何でも手伝うって言うレッカだが、さすがに気圧されちまったか。せっかく絶好調なのにな。
「そうと決まったらさっそく作らなきゃだわ。ガレキ」
ママさんに呼ばれた俺は、真正面から強風を受けたような気持ちになった。
「あっ?」
「昼食はみんな揃って食べるわよ。遅れないでね」
「あぁ」
俺が返事をすると、ママさんは満足そうにニコリと頷いた。下ろしていた水槽を両手で力強く持ち上げる。見ていて頼りになる。
「さー、何を作ろうかしらねぇ」
独り言のように口にする。歩く姿はノシノシと足音が聞こえてきそうだ。俺の横を鼻歌交じりに通りすぎるのを、目で追っちまう。ママさんは振り返ることなく、階段を下りていった。
きっとあのまま、食堂に直行だろう。
「ママ、大丈夫かしら」
振り返ると、レッカがポツンと呟いた。
「なるようにしか、なんねぇだろうな。気にしてもしょーがねぇ」
俺は鼻からため息をついて、肩をすくめた。
「ところでガレキ」
「んあ?」
「あたいのオムライスで、ヒメとイチャついてたの?」
やっぱり気づいていたか。
「ママさんには言うなよ。あとが怖ぇ」
一応、口止めをしておく。バレたときの想像は……したくねぇな。
「別にいいけど、でも無駄なんじゃない」
レッカが呆れたように肩をすくめた。
確かに狭いナナシの中だ。いずれはバレるだろう。
「少しでも時間をおきてぇんだよ。んなことより、さっさとシャワーでも浴びたらどうだ」
めんどうな話題だったから、さっさと話を切り替える。
「それもそうね」
レッカは銛を少し持ち上げると、歩き出した。横を通りすがって階段へ向かってく。
「あっ、そうそう」
レッカは階段の手前で止まると、思い出したように言った。
「どうした。忘れもんか?」
「ありがとね。あたいのオムレツ、おいしく食べてくれて」
レッカは肩越しに振り向いて言うと、返答も待たずに階段をゆっくり下りていった。
「……案外、気にしてんだな」
思い出しちまった。エリカが料理を振る舞ってくれた日々を。あいつは料理が下手だったからな。たまにうまくできると、お礼を言ってきたっけ。俺はただ、おいしく食べていただけなのにな。
「てと。ヒメ、もうママさんは行っちまったぞ」
俺は、足元でしゃがみこんで震えるヒメに話しかける。ヒメはオドオドと周囲を見渡して、誰もいないのを確認する。顔を上げると、青い瞳と目が合った。
「がれき――?」
小さな声は不安げに震えていた。
「あぁ、終わったぞ」
答えると、ヒメが跳ぶように立ち上がった。両手を目いっぱいに広げて、俺の首に腕をからめてきた。
首に全体重がかかってよろめいちまう。がっ、どうにかこらえることができた。
「うおっ、急にアクティブだな」
「――っ」
一応、文句を言ったつもりなんだがな。かなり近い距離で微笑まれちまった。青い瞳が見透かすように、俺を覗いてらぁ。
ずっとぶら下げとくと、首をやられそうだ。仕方ねぇからヒメのケツを持ち上げて、抱っこしてやる。
何だか嬉しいような、ちょっと違うような、微妙な表情になったな。まぁいい。
「もうすぐ昼メシだと、食えるか?」
「――っ」
ヒメは目を左下に逸らしながら、頬を赤くする。そして要求するように言った。
こりゃ、話が通じてねぇ。
俺たちは、意思の疎通をとれないまま、しばらく立ち尽くした。
レッカが言っていたのは、あのことだったんだな……。
昼メシを食い終えた俺は、船べりで釣りをしていた。眠たくなる日差しを浴びながら、海面に糸を垂らしてぼーっと待つ。
ロッドはベイトリールタイプ。ちょっと古いが、まだまだ使えそうだ。
「――っ」
俺の隣には、もちろんというべきかヒメがいる。タモを両手で持って、ただ海中に沈んだはずのルアーを必死に眺めてらぁ。退屈そう見えるんだけどな。
リールを巻きもせず、ルアーを沈ませながら思い出す。
「何っつーか、ヒメもやってくれたよな」
誰に言うでもなく、ポツリと口から出た。呼ばれたと勘違いしたのか、ヒメが俺を見上げた気がする。
昼メシ。ヒメはいつも通り、料理を食べさせてくれた。普段ならヒメが一方的にやって終わりなんだが、朝メシに余計なことをやった影響が出ちまった。
一口俺に食べさせると、微笑んで服を引っぱる。そしてヒメは口を開けて、俺からのあーんを待ちかまえやがった。
ゲンキは気にせずにメシを食べ、レッカがやっぱりねと言いたげに肩をすくめる。キレイは目を点にして驚いたが、まぁと言って微笑んだ。そしてママさんが……。
俺はそのうち、ナナシからも突き落とされるかもしれん。
不穏な冗談を頭に浮かべ、ひたすら海を眺めた。
「やっぱ、そうそう釣れねぇな」
そもそも魚の釣り方なんて知らねぇ。やり方もわかんねぇ。たぶん間違っているんだろうな。
「んっ、よぉガレキ。釣りか?」
低い声に振り向くと、ゲンキが片手を顔の高さまで上げて近づいてきた。
緑のバンダナに腰さらし。黒のカーゴパンツに黄色いシャツの半裸族だ。
「ゲンキか。まぁな」
「――げんき」
ヒメも俺と同様に振り向いた。レッカやママのときと違って、俺の陰に隠れたりしねぇ。まぁ、ゲンキは毒気がねぇからな。ってか、普通に挨拶したな。
ゲンキはヒメの隣に並ぶと、船べりにもたれて海面を眺めた。俺も視線を追う。
こうやって並ぶと、川の字に見えるんだっけか。意味が違ぇか。
「なぁ、ガレキ。釣れるのか?」
疑わしげに聞いてきたから、チラリとゲンキを見る。半目になって首を傾げているな。ちなみにヒメもゲンキを見上げて、聞く態勢をとった。
「いや」
俺は首をゆっくりと振った。
「だよな。何でリールを巻かねぇんだ?」
「巻くもんなのか?」
「巻くもんだぜ。あれだとルアーが死んでるぞ」
呆れたように眉を寄せながらゲンキが続ける。
「ルアーって動きで生きたエサに見せる道具だぜ。待ってるだけじゃ、まず釣れねぇぞ」
「ほぉ。詳しいな」
「ただ巻いてるだけでも効果はあるぞ。巻くのと止めるのを繰り返す方法もあれば、ロッドを下にしてビシッビシッて叩く動作もある」
ただ待っているだけじゃダメなのか。魚釣りってめんどうだな。
呆然としながら、とりあえず目の前にあったヒメの頭を撫でる。
「――っ」
ヒメは振り返ると、はにかむように微笑んだ。青い瞳で見上げてくる。
「だなっ。思ったより大変みたいだぞ」
俺が微笑むと、肯定するように頷いてくれた。相変わらず通じているか微妙だがな。
「なぁ、ガレキは海には入らねぇのか。釣りが得意ってわけじゃねぇなら、直接獲ったほうが楽しいと思うぜ」
ゲンキは納得いかないように提案してきた。ヒメが、きょとんと首を傾げる。
正直驚いたな。ゲンキは俺に働かせるんじゃなくて、楽しんでもらおうとしている。その発想は今までなかった。
さて、どこから説明すっか。
「ゲンキ。おめぇは酪農船って知ってるか?」
「あぁ。ナナシにくる前は、オレもお世話になってたぞ。肉ってうめぇもんな」
平然と答えたな。見方によっちゃ、話を逸らしているように感じるはずなんだが。
「そいつはよかったな。俺は酪農船の出身だ。肉の生産力だけは高かったからな、毎食肉は料理に入ってた」
「へー。最近肉なんて食ってねぇからな。すっげー羨ましい」
ゲンキはだらしねぇ顔で、よだれを垂らす。
「そんなんでもねぇな。肉ばかりで他のものがほとんどでねぇ。早い話、飽きちまうんだよ。生業の関係で、魚を食べることもほとんどなかったしな」
「珍しい暮らしもあるもんだ」
ゲンキが納得したように頷いた。単純。疑おうだなんて、これっぽちも思ってねぇ。
「だから海に入る必要なんてなかったんだ。つまり、俺は泳げねぇんだよ」
ゲンキは目をまんまるくさせっと、驚きで一歩下がった。
「えっ、そうなのか?」
俺が頷く。ゲンキは息をはくような声で、何度も首を縦に振った。
「へぇ……そうなんだ。ふぅん……」
ヒメは何が楽しいのか、ゲンキに合わせて首を振っていた。どんな顔をしているのか知らんが、後ろから頭を撫でておいた。
「でもガレキ、カナヅチでよくナナシまで辿り着いたな」
無自覚にイヤなとこをついてきやがった。身体ん中にある黒い部分を、グサリと刺されたような感じだ。
「さぁな。海の神は気紛れだかんな」
投げやりなふりをして、視線を海面に戻した。波が静かに揺れてらぁ。
「そっか。不思議な縁もあるもんだ。そういやさ」
「どうした」
「ガレキが昔のこと言うのも珍しいよな」
言われて初めて気づいた。特に教えるつもりもなかったんだが。
「かもな。一応、ヒメには言ったことあるからな」
空を見上げながら、言い訳していることに気づく。
何に向かって、俺はごまかそうとしているんだろうか。
「――っ」
何を思ったのか、ヒメが俺の横っ腹をペタペタと触り始めた。次に、形を確かめるようにゆっくりとさすってくる。くすぐったくてゾクゾクしちまう。
「なぁヒメ、楽しいか?」
何事もないように、ゆっくりとヒメを見下ろす。頬を赤く染めて、全身全霊の笑顔を浮かべていた。
無表情と笑顔の睨めっこ。しばらくすると、緊張を溶かすようなあくびが耳に届いた。
「ふぁ~あ。退屈だからオレ寝るわ。じゃあな」
目尻に涙を溜めながら言うと、ゲンキはこの場を去っていった。この後は部屋に行くなり、日当たりのいい場所を見つけるなりして、昼寝をするんだろう。
「がれき――げんき――っ」
ゲンキの背中を目で追いながら、ヒメが言った。
「んだな。ゲンキは自由な奴だな」
俺もゲンキを見ながら応えた。あっているかどうかは知らねえ。
結局、魚は一匹も釣れなかった。
魚釣りに飽きた俺たちは、道具をしまって昼寝することにした。
日当たりのいい場所で、ヒメに腕枕をしてやる。反応はまぁ、言うまでもねぇだろ。
目が覚めると、晩メシの時間だった。ヒメと一緒に食堂行くと、ママに遅いと睨まれる。
怯えつつも、ヒメと食べさせあっこする。言葉が通じたら、やめさせるんだがなぁ。
そして一日の終わりが近づく。
俺はひとり、無駄にでけぇ風呂に入っている。もちろんマッパだ。モワモワと湯気が漂っている。
両手をいっぱいに広げて風呂にもたれる。夜空を広々と眺められる大きな窓。設計者の趣味と欲望が、手に取るように感じられちまう。
「誰が作ったか知らんが、ホントよくやったよな」
毎度のことながら呆れちまう。
「にしても、今朝は驚いたな」
ヒメにはなぜか、懐かれている。気づいたら、朝ベッドに潜り込まれるほどだ。
「ホント、朝からずっとベッタリだったな」
思わずタイルの床に頭をつけて、天井を仰ぐ。最近は頻繁に触られている気がする。何でひとりの時間がこんなに貴重になっているんだか。最近じゃトイレと風呂ぐらいしかひとりになってねぇ。
考えていると、洗面所のドアがガラガラと開いた。
誰だ? ゲンキ……だよな。普通に考えると。
天井からゆっくり、洗面所の方に視線を落とす。
「がれき――っ」
今の俺は、転がっている生首のように見えるんじゃねぇか。見えてなくても、気分は生首って感じだ。
距離があるとはいえ、下から見上げる形でしっかりと確認しちまった。風呂に入る準備万全な姿の、ヒメを。
「おぅヒメ。悪ぃが入ってるぞ。めんどうだろうが、もう一度服を着直してくれ。俺が出たら伝えに行くかんな」
俺はおおらかに片手を上げると、シッシッと腕を動かした。ヒメは間違えて入ってきた、はずなんだ。
ヒメは一歩中に踏み出すと、背中越しにドアを閉めた。
閉めやがった。もう確定しちまった。
俺は呆然とローアングルで眺めているはずなんだが、ヒメは気にすることなく歩いてきた。テトテトと、手を伸ばせば触れるぐらいまで。
んでもって、頬を赤く染めて微笑んでやがる。いつもと違うのは、俺がほぼ真下から見上げる形ってことと、ヒメの頬がいつもより赤く染まっている気がすることだ。
「なぁヒメ。お前何歳だ?」
子供と思いてぇ。最低でも十歳は下回っていてほしい。
「がれき――っ」
俺の言葉をどう受け取ったんだろうな。
ヒメは浴槽に入ると、横から俺にもたれてきた。ななめ前から振り向くと、青い瞳と見つめ合っちまう。
「がれき――っ」
「……あぁ、そうだな」
もういいや。俺は何かを諦めて、ヒメの頭を撫でた。
しばらくは湯船の中で温まっていたんだが、ヒメは不意に俺の手をつかむ。
「ん、どうした?」
「がれき――っ」
ヒメは微笑むと、手をつかんだまま立ち上がる。どこかに連れていくように、引っぱってくる。着いた先は、洗い場だった。
「――がれき」
何かを求められた気がする。ヒメは俺に背中を向けてペタンと座った。
理解できた瞬間、鼻で笑っちまった。
「おいおい。ひょっとして今朝の、ママさんの欲望が聞こえていたのか?」
ヒメは振り向いて見上げると、きょとんと首を傾げた。たぶん、ママさんの名前が出たことが不思議だったんだろう。
「ったく、わあったよ。背中を流しゃいいんだろ」
俺が後ろに座ると、ヒメは満足して前を向いた。鏡越しに視線が合う。何が嬉しいのやら、思いっきり口が弧を描いてらぁ。
俺も不思議と温かくなって、笑みがこぼれちまった。
よくわからないが、不快じゃない。そんな気分で石鹸をタオルに泡立てた。
「ほら、いくぞ」
「――っ」
「うおっ」
思いっきり背中をこすると、嫌そうに顔をはたかれた。たぶん痛かったんだろ。手加減するとおとなしくなった。
「がれき――っ」
「そいつはよかったな」
弾む声色を聞いて、褒められたんだと思った。洗っている間も、次々と喋りかけてくるから、それっぽく返しておく。
背中を流しながら、小さい背中だなって思う。きっと女で、子供だからなんだろうな。
ふと幼い頃を思い出す。
昔はエリカとナオミと三人で、男女の壁もなく背中を流しあったな。あの頃は俺もガキだったから、女の子の背中を小さいだなんて思いもしなかった。
色気なんて全然ない、好奇心の塊だった。ただ洗いあっこするのが楽しかったっけ。
物思いにふけっている間に、ヒメの背中を流し終える。
「終わったぞ。ヒメ」
「がれき――っ」
「んっ、なんだ。どうした?」
ヒメは立ち上がると、俺の後ろに回り込んだ。背中を押されて、洗い場の前に運ばれる。いつの間にかタオルも奪われていんな。
「交代ってか?」
鏡越しに聞くと、ヒメは笑顔で頷いた。
ここまできたんだ。好きにさせてやるか。もうどうとでもなれ。
やがて準備ができたようで、ヒメは俺の背中をこすり始めた。
「がれき――っ」
「ん、くすぐったいな。もう少し強くしてくれ」
なんだか、急に父親な気分になった。
ヒメは尋ねるようなニュアンスで、よく喋りかけてくる。俺はつい、煽るような口調で返答しちまった。
俺の言葉を聞くたびに、ヒメはムっと口をへの字にして、俺の背中に挑戦する。
子供か……別にどっちでもよかったんだが、生まれてくるなら女の方がいいかもな。
もう叶わないことだった。すでに諦めもしていた。考えるのがツラかった。海の底に大切な物を落として、届かないのに手を伸ばすような無力感。幸せを願うたびに感じていた。
なのに今は、まるで叶うように希望を持っている。取り戻せるような気がしちまう。
「――っ」
気づいたら、泡だらけの俺の背中は、ヒメの手で綺麗に流されていた。終わったのか。
「がれき――っ」
ヒメは首を傾げて、楽しそうに聞いてきた。
「そうだな。七十点ってとこだな」
俺が意地悪に笑ってやると、ヒメはブーって頬を膨らました。でもすぐに空気を抜くと、手をつかんで浴槽へと俺を引っぱった。
「んだな。温まるか」
ふたり並んでお湯につかる。ザバーってお湯が流れると、どことなく楽しい気分になる。まるで子供みたいに。
「がれき――っ」
ヒメはソコが定位置だと言いたげに、俺にもたれて話しかけた。
「勘弁してくれ。嫌な予感がすっから」
俺は困ったように眉にしわをよせて、表情を作ってみる。ヒメは笑顔になると、声に出して愛らしく笑った。
たまに、急に会話が成立しなくなるのは、わざとなんだろうか。
「まっ、俺には知る由もねぇか」
何となくヒメには敵わねぇ気がする。俺は無意識のうちに、頭を撫でていた。
ヒメがきょとんと目を点にすると、すぐに笑って抱きついてくる。
そんなときだった。洗面所から声が聞こえてきたのは。
「あっ、ヒメの服。今入ってるみたい」
「どうしましょうかレッカ。偶然を装って入ってみます?」
「ヒメってばお風呂、ひとりで入っちゃうじゃない。どうせだからみんなでお風呂に入る楽しみを教えてあげなくちゃ」
「なら決定ですね。ヒメちゃんを驚かしちゃいましょう。これをきっかけに、打ち解けられるといいですね」
洗面所から離れた場所にいるはずなんだが、レッカとキレイの声が聞こえてきた。会話の内容からして、すっげぇまずい気がする。
顔を流れる汗は、熱いからって理由じゃないな。
「なぁヒメ。俺の服って、そんなに見えにくいところにあったか?」
声がひきつっていた。ヒメは笑顔のまま、きょとんと首を傾げた。
そして、運命の扉が開かれちまった……。
俺は疲れ切った身体を、ベッドに沈めた。パンイチで横たわる。
「ひでぇ目に合った。いや、自業自得なのか?」
ひとり部屋の中、ボソリと呟いた。
もぉ、何が起こったか思い出すのも億劫だ。寝ちまおう。
明日のことなんて、知らねぇ……。