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レッカの空回り

 あたいにとって、孤児院船ナナシは実家ね。

 ママから聞いた話だと、あたいが生まれた船はナナシじゃないみたい。

 なんでも大破した船を探索していたら、一歳ぐらいのあたいを発見したって。

 でも一歳のときの記憶なんて全然もってないし、なんの意味もない。ナナシこそがあたいの生活そのものだから。

 ナナシのみんなは、ホントにいい人たちばかりだった。漁の方法を優しく教えてくれたお兄さん。料理のことを教えてくれたお姉さん。いつも楽しく遊んでくれた船長のおじいさん。だけど……ママを残して、みんなどこかに行ってしまった。

 死んだなんて認めない。きっとまたいつか、生きてこのナナシに流れ着いてくれるはず。

 そう思って待っている間に、次々と新しい住人が流れ着いてきた。

 みんながみんな、何かを抱えているみたいね。いろいろと思うところもあるけど、一緒に暮らすようになったんだから仲よくしないと。

 ちなみに『レッカ』の名前は、赤いイメージからママがつけてくれた。

 毎日が忙しいけれど、みんなで精いっぱい生きてやるんだから。


 ニワトリの鳴き声が耳に響く。うるさい。まぶた越しの太陽も赤くて眩しい。あたいはまどろみながら、かけ布団を引き上げてベッドの中に潜り込んだ。ぐぅ……。

 いくらか二度寝の心地よさを堪能したあたいは、ようやく半身を起した。

 んーって左右に両手を思いっきり伸ばしてから、左側にある窓から外を眺める。澄み渡る青空に、やわらかく輝く朝日と白い雲がふわりと浮かんでいる。海はゆらゆらと光を照り返してキラキラ輝いている。

「今日も穏やかでいい天気じゃない」

 天気がいいと、気合が自然と湧いてくる。

 視線を右の方に移すと、壁際に使い古されたテーブルがあって、隣にはタンスが立っている。さらに奥には開きっぱなしのドアね。いいかげんカギをつけようって話が出ている。ちなみにベッドは窓際の奥にある。

 基本的に個人部屋の調度類は、どの部屋も同じように配置されている。

 違いがあるとすれば壁に飾っている、大きな貝殻ぐらいね。なんとなくさびしいから飾りつけている。

「さてと、そろそろ着替えなくちゃ」

 ベッドからタンスの前に移動してパジャマを脱ぐ。スパッツを穿いて胸にさらしをガッチガチに巻きつける。豊満な胸を隠しているんだって、みんなに思わせるために。

 なんったってさらしは、胸をつぶすアイテムだからね。

 わざわざ絶壁にさらしを巻いているだなんて、夢にも思わせない。何よ、文句ある?

 ちょっと話が()れた。

 上から赤いカーディガンを羽織って、緑のプリーツスカートを履いたら着替えは終了。

 鏡を見ながら髪をツインテールにまとめる。黄色いリボンを手に取ると、漁に出たっきりで帰ってこなかったお兄さんを思い出してしまう。

 このリボン。あたいがナナシにきてから、十年の記念にお兄さんからプレゼントしてもらったものなのよね……。

「って、なに朝からへこんじゃってるんだろ。ご飯でも食べて気分転換しよ」

 顔を両手でペチペチと叩く。ちょっと強くやりすぎて頬がヒリヒリするけど、気つけにはちょうどいい。

「朝ごはんなんだろ? 楽しみだな」

 両手にお皿を持って、料理を運んでいるママを想像する。

 うん。ママも働いているんだから、あたいもボヤボヤしていられない。

 気合を充分にいれて、部屋を出た。

 

 甲板に出ると、ポカポカとする日差しの暖かさを肌に感じる。見上げると、帆の張っていないマストが目に入った。

 ナナシは特にどこかに向かっているわけじゃないから、滅多(めった)には帆を張らない。漁に出るときもそう。船が動いていると危ないじゃない。

 空を眺めていると、雲がゆっくりと風に流れていく。

 朝食を食べたあたいは、漁に出るために甲板に上がってきた。ゲンキも同じように道具を準備している。

 いつもはゲンキと一緒に海へ飛び込んでいる。だけど今日は、船の左右に別れてひとりで漁をする。一緒だともめちゃうから、ソロで行動してみたらってママに言われた。

 きっと効率もよくなって、せいせいするんだと思うけど……不機嫌になっちゃうのはどうして?

 上着とスカートを脱いで身軽になったし、物置に寄って(もり)とか縄といった道具も準備してきた。

「今日も漁日和ね。天気がいい日に獲れるだけ獲っておかなくちゃ」

 天候が荒れている日には出たくないもの。ついでに意地もある。ひとりでだって魚を獲れるんだから。

 左右の船べりを眺める。左舷(さげん)には半裸のゲンキがいた。腰あたりからさらしを巻いて、上から濃いベージュのカーゴパンツを穿いている。

 ゲンキはそっちね。ならあたいは右舷……。

 場所を決めて右舷を見ると、ガレキとヒメが並んで座っていた。

 ガレキは黒髪のドレッドヘアーをしている。今日は『社畜』と書かれたダボい服をだらしなく着ていた。

 ガレキは昔、あたいが漁に出たときに、溺れているところを拾って保護した。つまりあたいが救った命ね。正直、まじめに働いてほしい。

 ヒメは金のロングヘアーで、肩にヒラヒラがついた薄桃色でチェック柄のドレスを着ている。船の上って潮風とかで汚いはずなんだけど、気にしてないのかしら? ゲンキやガレキならともかく、ヒメは見た目がお姫様だからどうも気になるのよね。

 ヒメは小舟に乗ってひとりでナナシまで辿り着いた。食料も尽きていて、ずいぶん衰弱していた。でもすぐにガレキに懐いて元気になった。どこがいいんだか?

 ふたりは見た感じ、ただボーっと空を眺めているだけみたい。

「ガレキ、あんた何してんの?」

 銛も突き刺せないような小魚を見るように、ガレキを見下ろしてやった。背もあたいより大きいんだけど、立つ気はないみたい。船べりにもたれたまま、やる気のなさそうなブドウ色の目が見上げている。

「あー、特に何も。しいて言うなら日向ぼっこか」

「日向ぼっこって、ちょっとは……っ」

 朝っぱらからのダラけている宣言に、怒りが噴火する。

 するといきなり突風が吹いた。暴れる髪や服をうっとおしく思いながら、あたいは腰に力を入れてやりすごす。ガレキとヒメの服や髪もなびいた。

「もぉ、いきなり吹くなんてビックリするじゃないの。まぁ天気に文句を言っても仕方ないけど。ともかく、ガレキもちょっとは働きなさいよね!」

 ガレキは突風が吹いたときから、微動だにしていない。

「――っ」

 代わりにヒメがビクリと震えてガレキに寄りそった。金色の長い髪がふわりとたなびいて、青く澄んだ瞳を潤ませて怯える。

 でも気のせいじゃなければ、ガレキを庇っているようにも見える。そうなるとあたい、睨まれている?

「だりぃ。そんな気分じゃねぇ」

 ガレキがヒメの頭を撫でながら、低いトーンで言った。

 ヒメは安心したのか表情を綻ばせて、ゴロゴロと顔をガレキの胸にこすりつける。小動物を連想させる動きね。

「ヒメもなんでそこまでガレキがいいのかしらね」

 あたいは仲睦(むつ)まじい姿に、ちょっとモヤっとしながら呟いた。

「――?」

 ヒメは名前に反応してか、少しだけ顔を見上げてきょとんとした。けどすぐにガレキに視線を戻したわ。

「しらねーよ」

 あたいは諦めるようにため息を吐くと、道具を床に置いた。海に入るために、準備運動をして身体を伸ばす。些細だけどとても大事なこと。

 あたいは気になって左舷の方を見る。縄を身体に結びつけたゲンキは、海へと勢いよく飛び込んでいった。ザパーンと軽快な音がここまで響いてくる。行動が早すぎる。たぶん今回も準備運動をしていない。

「まったくゲンキってば、また!」

 こめかみがピクピクしているのがわかる。戻ってきたら説教してやるんだから。

「別にいいじゃねーか。レッカは固く考えすぎてんぞ」

 人の気も知らずにガレキが無責任なことを言う。

「冗談じゃない。海を甘く見ないでよ。ちょっとしたことが命に係わるんだから」

 両手を腰に、屈んで顔を思いっきり近づけた。至近距離でガレキを睨みんでやる。

「別いいじゃねーか。人間、死ぬときはあっさり死ぬんだから……よ」

 身も(ふた)もないような言いように、あたいは怒鳴りかけた。けど話しながら目を逸らすガレキを、不意に壊れ物のように感じてしまう。怒りはため息に変わった。

「――!」

 ついでにヒメには、キって擬音がつきそうなほど睨み返された。

「あーあ。ヒメにはすっかり嫌われちゃった」

 自分の性格がキツいことぐらいわかっているから、嫌われても仕方がない。わかってはいるんだけど、ちょっとツラい。

 あたいは身体を起こして、伸びをしながら気持ちを切り替えた。

そろそろ雑談はおしまい。

 両手で自分の頬を引っ叩く。気合を充分に入れたところで、縄の(はじ)を身体にきつく結びつけた。反対側を船に結びつければ命綱の準備は完了。

「って、あれ」

 縄を結ぼうとしたとき、あたいは船べりが(もろ)くなっていることに気がついた。コンコンと軽く叩いてみる。

「ここらへん腐ってるじゃない。後でママに報告しなくっちゃ」

 脆くなっている部分一帯を避けて、あたいは縄を括りつけた。銛を手に、船べりの上に立つ。海面を見下ろして深呼吸。

 よし、今日もたくさん獲るんだから。

 意気込んだあたいは、トンって飛んで頭から海へとダイブする。落下中に、お腹のふわっとする感覚。ザパンと海面を突き破って入水すると、少しの間あぶくの白い世界に包まれる。それを抜けると、母なる海の世界が視界いっぱいに広がっていた。

 透き通る海の青はいつみても目を奪われる。空間をいっぱいに使って優雅に泳ぐ魚たち。静寂な世界にゆらりとあたいは浮かぶ。後方には木で組まれたナナシの船底がある。

 ナナシ。毎日ありがとう。あたいは今日もたくさん働くからね。

 微笑みを向けてから、魚を標的にして泳ぎだした。


 太陽が真上から照りつける中、あたいはナナシの甲板で四つん這いになって俯いていた。髪からポタポタと垂れる滴が、落ち込んだ心に染み込んでいるみたい。

 隣にはママが立っている。

「うそでしょ……午前いっぱい漁に出たのに、一匹しか獲れないなんて」

 かなりショックだ。昔はひとりでたくさん獲れていたのに。魚を見つけたとき、ついゲンキが先行するのを想像してしまった。ひとりだって気づいたときにはチャンスを逃しているし、ホント調子が狂う。

「なんとなく、こうなるとは思ってたけど……ここまで結果が明らかになるとは思わなかったわ」

 見上げると、ママは困ったように眉をひそめていた。右手を頬に当てて苦笑している。

 茶色くて長い髪は、三つ編みにして腰までおろしている。目は黒豆のようにツヤやかな輝きを秘めている。

「ママ、ごめんなさい。あたい、もっとやれると思ってたのに……」

 不甲斐なくて悔しくて、また俯いた。理不尽な熱に引っぱられると、そのまま泣いちゃいそうでイヤだ。

「ママ、ゲンキさんも上がってきましたよ」

「よぉレッカ。そっちはどうだった?」

 キレイとゲンキがペタペタと足音を立てて近づいてきた。このままじゃいけない。

 あたいは必死に目をつむって悔しさを抑え込む。ゲンキやキレイの前では泣けないもの。

 キレイは健気で気弱な感じね。あたいにとって妹みたいなもの。だから弱いところを見せたくない。

 ゲンキは世話の焼ける悪ガキ。年は同じぐらいで何かと気にかかるのよね。コイツにだけは絶対に弱気を見せられない。

 あたいは気持ちをむりやり抑え込むと、立ち上がってゲンキを睨んだ。いけない、感情を込めると泣きそうになる。余計なことは考えないようにしないと。

「ダメ。今日はちょっと不調ね。そっちは?」

 ゲンキは全身びしょ濡れで、白い髪が垂れ下がっている。ポタポタと甲板にしずくが垂れる。

「オレも全然だった。さっきまで潜ってて、たったの二匹だぜ」

 ピーマンのようにツヤのある瞳が、ため息色に染まった。

「漁ってときの運ですからね。仕方がありませんよ」

 キレイがゲンキの肩に手を添えて、上目づかいで励ました。海のように青い瞳が気遣わしげに揺れる。

「もぉ。のんきに構えていい問題じゃないんだからね!」

「落ちつけよレッカ。いつもより荒れてるぜ」

「余計なお世話よ」

 なんか知らないけど、ちょっとムカッとした。

 ふと振り向くと、後ろではママが手をワキワキさせて悶えていた。また抱きしめたい病が発症しているのね。仕方ないんだから。

「ママも、もうちょっと危機感持ってよね。このまま魚が獲れなかったら、ナナシのみんなが()え死んじゃうんだから」

「大丈夫よ。明日からはまた、ふたり一緒に漁に出てもらうから」

 ママが胸を反らしながらバッチリよと言った。やんなるくらい揺れている。

「そうですね。ふたりで協力すれば大量間違いなしですよ」

 キレイが両手を合わせて微笑んだ。

「ちょっと、ママ。キレイも。あたいひとりじゃ漁もまともにできないって言いたいわけ? ゲンキなんかいなくたってちゃんとやって見せるんだから!」

 あたいは大股を開いて叫んでやる。

「くだんねぇ意地を張んなよなレッカ。まっ、オレはどっちでもいいけど」

 ゲンキがどうでもいいって感じに、銛に腕を絡めていた。

「ゲンキ。あんた、あたいの腕が信じられないって言いたいわけ」

「別にそんなんじゃねーけど。でもまぁ、トロいのは確かか」

 あたいのこめかみがピクピクと反応する。

「あんたが慌ただしいだけでしょ。もっと落ち着いて漁を……」

 ガンガンに文句をぶつけようと思ったんだけど、後ろから両肩をつかまれて遮られた。

「ほらほら、ケンカしないの。そろそろシャワー浴びてきなさい」

「ママ。今それどころじゃ」

「早くしないとカピカピになっちゃうわよ」

 ママが笑顔で茶化した。

 確かにこのままでいると肌に悪いけど、何かしゃくぜんとしない。

「うぅ……ゲンキ、後で顔出しなさいよ。まだ話は終わってないんだからね」

 あたいは言い捨てると、ドタドタと大股で浴室に向かった。

「あっ、着替えはわたしが用意しますね」

 後からテトテトとキレイが追いかけてきた。

「ほっといて!」

 足音が止まった。ひとりになりたかったから、つい怒鳴っちゃったじゃない。


 浴室で浴びるシャワーから、もくもくと湯気が立ちのぼる。

 タイル張りの床にお湯が流れていく。

 気温が温かいから冷水で流したい。でも肌に悪いみたいだから我慢ね。

「情けないし、みっともないじゃない」

 そうよ。たまたま漁がうまくいかなかっただけじゃない。ゲンキが一緒でもきっと同じだったはず。

「あたいも一回の失敗でなにへこんでんだか」

 ノズルをキュっと閉めて振り返る。シャワーを浴びるだけだから、浴槽はからっぽ。窓は一面ガラス張りになっているから、よく外が見える。透き通るほどの快晴、沈んだ気分が照らされるみたいね。

「それにしてもナナシって、開放的なお風呂よね」

 外から丸見えだもの。いったい誰のセンスでこうなったんだか。覗こうと思えば覗きたい放題だし。

 あたいは窓際まで寄って、風呂場の構造に疑問を感じた。

 そういえば、お兄さんも夜、命がけで覗きをしていたっけ。あたいはまだ幼かったから見つけて喜んでいたけど、ママやお姉さんたちはキャーキャー悲鳴を上げていた。

「子供だったからわからなかったけど、お兄さんもよくやってたな。今更だけれども。まっ、今となってはいい思い出ね」

 ガレキに覗く気力なんてないだろうし、ゲンキに(いた)っては問題外。

「レッカ。着替え置いておきますね」

 洗面所からキレイの透き通る声が響いた。女の子らしいかわいい声が、あたいにはちょっと羨ましい。

「ありがとキレイ。それと、さっきはごめん」

 つい八つ当たりをしちゃったから。キレイは何も悪くないのに。

「気にしていませんよ。誰だってムシャクシャするときはしますから」

 変化のない声色を聞いて、本心なんだなってホっとする。

「ところで、今日の海はどんな色でしたか」

 不意に聞かれたあたいは、景色を眺めた。

「んー、青空を薄くして輝いてる感じね。光が海面から差し込んでいて鮮やかだったな。魚も優雅でキラキラしてたっけ」

 今日のは、やたらとすばしっこかったわよ。

 あたいは心の中でつけたした。

「そうですか。羨ましいです。レッカとゲンキはいつも海を直接みられるんですから」

 キレイは昔、漁の途中で住んでいた船と(はぐ)れちゃったのよね。途方もなく海をさまよって、溺れかけているところでナナシが横ぎった。

「やっぱり、キレイはまだ海が怖い?」

「眺めるだけなら問題ないですが、飛び込もうとすると、どうしても……」

 声のトーンが少し下がった。まだ引きずっているみたい。

「こういうのって、ゆっくり克服すればいいんじゃない。キレイはナナシのお掃除とか、お洗濯とかいろいろやってくれてるんだから。漁のことならあたいに任せなさい」

「ふふっ。レッカは頼もしいですね」

「まぁね。男どものケツを引っ叩いてやらなきゃいけないから」

「あらら、ゲンキさんとガレキさんの立つ()がありませんね」

 壁越しに笑い合った。気を張っていたのかな、今のでずいぶんほぐれた気がした。

 これからお昼ご飯を作って、洗濯物を取り込んで、時間があったらドアにカギをつけるんだから。さあ、忙しくなるぞ。

 

 シャワーを浴び終えたあたいは、着替えてエプロンをつけた。これからママとふたりで昼食づくり。

「ママ、お昼は何を作るの?」

「昨日ガレキが釣ってくれたタイがあるから、魚の煮付けにしようと思うわ」

 ママはタッパーから、切り身にして味を落ち着かせてあるタイを取りだした。

「それから卵とワカメのスープね。私はスープを作るからレッカは煮付けをお願いね」

 ママはお茶目にウインクをした。ホント動作が若い。

「わかった。珍しくガレキが釣ったんだから、無駄にはできないね」

「そうそう。レッカの愛情をたっぷり入れてあげてね」

 ママがニコリと微笑んだ。愛情って……。

「もぉ、レッカったら。顔をしかめちゃダメよ」

 微妙だって思ったのが、顔に出ちゃっていたみたい。気づかなかった。

「何に向けて愛情を込めればいいか、わかんない」

 愛情については子供の頃から、ママが口癖みたいに毎日教えてくれた。これでも幼いころは、素直に愛情を込めていたっけ。でも今になって聞くと、なーんかむずかゆくなっちゃうのよね。

 ちょっと照れくさくなっていると、いつの間にかママは手をワキワキさせていた。これもママの愛情なのかしら?

「大丈夫よ。みんなのことを思ってお料理すれば、自然とたっぷりの愛情が込もるわ」

 表面は必死に取り(つくろ)っているけど、手が欲望に忠実すぎ。これは後で好きにさせてあげなきゃいけない。まあ、ママに抱きしめられるのは好きだからいいけど。気持ちがホワっとするのよね。

「はいはい。メニューも決まってるんだし、ちゃちゃっと作っちゃお」

 あたいは強引に切り上げると、材料を揃えた。醤油にみりん、お酒にしょうがとお水。そしてタイ。

 まずはフライパンに調味料を入れて混ぜる。大体同じ量を入れるんだけど、砂糖は少なめね。スプーンできちんと量らないとね。

「あっ、それとゲンキはちょっとぐらいの失敗なんて気にしないと思うわよ」

 一瞬、身体がビクりと反応した。ママはダシ用の鍋を火にかけながら、ワカメを水洗いしている。

「何でいきなりゲンキがでてくるのよ。それに漁のことなんて、もう気にしてないし」

 ていうかあいつも二匹しか獲れなかったんだっけ。悔しくないのかしら。

 あたいは無意識に手を動かし続ける。

「それならいいけど、無理はしちゃだめよ。ナナシには頼れる家族がたくさんいるんだからね」

「わかってる。むしろ普段はママやキレイに頼りっぱなしだもの」

「そうそう。その調子で男たちのことも頼っちゃいなさい」

 もくもくと鍋から湯気が出てきた。

「何でゲンキなんか頼んなきゃいけないのよ。逆に仕事が増えるじゃない」

「あら。私はゲンキを指名したつもりはないわよ。ガレキのことを忘れないであげて」

 カァっと顔が熱くなってきた。何でゲンキだけを想像しちゃったんだろ……。

「だって、ガレキって働いてる気がしないんだもん。そうよ。消去法よ、消去法!」

「あらあら。って、レッカ?」

 ママがドポドポとアラを入れた。きっとダシ汁ね。

「どうしたの?」

「何杯お醤油を入れるつもりなのかなぁ……って」

「え? ちょっ、やだ!」

 気がついたら、フライパンの底に醤油の海ができあがっていた。あたいは何杯入れちゃったの?

「レッカにしては、ずいぶんなチャレンジ料理を作るわね」

「チャレンジするつもりなんてなかったのに……」

 全身がサーっと冷えた。まるで頭から冷たいシャワーを浴びて、身体の中まで流れ込んだ感じ。

「えっと、これに今から私の愛情入れればおいしくなるかな」

「無理だと思う。でも調味料もったいない。ねぇママ、どうしよう」

 頭の中がこんがらがってきた。もうどうしていいかわからないよ。

「そうね、このままレッカのさじ加減で作っちゃお。案外リカバリー効くかもしれないわ」

「えっ、でも」

 調理台の上にある調味料をウロウロと見る。

「ダメだよ。何をどう入れればおいしくなるかなんて、ちっともわかんない」

 鍋からはもくもくと磯の香りがしてきた。

「私はスープを作らなきゃだから。大丈夫。愛さえあればなんとかなるわ」

「あっ、ママ」

 ママは背を向けると、スープにつきっきりになっちゃった。

 愛情って何。ホントにどうにかなるの?

 頭の中がまっしろな状態で、あたいは料理を続行した。


「で、この黒い煮付けはうまいのか?」

 みんなが顔を引きつらせて座っているなか、ゲンキがストレートに聞いてきた。

 食堂のテーブルには、やたら香ばしい臭いを放つ黒い物体があった。ワカメスープがなかったら、目も当てられない。

「ごめんなさい」

 床を見つめることしかできない。どうしてお醤油を入れ続けちゃったんだろ。漁でも全然収穫がなかった。あたいってナナシのお荷物じゃない。ゲンキやガレキのことなんて偉そうに言えないよ。

 何だか視界が薄暗くなってきた。海に沈んでいくみたい。

「あの、レッカ。もしかしたら、おいしいかもしれないですよ。とりあえず食べてみましょうよ」

 キレイがフォローしてくれる。けど、この料理がおいしいだなんて、とても思えない。

「失敗するときはすんだし、いちいち気にしてたら息が詰まっぞ」

「でもこのタイ、ガレキが釣ってくれたものなんだよ。なのにあたいってばそれを無駄にしちゃって……」

 ホントに珍しくガレキが魚を獲ったっていうのに。ママだっておいしく料理して自信を持たせようって言っていたのに。

 必死に歯を食いしばって、こぶしを握り締める。

「――っ」

 ヒメの声に顔を上げると、眉間にシワを寄せて黒い煮付けを眺めている。一言で例えるならガッカリ、ね。

 ちょ……そんな顔しないでよ。確かにこんな料理じゃあーんもさせられないけど。何だかみんなの視線が痛い。空気に押しつぶされちゃうかも。

「まぁいいや。オレはもう食うからな」

「えっ」

 ゲンキの方を向くと、煮付けに箸を伸ばしていた。身を(ほぐ)してパクリと一口。

()っら! 煮付けってここまで辛くできるんだな。はーっ、辛っ」

 水をグイグイと飲みながら、これでもかってほど息を切らした。

 その黒い煮付けがおいしくないことは想像ついていたけど、ゲンキに言われるとだんだん腹が立ってきた。

「ちょっと、文句があるなら食べなきゃいいじゃない。別にこっちだって無理に食べてもらおうだなんて思ってないんだからね」

 床をダンって踏みつけて言ってやった。

「いや、食うもんがこれしかなかったし」

「なにゲンキ。あんたご飯がなかったら毒だろうが食べるわけ? 品性がおかしいんじゃないの?」

 思いっきり怒鳴るんだけど、だんだんとむなしくなってきた。何が悲しくて、自分の料理は毒と同じぐらいだって言わなきゃいけないのよ。

「別にオレ、食えないほどまずいだなんて言ってねぇぞ」

 呆れたような半眼。まるであたいの料理がうまかろうがまずかろうが、どうでもいいとでも言いたそうだ。

「あーもぉいい! 不機嫌よ。あたいは部屋に戻るから」

 両手をテーブルにつけて、勢いよく立ち上がる。ゲンキはポケっとしていたし、ママは苦笑いをしている。キレイは心配そうに眉をひそめていたし、ガレキはいつも通りだった。ヒメに至ってはため息をつく始末。

 みんなの視線があたいを余計にムシャクシャとさせる。いてもたってもいられなくなり、逃げるように廊下へ向かう。怒りを床にぶつけるようにして歩くことで、どうにか自分を保った。

「次は……次こそは失敗しないんだから」

 みんなに聞こえないように、ボソリと決意した。


 さんさんと照りつける太陽は洗濯物をよく乾かしてくれる。

 水平線を眺めると、青い空と波間にキラめく海が見えた。甲板の先頭の方には服やズボン、下着やベッドのシーツといった洗濯物が干されている。

 ママとキレイの三人で取り込むところだ。

「レッカ。何だか張り切ってますね」

「あたりまえよ。今日のあたい、役立たずすぎるもの。ちょっとでも汚名を返上しないと自分を許せないじゃない」

 駆け回って次々に手をつけるあたいに対して、キレイはひとつひとつ丁寧に取り込んでいく。

「張り切るのはいいけど、転んで汚したりしないでね」

「大丈夫よママ。いくらあたいでもそんなヘマはしないって」

 いくらママでも心配しすぎよ。甲板を掃除しているとはいえ外だものね。せっかく綺麗に洗ったんだもの、絶対に落としたりしない。

 使命感に燃えていた。走りつつも足元には注意する。大丈夫。足元に不安定なんて全然感じない。

「ママ。レッカが落ち込んでなくてホっとしました」

「そうね。本格的に落ち込む前に立ち直ってくれてよかったわ」

 ふーんだ。心配されるほど落ちぶれちゃいませんよ。そうよ、これが本来のあたい……。

 ベッドのシーツに手をかけたときだった。いきなり強風が吹いてきた。握りが緩かったからシーツはあたいの手から離れていった。

 舞い上がるシーツは生き物のように青空を泳ぐ。そして風がやむと、力尽きたように海へと落ちた。

「……うそ」

 海に浮かぶシーツ。じっくりとこれでもかって眺めてから、ポツリと口から出た。

「あっ、あの……レッカ?」

 キレイが遠慮がちに話しかけてくる。だけど言葉はただの音として、あたいの耳を通りすぎていった。

「見事に舞ったわね。どうする、ゲンキに取りにいかせる?」

「……うん」

 ママはゲンキがどうのとか言った気がするけど、意味を理解できなかった。

 あたいはまさに、目の前で沈んでいるシーツな気分だもの。これからどこまで沈んでいくんだろ。

「ママ。今日のシーツはどうしましょうか」

「とりあえずシーツ自体はたくさんあるけど、久しぶりに出すからちょっと湿っぽいかも。誰にハズレを引かせようかしら」

「あっ、だったらわたしでいいですよ」

 二人の会話を聞き流しながら、あたいは膝からストンと座り込んだ。


 結局あれからシーツはゲンキに回収してもらった。我に返って自分で取りにいくって言ったんだけど、今日のあたいは危ないからってママに止められちゃった。

 そんなに……頼りないかしら。

 今夜のベッドだって、あたいがろくに洗濯されていないシーツを使うべきなのにキレイは(ゆず)ってくれない。何でキレイにとばっちりがいかなきゃいけないのよ。

 とにかく何か、ひとつでも役に立たなきゃ。でもみんなあたいに仕事を回してくれないし、こうなったら自分でできることを探さなきゃ。

 あたいは思い出した。ナナシの個人部屋は全部ドアがイカれていることを。

「カギをつけなきゃいけない。金具は倉庫にあったかしら」

 倉庫の扉を開いて電気をつける。船首を内側から見た形をしている。縦に二列の棚があって、床と天井に打ちつけてある。揺れで倒れないようにするための配慮だ。

 手前の壁はロッカーみたいな仕切りがいくつもある。漁や釣り道具、掃除道具といった日常的に使う物が整理されている。大きい物もこっちにある。

「さてと、お目当ての物があればいいけど」

 あたいは棚の方へと向かった。棚は電子レンジみたいな、扉つきの収納スペースがたくさん並んでいる。

 ママは学校にある下駄箱の構造って言っていた。学校が何なのかわかんないし、ママも詳しく知らないみたい。

 とにかく片っ端から中身を確認することにした。ネジとかドライバーといった普段は使わないけど必要な道具もあれば、色あせた髪飾りとかもしまってあった。いつの、誰の物なんだか。

「必要ない物も入ってるのね。海に捨てるわけにもいかないし」

 次々に開いていく。必要な道具、過去の思い出、よくわからない何かといった、たくさんの物が入っている。

「っていうか何よこれ。いまいち、よくわからないんだけど」

 『王将』(こんなもよう)が描かれた、木の板を見つけて呆れた。ちょっと角ばっていて、大きさは人の顔より大きいぐらい。

「……(かた)そうだし、武器か何かかしら?」

 木の板を手の甲で叩くと、コンコンと詰まった音が響いた。

 って、こんなことしている場合じゃない。さっさと見つけないと。

 木の板を投げ捨てて道具探しを再開する。

「あっ、これ……」

 しゃがんで下のドアを開くと、ボロボロで黄ばんだスニーカーを発見した。見覚えがあって、とても懐かしい靴。

「お兄さんの靴」

 漁に出てから戻ってこなかったお兄さん。残った物はあたいがもらった黄色いリボンだけだって思っていた。けど、こんなところにも残っていたなんて。

「あれ? もしかして」

 物置に入っていた不必要な道具。ひょっとしたら全部、誰かがナナシに残していった物なんじゃって思った。

「そっか。ここにはナナシの思い出がたくさん詰まってるのね」

 急に空気がしんとした気がする。海の中で、命のやり取りをしているような静かさだ。うまくは言えないんだけど、大切な場所なんだって思う。

「まだまだ先だと思うけど、いつかはあたいも何かを残すのかしら」

 そのときはおばあちゃんになっていたい。最後まで人生を終わらせていたい。だって、次の世代に包まれながら、温かな最後を迎えたいじゃない。

 ナナシの未来を考えながら、倉庫の中をただ静かに眺める。

「っと、いけない。ドアにカギをつけにきたんだった」

 あたいは目的を思い出すと、急いで道具を探し当てた。準備はバッチリ。ホントは全部の部屋につけたいんだけど、個人部屋だけ直せば充分よね。

「よーし、やるぞー」

 トンカチ片手に気合を入れて、倉庫からでていった。


「レッカもわざわざ、ご苦労なもんだなぁ」

「――っ」

「当然でしょ。それに、ドアが開きっぱなしって何かと困るじゃない」

 まず手始めに、ガレキの部屋を手がけることにした。今日はタイもダメにしちゃったから、早く名誉(めいよ)挽回(ばんかい)したいもの。

 ガレキはベッドの上で寝そべって、あたいを見ている。奥にはヒメが同じベッドに座っていた……どこまで進んでいるのかしら?

「別にそんなに困んねぇと思うけどな。泥棒や強盗が入ってくるわけじゃねぇし、パンツとかの洗いもんは任せっぱだかんな。別に今更、見られて困るもんはねぇな」

 スライド式のカギをドアに取りつける作業を開始する。用意するものはスライド式のカギに、プラスドライバー。あとドアに穴をあけてネジを入れやすくする、アイスピックのように鋭い工具、(きり)ね。

高さ調整のために膝立ちになってガレキに背を向ける。気になるからたまにガレキの方を見る。

 ヒメはガレキの腕を詳しく確認するように触っていた。両手で包んでみたり、筋のデコボコを擦ったりと、とにかくベタベタと。

 当のガレキはされるがままに喋っていた。少しはヒメのことを気にした方がいい気がする。良くも悪くも。

「何言ってるのよ。困るに決まってんじゃない。第一、着替えとかはどうするのよ。あたいでも神経使ってんだからね」

 説得していてアレだけど、あたいはそんなに気にしてない。着替える時間は誰とも(はち)合わないから、油断しきっちゃっているのよね。

「まっ、女は大変だな。けど俺は気にしねぇからいいんだけどな。先に他ん部屋(とこ)やったほうがいいんじゃねぇか」

 ドアのカギをつけ終わり、今度はドア枠に……カギのメスの方? まぁいいや。とにかく支える部分を取りつける。ドアについているオスのカギをスライドさせて、メスのカギに噛み合わせることでロックできる仕組だ。

「こっちがガレキの着替えを見たくないのよ。たまたま歩いてたら見えちゃったなんて事故は防がなきゃ」

「そいつは余計な気づかいさせちまったな」

 もちろん建前よ。ホントのことは情けないから言えない。

「よし、取りつけ完了。あたいってば完璧じゃない」

 ドライバーを握った腕でおでこを擦った。別に汗はかいてないけど、やりたい気分だったのよ。

「おー、お疲れ」

 ガレキが気持ちのこもってない声で、とりあえずといった風に(ねぎら)ってくれた。ちょっと気に食わないけど、これで名誉挽回できたと思うからよしとする。

「さてと、さっそくカギをかけて……あれ?」

 ちょっと、カギをスライドさせるんだけど、ガチガチ音が鳴るだけでうまく入らないじゃない。何でよ。見た感じ、高さは合っているのに。

 アイエェェ! カギ? カギナンデ?

「おーいレッカ。どうした?」

「何でもないわよ!」

 今集中しているんだから話しかけないでよ。っていうかガレキの声、何だか不安げに聞こえたけど気のせいよね?

 あー、もう。いきなり汗が出てきて気持ち悪い。何であたいは、いつのまにか歯を食いしばっているのよ!

「さっきからずっとガチガチいってんだが、しくじったか?」

「――?」

「そんなわけないじゃない。ヒメも何言ってるかわかんないけど、心配なんて何ひとつない。ちょっとカギがかかりにくいけど、どうにか……っ! よし、入った」

 カギをかけるのにちょっと時間がかかったけど、どうにか機能しているじゃない。

「さっすがあたいね。ちょっとカギが固いけど、ちゃんとしてるじゃないの」

 ため息を大きくついてから落ち着く。やりきった。変に焦って損したじゃない。あたいはちゃんと、やりきれるんだから。

 自然と笑みがこぼれる。握る手にも力が入った。

「かなり固そうだなレッカ。そのドアって、ちゃんと開けれるのか?」

 失礼ね。閉めることができたんだから、開けられるに決まっているじゃない。

「当然でしょ。ちゃんと開けっ……開けれ……」

 何これ? すごく固いんだけど。あれ、接着剤でもつけたっけ?

 さっき収まったはずの汗がまた出てきたんだけど。ちょっと開きなさいよ。なんでビクともしないのよ!

「――っ」

「ヒメ! ため息とバカにする声が聞こえたんだけどどういうこと」

 もちろんヒメの言葉の意味なんてわかんない。でもニュアンスでそう聞こえちゃったのよ。あーもぉ、全然開かないぃ。

「はぁ」

「ガレキもため息つかないでよね。こんなの、ちょっとコツさえつかめば……すぐに……」

 カギだけいじっていてもラチがあかない。ドアにも一緒に力を入れればどうにかな……違う。絶対にどうにかするのよ!

 あたいは左手でドアノブを持ってガシガシやりながら、右手でカギを動かそうとした。でもやっぱり一筋縄じゃいかない。

 もっと、もっと力を入れれば何とか……。

「あっ……」

 ガシガシとドアを動かしていたら、バキって音を立ててドアが開いた。カギを取りつけた部分に、穴が開いちゃった……。

「……開いたな」

「――っ」

「そんな……何でよ……」

 プラプラと揺れるドアを見ながら、膝から崩れ落ちた。力の入れどころが分からなくなっちゃたみたい。

「なるほどな。まずは俺の部屋で実験してから、他の部屋のカギをつけるつもりだったってわけか」

 そんなわけないでしょ。すぐに振り向いて睨んでやろうと思った。けど、力がうまく入らなかった。船が方向転換するようにゆっくりとガレキを見上げる。あたいがどんな顔をしているのか、正直よくわかんない。

「冗談だ。そんな泣きそうな、情けない顔すんな。今日はもう、ゆっくり休め。部屋まで戻るのもめんどうならベッドぐらい貸すぞ。俺は、甲板に行ってくっから」

「――っ」

 ガレキが身体を起こすと、ヒメが背中から抱き着いた。だんだんスキンシップが激しくなっている気がするのは気のせい?

 ガレキは気にしてないのか、あたいを招くようにポンポンとベッドに叩いた。

「余計なお世話よ……でも、ドアはごめんなさい。これじゃ、前よりも不便よね」

 あたいは顔を合わせるのが怖くて、床に目線を落とした。きれいな木目をしている……あたいの部屋よりも綺麗じゃないかな。

「気にすんな。俺の部屋にドアなんて、あってもなくても一緒だ」

 ぶっきらぼうだけど優しい言葉。今は不意に泣いちゃいそうだから聞きたくない。責められていた方が、まだ気持ちをしっかり持てそうでありがたい。

「で……でも……」

 自分でもわかるくらい小さな声だった。何か言いたいのに、言葉が出てこない。何も言えずにいたら、ベッドのきしむ音が聞こえてきた。足音が近づいてきて、ヒメの小さな靴が視界に入った。

「……ヒメ?」

 見上げると、青く澄んだ瞳と目が合った。不機嫌そうな斜めの眉に、射抜くような鋭い視線をしている。

 口を閉じたままあたいの腕を取ると、立たせようとする。ヒメの力じゃ普通は無理なんだけど、凄みに気おされて立たされちゃった。

 肩を押して回れ右させると、そのまま背中を押されて部屋から追い出された。

 ドアがちゃんとしていたら、後ろからバタンって大きな音が聞こえていたんだと思う。

「……ヒメって、ガレキのことになるとアグレッシブね」

 落ち込んだ気持ちも吹き飛んじゃった。元気が出たかっていうと、そうじゃないんだけど。気持ちのぶつけどころを失ったあたいは、トボトボと自分の部屋に戻った。

 あっ……道具、ガレキの部屋に置いてきちゃった。ごめんねガレキ。


 目を覚ますと、部屋の中がオレンジ色に染まっていた。

 あれ、あたいって何していたんだっけ……そうだ、今日はたくさん失敗したんだ。やんなっちゃうなぁ。

 ベッドで横ばいになって、壁に飾ってある大きな貝殻を眺める。

 漁に出たのに魚は取れなかったし、お料理は失敗しちゃったし、洗濯物は海に飛ばしちゃうし、ガレキの部屋のドアを壊しちゃうし……もぉ最悪。

「そのうえ、ふて寝なんてしちゃうなんて。みんなには悪いことしちゃったなぁ……」

 もっと、ちゃんとできるはずだったのに。後悔が底のない海にたくさん浮かんでいて、浸かっている足を伝って心をジクジクと浸食しているみたい。このままだと溺れちゃいそうで怖い。

 寝転がって仰向けになる。天井がやけに遠く感じる。

「……何だろ。何か引っかかってる気がする」

 何かを忘れている気がするんだけど、考えると頭がボヤっとする。もぉ一度、寝ちゃおうかな……。

 なんて思っていたら、コンコンってノックが聞こえてきた。起き上がる気力がなかったから、ゴロンと横を向いてドアの方を見下ろすと、横向きに立ったキレイがいた。

「キレイ、どうしたの?」

「ご飯だけど、気分は大丈夫ですか?」

「ご飯。あっ、晩ご飯ね。わかった。今から食堂に……」

 さっき引っかかっていたものが、あたいの中で一本釣りされた。

「そうよ、晩ご飯! ママのお手伝いしなきゃ」

 力の入らなかった身体が、急にシャキっと目を覚ました。ガバって音が出るぐらい勢いよく起きあがって、急いでベッドから降りた。

「もうできてますよ」

 走って食堂に向かおうとしたんだけど、すれ違いざまのキレイの一言に振り向いた。

「え、できてるの?」

「はい。レッカは調子が悪そうだからって、ひとりで作っていましたよ」

 そんな、お手伝いまでサボっちゃうなんて。もうどん底。沈み切って海底まで辿り着いちゃった気分よ。

「たまにはレッカもゆっくりしていいと思います。何でしたら明日一日ぐらい休みにしてはどうでしょうか」

「そこまでサボれない!」

 頭ん中が真っ赤になって、つい声を上げちゃった。キレイは身体をすくませちゃった。心なしか、海みたいな青い瞳がウルウルと怯えているように見える。

 ホント、あたいってばダメね。キレイにあたってどうするつもり。

「……ごめん」

「大丈夫ですよ。さぁ、一緒に食べに行きましょう」

 あたいは申し訳なさから俯いて、何も言えずに首を縦に振った。

 食堂で食べた晩ご飯は、あたいが手伝っているときよりもおいしい気がした。

 手伝わない方が……いいのかな?


 湯船からはユラユラと湯気が上がっている。窓の外には星々が輝く夜空。あたいは浴槽を背に、口元までお湯に浸かりながら、ぼーっと見上げていた。

 一日、終わっちゃったな。何でこんなにうまくいかないんだろ。

「レッカ、そのまま沈んじゃダメですよ」

 顔を横に向けるとキレイがいる。生まれたままの姿でお風呂に浸かっている。透明感のあるツヤやかな白い肌は、壊れ物のように繊細。短い水色の髪が濡れて、肌に張りついているのが妙に色っぽい。眉を八の字にゆがませて苦笑いしている。

「沈まないって。そこまで危なげに見えるわけ」

 ケンカ腰に答えながら、視線を下へと落とした。丸っこくて小さな肩に、ほんのりと浮かび上がった鎖骨(さこつ)。そして控えめに膨らんだふたつの島。控えめだけど、しっかりと島ができあがっているじゃない。

 キレイの島を観察しながら、自分の胸を両手でつかんでみる。間違っても触っているんじゃなくて、つかんでいるの。このニュアンスの違いは重要よ。

「あの……レッカ。どうしたんですか?」

 乾いた声には、不信感が混ざっていた。まるでカレイがアナゴよりもお腹を膨らまかそうとしている、そんな無駄な努力を見ちゃったって感じね。

「……何でもない」

 視線を手元に逸らして、気にしてないように言おうとした。言葉にすると素っ気なくなっちゃったけども。

 ありえない。年下のキレイよりも、あたいの方が小さいだなんて……。

 どうひいき目に見ても、勝てる要素が見当たらなかった。

「えっと、きっとレッカもそのうち成長しますよ?」

「何でもない!」

 しっかりと気づいているじゃない。ほっといてほしい、ホント。いいよ。まだヒメには勝っているはずだもの……何だか、むなしくなってきた。

 あたいはうなだれるように湯船に顔をつける。

 今日一日は失敗だらけだった。明日も明後日もずっと、おんなじ調子で失敗し続けたら、きっと生きていけなくなる。あたいだけじゃない、ナナシのみんなが。

 とっても重要なことなのに、みんなあたいを許そうとする。生死に関わる問題なのに。みんな、生きることを軽くみているんじゃないの。

 悩みが怒りに変わってきたところで、苦しくなってきた。顔を上げて、プハって息を吸い込む。湯気のせいで空気が水っぽいから、咳き込みかけたけど。

「ねぇ、キレイ。あたいってお昼に、シーツを海に落としちゃったよね」

湯船から視線をキレイに向ける。心配そうに視線を落とした。

「気にしなくてもいいと思いますよ」

「別に落としちゃったことを言いたいわけじゃない。もちろん、気にしないわけにはいかないけど。それよりも、どうしてキレイがとばっちりを受けなきゃいけないの?」

 キレイはえっ? という感じに首を傾げた。

「シーツよ、シーツ。ダメにしちゃったのはあたいなんだから、あたいが悪いシーツを使うべきなのよ」

 キレイは軽く握った左手で、右の手のひらにポンっと落として納得した。

「ツラいときは分け合うべきだと思いますよ。全部レッカに責任を押しつけるのは、ちょっと違う気がしますし」

「甘いと思う。失敗した責任は、ちゃんと取らせなきゃ。かわいそうとかあわれだとかは、ためにならない。もっと、厳しくやらないと」

 気がつくと目に力が入っちゃっていた。もしかしたら睨んじゃっていたかも。

「そんなに気を張らなくてもいいと思いますよ。ときにはゆっくりと休むことや、優しさに安らぎを覚えることも大切だと思います」

「でもそういう積み重ねがダラけに繋がって、そのうち家族を滅ぼしちゃう。そう、みんな命の重さをわかってないのよ」

 力のこもった左手は握られていて、思いっきり振り下ろすと水しぶきがザパンと上がった。鼻息も荒くなっている。

 キレイはザバっと湯船から立ち上がると、足をお湯につけたまま浴槽のへりに腰を下ろした。

 視線を追うと、正面をローアングルから眺める形になった。見上げると、やわらかな白い肌から水が(したた)り落ちる。ふたつの島を通って、おへそやくびれをなぞっていく。

 見上げるふたつ島の向こうでは、青い瞳があたいを見下ろしていた。

「そんなことはないと思いますよ」

 かわいそうな子供を見るように、キレイが言った。あたいは心臓をもてあそばれるようなツラさを感じて、目を背けた。

「ごめん。別にキレイのことを言ったわけじゃないの。ママだって長年ナナシにいるんだからわかってると思う。でもガレキやゲンキは、絶対に人生を舐めていると思う」

 あたいは挑戦するような勢いで、もう一度キレイを見上げる。

「たぶん、ナナシの中で一番、命についてわかっていないのは……レッカだと思います」

 一瞬、何を言われたかわからなかった。目と口を大きく開けて、呆然としてしまう。

「ちょっと、意味わかんないんだけど」

 思ったより動揺しちゃっているのか、あたいの声は消え入るように(かす)れていた。

「さっきレッカが言った通り、ママは命の重さをよくわかっていると思います。たくさんの出会いと別れを体験していますし」

 ママは若いけど、ナナシのことを一番よく知っている。だから理解できる。

「ガレキさんもゲンキさんも決して、命を軽く思っていませんよ」

「冗談でしょ。いったいどう見れば、そう思えるのよ」

 手をヒラヒラ振りながらため息をついた。いくら何でも、買いかぶりすぎよ。

「ガレキさんも、ゲンキさんも、わたしも……みんな一度は死にかけていますから」

 心が一瞬で停止する。一口で飲み込まれたような感じだ。

「だから、ゲンキさんは無駄に気を張ったりしないんだと思います。ガレキさんは……そうですね、命の重さに潰されかけている感じでしょうか」

 ゲンキとガレキの行動を思い出す。どう考えてもゲンキは能天気なだけな気がする。いつもぼーっとしているし。でもガレキは何となくわかる。気力がないように見えるのは、何かがあったからかもしれない。

「まぁ、ヒメちゃんのおかげで、だいぶ人らしさを取り戻せてると思いますよ。そのうち立ち直ると思います」

 女神のように慈愛に満ちた笑みは、女のあたいでもドキっとした。

「それにヒメちゃんもですね。言葉は通じないし、なかなか打ち解けられません。けどきっと、人間不信になる何かがあったんだと思います。そうじゃなかったら、ひとりで小舟に乗って海なんてさまよいませんよ。きっと」

 確かに。ヒメだってナナシに辿り着いたときは、かなり衰弱していた。決して死と遠くにいたわけじゃない。

 あたいは湯船へと視線を落とした。

「だから、そうですね。命の重さを一番軽く見ているのは、消去法でレッカ……、もしくはわたしですね」

「え?」

 反射的に見上げると、キレイは苦い微笑みを浮かべていた。

「だってわたし、まっすぐ海と向き合えないから」

 キレイはとんだ誤解をしている。生きることはなにも、海に潜って漁をするだけじゃない。怖がっちゃっているけど、掃除や洗濯っていった必要なことはやっている。

 けど、キレイの青い瞳は、深海のような深い色合いになっていた。言葉が見つからないけど、なんとかしないと。

 あたいはバシャリと音を立てながら、勢いよく立ち上がった。

「レッカ?」

 キレイの背中に腕を回して、前から抱きしめる。ママがあたいを元気づけるときに、よくやってくれた方法。うまくできるかわからないけど、ツラそうなキレイに何もしないなんてありえない。

「大丈夫、キレイはちゃんとやれてるから。ちゃんと生きてるから。みんなのことを優しく思えるってことはきっと、命を大切にしてるってこと。だから、自信を持ちなさい」

 耳元で囁くように言い聞かせる。自分よりも小さな身体に。だってあたいの方がお姉ちゃんなんだから、妹分を安心させてあげないとね。

「レッカ……」

 熱を帯びた肌が、トロけるほどやわらかい。触ってみて初めてわかった。女の子って、こんなにも儚くて、守ってあげたくなるものなんだって。

 だけど、胸の存在感だけは認めない。

「訂正します。やっぱりレッカも、みんなと同じぐらい命の重みを知っています」

 耳元から聞こえた澄んだ声に、身体の奥が熱くなる感じがした。

「ありがと」

 お礼を言ったのは反射的だった。自分でも驚いた。

 キレイに抱き着いていると、洗面所の方から無粋な足音が聞こえてきた。せっかく気分がよくなったのに、嫌な予感がガンガンする。

 キレイとふたりして視線を向けると、ガラス張りの引き戸がガラガラと開いた。現れたのは、裸体の男。

「あれ、ふたりともまだ入ってたのか? 長風呂だ……あだっ!」

 のんきそうに、さも当然のように裸でいるゲンキに、あたいは正面から顔面に右ストレートを決めてやった。

 ゲンキはゴロンゴロンと醜態(しゅうたい)をさらしながら、壁まで吹っ飛ぶ。

「アホ! バカ! 変態! なに堂々と入ってきてんのよ! ぜめて洗面所に入った時点で気づきなさいよ!」

 ピクピクしながら倒れているゲンキに、感情に任せた暴言の雨を降らせてやった。顔が熱い。殴り足りない。不満はこれでもかって程あるけど、全部やっていたらキリがない。

「今度やったら承知しないからね! 覚悟しなさい!」

 フンと鼻息を立てて、ドアをガシャンと閉めてやった。

 あたいはドスドスとタイルを踏みしめながら、湯船へと戻る。

「まったくもぉ。デリカシーっていうか、プライバシーがないんだから。これでいったい何度目よ!」

 そう、これが初犯じゃないのよね。ゲンキはたびたび、思い出したように、あたいたちが入っているお風呂に侵入する。それも無欲に。

「わたしはもう、慣れちゃいましたよ」

 プンプンと怒っていると、キレイが苦笑いを浮かべる。

「慣れていいものじゃない。もっと自分をしっかり持ちなさい」

 気持ちは分からなくもないけど、心配になる。

「ゲンキがあそこまでひどい失敗をするんなら、あたいの失敗なんて仕方ないものよね」

 キレイが人差し指をこめかみに当てて、目をつむった。

「うーん。それとこれとはちょっと違う気がしますが、気にしても仕方ありませんね」

 微妙なことを言われてしまった。でも、今日はもう気にしないことに決めた。

「何だか急にすっきりした。ありがと、キレイ」

「ふふっ、わたしは何もしていませんよ」

 微笑が似合うって羨ましい。見ていて癒されるから。

「さて、そろそろ出よ。いつまでもお風呂にいてもしょうがないし」

「そうですけど……」

 キレイが申し訳なさそうに目を伏せた。せっかく気分がよくなってきたのに、何をためらっているのよ。

「ゲンキさんって今、洗面所で伸びているんですよね?」

「あっ……」

 持久戦が始まっちゃった。


 ちょっとのぼせかけちゃったけど、無事にお風呂から出ることができた。キレイはゲンキがいても別にいいって言うんだけど、乙女として越えちゃいけない壁がある。いざというときまで守り抜かせないと。

 部屋に戻ると、疲れが溜まっていたのかフラフラな足取りでベッドに倒れこんだ。目をつむると、身体が重くなってきた。

 今日は失敗ばかりだった。あしたからはちゃんとやれればいいけど。

 ゲンキよりも魚を獲って、ガレキに一括して、ヒメの様子を見て、キレイと洗濯物を取り込んで、ママと料理する。

 大丈夫、きっと取り戻せる。お風呂でゲンキがアホやったせいで思いっきり殴っちゃったな。明日の漁に支障がでなきゃいいけど。ダメならあたいひとりで、ゲンキの分まで獲らなきゃいけない。何かやる気が出てきた。

 うん。もう寝ちゃおう。考えるのも面倒になって……すぅ……。

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